「‥‥‥ふう、日本は湿っぽいわね」
「そうぼやくものではありませんぞ、ゾフィー・サバリッシュ君。そもそも君のその修道服も一つの要因なのですからな」
「わかっていますよ、タケミカヅチ氏」
日本の、都会よりは田舎に近い造りの街の歩道を、額のヴェールに施された青い星の刺繍と会話しながら歩く女性が、ある。
指摘された通りの修道服を纏う四十過ぎの女性。といっても、それは外見の年齢の話である。
「それにしても‥‥‥」
ふと、その女性、『震威の結い手』ゾフィー・サバリッシュは足を止めて、僅かに顔を上へと向ける。
「また、相変わらず呑気な子たちですね」
安堵とも呆れともつかない溜め息。その視線の先には、一枚の看板、一軒の店。
そこには、『緋願花』とある。
「久しぶり、って言いたい所だけど、今日は休みですよ。お客さん」
「まあまあ、そんなつれない事言わなくてもいいじゃない」
それほど広い喫茶店ではない、全体的に白い店内の壁に中世の騎士のような絵柄が帯のように引かれ、値段の安そうなアンティークが所々に置いてある。
「ご注文は?」
久しぶりの少女が、ウェイトレス姿で触角をぴこぴこと揺らす。
「‥‥‥‥‥‥‥」
隣のテーブルで、小柄な水色の少女が、じっと三秒くらい興味の視線を投げ掛け、そしてまた少女漫画を読み始める。
「今度は日本にしたのか?」
「まあ、ここ近年で色々あった国でしたからね。少し興味が湧いた、といった所ですか」
そう、このゾフィーは、フレイムヘイズとしては『隠居』に近い状態にあり、外見的に誤魔化しのきく十年を境に定住地を変える、という生活を送っている。
その次の定住地に定めたのがここ、日本というわけだ。
「近年、か〜‥‥。戦歴の違いを思い知らされる発言だね♪」
「何を言うんですか、それを言うならあなたたち『緋願花』にだって‥‥‥」
言って、ゾフィーはチラリと視線を横に向ける。そこには、ゾフィーが赤ん坊に見えるほどの永き時を生きる少女が、話そっちのけでページをめくっていた。
「‥‥‥‥‥ごほんっ。とにかく、少し前から興味はあったのよ。それより、あなたたちこそ、今度は喫茶店?」
「何となく楽しそうかなぁって」
応えて、中性的な容貌の黒髪の少年が、メニューを差し出す。
「‥‥‥手紙や電話のやり取りはあったけど、こうして直接顔を合わせるのはいつ以来かしら?」
「‥‥例の反乱以降ですぞ、ゾフィー・サバリッシュ君」
額から投げ掛けられたタケミカヅチの言葉に、ゾフィーはハッと口を押さえる。
初めて直接顔を合わせたその時以降、少年‥‥‥坂井悠二たちとは会っていない。
そしてその時、本来ならば自分たちも当然背負わなければならない重荷の大半を、この少年たちに背負わせてしまったのである。
正確には、フレイムヘイズではなく、“フレイムヘイズに宿る紅世の王”が、だが。
対する悠二たちは、それほど気にした様子もない。トントンとメニューを指でつついて注文を催促している。
「別に気にする必要ないよ。ゾフィーたちの為にした事じゃないし、あれの直接の原因は僕らだから」
「それより‥‥‥」
悠二が軽くその話題を流し、ゆかりが新たな話題を促す。
「今回も、仕事持ってきたの?」
その言葉に、ヘカテーが顔をゾフィーに向け、ぱちくりと瞬きする。
「まずは、サンドイッチとコーヒーをもらおうかしら」
ゾフィーは意地悪く微笑み、朝食を注文した。
「‥‥‥『白仮面』?」
「そ♪」
ゾフィーから渡されたリストからゆかりが選び出した案件は、『怪傑・白仮面』。
「これ、ロンドンじゃないか。何でわざわざこんな遠くの依頼‥‥‥」
「面白そうだから!」
はしゃぐゆかりは、ヘカテーに後ろから飛び付き、ヘカテーの右手を上に高々と差し上げる。
いかにも、「多数決! 決定♪」と言わんばかりのゆかりの仕草に、悠二はゾフィーと顔を見合わせ、嘆息する。
「いいよ。それで、一体どんな内容?」
今の世界は、徒がこの世に存在するために人間を喰らう必要がない。
フレイムヘイズのように、体力と似た感覚で、休めば力が回復するからだ。
しかし、それでも“軽いお食事感覚”で人を喰う徒も時折現れる。
それに、元来その大半が、欲望の儘に世を放埒するのが紅世の徒である。
それを食い止め、必要とあれば討滅する。それが今のフレイムヘイズ。
人間でいう所の、無法者と警察に近いのかも知れない。
悠二たち『緋願花』は、その強さ、能力の幅広さから、時々こういった事件への協力を依頼されるのだ。
「白い仮面とマントを纏い、ロンドンの街にはびこる悪をバッタバッタと薙ぎ倒す神出鬼没の正義の味方!」
いきなり、随分とファンタジーな出だしである。
「人間・徒に関わらず、悪事を働く者の前に現れてやっつける、市民の人気者!」
‥‥‥あれ?
「それ、何か問題あるの?」
聞く限り、別に放っておいてもよさそうに感じるのだが。
「しかし、目立ちたがりなのか何なのか、封絶も張らずに暴れ回るから人間にまで広まってるし、何よりたまに周りの建物とかにも被害が出てる」
「‥‥はた迷惑な正義の味方、ってわけか」
何ともゆかりが好みそうな話である。
「ヘカテーはどう? 興味ある?」
ゆかりの挙手からヘカテーを奪い取り、ポンポンと頭を叩けば、
コクコクッ
と、賛同が出た。
「レッツゴー・ロンドン!」
「転移‥‥転移‥‥」
急かす二人の愛らしさに目を細め、ゾフィーに振り返る。
「じゃあ、もう行くから、店閉めるよ?」
「はいはい」
言って、財布を取り出そうとするゾフィーの手を制して、
「今日は僕らのおごりでいいよ」
ヘカテーとゆかりを連れ、
「因果の交叉路で、また会おう」
一路、ロンドンを目指す。
その前に、
「ああ、君はまるでヴェッラ・ドンナのようだ‥‥‥美しく、そして危険の香りがする」
訪れたイタリア、ジェノヴァのオープンカフェで、一人の男と向かい合っていた。
薄紫の上下スーツ、黒字に赤線のストライプシャツ、細い銀ラメのネクタイと靴、という常軌を逸した装い。
それを着こなす、黒髪、口ひげの美男子、という伊達男である。
そんな男が、両手でゆかりの手を握り、熱く潤んだ視線を向けている。
「あ、はは。ども‥‥」
ゆかりの空笑いにも、男は動じた様子はない。
「今、僕は運命にも似た胸の高鳴りを感じているよ。いや! わかっているさ、これが僕の一人よがりな恋の炎だという事は!」
芝居がかった仕草で両の手を広げて立ち上がり、天を仰ぐ。そのままくるりと背を向け、また言葉を続ける。
「だが! 君は僕の事を何も知らない。少しの間、僕と時間を共にしてはくれないだろうか? その僅かな時間で、僕の君への想い、君の僕への秘めた想い、それに気付かせてみせる!」
また、ぐるんっ! と勢いよく向き直って、ゆかりの手を握る。
「そちらの少年と幼女もいる事だ。恋人二組、イタリアの夜の街へと‥‥‥」
甘い言葉を囁きながら顔を寄せる伊達男・『无窮の聞き手』ピエトロ・モンテヴェルディの、文字通りの眼前で‥‥‥“溶けた”。
ゆかりの顔が、体が、水銀にも似た銀の液体に。
「ああああぢぢぢぢぢぢっ!!?」
ほどよく熱過ぎる銀を握り締めたピエトロが両手を振って暴れる。
「大丈夫ですか? ピエトロさん。そうそう、質問があるんですが‥‥‥」
「ふーっ! ふーっ! ‥‥‥?」
そんなピエトロが落ち着くのを待って、悠二はにっこりと頬笑んで、質問する。
「丸焼きと千切り、どっちが好きですか?」
「? ああ、どちらかと言えば丸‥‥‥ああそうか、そういう事か」
ここに至って、ピエトロも気付いた。先ほどのゆかりの銀人形が悠二の仕業だという事に。
当然、悠二の頬笑みの裏側も理解する。
「いいだろう! 障害があればあるほど恋は燃え上がるもの! 二人の男が一人の女を巡り戦う。これもまたロマンスの‥‥‥‥」
懲りずに語らうピエトロ・モンテヴェルディ。
二分後、その顔面を晴らして失神する伊達男が、オープンカフェから見晴らせるリグリア海に浮かんでいた。
「いや、その、失礼したね‥‥‥」
「そんなに怯えなくても、何もしないってば」
気を取り直して、話を戻す。ただし相手は海を漂うピエトロではなく、テーブルの上に置かれた懐中時計・“珠漣の清韻”センティアである。
「ピエトロさん、あの癖はいつか身を滅ぼすと思いますよ? 大体、私だって外見は十五で止まってるのに」
若干得意げなゆかりを見る限り、あの展開はゆかりの掌の内だったのかも知れない。
だとすれば、少しばかり悔しい。
まあ、正式に決闘騒ぎに持ち込んだのは向こうだし、今も「幼女‥‥‥」と呟いて海を睨むヘカテーが一番危険ではあるのだが。
「それより、『白仮面』について、もっと詳しい情報をもらえないかと思ってさ」
『白仮面』は、この辺りにもわりと長い間出没していたらしい。
『界戦』以降、それまでは世界のバランスや、同胞と戦う事を懸念してこの世に渡っていなかった多くの徒が渡りきていた。
そういう徒が増えている状況、『白仮面』がどんな能力を持っていても不思議はない。
「それがねぇ‥‥‥‥」
明るく野太いセンティアの声が僅かに翳り、伝えられた内容は、あまり有益ではなかった。
『白仮面』は神出鬼没。気配もなくいきなり現れ、封絶を張らずに活躍する。
しかも、自在法の類は使わず、超人めいた体術のみで敵を打ち倒す。徒やフレイムヘイズも含めて。
ゆえに炎の色も、実際の能力も、何もわからない。唯一わかるのは、体術のみでそこまでの実力を誇る強者、という事だけだ。
「‥‥‥気付かれないように何かの自在法を使ってる可能性は?」
「さあねぇ、わかってるのは‥‥‥少なくとも実際に戦ったフレイムヘイズはそれに気付く事もなかった、って事さ。封絶張ったら興味失したみたいに逃げるし」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
体術特化のタイプなのか、自在法を巧みに使っている自在師なのか‥‥最悪なのは、本来の能力は別なのに、体術“だけ”でそれだけの実力を誇っている場合だ。
結局大した事もわからないまま、『緋願花』は今度こそロンドンの街を目指す。
「‥‥‥‥‥‥あ」
「? どうしたんだい、僕のおふくろ?」
海水を『清めの炎』で乾かし、清めるピエトロの手の中で、センティアがいかにも今気付いた風な声を上げた。
「あの子たちに、言い忘れてたよ」
『白仮面』は、“二人いる”という事を。
「‥‥‥‥『界戦』で僕らを壊滅寸前に追いやった『仮装舞踏会(バル・マスケ)』、その中でもさらに特異な『緋願花』。どんなものか、興味があったんだけどね」
ピエトロは呟く。
「何か、わかったかい?」
センティアは返す。
「ダメだね。まるで力の底を見せてくれなかった」
「ハッハ! それでまるで歯が立たずにノされてりゃ世話ないよ!」
「まったくだ! ハッハッハ!!」
夕暮れに染まるリグリア海に響かすように、二人は力一杯笑い声を上げていた。