「よぉレナート。どうしたんだ? 随分と妙な面をしてるな?」
男がレナートに話しかける。
親しい笑顔を浮かべた男は気楽な様子でレナートに近寄ると、当然の様に彼が包から取り出して食べようとしていた干し肉をひったくり口に入れてしまう。
抗議の声を上げる前に三切れあった肉の一つはあっという間に彼の胃の中に消え、男の行為にレナートは眉を顰める。
「おい。お前、それは俺のだぞ」
「ん? ほらよ。というかお前も以前俺の取っておいたとっておきの酒を勝手に飲んだだろ?」
「……さて?」
すっとぼけてレナートが顔を傾けると、男は露骨に舌を出して「イー」と子供の様に反応する。
チャリンと同程度の質の肉なら五切れは購入できそうな量のゴールドを男はレナートに渡すと、彼はふぅと息を吐き、背伸びをした。
変な所で男は真面目である。横暴に見えてそれでいて誰より周囲の人間の感情の機微に敏い。
彼は自由な男であった。
傭兵でありながら金にだけ囚われることはなく、自分の感情の思うが儘に生き、願うがままにレナートを振り回し続けていた。
彼もレナートも負けず嫌いだった為「どちらが相手よりも激しい鍛錬を行えるか」等という下らない理由で意地を張り合い続け、後の【兵士強化マニュアル】の原点を作り上げたことや
他には戦場でどちらがより多くの相手を倒せるか競い始めたら、いつの間にか二人で背中合わせで戦っていた等々、上げればきりがない。
だが彼は死んだ。呆気なく、人間がそうなって当然の様に。
これは夢か? 何故彼がここにいるのだ? 俺の友は死んだはずだ。
レナートは普通に、当然の様に笑いかけてくる友を前に困惑を内心で抱いていた。
そんな彼の心などお構いなしに男はレナートに笑いかける。
「どうした? さっきも言ったが、何か変だぞお前」
「…………」
ありえない、とレナートは結論する。
死者の復活など絶対にありえないと。
ならばこれは夢だと彼は確信し、周囲を見渡すが……彼は皆目ここが何処なのか分からない。
ここは草原だ。
ここは城だ。
ここは部屋だ。
ここは彼が死んだあの場所だ。
瞬きをする度に周囲の光景が変わり続ける。
全く、何の前兆もなく無限の景色がレナートを包み続ける。
余りに異常すぎてこれが普通なのかとさえ思える世界だ。
いや、変なのはもしかしたら自分なのかもしれない?
実はあの時死んだのは自分で、今生きていると思っている自分は本当は自分ではないのか?
今までの全ては死にゆく自分が体験しているただの夢か?
ありえないとこれも彼は断じた。それだけは、絶対に。
どれだけ心が弱ろうと、今まで自分の意思で行ってきた全ての行為をなかった事になど出来ないと。
彼は全てを覚えている。あの時の慟哭を。我武者羅に行き場を失い、ただ敵を切り捨て続けたことを。
誰かにとっての掛け替えのない人を切り殺し続けた。
大剣から伝わる骨を断つ感触。肉を叩き割る手ごたえ。血という命を浴びた時の温さ。
何もかも自分がやってきたことだ。
「お前は、誰だ……」
それは弱弱しく震えるような声だった。
コレはレナートという男が抱く膿の化身だ。
彼の心にこびり付いて永遠に離れない業、心理的に負った傷の擬人化。
レナートが望んでいたのは肯定か、否定か。
はたまた友が得意としていた話題を逸らすとりとめもない会話か。
男は朗らかに笑った。
そして、彼が何かをレナートに告げようとした瞬間、全てが止まる。
彼の全身に満ちていた生気は消え去り、肌は土気色に変わり、笑顔のまま彼は……亡骸同然の姿になる。
周囲の景色が夜に……いや、更に深い黒に塗りつぶされ、レナートは闇の中に一人取り残される。
しかし不思議な事に彼は恐怖をしていなかった。むしろ安堵していた。
闇の中を心地よいと思ったのだ。
この闇は全てを受け入れてくれる。
抱きしめてくれる。
痛みを判ってくれるとさえ思えてならなかったのだ。
───────────。
視界と意識の果てまでが完全に深淵に覆われる中、レナートは小さな囁きを聞いたが、その中身を今の彼では理解することは出来なかった。
目覚めたレナートは自室に誰かが近づいてくるのを感じた。
頭の中は今まで経験したどんな朝よりも透き通っており、思考はこれ以上ない程に明快。
就寝前に軽く飲んだ酒の気配も完全に消えた今の彼には万全という言葉が相応しい。
外は既に明るく上り詰めた太陽の日差しは部屋の中を満遍なく照らしてくれる。
ベッドから起き上がり自室を見回すと……部屋の隅に「友」が立っている。
土気色の顔。泥にまみれてくすんだ肌。ボロボロの衣服に、彼の死因となった喉への矢による出血で血まみれになった姿のまま。
彼は笑顔を浮かべていた。何時もレナートに向けていたような、無邪気でありながら精巧な笑顔を。
木々の様に棒立ちのまま、彼はレナートをジィッと瞬きせずに笑顔のまま見つめている。
「!!!」
咄嗟にレナートは護身として肌身離さず手元においてある短刀を抜き放ち切っ先を……そこには誰もいない。
まるで幻影の様に彼は姿を消してしまっていた。灰は灰に帰ったのだ。
暫く緊張状態を維持していたレナートだったが、直ぐに近場に誰か……大きすぎる足音から推測するにワレスが近づいてきたことを悟ると一息ついてから身支度を始める。
彼のああいう姿を見るのは何もこれが初めてではない。
最近は少なくなったが、以前は日常茶飯事であった。
見慣れる事こそないが、彼が死んだ日より何度もあの亡霊はレナートに付きまとい離れない。
これは病気だとレナートは思っていた。対して珍しい話ではない。
余りに大きな存在を失った事で、自分の精神状態は自分でも気づかない内に変調をきたしてしまっているのだろうと。
戦を始めて経験した兵士たちが初めて殺した敵の幻影に追い掛け回され、心をやられてしまう事など珍しくなく、それに類似した現象なのだと。
エリミーヌ教の教えなど欠片も信じてはいないレナートからすれば亡霊等というものの存在など笑い話だ。
精々仲間の魔道士に冗談の一種として軽口を叩く際に口から出る戯言の中の存在。
だが……それでもここ最近は酷い。
コミンテルンの問題がひと段落ついてから、彼は頻繁に夢、現実問わずレナートの前に姿を現している。
何も言わず、ただ骸を晒した時の姿のまま、ひたすら凝視してくるのだ。
お前は何を言いたい?
いや……そもそもお前は“誰”だ?
あいつは死んだ。何も言わぬ骸となり、焼かれて灰になった。
お前など、俺の頭の裏にこびり付いた絶望と懺悔の塊でしかないはずだ。
なのに何故、何故……お前を見ていると郷愁の念に駆られる?
彼は終ぞその疑問に答える事はない。
影の様にレナートの足元に付きまとってくるだけだ。
はぁとレナートは大きくため息を吐く。
近々貯めてた金を使ってエトルリアの魔道士か、エリミーヌ教団お抱えの医療やそれに関する魔道を収めた司祭に治癒を受けるかと考えながら。
しかしどんな外的な怪我や病気よりも、心の病がもっとも癒しにくく難しいものであり、彼は半ば諦めてもいる。
これは罰だと。
愚かで思い上がり、友を死地に追いやって自分一人でおめおめ生き恥を晒し続ける自分への罰だと。
レナートは憂鬱な気分で簡易の鎧などを装着し、帯剣すると最後に鏡の前で身支度を確かめる。
髭も剃り終わり、髪型をしっかりと整えて最終確認だ。貴族の前に出るのだ。
みすぼらしい恰好などをしたら傭兵としての評判に傷がつく。
そこに映るのは傭兵にしてはかなりまともな恰好をした男と、その後ろで笑顔でたたずむ血まみれの彼だ。
さすがに短時間に二度も見てしまえば驚きは薄れ、レナートは何でもないかのようにその存在を無視した。
扉が大きな音を立てて破城槌で叩かれたような勢いで開く。
一気に部屋の中の静寂が息を荒くした男の吐息で塗りつぶされ、レナートはようやく来たかと安堵する。
一人で死者の影と向き合うのは非常に精神をすり減らす。
こういう時ワレスの明るさと強引さは救いになった。
「先生! おはようございます!!」
「おはよう。準備は出来ている」
腹の底から、という表現通りの大声でワレスが叫び、レナートは淡々とそれに答える。
最後の締めとしていくつかレナートはキアラン候より賜った勲章を肩に装着し、彼がもっている中で最も上質な純白のマントを羽織った。
堂々と恐れるモノなど何もないと言わんばかりに彼は表面を取り繕い、ワレスはソレを見て感嘆の声を上げた。
「本日はハサルの奴の晴れ舞台ですからなぁ!
さすがは我が好敵手、喜ばしい限りです!!
そして先生もまた、何と雄々しい! 正に伝承に謳われるリキアのローランにも届き得る輝きですぞ!」
「そうか。そういって貰えて喜ぶべきだな」
内心レナートはワレスの言葉を鼻で笑った。
よりにもよって【小さな勇者】と称えられるローランと比べるとは。
自分は伝承に語られる彼ほどの勇気など欠片も持ち合わせてはいない。
うじうじといつまでも死者の事を引きずり続ける弱い男だとレナートは自分の事を評している。
「さて。行くぞ」
予定よりまだかなり時間はあるが、レナートは構わず動き出す。
こういう何かの行事がある時は前もって建てた計画通りに物事が進む……等とは思わない方がいい。
必ず何らかの理由で遅れるか、または時間が繰り上げられる事が多いとレナートは今までの人生の中で悟っていた。
それにもう一つの理由として……雇い主には誠意を見せておいた方がいいだろう。
これから行う式はハサルが主役に近い位置づけではあるが、レナートも中々に中心人物なのだから。
今日は対コミンテルン決戦における功労者への叙勲式ともう一つのささやかな儀式がある日なのだ。
「リキア同盟開闢の祖、偉大なる八神将の一柱【勇者ローラン】の名の元に汝にその功績に相応しい名誉を授ける」
厳かな空気の中、レナート、ハサル、ワレスの三名は玉座の間でハウゼンの足元に傅いていた。
侯爵として完全なる正装を身に纏った彼は正にキアランの統治者に相応しい覇気を放ちながら粛々と祝詞を天上に向けて唱え続ける。
儀式に参加していた神官たちが彼の隣に佇む候弟ラングレンに純金で形作られたメダルを差し出し、それを丁寧に掴んだ彼は兄に傅いて渡す。
メダルに掘られているのはかつてローランが振るったとされる神将器【烈火の剣】デュランダルだ。
エトルリアの職人を召喚して掘らせたソレはその絢爛さ以上に大きな意味をもっていた。
これの名はローラン勲章という。
これは勇気の証だ。
これは強さの証だ。
これは優しさの証だ。
リキア同盟初代盟主にして初代オスティア候ローランの名を与えられたソレは大きな闘いの後、盟主より諸侯に複数枚配られるメダルだ。
配られた諸侯はソレを最も活躍したと判断した己の部下にローランの名のもとに賜り、己の威光を示し、部下は名誉を得る。
弟からメダルを受け取ったハウゼンは、跪き続ける弟の首にソレを手ずから掛けてやり、次にラングレンに合図をして彼を立たせた。
何一つ恥じることなくラングレンは全身に覇気を漲らせて眼下の兵士達に向けて喝采と共に高々とまるで自らが王の様に言い放つ。
「コミンテルンとの戦いで最も活躍したのは城を攻め落としたオスティアではない。
彼らの部隊を追い掛け回し、殲滅し、ほぼ皆殺しにしたラウス軍でもない。
自らの損害を厭わず、全ての準備が整うまで身を挺して戦い続けたキアランだ。
そうだ。貴様たちこそ真の英雄なのだ。私はそう信じて疑ってはいない!」
返答は声ではなく、重く打ち鳴らされた音。
整列し式に参列していた全てのキアラン兵たちが石突を以て石畳を叩いて返礼したのだ。
その様子に満足気にラングレンは頷き、彼は己の役目が終わったことを理解して一歩下がる。
次に最も前線で数多くの敵を葬り、キアラン軍全体の戦線を維持したと評されるレナート。
キアランでは貴重なアーマーナイトでありながら騎兵顔負けの機動力と突進力を見せつけて敵の勢いを大いに削いだと評されワレス。
部外者のサカの遊牧民出身でありながら、優れた人馬一体の技術を以て上記2名を大いに助け、陰ながら多くのキアラン兵の命を救ったと判断されたハサルにハウゼンよりメダルが賜られる。
「各々、比類なき素晴らしい活躍であった。
汝らにこそ【勇者】ローランの名は相応だろうて」
「ありがたき幸せにございます」
敬意を帯びた声でレナートが答える。ふとレナートは視線を感じた。懐かしい視線を。
彼が少し顔を上げると案の定というべきか、ハウゼンの背後、ラングレンの隣に血まみれの彼が立っている。
ニコニコと笑いながらメダルを凝視し顔を傾げていた。
彼の態度はまるで「何でお前がそれを持っているんだ?」とでも言いたげであった。
何故お前がソレをもっている?
勇気等という言葉から最もほど遠い男のくせに。
不死身のレナート? 冗談だろ? ただ逃げ足が速いだけの臆病者じゃないか。
レナートはゆっくりと、侯爵に気取られない様に眼を背けた。
アレはただの幻だと自分に言い聞かせる。
もう彼は死んだのだ。死者は帰らない、死者は喋らない。
「よろしい。さて……」
下がってよいとハウゼンが腕を仰々しく振り、レナートはそのまま後ずさる様に礼儀を守りながら後退する。
次にレナートの代わりにハウゼンの元に現れ、跪いたのはマデリンだ。
取り決め通りの言葉を待つ彼女だったが……父の様子が少しばかりおかしいのを感じ取り声を上げる。
「お父様?」
「………………」
娘から問いかけられ、彼の中で何かの葛藤が生じる。
事ここに至っても未だにハウゼンは……僅かばかりに沸いた自身の疑念を消し去れないでいた。
それは父親としての勘なのかもしれない。
厳正なる儀式の中にあってもハウゼンは露骨に顔を苦渋に歪めかけてしまうが、即座に領主としての顔に戻る。
「相応しき者に相応しき役目を。ハサルよ、こちらに」
はい、と普段の彼よりも幾らか感情の篭った声が玉座の間に響き渡る。
ハサルは堂々とした足取りでマデリンの背後にまるで騎士の様に控えると深く、深く傅く。
その表情は影に隠れて見えないが、間違いなく彼は高揚していた。
「お前をマデリンの護衛につける。
お前ならばどのような脅威からでもわが娘を守り抜いてくれる事だと信じてな。
これは我が弟ラングレンの推薦でもある」
「この命に代えましても」
ハサルの言葉にハウゼンの眼が研ぎ澄まされる。
そこにはレナートをして底冷えするほどの執着と、もしも誓い違えたならばどのような手をもってしてもハサルの全てを抹殺するという決意に満ちている。
「その言葉、偽りはないな?」
「我が血と誇り、母なる大地と父なる空に誓って」
よし、とハウゼンがハサルを認めた所で式は閉会を告げた。
戦争というものは多くの傷跡を残していくものである。
何も話は単純な戦死者だけではない。
死体があるだけで疫病は広まり、発せられる腐臭はそれだけで“死”を否応なく民たちに感じさせ、全体の活気を損なう。
少し眼を向ければ見えるところに見るも無残な死体が転がっていて気分を害さない人間はとても少ない。
更には腐肉を漁る為に獣が、戦死者の装備を剥ぐ追いはぎが、生き延びて居場所を無くして賊に落ちぶれた敗者が……きりがない程に戦後というものは戦時よりも問題が溢れてくる。
むしろ巨大な勢力同士がぶつかりあって拮抗状態を保っている戦時の方が治安がいい事さえある。
そんな中人々は外を出歩きたいと思わないだろう。彼らが欲しいのは安心と安定なのだから。
特にリキアの主要な街道は何があっても安全でなくてはいけない。リキア全体の経済と信頼の為にも。
故に後始末はとても大事なのだ。
死体の処分。落ち伸びた敵の処理。受けた傷跡を回復するための計画。
領民たちへの勝利者としての振る舞い。彼らの平穏の約束等々。
ただ勝利に酔いしれるだけの愚物は今のリキア同盟には存在しなかった。
既に次の段階に移っている状況に即座に対応し、リキアの内部だけではなく、エトルリアやベルンといった二大国にも今回の勝利を見せつけなくてはいけないのだ。
そんな中、キアラン候の一人娘であるマデリンがハウゼンの代理としてアラフェンにて開かれる諸侯の宴に出席するというのは何も珍しい話ではなかったのだ。
何故諸侯が集まるというのに盟主オスティア領ではないのか? という疑問もあるが、恐らくは東の大国ベルンへのけん制の意もあるのだろう。
アラフェンはベルンと隣接する地故に、そこで開催される盛大な宴と勝利の喜びの火はベルンにもいち早く伝わる事だ。
最近国王に即位したベルンのデズモンド王はリキア同盟を軽んじている節がある。
エトルリアが大陸最古ならばベルンは大陸最強の国だ。そんな大国が何故、烏合の衆リキアに気を使わなければならないのだと言わんばかりに。
噂によればエトルリアから嫁いだ妻との折り合いの悪さに対する八つ当たりという話もあるが、真偽は不明だ……。
話しを戻そう。ラングレンとハウゼンの話にだ。
まず前提としてハウゼンとラングレンの兄弟はキアランを離れられない。
何故ならばコミンテルンは確かに組織としては瓦解したが未だに滅んだとは断言できないからだ。
ラウス軍は彼らの大多数を追い掛け回し虐殺したがそれでも完全とは言い難い。
オスティア軍は本拠地を焼き払い、大頭領の首を刎ねたがそれでも彼の作り上げた組織の根は深く、身体だけでも動き続けているかもしれない。
そもそも、あの戦いに参戦したコミンテルンの構成員が彼らの全てだとどうして断言できる?
「思想」によってうじゃうじゃと人々を理想に駆り立てるコミンテルンの根は深く長い。
短時間で結成された組織とは思えない程に急速に拡大した彼らの信者が何処に潜んでいるか判ったものではない。
特に最後の戦いはキアランと隣接するカートレーで行われた。
そこから落ち伸びた者はまず間違いなく存在していると見てもいい。
ハウゼンにはその飛び散った“火の粉”を見つけ出し、揉み潰す作業があった。
他にもノルマンの残した置き土産はどれもこれも頭が痛くなるものばかりだ。
生産者階級への文字の教育による中途半端な知識と知恵の付与による騒乱の下地作り。
簡潔に「思想」を纏めた紙類の部分的量産による思想の拡散。
現状の領主たちがいかに富を貪っているかを糾弾した張り紙による扇動。
至る所に建造されていた農民を兵士に作りかえる訓練所による武装。
何もこれらがあるのはリキアだけではない。
東はベルンからサカ、北はイリア、西はエトルリアと、人という風に乗って今も秘密裏に拡散を続けている可能性さえある。
エリミーヌの亡き後も教団が運営されている様に、コミンテルンが滅んだとしても一度世の中にばら撒かれた「思想」を完全に抹消するのは困難を極める。
「理想」の熱による火事は消えたが、未だに種火はくすぶっている。
これらの狂った「思想」による混乱をハウゼンは断固としてキアランに流入させるわけにはいかない。
またキアラン領の何処かに確実に存在していると推測される彼らの拠点も探し出し滅ぼさなければならないのだ。
その為領主ハウゼンは動けない。彼にはまだまだ仕事が多々あるのだから。
ならばラングレンはどうか?
戦で先陣を切って奮闘し、領主の弟という地位を持つ彼ならば。
……彼もダメなのだ。いや、彼だけは駄目である。
彼は端的に言ってしまえば野心的すぎた。
彼自身は抑えている、もしくは無意識のつもりなのだろうが、身振り手振りの何処かかしこに自分自身こそが領主であると錯覚している節がある。
あくまでも「代理」だというのに彼は無意識に我こそがキアラン候であると言わんばかりの行動と言動を取るであろうと兄には見抜かれていたのだ。
そんな男をやったら侯爵としての面子がどうなるか判ったものではない。
ハウゼンとてラングレンを嫌いな訳ではない。何だかんだ言いながらもたった一人の弟だ。
自分に足りない武勇を誇り、兵士たちを束ねる弟の姿を頼もしいとさえ思ってはいるが……それはそれだ。
それに、この混乱した時期にこそラングレンの様な武勇と行動力を併せ持つ親族を近くに置いておきたいという打算もあった。
当のラングレン自身がキアランの治安を考慮し、代理としての役目を辞退したというのもある。
だとすれば自然と残りの候補は一人となる。
麗しい外見に、侯爵の一人娘という立場。
未婚という貴族たちの眼を引きつける……俗な言い方をすれば「武器」を併せ持った存在は。
彼女の道中に付けられる護衛の数は多くない。
カートレーの戦いでは多くのキアラン兵が犠牲になり、負傷兵の数も多い。
【ライヴ】を行使できる神官や魔道士を総動員させて兵の治癒を行わせてはいるが、それでもまだまだ数は足りない。
いかに彼女を溺愛するキアラン候とて、比較対象がキアラン全体となれば領主としての決断を下すしかなかった。
故に実力は申し分なく、更にはサカの信頼できる思考回路をもったハサルが彼女の護衛に選ばれたのだ。
サカの独特な価値観ならば、まかり間違っても“過ち”は犯さないでしょうというのが彼を推薦したラングレンの言でもあった。
────ラングレン殿はどうやらマデリンを余り好いてないらしいな。
アラフェンに旅立つための準備を終え、最後に武器の手入れを行っていたレナートは唐突に思い浮かんだ思考を噛みしめる。
今回の諸侯会議という名前の戦勝会に思わぬ形で彼もまた参加することになっていた。
何のことはない。彼もまた腕を買われてマデリンの護衛につくことになったのだ。
恐らくラングレンはハサルとマデリンの両者が両者に抱いている感情に気が付いている。
レナートの勘はそう結論付けかけていた。
ハサルをマデリンの護衛に推薦したのも普通に考えてしまえば異端だ。
排他的なリキアの貴族の、その先端を行くような性格をしている男がサカの者に親族の護衛を任せようとさせる?
もちろんハサルの実力が高いというのもあるだろうが、そんなものは表向きの言い分だろう。
レナートの頭の中に幾つかの推察が浮かんだ。
この騒乱絶えないエレブで数多くの黒い仕事もこなしてきた彼の経験はあっという間にある程度の予測を付けてしまう。
キアランの統治者はラングレンの兄のハウゼンだ。
そしてハウゼンには一人娘が居る。マデリンだ。
ハウゼンも既に余り若くない。十年か、はたまた二十年先には隠居を考える時期だろう。
そしてそうなれば次のキアラン候になるのはラングレン……ではない。
マデリンの夫になった人物か、マデリンか、はたまた二人の子供がキアランを継ぐだろう。
ラングレンもまた兄が隠居したというのに一人だけ表舞台に着き続けるのは難しい。
世代交代を求められるのは必定だ。
家の存続と我が子への速やかな自らの全ての譲渡こそが貴族の生き方として最も基本的な事なのだから。
そうなればラングレンは全てを失う。彼は永遠にキアランの実験を握ることは出来ない。
ならば……もしもマデリンが何処の馬の骨とも知れない男を選んだら?
よりにもよってサカの、遊牧民族の、文明的とは言い難いリキアの貴族として相応しくない男を。
間違いなくハウゼンは激怒するだろう。
キアランの総力を挙げて二人の仲を何としてでも引きちぎろうとするはずだ。
そして怒り狂った父親に何を言われたとしてもマデリンには折れない心の強さがある。下手をすれば自殺さえあり得るかもしれない。
ハサルはどうするかは分からないが、それでも諦めて尻尾を巻いて草原に逃げ帰る男には到底見えない。
だとすれば…………。
ふと、そこまで考えた所でレナートは頭を振った。
ただの推察は途中から妄想に切り替わっていたことに気が付いたのだ。
「何を考えてるんだ。俺は」
馬鹿な話だと自嘲する。己は傭兵だ。
キアランにいるのは待遇がよく、居心地がいい職場だからに過ぎない。
何処までいっても自分は外様であり、勲章こそ拝領したがそれでも正式にキアランの所属になったわけでもない。
仮にそういった事が起きたとしてもワレスやイーグラー将軍が対処するだろうと答えをはじき出し、彼は用意された馬車に向かうべく立ち上がった。
キアラン城の中庭には既にハサルと彼の配下であるサカの遊牧民を中心にした傭兵部隊と、ワレスが指揮する歩兵を軸に構成された一個部隊が既に待機していた。
皆コミンテルンとの激戦を勝ち残り、多くの経験を積んだ精兵たちである。
負った傷は既に治癒されており、万全な状態を整えた彼らは平凡な兵士の数倍にも勝る価値があった。
余り多くの数をマデリンの護衛に裂けないキアランが現状彼女に裂ける最大の戦力であり、そして旅を行う上での食料や統率のし易さを考えた最適解でもあった。
彼らは全員が全員ワレス、レナート、ハサルと共に戦い全幅の信頼を捧げている。これがどれほど指揮官として素晴らしい事か。
完全に連携を行う事を当然として動く彼らの軍集団としての戦闘力はキアランに留まらずリキア全体から見ても上位に位置することは間違いない。
「レナート先生!! お待ちしておりました!! 我らキアラン騎士団ワレス隊、ここに揃っております!!!」
槍の石突を地面に突き立て、ワレスが雷鳴の様な声で雄々しく礼を行う。
すると彼の配下も同じようにレナートに向けて騎士としての礼を飛ばしてくる。
レナートは無表情のまま片手をひらひらと振る。そうすると彼らは敬礼をやめこそしたが姿勢は正したままだ。
───全く。
内心彼は複雑な念を抱く。何だこれは、と。
レナートは雇われだ。
本来の立場としては単なる使い捨ての、金で繋がっているだけの小汚い金の亡者でしかないはずだ。
事実多くの貴族は傭兵の事を金で使っているただの戦える使用人程度にしか見ていない。
だというのにキアランは全てが例外だ。
正統なる騎士階級のワレスは自分の事を師と慕いだし、それに感化されたのかどうかは判らないが彼の部下も同じように尊敬の眼でこちらを見てくる。
試しに整列しているワレスの配下たちに視線を飛ばし、一人ずつ確認していく。
何人か……いや、全員見知った顔だ。
ここにいる全員の名前も顔も、彼らの妻の顔や子供の名前だって知っている。
コミンテルンとの戦い。賊との戦い。治安維持活動。
このキアランに来て多くの仕事を共にこなしてきていた“仲間”たちだ。
酒を共に飲んだ事もあれば、キアランの今後について語り合った事もある。
血気盛る余り突出しすぎた所を助けた事もあれば逆に助けられた事も。
彼を失って以来いつ何処で死んでも構わないと自棄になっていたレナートが生きていた理由の一つだ。
自分が生きて戦わなければ彼らやワレスが死んでしまうかもしれなかったから、彼は生を諦めず戦い抜いていたのだ。
そうか、仲間かとレナートは一人内心でごちた。
不思議な程すとんと彼は現状を認めることが出来た。
友を確かに失いこそしたが、新しく仲間という別の存在が出来た事実をだ。
「最終確認を行う。
点呼の後に今回の俺たちの目的を再度確認し、もっていく食料の量や経路などを見直す。俺からはそれだけだ。
今回の旅の指揮権は俺ではなくハサルにある。以降は俺も含めてハサルの指揮下に入る」
当然のことをレナートは当然の様に述べる。
これだけははっきりと言っておかなくてはいけないから。指揮系統をはっきりとさせる事は基本だ。
キアラン候直々に護衛に指名されたハサルがマデリンの護衛の為に組織された部隊を指揮するのは当然だと。
ワレス含め全員が当然とそれに態度で答える。
しかしそれでも彼らのレナートに対しての敬意は薄れない。
忠誠ではない。彼らの忠誠心は真実キアランのみに向けられている。
これは尊敬に値する戦友への信頼……それが一番近い感情だろう。
しかしレナートが満たされる度に、彼の心の中での疼きが深くなる。
失った四肢が幻痛を放つように、最も大切“だった”存在は血まみれの影としてレナートを嘲る。
「彼」は何時の間にやらワレスの隣に立ち、蔑んだ目でこの場の全員を見ていた。
友は口を開き動かす。
音としての声はないが、レナートには彼が何を言っているのかが分かった。
───信頼。友情。敬意。いいモノじゃないか。羨ましいよ。
───だがどうせまた無くすぞ。俺一人さえ守れなかったお前がこれだけの数を守れるものか。
───臆病者め。失う痛みに耐えられない癖に、次から次へと売女の様に新しい「友」に乗り換えやがって。
どうせ死ぬんだ。弱さと痛みを彼は囁く。
にたぁと大きく開いた口から血反吐が噴き出し、目玉が落ちた。
ぽっかりと空いた穴から蛆が這い出ると、喉を食い破り多種多様な虫が“生えて”くる。
背中に冷や汗をかきながらレナートはそれを務めて表に出さず眼を背けた。
もう一度ワレスの隣を見るとそこにはやはり誰もいない。誰にも彼の姿は見えていない。
「……………っ」
背後から聞こえた足音にすくむ様に振り返ると、軽量な革の鎧を着こんだハサルが愛馬を連れて堂々と歩いていた。
彼は何時もの様に余り感情を表に浮かばせず、普段通りの姿でそこにいる。
常勝を重ねる歴戦の傭兵の風格、と言えばいいのだろうか。
侯爵の娘の護衛という大任を言い渡されたのにも関わらず、彼は何も変わっていない。少なくとも表面上は。
彼はレナートの隣に立つと、この場の全員を見渡し一言だけいう。
「よく集まってくれた。此度の大任を共に歩めることを誇りに思う」
そして彼は潔く頭を下げた。今回も力を貸してくれと。
キアラン候娘マデリンを完全に守り切るのは自分一人では無理だと認めたのだ。
普通ならば侯爵直々の命令を投げ出すのか、諦めるのかと罵倒されるかもしれないが、この場にいる全員はむしろその言葉こそを待っていたと燃え盛る。
まず真っ先に快声を放ったのはやはりというべきかワレスだ。
彼はまるでサカの部族が宴の際に使う民族楽器を想起させるほどの重く響く声で宣言した。
「このワレス!
ここに我が槍と、命を、マデリン様と我が友に捧げることを誓おう!
道中において我が槍は貴様の槍! 我が盾は貴様の盾だと思うがいい!!」
───我らが命はキアランの為に。マデリン様の為に。我らの友の為に。
不動の意思を見せるワレスに続き、キアラン軍ワレス隊も揃って斉唱を行う。
槍衾を揃え、覇気と戦意を身にまとった彼らの存在はどの様な城砦よりも確実にマデリンを守護するだろう。
そしてそんな彼らの熱はレナートが感じていた冷たい恐怖を一時的とはいえ弾き飛ばしてしまう。
「キアランの友に負けるな。
我ら草原の民の結束は竜の鱗よりも強固だと天地に誓ってここに宣言しよう」
数でこそワレス隊に劣るが、元々ハサルが率いていた傭兵たち……彼がサカより連れて来ていた遊牧民の戦友たちが粛々とワレスとは対照的な声音で宣言する。
しかし侮るなかれ。そこに込められた熱量はワレスと互角だ。
彼らもまた、第二の故郷と言えるほど慣れ親しんだこのキアランへの愛着があるのだ。
対してレナートは寡黙であった。彼は何も告げない。
ただ一回、拳で小さくハサルの胸をノックするように叩いただけだ。
それだけで彼は色々と悟ったのだろう。頷いて答えた。
「見事でした。貴方たちの忠誠と決意、このマデリンが確かに受け取りました」
突如響く凛とした声が熱の渦巻く場を引き締める。
この声の主をこの場の全員が知っているからだ。
この声の主こそ彼らが命を賭ける理由である。
物陰から現れたのはやはりというべきかマデリンだ。
彼女は普通貴族の一人娘と言われて想像するようなドレスなどを羽織ってはいなかった。
動きやすさを重視した軽装の鎧と、男性が履くようなズボンとブーツだ。
長く艶やかな髪の毛は後ろで一括りにしており、それは彼女が歩く度にふわふわと揺れている。
張りつめた糸の様な緊張と冷たさと、次代の領主としての覇気を纏った彼女はレナートから見ても恐ろしい程に美しかった。
「準備は出来ているようだな。予定より多少は早まるが、構わんか」
遅れてマデリンの後ろから歩を進めてくるのはハウゼンだ。
彼は一度だけハサルを見つめると、直ぐにワレス、レナートへと視線を向け、次にこの場にいる兵士全員へと顔を向けた。
「先の宣誓、大儀である。
我がキアランの名を背負い、何に恥じることなくアラフェンに向かうがよい。キアランの誇りたちよ。
リキア同盟の同胞たちは勇者たちを敬意と共に迎え入れるであろう」
その言葉にワレスのみならず全ての兵士たちの眼が輝く。
自分たちは勇者だという自負が彼らを満たす。
他の誰でもない、キアランの頂点に立つ男が彼らの誇りと勇気を保障してくれたのだ。
ハウゼン様はやはり他の領主とは違う。
この御方こそオスティア候さえも凌ぎ得る最高の君主だと各々が実感する。
「暫しの別れだ、マデリンよ。身体に気を付けていくのだぞ。
少しでも危険だと感じたらすぐにキアランに戻って来ても構わんからな。
この様な文などお前に比べれば何の価値もない」
厳重に封を施された書簡をマデリンに手渡すと、ハウゼンは領主ではなく父としての顔でマデリンに語り掛ける。
オスティア候に届ける予定のキアラン候としての重要書類を下らない物と言い放つ父親に娘は苦笑した。
「お父様、心配しないで。私には最高の勇者たちがついているもの。
キアランの英雄たちが私を守ってくれます。何も怖くなんてないわ。無事、この書簡を盟主にお渡ししてきます」
マデリンとハウゼンが一度抱擁し離れると、ハウゼンはハサルを真っ向から見つめて口を開く。
紡がれた言葉は小さく一言だった。
「娘を頼んだぞ」
それにハサルがどう答えたかは語るまでもないだろう。
当初予定されていたよりも、マデリン一行の旅は順調に進む事が出来ていた。
天気は快晴。遠くから聞こえる鳥の鳴き声。実りの季節が近いのか所々に花が咲き乱れる道を行くさまは遠征というよりは遠足であった。
暑すぎも寒すぎもない程ほどの気温は人の体力に最も優しく、壮絶な覚悟を決めていた勇者たちは肩透かしを食らったような気分にさえなっていた。
しかし本当の意味で気を抜いている者は誰もいない。いつ、どこで、何が起こるか分からないのだ。
特にレナートはどれだけ周囲が安全に見えていても決して周囲への警戒を怠ることはない。
かつての取り返しのつかない過ちから学んだ彼は二度と同じことを繰り返してなるものかと躍起になっていたのだ。
キアランからアラフェンの道のりは短いようでいて長い。
リキアの南部に位置するキアランからアラフェンに向かうにはまずコミンテルンとの決戦の場となったカートレーを抜け、次にラウスの端を通る必要がある。
最後にフェレを通り抜け、暫くするとベルンと隣接する北東部アラフェンに到着ということになるのだ。
そして彼らは予定よりも半日以上早くキアラン領を抜け、カートレー領に入ることができていた。
この地のカートレー候もキアラン候と同じような理由でどうやらアラフェンには代理を送るつもりだったらしく、マデリン一行は軽い挨拶を済ませると先を急ぐ。
カートレー候の忙しさはある意味ではハウゼンを超えるのだろうと察したマデリンは彼からのおもてなしを礼儀深く断ると、軽い支援だけを受けとって出立したのだ。
そして……彼らは小さな一つの村を発見することになる。
マデリン一行が宿を求めて立ち寄ったそこはのどかな村だった。
精々30人程度がひっそりと住んでいるような穏やかな雰囲気の村だ。
「キアラン候の娘、マデリンと申します。
我が父より命を受けアラフェンに向かう道中です。
もしよろしければ寝床などを提供してはいただけませんでしょうか。
もちろん、相応の代価はお支払いいたします」
皆を代表してマデリンは馬車を降り、出迎えに来ていた村長に丁寧な態度で頭を下げて宿の使用などを申し込む。
すると老齢の村長は穏やかなを笑顔を浮かべ、レナートやハサルから見ても嘘一つ存在しない善意を見せた。
「いえいえ、侯爵様のご息女からお金などとんでもありません!
何もない村ですが、ゆっくりしていって下さい。
今は使ってない家屋の準備などに直ぐに取り掛かりますので暫しお待ちを」
僅かに曲がり始めた腰にムチを入れながら動き出そうとする老人を見やり、ワレスがたまらず声を上げる。
「おぉ、かたじけない!!
不肖このワレス、力仕事ならばお任せあれ!! 村長殿は指示を行うだけでよいですぞ!」
その後、はっとした様子でワレスはマデリンを見る。
主である彼女の命令がないというのに勝手に動いてしまったからだ。
そんな彼の馬鹿真面目さと真っ直ぐさにマデリンは微笑んで答える。
「命令します、騎士ワレス、そして我が頼もしき勇者たち、村の方々を助けなさい」
鈴の様な声でマデリンが命を飛ばせば、続く様にハサルが鋭く部下たちに言葉を贈る。
「我らもだ。我らサカの民は恩を決して忘れない。
我らを迎え入れてくれる善き人々を手助けしろ」
兵士達が次々と馬車を降り、村人たちに駆け寄ると穏やかに談笑を始め、次に彼らに案内されて消えて行く。
レナートも同じように数歩進むと、彼は一度立ち止まって村を見渡す。
いい村だ。静かで、平和で、素朴な。
だが、何か違和感がある。しかし危険は……恐らくない。
村人たちの様子に何も変な所はなく、敵意や何か謀を企んでいる者特有の臭いもない。
レナートは頭を捻る。理解が出来ないのだ。直感は危機を伝えてはこない。
何も危なくないと十全に判断できるのに、妙な引っ掛かりを覚える。
この手の何とも言えぬ予感は……放ってはおけない彼は馬から降りてきたハサルに近寄りそっと耳打ちをする。
「何かがおかしい。だが俺には言葉には出来ん。……お前はどう見る?」
レナートの言葉にハサルは眼を瞑り、暫し瞑想するように考え込む。
彼もまたサカ人の独特の感性を以て得体のしれない物を認識し続けていたらしく、微かに肩を強張らせていた。
「匂いがする。……血? いや……違う。似ているが……」
「“血”か。少しだけ形になってきたぞ」
“血”という言葉を出され、レナートは得心が言った。
ここはまだカートレーだ。コミンテルンが決戦に選んだ場所だ。
そしてコミンテルンはリキアとベルンの境で産まれた組織で、ここも彼らの強力な勢力圏内だったはず。
特にこのような領主の力も余り及ばない、存在さえ多くの者が知らない様な辺境の村はあの理想狂い達の恰好の餌食だった。
更には近場で大規模な戦争があったというのに……ここは、何もなさすぎる。
「剣士さんにサカの方! カートレー名物の炙り肉に麦酒はお好きですか?
もしもまだ一度も食べたことがないのなら、病みつきになりますよ!」
本当に幸せそうな顔で、初老の男がレナートとハサルに話しかけてくる。
やはり彼には全くの悪意は感じられない。
それどころか、彼の身体からは焼いた肉と香辛料の匂いが漂っており、二人は腹を鳴らしそうになった。
二人は顔を見合わせ同時に頷く。とりあえず今は様子見だと。
その後、レナートとハサルが警戒したいたような事は全くなく、村人は総出でマデリンたちを出迎えた。
非常時にとっておいたらしい保存食や上等な酒までも引っ張り出し、盛大な宴さえ開催して。
食事や飲料に毒などが混ぜられているのかと注意を怠らない彼らを前に、村人たちは自らソレを率先して飲みだした。
一体何なんだと困惑する男二人を置いてきぼりにし、真っ赤に酔ったワレスが踊りだし大騒ぎを行う。
更にはそれに続いてよりにもよって顔を赤くしたマデリンまでもがハサルの手を引いた事によって二人の心配性な男たちの計画は完全に打ち砕かれる事になったのだ。
そして訪れた深夜。草木も眠る時間、月の灯りだけが周囲を照らす中、レナートは村の入り口に佇んでいた。
寝ずの番だ。余り酒を飲まなかった彼は眠気に襲われることなく、自ら志願してこの任についたのだ。
ワレスも以前宣言した通り、見た目ほどはよってなかったらしく、彼は屋内の警備に当たっている。
ハサルは村の裏口を中心に見張っており、今ここにいるのはレナート一人だけだ。
不意に、ざぁっと風もないのに森の木々が揺れた。
月が雲に隠され、僅かばかりの闇が周囲を覆いつくす。
少しだけ、周囲の温度が下がり……誰にも分らない内に“ソレ”が現れた。
“ソレ”はレナートの耳元で囁きかけた。
《やぁ───少し、話をしようじゃないか≫
「ッッ!!!」
背筋が凍るという表現どおり、顔を青ざめさせたレナートが瞬時に振り返り腰の短刀を一閃すると“ソレ”の「頭」は狙いたがわず刎ね飛ばされ転がった。
だというのに“ソレ”は何の敵意も見せず、困惑に襲われる男を前に自らのペースを崩さない。
塗り固められた「闇」が手の様に伸ばされると、人に当たる「頭部」を掴み、首の上に乗せて場所を整える。
それだけで“ソレ”は生首を癒着させた。
……月に掛かっていた雲が通り過ぎ、月光が“ソレ”を映し出す。
“ソレ”は闇だった。人の姿を取った混沌の権化だ。
夜よりも深く、濃い黒を濃縮させ、人の姿に固定したような姿だ。
人間と同じように四肢をもち、歩いている。
影法師に霧の様な不定形で構築された闇のローブを着こませればこんな姿になるだろう。
そして今空を舞い、くっ付けられた頭部は……最も理解に苦しむ。
レナートにはソレが人の顔に見えた。半分だけ闇から顔を覗かせる知的な男の顔に。
レナートにはソレが歪な骨に見えた。人と竜の頭蓋骨を混ぜ合わせて形作った骨の仮面に。
レナートにはソレが混沌に見えた。人の顔などもたず、ドロドロに溶けた真っ黒な溶岩の様な混沌に。
見ているだけで引き込まれそうな存在感。
害意など全く感じない。
そして最も恐ろしいのは……恐ろしさが薄れていくということだ。
こんな明らかな異形だというのに、この眼前の存在相手に全く警戒心が呼び起こされないのだ。
何もかもが麻痺している。レナートは夢と現の狭間に自らが放り込まれたような気がした。
「何だ、おま、えは……」
掠れたような声でレナートが問えば“ソレ”は朗らかに答える。
友人と談笑する様に影は男に言い聞かせた。
《私は君との友好を望む者だ。誓って君の敵ではない≫
まぁ、嘘だと思うなら仲間を呼んでも構わないよと“ソレ”は続ける。
レナートは逡巡すると、武器をしまう。
首を落しても平然としている怪物相手に自分も含め、全員でかかった所でどうしようもないと悟ったのだ。
《おや。まさか信じてくれるとは≫
「……俺に何の用だ」
ん? と“ソレ”は首を傾げる。
自分とレナートの間に存在する食い違いを発見したようだった。
《逆だよ。君が私に用事があるはずだ。
君の欲しいモノは私しかもっていない。そして私は君にそれを与えることができる≫
何? とレナートが聞き返そうとすれば“ソレ”はくるりと踊る様に一回転し、村を眺め出す。
感慨深げな様子さえ見せる異形にレナートは言葉に詰まる。
《カルテ村……住人は33人。リキア同盟カートレー地方に点在する小さな村の一つ≫
朗々と語りだす。この村の事を。
柔らかく、丁寧で温かみさある声だった。
《この村の人々は非常に仲睦まじく、困ったことがあれば団結し、あらゆる災難を乗り越えてきた≫
歩き出す。
踵を返し、村を出て、街道から離れた森の中に滑る様に歩を進める。
僅かばかりに開拓された後の残る道を。
湿った泥や土、散乱した枝などに全く足を取られることなく、むしろ“ソレ”の進む箇所全てが再度補整された道となった。
レナートは異形の広げた道を辿り、後を追った。
《それは突然起こった。
リキア同盟との決戦を控えさせたコミンテルンは村を襲ったのだ。
物資を奪う為……ではない、彼らは既に多くを持っていて、それ以上は邪魔にしかならない≫
鬱蒼とした茂みを抜け、やがて開けた場所に出る。
そこにあったのは一本の巨大な木……。
よく見れば木には何かが複数括り付けられていた。
暗くてよく見えないが、数は……30個ほどだろうか。
《理由などない。
言わば前哨戦、景気づけと言った所か。
村人たちは抵抗したが、軍隊と平民では勝負になるはずもない。
コミンテルンは殺した彼らを“飾り付け“に使った≫
異形が指の先に光を灯し、大樹を照らす。
光に晒されたものを見てレナートは息を呑んだ。
「馬鹿な……ありえない……。先ほどまで、確かに………!」
腐敗が始まっていた。
虫が集っていた。
骨が見えていた。
そもそも原型をとどめていないものがあった。
全員の顔はもはや崩れていた。
しかし隠しきれない無念が浮かんでいた。
腐汁の涙を流しているものがいた。
彼らはつい先ほどまで、レナート達をもてなしていた村人たちであった。
物音。異形が創った道を通って誰かがやってきた。
レナートが悲鳴を上げそうになれば、そこに居たのは村長だ。
“飾り”にされた村長の顔は白骨を覗かせている。
だが、ここにいる彼の顔は生気をもった人間の顔だ。
死者が、生きている?
復活、している?
レナートの頭は混乱で満たされていた。
かつて【バサーク】という魔法を受けた時にも匹敵するほど、思考がまとまらない。
「あんたたちは……どうして……」
《もういいのか? どちらにせよ既に限界だが》
「…………………」
レナートの問いには答えず、村長は“ソレ”に対して頷いた。
何も浮かばない真っ青な顔でありながら、何処か満足気さえ感じる表情であった。
瞬間、村長の身体が崩れた。体は灰とも錆ともつかない粉になる風に撒かれ散っていく。
そんな残骸の中から光が飛び出すと“闇”に向かって飛翔し、彼が纏う闇の裾の中に滑り込む。
更に村の方角から幾つもの光が誘蛾灯に呑まれる羽虫の様に“闇”に向かって堕ちていく。
一度でも“闇”の引力の囚われた者は決して抜け出せない、抜け出さない。
闇は心地よい眠りを与えてくれる。
抱きしめてくれる。
労わり、耳障りのよい子守唄を唱えてくれる……。
駄目だ。いってはいけない。そこにだけは。
レナートは叫びそうになりながら必死にこらえて居た。
自分は勇者ではないと言い聞かせながら。
ただ、この眼の前の存在の邪魔をしてはいけないとだけ本能で察していた。
《彼らを忘れるな。彼ら33名はカルテ村の人間たち。今宵お前たちを持て成したリキアの民たちだ》
全ての生命の光を食んだ“闇”はレナートに向けて語り掛ける。
父が息子をしつけるような口調で。
「……………ぁぁ………」
余りに多くの出来事を短期間で経験したレナートは混乱の極みにいた。
眼の前の化け物の存在もそうだが、何より、何より、何より……カルテ村の人々は死んでいた?
死んでいた者を生者にしていた?
死者を生者に?
死を生に?
“闇”が意識を少しだけ飾りつけられた大樹に向ければ、悪趣味極まりない樹木は黒い炎に包まれる。
腐敗臭を上げながら全ては黒と灰に帰っていき、数瞬の内にあらゆる全ては泡沫の様に弾けて消えた。
異形は呼吸さえ忘れた様子で自身を見つめるレナートに向き合い、教師の様に一から説明を始める。
彼はまるで年長者の様に振る舞い、レナートの抱いたであろう疑問を一つ一つ丹念にほぐし出す。
《さて、話を戻そう。
まず前提として私が君を呼んだのではない。
君が私を求めたのだ。その誰よりも深い喪失の傷の痛み、よく判るとも。
だから、あの戦場で君は今や朧な存在となった私を認識することが出来た》
「………」
異形は直立不動のまま、淡々と自らの思想を語りだす。
それは化け物としか形容できない彼から発せられているとは思えない程人間じみたものだった。
《この世界は喪失に満ちている。どこの国でも、ちっぽけなモノの為に死が溢れかえっている。
命の尊さを謳いながらも一方では血で血を洗い、涙で川を作り、絶望だけがうず高く積まれ、その下にある屍の海を見ようともしていない》
《“私は、私だ。他人の痛みなど、私は感じない。他人の悲しみなど、私は感じない”
そうだろうな、同じではないから、自分ではないから他人の事などどうでもいいと思える。思えてしまう》
自問自答するように“闇”は滔々と言葉を吐き続ける。レナートの意見など欠片も考慮しようとは思っていないのだろう。
暫く一方的に会話を続けていた“闇”は 「ん?」 と人間の様に首を傾げた。
どうやら当初の予定よりも多く話続けてしまった事に今更気づいたのだろう。
《失礼。昔からの悪い癖でね》
「結局お前は俺に何の用がある」
レナートの声はガラガラであった。
理解不能に理解不能を重ねた状況にあって、何とか理性を振り絞り、言葉として整理する単語の羅列を吐いた彼の努力は称賛されるべきであろう。
《では率直に言ってしまおう》
異形は……この哀れで臆病な男が本心で最も望んでいるであろう言葉を装飾なしで投げかけることにした。
《私は君の望みを叶える事ができる。そして君の望みを叶えるという事は、私の願いを叶えるも同義》
一呼吸おいて異形は……飴の様に甘い取引を口にした。
─────私のちょっとしたお願いを聞いてくれるならば、君の掛け替えのない友を取り戻してあげよう。
闇の向こう側で「友」がレナートを見つめていた。
あとがき
テンポよく物語を進めれば進める程不安になるこの何とも言えぬ感じ……。
少し長くなりましたが、あと1話か2話で963は終わりそうです。
もう間もなく烈火の本編開始と来て正直ドキドキしています。