真っ赤な、血よりもグロテスクで、炎よりも情熱的で、溶けた岩よりも粘質な紅い満月が天に昇っている。
まるで心臓を生物から取り出したような巨大でおぞましい物体が空にあるというのは、見るものに生理的な恐怖と嫌悪を抱かせた。
『殿』の中でもかなり高い階層に位置する執務室の窓から見たソレは地上で見るよりも、巨大で恐ろしい。
ナーガが数え切れない程の年月を共にした執務室はその様子を変貌させていた。
いつもは大量に置かれていた資料も無く、整理されたのか、または知識の溜まり場に送られたのか、その存在の一切がなくなっていた。
部屋の中にある調度品や装飾の類もほとんどなくなっており、部屋の様子は閑散としている。
いつも彼が腰掛けていた金や銀で装飾を施されていた玉座も
その後ろに配置されている神竜族のシンボルたる太陽をモチーフにした紋章も、部屋の中のありとあらゆる物が寂れていた。
かつて感じた威圧感や雄雄しさ、神々しさの一切が失われている。
殺風景。この部屋を一言で表すとそうなるだろう。完全に生気の消えた部屋。生活観の一切を感じない部屋だ。
そんな部屋の窓際に一人の男が立っていた。
男が身に纏うは金で幾つもの装飾を施された白い豪奢なローブに、同じく金で縁取りされた豪奢なマント。
腰に差されたのは金銀やエメラルドで装飾された宝剣【覇者の剣】かつて彼が葬った始祖竜の剣である。
手を後ろで組み、直立不動で赤い月を見つめるその色違いの瞳には何も浮かんではいない。
ただ、じっと月を眺めているだけである。
男――ナーガが音も無く振り返り、今まで自分が永い年月を過ごした部屋を見渡す。
その眼には相変わらず何も浮かんでは居ない。そう、何も。
二本の足でしっかりと歩き、絨毯の感触を堪能する様にゆったりとした足取りで今まで自身が掛けていた椅子に向かい征く。
何処か気だるげに玉座に腰を降ろし、机の上に手を置く。
火の灯ってない暖炉の変わりに、窓から入り込む赤い光が部屋を禍々しく照らす。
まるで部屋の中が血塗れになった様な錯覚を見た者は覚えるだろうが、生憎この部屋にはナーガを除いて誰も居ない。
ナーガが瞠目し、思考を巡らせる。
思い出すのはこの『殿』が作られた時の記憶。
始祖竜との戦争が終わり、一度は崩壊しかけたこの『殿』を当時生き残っていた様々な竜が力を合わせて再建した事。
あの時はまだ人という種はあまりこのエレブにはおらず、竜族もあまりその存在を気に掛けては居なかった。
当時の『殿』は竜族本来の大きさに合わせて建築されたため
現在よりも巨大で、こう言っては何だが少々大雑把な造りであった。
それがどんどん改築や増築などを繰り返し、今の人の姿でも済める構造に変わったのだ。
『秩序』を破壊するほどの戦争の影響で、竜族全体がその力を衰えさせており、その力の回復に専念するために
早急に神竜族の力を増幅させる場が必要だったというのも大きいだろう。
神竜族や魔竜もほとんどあの戦争で始祖竜やそれに加担した地竜達と相打ちになり、残ったのは自分だけ。
そんな自分に従い、この『殿』を竜族総がかりで再興させた時は本当に輝いていた時期の一つだったのだろう。
やがて人と言う種が発展を遂げ、争いながらも国という集団を作り始めた。
西にエトルリアという国がおぼろげながらも出来始めた頃だ。
サカにも遊牧民族と呼ばれる者たちの始祖が生まれ始めた。
この頃だろう。竜族が人間という存在に興味を持ち始めたのは。
自分達とは違う、しかし獣とは違い確かな理性と知恵を持っており、話合える。触れ合える。
永い時を生きる竜にとっては最高の暇つぶしの相手だったのだろう。
しかし姿が問題だった。竜の姿は人にとっては恐怖心と敵意を煽るものだったのだ。
山よりも巨大で、その尾の一振りで軽々と城をなぎ払う竜に恐怖を抱いてもしかたがないといえる。
だからこそ、竜族は編み出した。人と同じ姿を取る術を。
それは急速に広まり、人との接触が始まる。
中には竜本来の姿に誇りを持ち、人の姿にならない竜族も当然ながら存在した。
竜族は人に様々な事を教えた。
しっかりした家の作り方や、統一された文字、魔導の基礎やもっと多くの穀物を育てる方法。
魚の取り方や精霊との対話の仕方。思い起こせばキリがない。
今思えば竜が人を助けた理由は単なるお節介だったのだろう。
見ていて危なっかしくてたまらず、色々と手を加えて育てた。一番近い心境といえば親心か?
……いや、『育てた』のではなく『育った』のだろう。少なくとも今日の人の発達は彼ら自身の努力の賜物であろう。
それを否定し、全て自分達が育て上げたというのはただの傲慢に過ぎない。
――― もしも。もしもここで自分が人に関わらないと決断を下していれば、今の様な事態は避けられたのだろうか?
いやと、ナーガが思い浮かんだ思考に答えをはじき出す。結果は変わらないと。ただ、遅いか早いかの違いだ。
遅かれ早かれ人は竜という種を消しに掛かるだろう。あれの思考は永い年月観察しているので大体は理解できる。
自分達と違った存在が恐ろしくて堪らないというのが人という種の根幹にはあるのだ。
事実、産まれた子が異形だった場合、親はソレを愛さずに捨てたという例をナーガは何度も見ていた。
髪の色が違う。四肢のどれかが欠けている。瞳の色、肌の色、声、どれか一つでも親が気にいらないと化け物と蔑まれ捨てられる。
言ってしまえば、臆病な種なのだろう。人間とは。
『恐怖』の前に理性は消し飛び、道理は踏みにじられ、挙句は損得さえも無視される。
しかも質が悪い事に人間は恐ろしい恐怖の元を消し去るために団結することも覚えているのだ。
いつもはそんな事は滅多に出来ないのに、共通の敵を葬るためには手を取り合い、共に戦う。
本当に困った種族だ。
しかし。しかしだが、同時にナーガは確かに知っている。人と言う種の素晴らしさも。
竜よりも遥かに短い寿命を必死に閃光の様に生きる人間の素晴らしさを。
そんな人間に心奪われ、困難を承知の上で結ばれることを選んだ竜さえも存在するのだ。
竜と人の間に産まれた新たな種『竜人』は一体これからどの様な未来を作っていくのか、それが見れないのが少々残念である。
そして何より、イドゥンとイデア。
あの二人の成長を見れないというのが心残りであると思うのは長としての心残りか、それとも親としての感情か?
ナーガが瞠目しながら、首を小さく横に振った。何とふざけた事を考えているのだ自分は。
親? たった10数年程度の年月を共に過ごし、食事を与え、ほんの僅かながらの知識と経験を与えただけで、親?
そんな都合のいい馬鹿な事があるかと思い、小さく溜め息を吐く。
違うだろう。ただ自分は後を任せる後継者が欲しくて、限られた時間の中でそれを造ろうとしただけ。
結果、まだまだ未完成だが、両者がもう片方を支える形になれば少しは……。後は周りの状況次第だ。
そう。愛など無かったのだ。愛などなかった。自分が両者に抱いていた感情は親が子を愛する感情ではなかった。
そうに決まっている。自分は、間違っても本当の意味でのあの双子の親ではない。自称だったのだ。
言い訳の様に何度も何度も繰り返し思う。
ただ、短い年月の間育てただけ。万人が見ても皆が口を揃えて親ではないというだろう。
だが。
だが、もう少し時間があればもっと様々な事を教えてやれたのだろう。
教えてない術など夜空の星の数ほどある。まだ教えてない学問はそれ以上の数だ。
歴史も御伽噺も算術の式も諺もまだまだあるのだ。10数年程度では教えきれない程の数が。
それこそあの知識の溜まり場の中には文字通り無限の知識が詰まっている。
そして自分の頭の中にもだ。
もしもソレらを教えられたら、あの双子はどの様な反応を示すだろうか?
最初に魔術を教えると言った時にやけに舞い上がっていたイデアを思い出す。
そして先ずは概要だけだと自分が言った瞬間の何処か落胆した表情も。
その後、イドゥンが自分も撫でて欲しいと言って来た時は正直な話、困惑したものだ。
それに定期的に焼き菓子を作ってくるのも困ったものだ。
と、ここで思い出す。
「………真の名を、教えてなかったな……」
それは最初の魔導の講義の際に双子に教えた事。名前も魔術的な要素を含んでいるということ。
そしてあの二人は未だ自身の本当の名前を知らない。
普段呼んでいる『イドゥン』も『イデア』も、人が聞く事の出来ない両者の“本来の名前”の一部なのだ。
最後の機会に教えてやらなくては。
……幾つもの書物を読み漁り、双子の名前に相応しい文字の羅列を考えた時は、楽しかったのだろうか。
少なくとも、最高位の魔導書を読んでいる時と同じぐらいは集中したのは覚えている。
机の引き出しを開ける。そこにあるのは古びたノート。双子が文字の練習に使ったノートだ。
ソレを手に取り、ページを軽く捲っていく。
お世辞にも上手とはいえない基礎的な文字の羅列。
しかしそこに込められた早く上達しようという気迫をナーガは確かに感じた。
ノートを閉じて、片手で持って顔の前に持ってくる。
このまま焼いてしまおう。意味のない物だ。
所持していても、何の魔術も発動などさせられない。
ただの落書きが書かれた書物など不要だ。むしろ何故今まで持っていたかが疑問である。
指に僅かばかりの魔力を集中させ、火を灯す。
指の先端に現出する小さな小さな【ファイアー】の灯火。
これをノートに接触させてしまえば、終わりだ。
「………………」
下らない。
指先から移った炎が凄まじい速度でノートを侵食し、灰に変えていくのを呆然と見ながらナーガはそう思った。
果たしてその“くだらない”という感情が何に向けられたものなのかは彼自身もわからない。考える気もない。
答えが出るのが怖いから。決して自分がこの“茶番”を続ける事を望んでいるなどと認めてはいけないから。
そう。自分は親ではないのだ。そう何度も暗示のごとく言い聞かせる。
座りなれた玉座から腰を上げ、部屋に無言で別れを告げる。
扉に手をかけたナーガは最後まで一回も振り返らずに部屋から出て行く。
病的なまでに徹底的に掃除された部屋に、一箇所だけ灰の山が積もっていた。
そしてその横、部屋に一枚だけポツンと置かれた羊皮紙の報告書にはこう書かれていた。
――― エトルリア王国 王都アクレイアに大陸に存在する人類のほぼ全兵力が集結中。戦支度を始めている。
かの【大賢者アトス】及び【大魔導師ブラミモンド】【神に愛された少女エリミーヌ】などの姿も見受けられた。
その報告書にも灰から僅かな数の消えかけの火種が飛び移り、紙はやがて炎に包まれて灰へとその姿を変えていった。
赤い月だ。恐ろしいまでに赤い月だ。真っ赤な光が世界を照らし、昼間の様な明るさを地上に与えている。
イデアは窓から見える今まで一度も見たことがない程の赤い月を見て、何処か酷く胸騒ぎを感じていた。
嫌だ。以前も感じた事があるこの感覚だが、今日のは何処かがオカシイ。
胸を掻き毟られるような焦燥感と粘性な恐怖が心の底から滾々と湧き上がって来るのを感じながらイデアが背後へと振り返る。
そこには椅子に腰掛けたイドゥンが居た。
イデアの視線にも気が付かない程集中しているのか、一生懸命にその白く綺麗な手を動かしていた。
最近彼女は手芸に嵌っているのだ。本をナーガに持ってきてもらい、独学で勉強している。
手に持ったのは先端が緩やかに尖った二本の細くて長い棒針。椅子の正面に置かれているのは白い糸の塊。
二本の棒を器用に動かし、表編みと裏編みを繰り返して何かを作っていた。
長い形状からするとマフラーか何かの類であろう。
編み物について詳しくないイデアでも判るほど、上手とは言えない出来栄えたが、必死に編みこむ姉の顔はとてもかわいらしかった。
思わずイデアは話しかけていた。答えなど判りきっているのに。
「それは誰にあげるの?」
「お父さんとイデアだよ。お揃いにしてあげるね!」
一旦編みこむ手を止めて、イデアを見たイドゥンが花の咲く様な笑顔で答える。
少しだけ、イデアの焦燥感が薄れた。
しかし。
“トントン”
いつもと同じ様に部屋の扉が叩かれる。
いつもと全く同じ叩き方。ナーガの叩き方。
イデアはいつもと同じ様に答えを返していた。
「どうぞ」
ガチャリと扉を開き入ってきたナーガの顔はいつもと変わらない無表情。
全ての表情を失った彫像の様な顔。そして紡がれる言葉もいつもと変わらない声で。
「最低限必要な荷だけを持って、我についてこい」
たった一言。イデアがその意味を問おうと口を開きかけたが、直ぐに口を閉じた。
でなければ彼は無様に恐怖の悲鳴を上げていただろう。
彼が見たナーガの瞳は、ガラス細工の様にどこまでも澄み切っていて、その中に宿していたのは底の知れない虚無だったからだ。
真っ暗な瞳。何も映さず、何も反射せず、輝きもしない瞳。
いつも見ているナーガとは全く違う気配。そして威圧感。何が何だか全くわからなかった。
「あ、あの……」
イドゥンが手に持った出来かけの編み物を恐る恐るナーガに差し出すが、彼は差し出されたソレを視界にさえ入れなかった。
「急げ」
次に放たれた言葉は確かな威圧の色を含んでいた。イドゥンとイデアが震え上がる。
編み物をほっぽり投げたイドゥンがイデアの傍まで来て、その服の裾を掴む。
震えながら、イデアの腕に抱きつくイドゥンは確かに怯えていた。始めて父であるナーガに恐怖していた。
かつてイデアにお父さんは怖くないと言っていた彼女がだ。
ナーガが一歩踏み出す。イドゥンが何日も掛けて必死に編んでいた編み物が彼の足によって踏みにじられた。
糸が解れ、ほとんどバラバラになる。
そんな光景を見てしまい、思わず恐怖心を忘れてイデアが文句を言おうとするが……。
「「!!」」
突如、殿が揺れた。大規模な地震か、間近で火山が噴火したかの様な激しい揺れ。
耳障りな轟音が恐ろしく響く。まるで大量の竜が一斉に咆哮しているように世界が揺れた。
が、直ぐにソレも収まる。時間にして5秒も揺れてないだろう。
ナーガが顔を何処か明後日の方向に向け、無表情、無感動な顔で。
「時間だな。これ以上ここに居ては感づかれる」
激しい揺れが起こるのをまるで始めから知っていたかの様に「父」が語る。
そしてその手をゆっくりとイドゥンとイデアに伸ばして―――二人が何かを言う前に魔術を発動させた。
【ワープ】
世界が眩い光と共に廻った。大地と空の認識さえも歪み、今自分がどこにいるのかさえも判らなくなる独特の浮遊感。
発生した閃光と浮遊感に眼を瞑ってしまったイデアが、恐る恐る眼を開ける。
腕に感じる姉の確かな温もりが取り乱してしまいそうなイデアの心を何とかつなぎとめていた。
一体何が起きている? ナーガはどうしたんだ? 何がどうなってる?
グルグルと状況に付いて行けずに混乱する頭を何とか正気に保ちながら、イデアが周りを見回す。
辺りは先ほどまで居た殿の部屋とは違い、暗くて周りが良く見えない。
しかし完全な闇という訳でもなく、空の巨大な赤い月から放たれる光がほの暗く周囲を照らしていた。
竜族の優れた眼が人の何倍も素早く瞳孔を無意識に操作し、辺りの景色に素早く適応していく。
赤黒くてよく判らないが、周りに鬱蒼と茂る大量の草や木、花。虫たちのやかましい鳴き声や、この湿り気を多分に含んだ
空気の質からして、どこぞの森だろうとイデアは思った。事実彼の推測は当たっていた。
イデアが突き刺さるような視線を感じて顔を真正面に向ける。
彼の真正面にナーガが立っていた。輝かない瞳でイドゥンとイデアを観察するように眺めている。
瞬き一つせず双子を見つめている彼はまるで、二人の姿を脳裏に焼きこんでいるようにも思えた。
「ついてこい」
それだけを言うと返事は聞かないと言わんばかりに踵を返し、二人に背を向けて歩き出す。
思わずイデアがそれに続こうとするが、腕に強い力を感じて足を止めた。
「離れないで……暗い所に一人は嫌だよぉ……」
今にも泣きそうな声。いつも明るさを失わない彼女からは考えられない程に弱った声だった。
父に拒絶され、訳の判らない状況に放り出されて、今にもボロボロに泣きそうな顔は年相応の少女のものだ。
そんな彼女の手をイデアはしっかりと握り締めると、ナーガの後におぼつかない足取りで続いた。
しばらく行くと、不意に森は終わりを迎えて開けた場所に出た。
ナーガは既にどんどん先に行ってしまい、今やその気配だけを追っている状況である。
そしてソコに合った物に思わず二人は声を失った。
それは巨大。どこまでも巨大。小さなではなく、正真正銘、山ぐらいの大きさの建物。
屋根を支える柱も、入り口の大きさも、全てが人が使うにはあまりにも大きすぎる。
一目で人が作ったものではないと理解できる、所々にこれまた巨大な装飾の数々を施された、竜を奉る神殿にも似たどこか神聖な雰囲気を漂わせる外観の灰色の建造物。
竜族が長い年月を掛けて作り出した「門」である。
産まれて初めて見るソレを呆然とした様子で眺める二人にナーガの声が脳内に届いた。
(その建物の中に入れ。 中で待っている)
念話を受け取った神竜姉弟が一瞬だけ顔を合わせ、頷きあう。
手を握ったまま二人は「門」に歩を向けた。
「門」の中は壁や床などが薄く発光していた。
まるで最初の日、イドゥンとイデアが産まれた祭壇の場所を思いださせる造りと造形でもであった。
長い長い通路を抜け、広大な面積を誇る大広間に出る。広間の床には巨大な太陽を模した神竜族のシンボルマークが彫られており
この巨大な建物の所有者が誰なのかをイドゥンとイデアに教えている。
広いという言葉では表せない程の面積を持つ広間のずっと奥に光で作られた坂があるのを二人は見つける。
そしてその奥からまるで姉弟を呼んでいるかの様にナーガの巨大な気配はある。
近づいてみると、それは光で造られた坂などではなく、単に階段の列が一段一段が発光しており、それが何列も重なりまるで光の坂に
見えていたという事が判った。本来ならばこの不思議な光る石に興味を示したのだろうが、今の双子にそんな余裕などない。
二人で並んで一段一段、しっかりと震える足を叱咤しつつも昇っていく。
時に踏み外しそうになるのをもう片方が支えて、助けたりなどする。
何千段昇っただろうか? それとも何万?
数えることさえも億劫になるほどの段を昇りきった上に白い金で縁取りされた豪奢なマントを羽織り、いつも通りの白いローブを着込んだ細身の男、ナーガは居た。
その容姿はイデアがあの祭壇で始めて会った時から老けても若返ってもおらず、まるで時が止まってしまったか如く同じである。
段を上りきって来た二人を観察する様にじっと見つめている。紅と蒼の瞳にイドゥンとイデアが映っているのが二人にも分かった。
が、しかし。雰囲気は決定的に違った。先ほどの彼の気配は威圧的であったに対し、今は何も感じない。何もだ。
威圧感も殺気も怒気も悲しみも感じない。ただ、無表情な仮面の表情と全ての感情を封じ込めた瞳があるだけ。
「―――ィ――で――ァ―― そして ――ィ―――ど――ゥ ン―――――」
口だけを動かしナーガが竜族の言語で声を発する。人には聞くことも理解することも極めて難しい言葉、発するなど不可能に等しいだろう。
しかし人ではなく竜族であるイドゥンと竜族の身体を持つイデアはその言語をはっきりと聞き取ることが出来た。
不思議と身体の奥深くまで染み渡るような不思議な音として、確かに。
「お前達の本当の名だ。知りたがっていたのだろう?」
そう言うと双子に後ろを向け、背後のまるで絵の入ってない額縁を思わせる形状をした巨大な建物を見る。
「お、お父さん! 殿に帰ろうよ!! ここは暗くて嫌だよぉ……」
弟の腕を強く抱きしめながらイドゥンが涙ながらに父の背に向けて叫んだ。
しかしナーガはそんな声さえも耳に入っていないように言う。苛立つほどいつも通りの無機質な声だった。
「暫くここで待っていろ、直ぐに迎えの者が来る。詳細もその者達が言うだろう。そして、我はお前達の父などではない」
無機質な声質に反して、突き刺さるような内容の返答に神竜の片割れたる紫銀色の髪の少女が全身から力が抜け
ズルズルと滑るように地面に膝から倒れこむ。
ナーガが絵の入っていない巨大な額縁――『門』に向かって緩慢に歩き出す。
『門』の内部の空間が淡く発光を始め、稼動。エレブとは違う世界への道を創造する。
そんな事をイドゥンもイデアも知る由も無かったが、本能的に悟った。「父」がどこか遠い所へ行こうとしているのだと。
そして自分達は連れていってはくれないだろうという事も。
ここで今まで衝撃的な事が立て続けで起きたせいで半ば思考能力が停止しかけていたイデアが無意識に動いた。
力なく片手を伸ばし、かつて自分が身を預けたその背に向かってぎこちない足取りで歩き出す。
まるで夢に浮かされたような顔で淀んだ『門』の光に向かい歩を進める「父」に追いすがる。
そして。
「待ってよ、父さん……」
10年以上もナーガの事を只の一度も父とは呼ばなかったイデアが始めて、そう無意識に口にした。
ナーガの歩みが停止した。否。全ての動きが停止した。
1歩。2歩。3歩。イデアが着実に大きな背中との距離をつめて行く。
後、1歩。もう1歩踏み出せば、その背に抱きつける。イデアの手が「父」の背に伸びる――。
しかし。
「がっ……!?」
ドンと、鈍い音が響いた。
いつもナーガが腰に差していた【覇者の剣】の柄がイデアの腹部にめり込んでいた。
―― なんで……?
鈍い痛みと共に意識が消え行く。完全に思考が停止するまでイデアはナーガの背を見ていたが、結局彼は一度も振り返らなかった。
眼が覚めたイデアは冷たい床の上に倒れていた。
いつも眠っているベッドの柔らかさも何もない。どこまでも無感情で冷たい石の床。
起き上がり、周りを見渡す。
誰も居なかった。ナーガもイドゥンも、誰も。いつも傍に居た者は皆居ない。
「姉さん!? ナーガ!!」
怒鳴るように叫ぶが誰も答える者は居ない。虚しく声が反芻され、その後に訪れるのは完全な沈黙。
腹部に少々の痛みを感じながらも何とか立ち上がる。
カチャリという金属音が響いた。何か金属質のものが擦れたような音だった。
「これって……」
イデアが金属音を響かせた原因を手に取り、多少の重量があるソレを両手で何とか持ち上げる。豪奢な装飾の鞘と柄。
翡翠色のソレにイデアは見覚えがあった。
いつもナーガが持っていた【覇者の剣】だ。
「…………」
暫く呆然と手に持ったソレを見つめる。まだ、僅かであるがナーガの温もりが感じられた。そんな気がした。
「…うぅ・・・・あぁああああああ……」
降出した雨の様に、紅と蒼の瞳から涙が溢れ出し、雷鳴の様にはち切れた声が口から漏れる。
あまりにも理不尽で、あまりにも唐突な終わりに悲しみだけではない混沌とした感情があふれ出てきた。
イデアを除いて誰も居ない『門』に、無力な子供の悲痛な慟哭が響き渡った。
幕
第一部 あとがき
1年以上も続いてしまいましたが、1部完結です。
最後はかなり駆け足気味になってしまいましたが、
こうでもしないと作者が延々とほのぼのを書きたいという欲求に屈してしまいそうだったのでこういう形になりました。
第二部の件ですが、当初のプロットから第一部が大分脱線していってしまったので、もう一度プロットを隅々まで整理してから書き始めたいと思っております。
恐らく2、3ヶ月ほど掛かると思いますが、それまで気楽に待っていて下さるとうれしいです。
それとようやく小説版FE、エレブ動乱三部作を購入しました。これをじっくりと読解して二部からのプロットを煮詰めて行きます。
では皆様。二部の開幕にてお会いしましょう。
最後に全ての読者と、この素晴らしい場を提供して下さった舞様に心からの感謝を捧げます。