徐州広陵郡、広陵城。 淮河流域でも屈指の規模を誇るこの城には、太守陳羣が率いる二万の軍勢が篭城していた。 以前より袁術の淮南侵攻が必至と見ていた陳羣は、篭城のための準備を怠りなく進めており、広陵城の府庫には財貨や糧食が山と積まれている。 それゆえ、各地からの避難民を城内に受け入れてなお広陵城の物資が不足することはなかった。 そうして敵軍の襲来を今や遅しと待ち受ける広陵城の前に現われたのは、呂布率いる仲国の軍勢三万であった。 一般に、城を攻めるにおいて、攻撃側の兵力は守備側の三倍以上を要するとされている。その意味で、二万の兵力が篭る広陵城に対し、呂布の兵力は過小であったと言える。 無論、それはあくまで机上の理論。守将である陳羣は、飛将軍率いる三万の軍勢を過小に評価する愚将ではなかった。だが同時に、過剰な恐れを抱いているわけでもなかった。 淮南に侵攻してきた袁術軍は、呂布の三万だけではない。広陵城を守り続けていけば、最終的には、袁術が今回の侵攻で動員した十三万の軍勢、そのすべてがこの地に集うことになるだろう。「――いわば、この戦はそこに到る緒戦です。頭を抱えたくなるほどに不利を極めるこの戦況で、呂布一人に怯えている暇はありません」 城壁の上に立って、そう口にする陳羣。 現在の広陵太守は、外見よりもはるかに胆力に富んだ女丈夫である。かつて、揚州牧の劉遙が淮南支配を目論んで兵を挙げた時、単身、敵陣に赴いてその軍勢を退かしめたことは、今でも語り草となっている。 孫乾も当然、そのことは承知していた。迫り来る呂布の部隊を前に、震えがおさまらない我が身を顧みるまでもなく、陳羣の毅然とした姿には感嘆を禁じ得なかった。 難攻の砦として知られる路西を陥とし、勢いに乗る呂布の部隊は、すぐにも広陵城へ攻撃を仕掛けてくると思われた。 陳羣の指揮の下、広陵の城壁上にはずらりと弓兵が居並び、矢を番えて敵兵の到来を待ち受ける。その後ろには投石用の大小の石が置かれ、火や油を放つための用意も万全であった。 城を守る将兵の士気も高い。 今回の仲国の侵攻で、袁術軍がどのような振る舞いをしているかは広く知られており、この戦に敗れれば、同じ運命が故郷である広陵に襲い掛かることは間違いない。広陵に住まう者は、老若男女の別なく、敵軍に蹂躙されるであろう。 その中に自分たちの家族や友人が含まれることは明らかで、それゆえにこそ、徐州軍の将兵の眼差しは苛烈なまでに鋭かったのである。 しかし、待ち受ける徐州軍を前に、呂布の部隊がとった行動は予想外のものであった。 将の所在を示す牙門旗が、広陵城に到る前に南へと向けられたのだ。主力とおぼしき部隊はそれに続いた。広陵の南側近辺に、三万の軍勢を収容できるような拠点は存在しない。敵の狙いは奈辺にあるのか。 すぐさま南の各拠点に使者を出した後、予期しない敵の動きに、陳羣は困惑を隠せなかった。広陵を無視して、南の江都を衝く心算であろうか。あるいは――「まさかとは思いますが、劉州牧を……」 そう口にしかけた陳羣は小さくかぶりを振る。 陶謙が密かに劉備に州牧の位を譲ったことは、当然、公表されていない。それでも、その場に居合わせた一人として、陳羣は劉備を州牧として立てていたが、多くの者にとって、劉備はいまだ小沛太守に過ぎない。広陵の奪取より、その身柄を優先するほどの影響力を有しているわけではないはずだった。 その劉備が、陶謙の命によって江都を目指していることを知る者は、これもわずかしかいないはず。かりに劉家軍の動向を知りえた者がいたとしても、今の劉備の行動は、裏面を知らない者から見れば、敗残の兵が南に逃げているだけのこと、あえて追撃をしなければならない理由はどこにもない。むしろ、呂布が広陵よりも江都の奪取を優先した、と考える方がまだ説得力があるだろう。 だが。 束の間、陳羣の顔に不安の影が滲んだ。 言葉では説明しがたい、奇妙な不安が胸中をよぎる。 繰り返すが、劉備が徐州牧の印を譲られたこと。江都を目指していること。その理由。いずれも漏れるはずのない秘事であり、呂布が、ひいては袁術がそれを知ることはありえない。 にも関わらず、呂布の行動を見た陳羣は、こちらの行動、そのすべてが読まれているような錯覚に捉われた。彼方からこちらを見据える視線、そこに含まれた嘲笑――否、憫笑、だろうか。まるで蟷螂のかごに入れられた蝶を見るかの如き視線を、陳羣は確かに感じた気がした。「……陳太守、どうなさいました?」 孫乾の怪訝そうな問いかけに、陳羣は、はっと我に返ると、かぶりを振って焦燥を払い落とす。「すみません、少し考えていました。敵の狙いが奈辺にあるのかを」「確かに、妙な動きです。このままでは玄徳様が後背を衝かれかねませんが……」 孫乾は口惜しそうに言葉を切る。敵の追撃を止めようにも、敵軍三万のうち、二万は広陵城に留まっている。呂布を止めるには、まずこの軍を撃破しなければならないが、仮にも敵の先鋒を務めて淮南各地を突破してきた精鋭である。城壁を挟んでなら知らず、野戦で真っ向から戦い、勝利を得るのは、不可能とは言わないまでもかなりの困難を伴うし、時間もかかるだろう。 また、城兵の突出を誘うのが呂布の狙いである、という可能性も捨てきれない。 それゆえ、陳羣たちは去りゆく真紅の呂旗を見送るしか術はなかったのである。 この時、孫乾が自らがいる広陵ではなく、呂布が向かった南の戦況を案じたことを、油断というのは酷であろう。 飛将軍と、その直属の一万が去った後、残った袁術軍は二万。広陵城の兵力と同数である。城壁の中にいる徐州軍が有利であるのは当然であり、また、残った敵とてそれは承知しているだろう。 おそらくは遠巻きに城を囲み、糧道を断って、他方からの援軍を待つ作戦をとる。しかる後、まとまった数の援兵が到着するのを待って、本格的な城攻めを開始するものと思われた。 孫乾だけでなく、陳羣でさえそう考え、束の間、緊張を緩めた。それもまた、責められることではない。長期戦になることが避けられない以上、四六時中、緊張していては体力も気力も続かないのだから。 事実、その日、袁術軍は遠巻きに城を望んだまま動かず。 日が沈んだ後、夜襲をかけてくることもなく。 耳が痛くなるような静寂を保ったまま、両軍は一日を終えようとしていた。◆◆ 広陵城外、仲軍本営。 仲の将軍の一人である李豊は、遠く夜の闇に浮かび上がる広陵城の城壁を睨みながら、忌々しげに舌打ちした。 仲軍の枢要を占める将軍たちの中にあって、李豊はめずらしい女性の将軍であった。他の女将軍といえば、大将軍である張勲と、近衛指揮官の呂布くらいしかいない。 黙っていれば秀麗といっても差し支えない容姿の持ち主なのだが、今はその容貌は苛立ちに歪み、奇妙に醜悪な印象を、見る者に与えてしまうかもしれない。 その李豊が見据える広陵城は、現在も大々的な拡張工事が進められている仲の帝都寿春ほどではないにせよ、厚く高い城壁に囲まれ、昼間見た限りでは守城のための防備も充実している様子であった。 李豊の見るところ、同数の兵で攻め寄せて陥とせる城ではない。強攻したところで、無駄に部下を死なせるだけであろう。 しかし、李豊はこのままのんべんだらりと城を囲んでいるつもりはなかった。 寿春を発ってからこちら、呂布の副将格として後陣に置かれていた李豊は、未だ手柄らしい手柄を立てておらず、武勲の量において、呂布は無論のこと、他の戦線の僚将よりも劣っている。 その李豊にとって、この広陵攻めは千載一遇の好機と映っていたのである。 南へと向かった呂布、正確にはその軍師の陳宮から、むやみに攻撃を仕掛けて兵を損じないように厳命されていたが、李豊は新参の将の命令になど従うつもりはなかった。 あるいは抗命の罪に問われるかも知れないが、広陵奪取という結果さえ示せば、皇帝とて仲建国以前から仕える自分をあえて処罰しようとはしないであろう。そういう計算もあった。 しかし、城の堅固な守備を遠望すれば、安易に攻め寄せても痛い目を見るだけというのは明らかで、結果、呂布に命じられたように遠巻きに城を囲んで糧道を断つことしかできずにいたのである。 糧道を断つといっても、一日二日で城内の食料が尽きるわけではない。兵糧攻めはとかく時間がかかるものであり、時間をかければ呂布が帰って来る可能性は刻一刻と高くなる。南へ逃げているという敗残の部隊では、呂布と接敵すれば一日も保たないのは明らかであり、李豊に与えられた猶予はごく短かった。 このまま包囲を続けていても、李豊が手柄をたてることはありえず、かといって強襲するには兵力が足りない。李豊は鉄靴で地面を蹴りつけながら、忌々しげに罵詈を吐き出した。「これでは赤毛に武勲をたてさせるだけの戦いではないか、面白くない」 李豊は袁術麾下の中では古参の武将であると言って良い。女だてらに戦場で矛を振るってはや十数年。大将軍である張勲は別格としても、楽就、梁剛らと並び袁術軍の中でも重きをなす存在に成りおおせていた。 しかし、仲建国以後、袁術は多くの人材を麾下に招きいれており、中には早くも頭角をあらわしている者もいる。李豊は将軍の地位を失うことこそなかったが、軍部での影響力は明らかな減退を見せていた。 ことに呂布の存在は李豊ら古参の将たちにとって疎ましいものであった。新参の身ながら、呂布はすでにして近衛である告死兵の長として李豊らと同格の地位を与えられ、今回の淮南侵攻では武人の栄誉たる先鋒を任せられた。 戦えば勝ち、攻めれば奪る。路西砦の攻略を筆頭に、その武勲は枚挙に暇がなく、この戦が終わった後は更なる高位に就くことは確実であった。 そのことに不服はあるが、一方で呂布の武略を間近で見続けた李豊は、飛将軍の噂が偽りでないことを思い知らされており、自分の意思が嫉妬に類するものであることを自覚していた。そしてその認識が、また負の感情をかきたてるという悪循環を形作っていたのである。 この悪しき循環から逃れるためにも、李豊は配下に広陵陥落のための作戦を練らせてはいたが、これといった良案は出てきていない。それも当然で、この状況で城を陥とせる智謀の士は、中華全土を見回してもそうはいまい。「まったく、使えない奴らだ。将を補佐するが貴様らの役割だろうに」 三度、舌打ちして吐き捨てながらも、李豊は自分が理不尽なことを口にしているとわかっていた。今の言葉は、自分の無能をさらけ出す愚痴に過ぎない。そうと承知しているからこそ、護衛も従えず一人になっている今を見計らって口にしているのである。 これといった思案も浮かばず、李豊が得るものなく陣に戻ると、まるでそれを待っていたかのように部下の一人が息せき切って報告に現われた。「も、申し上げます、李将軍ッ!」「――何事です、そのように慌てて」「は、寿春より、陛下の使者がお越しに御座いまするッ!」「なに、陛下からッ?!」 一瞬の驚きが去ると、李豊の表情がかすかに曇った。 李豊自身の戦勲はともかく、戦の情勢は仲の有利に進んでいる。今この時、急使を遣わすとはどのような用件なのか。あるいは、呂布の後塵を拝するばかりで、目だった功績をたてていない此方への叱責かもしれぬ。そう考えたからだった。 無論、たとえそうであったとしても、皇帝の勅使を拒むことはできない。やや気重な声で、使者を通すように命じた李豊は、ふと思い立って誰が使者に来たのかを尋ねた。 部下の口から出た名前は、李豊の予測と異なるものであったが、その名と顔は記憶にあった。李豊の顔に隠しきれない嫌悪が浮かぶ。それは呂布のことを考えていた時より、あるいは強い感情であったかもしれない。「……一介の方士が皇帝の勅使を務めるなどと、成り上がったものよ。方士ごときと会うのは業腹だが、陛下の使者とあらばいた仕方ない」 そう言って、李豊は再度、勅使を通すように命じた。 その声に潜む苛立ちの深さに、李豊の部下は思わず首をすくめるのであった。 これは当分、機嫌は直るまいと思い、明日以降の労苦を思ってため息を吐く袁術軍の将兵。しかし、勅使を案内して数刻後、李豊の表情が思いもかけず晴れ渡っていることに部下たちは気付くことになる。 勅使を見送った李豊は、すぐに兵を集めるように命じた。 すでに夜は更け、月は天頂に煌々と輝いている。将兵も、見張りを除いては寝入っている頃合であった。 城に夜襲をかけるのか、とも考えたが、それならあらかじめ準備させておくだろう。 何のための召集か、と首を捻る部下に、李豊はさも愉しげにこう告げた。「広陵を陥とすための、下ごしらえよ」と。 ――あけて翌日。 広陵城の城門前には、手と足、そして首に枷を付けられた者たちが居並んだ……◆◆◆ 側近を引き連れて陣頭に馬を進める李豊。 城壁上の将兵の中に李豊の顔を知る者はいなかったが、陽光を浴びて燦然と輝く甲冑を身にまとい、仲の旗を立てる人物が誰であるのか、確認するまでもないことであった。 やがて城壁上の顔が識別できる距離まで達すると、李豊は高らかに城内に宣告した。「広陵の城民に告げる! 我は仲国皇帝、袁公路様が配下、李豊である。多言を費やす必要を認めぬ。速やかに城門を開き、我らが軍門に下るがいいッ! さもなくば、この城の城壁すべてを貴様らの血もて染め上げてくれようぞッ!」 その口上に対し、陳羣は答えなかった。 その視線は李豊ではなく、そのすぐ後ろに、罪人のように引き据えられている者たちに向けられている。 代わって答えを返したのは孫乾であった。普段は穏やかな声音が、今この時は、敵を鞭で打ち据えるように、鋭く宙を裂いて響き渡る。「漢朝に刃向かい、無名の師を起こして民草を踏みにじる者たちに、我ら漢の臣がどうして降伏などできようか。交渉を望むのならば、武器を捨て、兵を退き、捕らえた者たちを解き放すがよろしかろう。しかるのち、我らは交渉の卓に座るであろう!」 正理に満ちた孫乾の言を聞いた李豊は、無言で背後に控えていた兵士たちに準備を命じる。 李豊麾下の兵は、荒々しい手つきで枷をつけられた者たちを前へと引き出し、城壁からはっきり見える位置まで来ると、無言で次の行動に移った。 袁術軍の侵攻に伴い、陳羣は近辺の住民を城内に収容していたが、中には城に入らず野山に隠れた者、水路に舟を浮かべてそこに潜んだ者もいた。李豊が先夜のうちに捕らえたのは、そういう人々だった。 そのことは陳羣たちも推測することが出来た。問題は、何のために彼らを狩り集めたのか、という点である――否、それもまた推測することは簡単であった。ここまでの袁術軍の蛮行を聞いていれば。 しかし、まさか、との思いを禁じ得ない陳羣たちの前に、推測はより以上に残酷な現実となって現われる。「言ったはずだ。多言を費やす必要を認めぬ、従わざればこの城、貴様らの鮮血にて染め抜こう、と」「なにを――」「見ていればわかる。貴様らが招いた結果を、じっくりと堪能しろ」 焦りの滲む孫乾の言葉に、李豊は嘲笑を浮かべることで応じる。 そして、ためらいなく兵士たちに合図を送った…… ――鬼宴。 血相を変えた将兵が、口々に出撃を願い出てきた。 城外から聞こえる苦悶と絶叫、そして絹を裂くような悲鳴があがるたびに、将兵の顔はますます鬼気迫るものへと変じていく。このままでは、陳羣らの制止を振り切って、城門を開け放ってしまいかねなかった。「太守様、出撃しましょう!」「そうです、こ、このような光景を、黙って見ていることなど出来ませぬ!」「我ら徐州の民の誇り、あの鬼畜どもに知らしめてやりましょう! ご命令をッ!!」 殺気だった顔で詰め寄ってくるのは末端の兵士ばかりではない。指揮官格の者でさえ、我慢はならじと口々に出撃を請うてきたのである。 出撃すれば、守城の有利をみずから放棄することになる。明らかに敵はそれを目的として、こちらを挑発している。はっきりと言ってしまえば、これは罠だった。十中十まで、確実に。 それでも。「……出ざるをえませんね」 歯軋りしつつ、そう言う孫乾の言葉を、陳羣は否定できない。 青ざめた顔が向けられる先は、城外の袁術軍。その陣頭で繰り広げられる凄惨な情景に釘付けになっていた。「あああ、やめ、痛い、痛いいたいイタイィィッ?!」「いや、助け、助けてくださ、もう、やめて、やめて、やめてェェッ!!」「……あ、も、う、殺し、て……」「やだ、お姉ちゃ、助けて、助けて、いやああああッ!」 戯れのように振りかざされる剣と槍。 剥ぎ取られた帯と衣。 大釜には煮えたぎった湯が焚かれ。 兵士たちは、笑いながら口にする。 次はお前だ、と。 新たにあがった悲鳴、そこに滲む恐怖の響きにたまりかねた兵の一人が、城壁上から矢を放つ。しかし、矢の射程からはわずかに遠く、その矢はむなしく地面に落ちる。 ――仮に届いたところで、悲鳴をあげる民たちに当たってしまうかもしれない。城に篭っているだけでは、決して彼らを救うことは出来ない。そのことは万人の目に明らかであった。「鬼畜どもが……」 再び、孫乾の口から押し殺した怒りの声が漏れる。 その言葉は正しく事実を指しているが、この場においては何の意味もなさないもの。孫乾自身にもそのことはわかりすぎるほどにわかっていた。それでも言わずにはおれず、そして実際に口に出してしまうのが、孫乾の軍指揮官としての限界であったのかもしれない。 陳羣は、顔色こそ変えたものの、それ以外は常の様子を保っているように見えた。しかし、慧眼の者であれば――否、慧眼など持たずとも気付いたであろう。その拳の震えと、その眼差しに込められた怒りに。「さて、どうする。こちらはいつまで続けても構わぬがッ」 再びあがる敵将の声。 陳羣ははじめて自らその声に応えた。「どうするとは? 城門を開き、城内の民すべてをあなた方の暴虐の宴に供せよと言われるのか」「敵は殺し、味方は生かす。簡単な、そして単純な真理であろう。貴様らが我らに降るのであれば、貴様のいう暴虐の宴とやらも終わろうよ。太守、貴様には選ぶ権利がある。門を開いて我らに降れば、広陵の民は助かろう。あるいは守るべき民が陵辱されるのを見ながら、城に篭り続けるもよし。さすれば昼夜を問わず、この宴は続けられよう。隠れ潜む民などいくらでも駆り集められるゆえ。貴様らはその光景と声を肴に酒でも飲んでいればよい」「……かりそめにも皇帝を名乗るのであれば、この中華を治めんとする気概があるのでしょう。その麾下にある者が、かかる暴虐を為して、民がそれに従うとでも思っているのですか?」 声の震えはかろうじて抑えたが、陳羣の声にはっきりと怒りが滲む。 それを聞き、李豊はいささかわざとらしく肩を竦めて見せた。「正言、耳に痛い。だがこの身は武を修める将に過ぎず、上位の者の命には従わざるを得ぬ。広陵を力もて抜くことは難しいが、その士気を挫くことは可能であると、私はこうするように命じられていてな」 それが誰であるのかを聞け。李豊は暗にそう要求していた。 そして、陳羣はそれを問わざるを得ない。「何者が、このようなことを望むというのです?」「仲帝国虎賁校尉、呂奉先」 その言葉は、さして意外の感を与えるものではなかった。 この軍を率いていたのが呂布であったのだから、李豊の口からその名が出るのは当然ともいえる。 首謀者を知った将兵の口から、一際高い怒りの声があがった。 だが、このとき、陳羣は小さからざる違和感を感じていた。 何故、わざわざ敵味方に聞こえるように、その名を知らしめる必要があったのか。暴虐を行ったことに対する自身の責を回避しようとしているとも思われたが、袁術軍はすでに淮南各地を蹂躙し、ここと似たようなことを繰り返し行っている。今さら、その一つを他者の責任としたところで、何の意味もないだろう。 だが、それ以上考える暇はなく、煮えたぎった大釜から新たな絶叫が迸り、陳羣は唇を強くかみ締めた。 李豊が採った策は単純で下劣だが、城兵を外におびき出すという目的に照らし合わせれば効果的と言わざるを得ない。 陳羣は広陵太守として人望が厚いが、戦場の猛将ではない。その補佐である孫乾も同様である。兵書を紐解き、兵を御する知識を持っていても、それを活かす経験が不足している観は否めなかった。まして、このような凄惨な場に居合わせた経験があろうはずもない。 もし、この場の総大将が曹操なり孫策なりであれば、城外の民を切り捨てるにせよ、あるいは助けるにせよ、明確な方針を打ち出し、的確な方策を練って行動に移ったであろう。しかし、この時、陳羣も孫乾も平常心を取り戻せぬままに決断を下してしまう。 判断力にかげりのある状態で下した決断には、かならず虚が生じるもの。それを知らない二人ではなかったが、城外から今なお響く絶鳴が、陳羣たちの冷静さを根こそぎ奪い去ってしまったようであった。「……早急に出撃の準備を。城外の民を救出します」 陳羣の命令に応じて、麾下の将兵が慌しく動きはじめた。雄雄しく声を高める者もおり、その慌しさは城外から見ても筒抜けであった。「……ふん、たあいもない。名相、必ずしも名将にあらず、か。方士の言うとおりであったな」 城壁の士気の高まりを遠望した李豊は、秀麗な容貌に嘲りの表情を浮かべ、新たな命令を配下に下す。それに応じて袁術軍は密かに迎撃の準備を整えはじめた。「広陵は淮南でも指折りの豊かな城市。金銀珠玉が溢れ、美しい女子も山ほどいよう。これらを手に入れんと欲する者は奮闘せよ! この李豊、功には必ずや賞もて応えるであろう!」 欲望を煽り立てる女将軍を前に、配下の将兵は歓呼をもって応じる。 まるでそれを待っていたかのように、地響きをたてて開かれる広陵の城門。 かくて広陵を巡る攻防が幕を開けたのである。◆◆◆ 広陵城、城外。 高家堰砦から戻った高順たちは、そこで見たものに言葉を失った。 激しく繰り広げられたであろう攻防の痕跡、開かれた城門、今も城内から響いてくる喚声。だが、それ以上に――「なんですか、これ……」 高順は、それ以上言葉を発することが出来なかった。その視線は、この場に置き捨てられた死屍に向けられている。 それが甲冑をまとった兵士であれば、敵であれ味方であれ、高順はここまで驚くことはなかったであろう。 どうやって城門を破ったかは定かではないが、広陵の押さえとして残った李豊が広陵城を強攻したことは間違いない。あるいは敵を城外に誘き寄せ、野戦に持ち込んだのかもしれない。そのいずれであるにせよ、兵士の死屍が放置されていることの説明はつく。 だが、どうしてここに、年端もいかぬ女子供の死屍があるのか。否、それだけではなく、とても兵士とは思えない老人の亡骸も見えたし、その隣の壮年の男の亡骸は――まるで壊れた人形のように、あらぬ方向に関節が曲がっているように見える。「なんですか、これ……」 もう一度。 高順はぽつりと呟く。 問うてはいたが――答えなど、とうに出ていた。 生きるためではなく、奪うためでもなく、ただ殺すために殺している。見せしめか、あるいは挑発か。いずれにせよ、この蛮行を為したのは高順たち袁術軍しかありえない。おそらくは李豊であろう。 初めて見る光景ではない。呂布の部隊では戦場以外で血を流すことを禁じているが、一軍の長ではそれが限界。他の部隊を掣肘する権限はなく、袁術軍の侵攻する先々で民草の血が流されていることは承知していた。 ――正確に言えば、承知しているつもりであった。だが、眼前の光景に、高順の顔が知らず歪んでいく。 それは怒りなのか、悲しみなのか。高順自身にもわからない感情が、瞳から滴となって零れ落ちようとするその寸前であった。 広陵城内から、天地も裂けよと言わんばかりの轟音が鳴り響いたのである。 それに続いて、悲鳴とも喊声ともとれる声が上がり、その叫喚は城外の高順たちの耳にまで達した。 何事が起きたのか。 考える暇もあらばこそ、高順は愛馬を駆って広陵城内に駆け入り、一瞬の間を置いた後、呂布と陳宮がその後に続いた。 高順たちがその場にたどり着いた時、全ては終わった後のようであった。 おそらくは最後まで抵抗したのであろう。徐州側の兵と思しき者たちが倒れ伏し、まだ息のある者たちを、袁術軍の兵士が次々にとどめを刺している。 その先には僚将である李豊の姿。そしてその傍らには、袁術軍の兵士たちによって、地面に頭を押さえつける形で拘束された徐州側の高官の姿があった。血泥で覆われ、はっきりとはわからないが、二人のうち一人は黒髪の女性のように見える。おそらくは広陵太守の陳羣であろう。 その光景の中で、強く高順の目を惹きつけるものがあった。李豊の眼前に置かれている棺である。贅を尽くしたそれを見れば、中に葬られているのが高貴な身分の人物であることが窺えた。 そんなことを考えていた高順の耳朶を震わせたのは、泥を食まされながら、なお強い口調で弾劾の言葉を紡ぐ徐州側の人物であった。「貴様、我らに手を出さぬと申したではないか。約定を破るつもりかッ?!」 首筋を押さえつけられながら、その男性は激昂していた。 それに対し、李豊はなにやら喜悦の表情を浮かべつつ、足元に置かれている柩を無造作に開く。 咄嗟に目をそらそうとした高順であったが、一瞬、その視界に中に安置されていた人物のものと思しき白髪が映った。高順のいる場所からは、その程度しかわからなかったが、李豊ははっきりとその遺体の顔を確認できる。 李豊はわずかに目を細めて棺の中に視線を注ぐと、すぐに厭わしそうに目をそらした。だが、それだけで確認には十分であったらしい。声に奇妙な確信をこめて李豊が口を開いた。「ふん……洛陽で董卓と戦った折り、見たことがある。こやつ、徐州牧の陶謙であろう? 抵抗を止めれば退去を許すとはいったが、それは太守までだ。州牧を見逃すとは言っていない。何故この城に陶謙の遺体があるのかは知らぬが、これは陛下への良い土産となるわ」「土産、だと。天命を全うして逝かれた方、しかも帝より州牧に任じられた方の亡骸に、貴様は何をしようというのだッ!」「往古、伍子胥は王の屍を地中より引きずり出し、鞭打って恨みを晴らしたではないか。今、仲帝に従わず、無用の抵抗をなした州牧の屍を晒し、天下にその末路を示して何が悪かろう」 李豊の冷笑を聞いた男性――孫乾は、周囲の状況を忘れて掴みかかろうとするが、兵士の拘束を逃れるだけの膂力はなく、逆にさらに顔を地に押し付けられた。その口から、苦しげな呻きが漏れる。「案ずるな。陛下の御名において誓ったのだ。貴様らは生かして外に出してやる。城に残る者も、抵抗しないのであれば、手をかけることはせぬよ」「……ただし、陶州牧の亡骸を辱められた者たちが、無謀にも刃向かってきた時は、その限りではない――とでも言うおつもりですか?」 地を舐めさせられながらも、そう口にだしたのは陳羣であった。嘲笑を浮かべる李豊を睨みすえる眼差しは凍土のように冷たく、そして乾いている。孫乾のように激昂することなく、けれど同じくらいの嫌悪と侮蔑を込めて、陳羣は李豊をじっと見据えていた。 射るような陳羣の視線を正面から受けた李豊が、一瞬、気圧されたように嘲笑を凍らせる。 たが、すぐに現在の互いの立場を思い出したのであろう、平静を取り戻した様子の李豊が何事か口にしかけた時だった。「…………李豊」 呂布が、はじめて口を開いた。 決して大きくはない呼びかけだったのだが、その声ははっきりと李豊の耳に届いた。「りょ、呂布、殿……?」 振り返った李豊の顔が驚きにひきつる。まさかこれほど早くに呂布が広陵に戻ってくるとは考えていなかったのであろう。これは高家堰砦で敗れたゆえなのだが、李豊には知る由もなかった。 みだりに動くな、との軍令に違反した身であることは、李豊も自覚している。突然の呂布の出現に肝を冷やしたように見えた。 とはいえ。「機を見て動くが武人の器量。広陵は呂布殿の手を煩わせるまでもなく、この李豊が陥としましたゆえ、ご安心くだされ。我らが武勲、皇帝陛下もさぞお喜びくださいましょう」 自身の功を思い返した李豊は、余裕を感じさせる口調で応じた。広陵奪取の功績は、砦に過ぎない路西や、他の小城とは比較にならぬ。武功の面から言えば、李豊は呂布を凌いだといってよい。 早くも驕慢を滲ませる李豊に、呂布の左右に控えていた陳宮と高順が咄嗟に表情を固くさせたが、呂布は相手の態度そのものを問題視しようとはしなかった。というよりも、ほとんど気にしていなかった、という方が正確であろう。 呂布が言ったのは――◆◆◆「――約束を破ってはいけない。遺体を辱めることも許さない。飛将軍はそういって、私たちに恭祖様(陶謙の字)の亡骸を伴ったままの退去を許したのです」「呂布が、そんなことを?」 高家堰砦内部。 陳羣から広陵陥落の詳細について話を聞いていたおれと太史慈は、呂布の言動を聞いて思わず顔を見合わせてしまった。 考えてみれば、おれは呂布の武名については聞き知っているが、個人としての呂布はほとんど知らない。裏切りを常として乱世を渡り歩いた、おれの知る呂奉先とは別人であってもおかしくはない。高順が仕える主君なのだから、それは予測してしかるべきことであった。「……李豊によれば、あの鬼宴も呂布の命令ということでしたが……今思えば、あれも芝居であったのかもしれません」 陳羣が苦しげに咳き込みながら、そう口にする。 その言におれは頷いた。 確かに陳羣の言うとおり、その言動を聞くかぎり、呂布に対する印象が大きく変わってくる。少なくとも、陶謙の遺体が衆目の前で辱められる事態を避けることが出来たのは呂布のおかげだ。これは感謝してしかるべきであろう。 李豊が何故呂布を貶めるようなことを言ったのかはわからない。先の戦いでこちらの流言が思った以上に効果を示したことから、呂布と袁術が互いに警戒の念を抱いているのは明らかであったが、あるいは他の将軍との間にも不和を抱えているのかもしれない。「ともあれ、聞くべきことは聞けました、ありがとうございます。陳太守も今はお休みください。おそらく今日明日のうちに敵が寄せてくるということはないでしょうから」 呂布のことだけでなく、陶謙がすでに死んでいたこと、広陵での凄惨な攻防、そしてすでに広陵城が陥落したという事実。 一時に多量の情報を聞かされ、脳が飽和状態になっている。奇跡的に呂布を退け、後は退き際を見計らって、などと考えていたおれの目論見はあえなく潰えてしまった。この混沌とした戦況にあっては、個人の思惑なぞ空を流れる雲のように、風が吹けばあっけなく形を崩され、空に溶けていってしまうもののようであった。 広陵城から高家堰砦にやってきたのは、陳羣と孫乾、そして彼らの側近やその家族、おおよそ百名近い人たちである。その大半は老人や女性、子供たちであった。 当初、陳羣は自身は広陵に残り、孫乾に陶謙の棺と傷病兵や民らの避難を託す心算であったらしい。だが、最終的にほとんどが陳羣とその一族郎党のみとなったのは、明らかに袁術側の作為あってのことであった。おそらく、陳羣が自分と一族の安全のみを図ったとして、広陵の人々に太守への不信を植え付け、相対的に仲への敵愾心を削るつもりなのだろうと陳羣は言う。 そうと悟って、なお陳羣が従ったのは、陶謙の亡骸を袁術軍の手に渡さないためには、あえて敵の思惑に乗るしか手がなかったからである。 陳羣と孫乾、そして二人と共に広陵から逃れてきた人が休めるように手配した後、おれと太史慈は今後の行動について話し合いを持った。 あえて冷徹に考えるならば、広陵が陥ちたことで、おれたちは行動の自由を得たと言える。元々、おれたちの役割は広陵を援護することにあったのであり、その広陵が陥ちた今、この砦を守る意味も失われた。それゆえ、江都に向かった玄徳様と合流するために南へ向かうべきであった。 だが。「私たちだけならばともかく、陳太守らはすぐの移動は無理でしょうね」 太史慈の言に、おれは渋い顔で頷く。「はい。共に江都へ逃げることが出来れば、とも思いますが、広陵を出ることまでは許しても、江都までの道程を袁術が見逃してくれるとは考えにくいです。いえ、それを言うならば、どうしてわざわざ、太守や公祐殿(孫乾の字)を逃がしたのか。不信を植え付けるといっても、その身柄を押さえておけば、いかようにも筋書きを書くことは可能なはずですが……」 おれは太史慈の言葉に同意しつつ、首を傾げた。城を陥とすために残虐な手段を用いておいて、今さら慈悲を示したところで意味などあるまいと思うのである。陳羣の評判を落とすための芝居であったとしても、いささか迂遠に感じる。 それとも、この解放には別の思惑があるのだろうか?「――たとえば、彼らの中に間諜を……いや、でもほとんどが陳太守の一族か、その配下だといっていたし、そんな怪しげな奴がいれば気がつくか?」 太史慈も腕組みしつつ、首を捻る。「そもそも、今の私たちをそれほど警戒する必要があるのでしょうか。確かに呂布を退けはしましたが、こちらも兵をかなり失ってしまいました。まとまった数の敵軍に襲われれば、この砦を保つことは容易ではないのです。そんなところに、あえて手のこんだ謀略を仕掛けるとは考えにくいと思うんです」「確かに。これまでの袁術軍の戦い方は、基本的に大兵力で蹂躙するというもの。今さら、こんな小砦に策を弄するとは思えませんね」 太史慈と二人で首をひねっても、一向に敵の思惑は読めなかったが、一つ確かなことは、陳羣たちが来たことで劉家軍の行動の幅が狭まった、ということである。 劉家軍だけであれば、いざとなればどのようにでも逃げ散ることが出来るが、広陵から逃げてきた老人や子供らにそれは無理である。山野に隠れ潜むように言っても、先の戦いの様子を聞けば、彼らは決して頷くまい。何より、そんなことをすれば陶謙の亡骸を袁術の手に引き渡すことになってしまう。 となると、やはり棺を守って江都まで行くのが最善であろう。 父母を尊び、主君を敬う気持ちの篤い中華の地では、当然のように死者を葬るには相応の格式がある。こんな砦で性急に行えるものではないのだ。 聞けば、陶謙が亡くなったのは、玄徳様に州牧の印を渡した翌日であったという。苦しんだ様子もなく、ねむるように死出の旅に向かわれていたのだそうだ。 陳羣がその事実をおれたちに告げなかったのは、玄徳様たちの心境を慮ったためであろう。 間もなく袁術軍が姿を現したことで、葬儀をしている余裕は失われ、今に至ってしまったものと思われた。 おれとしても、陶謙には幾重にも恩を感じている。重荷を背負ったなどとは考えていないが、採るべき手段が少なくなるのは間違いない。 そして、おれたちがどういう行動に出るにしても、広陵の袁術軍の動向は無視できない。 広陵を陥落させた呂布たちは、まず広陵の掌握に全力を注ぐであろうから、すぐにここに来ることはないだろうとは思うのだが……「やはり、袁術の考えを確かめるのが先決ですね。早急に今の広陵の様子を調べて――」 と、おれがそこまで言った時だった。 慌しく部屋の扉が叩かれた。許可を得て入ってきた兵士の顔を見て、太史慈は無言で立ち上がり、わずかに遅れて、おれも立ち上がった。 何かが起きた。一目でそうわかるほどに、兵士の顔が青ざめていたからである。 その兵士が声を震わせながら口にした報告は、予想に違わず凶報であった。「ほ、報告申し上げます! 西より、大軍が迫ってきております!」 太史慈が眉を寄せる。確認のため、兵士を落ち着かせるようにゆっくりと問いかけた。「西、ですか?」「は、はいッ! 西の湖上より、か、数え切れないほどの舟が姿を現し、湖面を埋め尽くしております! さらには湖岸にも多数の軍旗が林立しており、その規模は先の呂布の軍と比べ物になりません。お、おそらくは三万を越えるかと!!」「さ……?!」 その数に、おれは思わず声を失った。 だが、すぐにかぶりを振って驚愕を振り払うと、肝心なことを確かめる。「敵の将帥は?!」「確認できたところでは『梁』と『陳』! おそらく、別方面を攻めていた梁剛と陳紀の軍勢と思われます!」 ぎり、と奥歯を噛むおれ。 しかし、凶報はそれだけに留まらなかった。 第二の凶報は、まるで計ったかのように、第一の報告が終わった直後にもたらされた。「申し上げますッ! 広陵方面に砂塵を確認しました。おそらく広陵の袁術軍が再びこちらに寄せてきたものと思われます!!」「この上、呂布まで来るか……! 数はッ?!」「はっきりとはわかりかねますが、砂塵の量と範囲からして、二万を下回ることはないかと思われます!」「な……ッ」 思わず絶句する。呂布の軍はおおよそ三万であったはず。それもこの地での戦闘と、そして広陵城を巡る攻防でそれなりに兵力を消耗しているはずであった。その呂布が二万以上の兵を率いて現われたということは、陥落させたばかりの広陵を、ほとんど空にして出てきたというに等しい。 西の大軍だけでも手に負えないこの状況で、どうしろというのかッ。「――って、愚痴っていても仕方ない。子義殿、ここは無理でも何でも、南に逃げるしかありま……」「も、申し上げます!」「今度は何だ!」 思わず怒鳴ってしまったおれであったが、三人目の報告の兵士は、そんなおれの怒りに気付いた様子がなかった。それほどにその目は驚愕と、怯えに染まっていたのだ。 そして、その兵士は震える声で、こう告げたのである。「み。南より、仲の旗を掲げた大軍が北上中! 旗印は『張』、仲の大将軍張勲の率いる敵の主力部隊と思われます!!」 ――思わず呆然とする。 何かが起きつつある。そのことを、室内にいた全ての人間が感じたことであろう。 だが。「何が起きている……?」 一番肝心な、その答えを知る者はこの場には誰一人いなかったのである。 ――その問いの答えを知る者は、遠く広陵の城にいた。◆◆◆ 時をわずかに遡る。 南へ去る陳羣らの姿を、城壁上から見送っていた高順は、不意にあることに気付く。「南……江都が大将軍の攻撃を受けていることを、陳太守たちはご存知なのでしょうか?」「ふん、知るはずがないでしょう」 応じたのは、心ならずも呂布らの近くにいた李豊であった。「別に問われもしなかったしね。まあ、精々頑張って逃げれば良い。結果は何も変わらないのだから」 李豊が約したのは、広陵からの退去まで。江都への道筋の安全を保障したわけではない。この場で見逃したところで、陳羣らは結局袁術軍の虜囚になる運命なのだ。李豊はそう言って、愉しげに笑みを浮かべた。 「そのような不実を!」 高順は李豊をきっと睨むと、すぐに踵を返した。 その背に李豊の声がかけられる。「どこへ行くのだ、小娘?」「知れたことです、陳太守に江都のことを知らせに参ります。破約は皇帝陛下の御名を損なうもの。逃がすと約した以上、こちらも相応の誠意を示さなければ――」 誠意というのは、この状況では相応しくない言葉かもしれない。しかし、落ち延びる先が袁術軍の攻撃に晒されていることを黙っていることが不実な行いであることは間違いあるまい。戦いが終わった後の違約行為は、今後の袁術軍の作戦行動にも少なからぬ影響を及ぼすだろう。 もっとも――高順はそこまで考えて唇を噛んだ。 その内心を声にしたのは、意外なことに李豊であった。「今さらそんな真似をしたところで、此度の醜名が拭われるわけではあるまい。無益なことだ」 その声を聞き、高順の足がぴたりと止まる。「……醜名を被るような行為を率先して行ったその口で、何を仰せですか、李将軍」 低い声は、わずかに震えを帯びて、その場に響く。その声に憤怒がないとは、誰も言えまい。 だが、李豊は動じた様子もなく、小さく嘲った。「ふむ、まあ道理ではあるか。もっとも私が率先して行ったというのは、いささか事実と異なるな。広陵の民は皆しっておるよ。この城を攻めた軍の総大将が誰であるかということを」「……ッ?! あなたは、まさか」 束の間の沈思の後、高順が驚愕をあらわにする。 わずかに遅れて、それまで黙して立っていた陳宮が声を高めた。「まさか、恋殿の名を使ったのでは……」 李豊は、二人の声ならぬ問いに、口元を歪めて応える。「然り。広陵に攻め寄せた仲軍の指揮官は呂奉先殿。その事実を否定する必要はないでしょうよ」 その言葉の意味するところを悟り、高順と陳宮は咄嗟に李豊に向けて一歩を踏み出した。 高順などは腰の剣に手をかけている。しかし、李豊は動じる様子もなく、こう言ってのけた。「そのことは、陛下も承知でいらっしゃる――そうだな、方士?」『え?』 期せずして、高順と陳宮の声が重なる。 そして、李豊が視線を向けた先。すなわち、高順と陳宮、そして呂布がいるその後方に目を向けると―― いつの間に、そこにいたのだろう。 高順らが向けた視線の先には、常と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた、白装束の方士の姿があった。 思わぬ人物の登場に、高順が呆然と呟いた。「于吉、殿……」「挨拶が遅れましたね、伯礼殿。それに奉先殿と公台殿もお久しゅうございます。皆様のご活躍、寿春にあって、陛下は大層お喜びであられますよ」 恭しく下げられた頭に、高順たちは咄嗟に言葉を挟めなかった。「ことに此度の広陵攻略は素晴らしい功績でございます。その身を民の血と憎しみで緋に染めて、なお陛下のために戦ったその忠武、公に称することは出来ませんが、陛下も嘉して下さることでございましょう」 于吉の言葉は、広陵攻略における醜行が袁術の指示によるものではなく、指揮官の独断であるとの断定。 そして。「策をたてた呂布殿、それを実行した李豊殿。広陵奪取の功績は、お二人のものとして長く語られることになるでしょうね。いや、あるいは公台殿の建策でしょうか?」 于吉の問いに、陳宮は顔を青ざめさせながら、首を左右に振る。「ね、ねねは、あんな惨い策を考えたりは!」「おや、すると広陵陥落のすべての功は李豊殿に帰することになりますが」「う、そ、それは……」「公台殿の危惧は察しがつきます。確かに此度の戦が知れ渡れば、一時、将軍方の武名は落ちるかもしれません。しかし、心ある人々は、乱世を終わらせるためにあえて鬼となった皆様の覚悟を察してくださいましょう。仲が天下を制した暁には、醜名は令名となりて史書に記されることでしょう――広陵攻略、見事でありました」 白の方士は心からの祝福と賛辞を込めてそう言うと、最後にこう付け足した。「されば、最後の仕上げに参りましょうか――この乱れた歴史を終わらせるために、ね」 戦乱の世を終わらせる。そういう意味で言ったのだと、聞いた者たちは皆そう考えた。 それゆえ、その言葉を口にした際、于吉の目に浮かんだ狂おしい煌きに、誰一人として気付いた者はいなかったのである……