夜。世界は変わらず流れ、陽は地平線の彼方に没し、その代わりに月が天に昇り全てを照らす時間。
山岳地帯であるベルン地方の夜は例え夏の季節でも肌寒い。
石造りの廊下、床や壁が竜族の技術で煌々と明かりを放ち、視界を確保している通路をエイナールは自室に向かって歩いていた。
等間隔で配置された窓からは青く巨大な月が見える。まるで空に浮かぶ巨大なサファイアだ。
彼女の背にはニニアンとニルスが、布に包まって乗っている。
当初は『力』で持ち上げて部屋まで運ぼうと思っていたのだが、途中で眼を覚ました双子が母の背に乗りたいと言ったため、こうなった。
あえて転移の術は使わずに徒歩で背に確かな重みと、愛しい温もりを感じながらエイナールがゆっくりと『殿』の自室に向かう。
足を進めるたびに、辺りに視線を走らせ『殿』を隅々まで感慨深く見渡す。
何千年も暮らした故郷であり、家である『殿』をじっくりと脳裏に焼き付けていく。
愛しい家。愛しい故郷。そして数え切れない程の思い出が詰まった竜族の巨大な王都にして城。
「……くしゅ……」
エイナールが足を止めて物思いに耽っていると、背中の双子のどちらかが小さく咳きをする。
恐らくは寒いのだろうとエイナールは思った。早く部屋に帰ってベッドに寝かせなければ。
蒼い長髪を揺らし、背中の子供を背負いなおすと先ほどよりも速度を速めて足早に自室に向かう。
「!」
しばらく行き、部屋まであと少しという所でエイナールの氷竜としての優れた感覚が何かを捉えた。
感覚をいつもより研ぎ澄まし、その『何か』の正体を探る。
エイナールの紅い眼が不気味に輝き、ほんの少しだけ敵意を滲ませた。
背中の双子には気が付かせないように抑えられていても、それでも常人なら失神してしまうほどの殺気。
イドゥン、イデアにはあまり見せたことのない顔。強大な力を持った氷竜としての顔。
が、それも一瞬。『何か』の正体をその発達した気配探知能力で突き止めたエイナールは直ぐに敵意も殺気も霧散させる。
そして先ほどとは一転してその美麗な顔に何処か疲れた様な笑みを浮かべた。
「アンナ……早く出てきなさい、じゃないと『うっかり』凍らせちゃうかもしれませんねぇ?」
溜め息混じりに言い放つ。同時に人差し指を立てて、そこに冷気を集め出す。
パキパキパキと、空気が凍る音が不気味に廊下に響いた。
こんな概念的な“凍結”をまともにその身に受けたら竜族でさえ只ではすまないだろう。
……最も、エイナールはこの攻撃を放つ気など元よりないのだが。
強いて言えば、友人同士のじゃれ合いに近い。
「待ちなさいな。火竜が氷付けにされるなんて、冗談じゃありませんわ」
グニャリとエイナールの後方の“場”が捻じ曲がり、捻れた空間からいつもの紅いドレスを纏った紅い髪、紅い眼の女
火竜アンナがお手上げと言わんばかりに両手を挙げ、微笑を浮かべながら現れた。恐らくは魔術を使って隠れていたのだろう。
エイナールやナーガ等の気配探知能力が規格外な存在じゃなければ通用したのだろうが、些か相手が悪かった。
氷竜の気配探知能力は下手をすれば神竜並に高いのだ。幾ら術を重ねても、安々と誤魔化せる存在ではない。
「久しぶりですねー、アンナ。でも今は急いでいるので用事なら後にしてもらえませんか?」
にこやかに、しかし有無を言わせぬ迫力を持った気配でエイナールが告げる。
鋭く細められた眼はまるで獲物を狙う鷹のよう。
早く子供をベッドに入れたくて、多少苛立っているのかも知れない。
背中の子供の体温が少しずつ下がってきているのも一因としてあげられるだろう。
夜の冷え込む空気に当てるのは健康に悪いのだ。
アンナがニニアン、ニルスを見て、解を得たと言わんばかりに小さく頷く。
今まで何度も繰り返してきた、いつも通りの下らない話題ならここで謝って、おやすみと就寝の挨拶でもして別れる所なのだが、今回はそうも言っていられない。
アンナにはやるべき事がある。
「とても大事な話があるのよ……とても、ね」
口元と纏う空気に浮かべていた何処か胡散臭さの一切を消し去り、重々しい口調で火竜が告げる。
その眼には鋭い光が宿っていた。
そんなアンナに直感的に何かを感じ取ったのか、エイナールの美麗な顔に影が差した。
エイナールが背の氷竜姉弟を背負い直す。
幾ら氷竜といえどベルン地方の夜の空気は寒いのか、少しだけ辛そうな顔をしているように見える。
まだまだ子供の二人には辛い環境だろう。早く暖かい毛布の中で寝かせなければ。
エイナールを焦燥にも似た感情が支配する。
「とりあえず、話は私の部屋でしましょう。この子達も早くベッドに入れてあげたいですし」
その提案をアンナが拒否する理由は何処にも無かった。
「……この部屋に入るのも久しぶりね」
久しぶり……最後に入ったのはエイナールに“残るか”“行くか”の問い掛けをした時以来
一度も来れなかった親友の部屋に入ったアンナは思わずそう口に出していた。
エイナールは今ベッドの上にニニアン、ニルスを寝かせて毛布を掛け、寝かせつけている最中だ。
強大な力を持った氷竜であるエイナールが子供をベッドに寝かせて、
深く寝入るまでその髪を撫でてやっている光景はアンナに不思議な感覚を抱かせた。
しかも、子をあやしているエイナールの表情は正に幸せの絶頂と言わんばかりに輝いているものであり
そこには嫌々やっている等と言った負の感情は砂粒一粒程度もない。
(……母性、というものなのかしら……?)
エイナールから送られてきた手紙を思い出す。そして其処に書かれていたエイナールの苦労話や痴話話などなどを。
本当に、本当にいっぱい送られてきた手紙の数々だ。
以下にその一部を抜粋。
出産について。
――本当に死ぬかと思いました。あれほどの痛みは数千年生きてきた中で始めてでした。
でも、今までの生涯で最も達成感があった瞬間でもありましたね。
夜鳴きが酷くて眠れない。
――でも、一緒に寝てあげると直ぐに対応できるし、トイレや母乳以外では泣かなくなった。
オムツの替え方がよく判らない。
――夫と一緒に勉強して、頑張った。今では眼を瞑っても交換できるし、綺麗に洗えます。
湯浴みの入れ方が判らない。
――人肌よりも少しだけ温い温度のお湯で……。
首が据わった。
――これで先ずは一安心です。
喋り始めた。
――始めて「母」と呼ばれた時は天にも昇る気持ちでした。
立って歩き始めた。
――ずっと、私とあの人の後ろを追いかけるんですよ。愛しくて愛しくてたまらない。
会えない代わりにコレらの手紙をエイナールはアンナや神竜姉弟に送っていたのだ。
それはもう結構な頻度で。話題に欠かないから出来た事だろう。
「………」
ニニアン、ニルスを撫でていた手の速度をゆっくりゆっくり落としていき
最終的に双子の頭から手を離したエイナールが暫し様子を見るように沈黙。
スースーと規則正しい寝息だけが無音の部屋にやけにはっきりと響く。
完全に寝たわね……双子の気配を少しだけ探ったアンナがそう判断する。
起きる気配はない。それこそエイナールがこの部屋から出て行かない限りは。
子供は深く寝ている時でも、親の動きには敏感なのだ。これは人間でも竜でも竜人でも変わらない法則だ。
エイナールが足音を立てない様にベッドからそっと慎重に離れる。
少しだけ体を浮かばせているのだろう。肩の上下も足の動きも特に見られない。
スススとまるで闇夜に紛れて走る密偵のような動きでエイナールが軽やかにアンナの対面の椅子に腰掛ける。
何処からともなく杯が二つ飛んできて、二人の前に置かれ、その中に同じように飛んできたワインの入った容器から杯へと紅いワインが注がれる。
「待たせてごめんなさいね。 さて、用事とは何でしょうか?」
「えぇ……」
アンナが用意されていた杯と、その中に満たされた紅いワインを飲み喉と舌を湿らせてから、改めて口を開いた。
いつもならそんな事をせず、さっさと用件を言ってしまうような性格のアンナには珍しい。
「まずはこれを……長からの贈り物ですわ」
アンナが懐から取り出したのは一枚の紙。そしてエイナールに差し出す。
年季を感じさせる外見のソレから魔術的な要素を氷竜は感じ取った。
ただの紙ではないのは確かだろう。
受け取った紙の中身に眼を通す。
あっという間に中身を読み終えたエイナールが紙を折りたたみ、懐に大事そうにしまいこむ。
「ヴァロールですか……確かにあそこは人が居ませんからね……」
何処か他人事の様に呆然とエイナールが呟いた。
杯を手に取り中身を一気に飲み干す。
いつもの彼女なら一気飲みなどせずに少しずつ飲んでいくのだが、今日は違った。
まるで悪いことを酔いで忘れるのを望んでいるかのように豪快にワインを飲む。
「残るのですよね?」
アンナがワインを飲み干すのを見計らい問う。
もう答えなどほとんど彼女は判っていたのだが、あえて聞く。
最終確認をする。
はい、と。問われたアンナの親友が小さく首を縦に振った。
アンナの顔が何処か明るくなる。
「……暫くの間はヴァロールに身を隠していなさいな。
貴女はかなり有名だもの。ほとぼりが冷めるまでは下手に動かない方がいい。 ――最悪【里】の存在を知られたりなんてしたら大変だわ」
一気に言い切ると、一度杯に口を付け少し乾いた喉と舌を潤わせる。
「…………」
「…………」
沈黙。長い長い沈黙。ニニアン、ニルスの蚊の羽音程度の呼吸音が聞こえる程の完全な無音。
「……エイナール、ずっと前から聞きたいと思っていたのだけど、幾つかいいかしら?」
「なんですか?」
アンナが続ける。
「何故貴女は人を助けるの?」
口にするはアンナという竜が長年抱いていた疑問。
しかしあえて聞かなかった事。
どうして強大な力を持つ氷竜であるエイナールがわざわざ冬が来る度に遠いイリアまで赴き
そこに住まう人間のために力を行使し、守っている理由。
信仰が欲しいから? 貢物が欲しいから? 否。違うだろう。
彼女の親友はそういった物にはあまり執着を持たないのはアンナが一番知っている。
ならば何故なのだろうか?
……エイナールという氷竜の性格からしてみれば答えなど判りきったものではあるが、一応本人の口から答えを聞きたいのだ。
直接この長年の疑問を氷解させてもらいたい。
「…………」
無言でエイナールが窓の外を見る。
彼女の視線の先には蒼く美しい月が星夜に堂々と君臨し、夜の空における【太陽】となっていた。
紅い瞳の中に蒼い宝石を映しながら、イリアの人間から絶大な信仰を得ている氷竜が言う。
「何ででしょうね?」
「…どういう意味?」
親友の問いに彼女はしばし唸った後に答えた。
「正直、私もよく判らないんですよ。 ただ……」
「ただ?」
「始めたきっかけはともかく、私は私がそうしたいからやっているんですよ 今も昔も」
これからも、とは言えなかった。
アンナが大きく溜め息を吐く。
予想通りというか、斜め上というか、何といえばいいのやら。
底なしにお人よしなのか、それとも永い時を生きる竜の戯れか、もしくは……いや、やめよう。
もうこの話はやめよう。
「では次の質問ですけど、いいかしら?」
「はい。どうぞ」
「貴女の愛しい殿方の名前は何かしら?」
一瞬だけ呆気に取られた表情をしたエイナールであったが、直ぐに平常に戻った。
そして小さく口を動かし、その者の名前を紡いだ。
氷火の宴はもうしばらく続く。
――眠れない。
ベッドに潜り、眼を瞑ったイデアは中々寝付けないでいた。
何度も眠ろうと意識を集中させたり霧散させたりするが、逆に眠気がなくなっていくのだ。
まるで蟻地獄に囚われた蟻の如くもがけばもがく程求める安らぎから遠ざかっていく様な気さえもした。
無駄に広いベッドの中をモグラ(土竜)のように這いずり廻り、安眠の地点を求めようとするが一向に見つからない。
気が付けば彼は何時の間にか最初の地点に戻ってきてしまっていた。
毛布から顔を出し、月の光と暖炉の炎に照らされた部屋を見渡す。
苛立ちにも似た感情がイデアの胸中を埋め尽くしていた。
あのエイナールの言葉。そしてこの理解出来ない焦燥感。一体なんだというのだ。
少しだけ外の冷気に当たって、頭を冷やすか。
そう思いベッドからイデアが抜け出そうとするが……。
がっ。
何者かに腕を強く掴まれた。
そのまま毛布の中に引きずりこまれる。
「ひぃああああ!!??」
まぁ、何者と言ってもこの部屋に現時点ではイデア以外の人物は一人しかいないので
それが誰かは考えるまでもないのだが、根っこの部分で臆病な所があるイデアは間抜けな声をあげてしまった。
だが、それも一瞬。次いでイデアが顔に感じたのは柔らかく暖かい感触。まるで上質なクッションに顔を埋めた様だ。
ほんの少しだけ香は上質な花とミルクの様な匂い。人の心を安心させる匂い。
例えるならば母親の胸の中のような。
うん?
ここでイデアが唐突に気が付いた。こんな事が確か昔にもあった様な気がする。
あの時は確か、凄く平べったかったけど。そして髪の毛を無茶苦茶に撫で回された様な……。
恐る恐る顔を上げてみる。少しだけ布擦れの音がした。
「眠れないの?」
予想通りの姉の顔。蒼と紅の特徴的な眼をした神竜の人間時の顔。
朧な月の光に照らされ映るその顔は身震いする程に美しい。
まだ少しだけ湯浴みでの熱が残っているのか、少しだけ彼女の顔が赤いのがイデアには判った。
「……」
うん。と、小さく頷く。
イドゥンの顔がぱぁっと輝いた。
そして何処か嬉しそうに彼女が言った。
「実は私も眠れなかったんだ~ 眠っちゃうまでお話してようよ!」
興奮しているのか、やけに口調が軽い。
……気持ちは少し判るが。
さしづめ、旅行で泊まった宿などで夜になると無駄に気分が高揚するあれだろう。
イデアも前の世界で経験した事があるからその気持ちは判らなくもない。
「別にいいけど、何を話すのさ?」
「何でもいいよ!」
イデアが小さく溜め息を吐いた。
「何でもいい」というのは……一番困る。
それに何よりも、この柔らかい感触に包まれていると先ほどまでの悶々とした気持ちが嘘の様に消え去り、眠くなってくる。
気分は母親に抱かれた赤ん坊と言ったところか。
(…………エイナールよりは小さいか。 しかし、姉さんも案外………でも、まだまだ小さい部類かな? どうなんだろ?)
そんな失礼な事が一瞬だけ頭をよぎる。彼も男なのだ。
しかし本当に心地よい。
このまま話題を考えているふりをして寝てしまうか?
しかしそうは問屋が卸さない。現実はいつだって思ったようにはいかないものだ。
ぎゅうっと、イデアの背に回された手が彼をきつく抱きしめて、イデアの顔を胸部に強く密着させる。
もちろんそんな事をされれば呼吸が困難になることは明白だ。柔らかさや温もりなどを堪能している暇などない。
「!! っ!! !!!???」
耳と腕をバタバタさせてイデアが危機的状況から脱出しようと無駄な足掻きを行う。
時間にして僅か数秒、しかしイデアにとっては永い数秒。それを経てようやく力が弱まり、開放される。
「……何か、凄く失礼な事を考えてたでしょ?」
耳元で、そっとそう呟かれてイデアが身を凍らせた。
……ちょっと胸の大きさを比べてただけじゃないか。
まずい。何でかは知らないけど、完全に読まれている。急いで話題を変えなければ。
酸素を体内に取り込みながらイデアが必死で考える。
そしてこれだ、と思った話題を口にする。
「む、昔もこんな事があったよね?」
「? 始めて湖に行った日の前の日のこと?」
イデアの話題逸らしに簡単に引っかかり、イドゥンが答えた。
「日付まで覚えてるの?」
「うん。私とイデアが始めてお勉強以外の為に外に出て、空を元の姿で飛んだ日だしね」
エイナールが企画し、ナーガが許可を出した旅行はイデア以上に彼女にとって特別な日だったのだろう。
はっきりとイドゥンはその日の事を覚えていた。
あの日、弟やエイナールと食べた焼き菓子の味を彼女はしっかりと覚えている。
イデアにとってもエイナールがイリアに帰ると聞いてショックを受けた事を覚えている。
そして子供の様に駄々を捏ねた事も。姉に諭された事も懐かしい。
「お父さんが迎えに来たんだよね。イデアを背負って帰った!」
「あぁ……うん」
イドゥンがその時の様子を脳裏から再生しながら、嬉しそうに語る。
遊びすぎて足腰が疲れてしまい、自力で立てなくなって仕方なくナーガに背負われた事を思い出し、イデアが顔を紅く染めた。
あの時、ナーガは確か回復魔法を自分に使おうとした筈。なのに自分は何故かそれを断って彼におんぶしてくれと言ってしまったのだ。
今思い出すとあれは凄く恥ずかしい。何で素直に魔法を掛けてもらわなかったのだろうか?
……まぁ、ナーガの背中は広かったし、凄く居心地がよかったけど。
「その後、エイナールから『殿』に帰ってくる手紙が来た時は凄い喜んでたよね」
思い出話という花が徐々に咲いてきたのか、先ほどよりも饒舌にイドゥンが弟に笑いながら言う。
凄く楽しそうだ。
「うぅ~~……」
エイナールから手紙が来た時の自分の狂喜乱舞ぶりを思い出し、恥ずかしくなってしまったイデアがベッドに潜ろうとするが
そうはさせまいと彼の姉が背に回した腕に力を込めて、自分の胸と腕で挟み込んで逃がさない。
「あぁあああ……」
逃げられないと悟ったイデアが絶望の声を上げて、力なく姉の胸部に顔を預ける。クッションみたいに心地いい。
尖った耳がせめてもの抵抗と言わんばかりに力なく垂れて耳の穴を塞ぐが、そんなものでは音の侵入は全く防げない。
「他にもね~~」
完全に調子にのッて来たイドゥンが楽しそうに語り出す。
―― お父さんに焼き菓子を作ったこと。
―― イデアに何度も遊戯版で負けたこと。
―― そんなイデアがお父さんに完膚なきまでに遊戯版で負けたこと。
―― エイナールが子供が出来たという内容の手紙を送ってきたこと。
―― 始めてニニアン、ニルスに会った日のこと。
―― その後、イデアが撫でて欲しいと言ったこと。
―― イデアにくすぐられたこと。
―― イデアと一緒に申請書を書いて、サカに行ったこと。
―― ハノンさんと出会った時のこと。
―― そんな中で飛竜に襲われたこと。
一つずつ、まるで全ての出来事が昨日起こったかの様に詳しく、思い出話を語るイドゥンは本当に楽しそうだ。
いつしかイデアもそれに聞き惚れてしまい、一つ一つの話にリアクションを返していた。
「イデアがあの飛竜にやられたって聞いた時は本当に心配したんだよ~? 判ってるー?」
「ちょ、ね、姉さん……息が……!」
うりうりとイドゥンがイデアの背をぎゅぅぎゅぅと圧迫する。
今話しているのはイデアが気絶し、ナーガがやって来て飛竜の群れを殲滅した後の話だ。
ハノンとその愛馬(ウィルソン)の傷をもう一回【ライヴ】を掛けて完全に治癒し
子供が世話になったと、赤い宝玉をナーガがハノンに渡そうとした所、彼女が受け取りを拒否し重い空気になった事などなど。
「しかしまぁ、よく覚えてるね。どこまで覚えてるの?」
「凄くうっすらとだけど……イデアと始めて会った時の事も覚えてるよ」
え? とイデアが返す。じゃ、どんな事があったか覚えているかい? と問う。
「お父さんがちょっと怖かったなぁ……」
記憶の最深部にある竜の姿に戻ったナーガの姿をツギハギで再生しながら彼女がしみじみと言う。
あぁ、確かに最初のナーガの姿には心臓が飛び出る程に驚かされたなと、イデアが思う。
「ねぇイデア?」
「ん?」
不意に彼女が抱きつく力を弱めて、イデアの顔を真正面から見つめる。
綺麗な色違いの眼。理性と知性、好奇心と力強さに優しさと美しさ、その全てが多分に含まれたこの世で最も美しいであろう瞳の一つ。
そして彼女はその美麗な顔に満面の笑みを浮かべた。
太陽の様に輝き、夜空の星のように美しい笑顔を。
「私の弟に産まれてきてくれて、ありがとう。 これからもよろしくね!」
「…………………………」
顔を真っ赤に染めたイデアが、姉の胸に顔を埋めた。
そして無言のまま頭を小さく振る。
「……ど……ぃ… ま……て」
ボソッと小さく呟くと、そのまま動かない。
まるで先ほどのニニアンとニルスがエイナールに甘えていた時みたいだ。
「うん。どういたしまして」
かつてイデアに教わった返答をし、イドゥンが弟の頭を撫でてあげる。
たしか、これをすれば彼は眠りに付くはずだ。
イドゥンと一緒ならこのエレブでずっと生きていける と、イデアは頭を撫でられながら思った。
これは、そんなイデアのお話。
あとがき
4月中に終わらせるとかほざいといて、このざまだよ!
何か終わりが完結っぽいですが、まだまだ終わりません。
全体の4分の1程度です。
……完結させられるか、ちょっと怖いです。
では、次回の更新にてお会いしましょう。
予定通り行けば、次で第一部完結です。