獅子は獲物を襲うとき、咆哮したりはしない。 それをするのは、己の存在を誇示せんがため。 人が戦うにおいても同じです。 声に乗せるのは、感情ではなく、あなたの意思。 決して退かぬと。決して屈さぬと。敵の咽喉笛に喰らいついてでも生き延びると。 それだけの戦う理由があるのだと示しなさい。 戦う相手に――そしてどこまでも続く天と地に。 皇天后土に吼えるのです。◆ 冬の徐州、湖面から吹き付けてくる風は冷たく乾き。 なのに眼前から押し寄せる空気は灼けるほどに熱く、肌をひりつかせる。 呂布は方天画戟を構えていた。 意識したわけではない。それはほとんど武人の本能に従った動作であった。「な、な、何なのですか、一体?! 誰なのですか、あれは?!」 傍らで陳宮が口を開く。突然の出来事に、その声はわずかに震えていた。 それは驚きゆえか、あるいは――「北郷さん……」 高順の声が、呂布の耳朶をかすめる。 それを聞き、また若者みずからの名乗りを耳にして、呂布はそれがセキトたちと高順を救ってくれた人物であることを知る。 同時に、思う。 あれは……ここで討っておかねばならない敵である、と。◆『まあ、我が家の剣にそれほど七面倒な理屈はないわい。そんなものがあったら、そもそもわしがおぼえきれん』 かっかっか、というどこぞの副将軍のような笑い方は爺ちゃんの悪癖の一つだった。 矍鑠(かくしゃく)という言葉を擬人化したような我が祖父は、その言葉どおり、きわめて簡潔に説明した。『北郷が剣は停滞を忌む。すなわち風よ。風は吹き渡ってこそ風、止まっておればただの澱に過ぎぬ。ゆえに止まらぬことこそ、基本にして究極と知るが良い』 そう言ってから、爺ちゃんは孫に少しでもわかりやすく伝えたかったのだろう、こう付け加えた。『停滞とは、なにも足や身体のさばき方だけを言っておるのではない。目を動かすこと、頭を使うことも同様ぞ。戦いに臨んでは、常に動き、常に見、常に考えよ。必ず機先を制し、相手に一秒たりとも主導権を与えるな。さすればこちらは望むままに打ち込むことができ、逆に敵の狙いをことごとくいなすこともかなうであろう』 致して、致されず。それは確かに剣士としての究極だろう。 無論、今のおれには遠すぎるものであるのだが、それでも今、この時代において、それを知るおれは誰にも優る立場に立っているのだ。そう、関羽や張飛よりも。 これより先、千年を越える年月をもって編まれ、練られ、昇華されていくはずの究極を、おれは幼い頃より叩き込まれているのだから。 だからといって、ただそれだけの事実で、この時代に居並ぶ綺羅星の如き英傑たちに伍すことができるなどとは決して思わない。思わないが――「貴様らごときを相手にするには、十分ではあるさ」 さして広くもない内城である。おれが太史慈のところに駆けつけるために要した時はわずかであり、そして敵の血と、自らの血で朱に染まった太史慈を見て、彼女を救うために駆け出したのはほぼ同時。 身体を苛む痛みと疲労はいまだ消えていない。消えたのは、虚ろであるがゆえに軽かった心の方。 戦いにあって苦しみ、悩むのは当然だ。それを捨てれば楽にはなれるが、それでは到れない場所もある。そんな当たり前であったはずの真実を、強く、深く、心に刻み付ける。もう二度と、間違えることがないように。 そうしておれは、廖化らわずかな手勢の先頭に立って、戸惑ったようにたちすくむ袁術軍の陣列に突っ込んでいった。 棒立ちのまま、こちらを見つめる李豊に、物も言わずに襲い掛かる。首をねらって繰り出した剣であったが、李豊が寸前で身をのけぞらせたことで、首をそれて胸甲を叩く結果となった。剣と甲冑がぶつかりあい、火花を散らす。 それで我に返ったのだろう。李豊は慌てた様子で後方にとびすさり、空いた隙間を護衛の兵士たちが埋めてしまう。 だが、その兵士たちもまだ完全に立ち直ったわけではないようで、続けざまに繰り出したおれの剣は、その中の一人の頸部を正確に捉えていた。硬いものを砕く確かな感触。たまらず倒れるその兵士に目もくれず、おれは身を翻して傍らにいた別の兵士に襲い掛かる。 止まらず、動き続けること。 久しく思い出していなかった声が、そう告げた。 ただ、次の相手はすでに身構えており、急所への一撃を望めそうになかった。しかし、それならそれで、別にかまわない。 何もすべての敵兵を、おれ一人で討ち取らねばならない理由はないし、そもそもそんなこと出来るはずもないのだから。 大げさなほどに上段に構えたのはフェイント。動揺していた相手はあっさりとこれに引っかかり、こちらの剣を受け止めるために自分の剣をあげて胴をがら空きにする。その胴につき込まれた矛は、廖化のものであった。 甲冑の隙間を縫った攻撃で、脇腹を抉られた敵兵の口から悲痛な声がもれ、その手から剣が落ちる。ここでおれが目の前の相手に振り上げた剣を叩きつければ、確実に絶命させることが出来ただろう。しかし、おれは異なる選択をする。 何をしたかというと――持っていた剣を思い切り放り投げたのだ。縦に回転しながら宙をはしった我が愛剣は、狙いあやまたず、やや後方に立っていた敵兵の鼻面を強打し、予期せぬ投擲をうけたその相手は、痛みというよりも何が起きたのかという驚きの声と共に膝をつく。「大将ッ?!」 得物を放り投げたおれに、味方である廖化も驚きの声をあげる。戦場で武器を放り投げるなど、命を捨てるに等しい。 しかし。 連続する悲鳴。一人は手首を、もう一人は脛を斬られたためだ。無論、おれに、である。 いつの間にか、おれの手の中に、先の兵士が取り落とした剣が握られているのを知った廖化の口から、感心したような呆れたような、奇妙な吐息がもれた。 この剣の持ち主は李豊に従い、ずっと後方に控えていたのであろう。切れ味はまったくといってよいほど落ちていない。油が滴り落ちるような光沢を保ったまま、剣は鮮血に濡れていた。◆◆ それは小さな竜巻。 ともすれば朦朧とする意識の中で、太史慈の脳裏に浮かんだのはそんな言葉だった。「……一刀、さん」 将軍と長史。小なりといえど、一つの軍の長と副官である。この苛酷な戦況にあって、それぞれが異なる場所で懸命に指揮を続けていたため、互いに相手がどれだけの戦いを経てきたのかなど知る由もない。 しかし、血と泥に染まった北郷の姿を見れば、太史慈に優るとも劣らぬ激戦を潜り抜けてきたであろうことは疑いの余地がなく―― もう何度目のことか、響き渡る金属音と、身体を裂かれた敵兵の苦痛の声。 止まらない、止められない。敵兵の剣を奪い取ってから、さらにその動きは鋭さを増していく。 それは多分、「斬る」ことができるようになったから。 相手を討ち取るのではなく、戦闘の継続を妨げることを主眼とする戦い方。指の一本を失ったところで人は死なないが、だからといって平然と戦いを続けられるかと言えば答えは否であろう。必ずしも、殺すばかりが敵を無力化する手段ではない。無論、腕を断ち切られても、怯まず戦おうとする剛毅な人間も世にはいるだろうが、少なくとも、今この場にいる李豊の麾下には見当たらないようだった。 先日までの北郷の戦い方とは似ても似つかない、と思いかけた太史慈であったが、必ずしもそうではないことに思い至る。 剣を振るう速さに、目を瞠るような変化はない。 底流は同じ。すなわち能力があがったのではない。ただ戦い方が、動きが、かわっただけ……「将軍、お気を確かに」 そんなことを考えていた太史慈は、みずからに呼びかける声ではっと我に返る。その途端、足と言わず身体と言わず、全身から痛みが襲ってくる。 だが、太史慈はその痛みよりも、それすら忘れて北郷に見蕩れていた事実に気がつき、かすかに頬を紅潮させた。 そんなこととは知らない兵士は、気遣わしげに将の姿に目を向ける。「この場で矢は抜けませぬ。ひとまずは剣で根元を斬って、内城に戻ります。すこしの間、御辛抱ください」「……気にする必要はありません。遠慮なくやってください」「は、では――」 その言葉と共に、兵士は太史慈の足と地面を縫い付けている矢を半ばから断ち切った。衝撃が伝わり、足元から激痛がはいのぼってくるが、太史慈は奥歯を噛んで耐え忍ぶ。 ともあれ、これで自由は得た。 太史慈がそう考えた時。「何をしているッ! 敵はたかだか数人だというのにッ!」 後方に下がった李豊の叱声が響く。その声はある程度、兵士たちの動揺を鎮める効果があったらしい。幾人かの兵士が敵中に突っ込んだ北郷らの退路を断とうと動きだす。 同時に、その声は李豊の所在を知らしめることにもつながっていた。 このまま北郷たちが李豊めがけて突き進んでいけば、敵中に取り残されることになっていただろう。李豊の狙いどおりに。 だが。「お前の首などいらない」「遅いぜ、間抜け」 北郷と廖化の二人は、李豊の声が発される寸前、すでに踵を返していた。それまで相手を圧倒してただけに、この唐突な後退は袁術軍の意表を衝く結果となる。 元々、この場に飛び込んだのは太史慈を救う、ただそれだけのためである。その目的が果たされた今、北郷にとって、李豊はあえて深追いしなければならないほどの脅威を持つ相手ではなかった。 後方を塞ごうと動きかけた敵兵を斬り捨て、突き殺し、太史慈の下へと戻ってくる二人。 しかし、のんびりしている暇はない。混戦状態がなくなれば、これまで動けずにいた弓兵らが動き出す。 一秒でも早く内城へ退かねば。期せずして三人が同時に考えた時。 太史慈は何かが宙を裂く音を耳にした。 あまりにも耳になれたその音が何を意味するのか、それを悟った時はすでに遅く。 何者かに背後から突き飛ばされたかのように、北郷が急に前のめりに倒れこむ。咄嗟に足を踏ん張り、地面に倒れることはなかったが、その口からはくぐもったうめき声がもれた。そして、その右肩には緋色の矢が深々と突き刺さっている。 後方から飛来したその矢は、射手の弓勢の強さを示すように、甲を砕き、肉を貫き、鏃の先が太史慈の視界に映し出されていた。「大将ッ!」「……か、かず――」 廖化と太史慈、二人の声に対し、北郷は歯を食いしばりながら、強くかぶりを振った。「構うな、いいから早く退け」 その声は太史慈に、というよりも、太史慈を支えている兵士に向けたものだった。ここで足を止めれば、それこそ矢の的である。 後ろも見ずに駆け出そうとした北郷は、しかし灼けるような視線を背に感じ、反射的にそちらに視線を向けていた。そして、そこに弓を放った姿勢のまま、じっと立ち尽くす緋色の将軍の姿を見つけ出す。 燃えるような視線が自分に向けられていることを悟り、北郷の全身が総毛立つ。圧倒的なまでの力量の差は、ただ視線をあわせるだけで相手を畏怖させうるものなのだと、北郷は嫌でも理解せざるを得なかった。 同時に北郷は知る。 自分が情けをかけられたのだということを。 呂布と自分、その彼我の距離を考えれば、呂布が狙いを外すとは考えられない。頭なり、首なり、心の臓なり、射抜こうと思えば射抜けたはずだ。 にも関わらず、呂布の矢が肩に当たったということは、自分を生かして捕らえるためか、あるいは――「借りは返す、といったところか」 北郷は、以前洛陽で、燃え落ちる呂布の屋敷から高順と動物たちを助けたことがある。その事実が、呂布の弓の狙いをわずかにそらす結果となったのかもしれない。 ただ、それにしては自分を見る呂布の眼差しの強さに違和感が残る、と北郷は思った。離れてなお、飛将軍の威は自分を打ち据えんと欲してるように見えてならなかったから。 そして、北郷の負傷は想像以上に深刻な事態を招く。 これまでもっとも奮闘していた北郷の負傷を目の当たりにした袁術軍が、一斉に勢いを盛り返しはじめたのだ。 それを見て、廖化が頬をかきながら口を開く。「こいつあ、ちょっとやばいですな」「今までも、痛ッ、十分にやばかっただろ」 あまりにも圧倒的な戦力差に、逆に開き直ったのか、いやにのんびりとした様子の廖化に対し、北郷は痛む肩を押さえながら、苦笑して言い返す。 だが、北郷はすぐに真顔に戻ると、言葉もなく荒い息を吐くばかりの太史慈を見て、生き残った全員に告げた。全員といっても、もう両の指で数えられるだけの人数しかいなかったが。「子義殿を中心にして退く。元倹、殿は頼む」「承知。それと、大将もさっさと逃げてくだせえ。なんかあっちのおっかない姉さんが睨んでますぜ」「……やっぱり元倹もそう思う?」「あれだけ殺気に満ちた視線を向けられりゃ、馬鹿でも気付くでしょうや――っとお?!」 言いながら、袁術軍から降り注ぐ矢を矛で払いのける廖化。 それを見て、北郷は、太史慈を抱えた兵士を促して先に行かせ、自らは左の手に剣を持ちながら、その後ろに続いた。 当然、それを黙って見逃す李豊ではない。「逃がすものですか、殺しなさいッ!!」 激昂して殲滅の命令を下す将と、それに応じて動き出す麾下の将兵。 十名に満たぬ劉家軍、しかもそのほとんどは手負いである。双方の兵力比を考えれば、勝敗など誰の目にも明らかで――それでもなお太史慈と北郷は内城にたどり着く。配下の将兵の、命がけの挺身によって。 袁術軍はそれでもなお追撃をやめようとしなかったが、内城では陳羣と孫乾が砦中の油をかき集め、押し寄せる袁術軍に浴びせかけた。広陵から逃げ延びた者たちの中で、動けるものは子供や老人までもがこれに加わった。この予期せぬ反撃によって、袁術軍は追撃の勢いをそがれ、劉家軍はかろうじて敵の侵入を食い止めることに成功したのである。 この時、内城にたどり着いたのは太史慈と北郷、そして最後には背中に二本の矢を受けても殿の任を果たしぬいた廖化のみ。 太史慈と北郷が指揮していた兵士は全滅し、各処に散っていた将兵もそのほとんどが敵の猛攻の前に命を落としていた。 残存兵力を糾合すると、その数はわずか三十七。事実上、高家堰砦に詰めていた劉家軍五百は壊滅したのである。 ただ、それでも。 いまだ北郷一刀という人物が健在であるのは、間違いのない事実であった。◆◆◆「……驚きましたね。まさか、ここまで粘るとは」 呆れとも嘲りともつかない、その言葉。その中にほんのわずか、驚愕の色が混ざっていることに于吉は自分自身で気がついていた。 多少の誤算はあったにせよ、戦局はほぼ于吉の思い通りに推移し、そして外史の要となる者は完璧なまでの死地に入り込んだ――そのはずだった。 傷つき毀たれた砦、篭るはわずか五百の兵。それを取り巻くは十余万もの大軍勢。勝敗は誰の目にも明らかで、攻撃を開始すれば半日と経たず砦の将兵は朱に染まって地に倒れ付すと思われた。 だが現実を見れば、多くの将兵が倒れながらも、いまだ高家堰砦は健在であり、劉旗は翩翻と中華の空に在り続けている。 それでも今日こそは、と于吉は考えていた。信じがたい勇戦を繰り広げている劉家軍であったが、人である以上限界は存在する。于吉の目に、その限界は今日と映ったのだが、その予測は外れた。あるいは、外されてしまった。 于吉はどこか愉快そうに口元を手で隠しつつ、含んだ笑みをもらす。「まさかあれほどの武を秘めていたとは――いえ、そういえば、あなたは元々左慈をてこずらせる程度には腕が立つのでしたね。あちらの世界での鍛練が、こちらの世界の経験とあわさってようやく開花した、そんなところですか。ふふ、時と所を心得ているあたり、さすがは我らが宿敵と言うべきですか」 袁術軍が攻撃をはじめてすでに四日。 現在の淮河流域の情勢を考えれば、四日や五日で戦況が劇的に変化する可能性は極めて少ない。 淮南はほぼ袁術軍によって占領されている。これに対抗できるとすれば、淮北の支配を固めつつある曹操軍だけであろう。 兵力だけを見れば、曹操軍は袁術軍に優る。しかし、淮河を越える舟の数に限りがある以上、全軍をもって渡河することは不可能であり、二万、三万と小出しに兵力を渡していくしかない。曹操ほどの将が、地の利のない淮南に向けて、兵力の逐次投入という愚を犯すとは考えにくく、おそらくこの後は淮河を境界線として、漢と仲の対峙が始まると多くの者たちは考えていた。 今の段階で曹操軍が淮河を渡る可能性は少ない。ゆえに、劉家軍が文字通り命がけでつくりだした四日という時間も意味を為さない。そのはずであったのだが―― 于吉の目は、今なお砦に翻る劉の旗に向けられた。「それに意味を持たせてしまうのが、あなたたちだということはわかっています。淮南に翻る劉備の旗、淮北に取り残された関羽、そしてその関羽に執心する曹操、ですか。まったく、ことのほか世界というものは厄介ですね。どれほど追い詰めようと、どこかに希望を残す」 その言葉に応えるように、遠く広陵の方角から、伝令とおぼしき一体の人馬が急速に砦に接近してくる。そして――『……于吉様』 于吉の隣に、影の形をした何者かが姿をあらわず。一瞬前まで、確かに何もいなかったはずなのに。 しかし于吉は驚く様子もなく、淡々と問いを発した。「広陵が陥ちましたか」『御意。未明、漢の旗を掲げた軍船が闇をついて急襲。略奪に狂奔していた守備兵は、ろくに抵抗もできずに制圧されました』「数は」『先陣はおおよそ五千。おそらく曹軍の最精鋭かと。後続も次々と広陵に入っており、すでに一万を越える軍勢にふくれあがっております』「わかりました。引き続き、見張りをつとめなさい。おそらく劉備の側近たちが同道しているはず。あれらはほどなく動き出すでしょう。もっとも、広陵の治安を回復させるためにもそれなりの兵を割かねばなりませんから、こちらに向く兵力は多くても五千、精々三千といったところでしょう」『承知いたしました』 その声を最後に、影は姿を消し、于吉は再び一人となる。「いかに一騎当千の将とはいえ、万に満たない数では何事もかないません。先ごろまで敵であった兵士を率いた身であってみればなおのこと。なにより、広陵からここまで、どれだけ急いだとしても半日はかかる――届きませんよ、救いの手は」 広陵だけではない。于吉は自分の配下の方士を各地に散らし、情報を集めている。その正確性と伝達速度は斥候や伝令の比ではなく、方術を心得ない者がこれら方士を妨げることは不可能に等しい。 情報の収集と分析において圧倒的な有利さを保つ于吉の――ひいては仲の軍容を動揺させうる勢力は存在しない。たとえ北郷らの奮戦が予想の外であったとしても、それは于吉が描いた戦絵図を乱すだけの力はなく。 最終的な結末に変化はないことを知るゆえに、于吉の顔から笑みが消えることはなかった。「さあ、終局です、北郷一刀」 洪沢湖から吹き寄せる寒風が、于吉の前髪をそよがせ、あらわれた両の眼には、はっきりと愉悦の色が浮かんでいた。◆◆◆ おれは廖化に向かって肩をすくめた。「終局だ――けどそれは、あくまでこの戦は、だ」 おれの言葉に、馬上の廖化は何か言いたげな顔をするが、結局、開きかけた口は何の言葉も発さなかった。 廖化の背にくくりつけられるように負われているのは太史慈である。その顔は傷から発する熱で紅く染まり、今も苦しげな吐息が漏れている。医に心得のある陳羣によって一応の手当ては受けていたが、打ち続いた激戦による怪我と疲労、ことに呂布によって射られた足の傷は深く、今の太史慈は戦うどころか歩くことさえ容易ではない状態であった。 太史慈自身、そのことは承知していたのだろう。意識を手放す寸前、おれに対して指揮権を委ねる旨を告げ、そのことは近くにいた廖化も聞いていた。だからこそ、今もこうしておれの命令に従ってくれているのである。 ――まあ、その顔はものすごく嫌そうであったが。「ったく、大将も人がわりい。たとえ包囲を突破できたとしても、太史将軍が起きたら、おれが将軍に殺されかねませんぜ」「そこはまあ、おれに命令されて無理やりに、とでも言っておいてくれ。なにせ今の指揮官はおれなわけで、元倹はもちろん、子義殿といえど従ってもらわないといけないからなあ」「そう言って、はいそうですかと納得する将軍の姿が、想像できないんですがねえ。また大将にだまされたと大荒れになりやすぜ」 あくまで懐疑的な廖化に向かって肩をすくめてみせる。反論の余地がなかったからだ。 話をそらすためでもないが、おれは今度は人ではなく馬に話しかける。「頼むぞ、月毛。お前は多分、この砦の劉家軍で一番元気なんだから、何としても包囲を抜けてくれよ」 そういってたてがみを撫でると、今回の戦いで初の出番を得たおれの愛馬は、なにやら気遣わしげに小さくいななき、鼻面をおれに寄せてきた。元々穏やかな気性の馬で、聡明な性質であったが、その仕草は今の状況を本当に理解しているかのようで、おれは思わず真顔でもう一度「頼む」と頭を下げていた。 この戦いの敗北はもう避けられない。それがおれの出した結論だった。はじめから勝ち目など万に一つもない戦いであり、この終局は迎えるべくして迎えたものである。 しかし、それはあくまでこの戦においてのこと。今日の敗北は、明日の敗北を意味するものではない。ゆえに、おれは太史慈を外に逃がすことにしたのである。その護衛に廖化をつけたのは、単純に今の劉家軍の中でもっとも頼りになる人物だから、ということもあったし、同じ名を持つ人物が別の歴史でそうしたように、今後も長く劉家軍に尽くしてくれるだろうという期待があったからでもあった。「……ったく、大将も強情ですな。おれじゃなく、大将が逃げたところでかまわんでしょうに。陳太守たちだって薦めてくれたじゃねえですか」「今のおれは劉家軍の将。正義を掲げる劉旗を戴く身で逃げ出せるわけがないだろう。ここには陳太守や公祐殿(孫乾の字)、それに子供や老人までいるんだ」「死んじまったら、正義もくそもないですぜ。命あっての物種だと、おれなんかは思いますがね」「それもまた一つの見識。ただおれは――」 決して退かぬと誓ったから。小さくそう呟くにとどめた。「……まあ、これ以上は繰言ですわな。仰るとおり、全力で逃げ延びてみせまさあ」「……頼む。すまないな、嫌な役割をおしつけてしまって」 陥落する砦から二人を逃がす。これはあくまでおれ個人の勝手な判断だ。かりにうまく行ったとしても、目覚めた太史慈はおれを許すまい。悪くすれば、これが太史慈が劉家軍と袂を分かつ切っ掛けになってしまう可能性さえあるだろう。 それでも、太史慈には生きていてもらわねば困るのだ。ここで太史慈を討たれでもしたら、王修や、太史慈の祖母君にあわせる顔がないという思いもある――それがたとえ冥府であっても。 だが、それ以上におれ自身が思っていた。決して太史慈を死なせてはならないと、心から。陳羣でも、孫乾でも、あるいは今も内城で死の恐怖に震えている子供やお年寄りでもなく、太史慈を逃がそうとしている本当の理由は、ただそれだけであるのかもしれない。 そうして、おれは月毛に跨った廖化と太史慈の元から歩み去った。 敵の攻撃がいつ始まるかはわからない。戦況を考えれば、次の瞬間に敵の総攻撃がはじまっても不思議ではないのだ。 数十名まで討ち減らされた劉家軍の兵士たちは最後の一戦に備えて準備の最中であった。 ここからは見えないが、内城では陳羣らが火を放つ準備をしているところであろう。何のためにそんなことをするのかなど問うまでもない。広陵から逃げ延びた者たちにとって、再び袁術軍の嬲り者になるなど耐えられないであろうから。 その事実と、そしてそれを止めることができない自分を顧みて、おれは知らず痛めている右の腕で剣の柄を握り締めていた。力を込めるたびに、肩から全身へ向かう痛みが一際強くなる。しかし、今のおれにとって、その痛みさえ激情をおさえるための要素に過ぎなかったのである。