言うまでもないことではあるが、砂漠の日差しは強い。それこそ殺人的と言ってもいいほどに。
砂漠を構築するのは黄色い海と見紛う程に大量の砂と岩石の数々だ。
それら全ての要因は全ての生物の生命力をガリガリと削り取り、死という破滅的な終わりに近づける自然の持つ死神の鎌といえる。
ミスル半島のナバタはそういう場所だ。
太陽の光は残酷で、容赦が無く、差別しない。
真っ赤で鮮やかな太陽は大地に恵みなどを齎すが、それと同時にどうしようもない死を運んでくることもある。
熱せられた岩の上で肉が焼けると言えば、その日差しが如何に凶悪なものであるか大体の想像は付くだろう。
だが、“そこ”は比較的と言える程度だが、砂の海に比べて絶対的に涼しかった。
木々が犇めき合い、緑色のカーテンを天と地の間に掛けられた場所。
オアシスの周囲に作り上げられた森の中は外部の砂と岩の海よりも現実的にも、そして気分的にも涼しかった。
拷問にも使えそうな熱せられた砂とは違う、ひんやりとした確かな冷気と、生命を感じられる土の鼓動に近い物をイデアは感じた。
同時にこの今自分が身を任せている大地がどれほどに生命力――【エーギル】に満ち溢れているのかを彼は神竜の能力で敏感に理解する。
だが、それがどうしたというのだ。それで今の自分の置かれた状況が何か好転するというのか?
答えは否だ。間違っても何も変わらない。自分の中の苛立ちも、黒い感情も、そして違和感も、何も消えなどしない。
そも、イドゥンと離れてしまった時点でイデアの中でバランスの取れていた何かは崩れてしまったのだから。
イデアにとってイドゥンという存在は太陽と同じなのだ。もしくは夜空の月といったところ。
居て当然な存在。自分の隣で無邪気に笑ってくれていた彼女にどれほど救われたことか。
彼女が何かドジを踏み、涙眼になる姿にどれほど愛おしさを感じたか。彼女が母親の様に抱きしめてくれた時、どれほど安堵を得たことか。
一挙手、一動作、その全てがイデアに影響を与えたと言っても過言ではない。
そもそもの話、彼女が居なければイデアは早々とエレブで生きていく事を諦め、僅かな希望と膨大な絶望を抱いたまま即座に自殺していただろう。
あの無表情極まりない、人の感情の欠片もないナーガと暮らしていくなど絶対にごめんだ。
例え、金を山の様に積まれようが、世界中の美女を抱かせてやると言われても、イデアは絶対に引き受けないだろう。
…………。
ナーガ……。
彼は……今頃はどこか別の世界に居るのだろうか? 死んでくれていると嬉しい。イデアはそう思わずにはいられなかった。
話を戻そう。
今の話題は何故イデアがこんなオアシスの真ん中で力なく倒れているかだ。白い服はボロボロで、かつては滑らかだった美しい金髪もごわごわ。
現在の彼は最強の超越種である神竜というよりは、食料などが底をついて行き倒れた貧しい浪人のようだ。
その紅と蒼の眼には大よそ生気というものは感じられない。だが、見る者が見れば、
その奥深くに闇系の上級魔法【ノスフェラート】を連想させるほどに冷たく、黒く、魂を啜り、憎悪と狂気に凝り固まった炎が燃えているのが判るだろう。
その憎悪が誰に向かっていて、その狂気が何処から発生しているのかはイデア本人にもあまり判ってなどいないが。ナーガに向けていると、本人だけは思っていた。
だが、そんなイデアは今は倒れていた。力なく、情けなく、ボロボロの格好で。
ぐぎゅるるるると彼の腹が情けなく鳴いた。そう、イデアは空腹で動けないのだ。
この里に来て1週間程度になるが、まともに食事はおろか、水さえも飲んでない彼がいつも通りの速度で動けるはずがなかった。
まだまだイデアはそこまで成長していないのだ。莫大なエーギルを無から創造できるレベルに彼はまだ到達していない。
そも、転移の術が使えない彼では、どんな風に逃げても連れ戻されるの確定事項と言ってもいいのだが。
事実、この前にも数回程逃げ出そうとしたイデアは、アンナに気絶させられ、自室に連れ戻されている。
【スリープ】は本当に卑怯だとイデアは思っている。注ぎ込んだ魔力を眠気に変えて対象に掛けるとか外道だ。
……本当は、アンナはイデアを一回眠らせるのに、かなりの量の魔力を持っていかれているのだが、イデアはそんなこと知るわけがない。
神竜の魔術に対する凄まじい抵抗力には苦労させられるそうな。
「あー…………」
仰向けに根っ転がり、視界に映る太陽をイデアが憎憎しげに睨みつける。自分の邪魔をするなと。
そもそもイデアが何故、このような無謀極まりない脱走を行ったか?
臆病で、卑屈で、愚かだが、現実を受け入れ、それに適応する能力を持っている彼が何故こんな事をしたか?
その理由は何なのだろうか?
──イドゥンの鱗の色が、変わったから。 美しくも、悲しい紫色に。
いつもの様にイドゥンを唯一感じられる鱗を呆然と眺めていたイデアの目の前で、ソレは変化したのだ。
途端、イデアは恐怖を感じた。そして自分の中に救っていた違和感が一気に膨れあがっていくのを感じた。
何かイドゥンの身にとてもよくない事が起きている。彼は本能的にソレを悟ったのだ。
イデアは1も2もなく動いた。恐らく彼女が居るであろう『殿』に向かうべく。
だが結果はこのとおりだ。
普段は海の様に体内を満たしていた己の【エーギル】が今は小さな水溜り程度にまで減っているのをイデアは竜としての能力で知っていた。
エーギルとは魂そのものであり、生命力であり、そして精神力でもある。ナーガはそう言っていた。魔力を産み出す根源的な力だと。
ならば、今の自分はどうだろうか? 精神も不安定で、食事も取らず、やるべき事もせず、違和感と倦怠感、そして憎悪という蟲に内部から蝕まれている自分は。
最悪としか言いようが無い。こんな状態で満足に力を振るえるはずがあるわけない。
必然としか言いようのない結果なのだ。今の自分の惨めな惨状は。
「………うっ…うぅう……あぁああ……」
イデアが声を押し殺してまた泣いた。余りにも情けない自分の状況に。
子供が思うように行かないと駄々を捏ね、親の注意を引くために大声で泣き喚くのと同じだ。声こそ出さないが、それに近い。
「!!」
と、不意に神竜の敏感な5感と、異常に進化した第6感が何かとても大きな存在の接近を感知した。
涙と鼻水を服の袖でゴシゴシと拭き取り、既に体の一部と言ってもいいほどに敏感で意のままに動くソレを動かし、何が近寄ってくるのかをイデアが探る。
大きな、とても大きな存在だった。ナーガには遠く及ばないが、それでも無尽蔵と言っても差し支えのない程の莫大な【エーギル】
今のイデアでは例え全快状態でも勝てないほどの巨大な存在だ。
イデアの顔が真っ青になった。勝てない。殺される。まだ何もしていないのに。
森の木々が風もないのに揺れ、ざわざわと耳障りな音を立てるがイデアの耳にはそんな雑音は入ってこない。否、聞く余裕が無かった。
冷静に考えれば、これほど巨大な存在は【竜】しかありえないのだが、イデアにはそんな事を考えるほどの余裕などない。
「っ!!!!」
眼を瞑り、身を縮こまらせたイデア。死んだふりにも見えなくない体勢だ。
が。
「おい大丈夫か? 怪我でもしちまったのか?」
冷静な、それでいて何処か豪胆な印象を抱かせる“女性の”声だ。
布擦れの音が数度したかと思えば、その存在が自分の近くに駆け寄り、自分を見ているのをイデアは真っ暗な視界の中で感じた。
どうしようか……。イデアが考える。眠ったふりをこのまましてやり過ごしてしまうか・……。
ぐううぅううう。
間抜けな音が彼の腹から鳴った。
しばしの沈黙。とても痛い間。
「……ッ・・・・ははははは!! 腹が減っているのか? 寝たふりなんてやめて起きなよ! あたしが何か持って来てやるからさ、ちょっと待ってな」
堪えきれずに女性が噴出し、それだけを言うと何処かへ行ってしまった。
大きな気配が遠ざかっていく。
それなりに遠くに行ってしまうのを神竜の感覚で“見て”いたイデアがムクリと起き上がる。
どうせ寝たふりもばれているし、無駄な抵抗はやめておこう。
相変わらず身体に力が入らないので、地べたに胡座をかいて座る。
数分後、先ほどの声の主と思わしき人物が帰ってきた。
やはり声の通り女性であった。栗色の長髪を後ろで結び、一まとめにしているのが眼に付いた。
身長は女性にしてはかなり高い。大体ナーガと同じぐらいだろうか?
そして、女にしてはやけに体格ががっちりしている。細いというよりは、引き締まっているという方が近い。
茶色の質素なローブを着込んでいるが、貧乏人という感じは全くせず
その全身からは気品と、大の男が持っていそうな豪胆なイメージをイデアは見た。
変な人。イデアの第一印象はそれだった。女性なのに、男みたい。
でも、胸は大きい……。
「周りにある果物を持って来たぞ。さぁ、喰え」
「…………」
袋に入れて持って来たソレを女性がイデアに差し出す。
差し出されたのはリンゴやナシ、葡萄に桃、季節感など欠片もない様々な果物の数々。
新鮮であろうソレはキラキラと輝き、甘い匂いを漂わせている。もちろん傷など一つも付いていない。誰が見ても一目で最高級のモノだろうと判る。
もしもこの場にイドゥンが居れば、眼を輝かせながら齧り付いていただろう。その光景をイデアははっきりと想像できた。
「…………………」
無言でリンゴの1つを手に取り、しげしげと眺める。宝石を見定めるように。
「……っ!……っ!!」
口を大にして思いっきり齧りつく。懐の竜石が無意識に輝き、ほんの僅かだけイデアの外見を竜に近づける。
耳の辺りまで口が裂け、より多く、より早く食べられるように。
口内の歯が、雑食動物のソレから、肉食動物の歯に変化する。
ボリボリ耳障りな音を鳴らし、芯まで残さず噛み砕く。そしてその後は丸ごと飲み込んでいく。
手を伸ばす体力さえも惜しいのか『力』を使って2、3個まとめて果物を浮かばせ、ソレを竜の口に放り込んでいく。
そして10秒たらずで芯ごと噛み砕き、喉に流し込む。
数分で大量にあった果物は全てイデアの腹の中に消えていた。だが、まだまだ満腹には程遠い。
「凄い食いっぷりだねぇ……どれぐらい飯食って無かったんだ?」
女性が呆れと感心が混ざり合った声音で言う。
イデアが顔を上げ、女性を見る。果汁やら食いカスなどで酷い有様の顔だ。
そのまま改めて女性を観察する様にイデアの瞳孔が細くなり、鈍い光を放つ。
一般の人間が見たら、思わず後ずさってしまう程に暗い眼。
そんな眼光をまともに浴びても女性は全く怯まなかった。それどころか、肩を揺らし、豪気に高く笑う。
本当に変わった奴、と、イデアは改めて思った。少なくとも今まで見たことのない種類の人間……竜か。
「汚れが酷いね。それにその程度の量の果物じゃ満足出来ないだろ? 家に来なよ、アイツも喜ぶだろうしね」
後半からはイデアに言っているというよりは、独り言に近いものになっていたが。
それでも彼女が片手を挙げ、そこに魔力を集め出すと、イデアは彼女がなにをしようとしているのか何となくではあったが、判った。
あれは何度も見たことのある術だ。いつもナーガが使っていた便利極まりない術。
転移の術だ。
「ちょっとまっ……」
残念だが、イデアの抗議の言葉は最後まで言う事は出来なかった。
途中で転移の術で発生した光と、“場”の歪みが女性とイデアを飲み込んだからだ。
今までに何度も体感した浮遊感がイデアを襲った。
暗転。
転移した先の場所は何処かの建物の中だった。外とは違い、どこか冷たい空気に満たされている。
眼に映ると物と言えば、何かの紋章がビッシリと刻まれた石作りの壁に天井に床……つまり全部が石だらけの部屋だ。
窓から入る太陽の光が部屋を優しく照らしている。不思議と居るだけで気が落ち着く部屋。
質素だが、何処か懐かしい物をイデアは感じた。
部屋の中心には数人で食事を取るためのそれなりに大きな木製の丸いテーブルが置いてあった。
かなり使い込まれているのだろう。永い年月を経た物だけが放つ“重み”と“歴史”を感じさせる存在感を放っているのがイデアには見て取れた。
部屋の中心まで大股で女性が歩いていき、ぐっと背伸びをする。
そして何処か豪胆で、船乗りなどが久しぶりに陸に上がった時の様な声で彼女は言った。
「やっぱり我が家が一番落ち着くねぇ……ソルトは……遊びに行ってるか」
ぶつぶつと呟く彼女にあえてもう判っていることをイデアが聞いた。そうでもしないと、このまま彼女のペースに乗せられてしまいそうだからだ。
自分は早く「殿」に戻らなければならないのに。
「何ですか、ここ……」
「何って、あたしの家だよ……ちょっと待ってな。
何か食うものを用意するからさ、出来るまで湯浴みでもしてくるといい。あたしが造った天然の温泉だ、かなり気持ちいいぞぉ。
そうそう、湯浴み部屋はコレに付いて行くと直ぐに付くぞ」
「え? う……」
女性が淡々と鍋などを取出し、食事の準備を進めながら言う。
ただ喋ってるだけなのに、イデアは何も口を挟めなかった。
ぽいっと大きな布の塊と、干した植物で作った身体を洗うためのブラシ。
そして油と水と灰によって形作られ、魔術によって花の匂いを微弱に、鼻に付かない程度に漂わす大の男の拳程の大きさもあるピンク色の石鹸が投げ渡される。
女性が指を微かに横に振ると小さな火の玉が発生し、ソレはイデアの眼前まで飛んでいき、ピタリと停止する。
そのまま付いてこいと言わんばかりに左右に小さく揺れた。
ふと、何気なく部屋に設置された鏡を見てみる。
……泥だらけの自分の姿が映った。惨めな物乞い見たいな姿が。
……少しくらいなら、いいか。
綺麗になった方が、動き易いだろうし。
風呂から上がったイデアを待っていたのは、そこそこ大きな机の上を埋め尽くす料理の数々であった。
既存の食器とは違い、底の深い独特の形をした食器“お椀”には湯気を立てている味噌汁。隣のお椀には真っ白な炊き立ての白米。
塩コショウを塗され、じっくりと焼かれた肉、究極的に透明でキラキラと光を反射する飲み水。
そして何故かコップに満たされたチョコなどが並んでいる。
そして女性以外にもう一人、部屋には住人が増えていた。
「………」
女性の腰に力の限り抱きつき、イデアを丸い眼で不思議そうに見ている小さな男の子。年は大体5歳ぐらいだろうか?
紫色の髪の毛が特徴的な子供だ。エーギルの大きさと質、身体的特徴から見て恐らくは人間の子供であろう。
竜にしてはエーギルが小さすぎるし、そして耳が尖ってない。何故人の子が竜であろう女性と一緒に居るかはさっぱり判らないが。
……もう少し髪の色に銀を混ぜて、艶を出せばイドゥンの髪になるな。イデアはそう思った。
「丁度いいときに来たね! たった今出来たばかりなんだ。 それと紹介するよ。これはあたしの息子のソルト、仲良くしてやってくれよ」
ハハハと嬉しそうに笑い、腰に抱きつく息子の頭を撫でる。子供の顔が笑顔に染まった。母に撫でられ、心から喜んでいる顔だ。
イデアの顔が不機嫌に歪んだ。その様子が酷く羨ましかったから。
「さ、食べようか。丁度あたしも何か食べたい気分だったからね」
「あ…」
それに気付いたかどうかは判らないが、女性がイデアの手を取る。凄く暖かい手だった。
じわりとイデアの中まで浸透し、胸の中の暗い物を溶解させる暖かさ。
「これって……殿でも食べた事ある……なんで……」
眼の前に並べられた数々の料理の前にイデアが小さく呟いた。
かなり耳がよいのか、女性はその言葉に自慢げに笑って答えた。
「ふふふ……それはだな。このチョコや味噌などを編み出したのは私だからだよ!
それだけじゃないぞ、人間の貴族などが飲む、あのコーヒーの生産方法、カカオ豆の加工の仕方を作ったのもこのあたしだ!!」
味噌や白米はあのナーガ様も気に入ってくれたんだ! と、声を高らかに女性が続ける。
更に立ち上がり、自分の輝かしい功績を自慢しようとした彼女だったが、息子に「早く食べようよ」と言われてしまい、コホンと小さな咳払いと共に席に戻る。
「あの……貴女って、何者なんですか?」
イデアがテーブルの上で強い誘惑をしてくる料理の数々を睨みつけながら聞いた。
彼の中では食欲とその他多数の感情が戦争をしている。勝敗など判りきった戦いであるが。
「あぁ、まだ名乗ってなかったね、あたしの名前はメディアン。偉大なる祖父の名前の一部を貰い受けたんだ。
種族は地竜で、大地の事に関してはあたし以上の竜なんてナーガ様かおじい様以外の竜は存在しないね。
この『里』の大地をあそこまで素晴らしい物にしたのはアタシさ! やろうと思えば宝石や金属だって幾らでも作れるぞ?」
「祖父とは一緒に住んでるんですか?」
「いいや、おじい様は昔の戦役の時にナーガ様を裏切らなかった数少ない地竜でね、ナーガ様と共に戦い、そして討ち死にしたよ。立派な最期だったそうだ」
始祖竜と神竜の戦争。地竜族の大半はナーガを裏切り、始祖竜側について戦った。
イデアの読んだ歴史書にはそう書いてあったのを思い出す。確かあの分厚い2000ページぐらいある本を編纂したのはナーガだったはず……。
その中でも裏切らなかった地竜が居たのだろう。彼女の祖父はそういった地竜の一柱だったらしい。
……まだ出会って時間はあまり過ぎてないが、彼女が嘘や裏切りを嫌う性格だろう、というのは大体はわかった。
自分にとってのナーガは裏切り者だが。
「さ、長話はこれぐらいにして、早速食べようか。冷めたら不味くなるしね」
「わーい! お母さんの料理大好き!!」
母の膝の上に何時の間にか乗っていたソルトが喜びの声と共に飛び降り、自分の席に着く。
料理を凝視してしていたイデアががっくりと肩を落とす。やっぱり空腹には勝てなかったらしい。
小さく手を合わせ心の中で「いただきます」と唱え、彼は食事を始めた。実に一週間ぶりのちゃんとした食事だ。
「ご馳走様でした」
あっという間に全ての料理を平らげたイデアが何処か満たされた声で言う。
腹が満たされた事によって、大分気分は落ち着き、冷静な思考を取り戻していた。
『衣食足りて礼節を知る』とはよくいったものだ。少し意味が違うかもしれないが。
「おーおー、全部食べたのかい? 少し多めに作ったんだけどね。味はどうだい?」
「美味しかったです……ありがとうございました。それじゃ……」
最後にチョコを全て飲み終わり、口の周りを舌で丹念に掃除したイデアが立ち上がろうとするが
「待った!」というメディアンの言葉がその行動を停止させた。
「少し待ってておくれ、折角出会ったのも何かの縁なんだ、杯でも交わそうじゃないか。
それとも……酒は飲めないのかい? もうそこそこの歳の男の子なのにぃい?」
ははんと、鼻で嘲笑って心底呆れた表情を浮かべる。
余裕を表すかの様に片手で「お酒ってなにー?」って聞いてくる息子の頭を誤魔化すためにゴシゴシと撫でつつ
その紅い眼で妻帯者が未婚の者を馬鹿にしているかの様な視線をイデアに投げかける。
正直に言おう。メディアンの今の顔は男としてかなり馬鹿にされた気分になる顔だ。
イラっと、今までの種類とは違う苛立ちをイデアが覚える。これは違和感とかイドゥンとかナーガはあんまり関係ない。
彼の負けず嫌いな性格から来る苛立ちだ。出会って数時間も経ってない女に何か、とても、男として馬鹿にされた事に対したの腹立だしさ。
音も無くイデアが浮かばせかけた腰を椅子に座らせる。『殿』に戻るのは……そう、少しだけ飲んでからにしよう。
何、たかがお酒だ。神竜である自分が酔うわけなど無い。前の世界でも飲んだことはないし、二度の生涯に渡って口にするのは初めてだが、どうせ大したことはない。
「酒ぐらい飲めますよ。嘘じゃないですよ? 一番強いのお願いします」
据わった眼でイデアがメディアンを睨みつける。
さっき森林で倒れてた時とは違う種類での鬼気迫る眼であった。
どれぐらい凄いかというと、ソルトが本能的な恐怖を感じて自室に逃げ出すぐらい。
ニヤッとメディアンが悪戯が成功した子供が浮かべる意地の悪い笑みをイデアには見えない様に口に浮かべ、奥の部屋に去っていった。
1分も経たずにメディアンが大きな樽とグラスを持ってくる。
樽の中身であるエメラルド色の液体をグラスに注ぎ、イデアに差し出す。つぅうんと鼻を突く匂いが杯から昇る。
中身の名前は『アブサン』
ハーブなどを原料にそこそこに複雑な手順で製造される酒である。
この酒の特徴は、とにかくアルコール濃度が高いことだ……。
種類によって違うが、大体50~68度が平均で、高い物になると何と80を越える物もある。
当たり前だ。水で割ることを前提にした飲み物なのだから。
メディアンが懐に小さな『レストの杖』と『リカバーの杖』を隠し持っていたことをイデアは見抜けなかった。
アルコール中毒対策のための杖だ。
そして、イデアはグラスに少量注がれたソレを、水で割ることもせずに躊躇い無く飲み干した……。
砂漠を灼熱の地獄に変貌させていた真っ赤な太陽が地平線の彼方に沈もうとしている時間帯。
辺りには昼とは打って変わって、荒涼とした風が吹き出し始めている。
砂漠の向こう側から、風と岩が擦れる音、猛烈な勢いで吹きすさぶ魔風がまるで竜の咆哮の様に聞こえる頃合だ。
建物の窓を木製の板で閉めるパタンパタンという音が鳴り響く通りの中で、一人の栗色の髪をした大柄な女性──メディアンは歩いていた。
その背に乗せられ、真っ赤な顔で幸せそうに眠りに付いているのは言わずもがな、イデアである。
結果から言うと、イデアは頑張った。本当に頑張った。メディアンの持って来た樽の中の3分の1は飲んだのだから。
しかし、彼は酔った。酷く悪酔いした。
大体グラスを三杯ほど飲んだ辺りから、イデアの暴走は始まった。
今まで腹の中に溜め込んでいた不平不満をぶちまけ出したのである。
ナーガは何処へ行ったんだ? 死んでしまえ! と大声で喚き散らし。
姉さんを迎えに行きたいのに! でも、行ってどうするんだ? と、頭を抱え、椅子からずり落ち。
やるべき事は判ってるんだ でも、自信がない。という言葉をぶつぶつ呟きながら、床を何回も激しく腕で叩いたり。
何でこうなったんだ。 と、涙ぐみ。
極めつけには「家に帰りたい」と号泣したり。
………。
数えればキリがない。
普段は不満を腹の底にしまうタイプだったんだろう。それが酒が入った事によって湧き上がったて来たのだ。
途中からは悪口というよりは、イドゥンに対する惚気話に変わっていったが、それも仕方ない。
やれ、髪が綺麗だの、声が癒されるだの、小動物みたいだの、これも凄い量になる。
そんなイデアの話をメディアンは最初から最後までしっかりと聞いてやり、時々会話したり、付き合ってやったのだ。
義務感というか、何というか、そういう性分の女性なのだメディアンは。
そしたら酔っ払ったイデアに懐かれたのも仕方ない。
自分の溜まりに溜まった鬱憤話を最後までしっかりと聞いてくれた彼女に、彼は眼を潤ませながら母親か何かと勘違いし抱きついたまま眠ってしまったのだ。
その後、部屋から出てきたソルトが対抗心を燃やしたのか、自分もと言い出して抱きついてきて、本当に大変だった。
正に混沌といわざる得ない状況、永い年月を生きたメディアンでもどうすればいいかわからず、泣く泣く息子にスリープを掛けて出てきたのだ。
そして今に至る。彼女の顔はやつれ切っていた。主に肉体的ではなく、精神的な疲労が原因である。
神竜、始祖竜、そして暗黒竜に次ぐ力を持った地竜のスタミナはほぼ無尽蔵ではあるが、精神はまぁ、仕方ない。
質の悪い酔っ払いに数時間絡まれ続ければ嫌でも疲れる。まぁ、原因は自分のせいなのだから、自業自得だが。
「やれやれだよ。迂闊に酒は勧めるものじゃないねぇ……何が起こるか本当に判らないねぇ」
背負ったイデアの顔を見て一言。彼は本当に満ち足りた表情で眠っていた。
まるで全ての憑き物が綺麗さっぱり落ちたかのような健やかな顔だ。
自分の息子の顔と、一瞬だけ重なる。確かソルトも遊び終わった後や、泣き疲れた後はこんな風に眠っていたっけ。
もう、大体この男の子の正体が何で、種族は何なのか察しはついたが、それでもこうやって眠っている姿は酷く小さく無防備なものに見えた。
あの叫んでいた言葉の内容と、持っている力の性質から察するに……この子は。
こんな小さな子が、家族から引き離されて泣いていたこの子が……。
……。
「出ておいで。さっきからずっと見ていただろ? 大丈夫、あたしは怒ってなんかないよ」
唐突に足を止めたメディアンが建物の影に向けて明朗な声を飛ばす。
道端でばったり出会った友人に挨拶するかの様な声であった。
「こんにちわ。メディアン様」
建物の影から紅いドレスに身を包み、紅い髪をした女性──アンナが現れ、足音を立てずにメディアンに接近する。
仕草一つ一つに敬意と畏怖を込めてアンナが丁重に挨拶した。明らかな目上の者に対する態度。
当然だ。火竜と地竜では、地竜の方が格上の種族なのだから。
この『里』を創る際に、メディアンの力がどれほど役に立ったことか。
森を作り、大規模な濃紺地帯を創造し、緑豊かな砂漠のオアシスを作りあげられたのは彼女の協力があったのが大きい。
大地に関して言えばほぼ全能の能力を持つ地竜は
神竜や始祖竜などが居なければ竜族の支配者になっていてもおかしくない種だ。
まぁ、メディアン個人(竜)に限っていえば、彼女は権力などにあまり興味などなく、仲間と一緒に楽しく生活するほうを好む性格の持ちなのだが。
ちなみに永い年月を経て“進化”した地竜は暗黒竜と呼ばれる種になるそうだが、その存在まで至った者は本当に少ないし、この里にはいない。
「何となくお前の用事は判っているよ。この子の事だろ?」
チラリとイデアの寝顔を見てから、アンナに言う。
人懐こい笑顔をメディアンが浮かべた。何千年も生きている竜とは思えないほどに幼い笑顔。
少年が友人とふざけあっている時にでも浮かべていそうな顔だ。
「はい。渡していただけませんか?」
「そんな畏まらなくてもいいって! ほら……」
よいしょっと小さく掛け声を出し、背負ったイデアをアンナに渡す。
結構大きな衝撃がイデアを揺らしたが、頬を真っ赤に染めて眠っている彼は起きない。
「本当によく眠っているねぇ」
「飲ませすぎですよ」
「いやいや、この子が飲んだんだ。中々にいい飲みっぷりだったぞ? 今度時間があったらお前もどうだい? 歓迎するよ」
「……考えておきますわ。それでは」
アンナが両腕にイデアを抱えて転移の術を発動させる。
一瞬の内に彼女は遠く離れた里の中心部へと飛んでいった。
後に残ったのはメディアンだけ。
そろそろ本格的に辺りが夜の闇に包まれ始めている。
蒼い月が天に昇り、絶対零度の地獄の訪れが近いことを示唆していた。
ぶるっとメディアンが身震いした。そろそろ寒くなってきた。早く家に帰ろう。
息子を一人残しているのだ。何だか心配になってきた。
転移の術を発動させる刹那、一瞬だけイデアの言葉が蘇った。
即ち。『ナーガに捨てられた』という言葉。親に見捨てられ、絶望した顔。
絶望したという事は、逆に言えば信じていたという事だ。
イデアはナーガを信頼していたのだろう。そして裏切られたと。
ナーガとイデアの間に複雑な何かがあるという事は判った。
メディアンには想像も付かない程に絡み合った色々なものがあるのだろう。
だが、ソレを踏まえても、彼女はもう既に居ないナーガに一言だけ言いたくなった。
たとえ不敬罪に問われる事になってもだ。
『悲しみで子供を泣かせるなよ。父親だろ?』
と。
冷たい風に頬を撫でられ、イデアは眼が覚めた。
起き上がり辺りを見渡すと、どうやら既に夜になっていたらしく、砂漠の荒涼とした風が部屋に吹き込んでいたらしい。
「ぅう……」
頭が、少しだけ痛い。ズキンズキンと心臓が鼓動を刻む衝撃が響いてくる。
だが、気分はよかった。矛盾しているかも知れないが、頭痛以外に今のイデアを苦しめるのは僅かな違和感だけだ。
胸の奥底にあったあの溶岩みたいな怒りと憎悪も、得体の知れない苛立ちも全てが綺麗に消え去っていた。
頭痛も少しずつ小さくなり、完全に消えた後に残るのは自分でも信じられない程に冷静な思考。
ぼぉーっと窓の外の月を見つめ、考える。
冷え切ってはいるが、奥底に熱い何かを内包した思考が答えをはじき出すのをイデアは何処か他人事の様に感じた。
即ち。
何をするべきか。どう動くべきか。何を信じるべきか。どうあるべきか。
この全ての答えが唐突に判った。否、ようやく認め、向き合うことが出来たというべきか。
答えなどもう出ていたのだ。ただ認めなかっただけで。
信じる者は姉。生きていて欲しいと心の底から願う。念話を飛ばす勢いで何度も祈りを捧げる。神竜に。
生きてさえいればどうとでもなる、死はそれで終わりなのだから。
カチャリと胸に掛けられた紫色のイドゥンの鱗を撫でる。イデアの指の感触に答えるように薄くソレは輝いた。
例えどんなに変わっても自分はイドゥンを受け入れるし、愛し続けるだろう。それだけは確信できる。
自分はイドゥンを信じる。生きていてくれると。まずは大前提にそれだ。
イデアの眼に炎が宿った。ただし、この炎は【ノスフェラート】などではない。
熱く滾った、決意という炎だ。
やるべき事と、動くべき事、どうあるべきかは──決まっていた。
あとがき
SSを書いていて、自分でも時々イデアと言うキャラの性格がわからなくなる時があります。
読者の皆様にはイデアはどういう風に映っているのか、とても気になる今日この頃です。
では、次回の更新にてお会いしましょう。