「……ふぅ」
「九峨さん。一応ここ禁煙なんですけど」
「細かいことは気にするな。それにこんなブラッドバスに煙草の煙がくわわっても、気分の悪さはそう変わらん」
ヒメの呆れ混じりの注意にそう返すと、九峨はサングラス越しに倉庫を見回した。
当初の予定より多くのワードッグを殺すこととなった倉庫内は、戦場となった場所を中心に血がちょっとした池のように溜まり、戦いなれたヒメや九峨でも長居はしたくない状態になっている。
「まあ確かにこれは酷いですけど……子供二人さっさと帰したけど大丈夫かなぁ」
神経が図太いにも程があるリカイはともかく、見るからに細そうなヤヨイは戦闘が終わって冷静さを取り戻すと、嘔吐こそしなかったが顔色を悪くして口元を押さえていた。
流石にこれ以上の無理は駄目だとアヤを付き添いにして帰らせたのだが、しばらくはこの光景の悪夢に苛まれるだろう。
「……黒木に敵と味方の把握をしろと言っておけ」
煙を吐き出しながら放たれた九峨の言葉を聞いて、ヒメは彼が表面に見える以上に怒っていることを察する。
ヒメは九峨という男と付き合いが長いわけでは無いが、それでも彼が怒るというのは珍しいのでは無いかと思う。
「しかし黒木ばかりも責められんか。今回のワードッグの数、これまでの例より多すぎる」
「……ワードッグの数は、直前に行方不明になった人間の数とほぼ同じ。まあ他の地域でもワードッグが確認されとるんやし、どっか他から持ってきたんやろうけど」
「それはそれで妙だと思わないか? 情報が各地にいきわたり、葛葉を始めとしたデビルサマナーや退魔師が行動を始めた途端に今回の待ち伏せだ。こちらの動きに合わせたとしか思えん」
「情報収集するのが早すぎですね。まあこんな田舎にまで手を伸ばし取る時点で、かなりの規模の組織だった連中が動いてんのは確定でしょうけど」
そうヒメは言うが、深山市をただの田舎の地方都市だとはヒメも九峨も思っていない。
以前にヒメがアキラに話した通り、深山市周辺には土着の民間陰陽師や退魔師、召喚師が多い。
これは深山を始めとした地が修行に適している、所謂霊地と呼ばれる場所であることに端を発している。霊的な事件に限定すれば、深山という街はいつ狙われてもおかしくない場所なのだ。
「ん……噂の黒木さんから電話やね」
ズボンのポケットで震える携帯電話を取り出すと、ディスプレイに表示された名前を見て呟くヒメ。
ヒメ自身もそれなりに含むところがあるのか、通話ボタンを押すと相手が何かを言う前に言葉を放つ。
「黒木さん探偵なんやけん調査はきちんとやってくれんかな? 事前に聞いた三倍も敵が居るって、なにやっとんですかアンタ」
『やあご立腹のようだねヒメくん。だけどそれを棚に上げて、一刻も早く伝えなければならないことがあるんだけどね』
「アンタが棚に上げんな。……それで、どうしたん?」
ヒメとしてはまだまだ言い足りなかったが、一刻を争うと言われて素直に話を聞くことにする。
『水岐タウンが異界に落ちた』
「は……? ちょっと一般人が溢れかえっとるとこが異界て、十数年ぶりの大事件やないですか!?」
『しかも君のお弟子さんが水岐タウンに居るらしい』
「はああああぁぁぁぁっ!?」
予想外の言葉にヒメは絶叫しながらベリスへ連絡をとろうとするが、いくら呼びかけても反応は無い。
ヒメとベリスの使っている念話は、アキラのような超能力では無く、魔術的な繋がりを利用したものだ。しかしそれでも片方が、異界という別世界と言っていい場所に隔離されては通じない。
『僕が何とかしたい所なのだけど、どうやら周辺に強力な結界の類があるらしくて近寄れなくてね。いや、いつの間にか目的地の反対方向に走ってるなんて経験をするとは思わなかったよ』
「……九峨さん、水岐タウンが異界化したらしい。鬼塚さん来るまでここ任せました」
「待て」
黒木の話を聞くのもそこそこに、すぐに動こうとした所を止められて、ヒメは苛立ちながら振り返る。すると九峨はポケットをまさぐると、何かの鍵をヒメへと投げつけてくる。
一体何かとヒメが視線で問うと、九峨は口に煙草をくわえたまま答える。
「手前の公園に俺の車が停めてある。急ぐなら使え」
「え……ありがとうございます!」
何の事情も聞かずに車を貸すという九峨に、ヒメは慌てて礼を言うと、オリンピックに出場できるのでは無いかという速さでその場を走り去る。
「……日常をいきなり悪魔どもが侵食するか。まるで二十年前の東京だな」
ヒメを見送りながら呟いた九峨の声は、吐き出した煙と共に闇へと消えていった。
・
・
・
『――マハブフだホー!』
ジャックフロストが呪文を唱えながらクルリと一回転すると、冷気の渦が放射状にガキの群れに襲い掛かり、手足を一時的に凍結させてその動きを縛る。
『お兄さん今だホー!』
「分かってる」
そしてジャックフロストの高い声に応えるように、アキラのM-19が火を噴き、パンパンパンと三度乾いた音が地下街に響き渡る。
その反響音が消え去る頃には、発射された.357マグナム弾が三体のガキの体に命中していた。だがアキラはその内の一体がまだ生きているのを確認すると、間髪入れずに残りの弾丸を全て生き残ったガキへと叩き込んだ。
『ぎゅああああ!?』
「ッ……」
その仮初の命を終え、溶けるように体が崩れ去っていくガキを見ながら、アキラは小さく舌打ちをする。これでアキラの射殺したガキは十体ほどになるが、何度見聞きしても損壊した肉体が崩れ去っていく様や、耳に残る断末魔に慣れる事が出来ない。
この場にヒメかアヤでも居れば「慣れないのが普通だ」とフォローでも入れるのだろうが、今アキラに同行しているのは悪魔が三体に一般人が二人。
実質保護している状態のシオンとユウヤに泣き言を零すわけにもいかないし、場合によっては笑顔で殺戮が出来るような悪魔達に、今のアキラの心境など分かりはしないだろう。
『ふむ。無駄弾が多いな。主よりはマシだが、致命的な隙を生みかねんぞ』
予想通り反対方向に居たガキを殲滅していたベリスが、気遣うどころか愛想の無い声で駄目出しをしてくる。
アキラは精神的な余裕が無いせいか、思わず銃口をベリスへと向けそうになったが、既に装填されている弾丸は撃ちつくした事を思い出し、無言でリロードを始める。
「なあなあ。それリボルバーだろ? 西部劇みたいに腰で構えて撃ったりしねえの?」
何度も繰り返したためか、手馴れた様子で弾を装填するアキラを眺めながら、今まで黙っていたユウヤが興味津々と言った様子で聞いてくる。
それにアキラは手を止めないまま、ヒメから聞いたうろ覚えの知識を引っ張り出してくる。
「あの撃ち方は、左手で撃鉄をあげて連射するための構えなんだよ。この銃は撃鉄を上げなくても撃てるから、わざわざ左手使わなくても連射出来るんだ」
「んーああ、なるほど。連射できるリボルバーとかあるんだな」
「何というか……余裕あるよね石応君」
アキラの説明を聞いて納得しているユウヤを見て、同じくそれまで黙っていたシオンが呆れた声色を隠そうともせずに言う。
その顔は少しマシになったとはいえ白色に近く、石応への評価とは逆に余裕が無い。それでも会話に参加したのは、何かしらの話をしていた方が気が紛れるからだろう。
「余裕……あんのかオレ?」
「え、あるでしょ?」
首を傾げながら問いかけるユウヤを見て、シオンは冗談だと思い苦笑しながら返す。
しかしユウヤの顔から表情が抜け落ちるように消えているのを見て、その苦笑はひきつったものに変わった。
「……どうしたの?」
「いやさあ……オレが隠れてたゴミ箱のさ、少し奥の方の曲がり角に誰か居なかった?」
「いや、居たら連れて来て……」
ユウヤの言動を訝しく思いながら、その問いに否定の答えを返すアキラ。だが答え終わる前に、ユウヤの言わんとしている事に気付いて言葉が続かなくなる。
ユウヤと出会う前の曲がり角には誰も居なかった。
だがそこをアキラ達が通りかかった時にはガキが居て、地面にはガキに食い散らかされた「何か」が散乱していた。
「居なかったのか? 今日な、ダチと一緒に飯食いに来てたんだよ。なのにいきなり地震とかくるだろ? 別に地震くらいじゃ騒がねえけどさあ、収まったと思ったら何かダチの背中に引っ付いてたんだよ。
最初は恐くてパニクッたどっかの子供(ガキ)でもしがみついてんのかと思ったんだけど、そいついきなり馬鹿でかい口あけてダチの肩に噛み付いたんだよ。かなり痛かったらしくてダチが悲鳴上げてな。そしたらダチに群がるみたいに何か殺到してな。
何が何だか分かんなくて、俺一人で逃げちまって隠れて震えてたんだよ。遠くで誰だか分かんないけど叫び声上げててさ。それ聞いてるうちに何で自分が震えてんのか分かんなくなってさ。オレやっぱおかしいよな? 何で震えてんだってそりゃ恐いからだろ!?」
「もういい! 石応!」
『お兄さん落ち着くホー!』
無表情のままゆっくりと話していたユウヤの瞳が、不規則に揺れ始めたのにアキラは気付いた。その様子と話の内容からして、ユウヤの今までの余裕はストレスが限界を越えて「切れていた」ためだと気付く。
そのためこれ以上感情を揺らさないように慌てて話を中断しようとしたが、既にユウヤの感情の堤防は決壊してしまったらしく、アキラとジャックフロストの声も無視して自身を追い詰めるように叫び続ける。
「あいつがどうなったって、あの状況で生きてるわけ無いじゃん!? 俺一人で逃げ出してさ! しかも情けなく隠れてたし! でも逃げなきゃ俺だって――!」
「落ち着いて石応くん」
地下街に反響するユウヤの叫びを遮るように、シオンの戒めるような声が通った。
その声は決して大きなものではなかったが、直接声をかけられたわけでは無いアキラまでも動きを止めるほどの意志の強さが込められており、恐慌状態に近かったユウヤを命令された軍人のようにピタリと止めた。
ユウヤの瞳はそれでも不安定に揺れていたが、不意にシオンがゆっくりとした足取りで近付くと、覗き込むように視線を合わせて語りかけ始める。
「大丈夫だから。深海君が助けてくれたから。もう危ないことは無いから、友達の事は後でゆっくりと考えよう……ね?」
「……あ、ああ。うん、悪い」
幼い子供に言い聞かせるようなシオンの言葉に、ユウヤの瞳が一瞬大きくぶれたかと思うと、その表情は呆気にとられたような、どこか呆然としたものへと変わっていた。
その様子にアキラは何をしたのかと問い質しそうになったが、その前にシオンが口元に人差し指を立てて見せたので、その意図を察して言葉を飲み込んだ。
「……行こうか。出口も近いし、もう安全だ」
ユウヤをこれ以上刺激しないよう、慎重さからくる最悪の想定を飲み込んで、らしくも無い楽観論を口にする。
どのように対処したらいいのか分からないユウヤを、半ば無視するようにアキラは先頭に立って歩き始めた。
そもそもこの状況が異常ならば、その中で落ち着いているアキラも異常なのだ。
カワアカゴとの戦いは異常なモノを相手にしてはいても、周囲にあるのはアキラという人間が慣れ親しんだ、現実の延長線上にある世界だった。
だが今の状況は違う。例え目に見える景色が普段と変わらずとも、この地下街は確かに異界に飲み込まれている。
異界とは文字通り、普段人間が存在する世界とは似て非なる世界だ。不安定な世界は、悪魔のような本来存在しないはずの存在の侵入を許し、また肉体という檻を持つ人間すら何かの拍子で引きずりこむ。
そして異界へと飲まれた人間は、本能的にその場が己の存在を脅かす世界であることを理解し恐怖する。もし奇跡的に悪魔と遭遇しなかったとしても、異界の中というのは、ビルの屋上を繋ぐロープを綱渡りするような恐怖とストレスを人間へ与え続ける。
繰り返しになるが、悪魔に対する恐怖はあっても、異界の中で何のプレッシャーも無く活動できる深海アキラという人間は異常なのだ。
そしてその異常性の理由こそが、ヒメがアキラに伝えなかった、悪魔に狙われる可能性へと繋がるもう一つの理由でもある。
「そういえばさあ、何で深海って女子にいじめられてたんだ?」
先ほどの件もあってか全員が無言で歩いていたというのに、張本人であるユウヤが唐突にそんな事を聞いてくる。
『お兄さんいじめられてたホー?』
「……昔な。名持が言うには、良い子ぶってたかららしいけど」
ユウヤの言葉に不思議そうに口に手をあてたジャックフロストが、相変わらずの笑顔で重ねて聞いてくる。その話題はお世辞にも気のきいたものとは言えなかったが、ユウヤがまた恐慌を起こす可能性を考え、アキラは気をそらすために乗ることにした。
実際アキラはいじめのことは過去の事と割り切ってはいるが、思い出して何の感情も湧き上がらないわけでもない。
「だったらいきなりいじめが始まったのおかしくねえか? おまえ一年の頃は結構人気あったぞ」
「はあ? その割にはチョコはもらえなかったんだけど」
「そういう人気じゃないかな。深海君って他の男子みたいに騒いだり、下ネタ言い合って爆笑したりしてなかったじゃない? だから他の男子よりはマシだよねーみたいは評価はされてたよ」
「それはまた相対的な評価だな」
要は思春期の男子特有の馬鹿をやらなかっただけであり、アキラの容姿なり性格が良かったというわけでは無い。
「じゃあ結局何がきっかけだったんだよ?」
ユウヤのその問いは、アキラでは無くシオンへと向けられていた。シオンはそれにしばらく考えるような素振りを見せたが、結局沈黙で答える。
その沈黙が何を意味するのか、問いかけたユウヤだけでなくアキラも気になった。だが不意に頬を叩いてきたピクシーが指し示す先に出口が見えたため、その話題はここで終わらせることにする。
「出口か……ようやく出られる」
「警察とか来てんのかなあ。どうやって説明すんだこれ?」
「……さあ? でも警察の一部は悪魔の事を知っているらしいから、ありのまま説明して大丈夫だと思うよ」
ユウヤの疑問にそう返しながら、アキラは出口のある広場のような部屋へと進む。
広場の中央には噴水があり、勢いよく伸び上がった水の柱が、円状の雫となって零れ落ち水面を波立たせている。
『人も悪魔も居らぬ様だな。私が見張っている。おまえ達は早く外へ出ろ』
「ああ、頼む」
周囲を見渡していたベリスが告げるのと同時に、精神感応で周囲に何も居ない事を確認すると、早足で夜の闇に包まれた出口へと向かう。
しかし噴水を横切ろうとした所で、アキラは精神感応の範囲内に何かが入ってくるのを感知する。それは人間とは思えない速さで移動し、曲がり角を直角に曲がり、ベリスへ警告を飛ばそうとしたときには既に目視できる所まで接近していた。
「ベリス! 何かが来て、もうそこまで来た!」
『何!?』
アキラの声に警戒を強め、地下街の奥へと槍を構えたベリスだったが、突然現れたそれはベリスの槍でどうにかできる存在ではなかった。
『霧だと!?』
地下街の奥から文字通り飛ぶようにして出てきたのは、幅数十センチほどしかないという奇妙な形をした白い霧だった。
そしてその霧は、驚きの声を上げるベリスを嘲笑うようにすり抜けると、アキラたち目掛けて飛んでくる。
「ピクシー! ヒーホー!」
『――ブフだホー!』
アキラの呼びかけに応えたピクシーとジャックフロストが、霧に目掛けて衝撃波と冷気を放つ。
だが霧は冷気と衝撃波の軌道を予測していたかのように迂回し、目で追うのがやっとという速度で、最後尾に居たユウヤへと襲い掛かる。
『立ち止まるな! 逃げろ!』
「え!? ちょ!? 何――」
ベリスが警告するが既に遅く、霧はまたたくまにユウヤの体に纏わりつきその体を空中へと持ち上げていた。そしてその霧がユウヤの前で収束したかと思うと、瞬きする間に黒いズボンと素肌の上に黒いベストを身に着けた、一人の青年が現れる。
「――ん? 何か薄いなぁ、間違えたか?」
右手でユウヤの首を掴み、浮かんでいた体をさらに持ち上げる青年。
その口から発せられたのは、場にそぐわない、どこか気だるさの感じられる声だった。
『血も不味そうね。私としては、そちらの子の方が私好みなのだけど』
「……え?」
突然聞こえた高い女性の声。
それにアキラは一瞬気を取られたが、青年の視線が自分へと向けられているのに気付いて身を強張らせた。
不気味な青年だった。
肩まで無造作に伸ばされた髪は、闇に溶かしたように光沢の無い黒色で、波のようにうねり毛先が跳ね上がっている。肌は髪とは対照的に紙のように白く、近くで見れば血管が浮き出て見えるのではないかという程だ。
そして何より目を引いて離さないのは、満月のようにらんらんと輝く金色の瞳。だがそれは決して十五夜の月のような美しいものでは無く、月の司る狂気を凝縮したような不吉な光を宿していた。
『目を合わせるな!』
異様な青年の雰囲気に呑まれ、動けないアキラたち。だがその空気を蹴散らすように、馬に乗ったベリスが疾風のように青年へと接近し、そのまま駆け抜けながら槍を横へ薙ぎ払う。
しかしその槍が届く刹那、青年はまたしても霧となってその場から離脱する。
『――アギラオ!』
「おっと」
その霧へ対してベリスは巨大な火球でもって追撃をするが、霧は火球を避けるように地面へと落ちると、そのまま噴水の縁に立った状態で成年の姿へと転じる。
「かあ、は……なん……なんだよ」
「大丈夫!? 息ちゃんと出来る?」
青年から解放されたユウヤが荒い息をつきながら蹲り、シオンが慌てた様子で状態を聞いている。
しかしそんな二人を尻目に、アキラは青年から目を離す事が出来なかった。
人間とは思えない。自在に霧へと変貌し、その容姿は極端に色が強くアンバランスだ。
何より青年が口を開いた時に見えた幾本かの歯。それは噛み切るとか噛み潰すなどといった用途では無く、まるで穴を開けるために使うかのように鋭く、そして長かった。
「……何だあいつは」
『吸血鬼だ』
思わず呟いたアキラに答えを返しながら、ベリスが皆を庇うように、吸血鬼との間に馬を横向きにして立つ。
そこには今までアキラをからかっていたような余裕は無く、意識の全てを噴水の前に立つ吸血鬼へと向けていることが分かる。
『……小僧。私の言いたいことが分かるか』
「逃げろと言うなら予想内だけど、おまえが犠牲になってる間にと言うなら予想外かな」
『クフ……ならば驚く間もなくさっさと逃げろ。私では奴をどれほど留め置けるか分からん』
くぐもった笑いの後に続いた言葉に、アキラは驚いてベリスの背を見上げた。
こちらを不安にさせる性質の悪い冗談かとも考えたが、ヒメにアキラの身を守ることを厳命されている以上、命に関る冗談を言うとは思えない。
そもそも余裕が無いと言えば、この異界に引きずり込まれたときから無かったのだ。今はただ生き残ることだけを考えて動くしかない。
「……名持、石応走れるか?」
「私は大丈夫。石応君は?」
「てぇ……きつくても走るっきゃねえだろ。これ以上こんなホラーな世界に居られるか」
若干自棄になっている様子のユウヤに不安を覚えつつも、アキラは拳銃を右手に握って逃げるタイミングを窺う。
『――行け、ヒートウェーブ!』
「よし、逃げよう!」
振り下ろされたベリスの槍の一撃が、巨大な波となって吸血鬼へと襲い掛かった。
それを合図にして、アキラ達は一斉に出口目掛けて走り出す。その様子を吸血鬼は視線で追っていたが、目の前に迫ったヒートウェーブへと向き直ると、どこか面白くなさそうな声を漏らす。
「ハン……霧になっても逃げられないように広範囲攻撃ってわけか。――冥界波!」
吸血鬼の両腕が鞭の様にしなりながら振り下ろされる。
それに呼応するように放たれたのは、地面を這うように伸びる漆黒の波動。それは吸血鬼を中心として円状に渦を巻く様に広がっていき、ヒートウェイブの波を飲み込んだ。
『何だと!?』
ベリスが驚くのも無理は無い。相殺されるならともかく、吸血鬼の冥界波はベリスのヒートウェイブを飲み込み、何事も無かったように広がり続けているのだ。
それはあらゆるものを飲み込むブラックホールの如き理不尽さであり、ベリスの使える魔法や技では対抗出来ないことを意味していた。
『クフ……』
それでもなおベリスは兜の下で笑い声を漏らす。
それが強敵に対する賞賛の笑みなのか、それとも不甲斐無い己に対する自嘲なのかはベリス自身にも分からない。
だがこのまま終わるつもりは無い。ベリスは確かに二枚舌で知られるが、主と認めた者の命令を全うせねば己の沽券に関るし、何より吟味に反する。
視線を向けた先には、階段を上っていくユウヤとシオン。そして二人を守るためか、二人から遅れてようやく階段の数メートル手前まで到達するアキラの姿があった。
『小僧! 死にたくなければ素直に当たれ!』
「なん――!?」
アキラの位置を確認したベリスは一方的に告げると、返事をまたずに馬を走らせ、そしてアキラの背中へ体当たりさせた。
アキラは数メートルほど前のめりになりながら吹き飛ばされると、そのままの勢いで階段に頭をぶつけそうになる。この勢いで頭をぶつけると流石に死ぬと思ったアキラは、蹴るようにして階段に足をかけ、肩に乗っていたピクシーが慣性の法則で投げ出されそうになるのを、左手で何とか支える。
そして痛む体も無視して、抗議のためにベリスへと振り返ったが、吐き出すはずだった言葉は予想外の惨状にかき消された。
『クフ……これほどとは……な』
吸血鬼の放った冥界波は階段のすぐ手前まで伸び、アキラを突き飛ばしたベリスと、その場に残っていたジャックフロストを飲み込んでいた。
その結果そこには力無く横たわる馬と、馬から投げ出されたのかそばで片膝をつくベリス。そしてうつ伏せに倒れたジャックフロストが居た。
「あ……大丈……」
『お兄さん……オイラもう駄目ホー……』
アキラが言葉を終える前に、ジャックフロストが小さな声で呟き、雪が溶けるように縮んでいき、そして消えた。
「ヒーホー!?」
『落ち着け……体を維持できず魔界に戻っただけだ。主に頼めば蘇生は容易だろう』
突然の仲魔の死に取り乱すアキラに、ベリスが静かに言う。そこには普段のようなからかいの色は無く、それがアキラを冷静にさせた。
「……おまえは大丈夫なのか?」
『クフ……言った筈だ。私に何があろうと、驚く間も無く逃げろと』
その言葉は暗に大丈夫では無いと告げていた。
アキラは真っ先にジャックフロストへと視線を向けたため、すぐには気付けなかったが、ベリスの甲冑は横から強力な圧力をかけられたかのように変形し、隙間からは血が水漏れのように滴り落ちている。
もし甲冑の中身が人間だったら即死しているであろう、間違いない重傷だった。
「悪魔が召喚主でもない人間を庇うとはな。評判とは違ってお優しいじゃないか、堕天使ベリス」
『クフ……さあ生存率が下がってきたぞ。わき目もふらずに逃げろ小僧!』
近付いてくる吸血鬼に対して、ベリスがひしゃげた甲冑を軋ませながら走り出す。それを見たアキラは一瞬迷いを見せたが、悔しそうに歯を食いしばると踵を返して階段を駆け上がった。
しかし階段を上がる最中、アキラの中に一つの疑問が浮かんだ。何故この吸血鬼は、ベリスがアキラの仲魔では無いと知っているのだろうと。
「ハン、ピンキリとは言え、ソロモン七十二柱の一柱がこの程度とはなあ」
『それは仕方ないわ。貴方のような吸血鬼が、現代に居る事が異常だもの』
「……?」
再び聞こえて来た女性の声をアキラは疑問に思ったが、精神感応によってすぐにその正体に気付く。
今吸血鬼が居る空間。そこには確かに二つの異なった意識が存在している。どういう事かは分からないが、あの吸血鬼の中には確かにもう一人居る。
『受けろ――地獄突き!』
「――ジオダイン」
ベリスが手にした槍を突き出した瞬間、地下街が閃光と轟音に満たされる。
「ぐう!?」
視覚と聴覚を麻痺させかねない光と音に、アキラは反射的に耳を塞ぎ、目をきつく閉じたまま階段を駆け上がり続けた。そして階段を踏みしめようとした足が、空を切って予想より低い位置に落ち着いたところで、階段が終わって外に出たことに気付く。
「はい、残念でしたー」
「……え? グッ!?」
気だるそうな声が前から聞こえてきて、アキラは思わず声を漏らす。しかし顔を上げる前に腹部が激痛と焼け付くような熱に支配され、驚愕に目を見開いた。
「あ……」
アキラの体を、吸血鬼の腕が貫いていた。
正確には吸血鬼の五本の指が根元まで刺さっていたのだが、その事をアキラが認識し終える前にその指が勢いよく引き抜かれる。
「ガァッ!?」
声にならない声を上げて、アキラは両手で腹を押さえてその場に蹲る。何とか今の状況を把握しようと顔を上げるが、蹲った状態では前に立つ吸血鬼の足と、その後ろの国道しか見えない。
だが視界が悪くとも、アキラは精神感応で新たな異常を感じ取り疑問に思う。
国道に面し中心市街地に近いこの場所に、何故自分達以外に誰も居ないのかと。
「あーあー前言撤回だっての。突きで体が真っ二つになりかけるとかあり得ねえし」
『油断大敵ね。二十六の軍団を統べる地獄の侯爵の力、甘く見ていたわ』
指から滴り落ちるアキラの血を舐りながら、吸血鬼がイラついた様子で愚痴を漏らし、楽しそうな女性の声が相槌をうつ。
どういうことかとアキラが視線を上げてみると、確かに吸血鬼の腹にベリスがつけたと思われる傷があった。
いや、それは傷というにはあまりにも大きく、吸血鬼の腹部を半分以上消失させていた。物理的に考えて、吸血鬼が上半身を支えていられるのがおかしい損傷だ。
「つ……あぁ!」
それを確認したアキラは、腹の痛みを無視して拳銃を吸血鬼へと突きつけると、僅かな希望にすがって引鉄へ指をかける。
だが人差し指に力を入れる寸前、肩から右腕が千切れ飛びそうな衝撃と共に、腕の半ばから感覚が無くなった。
「危ねえな。いくら不死身つっても、ダメージ蓄積するとやべえんだよ」
「あ……うわああああぁぁぁぁっ!?」
銃を持ったままの右腕が、だらりと垂れてアキラの胸にぶつかった。
手首と肘の間にあらたな関節が出来たように折れ曲がり、振り子のようにゆらゆらと揺れている。遅れてやってきた今まで経験してきたことの無い激痛と、自身の体を目に見える形で破壊されたという現実は、アキラに悲鳴を上げさせるには充分だった。
「うるせえな――ジオ!」
「!?」
しかしその悲鳴も、煩わしそうに吸血鬼が放った電撃によって漏らすことも出来なくなる。
最低レベルのはずの電撃魔法は、それでもアキラの身体機能を奪うには過剰であり、力の入らなくなった体は崩れ落ちるように倒れた。
『やりすぎでは無いかしら? 一応この子を連れ帰ることも、目的の一つなのだけど』
「ハンッ、生贄ってわけじゃねえんだから死んでも大丈夫だろ。むしろ暴れられると面倒だ。……殺しとくか」
「あ……ぐ……」
吸血鬼と女の会話を聞いても、アキラにはその内容に疑問を持つ余裕は無かった。
もはや何処に傷があるのか自身では分からない激痛の中、アキラは必死に「死にたくない」と心の中で叫び続けていた。
ピクシーが傷を治してくれているらしいが、もはや生きているのが不思議な状態のアキラには焼け石に水。今にも落ちそうな意識を叱咤して周囲を探るが、この場から離れていく二人……恐らくシオンとユウヤの存在しか感じ取れない。
「じゃあな――ムドオン」
そして誰の助けも期待できず虫の息のアキラへと、無慈悲に呪いの魔法が放たれた。
絶え間ない痛みと悔恨の中、アキラはその魔法の効果を知らないまま意識を失った。