太陽が、昇る。ベルン地方に連なる山脈より、その先に広がる広大な海より、ずっと彼方から朝日が顔を覗かせ、天に昇っていく。
朝陽の眩くも神々しい光が窓から射しこんできて、思わずナーガはほんの僅かにその鋭い眼を細めた。
しかし、一瞬後にはまた手元の書類に目を戻す。そして素早く万年筆で必要な事柄を書き込む。
次の書類は? と探すが、何もない。ただ執務机の右端には千枚ほどの処理が済んだ書類がジャンルごとに分けられ、高く積まれている。
気がつけば全ての書類のチェックは完全に終わっていた。
ふと、何気なく視線を向けると執務を始める時につけておいた暖炉の火は完全に消えて、白い煙が小さく上がっている。
それらを興味なさそうに少しの時間だけ見つめる。
おもむろに左手を伸ばし、机の端に置いてある呼び鈴をナーガは軽く鳴らした。
キンキンと二回、金属的な甲高い音が響く。
2、3分ほどして、部屋の扉がトントンと、規則正しくノックされる。
「入れ」
いつものように無駄を廃し、簡潔に一言。
木製の扉が音もなく開かれ、小さな布擦れの音と共に黒いローブを纏った一人の男が静かに執務室に入ってくる。
闇のように黒すぎる髪と不気味に輝く蝙蝠を連想させる金色の瞳が特徴的な男だった。
男はナーガの執務机の前までくると、うやうやしく膝をつき、頭を垂れ、忠誠の意を表す。
「何でしょうか? 長」
ナーガ以上の無機質な声。ここに彼の息子のイデアがいたら背筋が凍るほどの「感情」という物がどこまでも、ナーガ以上に欠落した声。
否。既にそれはもはや声と呼べるものではない。男の口から出たのは言葉に限りなく近い「音」であった。
不気味な、人の姿をした動く、本当の意味での【人形】が、そこにはいた。
「持っていけ」
ナーガも相変わらずの無機質な「声」でそう言って、片手で、【人形】に書類の山を示した。
「ただちに」
頭で深く一礼した男が手を伸ばすと、魔術を発動させ、書類の山を浮き上がらせる。
男が立ち上がり、頭を下げながら後ろ歩きで扉へと向かう。書類がフワフワとその後を追う。
「失礼いたします」
そう言ってもう一度深く礼をすると、男は扉から出て行った。書類がそれに続く。
そして最後の書類の山が部屋から出ると、男が来たとき時と同じように音もなく木製の扉は閉まった。
再び1人になったナーガが何気なく窓の外の太陽に視線を送る。
まだ、2割も地平線から上りきっておらず、空は夜を脱しきっておらず暗い。見ればまだ蒼い月が太陽以上の存在を空に示している。
恐らく、娘と息子はまだ起きてはいないだろう。あの二人は早起きだが、幾ら何でも今の時間は早すぎる。
じわじわと苛立つ程に遅いが、確実に全景を表そうとする太陽を見て、ふと、どうでもいいことだが、かつて竜族の魔道士の1人が『世界は丸く、回転している』と提唱した時を思い出す。
当初は一笑に伏したが、実際に山よりも高く、雲を抜かすまで竜の翼で飛んでいったら、瞳に映った世界が丸かったと知った時を。
……本当に今はどうでもいいことだが
少しの間だけ列火のように赤い太陽を見つめ、一晩中書類と向き合って、硬直した気分を入れ替える。
ゆっくりと玉座から立ち上がる、腰の鞘に入れている、始祖竜そのものとも言える『覇者の剣』がカチャッと金属質な音を立てた。
魔術を発動させ、風の流れ、温度、雲の位置等を「見る」その結果は、今日一日ベルン地方は南部も北部も快晴。
次に彼の聡明な頭脳は今日一日の計画を整理し始める。
その内、娘と息子に関わる事柄は食事と湯浴みを除けば一つ。今日は昨日と違い、歴史などの授業はない。
授業はない、が。やることは一つだけある。
それは以前ナーガがイデアに後日行うと言ったこと。
そう、以前ごたごたが起きて出来なかったイデアの『竜化』である。人の姿を取るようになった竜族にとっての『竜化』は人にとっての歩行訓練に等しいものだ。
同時にその時、イデアがナーガに問いかけてきた言葉も胸の中で復活し、彼の脳内で望んでもいないのに再生される。
馬鹿馬鹿しいと、軽く頭を振って、子供の戯言を頭と腹から追い払う。
しかし、幾ら振り払おうとしても、あの時の息子の顔が、声が、あの口調が、脳裏に焼きついて中々離れない。
まるで質の悪い呪詛のようにナーガに付きまとう。
いや、これは魔術による呪詛よりも数段性質が悪い。呪詛ならば術者を見つけ出して八つ裂きにすればいいだけだが、間違っても自身の子は殺せない。
あの子達には自分がいなくなった後、自分の後を継いでもらわなければならないのだから。
やがて、彼は諦めたように一つ小さな溜め息を吐く。
小さく手を振る。
部屋の隅から純白に金で刺繍が施されたマントが独りでに飛んで来て、彼の前で静止する。ゆったりとした動作でそれを身に纏う。
「たまには、歩くのも悪くない」
誰に言うでもなく、自分だけの部屋で1人呟く。
そして今日の朝、自身の子に与える朝食を自分自身の眼で確かめるため、珍しく転移の術を使わず、扉を使い部屋から出て行った。
「こ、これって……」
いつもの様にナーガが持ってきた朝食を見て、イデアは震える声で何とか言葉を発した。
歯が脳の意思を無視して小さく痙攣し、カチカチと耳障りな音を立て、その色違いの眼元にはうっすらと涙さえ浮かんでいる。
やはり気に入らなかったか? と、ナーガは思った。まぁ無理もない、今回の料理は少々特殊な物なのだから。子供にはこの料理の味は少し分からないかもしれない。
かくいう自分は大好物だが……。
気を取り直してナーガは珍しい料理を出された実の息子、イデアの反応をいつもの様にとりあえずは「観察」することにした。
「気に入らぬか?」
別のものを用意しようと、イデアの分の料理をのせた盆を浮かばせるべく、手を伸ばそうとするが。
「いい! 絶対に!! 全部食べる!!!」
今までで最大の声で叫び、イデアが勢いよく盆をつかみ文字通り死守する。その余りの気迫に隣に座ってまだ寝ぼけていたイドゥンがビクッと肩を震わせ、まだ少し残っていた眠気をはじき飛ばした。
その返事に、僅かだがナーガの眼が細められた。
「そうか」
ナーガの返答は相変わらず淡々と無駄を排したものだ。ゆったりと伸ばしかけた手を再びローブの中に戻す。
取られない事に安堵したイデアが改めて盆の上に眼を移し、その上を凝視する。
盆の上に乗っている皿の一つは、独特の形をしている。まず色が黒い、それもただ黒いのではなく、テカテカト綺麗な光沢を放つ上質な漆黒だ。
そして次に眼に入るのはその独特な皿の形状だ、しかしそれは皿と呼ぶには少々底が深すぎる。それは■■■の故郷で“お椀”と呼ばれる食器であった。
そしてその中には薄い茶色のスープが入っており、湯気をほかほかと昇らせている。俗に“味噌汁”と呼ばれるスープ。
その隣の普通の皿の上にはこれまた仄かな湯気を立ち上らせている白い粒――――炊き立てのご飯が山のように盛られている。
もう一つの少し大きな皿には今朝「殿」に持って来られ、塩焼きにされた海に生息する食用の魚――――脂のよく乗ったサンマが二匹横たわっている。
盆の上に乗ったそれらを見るイデアの眼は涙ぐんでいた。何故これがここに? 等の様々な疑問がイデアの中で湧き上るが、今はそんな些細なことは気にはならなかった。
ただ、もう食べれないと半ば諦めていた【故郷】の料理が食べれる。それだけで満足だった。
そして駄目もとでこの料理を食べる際によく使った食器の有無をこれらを持ってきたナーガに聞く。
「箸は、ないの……?」
イデアが潤んだ瞳でナーガに問いかける。いや、問うというよりは懇願するといったほうが正解か。
「何だ? それは」
ナーガが首をほんの少しだけ、左に傾けていつも通り抑揚なく簡単に答える。
「…だよなぁ……」
それを聞いたイデアがあからさまに落胆した。特徴的な耳がペタンと伏せ、彼の内面を的確に現す。
やはり箸はないか、、、日本食が出て来ただけに、少しだけ期待したイデアだったのでショックはそれなりに大きかった。
「……へんなの……」
食事のメニューではなく、食器に対して心底落胆するイデアを彼の「姉」は不思議そうに見つめていた。そして自分の分の盆に置かれた特徴的な皿と料理に眼を移す。暖かくて、今日も美味しそうだ。
イデアが気を取り直して、顔を上げた。
両手を顔の前にピッタリと合わせ、イデアはいつも通りに、食事の前に必ず言わなければならないと以前の世界で教育された言葉を、別世界エレブでもごく普通に口にする。
即ち、「いただきます」と。
イドゥンもそれに習い、同じように手を合わせ「いただきます」と口にした。食べ物を食べるときは食材に対する感謝を表してから食べるんだ、と、イドゥンはイデアに教わっていたからだ。
ナーガも何となく、手を合わせる動作と食事に向ける言葉でこの行為の意味を大体は直感で理解していたので、口を挟むようなことはしなかった。
「「ごちそうさまでした」」
双子が鏡合わせのように全く同じタイミングで、手を合わせる動作をし、同じ言葉を口にする。二人の声が完璧に重なり、震えているような独特の音となる。
朝食時間の終了の合図であった。
黙って二人の食事を見ていたナーガが指をローブの内でほんの少しだけ動かし、二人の盆を宙に浮かせた。そして転移の術を発動させ、いつもの様に洗浄のため、持って帰ろうとする。
と、イデアがその背中に恐る恐る声をかけた。
「今日の、ご飯って、一体……?」
感動の余り、今だ混乱しきったイデアの頭ではそう口にするのが精一杯だった。
それをナーガがどう解釈したのかは知らないが、一瞬だけ、確かに彼の両眼はまた細められる。
ナーガがベットの端に腰掛けているイドゥンとイデアにゆったりと体を向けた。
「まずは、この米だが」
おもむろに盆の上のご飯が盛ってあった黒い“お椀”を術を使わず、直接その白い手でそっと掴み、その中に残った僅かな炊かれた米を示す。
残したな? と、イデアが隣のイドゥンに一瞬だけだが、鋭く厳しい眼を向けた。
「この米は、生物の生命の源である【エーギル】を操作することによって、元来の種にはない独特の粘りっこさを持っており……」
(あ~~~~~~~~~~~~~~~)
なにやら語り始めたナーガにイデアは内心頭を抱えた。違う、聞きたいのはそういうことじゃないんだと。聞きたいのはもっと、こう、日本関係とか、そういう……。
だが、この男の言葉を途中でぶった切ろうとは思わない。理由は簡単。怖いからだ。何をされるかわかったもんじゃない。
するといきなり、今まで黙って、眠たそうな眼で物事を静観していたイドゥンが片手を挙手した。その無謀な行為(イデア視点)にイデアの心臓が跳ね上がる。
ナーガが言葉を一旦切り、どうした? と、聞く。
「【エーギル】って、なに……?」
「「あ………」」
イデアとナーガが何かに気がついたような、それでいてどこか間抜けな声を上げた。
イデアは今まで何度も聞いていた【エーギル】という物について実は何も知らなかった事に、ナーガは二人にまだ詳しく教えていないことに初めて気付いてだ。
暫し、部屋に言葉では言い表せない気まずい雰囲気が降りる。妙に外で鳴いている鳥の声が部屋に響く。
こっほん、と、気まずい場をリセットするかのようにナーガが音を立てて咳払いをした。
数秒の沈黙のうち、ナーガが口火を切った。
「【エーギル】というのは、言ってしまえば生命の持つ力そのものだ」
イドゥンとイデア、双子が新しい知識を得るため、黙ってその長い耳を傾ける。
彼らの「父」は我が子に新たな知識を授けるため、そのまま語り続ける。
「人間の魔道士は魔力を用いて術を行使するが、竜は主にこの【エーギル】を消費して術や力を行使する」
「魔力とは、どう違うの?」
イデアが心臓に緊張という名の負担をかけながら、疑問をぶつけた。聞かれた彼の「父」ナーガが少しだけ小さく頷く。
「【エーギル】は、魔力よりも更に根源的な力、もっと言ってしまえば【エーギル】こそが魔力の素。竜族のブレスはこの【エーギル】を破壊に応用した最たるものと言える」
そうなんだ、内心イデアが【エーギル】の概要に成る程と頷く。同時に自分はどれぐらいの量をもってるんだろうと素朴な疑問が頭に浮かんだ。
ナーガは尚もまるで教師のように二人に話して聞かせる。
「そして、この【エーギル】こそが、人と竜、更には【神竜族】と他の竜族を決定的に分けるものではあるのだが―――――――それは、次の機会に詳しく教授しよう」
そう締めくくり、テーブルの上に置いた盆を今度は手を使わず、術を用いて持ち上げる。
そして、ところで、だ、とじいっと自分を見つめる双子―――正確にはイデアに言った。
今日の予定を。危うく【エーギル】の件で忘れそうになっていたが、無事に思い出せた事柄を。
「……今日はイデア、先日いったようにお前の【竜化】の練習を行う。次に我が来るまでに外出の用意をしておけ」
「え……?」
イデアが素っ頓狂な声を出した。【竜化】の仕方など分からないという、焦りがありありと篭もった声であった。
彼の頭の中で、【竜化】が上手く出来ず、ナーガを怒らせる最悪の未来が嫌というほど鮮明に再生され、彼は、絶望した。
頭を抱えてベットに倒れこみ、右に左にごろごろと転がって、小さく「どうしよう」と口から何度も吐きながら悶える。
そんなイデアに小さく、微かな声で聞こえているかどうかは分からないが、ナーガが呟く。
「………朝食が気にいったのならば、明日も持ってこよう」
何やら、慌てふためくイデアにはまるで届いていないようだが、一応言っておく。
それだけを言い残し、イデアがおろおろと慌てふためき、イドゥンがそれに気を取られている間に、今度こそ転移で音も立てず、そっと、逃げるように姿を消した。
「うぅぅぅ、ああぁぁぁぁぁぁ……」
ナーガが消え、「姉」ことイドゥンと二人だけになった部屋に、イデアのどこまでも深く、暗い、悲痛な声が満ちた。
枕に頭を押し付けて、視界を閉ざし、同時に現実から逃亡を図る。
久しぶりに懐かしき故郷の日本食を食べる事が出来た喜びは、既に遥か彼方へとすっ飛んでいた。
今、彼の頭の中を占めているのはナーガに対する、もっと言うなら彼を怒らせる事に対する恐怖だ。
「イデア……?」
悶える弟に「姉」、イドゥンが声を掛けるが、まるで聞こえていない。否、聞く余裕が欠片もない。
(マズイ、マズイ、マズイ、マズイ――――――!!!!!)
イデアはこの世界に来て、最大の焦燥に駆られていた。下手をすれば祭壇で転生した自分の変わり果てた姿を直視したときよりも気が動転しているかもしれない。
何故ならば、この世界に竜族として転生したのは良いが、あの時、あの祭壇で人の姿にされてから一度も竜の姿になどなったことはないからだ。
もっと言うならば竜としての力を使った事もまだ一度もない。
当然、竜の姿への戻り方など知らない。いや、正確には『戻る感覚が分からない』のだ。
そして、もしもナーガにその事がばれたら、最悪■されるのではないかと思う程にイデアはナーガを恐れていた。
実際、ナーガがイデアに危害を加える事自体がありえないのだが、イデアはそう思い込んでいた。
枕に頭を押し込んでぶつぶつと呟き、数時間後に訪れるであろう自身の破滅の恐怖と戦う。
「だいじょうぶ、だよ」
怯えきった彼の内心を表すように、ペタンと畳まれた彼の尖耳にやけにはっきりと澄み切った美しい、かつ大分聞きなれた声が届く。
イデアが少しだけ枕に埋めていた顔を上げて、声の発信源に紅い方の眼を向ける。
「……何が?」
イデアが枕に密着した口からふごふごと篭もった声を出す。そんな実の「弟」に「姉」は優しく微笑みながら語りかける。
「お父さんは、怒らない、よ……?」
イデアのルビーのような紅い眼が緩やかに細められた。
怒らない? お父さん? あの男のことか……? いや、そもそもなんでこの子はこうも的確に、まるで俺の心を読んだような……。
今度は上手く言葉にできない疑問が湧き出る。
そんなイデアの考えを読んだようにまた優しくイドゥンは微笑んだ。
「だって、わたしは、イデアのお姉さんだから」
イデアがきょとんと、呆けた。何回か紅い眼を瞬かせ、「姉」の顔を凝視する。
そのまま一秒。
二秒。
三秒。
四秒。
五秒。
「はぁ~~~~~~~~~~~~っ!!!」
「ひゃっ!?」
がばっと勢いよく、跳ねるように起き上がり、大きく背伸びをしながら巨大な溜め息を天蓋に向けて放出する。
「ああ分かったよ!! やってやるよ!!! 潰されないように気をつけろよ、あの耳長おじさんがぁぁぁぁああ!!!!!」
その体勢のまま吼えた、両手を天に伸ばし腹の底から咆哮した。
そのまま叫び終わった後も身体を伸ばしきった体勢でいたが、5秒ほどで疲れたのかベットに力なく背から倒れこんだ。
もぞもぞと懐に手を伸ばし、透き通った金色の石、心なしか以前よりも大きくなったようにも見えるソレ――『竜石』を取り出し、眼前に掲げる。
「……本当に、怒られないかな?」
「絶対に、だいじょうぶだよ」
「本当に…?」
イドゥンが寝そべるイデアの手を握った。不思議と安心できる温もりがイデアに伝わる。
「だいじょうぶだよ。だって、お父さんは優しいもん」
イデアにはそうは思えないが、この子がそこまで言うならば、少しだけナーガを見る眼を変えてもいいかな? と、思った。
――――――何時の間にか、覚悟は決まっていた。
あとがき
ようやく、更新できた……。
20日までに更新したいと言っておきながら、こんなに遅れるとは……。