もう人間じゃない。
そう告げられた時の気持ちは、きっと一生忘れる事なんて出来ないだろう。
人として生きてきた全て、これから生きていく全て……奪い去られた事にすら気付けていなかった絶望。
巻き込まれた。そういう意味では、僕も君も同じだったはずだ。
でも……君はその事を嘆いた事は一度もなかった。
まだ引き返す事が出来たはずなのに、もうどうしようもなくなった僕の傍に居続けてくれた。
苦悩も、不安も、まるで感じさせずに、そうする事が当たり前であるかのように。
―――失ってから、初めて気付いた。
どれだけ君の笑顔に、君の存在に、ちっぽけな自分が救われていたのかを。
同時に、憎んだ。“守る”なんて愚かに夢見ていた自分を、理不尽に存在を喰い潰す徒を、そして何より君を奪った世界を。
だから、差し伸べられた手を取った。
変える事が出来るなら、変えてやる。この理不尽な世界の理を壊して、君と歩いて行ける世界を創ってやる。
そう、思っていた。
―――その先に在る、最悪の結末すら覚悟して。
「………………」
悠二は、空を見上げている。
秘法・『天破壌砕』を阻止して、力尽きたシャナにトドメを刺そうと大剣を振り上げた時……“それ”は起こった。
黒炎に塗り潰される空、その光を浴びて燦然と輝く銀色の大地、世界の変容へと踏み出すその景色に、文字通りの亀裂が奔る。
次々と世界がひび割れ、広がり、欠落した空間には色も質量も深さも距離も存在しない絶対的な“無”が覗いている。
悠二を含めた誰もが、知識として知っていて、しかし直感で理解していた。
違和感と呼ぶのも生温い圧倒的な喪失感。この世の存在ではないからこそ感じ取れる崩壊の序曲。
歪みの果てに訪れると王たちが危惧してきたモノ………『大災厄』。
頭の固い王たちの不確定で曖昧な妄言とすら思われていた現象が今、現実のものとなって広がっていた。
「何という、事だ……!」
シャナの首から下がるアラストールから、絶望と憤激の声が漏れる。
フレイムヘイズと契約した王は、今、目の前で起こっている現象を防ぐためだけに使命に準じていたのだから、その怒りは全ての討ち手の代弁と言えた。
紅世から渡り来た事も、人間という小さな器にその身を休眠させた事も、そして同胞の命を刈り続けて来た事も、全てが無駄に………。
「…………………」
悠二は沈黙を守っている。その沈黙は当然、アラストールとは違う意味で、だ。
フレイムヘイズの使命も、世界のバランスも、元々悠二にはどうでもいい事だったのだから。
(駄目、か………)
諦観して、眼を閉じる。自在師としての、創造神の依代としての感覚が、嫌でも悠二に判らせる。
……このまま行けば、世界は変容を遂げる前に崩壊する、と。
「悠二………」
傍らから袖を引かれて振り返れば、想いに応えられなかった少女がいる。
「ヘカテー……」
思えば、彼女との出逢いから全てが始まった。或いは、終わった。
それでも――――
「っ…………」
悠二は、その小さな体を抱き締めた。それは、もしかしたら縋りついたのかも知れない。
街を飛び出し、仲間とも呼べた知己を葬り、全てを捨てて挑んだ大命だったはずなのに、悠二の心は………その頓挫を、驚くほど醒めた眼で見ていた。
(どうしていれば、良かったのかな………)
言葉に出さない問い掛けに、応える者は誰もいない。
「……っ…………!」
大太刀を杖代わりにして体を支え、力を振り絞って辛うじて炎髪灼眼を顕すシャナの目の前で、銀の力が渦を巻く。
(何をする、つもり………?)
もう、『天破壌砕』は使えない。契約者の死亡直後の顕現……は、“無駄”だ。これは、内に眠る王が強大であればあるほど枯渇が早く、意味が無くなる。紅世真正の魔神では、一瞬の顕現すらも疑わしい。創造神を葬る事など不可能だった。
シャナが死に、次の契約者を“使って”『天破壌砕』を行うという試みも、今からでは世界の崩壊には間に合わないだろう。………いや、たとえそれで“祭礼の蛇”を討滅を果たせたとしても、『審判』と『断罪』を司る天罰神では世界の崩壊を止められない。
それでも、死ぬまで戦う。そういう生き方を選んだシャナは、しかし……目の前で荒れ狂う銀炎に近寄る事すら出来ない。
まったく情けない事に、吹き飛ばされないように踏み止まるだけで精一杯だった。
(…………くそっ!)
抱き締め合う二人、そこに踏み入る事すら出来ない自分。無力とそれ以外、異なる二つの怒りを抱えて、シャナは心中で口汚く吐き捨てた。
自分の気持ちを明確に掴めていない少女を置いて、事態は進行していく。
悠二の体から銀の炎が、ヘカテーの体から水色の炎が、解れるように二筋伸びて絡み合い、悠二の胸に手繰り寄せられていく。
無数の自在式に囲まれる中、やがて解けた糸の全てが悠二の胸に呑み込まれた。
「これは……まさか……っ!」
「アラス、トール……?」
自分と同じく、自在法にそれほど秀でてはいないはずのアラストールの納得を怪訝に思ったシャナは、しかし次の瞬間、驚愕に目を見開く。
ヘカテーと僅か身を離した悠二が、自身の胸に手を“潜り込ませて”、中から一つの物を取り出したからだ。
核を複数の歯車状のリングに囲まれたような奇妙な宝具。時の事象に干渉する秘宝中の秘宝……『零時迷子』。
後に界戦と呼ばれる戦いについて、シャナが見届けられたのはそこまでだった。
「――――――!!」
懐かしく感じられる、人としての姿から放たれた銀炎の大蛇が、叫びすら上げる間もなくシャナを呑み込み、飛び去る。
天を翔る龍にも似た銀蛇は戦場を去り、地平線の果てを目指して全てを置き去りにした。
(平井さん………)
ひび割れ、崩れていく戦場を囲うように、二つの炎が伸び、幾重にも包み込んでいく。
燦然と輝く銀色の大蛇、明るすぎるほどに光る水色の大蛇。
悠二とヘカテーの創る炎蛇の檻が、それより外への亀裂と崩壊を食い止めていた。
(約束、守れなかったね………)
ヘカテーを泣かせるな、事ある毎にそう言われて来た。今も自分の胸に寄り添う少女は、憔悴しきった……しかし漸く安らいだように笑顔を浮かべている。
今まで彼女をどれだけ苦しめていたのか、想像に難くない。
(人間は気付く事も出来ずに、徒に存在を喰われて消える。どんなに大切な人も、想いも、無造作に、理不尽に奪われる)
悠二とヘカテーが展開しているのは、調律と呼べるほどのものではない。ただ、歪みを内に止めるだけの檻……或いは封印。
(それでも、君と出会えて、ヘカテーと出会えたこの世界を………失いたくない)
悠二も、ヘカテーも、円の内側にいる。もはや創造神自身にすら止める事の出来ない勢いを持った歪みを止めるには、二人が力の中心にいる必要がある。
………それでも、食い止められる可能性は限り無く低い。
(今の僕にも、そんな風に、思えるのかな)
まるで鏡が砕け散るように、世界そのものが壊れていく。
(死んだら、消えたら……どうなるんだろ。もし、その先が在るんだとしたら…………)
全てが無に呑まれ、消滅を迎える中で――――
(もう、一度………)
懐かしい笑顔を、見る事が出来た気がした。
悠二が、自分の意志で大命を選んだと知った時、安堵とは異なる感情を覚えた。
気付いてしまったから、貴女の存在が、どれだけ悠二にとって大きなものなのか、気付いてしまったから。
貴女の死と同じくらい、悠二の変容が苦しかった。……違う、私ははっきりと感じていた。羨ましいと、妬ましいと。
そんな自分の汚さを理解して、それでも私は悠二と共に往くと決めた。
変わってしまった彼と、変わる事が出来なかった私。地獄の底まで二人で往くと。
私がそう決めた時、終焉は定められていたのかも知れない。
最期の時を前にして、私は浅ましくも悠二に願った。報われなかった恋心に、僅かな救いが欲しかった。
たった一つ、残せるならと―――――
「…………………」
中国中南部、人跡未踏の山肌の上から、一人の少女が“それ”を見下ろしている。
いや、正確には見てはいない。見えないのだ。景色や光という概念すら完全な虚無、この世とは一線を画した歪みの塊たるその場所を見下ろして、少女はただ無言だった。
「おおおお姉ちゃんん、ささ寒いよぅ……!」
「うるさいうるさいうるさい。だから私はついて来なくていいって言った」
黒のライダースーツの上から黒衣を羽織る黒髪の少女。その後ろで、厚手のジャンパーの袖に手を通さずに自分の体を抱き締めている、ジャンパーに着られているような、シャナよりも二回り小さな少女。
夜のようなショートボブの黒髪と、星のように明るい水色の瞳が印象的な小さな女の子だった。
「だってついて来なかったらお小遣い半分にするって脅かすんだもん」
「普段から無駄遣いばかりしてるお前が悪い」
「無駄じゃないよ! お姉ちゃんも素材がいいんだからもっとオシャレすればいいの痛っ!?」
口の減らない娘の頭に拳骨を一つ落として、シャナは再び歪みを見下ろす。しばらくそれを眺めていた少女だったが、すぐに飽きる。
どうにも落ち着かない子供だった。
「お姉ちゃん毎年ここ来るけど、ここ何なの? ……あそこ、すっごい嫌な感じがするけど」
「ほぅ、ようやくその程度には気配を感じ取れるようになったか」
「そ、そう? えへへ………って、そうじゃなくて! ここ何なの? 毎年引っ張ってかれるあたしの身にもなってよー」
「次の試験で学年最高点を出したら教えてやる」
「パパのけち!」
「ぱぱと呼ぶな」
騒がしいやり取りをしているアラストールと縁に溜め息をついて、シャナは空を見上げた。
随分と古くさい概念を思い浮かべた自分に苦笑が漏れる。
坂井悠二。『零時迷子』のミステス。自分から育ての親を二人も奪った、創造神の代行体。
世界のバランスを崩して崩壊を招き入れた両界の敵。
元より、シャナは復讐を糧に生きるフレイムヘイズではなかったが、それでも感情がないわけではない。
なのに……憎みきる事が出来ない。なのに……彼の忘れ形見と共に生きている。
多くのものを失って、残されたものを見て、今さらのように気付いた。
伝える事の出来なくなった、本当に手遅れになった今になって………
(貴方の事が、好きだった…………)
理不尽を、不条理を、残酷な現実を内包して、それでも世界は回っていく。
優しさも、慰めも、救いもない。どこまでも不偏的な世界。
そんな世界で、少女は………否、誰もが、日々を生きていく。
日が落ちていく逢魔が刻に、緋色の空がどこまでも世界を温かく染めていた。