それは、綺麗な満月の輝く夜。
牧場に佇む白い影の背後から、月光を受けた刃の一閃が走り……
「甘い!」
白い影が振り向き様に奔らせたサーベルの刀身に受け止められました。
「(ちょっ、メリヒム! 羊が食べられないと話が始まらないだろ!)」
「黙れ。喰われるのは貴様だ」
月明かりに照らされた闇夜の中に、剣戟の光が咲きました。
美しく広大な草原と危険と神秘を併せ持つ深い森林が特徴の、とある村の一夜でした。
「昨晩、また我々の羊が捕食……ではなく、襲われたようであります」
「犯人不明」
その翌朝、牧場の主でもある少女に朝食の湯豆腐を振る舞いながら、その少女にしか判らない程度に眉を落とすメイドの姿がありました。
どうやら羊は、襲撃者を撃退する事に成功したようです。
「シロは強いから大丈夫。……でも、本当に犯人がいたのね。羊たちが勝手に逃げ出してるのかとも思ったけど」
育ての親でもあるメイドの朝食にスプーンをつけながら、少女は少し難しい顔をしました。
実は、このように牧場の羊が襲われるのは初めてではありません。五日ほど前から頻繁に、牧場から羊が姿を消していたのです。
では何故、少女はそんな風に考えたのか。理由は簡単、消えた羊の痕跡が全く無かったからです。
もし野生の獣が羊を襲っているのなら、食い散らかされた痕跡くらいは残っているもの。だから少女は、『羊は逃げてしまっただけ』と考えたのです。
とにかく、牧場最強の羊であるメリヒム……愛称シロが生き残り、襲撃者を撃退した事により、彼女らの『敵』の存在が明確になりました。
「我々も、四六時中牧場を見張る事は出来ないのであります。そして敵は、そんな我らの隙を正確に突いてくる」
「姑息万歳」
そう、彼女らが夜通し見張りをしている時には敵は現れず、しかし油断すればその隙を逃がさない。厄介極まりない敵でした。
「……とにかく、警戒を続けるしかない。ヴィルヘルミナは、村の皆にこの事を知らせて」
「……貴女は、どうされるのでありますか」
「山小屋に住んでいる老婆を迎えに行って来る。もし本当に獰猛な狼がいたりしたら危ないから」
「しかし、危険であります」
「大丈夫」
心配性なメイドに不適な笑みを見せて、少女は大きな布をバサッと広げ、頭から被りました。
「私は、紅頭巾だから」
その老婆は人見知りが強く、村から離れた山小屋で果物を採ったりして暮らしていました。
別に紅頭巾の実の祖母であり、彼女を子供を生んだというような事はありませんが、知らない仲でもありません。
紅頭巾は、彼女が恐ろしい獣に襲われてしまわないように、この騒動が納まるまでは一緒に暮らすつもりなのです。
「あっ、シャナ」
「ゆかり……」
そんなこんなで老婆の家へと向かう山道で、紅頭巾に声を掛ける一人の少女。山向こうの村に住んでいるゆか頭巾です。
ちなみに、『シャナ』や『ゆかり』は彼女たちの本名だったりします。
「どしたの? こんな山奥に」
「引きこもりを迎えに行く。最近得体の知れない獣が徘徊してるみたいだから」
「一人で? 危なく……ないか。シャナだもんね」
「うん、平気。ゆかりは?」
「今から東の村。これ売りに行くところ♪」
紅頭巾と軽く挨拶を交わしたゆか頭巾は、自分が背中に背負っている大きな風呂敷をポンポンと上機嫌に叩きます。
「それじゃ、シャナも狼さんに気を付けてねー!」
「別に狼だと決まったわけじゃない」
相変わらずの快活さで元気よく手を振って駆けて行くゆか頭巾に、紅頭巾も常と同じく冷淡に返し、そのまま老婆の家へと向かいます。
そしてしばらく進むと、紅頭巾はまたも人に出会いました。しかし今度は知り合いではありません。
プラチナブロンドの髪をオールバックにし、目元をサングラスで隠した男が行き倒れていたのです。
「何があったの」
紅頭巾は男を助け起こすでもなく、男の前にしゃがみ込むでもなく、ただ立って見下ろしたまま問い掛けました。
その言葉に、男の肩が僅かに動きました。どうやら息はあるようです。
「……ふっ、また死に損なったか。……お嬢ちゃん、悪いが水を恵んでくれないか?」
「………………」
やや自分に酔った言い回しで『お嬢ちゃん』などと呼ばれて、紅頭巾は持っていた水筒を男の頭に落としました。
硬い水筒を脳天に落とされたにも関わらず、男は水筒にむしゃぶりつきます。
「生き返った……」
「死に損なったのが悔しいなら自害でも何でもすればいい。私は止めないから」
「………もう少し別な言葉があるんじゃないか」
紅頭巾の辛辣な(しかも正直)な一言に、男の生きる気力が削られました。しかし男は気を取り直し、訊かれてもいない身の上話を始めます。
「……俺は、中央のストリートで働いていたんだ」
「私には関係ないし、興味もない」
にべもありません。男は仕方ないので結論だけ言います。
「……借金を抱えて、都会から逃げ出して来たんだ。金も無い、食い物も無い、そして希望もない。……俺は、死に場所を求めているのかも知れないな」
哀愁を込めて溜め息を吐かれても、紅頭巾は困るより先にうんざりしてしまいます。
同情する事も、誰かを慰める事も、紅頭巾には専門外なのですから。
「俺に残されたのはこの……たった一箱の煙草だけさ」
「……なら、その煙草を買ってあげる」
男の決め台詞に、紅頭巾は間髪入れずに応えました。男の目が、サングラスの奥で見開かれます。
紅頭巾は呆気に取られる男の手から煙草の箱を奪い、その手に三回食事が出来るほどの硬貨を握らせました。
「そのお金を使って生きる方法を探すのも、そのお金を使って死に場所を探すのもお前の勝手。私は死にたがりを更正するほど暇でも、物好きでもない」
煙草の箱をくるくると指先で弄びながら、紅頭巾は男を置いて歩いて行きます。
「その水筒、あげる」
紅頭巾はそれから一度も振り返る事なく、男の前から姿を消しました。
「……………………」
優しいのか冷たいのか判らない少女の態度を思い返しながら、男は水筒を見つめます。
自分が口をつけ、何らかの理由で少女に破棄された、水筒を。
さらに進んだ先で、紅頭巾は分かれ道に差し掛かりました。
一方は老婆の家へと続く道。もう一方は、遠回りで老婆の家へと続く道です。
(これは………!)
道に差し掛かった瞬間、紅頭巾の全身に鳥肌が立ちました。
風に乗って、甘く、芳ばしい香りが漂ってきたのです。それは、遠回りな道の方から匂って来るようでした。
何かに導かれるように、紅頭巾はそちらに向かいます。老婆とは特に約束をしていたわけでもなく、いくら危険な獣がいたとしても、早々出くわすはずがありません。
紅頭巾の逡巡は一瞬でした。
「何だろ、これ?」
匂いを辿れば、そこには一つのパンが落ちていました。ご丁寧に包み紙に包まれており、拾って食べられる代物です。
「あむっ!」
誰かが置いているだけじゃないのか? 明らかに普通じゃない。―――そんな思考が巡るより疾く、紅頭巾はパンにかぶりついていました。
それほど、そのパンの匂いは殺人的だったのです。
「おい、しい………」
匂いに違わぬ甘さ、柔らかさ。何よりカリカリモフモフとした食感がたまりません。紅頭巾は夢中でそのパンをたいらげ、そして………
「む……っ!」
少女の瞳は見つけました。視線の彼方に点々と続く、そのパンの星々を。まるで夢のような光景です。
「メロンみたいな編み目の焼き型………このパンはメロンパンって名付ける!」
柄にもなく年相応にはしゃぐ紅頭巾の姿を、遠く………薄く笑いながら見ているモノがいました。
“それ”は物凄い速度で森を走っていました。いや、走っている……というのは間違っているかも知れません。何故ならそれは、足どころか手すらも持ってはいないのですから。
ただ、その長く伸びる体をしなやかに地に這わせ、自身を前へと滑らせているのです。
「チャンスだ。紅頭巾がメロンパンにかまけている間に老婆を食べて、そして老婆に成り済まして紅頭巾も食べてやる」
それは、蛇でした。白蛇と呼ぶには輝きが強く、アナコンダと呼ぶには太く長すぎる体躯を持つ、銀鱗の大蛇です。
大蛇は舌なめずりをして、あっという間に老婆の家まで辿り着きました。
山中に住んでいるだけあり、扉も壁も窓も頑丈な造りのようでしたが、大蛇にはそんなもの関係ありません。
「閉めきられてるって事は、中の人間も咄嗟に逃げられないって事だろ」
その長い体を絡ませるように煙突まで這い上がり、そのまま家の中に侵入します。
この暖かい季節に、暖炉に火をくべているわけもなく、大蛇は難なく家に入る事が出来たのです。
(よし、老婆は……)
そして、大蛇は家の中に老婆を見つけました。
雪のように白い肌と、明るすぎる水色の髪と瞳を持つ女の子。
見た目には少女にしか見えませんが、実に数千年もの時を生きている彼女こそ、紅頭巾の知人のヘカ頭巾なのです。
そのヘカ頭巾と大蛇の眼が、合いました。
家の中に突然侵入してきた、常識外れに大きな蛇。大蛇は当然、ヘカ頭巾は怯え、慌てふためくものと思っていました。
しかしヘカ頭巾は、大蛇と数秒見つめ合った末…………恥ずかしそうに視線を逸らしました。
「(あの……ヘカテー?)」
大蛇が小声で呼び掛けても、聞こえていないようです。ヘカ頭巾は頻りに『台本』と書いた冊子を確認し、顔を真っ赤に染め、極度の緊張で激しくぎこちない挙動で、三つ指をついて頭を下げました。
どうやら、食べられる、という字義について、大いに大いに誤解しているようです。おそらくは先ほどの冊子の制作者の仕業でしょう。
「………………優しく…お願い、します……」
「…………………」
消え入りそうな声で願い出るヘカ頭巾によって、場に尋常ではない気まずさと気恥ずかしさが満ち溢れます。
しかし、ぐずぐずしている暇はありません。早くしないと紅頭巾が来てしまいます。
「じゃあ……その……食べるから、ね?」
「(………コクッ)」
パクっ、と妙な擬音を連れて、大蛇は大命の第一段階を果たしました。
後は、紅頭巾の到着を待つばかりです。
(あとがき)
今回は初のパロディ(?)となります。来週くらいかなぁ、原作最新刊。