山頂に陣を構える劉家軍の陣に、曹操軍からの使者が訪れたとき、趙雲は驚きを覚えなかった。 現在の戦況を見れば降伏勧告がなされるのは時間の問題であった。降伏を促す使者の訪れは、すなわち、曹操やその側近が、もう十分に劉家軍を痛めつけたと判断したということを意味する。 ゆえに、離脱をはかるのであれば、使者が訪れた時こそ好機であろう、と趙雲は考えていた。 先に関羽を挑発して大立ち回りを演じたのは、何も関羽をからかうためだけにしたことではない。窮乏の淵にいる兵たちに、将がいまだ健在であることを知らしめ、士気の回復をはかる意味もあったのである。 ――そう主張する趙雲に、関羽は懐疑的な眼差しを向けて問いかけた。「むしろ、窮したあまり同士討ちでも始めたのだと、動揺してしまうのではないか?」 この問いに、趙雲は答えて曰く。「なに、他の軍ならさもあろうが、劉家軍の中にあって関将軍が味方を打ちのめすのは、めずらしい光景ではあるまい。暴れるそなたを見れば、兵たちは、ああ関将軍はいつもどおりだと安心するに決まっている」 むぐ、と唸って黙り込む関羽。 訓練の厳しさと、軍律に背いた者への容赦ない対応において、劉家軍内でも関羽の右に出る者はいない。関羽自身はそれを当然と考えているが、それゆえに周囲から煙たがられているという自覚はあるゆえの沈黙であった。 事実、あまりの厳しさから、兵の中には関羽の麾下にいることを忌避する者もいるほどなのである。しかし同時に、この関羽の徹底した姿勢こそが、劉家軍随一の将の地位を不動のものにしているのも確かなことで、関羽が民衆から篤く敬愛の念を寄せられる理由も、ひとえにここに求められる。 官が横暴をはたらくことがめずらしくない今の世にあって、軍律厳しい劉家軍の在り様は、民衆から諸手をあげて歓迎されるものであり、関羽は劉備と並ぶその象徴なのである。 もっとも、こちらに関しては関羽本人にあまり自覚はなく、自分にかけられる民の感謝の言葉は、これすべて劉備の徳と善政ゆえであると考えていたりするのだが。 そんな関羽の様子を見て、趙雲は悟られないように小さく苦笑した。 趙雲は北郷と関羽のいつものやりとりを指して言ったのだが、関羽は別のことだと思ってしまったことを察したからであった。 ともあれ、いささか手荒い方法で将兵の建て直しを計った趙雲は、曹操軍の使者との話し合いにかこつけて、この窮地を脱するつもりであった。 しかし。 降伏もやむなしと見せかけ、相手の隙を衝く――そんなとおりいっぺんの策が通じるほど曹操軍は甘くない。また、かりにこの窮地を脱したとしても、どうやって淮河を渡り、劉備たちに合流するのか。 さすがの趙雲もそこまでは考えが及ばず、その場その場で臨機応変に対処するしかなさそうであった。 どのみち、このまま、この山陣に留まっていたところで、全滅か降伏か、二つに一つなのである。そして、そのいずれも選べないのであれば、必然的に選択肢は一つに絞られる。 そんな覚悟を決めて、使者を引見した関羽らの前に現れたのは、初めてまみえる顔ではなかった。 姿を現したのは、かつて河北を席巻せんとした黄巾党の猛威に晒された楼桑村を、趙雲と共に守り抜いた立役者であり、同時に兌州の乱において、濮陽城に篭って呂布の猛攻を凌ぎきった殊勲者たる二人――すなわち。「――お久しぶり、と申し上げるべきでしょうか。一別以来です、関将軍、星殿」「お久しぶりなのですよー、雲長さん、星ちゃん」 郭嘉と程昱は、そういってそれぞれの表現で、関羽たちとの再会を寿いだのである。◆◆ 前述したように、曹操軍からの使者が訪れたとき、趙雲は驚きを覚えなかった。その使者が郭嘉と程昱であるとわかっても、それはさほどかわらない。ただ、類まれな智者である二人が来る以上、とおりいっぺんの降伏勧告というわけではあるまいとは考えた。 そして、その推測は的中する。 二人の語る内容を聞いたとき、趙雲は動揺を面に出さないために、少なからぬ労力を強いられたのである。「……広陵が、陥ちただと?」 趙雲の低い疑問の声に、郭嘉ははっきりと頷いてみせた。「はい。先日、淮河を渡って徐州の水軍の一部が我が軍に投降してきました。その彼らからもたらされた情報です」 郭嘉は詳しく述べなかったが、この水軍は関羽らを救出するために、陳羣が差し向けた徐州水軍の一部であった。 彼らは関羽ら北岸に残った劉家軍と合流すべく、数日来、淮河流域に留まっていたのだが、曹操軍の執拗な追撃を受けていた関羽らと合流することが出来ず、やむを得ずに広陵に引き返そうとしたのである。 だが、広陵を目の前にした彼らの視界に映ったのは、仲の李豊によって攻め落とされ、黒煙を吐き出す街並みと、その城壁に高々と翻る仲の軍旗であったのだ。 淮河には、官、民を問わず、広陵から逃れ出た人々の舟が溢れかえり、大小の舟がぶつかりあい、せめぎ合って舳先の向け場もない有様であった。 そして、仲の軍勢はそんな彼らにも容赦することはなく、兵士たちはそれぞれに舟を出して、手ごろと思える舟に乗り込んでは略奪に狂奔し、奪うだけ奪うと次の獲物となる舟を探した。 そんな混乱が続く中、何者が放ったのか、一隻の舟から火が生じた。兵士たちの仕業か、あるいは絶望した城民が略奪を逃れるために自ら火を放ち、火中に身を投じたのか。 いずれにせよ、一度発生した火は、冬の乾いた空気によって瞬く間に燃えあがり、のみならず河上をはしる風に乗って、たちまちのうちに燃え広がっていった。 広陵から脱した人々を乗せた舟は、河面を埋め尽くすほどに密集していたため、この火をせき止めることは誰にも出来なかった。狂兵に追われ、火に焼かれる人々の悲鳴と絶叫が混ざり合い、淮河の河面には、火と光と血しぶきが舞い躍る阿鼻叫喚の地獄絵図が映し出されていた…… 広陵で起きた惨劇、そのごく一部を語る郭嘉の前で、関羽が右の掌を卓にたたきつけた。「徐州軍は、それを黙って見ていたのかッ!」「……水軍といっても、広陵の一部隊。袁術相手に戦う兵力は彼らにはなかったのです。手を出したくても、出せなかったのですよ」 郭嘉の言葉に、程昱がひとこと付け加える。「仮に戦ったとしても、すぐに城内の主力が援軍に現われて殲滅されるだけですからねー。逃げてくる人たちを助けて、退くのが精一杯だったのだと思いますよ」 むしろ、下手に戦って敵の注意をひけば、犠牲になる民の数は増えこそすれ、減ることはなかったであろう。 そのことは関羽にも理解できた。しかし、理性では理解できても、感情が納得するか否かはまた別の問題――とそこまで考えた関羽は、そこでもう一つの事実を思い起こす。 すなわち、広陵は劉備がいる場所である、という恐るべき事実に。 むしろ、真っ先にそのことに思い至らなかった自分に、関羽は愕然とした。 それは広陵の民に襲い掛かった惨劇を聞いたことが、どれだけ関羽の平常心を奪ったのかの証左でもあったのだろう。「桃香様はご無事なのかッ?!」 その問いに、郭嘉は首を左右に振る。それを見て関羽の顔から血の気が引くが、次の郭嘉の言葉を聞き、すぐにそうが早計であることを悟る。「わかりません。少なくとも、淮北に落ち延びてきた者たちの中に、劉家軍の将兵は一人もおりませんでした。それどころか、玄徳殿らが広陵にいたことさえ知らない者も多く……」 最悪の想像が杞憂に終わり、関羽は思わず額をおさえて俯いてしまう。 ここで、趙雲が言葉を挟んだ。「稟(郭嘉の真名)よ」「なにか、星殿?」「今の言葉を聞くに、お主らは我が主の安否を気にかけてくれていたようだが、それは旧情ゆえのことか? それとも、お主らがここに遣わされたことと関わりがあるのか?」 その言葉を聞き、関羽がはっと顔を上げる。問う眼差しを向ける関羽に対し、郭嘉ははっきりと頷きを示す。「いずれも然り、と申し上げましょう。この身は華琳様の配下であり、玄徳殿はその敵です。しかし、華琳様に比するほどに天命を感じた御方でもある。その身の無事を願うのは、私の中でいささかの矛盾もはらみません」「ふむ」 趙雲は小さく頷き、何事か口にしかける関羽を制し、郭嘉に続きを促した。「ならば、後者に関してはどうなのだ? そろそろ曹操から降伏せよとの使者が来る頃だとは思っていたが、お主ら二人が来たところを見るに、ただ降伏を促すためだけに来たのではあるまい」 大陸全土に冠絶する智者。趙雲は郭嘉と程昱の二人をそう見ている。 関羽らを降伏させることが難事であることは確かだが、それでもこの二人が出張ってくるほどのことか、と趙雲は疑問を覚えた。 趙雲は、曹操が抱く関羽への執着を直接に見たことはない。それゆえ、曹操が、自軍の智嚢ともいうべき軍師を二人まで出して、関羽を麾下におさめようとしているという図式が、いささか奇妙に思えたのである。 この趙雲の疑問は、半ば当たり、半ば外れていた。というのも、曹操は疑いなく、関羽を麾下に招くために郭嘉と程昱を遣わしたからである。 その一方で、二人に与えられた使命が、ただそれだけではないというのも真であった。 趙雲の問いを受けた二人はそっと視線をかわした後、予想外の行動に出た。 二人は卓から立ち上がると、ゆっくりと関羽の近くに歩み寄り――そして、その眼前で跪くや、深々と頭を下げたのである。 関羽はもちろんのこと、趙雲でさえも思わず息をのんだ。 趙雲はいわずもがな、関羽もまた郭嘉と程昱の二人とは親しく語り合った仲である。たおやかな外見とは裏腹に、二人が内に秘めた、乱世に挑む気概の大きさを知っている。 その彼女らが頭を下げたという事実。二人が眼前で頭を下げる光景を見ることが出来るのは、今の主君である曹孟徳ただ一人であるはずなのに。 関羽が驚愕から立ち直る前に、郭嘉の声が天幕の中に響いた。それは先刻までの言葉とは、明らかに一線を画していた。勁烈とさえ称しえるほどに。「ご不審であろうかと思いますが、この挙は、これより将軍らに伝える言葉が、決して偽りなきことを示すためのものです。我が口が語るを聞けば、将軍は我らを礼なき輩と思われ、話に耳を傾けてくださらぬでしょう。ですが、どうか最後までお聞き届け願いたい」「ここで雲長さんが下す決断は、この後の大陸の行く末を左右するものになるかもしれません。だから、風たちの言葉を、しっかりと聞いてほしいのです、その上で決断してほしいのですよ。どちらを選ぼうと、雲長さんにとって、とても辛い決断になってしまうと思いますが……」 曹操への降伏。 二人の口から、その言葉が出てくるのは確実であろうと思われた。無論、関羽は面識のある二人とはいえ、その言葉に応じるつもりは欠片もない。劉備以外を主とする自分など、関羽にとって想像の地平のはるか彼方にあるゆえに。 二人のこの言葉も、関羽を頷かせるための手管の一つ――そう考えることも出来たかもしれない。しかし、どれだけ苦難に満ちた退却行が続こうとも、他者の真摯な態度と言葉を見誤るほどに、関羽の目は曇ってはいなかった。 さすがに視線が鋭くなるのはおさえられなかったが、関羽は二人に卓に戻るように言うと、話の続きを聞くために、腕を組んで自らも座り込む。そして、目線で先を促した。 応じて郭嘉と程昱がかわるがわるに話を続けていく。 それを聞くうちに関羽の顔色は赤から青へ、そしてついには土気色へと変じていった。趙雲もまた似たようなものであったかもしれない。関羽ほどはっきりと面に出すことはなかったが、その視線はそれだけで人を殺せそうなほどに鋭利な光を帯びていった。 ◆◆ 仲帝袁術による淮南侵攻とその凄惨さは、かなり早い段階から曹操軍にも伝わっていた。それは淮河の南に放たれた斥候からもたらされた情報であったが、それ以外にも情報源は存在した。曹操軍に降伏した彭城の陳登らによってもたらされる情報がそれである。 無論、その求めるところは曹操軍による淮南救援であった。くわえて広陵陥落が確報となり、逃げ延びた者たちの口から落城の様子が事細かに語られるに到って、偽帝討つべしの声は曹操軍内でも大いに高まったのである。 だが、曹操はすぐに軍を動かそうとはしなかった。淮北の支配が固まりきっていないことが一つ。もう一つは、二十万を越える曹操軍が淮河を渡るための舟の不足であった。 曹操軍が淮河を渡ると知れば、袁術軍は全力でこれを討とうとするだろう。舟の数が足りないままに強引に渡河を強行すれば、少数の曹操軍は淮河の南で背水の危険に晒されることは明らかで、曹操が兵を死地に突き出すような、そんな愚行をなすはずがなかった。 曹操が淮河を渡るのは、瑯耶郡に赴いた曹仁らの別働隊と合流し、必要な数の舟を確保してからになる。そのために要する月日が一日二日で済まないのは明らかであり、陳登を筆頭とした徐州の有力者たちは毎日のように嘆願を繰り返したが、曹操が彼らの要請に首を縦に振ることはなかった。 偽帝は必ず討つ。淮南は必ず救う。だが、そのために自軍を全滅の危機に晒すことはせぬ。今すべきことは、一刻も早く渡河の態勢を整えることである。 その曹操の言葉に、陳登らは反論をなしえなかった。 当初、郭嘉も程昱も、曹操の態度に異を唱えなかった。残酷なようだが、ここで無理に軍を進めて、万一にも敗れれば、その混乱は徐州にとどまらず、遠く許昌の朝廷にまで及び、ひいては大陸全土に少なからぬ影響を及ぼしてしまうだろうからであった。 だが、一つの報告によって、郭嘉らは考えを変えざるを得なくなる。 高家堰砦に劉旗あり。 それは、広陵を落ち延びた民の一人が口にした言葉であった。 袁術軍から逃れるために、物陰に潜んで震えていた時、略奪に狂奔する兵士たちが口々にわめきたてる言葉を否応無しに聞かされた。その中に、その言葉があったのだ。 そのことを知った郭嘉と程昱は、広陵の城民らに呼びかけを行い、高家堰砦について知っている者がいれば、どんな些細なことでも話すようにと伝えた。 そうして集まった情報をまとめている間にも、曹操軍の斥候により、淮南から新たな情報が伝わってくる。そうして、洪沢湖畔で起こった戦いの詳細を知るに到った時。 郭嘉と程昱の二人はまったく同じ行動をとった。すなわち、わき目もふらず、自らの主君のもとへと直行したのである。「時がありません。単刀直入に申します」 郭嘉は関羽の顔を見上げ、口を開く。「関将軍におかれては、どうか許昌へお越し願いたく。陛下に謁見し、此度の劉家軍の行動が、決して陛下に弓引くものではなかったことをお話しいただければ、玄徳殿が朝敵の汚名を被ることはなくなるでしょう。将軍がいらしてくださるのならば、謁見の儀は華琳様が取り計らってくださいます」 郭嘉の言葉に、程昱が続く。「――だから、降伏ではない、なんていうつもりはないです。表面はどうあれ、雲長さんが華琳様に跪かねばならないのは間違いないですから。それに、陛下に謁見した後、相当の期間、許昌に滞在してもらうことになると思うのですよ」 曹操にしてみれば、劉備のために尽力する理由など欠片もない。その労はひとえに関羽を麾下に招くためにあった。謁見の後は、劉家軍が本当に漢朝に従う意思があるのかを示すために、関羽はしばらくの間、許昌へ留まり、朝廷のために戦うことを余儀なくされよう。それは朝廷を牛耳る曹操にとって、関羽が降伏するに等しい。 また、それだけの時間があれば、関羽の士心を得る機会も訪れるであろう――郭嘉らは、そういって曹操を説いたのである。 関羽が曹操に降伏することはない。そう考えた郭嘉たちが考えぬいた末に出した方策。関羽を、曹操ではなく、漢朝に従わせること。それは劉備の汚名を晴らす機会を得ることにもつながり、関羽にとっても小さからぬ意味を持つ。 だが。「あの曹操が、そこまで歩み寄るとは到底思えぬのだがな?」 関羽の疑問はそこに集約する。 曹操と面と向かって言葉を交わした、あの洛陽での出来事。あれだけでも、関羽が、曹操の為人を知るには十分すぎた。 天に向かって己を謳いあげる覇王の質。惹かれるものはなかったが、それでも、その覇気が尋常ならざるものであることは、関羽とて認めざるえを得ない。 人中の竜、とは北郷の評であったが、それは関羽も首肯しえるものであった。 その曹操が。 ここまで追い詰めた相手に対し、みずから譲歩するとは到底思えないというのが率直な関羽の考えであった。案を出したのが郭嘉らだとしても、常の曹操であれば一笑に付するのではないか。いかに追い求める花とはいえ、なぜこの曹孟徳がそこまで下手に出ねばならぬのか、と。 関羽の疑問に、郭嘉は頷いてみせる。「疑念はもっともです。その点に関しては、先の戦における破約の償いもございます。我が軍の張文遠が敗れた折、追撃はせぬとの約定に背き、貴軍を襲ったことへの――」「本来なら、雲長さんたちはとうに淮南に逃れているはずでした。今の戦況は、破約あってこそのもの。華琳様にしても本意ではなかったのです――まあ、だからといって雲長さんたちを逃がしてやるほど、華琳様は潔癖ではないのですが」 清濁併せ呑む、という表現はこの場合適当だろうか。 望ましくはないが、かといってそれを理由に関羽を得られる機会を放棄するほどに、曹孟徳という人物は人が好くなかった。 とはいえ、それに何も感じないほど無恥な人物ではない。 郭嘉らはそこを衝いたのである。曹操の面目を損なわず、関羽の忠節を枉げることのない解決策。そして、この案には続きがあった。「高家堰砦」 その言葉が程昱の口から出たとき、関羽と趙雲は目を瞬かせるだけであった。 彼女らの知識にその名はない。それも当然で、その砦は今回の戦役によってはじめて機能を用いられた出城であったからだ。 にもかかわらず。 その名はすでに、多くの人々が知るところとなっていた。あるいは、知らない者の方がめずらしくなっていた、と言うべきか。 程昱が言葉を続ける。「わずか五百にて、万を越える飛将軍の兵を退けた不落の砦。今、そこに劉の牙門旗が翻っているらしいのですよ。そして、その地に向けて、淮南各地を侵略していた袁術軍が集結しつつある、というのが最新の報告なのです」「なッ?!」 その瞬間、けたたましい音が鳴り響いたのは、関羽が勢いよく立ち上がったため、椅子が倒れたせいであった。 その光景を目に入れながら、郭嘉は淡々と程昱の言葉を引き継いだ。「その砦に玄徳殿がいらっしゃるかどうかはつかめていません。ですが、その砦を包囲するため、寿春のほぼ全軍が集っているのは確かなことです。その数は――十万を越えます」「……十万、だと?」「はい」 絶望的な兵数を聞いて、うめくように呟く関羽の声に、郭嘉は無慈悲なほどにあっさりと頷いた。「何故、広陵の出城などに袁術がそれほど拘るのか。呂布を退けたという事実があるにせよ、それは攻めに出た相手を撃退したにとどまります。五百程度が篭った砦など、千の兵を置いて包囲すればたちまち無力化できるはず。あの湖砦が、淮南を押さえるため、絶対に必要な拠点というわけでもないのです。ならば、袁術が欲するのは砦でも、地でもなく、そこにいる人物である。そう推測するしかありません」 そして、その砦に劉の牙門旗が翻るならば――その人物が誰であるのかは明らか。郭嘉はそう言った。 ――ただ、疑問は残る。 将来は知らず、今の劉備は一郡の太守に過ぎない。その名はそれなりに知られているが、しかし袁術が警戒するほどの名声を獲得しているわけでもないのである。 にも関わらず、袁術は執拗に――全軍を挙げてまで劉備が篭る砦を陥とそうとしている。この図式は、郭嘉にはいささかならず不自然に映っていた。 とはいえ、それ以外にいかなる理由があるのかと問われれば、郭嘉も言葉に窮する。 郭嘉は率直にそのことも告げた。「あるいは、私などでは思い及ばぬ理由があるのかもしれません。ですが、湖砦に劉旗があること。袁術軍がそこに集っていること、この二つは間違いありません。いえ、戦況を考えれば、すでに攻撃をはじめている可能性の方が高いでしょう。あの湖砦は、寡兵にて呂布を退けるという偉功を見せ付けましたが、此度の攻撃はそれとは比べ物にならない規模です。奇跡でも起こらない限り――いえ、奇跡の一つ二つでは、到底、戦況を覆すには至らないでしょう」 そう言うと、郭嘉は口を閉ざし、立ち上がったままの関羽を見つめた。 言葉にせずとも、その視線だけで、関羽は郭嘉が言いたいことを察する。 奇跡の一つ二つでは覆らない。ならば、三つ四つと積み重ねれば良い。 奇跡とは、たとえて言えば、これまで矛を交えてきた相手が、掌を返して救援に赴いてくれるような、そんなありえざる戦況であろう。 ありえざる戦況。しかし、今ならば。今、この時ならば。 その一つを起こすことは可能であるのだ。 ――ただ、関羽の決断一つで。 ――その結果、おそらくは年の単位で主から離れなければならなくなるとしても。 ◆◆◆ 広陵郡高家堰砦。 陸側からは呂布、李豊の軍勢が、湖側からは梁剛、陳紀の軍勢がそれぞれ一斉に攻めかかる。 日の出と共に始まった袁術軍の攻勢は、当初の予想どおり、圧倒的な優位さの中で進められていた。 砦に篭るのは、劉家軍の数百と、広陵の陳羣とその一族ら百名あまり。 一方の袁術軍は、呂布と李豊の軍勢だけでも二万を越し、梁剛、陳紀らの軍勢をあわせれば五万を大きく越える。湖砦の立地ゆえ、全ての兵が攻撃に加わることはできないが、それでも五万の兵が押し寄せる圧力は相当なものがあるのだろう。 まして――「そのすぐ後ろに、もう五万が控えているんですからねー。勝機なんて見出しようがないでしょう」 そう言って口元をおさえてくすくすと笑うのは、袁術軍の大将軍張勲であった。 傍らにいた武将の一人が、そんな張勲の姿を見て気遣わしげに声をかける。「張大将軍、攻撃に加わらずにいてよろしいのですか? 江都を陥とせなかった以上、ここで奮戦しておかねば、皇帝陛下の不興を買うことになるやもしれませぬ」「はいはーい、その心配は無用ですよー。江都はもう陥としたも同然ですし、ついでに大至急北上してこの砦を囲めって命令してきたのは美羽様なんですから」 張勲の言葉に、武将は目を瞠る。「なんと、陛下からの勅命でありましたか。し、しかし、江都よりも、あのような小砦の陥落を優先させるとは、陛下はどのようなお考えなのでしょう?」「んー、まあ多分美羽様自身の命令というよりは、例の方士――于吉さんの智恵でしょうから、そっちに聞いた方が早いでしょうねー」 于吉、という名を聞くや、武将の顔には嫌悪が浮かぶ。 同時に、そこには小さからざる危惧が含まれていた。一介の方士が皇帝の勅令を得ることが出来るという現状。これまで、それが可能であるほどに皇帝と近しかったのは、眼前の張勲だけであった。今の張勲の言葉は、下手をすれば于吉が、張勲以上に袁術の信を得ているという証左ではないのか、との危惧が。 それに気付かない張勲ではなかったが、あえてそこに触れようとはせず、説明を続ける。「孫家の皆さんの足取りも掴めましたし、今も言ったように江都は間もなく仲に帰するでしょう。戦果としては十分です。おしむらくは、于吉さんが警戒していたらしい劉備さんを逃がすことになっちゃいましたけど、まあそれは仕方ないですね。まさか呂布さんの追撃が、たかだか五百程度に遮られるとは誰も思いませんし、それにもまして、あんなにはやく江都に入っちゃうとは予想外でしたから」 張勲の顔に憂慮はなく、むしろ晴れ晴れと笑っている観さえある。 その言葉どおり、劉家軍の本隊はおそるべき進軍速度で、袁術軍に先んじて江都に入城してしまった。 張勲らが江都の城壁を望んだ時には、すでに城外には劉家軍の影も形も存在しなかったのである。 もっとも、もし張勲が先行させていた騎馬部隊が予定どおりに進軍できていれば、城外で劉家軍を撃滅することが出来たかもしれない。 広陵から江都への道程を、これだけの短期間で走破したとなれば、その疲労は尋常なものではない。疲れ果てた劉家軍を、一戦で屠ることは決して不可能ではなかったであろう。 しかし、突如として姿をあらわした孫策の軍勢が、袁術軍の意図を挫いてしまう。 数にして百程度の小勢であったが、この襲撃を全く予期していなかった先遣部隊は、孫策と周瑜の二人に痛撃をくらい、完全に進軍の足を止めてしまったのだ。 孫家の軍勢は、先遣部隊を散々に引っ掻きました後、速やかに姿を消す。その退き際も見事なもので、追撃を行おうにも、影を踏むことさえ容易ではなく、先遣部隊の武将は歯噛みして悔しがることになる。 結局、この襲撃の対応に要した時間が、劉家軍にとって福音となった。 今回の一連の動きを見ると、あたかも孫劉のニ家が協力したかのように思われ、警戒を口にする将も数名いた。 しかし、張勲はたいして気に留めることはなかった。 この両家に接点は見当たらないし、接触する時間があったとも思えない。くわえていえば、たとえ両家が手を携えたところで、敗者が傷を舐めあうに等しい。現状では、どちらも脅威とするには足らなかった。 とはいえ、ながらく孫家を見張っていた張勲は、孫家の底力を甘く見ているわけではない。むしろ、劉家などよりよほど手ごわい相手と認識しており、寿春の虐殺以後、その行方を把握しきれていないことに、不安、というほどではないにせよ、苛立ちにも似た焦燥を抱いていたことは確かであった。 孫堅が在世中の孫家の雌伏は、張勲にとって掌の内にあったといってよい。人の動き、物資の動き、金銭の動き。それらを追うことで、容易に孫堅の動きを掴むことが出来たからである。 だが皮肉なことに、孫堅が死に、孫家の影響力が激減した為、かえって草莽に紛れた孫策らの動きを追いにくくなってしまった。様々な情報から、おそらくは江南に逃げ延びたと推測してはいたが、確証を掴むことが出来ずにいるうちに、今回の戦いが始まったのである。「正直、とうに江南に逃げたと思ってたんですけどねー。孫策さんのことですから、私たちを叩きたくて仕方なかった、というところですか。おかげで劉家軍を討つことは出来なくなっちゃいましたが、でもまあ、これで大体のところは掴めましたから良しとしましょう」 張勲は劉家軍の目的をすでに掴んでおり、劉家軍を討ちもらしたことが、現在はともかく、将来において問題となる可能性に思い至っている。江都の協力者に使者を出せば、劉備を討つことも不可能ではあるまい。 しかし。 何故か劉家軍に固執する于吉の思惑を知る意味でも、ここはむしろ劉備を泳がせておく方が得策であろう。 笑顔の下に、浅からぬ思惑を秘めながら、仲国の大将軍はかなたの湖砦へと視線を向け続けるのであった。◆◆◆ ちょうど同じ頃。 張勲と同じように、高家堰砦で行われている攻防を見つめる視線があった。 洪沢湖のほとり――といっても砦がある場所とは正反対の位置である。 数は二人。仲の軍装をまとったそのうちの一人が、周囲に聞かれないように、小さな声で囁いた。「……梁剛も陳紀も、水軍には不慣れみたいだね。湖面せましと舟で押し寄せたら、火攻めをしてくれと言っているようなものなのに」 それとも、砦側にその余力はないと見ての猛攻かとも考えたが、我も我もと砦に殺到する袁術軍を見るに、そこまでの思慮はないものと、その人物――魯粛は断定した。「じゃ、じゃあ子敬姉様、早く援護してさしあげないと、このままじゃあ……」 すぐ隣から聞こえてきた声に、魯粛は小さくかぶりを振る。「今、私たちが動けば、たとて火攻めが成功したとしても、私たちが全滅する。砦の人も助からないよ、子綱ちゃん」「そ、それは確かに、そうかもしれません、けど……」 そう言って俯いたのは、東城県の県令である張紘であった。 魯粛と張紘。東城県を守りきった立役者二人は、今、魯粛の家の食客を率いて袁術軍に紛れ込んでいた。 梁剛の軍勢と戦い続けてきた東城県である。袁術軍の軍装はとっくに手に入れていた。正規の兵ではなく、食客たちを連れてきたのは、いざという時に臨機応変に対処できるようにするためである。 袁術軍の不可解な動きに、奇異の念を抱いた魯粛は、危険を冒してみずから袁術軍に潜入した。今回の淮南侵攻は、仲にとって空前の規模であり、互いに顔もしらない将兵が大勢従軍している。くわえて、すでに幾度もの戦を経て、戦死者や増援の軍が入り乱れている今、百や二百の兵が紛れ込む隙はいくらでもあった。 魯粛は別に高家堰砦を救うためにやってきたのではない。 その目的は、ただ情報を得る、それだけであった。 無論、究極の目的は東城県を戦禍から遠ざけることであり、万が一にも袁術軍を討つ機が生じたのなら、それを見逃すつもりはなかった。 しかし、現在の戦況では、ほぼ確実に機が訪れることはないだろう。高家堰砦の将たちに興味はあれど、この状況で自分と配下と、そして張紘の命を危険に曝すつもりは、魯粛には微塵もなかったのである。 高家堰砦を攻める袁術軍の戦力を分析する。それは露骨に言えば、高家堰砦を捨石として利用するということであった。 面識がないとはいえ、高家堰砦に篭っているのは、張紘らと同じく徐州軍に属する人々である。それを見捨て、あまつさえ利用することの是非は問うまでもない。とくに張紘のように心優しい少女にとって、その心苦しさは想像以上のものがあるだろう。「――だから、子綱ちゃんは来ない方が良いって言ったんだけど」「そ、それは駄目です。もしどうしようもなくてそうするのなら、その責は私も負わなければならないものです。姉様にばかり、負担をおかけするわけには参りません」 張紘の真摯な眼差しを受け、魯粛は困ったように首を傾げた。(子綱ちゃんの気持ちは嬉しいんだけど……) 正直なところ、魯粛は今回の件で引け目など欠片も感じていなかった。張紘には、無論魯粛にも、高家堰砦を救う責務はない。十分な戦力があるのならばともかく、現状では自分たちの所領を守るだけで精一杯であり、逆に同勢力に属するとはいえ、そこまで求められる筋合いはないとさえ考えていた。 事実、東城県が攻撃されている間、援軍に来た軍は一つもないのだ。高家堰砦から援軍を要請されたわけでもない今、魯粛らが身命を賭する理由は存在しないのである。 傍らで憂色を浮かべる県令と異なり、魯家の狂児はいっそ悠然とした態度で、湖越しに繰り広げられる攻防を見守り続けた。訪れることがないであろう機を待ちながら…… 傍らで腕組みをしながら、毅然と立つ魯粛を見て、張紘は内心で小さく息を吐く。 姉の内心に去来しているであろう思いは、湖砦を見据える鋭い視線を見るまでもなく、何となく理解できた。 張紘は魯粛と異なり、彼方の砦ではなく、近くの湖面を見る。そこに浮かんでいるのは袁術軍に紛れて魯粛らが集めてきた舟である。その内に蓄えられているのは、火攻めをするに不可欠なもの。 機など来ないと考えながら、しかし機が訪れたときの準備は手抜かりなく、神経質なまでに完璧に整えた魯粛。 そこに込められた想いを見れば、一体、誰がこの人に『狂児』などという相応しからぬ名をつけたのか、と張紘は名も顔も知らないその人物への腹立ちを抑えることが出来ずにいたのである。 張追の耳に、もう何度目のことか、湖面を渡って砦から喊声が響いてくる。その声が今までのものよりも大きいところを見ると、少数の兵で奮戦していた砦の防備がついに崩れたのかもしれない。「あ……」 視線を向けた先には、砦の各処から立ち上る黒煙が見て取れる。 すでに袁術軍は城壁の上に達しているようで、それを見た張紘は思わず声をあげ、そちらに向かって手を伸ばす。 だが、無論、その手は誰に届くこともなく。 ――高家堰砦陥落の刻は、もう間近に迫っていた。 ――敵、味方を問わず。 ――誰もが、そう考えていた。