ドサッ
「‥‥‥むぅ」
眠気を妨げる鈍痛を感じ、自分がベッドの上から転げ落ちた事を悟る。
「う‥‥‥」
眩しい日の光が目に入り、思わず唸る。
ん? 日の光?
「‥‥‥また寝坊か」
度々こんな事態に陥っているにも関わらず、なかなか治らない、どころかこういう事態になっても焦らずにのらりくらりしている自分に少し嘆息するが、この性分は治りそうにもない。
街から外れた丘の上、文字通りに"自分で作った"木製の一軒家であるが、冬になったら何かしらまた工夫をしなければ寒そうだな、と思うこの家は、彼の『今の自宅』である。
前の街で知り合いが得意気に話していたから自分も作ってみたのだが、予想以上の出来に自分でも満足している。
ここに居着いてまだ一年。後五年、いや、欲張って七年はここで暮らしたいと思う(幸い、自分の容姿は"そのテの誤魔化し"には向いている)。
まあ、それは良いとして、問題なのはこの家が街から外れている事と、今こんなに日が高い事だろう。
要するに‥‥
「‥‥‥遅刻か」
またどやされるな、と思いながらも、やはり焦って支度するような気にはならない。
暖かな陽気に微睡みながら、青年はノロノロと着替え始める。
「遅刻」
「‥‥すまない」
「何度目ですか?」
「‥‥忘れた」
「やる気は?」
「‥‥それなりに」
「‥‥そこはきっちり否定して下さいよ」
あれから着替え(ただけ)、小走り(あくまでも"小"走りである)で向かった先、下働きで雇ってもらっている酒場である。
この世の歩いてゆけない隣、『紅世』に生きる"紅世の徒"にとっては金を得る手段などその気になればいくらでもある。
まあ、こうやって人間達の穏やかな日常に入り込んで暮らすのはまあ、簡単に言えば趣味のようなものだ。
というか、徒はその気になれば食事も睡眠も必要はない。それらは人間の生態を楽しむ"娯楽"である。が、これをしない徒もほとんどいない。
まあ、その代わり、というわけではないが、彼らがこの世に在るために"喰わなければ"ならないものもあるが。
そして‥‥彼、"血架の雀"ガルザもそんな徒の一人。
「ああ、またそんな寝癖頭のまま来て! 何度言っても治さないんですね、ガルザさん!」
「遅刻したら悪いと思って大急ぎで来たんだ」
「嘘ばっかり。遅刻しない時でもぼさぼさ頭で来るくせに!」
と、青年・ガルザの頭に櫛を通しながら小言を重ねる三つ編みの少女は雇い主本人というわけではない。
雇い主たるこの酒場の店主の娘・ソフィアである。
「別に俺の髪型なんて誰も見ちゃいないさ。わざわざ気にするのは自意識過剰というものだ」
「もう、またそんな事言って。ちゃんとしてたらガルザさん、それなりに見れる顔してるのに‥‥」
「"それなり"なら別に構わないだろ」
「もう!」
世界を旅して回り、気に入った所に居着く。そして、そこで"自分という異質な存在"に皆が異常を覚える前に、また旅立つ。
そんな自分にとって、ここが今の、『自分の当たり前』。
ソフィアはしっかりした娘だった。
明るく笑い、元気よく働き、それでいて注意すべき所は客にしっかり注意する。
こんな寂れた酒場なのにそれなりに盛況なのは彼女のおかげと言っても言い過ぎではないだろう。
ガルザがこの街に流れてすぐの頃に、彼女は働き手を探して"消極的"に歩き回るガルザを拾い、雇った。
それを受け入れ、働く事にしたガルザ。この酒場とそれを取り巻く環境が、今のガルザの全てとなる。
彼の好む、穏やかな日々。
「前から思ってたんだが‥‥‥」
「口を動かす前に手を動かして下さいよ」
「"あれ"は何だ?」
店を閉めた後、店内を掃除しながらガルザは店に飾られている装飾品の一つに目をやる。
台を挟んで店員側になるから客達の手は届かないとはいえ、やはり物騒なように見える。
幅広の刃を持つ、鍔の無い簡素な作りの大剣。
柄の長さからして、どうやら片手持ちらしい。
普通、『大剣』という物は両手で持つ物だが、随分と変わった造りである。
この時代、剣自体はそれほど珍しいわけではないが、こんな酒場にあるのはやはり不似合いだ。
何より、片手持ちの大剣という変わった形態ではあるが、結構良い剣なように見える。
「ああ、あれはうちのおじいちゃんの持ち物で、父さんが家宝なんだーって言って飾ってるんですよ」
全然剣なんて扱えないんですけどね。とソフィアはおどけて見せる。
「‥‥‥‥‥‥‥」
それでガルザは何となく事情を察する。
ソフィアの祖父は元は傭兵。剣を置いてからこの酒場を立ち上げ、それをソフィアの父が継いだ形であり、ソフィアの祖父はもう死んでいる。
あの大剣は祖父の形見というわけか。
疑問は容易く氷解し、ガルザはそこから深くは詮索しない。
しばらく沈黙が続くと、ソフィアがまた何か喋りだす。
ここは、今までで一番居心地が良い。
ある日の休日、ガルザは街を出歩く。
何か果物でも買って帰ろうかと考えながら歩く中‥‥‥
「‥‥‥‥‥‥」
街中で剣を振り回しながら、周りに何か怒鳴りつけながら歩く男を見つける。
傭兵崩れだろうか、少し酔っ払っているようにも見える。
あまりに迷惑。今も嫌がる一人の少女に何やら下劣な言葉を向けながら馴れ馴れしく肩を掴んでいる。
「‥‥‥‥‥‥」
男を無視し、助けを求める少女を無視し、ガルザはその脇を通り過ぎる。
正確には、通り過ぎたようにしか見えないだけだ。
過ぎ行く過程で、男は突然燃え上がり、その炎はガルザの口に吸い込まれていく。
それらは一瞬。
その一瞬だけは狂乱に駆られかけた周囲の人間達は、しかし次の瞬間には自分が何故ここまで落ち着かない気分になるのかがわからない。
そう、ガルザに喰われた次の瞬間には、酔っ払っていた迷惑な傭兵崩れの男の存在など、誰も覚えてはいないのだから。
それが、存在を喰われるという事。
「‥‥‥‥‥‥」
無論、ガルザは正義の味方でもなければ、人間に過度に肩入れしているわけでもない。
ただ、自分がこの穏やかな暮らしを続けるために、自分にとって目障りな存在を喰らう。
その事に、胸を痛める事もない。
ガルザにとって、人間が食べるために家畜を殺す事と、徒が人を喰らう事に、大した差はない。
別にガルザが特別冷酷なわけではない。
この世に在る徒にとって、人間は喰らわねばならない命の薪。
"人間と徒が酷似した存在"である事を度外視する事は彼ら紅世の徒にとっては常識ですらあった。
徒が人間に対して敬意を払い、『人化』が主流になるのは、人間の文明が著しく加速する、数百年も先の話。
ただ、自分のために、他を食い物にする。
それだけ。
(‥‥人間だって、それは同じ事だ)
全く、突然の事だった。
接近にも気づかなかった。おそらく、気配を隠していたんだろう。
いつものように、酒場で下働きをしていた。
ソフィアが客につまみを運び、親方が店主のくせにほろ酔いになり、常連の客達が馬鹿笑いを続けていた。
ガルザにとって、当たり前の光景。もう数年は続くはずの、当たり前の光景。
いきなり、"壊れた"。
見えたのは、白刃、ただそれだけだった。
「っ!?」
何を考える暇も無く、上体を屈めてその一撃を躱す。
「‥‥‥?」
次の瞬間に、"攻撃された"事、その意味に気づく。
「あ‥‥‥‥‥」
そして次の瞬間、見慣れた酒場、今の自分の当たり前が、今の自分の当たり前から吹き出した鮮血に、染まった。
巨大で強力な斬撃が、"店ごと"自分達を襲ったのだと、遅れて気づく。
(フレイムヘイズか!?)
徒を狩る同胞殺し、討滅の道具が襲って来たのかと考える。
辺りを見渡す中に、倒れる一人の少女が目に止まる。
(ソ、フィア‥‥?)
倒れる少女の、荒々しい吐息が聞こえる。
どうやら意識は無いらしい。
だが、それより何より‥‥‥‥
(生きてる!)
そう確信したガルザが最初にとった行動は、少女に駆け寄る事ではなく、
店の外に飛び出す事だった。
考えるまでもない。狙いは自分だろう。
あの場にいたら追い打ちを受ける事、それにソフィアが巻き込まれる事はわかりきっていた。
屋根を、店を砕いて空に飛び出したガルザは目にする。
そこにいるはずのその存在は、同胞殺しの道具ではなかった。
二つの戦輪をその両の手に下げる、長い髪の女。
その胸の奥に、フレイムヘイズには無い"灯火"が在った。
「"ミステス"か!?」
驚愕に目を見開くガルザに、再び白刃が襲いかかった。