五台山の戦で、幽州の黄巾賊をほぼ壊滅させた劉家軍は、時を置かずに五台山から移動を開始する。 目的は県城の包囲を解くことであった。 すでに県城の包囲を続ける黄巾賊は1千にも満たない数であり、城内の官軍に撃破されているかと思われていたのだが、官軍は罠を警戒したのか、動きが鈍く、未だ黄巾賊は県城を包囲し続けていることを偵察で知ったからだ。 逃亡した黄巾賊が、彼らに合流するようなことがあれば、元の木阿弥である。 それゆえ、速やかに行動をしなければならなかった劉家軍は、降参した5千名を越える黄巾賊をことごとく解き放つことにした。これは、捕虜を連れて行動すれば、機動力が削がれることになるという理由の他に、自軍の10倍を越える捕虜を抱えて歩くことの危険性を考慮した結果であった。反乱でも起こされたらたまったものではないから、当然といえば当然である。 武具や馬などは当然、没収したが、水や食料の一部はそのまま残した。これは、捕虜たちが暴発することを危惧した諸葛亮の提案であり、玄徳様がすぐさま頷いた為、たちまち実行に移された。もちろん、全部を残すようなもったいない真似はしない。しっかりと頂くものは頂いている。黄巾賊が軍中に用意していた軍資金は、今回の戦に費やした費用を補って余りあるし、3万を食わせるための糧食は、一部を捕虜たちのために残しても、まだ余裕があった。県城を解放したら、城内の民衆に配ることも出来るほどだ。 かくて、捕虜たちを解き放って身軽になったおれたちは、五台山の砦を離れ、一路、県城を目指すことになったのである。 結果を言えば、この速やかな行動によって、黄巾賊の再集結という事態は避けられた。 攻囲軍は、すでに本隊の敗北を知っていたようで、おれたちが姿を見せた瞬間から浮き足立ち、矛を交える間もなく、逃げ出してしまったからである。 先日から、黄巾賊の予期しない動きに不安を高めていた城内の兵士たちは、その有様を望んで、夢かと疑ったが、黄巾賊はもう戻ってくる気配さえ感じられない。 慌てて、太守の劉焉に報告がなされると、劉焉もまた信じられない面持ちであったが、事実、県城の周囲には、あれだけいた黄巾賊が一兵も見当たらないという。 どれだけ信じがたくとも、わずか3百の義勇軍に、自分たちが救われたという事実を、劉焉は認めざるを得なかったのである。 歓声をあげる民衆に迎え入れられた劉家軍の面々は、太守に招かれ、意気揚々とその御前にやってきた。 だが、しかし。「そなたが、劉玄徳殿か。わしが太守の劉焉である。此度の貴殿らの援護、まこと感謝の念に堪えぬ。心より、礼を申すぞ」 群臣が居並ぶ県城の広間で、劉備、関羽、張飛、諸葛亮、鳳統の5人は、劉焉の前で跪いていた。 劉焉配下の武官、文官が、威圧するように、彼女らを囲んでいる。 太守の言とは裏腹に、それは城を救ってくれた恩人たちを出迎え、称えるというような暖かい空気ではない。明らかに、劉備たちを厭わしく思い、またそう思っていることを隠さないことで、義勇軍の者たちに重圧を与えようとしているのであった。 関羽は、すでにこの広間に案内された段階で、そのことを悟り、表情を厳しいものにかえている。諸葛亮と鳳統の2人は、思わぬ展開に、2人で顔を見合わせ、関羽の陰に隠れるように、身を縮ませていた。 張飛は、この雰囲気に気づかないほど鈍くはなかったが、同時に、この程度の威圧で怯えるほどか弱くもなかったので、堂々とした態度を崩さずにいた。 そして、劉備は。「太守様の恩に報じることは、領民の1人として当然のことでございます」 広間の冷たい雰囲気に怯みそうになる自分を、内心で叱咤しながら、何とか毅然とした態度をとろうと努力していた。 助けた恩を誇る心算のない劉備にとって、この対応は考慮のほかであったが、劉焉はじめ幽州の役人たちにしてみれば、いたし方のないことであるともいえた。 自分たちが手も足も出なかった3万の軍勢を、わずか3百の義勇軍が打ち破り、しかもその義勇軍の主力は全て年若い乙女たち。 権力者としての立場も、男としての矜持もあったものではない。この上、なお彼女らに頭を下げて感謝し、その恩に報じるなど到底できるものではなかった。 あるいは、劉備が低くとも官職を持っていれば、もう少し違った対応もとれたかもしれないが、劉備は官職を授かったことのない一介の民間人に過ぎない。 その民間人に出来たことが、州の最高権力者である太守に出来なかったという事実は、今後の統治に大きな悪影響を及ぼすことは必至である。それゆえ、今このとき、太守はその事実をなんとしても打ち消さねばならなかった。「ところで、劉備殿。劉姓を持つということは、そなたはいかなる出自であるのかな?」 劉焉の言葉に、劉備は腰の愛剣「靖王伝家」を示し、その由来を口にする。 すなわち、中山靖王劉勝の血を引く己の血筋と、この乱世を鎮めたいという己の願いを。 だが。 真摯な劉備の言葉を聞いた太守たちから帰ってきたのは、高らかな嘲笑であった。「これはこれは、武勇に優れた義勇軍の長は、冗談を言うのも巧みと見える。確かに、腰の剣はなかなかの業物と見えるが、それをもって自身を太祖の末裔に連なる血筋と称されるとは」「いかにも。中山靖王・劉勝様と申せば、御子や御孫を含めれば120名を越えるという艶福家であらせられた。その血筋が草莽に隠れる可能性を否定する術はございませぬな」「いやいや、それは失礼な申しようであろう。玄徳殿が偽りを申しているともとれる言い方であるぞ? かほどに見目麗しい乙女が、そのような無益なことをするはずもあるまい」「いや、これは失礼いたした。玄徳殿もお気を悪くされないよう。つい、言わずもがなのことを口にしてしまいもうした。何、最近は、不埒な悪行を働く者どもが横行する世の中ですからのう」 その文官の言葉に、周囲の諸官が笑い声をあげる。 聞く者の胸を悪くするような、底意のある笑い方であった。「これ、無礼なことを申すな、皆。玄徳殿は、我らの戦略を読み、その力を貸してくれた大切な協力者であられるのだからな、のう、玄徳殿?」「え……は、はい、太守様」 思わぬ問いかけに、周囲の冷たい態度に萎縮しかけていた劉備は、反射的に頷いてしまう。「姉者!」「げ、玄徳様?!」 それを聞いていた関羽と諸葛亮が、咄嗟にその腕を引くが、すでに遅かった。 劉備の返答を聞いた周囲からは、すぐに太守の言に対する賛同の声が沸きあがっていたからである。「確かに、我らが黄巾の賊どもを引き付け、疲弊させた末とはいえ、義勇軍が賊徒どもを撃滅したは事実でありますな」「然り。出来れば、我ら官軍の手で黄巾賊を追い払いたかったところですが……せっかく志を建てて立ち上がってくれた者たちです。手柄の1つや2つ、立てさせてやらずばなりますまいて」「ふむ、我らも将軍の武勇を久しぶりに拝見できるかとおもっていたので、ちと残念であったが。かような乙女たちでさえ、賊徒を蹴散らすことができたのも、一重に将軍たちの事前の苦労あってのことでありましょうぞ」 笑いあう武官と、それに追随する文官。それは劉家軍の功績を掠め取る会話であることは明らかで。 己の不用意な言がその発端となったことを悟り、劉備は思わず声をあげかけた。 正直なところ。 劉備にとって、戦での功績など、誰に譲ったところで構いはしなかった。 それが、最終的に世の中のためになることなら、文句を言うつもりはない。 だが、それは劉玄徳個人としての考えである。 軍を率いる者として、命をかけて奮戦した部下に報いるために。命を失った部下と、その家族の想いに応えるために。彼らが命がけで掴み取った勝利を、他者に譲ることなど許されるはずがない。 しかし。「玄徳様……今は、我慢してください」「ご辛抱ください。今となっては、反論をすれば、逆に罰を与える口実になりかねませぬ」 口を開きかけた劉備を、諸葛亮と関羽が、短く、けれど鋭い口調で押しとどめた。ここで異論を唱えれば、功績を掠め取られるどころか、あらぬ罪を着せられて投獄されかねない。 それは、劉備も了解するところであったから、開きかけた口を閉じ、悄然と頭を俯かせた。その心中では、己の愚言に対する後悔が渦巻いていた。 劉備とて、官吏の腐敗を知らないわけではなかった。商いで旅をしていた時も、各地で役人の横暴に悩まされたこともある。 だが、こともあろうに1州の太守までが、このような真似をしてくるとは想像だにしていなかった。 民衆のために。そして、平和な世の中のために、命をかけて戦った。大切な配下の命を犠牲として、ようやく掴んだ勝利の末に、このような現実が待っていようとは。 過大な褒美を望んだわけではない。地位や領土を欲したわけではない。ただ、勝利のために奮戦した仲間たちを労い、2度と黄巾賊に民が踏みにじられることのないよう努めてもらえれば、それ以上を望むつもりはなかった。ただ、それだけの望みさえ、太守様からすれば、僭越と映ったのだろうか。 下民の分際で、ましてや女の身で、戦いの場に参じたことを不快に思ってしまわれたのだろうか。 劉備には、わからなかった。 そんな劉備たちの様子に気づかない風を装い、劉焉が配下の1人を呼び込んだ。 やってきたその人物は、手に一振りの旗を持っており、それを劉備たちの前に広げて見せた。 一瞬。 それを見て、劉備たちの顔に感嘆の表情が浮かぶ。 緑地の布に、花と竜の細やかな刺繍細工が施され、その中央に「劉」の字が大書してある旗。 このあたりでは、まず滅多にお目にかかれない最高級のものであることはひと目でわかった。これだけの品は、洛陽の都でもなかなか見つけることはできないだろう。「此度の功績に対する、そなたたちへの褒美じゃ。これより、そなたたちはその旗を陣頭に立て、逆徒どもを打ち払い、苦しむ民たちを救うてくれい。今この時より、汝ら義勇軍を劉家軍と命名する。太祖も一介の農民より、天下の主となるを得た。劉の姓に恥じない働きを期待しておるぞ」 それはつまり、今回の劉備たちの働きに、旗一枚をもって報いるということ。地位や領土はもちろん、恩賞として財貨も糧食も与えないという意味であった。「……はい、ありがたき幸せでございます」「うむ。それと、中山靖王の末裔であるなどと、軽々しく口にすることはやめたがよいぞ。聞く者によっては、朝廷への反逆を志しているとも、とられかねぬからな」「……御意にございます」 重苦しい返答は、普段の劉備を見知る者たちにとっては、まるで別人のように映ったことであろう。 少なくとも、この場にいた他の4人はそれを悟り、彼女らの主が深い悔いを抱え込んだことを知ったのである。 退出を命じられた劉備たちは、言葉すくなに県城の中を歩いていた。 ここにやってくる時は、期待と興奮で胸が苦しいほどであったのに、今はただやりきれない虚脱感が全員の心を占めていた。「蒼天、すでに死す……まさか、こんな時にこの言葉を思い起こすことになるとは、思いませんでした」 ぽつりと呟いたのは諸葛亮であった。唇をかみ締め、無念そうに顔を強張らせている。 蒼天たる後漢王朝の腐敗を、こんな形で目の当たりにすることになろうとは。 だが、諸葛亮が気にしているのは、そのことばかりではない。太守の仕打ちに憤慨したことも無論あるが、それ以上にこのことを予測できず、劉備たちにあらかじめ注意しておけなかった自分を責めているのである。「孔明、まだ城内だ。あまり滅多なことを言うものではない」「は、はい、ごめんなさい」 諸葛亮に注意を促した関羽だが、その心情は変わりない。功を立てれば必ず報われると信じ込むほど子供ではないが、それでも一州の太守が、ここまであからさまに他人の功績を掠め取るとは考えていなかった。そして、太守の部下たちの中に、それを非とする者が1人としていなかったことも、関羽にとっては不快な事実であった。儒を学び、礼を修めた者こそ士大夫足りえると考える関羽にとって、彼らの態度は唾棄すべきものと映ったのである。「うー、ご馳走食べられるとおもったのに、期待外れだった。これなら、お兄ちゃんと一緒にいた方が良かったのだ」「……そうかも、しれませんね」 張飛の言葉に、鳳統が少し悲しげに微笑みながら、同意の言葉を発する。 北郷は、大した功績を立てたわけではないからと言って、劉備たちに同行せず、城内の錬兵場で、他の兵士たちと一緒に待機しているはずだった。 張飛たちの会話で、そのことを思い起こした劉備は、哀しげに視線を落とす。「一刀さんや、他のみんなには、残念なことを知らせなきゃいけないね……」 張飛の言葉ではないが、あれだけの大勝利を得た上は、肉を食べ、酒を飲むくらいの楽しみは味わえるものと思い込んでいるだろう。褒賞だって弾んであげなければいけないのだ。 だが、実際は太守からは旗一本を授かっただけで、他には何一つ得られず、黄巾賊を打ち破って得た物資についても、退出の際、全て返納するよう求められている。 元々は、みな幽州の民衆より奪った物。幽州の府庫に戻し、民衆のために活用するのは当然という理屈である。 関羽らにしてみれば、命がけで奪った貴重な物資を、功績を掠め取るような輩に返す義務はないとおもうのだが、劉家軍の主は、民衆の為、という言葉に極端に弱かった。この要請にも、首を縦に振ってしまったのである。 結果、今回の戦いで、劉家軍は資金も糧食も、地位も領土も何一つ得られず、ただ一本の旗を得ただけが戦果となりそうだった。元々、貯めていた資金も、山砦の構築などでほぼ使い切っており、兵士たちへの報酬すら払えそうにない有様である。 せめて、亡くなった兵士たちの家族へ送る分は何とかしなければ。 劉備は俯きながら、そんなことを考えていた。 一方。 劉備たちが去った広間では、劉焉配下の者たちが心地よさげに笑みをかわしていた。「優れた武勇を誇ろうが、所詮は女子供というところですな。こうもたやすくこちらの思惑にのってくれるとは」「全くです。黄巾賊の大軍を撃滅させた功績に加え、連中の蓄えていた財貨や糧食まで我らに差し出してくれるとは、まったく我らは運が良い」「とはいえ、さすがにあれでは連中も不満を覚えよう。早めに潰しておくべきかも知れぬな」「然り。黄巾賊の捕虜を解放したと申しておりました件、つかえますな。黄巾賊と共謀しているとでも言えば、下民たちも疑問を覚えますまい」「ふふ、よくもそう悪知恵がまわるものよ。恐ろしい方じゃの」 好き勝手に言論の自由を行使する役人たちの声に耳を傾けながら、劉焉は今後、どう動くかについて頭を働かせていた。 黄巾賊に敗れたのは痛恨の極みであったが、奇特な協力者たちのお陰で、挽回は成った。あとはこの功績を朝廷に奏上し、更に上の地位を賜るだけである。 現在、朝廷の実権を握るのは大将軍・何進。だが、宮中で勢力を保つ十常侍をはじめとした宦官も侮れない力を有している。 劉焉としては、混迷を深める都よりは、豊かな地方の実権を握り、勢力を肥らせたいというのが願いである。だが、そのためには、いずれかの勢力の覚えを良くしなければならない。 さて、どちらに近づくべきだろうか。 そんなことを考えていた劉焉の耳に、奇妙な音が響いてきた。「む……?」 はじめ、それは耳鳴りにも似た小さな音であった。 文武の諸官の中でも気づいた者は少数である。 だが、その音は少しずつ、しかし確実に大きくなっていった。いまや、広間にいる全ての者たちが、不審げにあたりを見回し、浮き足立っている。「何事か?!」 劉焉の発した問いに、答えられる者はこの場にいなかった。答えたのは、広間に飛び込んできた衛兵の1人である。 彼は、叫ぶように主君に向けて報告した。「も、申し上げます! 城内の民衆が、大挙してこの建物の前に集まっております! いずれも、口々に黄巾賊を撃破した劉備殿らの名前を声高に連呼しておるとのことです!!」 その報告を聞き、広間の役人たちの顔に動揺が走った。「玄徳様、ありがとうございます、あなた様のお陰で、幽州は救われました!!」「おお、あれが関将軍か。わずか数百で、数万の賊軍を打ち破った女将軍だ! なんと麗しいお姿か」「きゃー、孔明様、可愛いーー♪」「おいおい、賊将を討ち取ったってのは、あのおチビちゃんなのか。なんてこった、大の大人がぶるぶる震えている間に、あんなちっちゃな子を戦わせてたのかよ」「士元様、こっちむいてくださーい! というか、お顔をもっとみせてくださーい!」 浮かない顔で太守の館から出てきた途端、劉備たちは驚きで目を丸くすることになる。 目の前には人、人、人、とにかく人。老若男女を問わず、数えることさえできない人波が、幽州の救い主をひと目見ようと、大挙して押し寄せてきていたのだ。 はじめは呆然としていた劉備たちだったが、民衆たちの熱気と感謝の念が本物だとわかると、思わず頬をほころばせていた。「はわわ、す、すごい人の数です! やっぱり、民はきちんと、見るべき人を見ているのですね」「孔明の言うとおりだ。我らがやったことが決して間違ってはいないということを、彼らが教えてくれているな」「うん……うん! そうだよね、愛紗」「あ、あわわ、は、恥ずかしいです~……」「おー、すごい人の数。そだ、さっきもらった旗を振ってみるのだ!」 張飛が思いついたように、抱えていた大旗を大きく振り出した。 劉の字が大書された旗は、降り注ぐ陽光の下、燦々たる光を放ち、眩しいばかりの輝きで、それを見る民衆の目に焼きついていく。 図らずも張飛の行動は、民衆の感情の高まりを沸点に到達させる契機となり。 あたりは、凄まじいばかりの活気で満ち満ちていったのである。 人々にもみくちゃにされながら、ようやく玄徳様たちが錬兵場にたどり着くと、そこもすでにお祭り騒ぎの真っ最中であった。 というか、ここはさらに酷かった。すでに所狭しと立ち並ぶ酒瓶の山。食い散らかった料理の皿が、足の踏み場もないほどで、あたりでは歓喜を爆発させた民衆と肩を組んで騒ぐ劉家軍の兵士たちの姿がそこかしこに見受けられたからだ。 そして、酒で顔を真っ赤にした者が、ここにも1人。 ……すみません、おれのことです。 目の前の女性と酒を酌み交わしていたおれは、玄徳様たちの姿を見て、大慌てで立ち上がった。 そんなおれに向けて問いかけてくる玄徳様。「か、一刀さん、あのこれは一体??」「げ、玄徳様?! あー、いや、これには色々と浅くて軽い理由がありまして……」 おれが、やや呂律のまわらない口調で言い訳しようとすると、関羽がおれの服の襟を掴み、ぐいっと身体ごと持ち上げた。 借りてきた猫状態のおれ、手も足も出ません。にゃー。「浅い上に軽いのか?! ふざけていないで、きちんと説明してもらうぞ」「あっはっは。まあ落ち着いてください、将軍」「おまえは落ち着きすぎだ、ばかもの!」 言葉を荒げる関羽だが、その顔は言葉ほど怒ってはいなかった。民衆と共に喜びにひたっている兵士たちを見て、怒鳴るに怒鳴れないので、とりあえずおれに疑問をぶつけてみただけらしい。「お兄ちゃん、ずるいーー! 鈴々もご馳走食べたかったのだー!」「案ずるな、張将軍。すでに第2陣の手配は終えてある。援軍はすぐに参るぞ」「おおー、さすがお兄ちゃんなのだ!」「ふはは、天才軍師と呼びたまえ。ああ、そうそう、本物の天才軍師さんたち」 そういって、おれはお祭り騒ぎに参加したくて、うずうずしているっぽい軍師2人に視線を向ける。ふ、まだまだ子供よのう。「甘味屋さんは、あっちに来てたぞー。張将軍、突撃せよー」「鈴々、行きます、なのだー!」「は、はわわ、張将軍、まってくださいー?!」「あうう、朱里ちゃんも待って~?!」 たちまち駆け出す張飛と、慌ててそれについていく諸葛亮と鳳統。 3人の姿はたちまち人ごみにまぎれ、おれの視界から消えてしまった。「ふふ、賑やかなことですな」 そういって、含み笑いをもらしたのは、今までおれと一緒に酒を飲んでいた女性である。 その頬は、これまで飲んでいた酒量に比して赤くなっていたが、切れ長の目に宿る怜悧な光は、酔っ払いのそれではない。先刻などは、長い髪を躍動させながら、持っていた長槍で舞を披露し、人々に喝采を浴びていた。 関羽は、ひと目で眼前の人物が只者ではないことに気づいたのだろう。おれに問いかける視線を送ってきた。ちなみに、まだおれを持ち上げたままです。さすがは82斤の青竜刀を軽々と操る関雲長である。 それはさておき、この人の名前……名前は、えーと、何だったっけ? というか、おれは何でこの人と差し向かいで飲んでたんだ?「いや、何、それがしが貴殿に興味を覚えたので、近づいたまでのこと。他意はござらんよ」「そうですか。まあ、美人と飲む機会なんて皆無ですし、有難いことにかわりは……って、なぜ首を絞める関将軍?!」「他意はない」「絶対、嘘だッ?!!」 殺る気満々の様子の関羽に、思わず絶叫するおれ。 傍らでは、玄徳様が口を出すこともできず、あわあわと慌てていた。 関羽の腕に囚われ、玄徳様の慌てる姿を見ているうちに、不意に強い眠気が襲ってきた。 冷静に考えれば、飲みなれていない酒を、目の前の人物に負けないペースで飲み続けていたのだ。ぶっ倒れるのは時間の問題だったのである。 かくて、おれは関将軍に持ち上げられつつ、がくりと脱力する。「お、おい、北郷殿?!」「……おやすみなさい、関将軍」「こ、こんなところで寝るんじゃない、っておい、こら、倒れるな! 抱きつくな! きゃーッ?!」 慌てて、おれを地面に下ろした関羽だが、すでに眠りの園へ旅立ちかけていたおれの身体は、倒れるように目の前の関羽の胸に倒れこんでいた。 とっても柔らかい感触と共に、なんだか、関羽の女の子らしい悲鳴が聞こえてきた気がしたが、気のせいだな、きっと。うん。 ぐー。 完全に眠りに落ちた北郷を、臨時に割り当てられていた宿舎に運び込んだ関羽たち。 あたりの騒ぎは一向に静まる様子を見せず、それどころか、これから宴もたけなわ、という感じであった。「まったく、なんでこんなことになっているのだ。鈴々たちも真っ先に参加してしまうし、こやつはさっさと倒れるし。まったく、みな心構えがなっておらん」 心持ち、頬を赤くした関羽がぶつぶつ文句を言うと、劉備が微笑みながら宥めにまわった。「まあまあ、愛紗。皆、楽しそうだし、良いことだよ。あんなに頑張ったんだから、これくらい騒いでも罰はあたらないと思う」「それは、無論、それがしもそうは思いますが、おのずと節度というものが」 なおも文句がありそうな様子の関羽に、横合いからからかうように声がかけられる。 何故か劉備たちについてきた、先刻の女性であった。「ふふ、黄巾賊の大軍を撃破した、音に聞こえし関雲長殿も、案外、話のわからぬ堅物であったのかな?」 む、と表情を硬くする関羽。「話のわかるわからぬではない。何事も節度は必要だと申しておるだけだ」「それを人は堅物と呼ぶのだよ」 楽しそうに笑いつつ、自前のものとおぼしき酒を呷る女性に、関羽は厳しい眼差しを向けた。「そなたこそ、なぜここまでついてきたのだ? かなりの武芸の持ち主と見受けるが、目的は何だ?」「さきほども言ったであろう。そこで寝こけている者に興味があったから、と。最初は、幽州を陥落させる寸前であった黄巾党を、わずか数日で壊滅させたという義勇軍をひと目見ようと思っていただけだったのだが、な」 女性の物言いに、自然と関羽の目が細くなる。「つまり、我らの偵察が目的というわけか?」「率直に言ってしまえば、そうなるかな? だが、それは私自身の興味からくるもの。ここで見たことが、何処の者であれ、貴殿らの敵に漏れることはないと思われよ」 その女性の言葉に、ここで劉備が会話に加わった。「あなたの興味、ですか?」「ああ。近頃、幽州の官軍が敗れ、黄巾賊が暴れまわっているとの話を聞き、天譴をくらわせんものとやってきたのだが、到着してみれば、すでに黄巾賊は蹴散らされた後だという。しかも、それを成したのが正規の訓練を受けた部隊ではなく、草莽より立ち上がった義勇軍だというではないか。興味を持つなというのは酷であろう?」 関羽が厳しい表情を崩さず、口を開く。「だから、酒を飲むフリをしつつ、様子を窺っていた、というわけか」「否。形だけ酒を飲むなど、酒と、酒を造った者に対して礼を失する行い。心底飲んでおったよ。近頃、これほどに心浮き立つ酒も珍しいゆえな」 再度、杯を呷ると、女性はくすりと微笑む。「野に蔓延る匪賊どもには力を示し、官に巣食う貪官汚吏には知恵で対する。乱世の膿を、かくも見事に料理するとは、痛快の極み。今頃、幽州の太守殿も、苦虫を噛み潰している頃合でしょうな」 その女性の言葉を聞き、劉備と関羽は互いに視線を合わせた。 問いかけたのは劉備の方が先であった。「待ってください。官に対する、とはどういう意味ですか?」「おや?」 劉備の問いに、不思議そうに女性は首を傾げた。「そこに寝ている者が、民に貴殿らの義勇軍の話を広めていたのを、ご存知ないのか? てっきり、義勇軍として計画していた作戦だと思ったのだが」 部屋にいた3人の視線が、期せずして一箇所に向けられる。平和そうに眠りについている、北郷一刀の顔に。 聞けば。 北郷は劉備たちが城に招かれると、すぐに黄巾賊から奪った糧食の一部を炊き出して、民衆に配ったのだという。 包囲下にあった城内では物資が不足しており、飢えに苦しんでいる者たちは少なくなかった。ただでさえ解放の喜びに沸き立っていた城内の民衆は、劉家軍の行動に歓喜の声をあげ、錬兵場のあたりは、たちまちのうちに、人波でごったがえす有様となった。 そこで語られる戦の顛末。 劉備の徳。関・張の2将軍の武。諸葛・鳳の2軍師の智。乙女たちの活躍は、民衆の心と、そして胃袋にしっかりと刻まれ、その圧倒的な戦果とあいまって、たちまちのうちに城内に知れ渡っていく。 戦の話を聞きに来る者。解放の礼を言いに来る者。飢えに苦しんでいる者。 それら全ての民衆に伝えられた劉家軍の偉功は、否が応にも彼らの熱を高めずにはいなかった。まして、それを成したのが、可憐な乙女たちとあっては、なおさらである。 かくして。 城内での策謀とは異なる次元で、劉家軍の活躍は既成の事実として確立され、幽州はもちろん、中華の各州に伝えられていくこととなるのであった。「もしかして、一刀さん……?」「まさか。読んでいたというのか?」 聞かされた北郷の行いに、劉備と関羽は顔を見合わせる。 城内での顛末を知るはずのない北郷は、しかしこれ以上ない形で、太守たちの策謀を覆してしまったことになる。 勝利を喧伝するだけでなく、食料と共に、彼らの胃に功績を沁み込ませるあたりは狡猾とも言えるやり方だ。これでは、後から太守がどのような布告をしようとも、民衆は素直に信じることはないだろう。 すなわち、劉家軍の功績を掠め取ることは、もはや不可能となったのである。 北郷が、それを意図してやったのかどうかは、本人に聞くしかないのだが。 疑問形を使いつつも、しかし、2人はすでに半ば以上、確信していた。 劉備たちの懊悩を吹き飛ばした、民衆の歓呼の声。それをもたらした者が、誰であるのかを。 だが。「それだけでは、あるまいな」 女性は語る。 もし。 この状況を意図して作り上げた者がいるならば、それを利用することで、更なる高みを目指すだろう。民を飢えさせる者に、民の上に立つ資格はない。黄巾賊に成す術なく敗れた劉焉を放逐し、県城を奪取することも、今の劉家軍には決して不可能ではないのだから。「はじめ、ここに来たのは、それを危惧したからでな。悪辣な輩であれば、まだ芽の出ないうちに摘み取る心算だったのよ」 それが杞憂であることは、劉家軍の様子を見れば明らかだったがな、と女性は他意のない様子で肩をすくめた。 無論、劉備たちはそのような真似をするつもりはない。北郷とて、そこまでする心算はないだろう。劉備の人柄を知る以上、そんな謀略を肯定してもらえるはずはないことはわかっているはずである。 だから、もし彼に底意があるとしたならば。 それは、太守らが強行策に出ようとした場合の選択肢を、作っておくことにあったのかもしれない。 劉備たちの功績を妬んだ官軍が、劉備たちを捕らえたり、あるいは劉家軍を放逐しようとする可能性もないではなかった。 だが、ここまで状況を作ってしまえば、そんな行動を取ることは難しくなる。仮にその上で強行しようとすれば、その時は力づくでその策謀を跳ね返す。それだけの素地が、民衆を味方につけた今の劉家軍にはあるのだ。 もちろん、全ては偶然であり、たまたま北郷がやったことが、そういう結果に繋がったにすぎないのかもしれないのだが……「さて、と」 聞くべきことを聞き、語るべきことを語ると、女性は静かに立ち上がって、劉備たちに向かって会釈をした。「それがしは、このあたりで失礼するといたそう。良き酒を飲ませてくれたことに感謝する」 そして、そのまま、隙のない動作で部屋を出て行こうとするが、不意に立ち止まった。「そうそう」 そういって、劉備たちに向きなおる女性は、自分の迂闊さに苦笑しながら、言葉を続ける。「そういえば、まだ貴殿らには名乗っておりませなんだ」 女性は劉備たちと向かい合う形で、口を開いた。「我が姓は趙。名は雲。字は子竜。常山真定の産にて、英主を求めて諸国を旅しております。この地で、貴殿らと言葉を交わせたのは望外の結果でありました」 その女性――趙雲は、芍薬のように匂いたつ笑みと共に、その名を口にしたのである。