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No.5339の一覧
[0] 日本の軌跡(腕白関白二次創作)[ねぼ](2009/03/27 04:02)
[1] (1)日本海軍・向井正綱の世界探検[ねぼ](2009/03/26 12:45)
[2] (2)天下の副将軍・北米風雲録[ねぼ](2009/03/26 12:59)
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[5339] (1)日本海軍・向井正綱の世界探検
Name: ねぼ◆53618aa0 ID:2697ce7e 前を表示する / 次を表示する
Date: 2009/03/26 12:45
 向井兵庫正綱(1557~1612年)は徳川水軍の軍監としてその能力を振るった人物でした。彼が歴史に大きく登場するのはその後半生においての事です。


国内統一した豊臣政府は、1599年、海外総合探査計画を発動しました。世界のどこに何があるか、世界の全てを知るための第一歩となる計画です。最終的には太平洋を日本の庭とする事が目標でした。

こういいますと軍事的な海外征服と勘違いする人がいますが、この計画はあくまで海外貿易の為の基礎調査でありました。貿易できる国がどこにあるか知らなければ商売は成立しないのです。


当時はまだ、日本海軍は文禄5年(1597年)に発足した日本国軍の一部門の日本水軍であり、組織再編の真っ最中でした。
日本国軍征夷大将軍、徳川家康の強い意向を受けて、向井正綱が遠征隊司令官に任命されます。


向井が歴史の表舞台に現れた瞬間です。



探査計画は三つに大きく分けてありました。


①太平洋航路の開発。

②樺太を含む北方航路の調査。

③現在主に南蛮貿易に使用している南洋航路の調査。


向井はまず、3つのうち最もローリスクな南洋調査に着手します。



慶長4年(1600年)
様々な調査機材と貿易のためのサンプル、学者による調査隊とそれを守る兵士を乗せて、ガレオン船4隻を中心にした20隻余りの調査船団が出航します。


海図を作りながら船団は南下していきます。
ルソン島、シャム国と立ち寄りながら航路と資源、各国内情調査を行っていきます。

イスパニア、ポルトガルとの小さな衝突があったものの、調査隊は順調に海図を広げていきました。



1603年、調査船団は赤道を越えて南亜大陸に到達しました。
南亜大陸という名称は、東亜に対応して船団の名も無い学者がつけた名前だと云われています。

未だ西欧諸国の手がほとんど入ってない南亜をルソンに続く探検拠点、ゆくゆくは貿易拠点とするべく向井は小規模の入植を開始しました。

何事にも本国から遠すぎた為、ベースキャンプとなる場所が必要だったのです。



1604年、南亜大陸を海岸線沿いに大雑把に調査(内陸部は後回し)し終えた遠征隊司令官向井は、一通りの南方調査資料をかかえて一旦日ノ本本土に帰還します。


その後南亜に残った移民団は、進入してきたオランダ船と接触します。
一時は戦争になるかと思われましたが、オランダはあっさり引き下がります。これは当時のオランダが東方貿易に力を入れており、豊臣日本の実力を知っていたから、もしくはオランダ船の司令官が日本通であったからとも云われています。

南亜への入植は平穏理に進んでいきました。



向井の南方調査成功は日本にかなりの利益をもたらしました。
この成功を受けて日本政府は編成なった海軍の全面協力の下に複数の遠征調査隊を出すことになりました。
(中でも伊達政宗公主導の北洋調査隊が有名。)


北方調査、新設された西方調査(インド、中東航路の開発)を別部隊にまかせた向井は、一番の難所、太平洋航路の調査に着手します。

まだ見ぬ北米大陸(豊臣秀次公命名。大きな大陸らしいのでゆくゆくは米が取れるようにとの事らしい)への遠征はこれまで以上に慎重に準備されました。


最新の西欧の海図、イスパニア人航海士からの情報などを総合して航路が策定されました。
天候不順が常であるアリューシャン沿いの北海ルートを避け、太平洋を真っ直ぐ横断する計画です。
貿易のためには穏やかな航路が必要だったからです。



慶長13年(1608年)、遠距離航海用に編成された少数精鋭の第2次調査船団は、無補給で半年航海できるだけの食料と資材を載せて出航します。



翌1609年、ハワイイ諸島を発見。
当時はハワイイ王国など存在せず、古代レベルの現地人が各島でバラバラに暮らしていました。

無寄航横断を覚悟していた向井は、この幸運を生かすべくここを中継点と定めて基地を設営しました。
(向井調査隊が当時に建造した倭城の遺跡がオアフ島に残されている。)

ハワイイの住民を慰撫して基地を強固なものとした後、向井は再び出航します。



同年10月、向井調査隊は北米大陸に到達しました。

だが、当時の西海岸はほとんど無人に近かったと云われています。

南亜大陸と同じように拠点を設けて小規模入植を行い(現在のムーカイ市)、数少ない先住民との貿易と内陸調査を開始します。


険しく聳え立つロッキー山脈を迂回して、南へ、南へと調査隊は進んでいきます。

やがて調査隊は、ついにイスパニアの勢力圏に接触しました。


当時北米大陸にはイスパニア、フランス、オランダ、イギリスなどの国がそれぞれ所有権を主張して植民地化を押し進めていました。

植民地の人たちは、機会あるごとに先住民を弾圧し、搾取していたのです。


向井調査隊はイスパニア圏内の先住民の要請をうけてトラブルに介入する事が多くなりました。



1611年7月、向井調査隊はイスパニア軍の攻撃を受けます。先住民の一部族扱いされたのだとイスパニア軍の記録に記されています。

大規模な軍隊との戦闘を想定していなかった調査隊は、遅延戦闘を行いながら西海岸まで後退します。

イスパニア軍は調査隊だけでなく、向井が友好を深めてきた周辺の先住民たちにもまとめて攻撃を仕掛けてきました。彼らは明らかに先住民族の追い出しか、もしくは殲滅を狙っていました。


向井は水軍大将であり内陸部での陸戦は本来不得手でしたが、誼を結んだ先住部族の協力もあってかろうじて戦線を維持、一旦は撃退することに成功します。


貿易という本来の目的から逸脱しかけている上、政治的にまずい状況に追い込まれつつある現状を見て、
向井の副官、長谷川長綱は、北米基地を放棄して一旦ハワイイまで後退し本国に状況を報告すべしと進言する。


その時向井はこう答えたという。

「誼を結んだ部族の者たちを見捨てる事は出来ない。一旦乗った船の戦さは途中で放棄してはいけないのだ」



しかし、戦いを続けるにしても本国への連絡だけはやって置かなければなりません。
失ってはならない貴重な北米資料と、非戦闘員を中心に帰還部隊が慌ただしく編成されました。



9月、帰還部隊が日ノ本本土に向けて出航します。

この後、北米向井砦でどの様な戦いが繰り広げられたのか、その資料はほとんど残されていません。



日ノ本本国で急いで編成された陸戦部隊三千を乗せて出航した大型ガレオン船6隻が、北米に到着したのが1612年3月。


向井砦は跡形も無く破壊されていました。


先住民の話によれば、向井たち残留部隊は見たことも無いほど勇敢に戦い、それゆえにイスパニア軍の集中攻撃を受けたといいます。


2月初めまで戦いは続き、最後に敵部隊を巻き込んで砦の火薬を自爆させたものと推定されています。





向井兵庫正綱、享年55歳。

水軍大将らしからぬ陸上での戦死――――――

その時彼は何を思ったのでしょうか。






現在、ムーカイ市郊外に小さな慰霊碑が立っています。
向井と誼を結んだ部族の者たちが、戦死した向井調査隊の霊を慰めるために建てたと云われています。


慰霊碑の表面にその部族の言葉でこう記されています。


「遠方より来たりし真なる友人たちに安らぎあれ」


貿易という誼を結びに来た向井は、形を変えて信頼と友情という誼を得たと云えるのではないでしょうか。







――――――(完)――――――







現時点でやれる限りの修正を完了いたしましたので、チラシの裏からその他板に移行。
初めの方は学術書のつもりで書いていたのに、後のほうは明らかにその時歴史が動いた……。
なので、序文と本編をかっちり分けました。尚、国家は日本、国土は日ノ本で統一してあります。


……ていうかどうにも腕白関白っぽくない。
時代がエンディング後だからか、主役が本編に全然出てなかった人だからか……。
でも、その後の日本の海外展開を見てみたかったんだよう。


それにしてもコレ、面白いのだろうか?
ああでもない、こうでもないと推敲を繰り返していくともうワケわかめな感じに。




(1)とか書いてますが(2)は無いです。多分。






…………と、考えてましたが、
みなさんの感想を読むうちに時間はかかるだろうけど続きを書いてみようか思い直しました。
お題は、
「水戸黄門」「忠臣蔵」「慶安事件」「平賀源内」のどれか。

多分すごい時間かかる。(資料集めたうえで日本全体のシミュレーションしなきゃなんね)





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