“ポンッ!!”
どこか拍子抜けしそうな間抜けな音が部屋に響く。
コルクを力ずくで思い切り引き抜いた時に発せられる音に酷似しているそれは、残念ながら上質なワインの瓶の栓を抜いたから発生した訳ではなかった。
ならば何処からあの独特で間抜けな音は響いたか? その疑問に対する解は簡単だ、今暖炉先端からもくもくと煙を立ち上らせている指を向けて椅子に座っている童――――イデアの人指し指からだ。
「あ~~~、難しいなぁ……」
ふぅ、と軽く息を漏らしたイデアが暖炉に向けていた人差し指を眼の前に持ってくる。
少しだけ焦げ臭い、灰色の煙を上げるそれをまじまじと暫く見つめ、分からないと言わんばかりに首を力なく左右に振る。
そう現在は魔道の練習中なのだ。
そして視線を指から下、白い布に包まれた正面の腰に、正確にはそこに置いてある確かな重みを訴えてくる一冊の所々に染みがある分厚い本に送る。
この年季を感じさせる本の名前は【ファイアーの魔道書】 なんて事はない只のそこらへんにある下級魔術の発動媒体である。
そしてこの古ぼけた、最下級の希少価値など欠片もない魔道書こそイドゥンとイデアの魔道の練習の道具にして教科書である。
いや、もしかしたら後々神竜の姉弟が練習に使っていたという理由で価値がでてくるかも知れないが、少なくとも今は只の最下級の魔道書である。
魔道書にエーギルを送り込み、魔道書が送られたエーギルを魔力に変換し、変換した魔力を【炎を生み出す】という事象に変えて、その事象の操作権をイデアに送る。
それと同時にあまった魔力は操作権と同時にイデアに返され、体内でエーギルに再変換される。
そして操作権を得たイデアが炎を操るといった具合だ。
以上が魔道書を使った魔道の発動の仕方とその原理である。
しかし魔道書はあくまでも補助の道具、卓越した魔道士ならば書に頼る必要はない。何よりも術を使うのに大事なのは書ではなく、力のイメージとその力を従える強い精神力なのだ。
なお、余談ではあるが竜族等の最高位の魔道士がエーギルを余りにも書に注ぎこみすぎると、許容量を超えた力を送られた書が壊れてしまうこともあるらしい。
だが、例外というのいつでも、何処にでも存在する。中には補助の道具という枠から著しく逸脱した、それこそ手に取っただけで精神を、魂を侵食し食い荒らす程の
とてつもない力を内包した魔道書というのも確かに存在するらしい。
だが、今姉弟が手に取っているのは世に溢れんばかりにある魔道書、いわば魔術を習うものたちの教科書のような物なので特に侵食されるなどの心配は無い。
ナーガはこの練習用の魔道書を二人に渡し、簡単な使い方と術を使うときは暖炉に向けてやれと言った後水の入った木の桶を置いて、急いでいるのか直ぐに部屋から出て行ってしまった。
何処か慌しいその様子をイデアは「父」に似て意識的に作った無感動な顔で、イドゥンはお父さんが自分に構ってくれない不満を多分に込めた眼で見ていた。
「ま、きらくにやるさ……」
何処かおどけた調子でそう言うと、手を小さく二、三回ぶるんと振るってまだ少し残っていた煙と焦げ臭いにおいを払い飛ばし、何気なく、特に理由などないが、眼を隣の人物に向ける。
そして思わず
「……凄い………」
こう零してしまった。
隣の人物―――自分の姉であり、唯一この世界で気の許せる存在であるイドゥンの練習の進み具合を見たイデアの口からは驚嘆の声が出ていた。
大きな宝石のような赤と蒼の両目が眼前の世界をその二つのレンズに映し出す。
それは本当に幻想的で、何よりも神秘的な光景だった。
補助の【ファイアー】の魔道書は真ん中程度の頁から開かれており、まるでイドゥンを守護しているかのように彼女の胸元近くで滞空していて
彼女から送られるエーギルに反応し淡く、赤い炎のような色を帯びている。
瞼を閉じて意識を集中させている彼女の、暖炉へと伸ばした細い人差し指の先端へと赤い光は集中していき――
【ファイアー】
――ちいさな、本当に小さな、束ねられた藁に火を付けるのがやっとのぐらいの大きさの、炎とさえ呼べないちっぽけ過ぎる火の球が放たれた。
しかし、勢いよく射出された球は暖炉にくべられた薪にも火をつけることは適わず、薪の乾燥した表面に弾かれて、火の球は消えてしまった。効果は薪の表面から少しだけ煙が出たが、それだけだ。
「ぅん……」
最下級の術とはいえ慣れない魔術を行使した疲れを少しだけ宿した眼を開けると、じっと見ているイデアの視線に気がついたのか顔を弟のほうに向ける。
そのまま首を少しだけ、斜めにゆったりとした動作で傾けてその美しい眼にイデアを捉えた。
「どうしたの?」
「いや……あ~……」
ただ、何気なく見てただけとは気恥ずかしくて言えない。ましてはあの光景に見惚れてたなどそれこそ口が裂けても言える分けがない。
何とか元の世界の頃から、お世辞にも余り優秀とは言えない平凡な頭脳を全速力で回転させて言葉を選ぶ。
「ね、姉さんはどういうふうに魔術を、つかったの!?」
そして咄嗟に出て来た言葉がこれだ。
両手と両耳を大きく飛竜の翼のように上下にばたつかせながら半ば叫んで言うイデアの姿は第三者から見ればとても微笑ましく映るだろう。
だが当の本人、いや、本竜はこれ以上ないほどの捻りがない言葉に自身の無学を恨み、自分を殴りたいと思っていたが。
しかし弟の内心がそんなものとは露知らない彼の姉は細い指を顎に当ててイデアに答えるべく頭を動かす。
ある意味ではイデアの誤魔化すという目的は達成されていた。
「こう、ながれてきて、ぽんっ! みたいかな?」
「ぽ、ぽんっ?」
「うん。ぽんっだよ」
忙しなく華奢な手を先ほどの自分のように動かしてその感覚を説明するイドゥンにイデアが聞き返す。
いや、言葉の中の流れてくるものというのは力の流れの事だというのは何となく分かったが、それに続くポンっという擬音がどうしても理解できなかった。
イドゥンの、姉の説明を頭で理解しようとしたが……。
「やーめたっ!」
とりあえず難しく考えるのを放棄した。要は竜化の時と同じ感覚で理解するものだと自身に言い聞かせる。
自転車と同じで何度も諦めずに続けていれば慣れてくるだろうと楽観的に考える事にイデアはした。
「……」
そんなころころと表情を変える弟を不思議そうにみていたイドゥンだったが……。
何を思ったのか、今座っている大人用の足がつかない椅子から飛び降りると、そのまますぐ隣のもう1つのイデアが座っている椅子に歩み寄り。
金色の光を宿した手を一振りした。光が宙で固まり擬似的な竜石となる。
「えいっ」
空中に自分の金色のエーギルを固めて足場を作ると、それを足がかりに弟の椅子に飛び乗る。その衝撃で頑丈なつくりの椅子が少しだけ揺れた。
「ね、姉さん?!」
余りにも突飛な姉の行動にイデアが驚きの声を出す。
だが、彼の姉はそんな事は関係ないと言わんばかりにイデアに擦り寄る。
元々、ナーガ程度の体格の大人が座ってもスペースに結構余裕がある椅子なので、子供二人で座っても特に動きづらくなどはない。
イデアが身体を捻り、隣に当然のように座っているイドゥンを見る。そこに居て、確かな温もりを伝えてくるイドゥンは嬉しそうに、心の底から太陽の様に笑っていた。
それを見ていたら何故かイデアも腹のそこから笑いたいという欲求がこみ上げて来た。
おかしい事なんて1つもないのに、何故か面白くてたまらなかった。
いや、厳密には少し違うか。これは面白いから笑うのではなく。嬉しいから笑うのだ。
そう、こうして二人でいれるのが嬉しいからだ。幸せだからだ。
だから笑う。
ひとしきり小さくクスクスと似た声で笑い合うと、イデアは口を動かし、今度は意味のある言葉を出した。今なら今まで気になっていた事を聞けると思ったからだ。
「ねえ、姉さん。すこしきいていいかな?」
「なぁに?」
イドゥンが何でも聞けと! と、言わんばかりにそのまだまだ発達していない平らな胸を張り、答える。
そんな姉に少しだけ前の世界で言われていた「萌え」なるものを感じながらイデアが言う。
「姉さんは魔術のちからを手に入れたら、そのちからで何をしたい?」
予想外な質問にイデアの姉がほんの少しだけ固まった。てっきりあの魔道の入門書に書かれている事に対しての質問が来ると思っていた彼女には
この質問は本当に予想外だった。
実は彼女、少しだけだが寝る時間も削ってあの本の中身を完全に暗記しているのだ。
……最も、イデアも何とかあの本を暗記していることをイドゥンはまだ知らないが。
だが、予想外ではあったが、決して難しい質問ではなかった為イドゥンは答えられた。要は自分が手に入れた力の振るい方を答えればいいのだから。
彼女は力の振るい方などという哲学染みた小難しい事を理解できる程、成熟などしていないので心のあるがままに答えた。
「なにもしないよ」
「え?」
イデアが驚きとは少し違う、ぽかーんとした顔になった。そんな彼にイドゥンは続ける。
「だって、イデアやお父さんと一緒に入られれば、わたしは満足だもん」
つまり、彼女は、イドゥンは、家族と一緒に居られればそれでいい、と、いうことだ。力を使って何かを手に入れたいとは思わない、それが彼女の答えだった。
「イデアは?」
今度は逆にイドゥンがイデアに問う。力を手に入れたらその力で何をするのかと。
少しだけう~と唸って考えてたイデアだったが、やがて口を動かし答えた。
「とりあえず、自分と姉さんを守るぐらいかな?」
「父」であるナーガは庇護の対象には入れない。あれは守るとかそういう次元の存在ではないからだ。むしろ相手が飛竜の大群だろうと、いつか見た竜の大群だろうと
眉ひとつ動かさない無表情のまま次々と敵対するものを容赦なく八つ裂きにしていく様子がイデアにはまざまざとイメージできた。そんな男を守れる筈がない。
「じゃ、私もイデアを守りたいなぁ……」
「いやいや、それは……」
笑いながらそれは男として色々と面子の問題が、と、言おうとしたイデアだったが……、不意に聞こえてきた音に言葉を止めた。
イドゥンもイデアの裾を握ったまま音が聞こえてくる方向――窓に眼を向ける。
それは「音」ではなく「音楽」数ヶ月前に一度聴いたあの春の陽気を表した様な音色。イデアが飛べる様になったら奏者に会いに行こうと交わした約束。
「きたね」
「うん」
手短にそれだけを言うと、双子が椅子から降りて窓に向かって駆け寄っていく。大きな装飾の入った窓を手で開けてバルコニーに出る。
太陽はまだ高く昇っており、今日もベルン地方をその暖かい光で照らしている。
窓を閉める前にイドゥンがその手に厚いローブを2つ招きよせる。今は前回の夜とは違い、昼前とはいえ上空では寒いかもしれないからだ。
「はい」
紫と白のローブの内、白い方をイデアに渡す。
「ありがとう」
弟の感謝に笑顔で答える。そして自分は残った紫色のローブを羽織る。予想していたとはいえ、やはり少しだけ暑かった。
「うわぁ……」
イデアがバルコニーからの眺めに心底驚嘆した声を出した。
雲ひとつない今日は地平線の先までベルン地方の山々がはっきりと見えて、姉弟の部屋から望める景色は正にこの世に並ぶものなき絶景としか表せなかった。
もしかするとナーガがこの部屋を姉弟に与えたのはこの景色を見せたかったからかも知れない。
ずっと先に小さく空に見える点は多分飛竜だろう。
「この、上からだね」
イドゥンが音楽が聞こえてくる遥か高みを見上げながら言う。正に断崖絶壁なその城壁の傾斜にイデアが吸い込まれる様な錯覚を覚えた。
しかし、今からそこを飛んで昇るのだ。そう思うと少しだけの恐怖感がイデアを侵食する。
音色が変わった。今度は春の陽気から一転して冬の氷を思わせる音色に。
イドゥンが懐から金色の竜石を取り出す。そしてそこから自身の竜としての巨大な力の一部を引き出す。
光が一瞬だけ周囲を包むと彼女の背には二対四翼のまだまだ未発達とはいえ、立派な竜の翼があった。ローブから顔を覗かせたそれがパタパタと上下に動く。
「ほら? イデアも……」
イドゥンがイデアに翼を出すように言う。
「う、、、ん」
イデアが躊躇いがちな声を出す。正直な話、出来るとは思っているが、あくまでも思うだけなのでもしかしたら失敗するかも知れない事を彼は恐れていた。
だが、そんな彼の心配を彼の姉はいとも簡単に吹き飛ばす。
「ほら、いこ?」
イデアの両手を握りしめ、笑いかける。それだけでイデアの不安は消し飛んだ。
そうだ、自分は姉さんと一緒に奏者に会うんだ、こんな所でチンタラやってる暇はないと。
イデアが力強く頷き、竜石を取り出す。そして竜の姿に戻った時の独特な感覚を思い出しつつ力を引き出していく。
光が、エーギルが、はじけた。
そして辺りに撒き散らされた光がイデアの、主の背中に集まり翼の形状をとる。
最後に光が固まり、固体となる。
それだけ、たったそれだけでイデアの背には四枚の彼の姉と同じ形状の翼が誕生した。
「あれ?」
余りにも予想外れの呆気なさにイデアが小さく首をかしげた。
しかし背中に新たに生まれた4つの感覚は翼の展開に無事成功したことを伝えてきていた。
試しに動けという「意思」を送ってみる。ちゃんと四枚の翼はイデアの脳が命じた通りに動いた。
「きれいだよ」
姉がイデアの翼をまじまじと見つめながら何処か興奮した声音で言う。彼女も弟がまた一歩成長した事が嬉しいのだ。もしかすると当の本人以上に喜んでいるのかも知れない。
「あの、姉さん……手、握ったままでいい?」
その本人、イデアが遠慮がちに姉にお願いをする。竜の姿ではなく人の姿での飛行は初めてだから色々と怖いのだ。何故ならば、落ちたら即死の可能性が竜の姿の時より遥かに高いからだ。
そんなイデアに彼の姉は万人が見惚れる笑みで「いいよ」と返した。
「絶対に離さないでよ?」
二人で並び、音色を響かせてくる殿の山肌の様な絶壁を見上げる。少しだけ緊張でイデアの声が震えた。
「うん」
双子が僅かな誤差も無く、全く同じタイミングで、全く同じ形状の翼を羽ばたかせる。
2、3回慣れるように小さく翼を動かすと、翼が羽を最大にまで広げて地を打つ。
1回
2回
そして3回めの力強い羽ばたき。
フワリと、二人の身体が宙に浮き上がった。そのままグングンと高度を上げていく。
少しづづだが、確実に上昇を続け、風に乗って飛んでくる音色を頼りに奏者の元に近づいていく。
途中何度かイデアが風に煽られるなどしてバランスを崩したが、それらは全てイドゥンが支えて、事なきを得た。
どんどん二人のいたバルコニーが小さくなっていく。
そして、遂に、奏者がいるバルコニーまでついた。奏者がいるのは間違いなかった。何故ならば直ぐそこから音楽が聞こえてくるからだ。
今なら、この音楽がどんな楽器から産み出されているかもはっきりと分かった。
独特な、柔らかい音色。金管楽器では無理な優しい音色。木製の楽器。
恐らくは笛か何かだろう。イデアはそう思った。
「姉、さん……見てみる?」
「う……ん」
二人が恐る恐る、手すりに手を伸ばして、身体を乗り出して、顔を覗かせる。
ごくりと、二人のどちらかが生唾を飲み込んだ。
そこに奏者はいた。イデアの予想通り木製の横笛を吹き鳴らしながら。蒼い髪の女性だった。
バルコニーに置いた木製の黒い椅子に座り、笛を口元にあてて、鳴らしている。
イドゥンが女性の口から音をだしている物体(笛)に興味の視線を向ける。
だが、イデアは笛よりもその奏者を観察していた。そう、彼の「父」であるナーガのように。
イデアの眼を惹いたのは、その、人間離れした美しさと女性の纏っているオーラとでも言うべきものだ。
ナーガと同じようなゆったりと身体を覆う白いローブに包まれても分かる豊満な肉体、深海の澄み切った水を連想させる腰まである長髪。
白く健康的な肌。眼は今は閉じられているが、遠目でも分かる優しそうなまなじり。そして何より纏っている「母性」とでも言うべきオーラにイデアは強く惹かれ、魅力された。
少なくともイデアはこれほどまでに美しい女性はイドゥンを除けば見た事がなかった。いや、まだまだ子供のイドゥンではこの女性の美しさには勝てないだろう。
ぼーと双子が女性を観察している内に曲が終わり、女性が瞼を開け、その特徴的な赤い眼で世界を見る。
そして、視線を感じたのか、首を上げて、バルコニーの手すりに掴まり浮遊している双子を見た。
イドゥンとイデアの視線が女性の視線と交差する。そのまま3秒間三人は時間が止まったかの如く硬直した。
女性が何とか眼だけを動かし二人の背の翼を見る。金色の翼……神竜族の翼を。
「え? ええええぇぇぇ!?」
女性の、戸惑いの声が辺りに虚しく響き渡り、その声は山彦で何重にも反射された。
あとがき
皆さんお久しぶりです。マスクです。覚えていてくださるとうれしいです。
とりあえず雑務は全て片付けたので今回から更新を再開したいと思います。
更新が遅れてしまい誠に申し訳ありません。
久しぶりに執筆してみたら、SSの書き方を忘れていて本当に焦りましたw
何はともあれ、これからもよろしくお願いします!
追伸 ハリーポッターの新作映画のダンブルドアがアトスに見えて仕方がありませんw
では、また次回の更新にてお会いしましょう!!