その慌ただしい一日の最初のトラブルは、登校途中の封絶から始まった。
「……………」
なるべくなら確認したくない予感と共に上を見上げた悠二の目に、電信柱の上で凄まじい闘気を纏う銀髪の青年が映る。
「……坂井悠二。今日が何の日か、知らんわけではないな?」
「………知ってる、けど」
銀髪の青年……“虹の翼”メリヒムの冷たい視線に、悠二は恐る恐る応えた。朝っぱらから大規模な封絶を張った事に関するツッコミも飛んでしまっている。
「ならいい。何も言わず、ここで死ね」
「はあっ!?」
どう見ても隠しておけるはずのないコートの端からサーベルを抜いたメリヒムが一閃、『虹天剣』を繰り出す。咄嗟に飛び退いた悠二とゆかりの眼下で、住宅地が爆光に巻かれて無惨に吹き飛ぶ。
「んー……メリーさん、結構俗世に染まってきてるなぁ……」
「そういう問題じゃない!」
腕を組んでしみじみと頷くゆかりに、悠二は叫ぶようにツッコんだ。メリヒムがバレンタインを知っている事と、自分が命を狙われる理由が、悠二には結びつかない。
「世界の理を変えた事、今後悔させてやる」
コートを翻したメリヒムの動きに合わせて、まるで鳥の群れのように、翼を持った八面体の硝子の盾が無数、空に羽ばたいた。メリヒムの燐子たる攻撃のための盾・『空軍(アエリア)』だ。
悠二たちが先の界戦で成し遂げた大命によって、今の世界は紅世の徒の力もフレイムヘイズのように回復させる。つまり、今のメリヒムは何の気兼ねもなく存分に力を振るえるのだ。
「えぃや♪」
「ぐぁ……っ!」
おまけに、メリヒムのやる気に悪ノリしたゆかりが、わざわざ悠二の背中を踏み台にして早々に戦線を離脱する。まさしく絶体絶命。
「許さん………」
たぎる炎のような呟きを漏らしながらサーベルを掲げるメリヒムの背中に、虹色の光背が翼のように広がる。
「貴様がシャナの愛の籠もったチョコレートを受け取るなど、断じて許すつもりはないっ!!」
カッと眼を見開いて堂々と告げたメリヒムに、「そんな理由で殺すつもりだったのか!」と悠二が叫ぼうとした、まさにその時………
「何っ!?」
万条のリボンが織り成す純白の濁流が、数十の『空軍』を巻き添えにして、メリヒムに襲い掛かった。一拍遅れて、虹の破壊光がリボンを焼き散らす。
「ようやく見つけたのであります」
「観念推奨」
「ちっ……封絶を張ったのは失敗だったか!」
攻撃の主……ヴィルヘルミナの姿を前に、メリヒムは苦々しく吐き捨てて逃げ出した。それを、「逃がすつもりはないのであります」などと呟いて追うヴィルヘルミナの手には、小さな菓子箱が握られていた。
「……何だったんだよ」
「愛の形も人それぞれ、って事かなぁ♪」
粉々に爆砕された住宅地を眺めながら呆然と呟く悠二に、ちゃっかり戻ってきたゆかりが恥ずかしいセリフで応えていた。
「………………」
朝起きた時、すでにゆかりはいなかった。孤立無援のこの状況で、しかしヘカテーは諦めない。
両手を繰るように空中で泳がせ、宙に浮かんだ鍋の周囲で水色の炎が渦巻いている。
(……もう、ガスコンロなんて信じません)
何度やっても火加減が上手くいかずに黒焦げの物体を生み出してしまうヘカテーは、自分自身の生み出す炎でチョコレートを作ろうと頑張る。
このバレンタインは、ヘカテーにとって、通常のそれよりもさらに大きな意味を持つ。
(悠二…………)
女性が男性に、チョコレートと共にその想いを届ける日。ヘカテーはこの日に、とある重大な決意をしていた。
(悠二に、好きですって、言う………)
自分は、悠二に好きだと言ってもらった事はあっても、自分から悠二に対してはっきりと好きだと言った事が……ない。
義母である千草に言ったり、態度で表した事はあっても、『好き』の二文字を告げた事はなかったように思う。
(それに………)
この日に伝えた想いは、一月後に三倍になって返ってくるらしい。今頑張れば頑張るほど、一月後の喜びが掛け算で増して行くのだ。
まだ見ぬ未来に表情を綻ばせるヘカテーは……
「あ………」
また一つ、黒い物体を生み出した。
「おーっす」
「おはよう、佐藤」
今朝のメリヒム襲撃の後は、とりあえず何事もなく学校まで来る事が出来た悠二とゆかり。
誰がやったのか知らないが、下駄箱に蓋をして鍵を掛けられていたり、机が何故か屋上に移されたりした事以外では、悠二はまだそれほどの被害を受けていない。
(“置き逃げ”防止のためだろうなぁ……)
やきもち妬きのヘカテーか、事恋愛に関しては妥協しない吉田か、はたまたゆかりの悪戯か、シャナだけは絶対にないと断言出来る。
「佐藤、もう貰えたのか?」
ふと、鞄を開ける佐藤の荷物の中に、群青色の包み紙を視界に捉えて、悠二が訊く。
「…………いや、これ俺が買ったんだよ」
「……何それ?」
躊躇いがちに応えた佐藤に、ゆかりは全く遠慮なく追及する。
「マージョリーさんに貰ったんじゃないのか?」
「………くれると思うか?」
八つ当たり気味な恨みがましい視線を受けて、悠二はふと想像し………
「……ごめん。僕が悪かった」
いつものように飲んだくれているマージョリーの姿しか浮かばなかったので、素直に謝った。
「にゃるほど、それで男から渡そうと?」
「そーだよ。全くイベントに関われないよりマシだろ?」
佐藤はゆかりを見て、悠二を見て、あからさまに羨ましそうな顔をする。悠二が既に貰えているだろう事は、佐藤でなくても理解出来る。
「ほらほら、佐藤だって毎年義理チョコあげてるでしょ。大体あんな大人の金髪美人にチョコ貰おうってのが図々しいのよ」
そんな佐藤に追い討ちを掛けるような事を言いながら、近づいてきた緒方がぽんとチョコを渡す。何とも平然としたものだった。
「オガちゃん、もう田中君に渡した?」
「い、いやぁ〜……実は私、中学の頃から義理チョコのフリして普通に渡してたから、今回はそこまで難問じゃないっていうか」
照れ臭そうに頬を掻く緒方は、本当に今回はスムーズに終えるようだった。
「ちぇ」
「……ゆかり今、ちぇって言った?」
「忘れた♪」
面白そうな事柄が一つ潰れた事に、ゆかりは「ちぇ」と言った後にしらばっくれる。あくまでも舌打ちをしたわけではなく、「ちぇ」と言うあたりにこだわりを感じる。
「よ、よう、オガちゃん」
ややギクシャクした動きで教室に現れた田中を見ても、やはり淡白なものになる事は目に見えている。
『あっ、こ、今年もチョコ、あげるね……』
『お、おう。サンキュ…………』
『…………………』
『…………………』
という展開が目に見えるようだった。
「そっ、そういうゆかりはもう誰かに渡したわけ?」
「ん?」
緒方に訊かれ、自分の……少し大きめの鞄を漁っていたゆかりが振り返り、取り出した。
男女問わずクラス全員分のクッキー。チョコですらない、完全無欠に義理な代物。
「私はホラ、朝一番に口移しで♪」
「されてない! 変な事言うなよ!」
ゆかりの爆弾発言に、たまらず周りの目を気にしながら必死に否定する悠二、だが………ゆかりの方が役者が上だ。
「変なんてひどい! 誰がこんな身体にしたと思ってるの!?」
「だから誤解される言い方はやめてくれ!」
身体を隠すように抱いてわざとらしい口調で言うゆかりに、教室中がざわざわと騒ぎだす。
全部が全部嘘ではないだけに、中途半端な否定は逆効果。
「坂井君………?」
「坂井、お前……」
「……見損なったぞ」
身近な友人たちにまで、本気半分にそんな目を向けられて………
「………………」
坂井悠二は逃げ出した。
「………………」
牛乳や砂糖やカカオが散らかった台所で、水色の少女が一人、膝を抱えて丸くなっている。
(…………どうしよう)
この一週間、何度やっても失敗ばかり。ついに材料まで底を尽きかけている。タイムリミットは今日の夜零時まで。
(でも…………)
今この瞬間も……誰かが悠二に想いを込めたチョコレートを渡しているかと思うと、胸が締め付けられる。
いつものように、悠二の傍にいて、近づく女性を威嚇したい。
そもそも、既に悠二と距離を取りだしてから一週間経つのだ。寂しい。
そう思っていてもなお、ヘカテーはまだ悠二の許には行けなかった。
(………チョコレート)
それだけの気持ちで、今日という日に臨んだ。だからこそ、一週間も前から泊まり込みで練習してきた。
(もう一度………)
挫けそうになる心を叱咤して立ち上がるヘカテーを………
ぴんぽーん
インターホンの電子音が、呼ぶ。