「………………」
ヘカテーは料理が苦手である。いや、正確には火加減というものを見極めるのが抜群に下手なのだ。
「……苦いです」
自分の目の前の、白から黒への劇的な変化を遂げた物体を一嘗めし、その(焦げた事による)苦さに眉をしかめる。
悠二に出会い、惹かれ、その愛情表現の一環として始めた“花嫁修業”の成果によっていくらかは改善されたとはいえ、今回の課題はヘカテーには少し荷が重かったらしい。
「また焦げた臭いがするな」
「カカオ、そろそろ無くなるかも知れませんねぇ……」
台所で悪戦苦闘を繰り返す少女の失敗に肩をすくめながら、リビングでテレビゲームに興じる二人。平井ゆかりと、“螺旋の風琴”リャナンシーである。
「後二日か。諦めて市販の物にしたらどうかね?」
「ヤです」
ヘカテーがここ、ゆかりのマンションに合宿を始めてから早一週間が経つ。「ヘカテーにはそれくらい必要でしょ」というゆかりの失礼な読みは、しかしそれでも甘かったらしく、運命の日は二日後に迫っていた。
ちなみに、ゆかりはとっくに成功しており、前日の夜にもう一度完璧な形で仕上げるのみである。
「先生無理だって。ヘカテーこれで頑固だから」
「しかし、こう毎日続くと鼻が麻痺してくるのだが……」
「居候がわがまま言わないでくださいよ♪」
以前このアパートにはゆかりと、ヴィルヘルミナが住んでいた。しかし悠二とゆかりが『星黎殿』を目指して御崎市から姿を消した事をきっかけに、ヴィルヘルミナは虹野邸に居を移し、『界戦』が終わり、ゆかりが御崎市に戻ってきてからもそのままだった。
しばらく一人暮らしを続けていたゆかりだったが、少し前、夜の御崎高校に住み着いて幽霊騒ぎを引き起こしていたリャナンシーが発見され、そのまま御崎高校の物理教師になった事をきっかけに、彼女を居候として自宅に住まわせる事にしたのだった。
まあ、ゆかり自身が坂井家に泊まり込む事も相当多いのだが……。
ヘカテーが、ゆかりが、そして悠二が御崎高校に入学したのが去年の四月。驚くまでに濃密な一年を経て、想いを育んできた彼女たちは初めてその日を経験する事になる。
二月十四日、つまりはバレンタインデーである。
「むむむ……」
「室内換気」
その頃、虹野邸でも似たような光景が繰り広げられていた。
チョコレートどころか鍋を焦がして唸るのは、フレイムヘイズ『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメル。
その料理下手はヘカテーを遥かに凌ぎ、“食べられるレベルの物”を作っただけで周囲を驚愕させる。得意な料理は湯豆腐とサラダ、もしくはお湯を沸かして注ぐやつである。
「ヴィルヘルミナ、最近毎日何やってるの?」
そんな哀れな給仕に、愛娘たる少女が声を掛ける。フレイムヘイズ『炎髪灼眼の討ち手』シャナ・サントメールだ。
ヴィルヘルミナがヘカテーの真似をして料理の練習をしている事は知っているが、彼女自身が自らの料理下手を自認しているため、普段はそれほど頻度は高くない(ゆえに、虹野邸の食事は出来合いや外食が多い)。
なのに、ここ一週間ほどは毎日台所に立てこもり、普段は綺麗なその場所を無為に汚し続けている。
シャナでなくても気にするというものだ。
「な、何でもないのであります」
「詮索無用」
シャナの追求を、ヴィルヘルミナは動揺を僅かに表しながら避ける。育ての親のヴィルヘルミナにすれば、自身の数百年単位の惨めな恋についてはあまり触れられたくないし、気恥ずかしくもあった。
「………………」
だが、シャナとしてはそれで納得出来るはずがない。この一週間、朝夜の鍛練に加わるのは悠二とシャナ、時々メリヒムが参加する“だけ”。それはそれで正直嬉しくもあったが、ヴィルヘルミナの奇行とヘカテー達の不在が無関係とも思えなかった。
そして、ヴィルヘルミナが料理に励む時はメリヒム絡みと相場は決まっている。
それはつまり、ヘカテー達の行動も悠二絡みなのではないか? という推測にも結びついていた。
(……バレンタインデー)
日付から考えられるのは、その日だ。しかし、キリスト教司祭のバレンタインが処刑された日にヴィルヘルミナたちが何かをするというのもピンと来ない。
「………アラストール」
「我は俗世に疎い、訊くならば奥方にでもするがいい」
自室に戻って胸の『コキュートス』に訊ねれば、やや投げやりで自信の無い声が返ってきた。
世界の在り様が変わり、一番今の世界に戸惑っているのは彼なのかも知れない。“どうあるべきか”という問いに、不明瞭な応えしか返せなくなっている。
シャナは電話に手を掛け、いつものように尊敬する偉大な専業主婦に電話を掛けようとした手を……止めた。
(もし、悠二が出たら?)
ヴィルヘルミナ達の行動の正確な意味はわからなくても、それはとても気まずい事なのではないかという予感はあった。
そして少女は電話を掛ける先を変える。発信先は……緒方真竹。
「………………」
そんな少女らの苦闘が続く中、バレンタイン前日。
自室のベッドに仰向けに寝転がりながら、悠二は種類のわからない溜め息をつく。
ヘカテーとは学校で会っているものの、ヘカテーは自分と顔を合わせると「不覚」とでも言わんばかりに唇を噛んで俯いてしまうのだ。
「バレンタインデーかぁ………」
ゆかりは形式的に「秘密♪」などと言っていたが、悠二にだってさすがにわかる。
ヘカテーはその特訓のために平井家に合宿し、そしてそれは上手く行っていないのだろう。
「やっぱり、そうなんだろうなぁ………」
むしろ、この期に及んでヘカテーが別の男にチョコを渡す、などという事があれば、平静でいられる自信はない。全力で抗議するし、それで大喧嘩にもなるだろうとは思う。
しかし、今まで悠二にとってバレンタインデーという日は、母親からチョコレートをもらえ、運が良ければ明らかな義理チョコくらいならもらえるかも知れない日、という程度の認識だった。今一つ実感が湧かず、他人事のように感じてしまうのも事実で。
しかも………
(……シャナや吉田さん、どうするんだろ?)
悠二は今や、自分に好意を向けてくれていた四人の少女の想いには気付いていた。しかし、創造神と世界をも交えた戦いを経て、それらの想いにも一つの終結を迎えたと思う。
だが、今の彼女たち………正確にはシャナと吉田が、何を思っているのか、自分への想いをどう解決したのか、それは全くわからないでいた。
「…………はは」
楽しみなような怖いような期待感を胸に抱きながら、そんな“普通の少年らしい”悩みを持てる事が、自分でも不思議なくらい嬉しかった。
「……………むにゃ」
そしてバレンタイン当日、今朝の鍛練が中止になっているあたりに明らかな策略の臭いを感じつつ、悠二はこれ幸いと、遅刻しないギリギリいっぱいまで寝るつもりだった。
「抜き足差し足……」
そんな悠二の眠る私室に、もはや自分の部屋感覚で忍び込む少女一人。
「すぅ……すぅ………」
創造神の権能を扱うほどの力を持ちながら、未だ戦歴は一年にも満たないという、アンバランスで平和ボケした少年のお腹の上にそ~っとまたがる。
だらしなく開いた口がいかにもいい感じだった。
「グッモーニン♪」
「もがっ……!?」
そうしてその日、悠二の目覚めは口に広がる甘い味によって始まった。
「うぐっ……っ…ゆかり!」
「ハッピーバレンタイン♪」
いきなり寝込みにチョコをお見舞いされた悠二が怒鳴るが、犯人たるゆかりは特に気にした様子もない。
チョコをもらって喜ぶべきなのか、こんなふざけた渡され方をして怒るべきなのか微妙な所だった。
「……何やってるんだよ、こんな朝っぱらから」
「何って、『このチョコに愛を込めて』?」
訊くな。
「どうせ本命チョコもらうの生まれて初めてなんでしょ? 素直に喜べばいいのじゃよ♪ 悠二チョコ好きだし」
「………………」
正確に言い当てられているあたりに無性に悔しさを感じもするが、事実なので言い返せない。見栄を張って出任せを言おうにも、ゆかりの事だから池や母・千草あたりに確認を取っている可能性も捨てきれない。
「だからって、何もこんな渡し方しなくても……」
これまで本命チョコをもらった事のない悠二としては、バレンタインのチョコを渡されるまでの一喜一憂の過程にちょっとした夢を感じる……などという思春期男子らしい憧れがあったりなかったりしたのだが、朝一番でこれでもかというほどにぶち壊された気分だった。
「今日の学校は戦争になりそうだからねぇ」
言ってゆかりは、実にイイ笑顔でニヤリと口の端を引き上げた。
「それで抜け駆け?」
「そ♪ 気兼ねなく子猫たちを煽らなきゃなんないもんね♪」
……相変わらず抜け目ないというかズルいというか。っていうか煽るなよと悠二は思う。
「はい、あーん♪」
「むぐ」
ゆかりが再び悠二の口に突っ込んできたのは、平たい正方形の可愛らしい箱に入れられた……しかし明らかに手作りの、生チョコである。
「それもう一丁!」
「たっ、食べる! 自分で食べるから!」
「やだ♪」
腹にまたがられている状態では上体を僅かに起こす事しか出来ず、ヘカテーがいないとやりたい放題のゆかりによって、悠二はそのままチョコが無くなるまで「あーん♪」を強行されてしまう事になった。
御崎高校のバレンタインデーは、まだ始まったばかりだ。
(あとがき)
あとがきで書いても今さらな気もしますが、本編で悠二たちが戻ってきてからほどなく、『ゴースト・パニック』の後のファーストバレンタイン話です。