平井ゆかりの葬式には、多くの人が集まった。両親の存在が既に世界から零れ落ちてしまっていた事から、親戚との関係は疎遠になっていたため、その葬列に並ぶ多くは同級生の少年少女だった。
死因はあまりに深い裂傷による失血死。犯人は大振りな刃物を用いた通り魔であると推定され、警察は目下捜索中。
太陽のように輝くその笑顔も、無邪気で破天荒な姿も、もう写真の中にしか存在しない。
「…………………」
平井と同様、人間の身でありながら紅世に関わろうとしていた佐藤啓作は、葬儀の間も後も、誰とも喋らず、自分でもどこをどう歩いたかという憶えすらなく、気付けば公園のベンチに腰掛けていた。
「…………………」
平井ゆかりが、死んだ。あの時、自分を身の程知らずだと叱咤した、誰より“人間の無力”を理解していたはずの平井ゆかりでさえ、こんなに呆気なく死んだ。
「ッ……ちくしょう………」
平井だけでは、ない。あの時、ヨーハンの自在式の上に浮かんでいた佐藤の眼には、その光景が焼き付いて離れない。
噴水のように幾筋も現れた銀色の柱が、見る間に汚れた板金鎧の群れとなってマージョリーに掴み掛かる光景。半狂乱になって喚き散らすマージョリー。その、攻撃も防御も回避も全てを忘れたマージョリーを、何の躊躇いもなく大剣で串刺しにする、変わり果てた坂井悠二。爆発するように顕現する“蹂躙の爪牙”マルコシアス。巨大な黒蛇に丸呑みにされる群青の狂狼。………それら全てが残酷な現実だった。
人間どころか、フレイムヘイズでさえ、ずっと憧れていた女傑でさえ、何一つ出来ずに死んだ。
「くそぉ………!」
木の幹を、思い切り殴りつける。
彼女を生かすために全てを懸ける。そう決めたはずだったのに、何も出来なかった。
無力……などというものではない。あまりにちっぽけな存在だ。抗いに意味などなく、翻弄され、呑まれ、ゴミのように死ぬ。気付く事すら出来ず喰われ消える人間。討滅の道具として戦いの中で死ぬだけのフレイムヘイズ。
「くそぉ!」
もう一度、思い切り殴りつける。皮が裂け、血が滲む。
破壊され、跡形も無くなった街で、一つだけ綺麗に残っている場所があった。
瓦礫の中、場違いに美しく咲いた銀色の花畑。そこに、平井ゆかりは横たわっていた。
それが悠二を豹変させた引き金だと、解らない者はいなかった。
―――いっそ、憎悪に身を委ねられれば楽だったのかも知れない。
「くそぉぉぉ!!」
三度振り上げられた腕は………佐藤が接近に気付きもしなかった人物に掴まれ、止められる。
「…………田中」
「……折れるぞ。いい加減にしないと」
かろうじて自身を支えていた気勢を削がれ、佐藤は力なく両膝を着いた。
「お前……何でここにいんだよ」
「……何でって、お前明らかに普通じゃなかっただろ」
今日のいつ田中に会ったのか、そして別れたのか、佐藤は憶えていなかったが、それでも虚勢を張って言葉を返す。
「何でオガちゃんほっといて俺んトコ来てんだよ」
「……オガちゃんには、吉田ちゃんと池がついてる。お前、何も憶えてないのか?」
「………吉田ちゃんも相当キツいだろうに、しっかりしてんな」
むしろ、周りの人間はおかしく思っているだろう。平井の親友の吉田より、佐藤の方がおかしくなっているのだから。
無理もない。多くの人間はマージョリー・ドーの存在を知らず、緒方のように僅かとはいえその存在を知っている者も、彼女の消滅と共にその記憶を失くしているのだ。
「………………」
「………………」
ベンチに二人並んで座って、空と地面をそれぞれ見つめる。空虚な沈黙がしばらく続いて、
「………………なあ」
田中が、口を開く。
返事をしない佐藤に構わず、田中はそれを口にする。
「………もう、“あっち”に関わんのやめよう」
小さな痛みが、佐藤の胸に走る。
「あの日……オガちゃんもバラバラにされてんだよ。封絶があったから元に戻っただけで、オガちゃんも死んでたんだ……!」
田中にも、余裕などない。佐藤の様子を窺えるはずもなく、焦燥に駆られて悲痛な声が漏れだす。
「最初から、何も無かったんだよ。俺たちに出来る事なんか……!」
「………んで、だよ」
震える声に、田中は今さらのように佐藤を見た。その唇から、血が一筋流れている。
「何でお前はそんな冷静でいられんだよ!!」
「っ!」
怒声と共に、佐藤が田中の胸ぐらを掴む。ベンチがガタッと音を立てて倒れた。
「マージョリーさんについてくんじゃなかったのかよ! 何で簡単に割り切れんだよ! 坂井がマージョリーさん殺したんだぞ!? 関わるのやめる? まだ何もしてねぇじゃねぇか!!」
田中だって、平静なはずがない。今の佐藤は、そんな事にすら頭が回らない。
しかし、すぐに追い付いて―――――
「………っ……」
どうしようもない。ただそれだけを噛み締める。
「ちくしょう――――!!」
慟哭は響き、しかし何の意味もなさない。その言葉は誰にも届かず、誰も聞き入れない。
平井ゆかりの死を弔ったこの日、全ての異能者は既に御崎市からその姿を消していた。
常ならば一つ所に長逗留する事の無い移動要塞『星黎殿』が、中国の中南部、人跡未踏の絶郷にて鎮座している。
数千年の永きに渡って準備されてきた『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の『大命』が、巫女……そして盟主の代行体の帰還によって予想だにせぬ速さで進行しているためである。
「突然姿を消した時は、どこぞの道楽者の悪い癖が移ったのかと懸念したものだが、とんだ杞憂だったね」
その神殿を歩く二つの影の片割れ、“逆理の裁者”ベルペオルは、どこか皮肉混じりにもう一人に語り掛けた。
「『零時迷子』の回収、最後の『大命詩篇』の受信、代行体の完成。一人で『大命』の第一段階を遂げたようなものじゃないか。大手柄なんて言葉では不足かねぇ」
一つも盟約を果たしていない一柱・『将軍』“千変”シュドナイへと。返す言葉一つないシュドナイとしては、バツが悪そうに煙草を吹かすしかない。
「しかし、結果として『大命』にズレが出てきてるんじゃないのか。何故代行体にミステスの形骸など残す必要がある?」
「言いたい事は解るが、それはヘカテーの意向じゃあるまいよ。昔から酔狂に過ぎる方だからね」
あからさまな話題転換、振られた話題の内容、その双方に対して、ベルペオルは“嬉しそうに”苦笑する。
「なぁに、不安要素と呼ぶほどのものでもあるまいよ。まさか、我らが盟主が人間の子供に意思総体を明け渡すとでも思うのかい」
「……そうだな」
ただの苦し紛れに冗談混じりに返したベルペオルは、しかし意外に真剣そうな……或いは心ここに在らずな将軍を怪訝そうに見て、「ああ……」と思い到る。
「至純峻厳なあの子にとって、今の状態は大命が一歩前進した、という以上の意味を持たない。まして、入れ物などに気を引かれるはずもないさ」
「………………」
正確に見抜かれ、からかいの言葉を掛けられて、シュドナイはこれを無視する。……それが、半ば誤魔化しに近いものだと解っていた。
「本当に……そう思うか?」
「……どういう意味だい」
「しらばっくれるな」
帰還したヘカテーの確かな異変。それにベルペオルが気付いていないはずがないという、はっきりとした確信があった。
以前から氷像のように表情の変わらないヘカテーだったが、今のそれとは種類が違う。……それに、何故か代行体に対して怯えのような感情を持っているかのように振る舞う姿が見られた。
盟主の意識にミステスの意識が混在している状態に当惑しているというなら解らないではないが、だとすれば間違いなく“入れ物”とは認識していない。
「……あれで頑固な子だからね。自分から話さない以上、無理に訊きだすのは逆効果だよ」
シュドナイに言われるまでもなく、ベルペオルは気付いている。………だが、今のヘカテーの雰囲気は以前とは違う。
無垢ゆえの無関心ではなく、何物をも拒絶するような冷たい壁を張っている。
「……構わんさ」
拒絶される事には慣れている、とシュドナイはタバコを吐き捨てる。それが床に落ちる前に灰も残さず紫に燃え消えた。
「どんなものからだろうと、俺は俺のヘカテーを護るだけだからな」
窓から見上げた空に、黒い炎が膨らみ、縮まり、燃え、呑まれて、銀に縁取られた漆黒の鏡へと結晶する。
「『神門』の……完成か………」
心の枷は解けぬまま、世界は流れ、動きだす。誰にも止め得ぬ力を持って。
「………………」
星黎殿において最も高い場所に位置するテラス。そこから見える豪壮巨大な碑。
天衝く矛とも見えるその石塔の頂よりやや下がって三方へと突き出した踏み台の上に、少女は跪いていた。
瞳を固く鎖し、両の手を組んで、ただひたすら星天に祈りを捧げている。
その、頭上――――
「何を祈る?」
「っ!?」
音もなく、そして躊躇なく盟主としての頂に降り立った少年……坂井悠二が、少女……ヘカテーを見下ろしていた。
目に見えて強張ったヘカテーに困った笑顔を浮かべて、悠二はヘカテーのいる踏み台へと飛び降りた。
「あ……っ……!」
反射的に後退るヘカテーの手首を掴んで、その小さな体を力強く引き寄せる。
「願い、祈るだけでは何も果たせず、また何も護れない。お前にも、解っているはずだ」
抱きすくめられて、しかしヘカテーはさらに身を固くした。
『零時迷子』を通じて悠二と意識を共有しているのは、彼女の神である“祭礼の蛇”。だが、“そんな事”はヘカテーには関係ない。
坂井悠二なのか、違うのか、ただそれだけが全てだった。
そんなヘカテーの苦悩を理解している悠二は、そっとその顎を掴み、上向ける。
「僕は、彼の傀儡としてここにいるわけじゃない。自分の意思で、この道を選んだんだ」
(あ―――――)
意図的に開いた心。光を取り戻した黒の瞳の奥を、ヘカテーは見た。
「未踏に踏み出した新世界で、平井さんを取り戻そう。きっと出来る。そうしたら、今度こそ僕が守ってみせる」
壊れかけている。或いは、既に壊れてしまっている。………しかし紛れもなく、少年・坂井悠二の心。
「私が…………」
痛くて、苦しくて、悲しくて、切なくて、とても辛い。
「私が……守ります………」
もう、愛しい少年を救う事は出来ないのかも知れない。でも、せめて、守りたい。
彼が、大好きだから。
(…………助けて)
ほんの少し前まで、当たり前のように広がっていた楽しい日常が、無い。二度と戻らない。
(ゆかり……!)
悪い夢なら、醒めて欲しい。