夢でも見ているのかと思った。
風に靡く金色の髪も、闇に浮かぶ雪のように白い肌も、
知っているはずの彼女のその姿は、知らない誰かのものにしか見えなかった。
いや、知っていても知らなくても彼女の姿に戸惑いを隠せなかっただろう。
薄汚れ、電灯の光も届かない路地裏の中で佇む彼女の姿は、触れてはいけない神聖なもののように彼の目に映った。
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三月も終わりに近付いた平日の昼下がり。一人のスーツ姿の青年が、川沿いの土手の上を自転車で駆け抜けていく。
暖かくすごしやすい気候になってきたとは言え、その青年の流す汗の量は尋常ではなく、単に体を動かしている以外に原因があるのでは無いかと思わせるほどだ。
実際彼の流す汗はいわゆる冷や汗と呼ばれるものであり、このままでは人生が終わるという所まで追い詰められていたりする。しかしそんな事が他人に分かるはずもなく、彼とすれ違った人々はその自転車のスピードに唖然とするばかりだ。
「ち、遅刻する!」
自転車をとばす青年の名は深海アキラ。この不況にやっと拾ってもらえるかもしれない就職先での面接。それに遅れそうになっている粗忽者だ。
「とぉっ!?」
原付と並走出来るのではないかというスピードで走っていたアキラだったが、突然踏み込んでいたペダルの抵抗が無くなり、体勢を崩しそうになって足を地面へと下ろす。
何事かと自転車をよく見てみれば、後輪に噛み合っているべきチェーンが外れており、そのせいでペダルが軽くなったのだとすぐに分かった。
しかも外れ方が悪かったのか、チェーンは車輪の隙間に挟まってしまい、どう見ても素手でどうにか出来る状態では無い。
このままでは遅刻はほぼ確定。泣きたくなるのを堪えて、アキラは自転車から降りて走り始めた。
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十分後。ようやく目的地付近に辿り着いたものの、周囲の地理に不案内なアキラは迷っていた。
一応簡単な地図はあるのだが、中心市街地から離れたそこにはマンションばかりが立ち並び目印となる建物も無く、周囲にある建物一つ一つを見て回らなければならない状態だ。
自転車でとばしたおかげでそれなりに時間に余裕は出来ていたのだが、それでもやはり時間はあまり無い。誰かに聞いてみようか、そんな事を思っていたら不意に見ていた地図に影が落ちてくる。
「……あの、何か?」
「え? あーゴメンね。道に迷ったんかなーと思て、地図見て分かるようなら教えよかなと」
そう訛りのある口調で答えたのは、腰まで届く髪の他に眉や睫毛まで金色という、どう見ても日本人では無い女性。着ているのはジーンズにキャミソールのみと、今の時期にしては薄着過ぎる。
目の前にいる女性に呆気にとられるアキラだったが、その女性はそんなアキラの様子など気にすることも無く、地図を覗き込むとなにやら頷いてみせる。
「ん、分かりづらいねコレ。アカイデザインスタジオなら、向こうのマンションの一階やね。入り口にちっちゃく書いてあるけん、近くまで行ったら分かると思うけど」
「え……と、あれですね」
女性が道路を挟んだ反対側にあるマンションを指し示すのを見て、アキラは地図と見合わせて確認してみる。確かに周囲の地理からして間違いないらしい。
「ありがと……う?」
礼を言おうとアキラは女性へと振り返ったのだが、さっきまでそばに居た筈の女性の姿は忽然と消えていた。周囲を見渡してみるが、その姿を見つけることは出来ない。
アキラは不思議に思ったものの、自分が遅刻寸前であることを思い出し自転車を押して走り始める。
そしてその姿を見てクスリと笑う女性が、アキラが今まで佇んでいた場所に居た。
マンションの駐輪場に自転車を止めると、アキラは若干速歩きで目的地へ向かう。
前面全てが透明のガラス張りのその事務所は、外から見た感じでは綺麗に物がまとめられており清潔感に溢れている。入り口の自動ドアを見てみれば、そこには確かに「アカイデザインスタジオ」と赤い字で書かれていた。
それを確認し緊張しながら中に入ったアキラだったが、先ほどから外でアキラが観察しているのに気付いていたのか、社員らしき黒髪の女性が笑顔で待ち構えていた。
それに気付いたアキラは少し恥ずかしくなりながらも、持ってきた書類を示しつつ要件を伝える。
「あの、面接に来た深海アキラですが……」
「はい~お待ちしてました~。すいませんが~所長は席を外しておりまして、しばらく奥の応接室でお待ちいただけますか~?」
「分かりました」
間延びした口調と、どこか安心するような笑顔で応対する女性に連れられて、アキラは事務所の奥へと歩を進める。その際に事務所内を見渡してみるが、今はアキラの相手をしてくれている女性以外に人は居ないらしい。
アキラ自身切羽詰って就職先を探しまくっていたため、ろくにこの事務所について調べていないのだが、この不況にこれほどの少人数の事務所がやっていけるのだろうかと、就職できるとも決まっていない就職先に不安を抱いた。
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「すいませ~ん。すぐに戻ってくると思いますので~」
「あ、はい」
紅茶を持ってきてくれた女性が、本気で申し訳なさそうな様子で謝意を述べてから応接室を出て行く。アキラが着席し紅茶が用意されるまで数分程度。わざわざ謝る必要があるとは思えないのだが。
もしかして此処の所長は遅刻魔なのだろうか。会ったこともない相手に失礼な印象が出来始めたのだが、その印象が固まりきる前に応接室の入り口のドアが開く。
「ごめんねー待たせたかな?」
「いえ、それほど時間は……」
やけにフランクな物言いを訝しく思いながらアキラは顔を上げたが、そこに居た人の顔を見て言葉が続かず呆然とする。
「やろねー、急いで着替えてきたけんね私」
服装こそ白いシャツに黒のズボンとスーツで凛とした雰囲気すら感じるが、その長い金色の髪とこちらを愉しそうに見ているオレンジ色の瞳は、どう見ても先ほどこの事務所の場所を教えてくれた女性だった。
「ん? サプライズ成功?」
どこかご満悦な様子でそう呟く金髪の女性。
成功と言えば成功なので、早い所説明をして欲しい。そうアキラは脱力しながら思った。
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「ごめんねー、面接が今日やって忘れとったけん、急いで着替えてきたんよ」
「……じゃあ自分が所長だと教えなかったのは?」
「面白そうやったけん。というのもあるけど緊張しとったみたいやけん、ちょいとびっくりさせてみよかなーと」
そう言ってアハハと笑う女性。どうやらかなり気軽にお付き合いできる所長さんらしい。
どちらかというと真面目な性格のアキラと合うかというと、激しく疑問が残る所だが。
「んじゃ自己紹介しとこか。私はここ「アカイデザインスタジオ」の所長の赤猪ヒメ。ヒメっていうんは、あだ名や無くて本名やけんね」
「お……自分は深海アキラです」
「そんなにかしこまらんでも、別に話し方いつも通りでいいよ。ここの人員私と表に居ったアヤちゃんだけやけん、気ぃ使ってもしょうがないやろ」
「えーっと……じゃあ少し砕けて話します」
「ほなよろしくー」
どう見ても就職面接とは思えないノリで話すヒメに、アキラは戸惑いながらも辛うじて言葉を返す。
しかし所員が二人だけと聞いてアキラは不思議に思う。この不況に二人で切り盛りされている事務所。他の人間を雇う余裕などあるのだろうか。
「お、今このスタジオ潰れるんじゃないかなと思たやろ?」
「……思ってません」
本当は少し思ったのだが、そこは大人の対応で言わないでおく。言ってもこの所長は気にしそうにないが。
実際ヒメは気にした様子も無く、アキラの疑問を察したように説明してくる。
「元々ここは私とアヤちゃんの二人だけでやっとったんやけどね、最近仕事が増えてきて二人だけじゃ回らんようになってきたんよ。それで新しい人雇おとなったんやけど、まさか年度末ぎりぎりに募集して新卒の人が来るとは思わんかったわぁ」
「……まあ不況なんで」
そう言ってみるアキラだが、実際三月に入って就職先が潰れたりしなければ手当たり次第に就職先を探したりせず、ここの面接を受けることもしなかっただろう。
余裕があったらこの事務所の内情を調べ、自分には合わなさそうだと候補から外している。
「ま、うちらとしてはありがたいんやけどね。工大出でデザインの勉強もしとる。正に今ここに必要とされとる人材やねー」
「え……でもデザインは流石に即戦力になれるとは……」
「あ、そこは流石に研修期間中に私が教えるよ。と言っても私もアヤちゃんもパソコンは使えても詳しくないけんね、何かトラブル起こるたびに近所の電気屋のおっちゃん呼ばないかん有様なんよ。
そのおっちゃんも歳やけん最近の家電にはついていけんみたいでね、その辺りの事をアキラくんには期待しとるよー」
「ええ、まあ人並み以上には使えますけど」
もしかして自分は雑用係なのか。そんな不満が顔に出てしまったのか、ヒメはまたしてもアキラの心情を察したように、人差し指を立てて説明する。
「技術者目指すような工大出やと知らんかもしれんけどね、中小企業ってのは大企業と違って、社員一人一人が色んな仕事を兼任せんと会社として成り立たんのよ。私も直接依頼人のとこ行ったり事務手伝ったりするし、別にアキラくんにだけ面倒事押し付けるわけや無いよ」
「え……あ、はい」
「んーまあ若い子はそういうのやりたくないと思うやろけどね。でも大企業で歯車みたいに働くよりかぁやりがいはあると思うよ」
「大変やけどねー」と付け加えながら笑ってみせるヒメ。
それを聞いて確かにと思ったアキラだったが、先ほどからどうも気になることがあるので意を決して聞いてみることにした。
「あの……俺が就職するのって決定なんですか?」
「え? 就職したいけん面接に来たんやないん?」
「いや、そうじゃなくて」
自分を雇ってくれるのかという意味で聞いたアキラだが、どうやら前提条件が違ったらしい。
それをようやく理解したヒメは「ああ」と声を漏らしながら手の平を打つと、笑顔で結論を告げる。
「能力的にも人格的にも問題無いみたいやけんね。そもそも面接の希望自体がアキラくん以外にこんかったし、アキラくんが決意したらそんまま就職決定やね。あ、これ契約書な」
あっけらかんと告げると何枚かの書類を出してくるヒメ。
それに目を通すアキラを見ながら紅茶を一口飲むと、ヒメは詳しい内容を話し始める。
「最初の三ヶ月は研修いう事で、本採用はその後やけん。研修中は自給800円やけど、そこは下積みとして諦めてぇな」
「はい」
少し申し訳なさそうに言うヒメに短く答えるアキラ。
アキラ達が住んでいるような地方だと、コンビニのバイトなどは自給650円前後だったりする。それを考えれば、バイトをしながら他の就職先を探すよりは遥かにマシだろう。
「んじゃあOKならここに名前と印鑑な。あと給料振り込むけん口座も教えてなー」
「はい……ここですね」
言われるままに契約書にサインをするアキラ。
面接に行ったはずが就職してしまったのだが、彼がその急展開がおかしいことに気付いたのは、自転車屋でチェーンの修理が終わった頃だった。
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あとがきみたいなもの
地方都市で起きた小規模な大事件(矛盾)という方向で書いていきます。
女神転生やデビルサマナーシリーズみたいな大事件の裏では、小規模な小競り合いが起こってんじゃないかなというイメージで。
この作品はフィクションであり、実在する人物、団体、事件などとは一切関係ありません。