月日がまたグルグルと油をさされた歯車の様に軽やかに周り、気がつけばエイナールの驚愕とも言える手紙での告白からまた一年と少しが経過していた。
今は冬の後半とも言える季節だ。
イデアの時間に対する感覚の変化は顕著だった。気がつけば一週間、気がつけば一ヶ月と、凄まじいまでの速度で進んで行ってるのを彼はまざまざと肌で感じていた。
このまま行けばあっという間に年を取って老衰でぽっくり逝ってしまいそうだが、それは人間の話。竜が老衰で死ぬなどほぼ有り得ない。
少なくとも神竜である彼は老化による死を恐れる必要は無いのだ。それが彼にとって幸せなことかどうかは置いておくとして。
イデアが月日の流れを早く感じるようになった原因はもしかすれば感性が徐々に人間のそれから変化し始めているからかも知れないと彼は薄々感づいていた。
しかしこのエレブには人間だった頃の彼を知っている者など存在しないので、考えたところで意味がない事柄なのかも知れない。
とりあえず、イデアは毎日が楽しいから時間が過ぎるのも早いのだと自己完結させている。
その日、イドゥンとイデアの二人はいつにもなく緊張していた。
これほど緊張感を覚えたのはいつ以来だろうか?
恐らくは誕生した日の竜の大群を見た時や竜化したナーガのあの神々しいまでの威圧感に当てられた時ぐらいだろう。
今日はエイナールが殿に帰ってくる日なのだ。二人の子供を赤ん坊を連れて。
……そう、子供は二人。何の因果かイドゥン、イデアと同じ双子だ。しかもこれまた因果な事に姉と弟という構成。
正直な話イデアは何かの意思を感じて身震いしたほどだ。
神という存在は神竜を除けばあんまり信じていない彼だが、運命というものは少しだけ信じてもいいかなと思った。
エイナールが自らの愛しい子につけた名は、姉は【ニニアン】弟の名前は【ニルス】双子とも氷の精霊であるニニスからもじった物らしい。
エイナールから送られてきた手紙にはそう書いてあった。
その後に続くのは延々と娘と息子の愛くるしさや、夜鳴きはするけど特に苦ではないやら、ニルスは夫に似てるとか、ようやく首が据わったとか、ニニアンは私に似てるとか
夫も子育てを付き合ってくれるとか、俗にいう「嬉しい悲鳴」という奴だ。定期的に送られてくるそれらを姉と一緒にニヤニヤしながら読むのがイデアの今の一番の楽しみだった。
だが、時々手紙の内容があまりにも甘すぎて想像だけで胸焼けを起こしかけた事もある。そんな時はデザートは姉に譲ってあげるのだ。
あぁ、あの時の申し訳なさそうな、それでいてデザートを多く食べれる事に対して何処か嬉しさを隠しきれてないイドゥンの顔もかわいかったなぁ……。
そして今日、遂にエイナールが殿へと帰ってくる。日帰りという条件付だが。
夫との付き合いを考えればまぁ、妥当だろう。そう、何日も一人ぼっちで家の番をさせるというのも酷なものだ。
というか、夫も殿にくればいいのに、何で来ないんだろう?
夫と言えば、そういえば手紙にも一度も夫の名前が書かれてなかったなと、イデアはふと思いだした。直後にだからそれがどうしたと思い、頭をブンブンと大きく振る。
エイナール達にはエイナール達の都合があるのだろう。あまり詮索するのはよそう。嫌われる原因になる。
どうやら自分で思ってた以上に興奮しているようだ。一回冷水に顔を突っ込んで頭を冷やしたくなる。
だから、窓を少しだけ開け、山の空気(雪が降るほどの寒さ)に頭を晒し、降り注ぐ雪を頭に積もらせて冷凍させる。
「イデアー、大丈夫? 少し落ち着こうよー……それと寒いから窓しめよ?」
さっきから落ち着き無く動き回り、その度に何もない所でずっこけたり、家具に身体をぶつけたり、挙句に窓を開け、頭を極寒の外に突っ込んでるイデアに彼の姉が不安そうに聞いてくる。
今の彼の様子はとにかく怪しかった。それでいて滑稽さもある。大道芸人として生きていけるのでは? と思えるほどに。
「だって……ねぇ……? 動いてないと、どうにかなりそうなんだもん」
頭の上に小さな雪だまを乗せたイデアがキッとイドゥンを睨むように言い返す。
が、直後頭上に「頭冷やせ」と言わんばかりに多量の雪がドサッと落ちてきて、イデアの頭を小さくて滑稽な雪だるまに変えた。雪球から耳だけが露出して、パタパタ震えて雪を落とす。
イデアが口の中に入った雪を咳き込み、吐き出す。
そして、何かを悟ったように彼は呟いた。
「・・・・大人しく、待ってよっか・・・・・」
「……うん」
顔面を雪だるまに変貌させた弟の提案をイドゥンは受け入れるしかなかった。
「それにしても、姉さんはどう思う?」
イドゥンに手渡された布で頭をゴシゴシと拭き、暖炉の前で小さく震えながら暖を取っているイデアが、後方のベッドに腰掛けた姉にこの1年で何度も聞いたことを再び問う。
それに答える彼の姉の答えはこれまたいつもと変わらない。
「私は、詳しくは判らないけど、エイナールが嬉しいならそれで……」
ここまでは何時もと同じ。しかしエイナールが子供を連れて『殿』を訪れる今日はこの答えに少しの増量があった。
イドゥンが両手の指をもじもじさせながら顔を真っ赤にさせながら言う。
「それに……赤ちゃんもちょっと見て、許されるなら、触ってみたいし……」
「……ニニアンがエイナールに似てて、ニルスの髪の色は夫そっくりだって書いてあったね」
髪の毛を拭き終わり、後は暖炉で乾かすだけになったイデアが満面の笑みで姉に言う。
何だかんだで彼も早くエイナールの子供達にあって見たいのだ。そしてあわよくば触ってみたい。
それにしても、とイデアは思う。エイナールと結婚できた夫は何て勝ち組なんだろうと。
もしも、もしもだが、彼女を泣かせたりなんかしたら、その男の顔の形が馬みたいに変わるまで殴ってやろうと、密かに彼は思った。
“トントン”
不意に双子の部屋のドアが規則正しくノックされた。双子が飛び上がる。
「あの、エイナールです。入ってもよろしいでしょうか?」
部屋の外から聞こえてくるのはとても懐かしい、聞いていると何処か人を安心させる柔らかい声。
イデアが立ち上がり、姉の横に歩いていき。そこに腰掛ける。
双子の返事は決まっていた。意図せずに自然に声を合わせて叫ぶように答える。
二人の声が合わさり、二重になった。
「「どうぞ!! まってたよ!!」」
「では、失礼します」
ガチャっと部屋の扉が開かれ、一人の青いゆったりしたローブを着た女性が赤子を乗せた揺り篭を宙に浮かばせながら部屋に入ってくる。
その姿を見てイデアは思わず言葉を無くし、見入った。そして何故か唐突に涙が溢れそうになった。
一年ぶりに見たエイナールの外見はそこまで変わってはいない。当たり前だ。人間でも余程のことがない限りは1年では余り外見は変わらない。
外見は変わらない。しかし彼女が纏う気配は大分様変わりしていた。
それはまるで等しく全てを愛する女神の様な。
それはまるで子を立派に独り立ち出来るまで、愛を持って育ててくれた慈愛に満ちた母の様な。
それはまるで道を踏み外しそうになった子を叱り、導こうとする親の様な。
それはまるで自分の為ではなく、他者のために全てを捧げえる程の強い精神を持った天使の様な。
以前から持っていた全てを包むような柔らかく温和な気配は、更に結婚という竜族でもあまり無い経験を糧に
二児の母としての貫禄と、子を持った親の凄みとも言えるものをエイナールに足していた。
1年会わない内にエイナールが何処か自分でも手の届かない場所に行ってしまったようにイデアには思えた。
始めて会ったとき、驚愕のあまり顔を崩して叫んでた彼女が懐かしい。
「ぁ……エイナー…ル?」
イデアが何とか声を振り絞り、眼の前の女神のような人物、いや竜に何ともアホらしい質問を問う。
――貴女はエイナールですか?
エイナールが例えるなら鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。それは姉弟が知っている、驚いた時のエイナールの顔だ。
……あぁ、良かった。この人はエイナールだ。と、何ともどうしようもない事にイデアが安寧を覚える。
「あ、はい。私はエイナールですけど……」
「あ、いや。馬鹿なこと聞いちゃったから、忘れて。というか忘れてクダサイ」
済まなそうな顔で答えるエイナールにイデアが慌てて謝罪の弁を述べ、先ほどの醜態を返上しようとする。
しかし言葉が上手く紡げず、あーでもない、こーでもないと彼の中で論争が始まってしまった。
「久しぶりだね! エイナール」
イデアがあたふたしてる間に彼の姉がエイナールに話しかけた。
彼女にとっても今日と言う日は正に一日千秋の思いで待っていたものなのだ。
「お久しぶりです。イドゥン様、イデア様」
エイナールがローブの裾を小さく持ち上げ、挨拶をする。
その一連の動作がまた絵画に出来るほど美しく、イデアの脳内論争はあっという間に閉会してしまった。
そして今度はその光景を網膜と記憶に焼き付ける作業に全能力を回す。
「今日は赤ちゃんも連れてきたんだよね!?」
イドゥンが期待に眼を文字通り輝かせながら彼女の傍に安置している揺り篭に眼を向ける。
その視線にこもった思いは純粋な子供の持つ自分が未だ見たこと無いものに対する好奇という感情。
「はい。今日は二人とも連れて来ました」
エイナールが揺り篭をゆったりと揺らさないように眼の前に浮かばせ、持ってきて、その上に掛けてあった薄い布のベールを取る。
イドゥンがそこに居た者に対し、イデアの様に声を失う。
二人の赤子が、寄り添うように。――まるで最初の日のイドゥンとイデアの様に、氷竜の姉弟はいた。
スヤスヤと安心しきった笑顔の表情で眠っている。ニニアンと思われる(髪の色でイドゥンとイデアはニニアン、ニルスをを判別した)赤子は
首に小さな、銀色の指輪を紐に通して掛けている。そして氷竜姉弟を守るように薄っすらとエイナールの青いエーギルがオーラのように覆っていた。
恐らくはかなり強力な魔術の守護だろう。迂闊に触ったりなどしたら、どうなるかは眼に見えている。
二人の赤子はまだまだ小さい。が、それでも生きてると一目で判る力強いエーギルを双子は感じた。
「あ、あの! 触ってもいい……?」
イドゥンが頬を朱色に染めあげ、何処か艶かしい表情で勇気を振り絞り己の願望を告げる。
エイナールがそんな彼女を見て、少しだけ考える表情をした後、答えた。
「はい。どうぞ」
彼女が手を軽く横に振ると、赤子達を守っていたオーラが霧散する。
イドゥンが恐る恐るといった様子で手を震わせながら赤子の頬に近づける。
彼女の弟がゴクリと固唾を呑み、自分でも知らないうちにギュッと握りこぶしを作ってその結末を見守る。
「あ……柔らかい……」
ふに。そんな効果音が似合うほど呆気なくイドゥンの手はニニアンの頬に触れ、プニプニとその感触を確かめる様に何度も押したりする。
その度にニニアンの頬は素晴らしいまでの弾力で彼女の指を押し戻す。
「…あぅ……」
ニニアンがくすぐったそうに小さく声をあげ、その小さな指でイドゥンの指を握ってそのまま口元に持っていき、ちゅぱちゅぱと舐め始める。
「い、イデアーー……?」
イドゥンが助けを求めるようにリンゴのような真っ赤な顔で頼れる弟の名を呼ぶが、彼は小さく肩を竦め、俗に言う「お手上げ」の意を示す。
イドゥンが泣きそうな、しかし決して嫌悪ではない表情を浮かべ、視線をニニアンに戻し、その顔を凝視する。
一心不乱に自分の指を舐めるニニアンを眺めていると、何だか狂おしいまで愛おしさが湧いてくるのを神竜の姉は感じた。
まだ歯は生えてないらしく、時折ハムハムと噛まれても痛いどころか、心地よい刺激だ。
「エイナール。一つ聞いてもいい?」
イドゥンの気がつかない内に彼女の傍に接近していたイデアが、ニニアンを愛おしげに眺めかながら、氷竜姉弟の母に質問する。
「何でしょうか?」
エイナールが優しげに答えた。
「ニニアンの首に掛かっている指輪は何?」
イデアがニニアンの首に紐に通されて掛かっている指輪を示す。薄く青白く光る銀色のそれは一目でただの指輪ではない事が窺われる。
まるで氷竜姉弟を守る意思が込められているようにニニアンの首元でゆらゆら揺れている。まるでイドゥンが敵かどうか決めているようだ。
少しすると、敵ではないと解が出たのか揺れが収まった。同時に青白い光も消える。
「それはですね、『ニニスの守護』という名前でして。私の竜石を削って作った指輪ですよ。ありとあらゆる災厄からこの子達を守る力を込めました」
言われてイデアがもう一度、じっくりと指輪を観察する。
魔力さえ込めて観察すると、指輪の中には膨大な量のエイナールのエーギルが吹雪のように渦巻いているのがイデアには見えた。
最早この指輪はエイナールの分身と言っても過言ではないだろう。
……なるほど。子を守ろうとする母の意思が具現化したものか。
理解したイデアがうんうんと関心したように頷く。触ってみたいが、汚したりしたくないのでやめておく。
自分達の一応の父であるナーガは自分達を此処まで思ってくれているのかどうか少しだけ彼は気になった。
「あ……寝ちゃった」
イデアが考え事に集中していると、イドゥンが声をあげ、彼の意識を現実に引き戻す。
現実に帰ってきたイデアがニニアンを見てみると、彼女は握った指を咥えたままスヤスヤと安らかに寝ていた。
「どうしよう?」
イドゥンが先ほどと同じ困った顔でイデアに聞く。イデアが視線をエイナールに向けた。
エイナールが軽く頷くと、手を伸ばし、優しくニニアンの指を解いてやる。
一瞬だけ険しい表情をしたニニアンだったが、エイナールが頭を撫でてやるとすぐに安らかな表情になった。
イデアがおずおずと手をニルスに伸ばし、頭を撫でてやる。イデアと同じ弟の彼も姉と同じく安心しきった笑みで眠り続けていた。
「ねぇ。エイナール」
ニルスの父親似だという薄い緑が掛かった髪の毛を優しく撫でながらイデアが何気ない声音でエイナールに聞く。
答えなど始めから判りきっているが、それでも本人の口から確認を得たいのだ。
「はい?」
「……いま……幸せ?」
「はい」
エイナールは一片の迷いなく、最高の笑みでイデアの予想通りの答えを言った。
「はぁ……」
その日の夜、エイナールが帰った後、イデアは疲れた様にベッドにその身を埋め何度も何度も溜め息を吐いていた。
なにやら胸の中がムカムカにも似た黒い感情に満たされていて、お世辞にも上機嫌とは言いがたい。
「何なんだろ……」
ゴロゴロ、ゴロゴロと身体を回転させながら原因を考えるが、何も判らずに苛立ちが募っていく。
そもそも何故苛立っているのかも自分でもわからない。エイナールに夫と子供が出来たのは喜ばしい素晴らしい事なのに何処にイラつける要素がある?
何もない。無い。絶対に無い。顔も名前も知らない男があの優しい女性と結婚したぐらいじゃないか。
もしも彼女を泣かせたりしたら顔面を竜のブレスで焼いてやると決めた男だ。殴る程度ではやはり物足りない。
「あぅ……」
ゴロゴロと纏まらない思考を何とか纏めようと足掻いていると、イデアは何かにぶつかった。
「イデア、どうしたの?」
そのぶつかった何か――彼の姉の顔が上下逆さまでイデアの視界に映る。
イデアが身体を少し起こし、姉の顔を正常に戻す。イドゥンはベッドの上に座っていた。
「な、なに?」
そのままじぃっとイドゥンの顔を凝視する。少しだけ、気分が楽になった。
しばらくそうしていたイデアだったが、のっそりと身体を動かすと、その頭をイドゥンの膝の上にゆっくりと乗せる。
そのまま微動だにしない。
「イデア、ほんとうに大丈夫?」
「撫でて」
心配そうに声を掛ける姉にイデアがぶっきら棒に一言で要求を伝える。
言われたイドゥンは一瞬眼を瞬かせ言葉をゆっくりと咀嚼し、自分の膝の上のイデアに眼を落とす。
其処に映ったイデアが何やら何時もよりも幼く見えた。そう、具体的に言うなら拗ねた子供だ。
何だかそれが可笑しくて、フフフとエイナールに似た柔らかい笑みを零すと、イドゥンは弟の頭に手をやり、エイナールがニニアンにやったように金色の髪の毛を優しく撫でてやる。
しばらくそれを続けていると、やがて小さな寝息が聞こえてきた。
あとがき
あけましておめでとうございます。作者のマスクです。
今回の話を書いてて、真剣に先の展開を変えてしまおうかどうか悩んでしまいました。
では皆様。次の更新にてお会いしましょう。