夏祭りの喧騒を嘘のように呑み込んで、止まった世界に陽炎が揺れている。
そこは、茜色の炎と刃が乱れ飛ぶ戦場だった。
炎と刃を内包した茜色の怒涛と、幾重にも張られた群青の紋様、そして琥珀に渦巻く風の大瀑布が空でぶつかり合う中で……戦場の片隅に、もう一つの別世界があった。
「………………」
焼けた大地と瓦礫の中、一つの影を作る男女。その片割れたる少年……坂井悠二が受けた傷は、自在法・『スティグマ』……時と共に広がる傷。それを凌ぐために傷口ごと身を削った少年は今、さらなる『スティグマ』を受けて戦場から弾き出されていた。
そして……それと同じ傷を、少女も受けている。何の異能も抵抗力も持たない、人間の少女が。
「………坂井、君」
「喋っちゃダメだ。絶対何とかするから……!」
左腕で少女の上体を抱えて、右手を傷口に添える。その右手から、大小無数の自在式が伸びていた。
その少女は、人の身でありながら悠二たちを支え、ずっと一緒にいたいと願い続けてきた親友………平井ゆかり。
ミサゴ祭りを楽しもうと着飾った可憐な着物姿が、夥しい量の血に染められている。
「ごめん、ね……。結局…私……足手まといに、なっちゃった……」
「いいから! お願いだからもう喋らないでくれ!」
迫り来るそれを理解して、平井は口を止めない。悠二も理解しているはずだった。………しかし、理解したくない。目の前に在る何もかもを否定するように叫ぶ。
その姿自体が、少年の絶望を体現していた。
「……ねぇ、坂井君………」
「っ……」
平井ゆかりという少女が口にするには、あまりに静かで、あまりに儚い声。………それが、悠二の全てを止めてしまった。
「もし……ヘカテーに出会わなかったら……もし、坂井君が……人間の、まま……だったら……。私たち……どうなってたんだろうね……」
既に光を失っている瞳で少年を見上げて、もどかしそうに、遅々とした動きで、手を伸ばす。
伸ばして……少年の頬に触れた。
「こんなの、意味ないよね………」
似合わない、自嘲的な笑みを噛み殺して、力無い唇を迷うように震わせる。
(平井、さん………?)
悠二には、目の前の少女が何を想っているのか解らなかった。
(こんなに、近くに居るのに……!)
何も出来ない。何一つ届かない。そしてそれが……少女が遠くに行ってしまう前兆であるかのように感じられて、堪らなく怖くなる。
いつしか止めどなく涙を流していた少年の頬に、少女のもう一方の手が添えられ、挟んだ。
「ねぇ…………」
包み込むように、或いは縋りつくように触れた手は……冷たい。だが、どうしようもなく暖かい。
「……………大好き」
か細く告げられた一言が、どこまでも鮮烈に悠二の耳に響いた。
――――そして
「……………ちゅ」
柔らかく、短く、触れた。少年の唇に、少女の唇が……。
力の入らない体の精一杯で、触れるだけのキスを遂げた少女の体が、再び力を失って少年の腕に沈む。
「えへへ……キス、しちゃった………」
「平井、さん………」
蒼白な顔で、いつものように悪戯っぽく頬笑む平井の姿に、その想いの正体に、悠二は驚愕とは別の衝撃を受けて目を見開いた。
「ごめんね………」
その呟きは、誰に向けられたものだったのか……。
「困らせ、ちゃうだけって………解ってた…はずなのに……」
それが罪であるかのように。
「これでお別れだって思ったら……我慢…出来なくて……」
許されざる行為であるかのように。
「誰の為にも………ならないのにね……」
少女は、その双眸から涙を流す。
そんな、今にも壊れそうな……壊れ始めている少女を――――
「っ……そんな……!」
悠二は、その腕にかき抱いた。
誰もが破壊されて、死なず、何も無かったように日々に帰って行ける世界で………ただ一人、平井ゆかりだけに死が迫っている。
「何で…っ…平井さんが……!」
徒に喰われ、トーチになったわけでもない。自ら踏み外して、フレイムヘイズになったわけでもない。
学校に行って、友達と遊んで、たまに美味しい物を食べて、試験の前に慌てて勉強して、人並みな悩みを抱えて……そんな日常に生きるはずの……普通の女の子。
「どうして……っ……どうして……!!」
理不尽な世界を呪う、ちっぽけな少年。その頭を………
「私が選んだ……事だから……」
母親のように優しく、少女の手が撫でた。何度も、何度も、癒しのように。
「僕……は……っ!」
そんな平井の姿が、悠二には耐えられなかった。
「平井さんが好きだ! だから……っ……だから死なないでくれ!!」
「………クス」
涙混じりの慟哭を間近に聞きながら、平井は少年の腕の中で……小さく、しかし……とても嬉しそうに、笑った。
(ばかだなぁ……)
私も、貴方も。心の中で、そうつけ加える。
(……ヘカテーが聞いたら、また泣くよ?)
もう、声も出ない。出来る事といえば、自分を抱き締める少年のシャツを、弱々しく握る事だけ。
(好きな人を泣かせて、親友を裏切って……こんな酷い私だけど……)
それで、平井にとっては十分だった。
(眠る場所くらい、選んでも……いいよね……)
頭を預けて、眼を閉じる。いつしか、涙は止まっていた。
(嘘つきな貴方の、腕の中で…………)
一つの命の灯が消える。しかし世界は何も構わず、どこまでも残酷に時を刻み続ける。
「………………………………………平井さん?」
呼び掛けるまでに、間があった。現実に触れる事を怖れる沈黙が。
「………平井さん?」
それに焦燥が加わり、沈黙は短くなる。代わりに、声は震えていた。
「平井さん」
呼び掛けに、応えは無い。擦れた呼吸が聞こえない。脈打つ鼓動が伝わらない。
「………………」
心の何処かで解っていて、だからこそ、怖れる。抱き締める腕の力が緩むのは、果たして悠二の意志だけの理由だろうか。
「…………………」
抱き締めた腕を緩めて、身を離す。そこには安らかな微笑みを湛えて眠る、平井ゆかりの姿があった。
「起きてよ、平井さん…………」
肩を揺すっても、起きない。なおも悠二は呼び掛ける。
「僕を好きだって、言ってくれたじゃないか。これからずっと、一緒にいるから。僕も君が好きだから………」
生気を失った平井を抱いて、届かない言葉を紡ぎ続ける。
「だ、から……お願い…だから……」
涙に阻まれて、その声すら歪む。
「起きてよ……平井さん………」
そんな哀れな懇願を受けても、やはり――――少女が目覚める事はない。
「う、ぁあ、うぁ……」
何かが壊れる音が、聞こえた。
「うわあああぁああぁああああぁああぁああぁあぁあああああああ――――――――!!!」
平井ゆかりが、死んだ。もう喋らない。もう動かない。笑わない。泣かない。もう……どこにもいない。
『僕が、君を守る』
覚悟を、決めた。自分で選んだ生き方として、ほんのついさっきヘカテーに誓った言葉が、全く容易く砕け散る。
(守れなかった……)
願うだけでは意味が無い。守ると決めたなら、守らなければならない。解っていた。解っていたはずなのに………
(たった一人の女の子さえ、守れなかった……!)
――――何も解っていなかった。
「あぁあアあああアアァアアアァアアア!!」
狂ったように咆哮を上げる。悲哀とも憤怒とも絶望ともつかない形を成さない激情の奔流が荒れ狂う中で…………
『選んだな、坂井悠二』
声が、聞こえた。
『お前が真に求めるものは、余に他ならぬ』
声は告げる。悠二自身にさえ解っていない心の欠片を掬い上げるように。
『お前が……お前こそが、相応しい』
得体の知れない存在からの呼び掛け。不思議と、悠二に拒絶の意志は無かった
『共に、歩もう』
伸ばされた手の先に、望んだものがある気がした。
『大命の王道を』
そして全てが、黒に染まる。
(あとがき)
今回のシリーズは、本編時に悩みに悩んだ末に選ばれなかったIFケース……『もし平井ゆかりが死んでいたら』です。本編自体とは無関係なのでご注意を。