『昔の気持ちを、ずっと持ち続けてることだってある。昔言われた些細な一言を、ずっと覚えていることもある。
それが、一生を照らす光になることだってある。あたしは、そう思う』
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星領学園より百メートルも離れていないとある小学校。
その昇降口で、今まさに一人の少女が外履きに履き替えようとしていた。
整った目鼻立ちは気品がある。細い手足も形良く、半ズボンにタイツという男の子っぽい服装をしていても、背中を流れる艶やかな長髪が性別の見間違いを許さない。
外履きをスノコの外へ置いた少女は、替わりに真っ白な内履きを下足箱に仕舞った。
内履きの踵の部分には、M・Kとマジックペンでイニシャル。
外履きの片方に足を突っ込んでいると、突然背中に衝撃。
思わず前につんのめりそうになってどうにか踏ん張る少女の視線の先には、クラスメートの仲村がニヤニヤ笑いを浮かべていた。
入学してからやたらとちょっかいを出してくる男子を、少女は軽く睨みつける。
この程度の悪戯と呼べないような悪戯、数えていたらキリがない。相手にしないのが一番。
ところが、仲村少年が見せ付けるように振った手の中にあるものに、少女は顔色を変えた。
慌てて背負ったランドセルの側面に手をやる。
ない。すると、あいつのもっているものがわたしのリコーダー…?
仲村少年は、挑発的な笑みを残して走り去った。
少女の逡巡も長くは続かない。残りの足を外履きに突っ込むと即座に追跡を開始。
明日は音楽の時間にリコーダーのテストがあるのだ。返してもらわなければ練習もままならない。
それに―――クラスの女子の他愛もないおしゃべり。
男の子って、女の子のリコーダーを舐めるのが好きなんだって。知ってた?
嫌悪感に、少女の肌が粟立つ。冗談じゃない。
遠ざかる黒いランドセルを目印に、鉄橋を駆け上る。
予想通り仲村少年は、学校の向かいにある公園に駆け込むようだ。
大人たちが必死に役所に働きかけているが整備のままならない公園は、奥まったところは丈の長い草が生い茂り、かくれんぼや鬼ごっこにうってつけだ。
しかし、小学校の先生からは、不審者も多いので決して保護者なしでは利用しないようきつくいいつけられている。
にも関わらず、仲村少年は鉄条の隙間を抜け、中に滑り込んだ。子供たちしか知らない秘密の入り口。
少女も迷わず狭い道へ身を潜り込ませる。
抜けた先は、不規則に生い茂った樹木のせいで光と薄闇が斑に周囲を染め上げる不思議な空間。
長い髪に張り付いた葉や土を払うのもそこそこに、少女は辺りを見回した。
少年は、いた。
五メートル先の木の根元。
「!?」
地面に這いつくばっている。傍らに少女のものと思しきリコーダーが転がっている姿は、どうみても尋常ではなかった。
自然に転んだにしても、ピクリともしないのはどういうわけだろう?
不穏な気配に少女は目を見開く。
蔦が巻き付いた巨木の陰から現れた人影は二つ。
「ま、また子供か。な、なんだよ、きょ、今日は千客万来じゃないか…」
挙動不審な痩せ型の男が一人。
もう一人の巨漢は、地面に倒れた仲村少年の頭をぞんざいに掴み上げて舌なめずりをしている。
「オレは、男も女でも、どっちでもいい。これくらいの年頃は、どっちも肉が柔らかい」
下卑た声に嫌悪感を覚え、少女は反射的にあとずさっていた。
心拍が乱れる。直感的に担任教師が帰りの時間に毎回しゃべる注意事項を思い出した。
…みなさんのような小さな子を狙う悪い大人が増えています。暗くなったら、絶対一人で出歩いたりしないように。
必ずお父さんかお母さんと一緒に行動するんですよ? それに、明るいからといって、人気のないところや危ない場所に近づくのも絶対駄目ですからね?
これがいわゆる悪い大人というやつなのだろうか?
両名ともまだ若い。饐えたような臭気が漂ってきて、少女は眉をしかめた。
舐めるような視線が、服の上から全身を這いずりまわるのを感じる。
自分でもよく分からないうちに、鳥肌が立った。
「おまえ、先するか? それともオレが選んでいいか?」
「ひゃ、ひゃははははは。い、いいよ、お、おまえの好きにしていいよ」
巨漢が近づいてくる。
少女は迷う。
今なら、全力で走れば逃げ切れるかも知れない。
しかし、そうすると、仲村少年を見捨てることになってしまうのではないか。
逃げ出して、すぐに警察を呼べば。
いいや、きっと間に合わない。仲村少年はどこかに連れ去られるか―――殺されるか。
幼子心に突然降って沸いた、喪失に対する恐怖感。
それが彼女を金縛りにした。
あと数歩で巨漢の手が届くという間合い。
一度掴まれてしまえば、少女の細腕ではきっと振り払えない。
巨漢の手が届く寸前―――。
「ま、まて!」
「なんだ」
「そ、そういえば、き、聞いたことないか? こ、ここの前にある小学校に、く、九鳳院の娘が通っているとかどうとか」
その声に、巨漢は背後を振り返る。
「この子が、九鳳院のか?」
「わ、わからないけど、く、九鳳院はまずいって!」
「―――構うものか。犯って、埋めてしまえば、わからない」
前を向き直る巨漢。そこに少女の姿はない。
逃亡したのか?
否。
巨漢の間合いから脱した場所で、少女は身構えていた。
既に背中のランドセルは地面に落とされている。
拳を前に突き出し、後ろ足に力を入れる構えは、伸びきっていない幼い肢体ながらも、不思議と様になっていた。
しかし。
「…戦(や)りあうつもりなのか?」
巨漢は呆れ、
「ひゃ、ひゃっはっはは、ひゃひゃっはっは!」
痩せ男は狂ったように笑う。
当然といえば当然の反応だ。
なにせ少女の細い足はガクガクと震えていたのだから。
そもそも、年端もいかぬ少女が二人の大人に立ち向かったところで何が出来よう?
蟻が巨象に挑むのに似て、彼我の戦力差は傍目にも明らか過ぎた。
その客観性は整然としすぎて、無謀を通り越して滑稽ですらある。
これを笑わずにいられようかという風体で、邪悪な大人二人は笑い転げた。
或いは余裕であったかも知れない。
「黙れ」
少女の低い声の響きが二つの嘲笑を圧した。
珍妙なものを見るような顔つきになる悪漢二人を目前に、少女の耳に甦るのは母の言葉。
―――大切なものを見つけたら、全力で守りなさい。
でも、大切なものを守るだけでも、大切なものに守られるだけでも駄目。自分自身を守る力を身に付けなさい―――。
頭を空っぽにして、深呼吸。
胸の奥から温かいものがあふれ出し、脅えを駆逐。
続いて、勇気を血流に乗せ、全身に満たしていく。
―――両足の震えは止まった。
「一年三組出席番号八番――――」
言葉と同時に、後ろ足は鋭く大地を踏みつける。
小さな体が反発力に震え、ぞわっと長い髪が立ち昇るように躍った。
型があるようで型がない無形の構えは、血縁者から贈られたかけがえのない宝物。不退転の意思表示。
腕と腕を目前で十文字に交差させ、少女は名乗りを上げた。
「紅萌黄、推して参る!」
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萌黄の声を鼻で笑い、巨漢は前進を再開した。
いくら吼えようと、巨漢の腰にすら満たない体格差は圧倒的で、嘲ってなお余りある。
少女に万が一の勝ち目もない。
捕まり、玩具のように蹂躙される運命が待ち受けているのみ。
九鳳院ではないということも確信した巨漢の躊躇のない歩みは、まるで壁が迫ってくるように萌黄の目には映る。
明らかに少女を侮っていたわけだが、この時点でそれを責めるのは酷というものだろう。いわばこれが自然の反応。
そしてそれこそが萌黄の待ち望んでいたもの。一縷の勝機。
小さな身体は、巨漢のプレッシャーに怖気づくことなく、弾丸のように突進していた。
この反応に驚いたのは巨漢の方だ。
左右にかわすでもなく、後退するでもなく、よもや獲物の方から突っ込んでくるなど完全な予想外。ゆえに一瞬だけ反応がおくれた。
懐に飛び込んでくる萌黄を受け止めるように手を交差させたが、遅い。
萌黄は一気に男の腕をかい潜る。諦めず男は通り過ぎる髪の毛を掴もうとして―――あまりにも滑らかな少女の髪は、男の汚れた手の表皮をすべり抜けた。
ほとんど一呼吸のうちに、萌黄は巨漢の足元へ到達。間髪おかず、腰を落とし、力一杯大地を踏みしめる。
小柄な彼女のすぐ頭上に、丁度男の股下があった。
イメージは、大地に垂直に突き立つ鉄の棒。
萌黄の背筋が勢い良く伸び、勢いそのままに渾身の力を込めて突き上げた肘は、ものの見事に巨漢の股間を直撃した。
「………~~ッッ!!!!?」
どうと崩れるように地面に両膝を突く巨漢。口元から泡を噴いて、白目を剥いていた。
幼子の一撃と侮るなかれ。
急所は、一撃で仕留められることが出来るゆえの急所。そのことを萌黄は熟知していた。
撃つときは全力で。躊躇うな、とも教えられている。
圧倒的な体格差が仇になったとはいえないだろう。萌黄にとっては有効な反撃手段はこれ一つきり。
巨漢の方も、予想できなかった攻撃ではないはずだ。
ただ、萌黄の思い切りのよさがまさっていた。
結果を見ればそういうことになる。
分の悪い賭けに打って出て、見事に勝ちを拾ったともいえるだろうか。
自らが危うい綱渡りに間一髪で成功したと今頃になって気づいたのか、萌黄の両足は再び震え始めた。
「こ、このガキ…!」
振り向いた萌黄の目に映るのは、懐から刃渡りの長いナイフを引っ張り出した痩せ男の姿。
萌黄の中の滾っていた血が急速に冷めていく。
勇気の再充填まだ無理だ。なによりもう不意打ちは利かない。
「き、き、切り刻んでやるっ! 皮をえぐって、それから…!!」
興奮して饒舌になっているのか。自身の言葉に鼓舞されて興奮しているのか。
痩せ男はナイフを閃かせようとして、出来なかった。
まったく突然、まるで魔法のようにひょいと目前に現れた杖。
それが軽く手首に触れたと思った瞬間、痩せ男の全身を切り裂くような痛みが駆け抜けた。
ナイフを取り落としたのかどうか気づく間もなく、身体は宙に浮いてる。
脳天から地面に墜落し、意識を失う直前に痩せ男が聞いた最後の台詞。
「武器は感心しませんな」
「…騎場!」
萌黄の声に、騎馬と呼ばれた隻眼の老人は杖を小脇に抱え、慇懃に頭を下げた。
後ろに撫で付けられた髪は真っ白だったが、背筋はピンと伸び、かくしゃくとしている。身のこなしも、とても老人のものとは思えない。
「ご無事でなによりでした」
萌黄に微笑み返しながら、騎馬は手首を軽く捻る。
今まさに立ち上がろうとしていた巨漢の首筋へ杖先は半円を描き、一撃て意識を刈り取ってしまう。
無類の頼もしさに胸を撫で下ろしながらも、萌黄は唇を尖らせた。
「遅いぞ、騎場! もう少しでわたしは…!」
「申し訳ありません。しかしなにぶん、紫さまのお申し付けでして」
「―――え?」
萌黄は振り返った。
いつの間にやってきたのか。
薄い紅色の紬を着た女性が、優しげな笑みを浮かべて立っていた。
「天晴れだ、萌黄」
腰まで伸びた艶やかな黒髪も麗しい美女である。年のころは二十台前半といったところか。
彼女の名は九鳳院紫という。
日本を統べる表御三家の一姓を冠する彼女は、現在、誇張抜きで、あらゆる意味において超重要人物であるといえる。
そんな貴人の胸に、萌黄は頬を紅潮させ、勢いよく飛び込んだ。
「お母さま!」