ペラ
小さな音と共に、白く華奢な幼児の手によって頁が一枚捲られる。紙が擦れる音がした。
ぺラ
10分ほどの時間を置いて、また読み終わった頁が小さな手によって一枚捲られる。紙が擦れる音がした。
ペ……。
また10分ほどして新しく頁を捲ろうとした手が何かに気がついた様にピタリと止まった。行き場を失った手は、しばし彷徨うと、頁に置かれ、そのまま表面のザラザラした紙をゆっくり撫でる。
「あれ?」
小さな手の主――イデアが拍子抜けした声を出す。しばらく表面の何ともいえない感覚を味わってから、手を動かし、またペラリと、頁を捲る。
そこにはあの病的に細かい文字は何も書いていなかった。読破したのだ。
念の為、最初から最後までもう一度ペラペラと軽く頁を捲っていく。頁が捲られる度に小さな風が起こり、心地よい。
何枚もの紙が規則正しく捲られていく光景は爽快とも言えた。
ペラ、ペラ
ペラ、ペラ、ペラ…。
ぺラ……。
捲り終わる。最後にパタンと硬い表紙が重々しく閉じた。
読み落とした所は無かった。完全に読破していた。読み終わった本人が驚くほど呆気なく。
実を言うと本のページを構築している紙の一枚一枚の厚さが、イデアの元いた世界のものよりもかなり分厚い事が影響しているのだが、当のイデアはその事には気がついてはいなかった。
一言で言うならば製紙技術の差である。
長時間細かい文字を読むため、酷使した眼を癒すべく一度揉み、外に眼を向ける、日が傾き、オレンジ色の鮮やかな太陽がベルン地方を照らしている。どんな世界でも夕陽の美しさは変わらなかった。
小さな黒い何かが集団で飛んでいるが、恐らくそれは巣に戻る飛竜の群れだろう。
「もう、夕方か……」
今の大体の時間が太陽、夜の場合は月や星の位置で計れるようになったイデアが薄暗くなった部屋で呟く。大雑把に言うならば今は4時か5時、季節が夏ならば6時くらいだろう。
気がつけば一日の大半を読書で潰していた。何かに集中すると時間の流れが早く感じるといった事が真実だと言う事を改めてイデアは知った。
そういえば、昼食は食べた事は覚えているが、何を食べたかまでは思い出せない。
まぁ、そんな事は些細な事だと割り切って眼球マッサージを行う。
「ふぁぁ……」
左手で閉じた瞼の上から眼球をマッサージしつつ残った右手を何かを掴むように伸ばす。
2~3秒ほどその体勢を維持しつつ腰を左右に捻る。
リフレッシュ、終、了。しかしまだまだ身体はだるい。いや、疲れを自覚した分、むしろもっと重くなったかもしれない。
気だるげに、ため息をひとつ吐く。そして数時間座っていた豪華な椅子からひょいっと飛び降りて、床に着地する。壁に掛けられている杖を竜の力で「掴み」こちらに向けて持ってくる。そして手に取った。
ふひぃと、間の抜けた声を出しながらズルズルという擬音が発生するほど緩慢に、補助の杖を突いてベットにヨタヨタ歩いていき、ブーツを脱ぎ散らかし、倒れこむ。杖も床に投げ捨てた。後で戻しておく。
集中している時は身を潜めていた疲労が集中が解けたら、どっと表に出てきて、とても疲れたのだ。
とりあえず、今は眠りたかった。
「………ふ……ぅ」
ポフッとイデアの倒れこんだ際の衝撃に先に寝ていた人物が紫銀の髪を僅かに揺らし、反応を示した。小さな文字を読み続けるのに疲れて先に眠りについていたイデアの姉、イドゥンである。
嵐を恐れて、昨夜はほとんど寝ていなかった彼女にとって今回の読書とは想像以上に大変なものだったのだ。
イデアが首を動かし、頭をそちらに向ける。美しい姉の寝顔が見えた。
「ふふ……」
何度みても飽きない、飽きる事などありえない。天使を思わせる無邪気な寝顔を見て身体の奥底から昇ってくる感情に任せて彼女の弟は薄く笑った。少しだけ疲れが減った気がした。
無防備にスヤスヤと安らかに眠る、自分「だけ」の姉の姿を横目に、仰向けに寝転がったイデアが両の掌を天蓋に向けて突き出す。とりあえず眠る前に、読んだ事を試して見たい。
伸ばした腕に夕日の光が当たり、細い影がベットに伸びて姉の顔にさす。
眼を瞑り、眠りそうな意識を必死に繋ぎとめながら本に書いてあった通りイメージを膨らませる。
イメージするのは“炎”草木を焼き、命を燃やし尽くす業火。多少大げさかもしれないが、これくらいが丁度いい。本に遠慮はいらないと書いてあったから。
今から、発動させるのは最下級の初級魔法【ファイアー】
効果は名の通り炎を生み出し、操るという至ってシンプルなものだ。しかしそれ故に用途は様々だ。
身体の中にある膨大な活力、―――恐らくこれが【エーギル】とナーガが呼んでいたものだろう。
イデアの懐の竜石が仄かに輝く。金色の霧が石から吹き出した。
それを掌に集めていく。細く短い、イデアの腕に蛇のような形の金色の霧――【エーギル】が纏わりつき、掌に向かってするすると腕を這って伸びていく。
蛇が掌の上でとぐろを巻き、身体を徐々に球体へと変化させていく。
やがて光の蛇は消え去り、イデアの手に残ったのは眼を焼くほどに眩く、それでいてとても小さな光球。
ここまでは簡単だ。問題はここから。
光球の形に固定された【エーギル】に思念を送る。燃え滾る炎のイメージを。
だが、次の瞬間。やはり――
“ボンっ!!”
光が間の抜けた音と共に爆ぜた。
「あっっっっ!!!???」
急激に炎に変換された光球が、花火のように爆発した。いや、爆発というよりは弾けとんだといった方が近い。
幸いな事に不完全に変換された火は直ぐに消滅し、元の金色の光となって暫く辺りを漂い、消えた。
「やっぱり、まだ無理だよなぁ……本がないと」
上げていた手をパタンと力を抜き、横に倒しつつ呟く。掌を念の為確認するが、幸運な事に火傷等は負ってなかった。
安堵のため息がイデアから漏れる。
本というのは魔道の術を発動させる際の補助のアイテムだ。さっきの本にそう書いてあったのだ。
高位の魔道士は本が無くても術を発動させられるが、下位の魔道士は本の補助を受けて発動させるそうだ。
更に言うならば魔道には3つの種類がある。
1つは自然の力や精霊の力を借りて使用する【理魔法】
正式な名称は【自然魔法】シンボルは、「炎」、「風」、「雷」を象徴する三つの円。
今、イデアが発動させようとした【ファイアー】もこの理魔法に属する術のひとつだ。
自然の精霊と対話して術を使うそうだが、イデアには精霊の声など少なくとも今は全く聞こえなかった。
この系統の術の特徴は自然に存在する様々な現象を引き起こし、それらを操作することにある。
高位の術者になると天候を操る事さえも不可能ではない。
火竜や氷竜等の竜はある意味、この理属性そのものが意思を持って歩いている存在と言える。
2つ目は【光魔法】
正式な名称は【神竜魔法】
その名の通り神竜族が好んで使用する術。シンボルは太陽とその光を彷彿とさせる円とそこから映える角。
主に【エーギル】を用いて、様々な超現象を引き起こす術が多い。
死にかけた命を救う事や、果ては【モルフ】と呼ばれる人造、否。竜造の仮初の命を創造することすら可能とする神の力。
治癒魔法なども大きく分けるとこの属性に入る。
……中にはかつて神竜族達が自らの反存在である【始祖竜】を葬りさる為に作り上げた攻撃用の超魔法もあるそうだが、詳細は不明。
3つ目は【闇魔法】
正式な名称は【混沌魔法】または【古代魔法】
伝承では主に神竜の反存在である始祖竜が好んで使用した魔法。
おぞましい原初の混沌の力を駆使して、神をも恐れぬ摂理を踏みにじる力を行使する。
三種の属性の中で最も強大な力を得られるが、それ故にリスクも最も高い。即ち【知識】に喰われる可能性が一番高い。
だが、無事に手にした力に比べれば些細な代償ともいえよう。
最後にあくまでこれらは大きく分けただけで、実際にはどれにも属さない術なども多数あるのだが、それらは割愛する。
そして魔法というのは生活を豊かにする為に使われるべきであると考える。
以上、竜族の書物より要約して抜粋。
「ふ、ぁぁあああ……」
ぼ~としながら天蓋を見つめつつ、書物の内容を思い出していたイデアが大口を開けて、欠伸を吐いた。眼から涙が出てくる。眠い。
何気なく隣で寝ている姉を見てみる。
「…………」
……やはり、寝ていた。すやすやと心地よさそうに。先ほどすぐ近くで爆発が起きたのに眼を覚まさない。
イデアが苦笑いを浮かべた。
身体をグルンと何回か回転させ、直ぐ近くまで移動する。
「ごめんね、姉さん……」
聞こえてはいないと知りつつも大きな音を立ててしまった事に謝罪すると、イデアは姉の腕を取り眠りについた。
トントン
双子が寝静まり日が落ちてから暫く立って、部屋の扉がノックされた。
しかし深い眠りに落ちた二人には起きる気配がない。
トントン
もう一度、今度はさっきよりも大分強くノックされる。
双子は起きない。ただ寝息を立てるだけだ。
音もなく木製のドアが開かれる。開かれた扉から白い長衣の男――ナーガが暗者のように物音ひとつ立てず入ってくる。傍には宙に浮く二つの銀の皿があった。
皿からは湯気が出ている。今晩の食事だ。
暖炉の火もなく月明かりだけが照らす室内をナーガが見回す。窓には昨夜の嵐が嘘に思える巨大な月が写っており、太陽の代わりに山々を照らしている。
「…………」
ベットで長年寄り添った夫婦のように眠っているイドゥンとイデアを見つけたナーガが小さく、まるで眩しい者を見る様に眉を顰めた。
起こそうとも思ったが、すぐにやめた。子供の睡眠を邪魔してはいけない。
「……」
傍に浮いていた皿が音もなく転移させられた。恐らくは料理人達のまかない食になるのだろう。
ナーガがゆったりと緩慢に動き出す。
近くに落ちていた杖を壁に掛けて、脱ぎ散らかされたブーツをベットの脇に揃えて置いてやる。
何処からか薪を取り出し、暖炉にくべて火をつける。これで用はすんだ。
何故だか名残惜しい気もしたが、仕事に戻るべく部屋を後にしようとする。
踵を返し、部屋から出ようとするナーガの耳に微かな音が届いた。
しばらく何かと思って耳を澄ましていた彼だったが、やがて誰がこの音を出しているか分かったらしく
「エイナールか……」
ぽつりと、独り言をもらした。
それだけを言うと彼は今晩の分の仕事を片付けるべく、部屋を後にした。
眠る必要のない彼には休む時間などないのだ。
あとがき
今回は短めです。魔道の事はいっぱい書きたいんですが、どうしても書ききれない……。
というか4章は全体的に短めです。はい。
最後に魔道の資料は光魔法は背景が語られていないため、捏造がふんだんに盛り込まれいます。