高家堰砦外周。 城壁に高々と翻る劉旗を、高順はぼうっと見つめていた。 そこにはつい先刻まで繰り広げられていた、激しい戦いの痕跡がまざまざと残っている。 高順の視界に映る砦は一見したところ、高い城壁や投石器などの守城兵器を持たない小砦であるように思われた。しかし、実際に高家堰砦に攻め寄せた呂布の部隊は、この砦が意外なほどに攻めにくい構造をしていることにたちまち気付かされる。 呂布の部隊は、それを知る代償として、少なからぬ死傷者を出していた。 洪沢湖の湖底から浚渫した泥を用いてつくられた堤防と、湖水を引き入れてつくられた水路は治水のためのものであったが、その実、攻め寄せる敵兵が一直線に砦に向かうことが出来ないよう巧妙につくられた隘路(あいろ)であった。 少数の人数であればともかく、数十、数百の軍勢が押し寄せればたちまち渋滞を起こし、敵と戦う前に味方同士で混乱を起こしてしまう。無論、その動きは城壁上から克明に捉えられ、狙い済ました矢の斉射によって、寄せ手は避けることもできずにばたばたと倒れていった。 水路は思いのほか深く、洪沢湖の流れを再び淮河に注ぐように作られているため、水の流れもある。埋め立てて進撃することは不可能ではないが、通常の城や砦の堀に比べれば、その手間はかなりのものとなるだろう。 城内からは、絶えず矢と熱湯が降り注ぎ、時には煮えたぎった油や粥までが寄せ手の頭上に落ちてくる。篭城勢にとっては貴重であるはずの燃料や食料まで投じる守り手側の戦い方に、呂布の部隊は呆れと、そしてかすかな警戒をかき立てられた。 後先考えていないように見える防戦の仕方から、考えられることは幾つかある。もう落城は免れないと自棄になったのか。あるいは、こんな防戦が可能であるほどに豊富な物資が蓄えられているのか。 それとも――「…………高順」 不意に背後から声をかけられた高順は思わず背筋を伸ばし、慌てて振り返る。戦場で気を抜くなど言語道断の所業である。まして、ここまで近づかれるまで、まるで気配に気付いていなかったとあれば尚更だった。 だが、振り向いた高順は、少なくとも後者に関しては仕方がなかったのだと悟る。そこにいたのは、中華最強の武人であったからだ。そして、その足元には一匹の犬が尻尾を振って立っていた。「わんッ」「何をこんなところで油を売っているのですか、おまえは」 そして、その後ろには呂布の半分ほどの背丈しかない、小さな軍師が唇をとがらせていたのである。「呂将軍、公台様、それにセキトまで。どうなさったのですか」 足元に駆け寄ってきたセキトの頭を、高順はしゃがみこんで撫でてやる。嬉しそうに尻尾を振るセキトの姿を目を細めて見やりながら、高順は不思議に思って問いかけた。「どうなさった、ではないのです。高順の姿が見えないから、恋殿が心配して探していたに決まってるのですッ。ねねはそれについてきただけで、他意などないのですよ!」「…………ねねも、心配してた。ね、セキト?」「わんッ」「な、何を仰っているのですか、恋殿。高順がどこで何をしてようと、ねねの知ったことではないのです!」 心外だ、と声を高める陳宮を見て、呂布はふるふると首を左右に振る。 高順に頭を撫でられながら、もう一度、セキトがわんと鳴いた。◆◆ 黎明を裂いて行われた敵の奇襲によって、呂布の先陣は五十名弱の戦死者と、それに倍する負傷者を出した。一万という兵数から見れば、さしたる痛手ではない。だが、死傷者のほとんどが告死兵であり、総数一千の告死兵、その一割の戦闘力が奪われたと考えれば、小さからぬ痛手を被ったと言える。 敵軍は奇襲と罠によって呂布の部隊を混乱させた後、告死兵との接敵を嫌うように素早く火を放った。あらかじめ冬枯れの草木をしっかりと蓄えていたのだろう。放たれた火は逆茂木を基点として瞬く間に燃え広がり、告死兵の眼前に炎の壁を作り出した。 今まさに敵軍に突っ込もうとしていた高順の部隊は、危うくこの炎に包みこまれるところであったが、高順が罠を警戒して下馬を命じていたことが幸いし、すんでのところで逃れることが出来た――高順は呂布たちにそう説明していた。『おれを殺すか、高伯礼。なら、尻尾を巻いて逃げ帰るしかないな――追うのは自由だが、火傷しないように気をつけろ』 劉家軍の指揮官が放ったその言葉を聞いたのは、ただ高順だけであった。 敵は炎で高順の隊を足止めすると、あらかじめ用意していたと思われる軽舟を用いて砦へと退却していった。街道沿いに逃げたならば、騎馬の機動力で容易く追いつくことが出来たであろうが、湖岸に建てられた高家堰砦へ追撃をかけるためには、入り乱れた水路を越えていかねばならず、騎馬隊を主力とした呂布の部隊では追うことさえ容易ではなかった。無理に攻めれば、ある程度の兵の損耗も覚悟せねばならない。それを承知の上で、砦を攻めるべきであろうか。 元々、高家堰砦自体は大した脅威ではない。補給路を荒らされぬように千人ほどの兵を置き、遠巻きに一月も囲めば、たちまち砦内の食料を食べつくして降伏してくるだろう。 ゆえに、眼前の敵を無視して仲帝から命じられた劉家軍追撃を続行するのが戦の常道といえたが、敵の陣頭に劉旗があがったことが、呂布の部隊がその選択肢を選ぶことに制限をかけた。 敵の陣頭に掲げられた旗が、劉家軍の長である劉玄徳の牙門旗であることは誰の目にも明らかであった。 牙門旗は、長の所在を示し、軍の誇りを掲げる唯一にして無二の旗。その牙門旗が立っているのだ。高家堰砦に敵将劉備がいることは間違いないと陳宮は考え、高家堰砦への攻撃を命じたのである。 この攻撃は砦の堅牢さに弾き返される結果となり、数百におよぶ死傷者を出した。しかし、迎え撃った砦側も無傷というわけにはいかず、この攻防によって陳宮は高家堰砦の備えの全容をほぼ看破するに到っていた。「ふっふ、なんでこんなところに劉備がいるのかは知りませんが、自分で袋の中に飛び込むとは愚か者め、なのですッ!」 城攻めが失敗したにも関わらず、敵将の首は掌のうちにあり、と陳宮の意気が盛んな理由はそこにあったのである。 高順はそれを見て、呂布と陳宮に悟られないように小さく唇をかみしめながら、反論を口にする。 「し、しかし、先刻も申し上げましたが、げ……い、いえ、劉備殿の姿は……」「敵兵の中にはいなかった、というのですか。そんなもの、高順が見落としたか、劉備が兵たちに守られて後方で震えていたか、どちらかに決まってるのです」 そう言うと、陳宮は目に疑惑の光を灯し、高順に向かって口を開く。「劉備と知り合いだからといって、かばうつもりなので――」 途端。呂布の拳が無言で陳宮の頭に落ちた。手加減はされていたが、陳宮の目に滲んだ涙は、その衝撃が決して小さくなかったことを物語る。「あいたッ?! れれれ、恋殿、な、なにをッ??」「…………友達を悪くいう人、恋は嫌い」「う、うう、でも、ですね」「…………」「う、れ、恋殿、そんな目でねねを見ないでほしいのです……」「わん、わんッ!」「う、セキトまで……」 呂布とセキトの二人にじっと見つめられ、陳宮は気圧されたように一歩あとずさる。身体を竦め、小さく唸った後、しぶしぶと、という感じではあったが、高順に向けて謝罪の言葉を口にした。「……ごめんなさい」「あ、いえ、その謝っていただくようなことでは……」 高順もまた、陳宮に謝罪されて居心地悪そうに俯くのだった。 場に奇妙な息苦しさが漂い、沈黙が周囲を包み込む。その静寂を破ったのは、またしても陳宮であった。 その声は焦りを帯びて、わずかに高い。「そ、それに、かりにあの砦に劉備がいない可能性が高いのだとしても、その確証がつかめない限り、どのみちあの砦は攻めないといけないのです。袁術の命令は劉備の首。その劉備の牙門旗を放って置くなど、袁術や于吉が許すとは思えません。江都の方は張勲に任せて、ねねたちは高家堰砦を攻めろ、と命令してくるに違いないのですッ」 陳宮の言葉を聞き、高順は力なく頷く。 敵が劉旗を掲げた時点で、呂布の部隊が高家堰砦を素通りする、という選択肢は奪われた。陳宮の言葉は正鵠を射ていると言って良い。 実のところ、高順にしても劉備が砦にいるのか、それとも江都へ向かっているのかの判断をつけかねていた。劉備の人柄を知るとはいえ、実際に駒を並べて戦った経験があるわけではなく、劉家軍の戦術行動を予測することは難しい。 くわえて先の奇襲で姿を見たのが北郷だけであるという事実も、高順の心に戸惑いを与えていた。飛将軍を食い止めるための部隊に、関張をはじめとした劉家軍の誇る勇将が一人もいないというのはどういうわけか。 劉備の身辺を守る必要があるにしても、武将の配置に賭けの要素が強すぎるように思われた。 奇襲から退却にいたるまでの北郷の兵の進退が思いのほか速やかであったため、このことに疑問を抱いている者は高順以外にはわずかしかいない。元々、劉備の身分は徐州の一太守に過ぎず、その配下の詳しい構成を知る者は限られている。武では関羽、張飛。文では諸葛亮、鳳統。劉備の配下として、他国に知られているのはこの四人あたりまでであろう。 それゆえ、先の奇襲部隊の奇妙さに思い至ることが出来たものはほとんどいなかったのである。 高順にしても、洛陽以後の劉家軍の情勢を逐一探っていたわけではなく、噂で聞いた程度の情報しか持っていなかった。それでも、その噂のなかで北郷一刀という名が語られていたことは一度としてなかったように思う。 その北郷が、部隊を率いて呂布の前に現れた意味は何処にあるのか。 劉備が北郷を捨石として利用するなどありえない。しかし、戦の経験の少ない北郷を、あえて呂布の前に据える理由が他にあるのだろうか。 高順にはわからなかった。 実のところ、この時点で、呂布らは淮北の詳しい情勢を知るに到っていない。 曹操が徐州に侵攻したこと、そして小沛を守る劉備が淮南にいることから、ある程度の推測をたてることは出来たが、憶測の域を出ることはなかった。 劉旗を掲げる高家堰砦を攻撃するか、それともこれを策略と見なして江都への追撃を続行するか。 篭城策の前提は、他方から援軍の存在だが、広陵の陳羣は動けず、江都には張勲ひきいる大軍が押し寄せている今、淮南の徐州勢でまとまった数の兵を動かせる者はいない。淮北が曹操に攻められている今、そちらからの援軍も期待できないであろう。 そんな危地にある砦に、一軍の総大将がいるはずはなく、追撃を続行すべきであるとの意見は少なくなかった。 無論、砦には幾ばくかの兵をのこす。かりに劉備が砦にいるとしても、前述のとおり敵に援軍は望めない以上、あえて城攻めに兵と物を空費する必要はなく、残った部隊は時間をかけて砦を攻略すれば良い。結果として、劉備の首は仲の手中に落ちるのだ。 この意見は聞く者の耳に、一定以上の説得力をもって響いた。高順も、控えめにではあるが、こちらの案を推した。 しかし、呂布の軍師である陳宮は兵力の分散を嫌った。 数はまとまってこその力、その分散は愚策にほかならぬ。劉備の牙門旗を無視することが許されない以上、眼前の高家堰砦に全軍を投入すべきである。 陳宮が示したのは奇策を弄さぬ正攻法であったが、それゆえに先の案にまさる説得力があったといえる。 また、堅い防備を誇る砦といえど、一当てしたことで、おおよその配置はつかめた。中に篭る兵は精々四、五百人といったところであろう。その程度の兵数ならば、一万の兵力を四方に展開し、間断なく攻め寄せれば、日を経ずして陥落させることは可能であると陳宮は主張したのである。 結局、呂布は後者――すなわち陳宮の意見を採用する。 一度、呂布の決定が下れば、高順も異を唱えようとはせず、黙々と陳宮の指示に従って攻城の準備を整えていった。 告死兵を中核とする一万の軍勢はたちまちのうちに高家堰砦を幾重にも取り囲み、湖にも舟を出して、劉家軍の背後への逃げ道を塞いでしまう。砦は文字通り蟻の這い出る隙間もない包囲の下に置かれることとなった。 短期間のうちにそれをなした陳宮や高順をはじめとした呂布配下の将軍の水際立った統率力は、砦内の将兵に脅威を覚えさせるに足るものであった。 静まり返る高家堰砦を遠目に見やりながら、陳宮は胸を張る。「ふっふ、獅子は兎を狩るにも全力を尽くすのです。なにやら色々と小細工をしてくれましたが、それこそ追い詰められた者のあがきというもの。みずから墓穴を掘ったと切歯扼腕するがいいのですよッ!」 一万の軍勢があれば、告死兵の一千を抜きにしても三千の部隊を三組つくることが出来る。陳宮はこの三隊をそれぞれ城攻め、後方からの援護、そして休息の役割にあて、この三組を交互に繰り出す間断ない攻勢によって、高家堰砦を磨り潰してしまおうと画策し――そして、それは劉家軍にとってもっとも厳しい戦況をもたらす決断となったのである。 ◆◆◆ 耳をつんざく悲鳴に、思わず身体が竦む。その悲鳴をあげたのが、敵か味方かも判然としないが、咽喉も裂けよとばかりに放たれた絶叫に、おれは知らず奥歯をかみ締めていた。知らず、萎えてしまいそうな心と身体を、必死に奮い立たせる。 高家堰砦正門脇の城壁。眼下には立錐の余地もない数の敵兵がひしめき、城門を破ろうと突進し、あるいは長梯子をかけて城壁によじ登ってこようとしている。 こちらも懸命に応戦しているが、如何せん、数が違う。敵が攻めてきているのは、正面ばかりではないため、全軍をここに集中させることも出来ず、ただでさえ少ない兵をさらに分けなければならない状況であった。 今また、敵兵が一人、城壁に手をかけてよじ登ってこようとしている。 おれが急いで駆けつけようとすると、それに先んじて味方の兵の一人が城壁にかかった敵の手を剣で切り飛ばし、手近に備えてあった人頭大の石を、敵兵にむかって叩きつけた。 敵兵の口から悲鳴と絶叫がほとばしり、中空に血潮が飛び散った。敵兵はそのままのけぞるように宙に投げ出され、すぐ下に続いていた兵士を巻き添えにして落下していく。急ごしらえの梯子は、この衝撃に耐えられなかったのだろう、鈍い音をたてて崩れ落ちた。 梯子に身体を預けていた十名ちかくの敵兵がまとめて空中に投げ出され、重力に従って地面に落ちていく。無論、無傷で済む高さではなかった。「休むな! 続けて落とせッ」 おれはその光景を最後まで見届けることなく、次の敵を捜し求めながら、周囲の味方を叱咤する。おれ自身、手近な石を掴むと、今の光景を見ても怯むことなく攻め上ってくる敵兵に叩きつけようと抱え上げたのだが―― 宙を切り裂く矢羽の音と共に、敵陣の後方から、城壁上に向けて幾十、幾百もの矢が飛んできた。 おれは咄嗟にもっていた石をほうり捨てると、城壁の陰に逃げ込んだ。 さきほどから、機を心得た敵の援護射撃のせいで防戦もままならない。おれは舌打ちを禁じ得なかった。 すると視界の端で、劉家軍の兵の一人が矢を左脚に受けて倒れこむ姿が映った。兵士が倒れた場所が、まだ敵の矢が届く位置であることを確認するや、おれはその場を駆け出していた。 そのすぐ後ろに、慌てたように味方の兵士二人がついてくる。おれたちは痛みを訴える兵士の身体を引っつかむと、ほとんどひきずるように城壁の陰まで引っ張りこんだ。「ぐああッ、いてェよ、くっそがッ!!」 傷口を押さえながら叫ぶ兵士。同僚が傷の手当てをするが、大腿部を貫いた矢は容易に抜けず、矢じりが動脈が傷つけてしまったのか、血が溢れて止まらない。 このままでは遠からず命を失ってしまうかもしれない。だが、そうとわかっても、ここでおれたちが出来ることは、これ以上、何もなかった。「怪我人を後方に下がらせろッ」 おれは砦の中に向けてそう怒鳴ると、応える者がいるかを確認することもせず、再び敵を食い止めるために走り出す。援護を受けた敵兵の姿が、すでに幾人か城壁上に達しようとしていたのだ。「追い落とせ! なんとしても、ここで食い止める!」 叫びざま、剣を抜き放ったおれは、梯子から身を乗り出していた敵兵に斬りかかっていく。 城壁に乗り移ろうとした無防備な瞬間を狙われた敵は、おれの攻撃を避けることも、受けることも出来ず、頸部を切り裂かれて、悲鳴とともに地面に落下していった。この高さから落ちたらまず助かるまい。それ以前に、あの傷では、地面に落ちるまでに事切れているかもしれない。「今日、何人目だ?」 敵の血と脂で汚れた刃を見て、そう自問しても答えは出ない。片手では数えられない数であることは間違いない。 六人か、七人か、あるいはそれ以上か。 おれにとって、人を斬ったのは、徐州での曹家襲撃以来である。敵兵の血を浴びた剣と、血塗られた刃、そして点々と返り血がついた己の甲冑を見て、しかしおれは以前のような怒りや憎しみを覚えていない自分に気がついていた。 あるいは、これが戦の狂気というものなのかもしれぬ。 はじめて人を手にかけた時、相手は下劣とはいえ人格を持った人間であった。おれが相手を憎み、殺す理由が、あの時は確かに存在したのである。 だが、今、眼前で繰り広げられている戦絵図の中にあって、敵はおろか味方でさえ、そこにいるのが人間である、という認識がおれの頭の中で働かない。 目の前で頭を射抜かれて倒れる兵。熱湯を浴びせられ、地面へと落ちていく兵。先刻、矢で脚を射られた兵や、おれが首を切り裂いた兵――敵と味方とを問わず、勝利を得ようと懸命に繰り返される攻防、その応酬の中で倒れていく命が、自分と同じ人間であると考えることを、脳が無意識に避けているのかもしれない。 そんなことを考えていたら、殺し合いという狂気の中で正気を保つことは難しい。 この場合、正気とは、相手にも親が、子が、妻が、友が、守るべき者がいるのだと認識した上で、相手の命を断つことを意味する。 自分の意思で戦に身を投じた以上、逃げることなく正気を保って戦うべきだ、ということは理解できる。だが、おれはまだそこまで思い切ることが出来てはいなかった。 それでも、今は戦うしかない。たとえ狂気という名の逃げ道にすがりつきながらではあっても。 また一人、おれは城壁に乗り移ろうとした敵に向かって剣を振るい、それは確かに敵の顔を捉えた。 だが位置が悪かったのか、それとも無意識に力が弱くなっていたのか、敵は戦闘力を失うまでには到らなかった。傷つきながらも、おれに向かって飛び掛ってきたのだ。「なッ?!」 咄嗟に避けようと身体をひねったが、敵の勢いが優った。おれは敵兵に押し倒される形となり、仰向けに城壁上に倒れこむ。おれより頭一つ背の高い敵兵の体重と、飛び掛ってきた勢いをまともにぶつけられた格好となり、おれの口から苦痛の呻きが漏れる。「……じ、じね、じねッ!」 身体の上から聞こえてくる濁った声、そしておれの胸のあたりにこぼれおちてくる赤い液体。 見れば、その兵の口は、人間にはありえないほどに大きく裂けていた。先ほどのおれの攻撃が、右頬を切り裂いていたのだ。痛みと、恨みと、殺意に裏打ちされた呪詛の声を、しかし、おれはほとんど聞いていなかった。このままでは殺されるのを待つばかりとあって、必死に敵を振り払おうとしていたからである。 だが、体格において優る敵は、おれの離脱を許さない。身体ごとおれに向けて倒れこんでくる。当然、刃をおれにむけながら。 避けられない。一瞬、そう覚悟した。 だが、次の瞬間。「ひぐッ?!」 不意におれの身体を押さえつけていた敵兵の姿が、視界から消え去った。同時に胸を押しつぶす寸前であった圧迫感も霧散する。 味方の兵が、横合いから渾身の蹴りで、敵兵をひきはがしてくれたのだ。「わりいが、こんなところで大将をやらせるわけにはいかんのさ」 おれは慌てて立ち上がりながら、その兵に礼を言う。「ありがとう、助かった」「なに、こんな緒戦で大将が死んだら話にならねえ。玄徳様たちも逃げ切れんでしょう。それがわからん大将でもないでしょうに、あんまり前に出ないようにしてくださいや」 呆れたような兵士の言葉は正鵠を射たものだった。 だが、おれは苦笑まじりに首を横に振る。「後ろに立って、的確な指揮が出来るならそうしたいところなんだがなあ」 あいにくと、そんな統率力の持ち合わせはない。昨夜の動きを見るかぎり、呂布はもちろん、高順でも出来るだろうが、おれには無理だ。 であれば、せめて陣頭に姿を晒すことで、味方の士気をあげる。おれに出来ることはそれくらいしかなかったのである。「まあ、おれがいたからといって味方の士気があがるという保障もないわけだが」「そこは心配無用でさ。指揮官が敵の矢石の中に身を晒しゃあ、おれたち配下も奮い立つってものです」「なら、無駄にはなってないわけだ。それを聞いて安心した」 本来、この戦はもう少し楽に進められるはずだった。だが、おれがこの場にいるはずの戦力を別の場所に充てたことで、砦に残った将兵はより一層厳しい戦いを強いられている。 ゆえに、おれは出来ることをぬかりなく、ためらいなく為さねばならない責務を負っているのだ。 敵の眼前に立つ程度のことで、怯んではいられないのである。 ただ一つ気がかりであったのが、すべてがおれの空回りなのではないか、という点だったが、それは今の兵士の言葉で否定された。 いまやすべてのためらいをほうり捨てたおれは、味方を鼓舞するために声を張り上げる。それまでよりも、一際勁烈な声が、城壁の上に響き渡った。◆◆ 呂布の猛攻を前に、高家堰砦に篭る劉家軍四百は、休む暇なく防戦にあたらねばならず、休息や食事はおろか、水も満足に飲めない戦況が続いた。 敵兵が蟻の如く城壁をよじ登り、それを援護するため遠くから雨のように矢石が降り注ぐ。いつ果てるともなく続く敵の攻撃に晒され、砦内では殺気だった将兵が、命令とも怒号ともつかぬ声を張り上げている。 砦に篭るという利点があってなお、呂布勢の攻勢は劉家軍の防備を穿ち、勝敗は一度ならず決しかけた。 だが、それでも劉家軍の将兵は寸前まで奮闘し、かろうじて敵を砦外に押し返すことに成功する。 その要因の一つに、常に最前線で身を晒し続けた指揮官の存在があったことは間違いないであろう。 並外れた武勇を揮ったわけではなく、際立った指揮を見せたわけでもなかったが、敵の猛攻を前に怯むことなく前線に留まり続けたその気概は、配下の将兵を奮い立たせるに足るものであったから。 日が地平の彼方に没し、しばらく後。 ようやく呂布軍が攻撃の矛先を収める頃には、砦内の将兵は疲れ果て、その場に座り込む者が続出した。かろうじて城門は守りきったが、ほぼ一日中続いた敵の攻撃によって、砦外の備えはほとんど棄却され、城内に蓄えてあった物資も大きく減じている。まだ底を尽くにはいたっていないが、今日と同じ規模の攻撃が続けば、三日ともたないであろう。 だが、これは「出し惜しみするな」という北郷の命令によるものであり、またそれゆえにこそ、かろうじて今日の攻勢を凌ぎきることが出来たといえる。 もっとも、そういった考察が出来るだけの余裕がある者は砦内にはほとんどおらず、皆、空腹と疲労、咽喉の渇きを癒すだけで精一杯の有様だった。 守将である北郷も、可能であれば配下と同様にへたり込みたいところだったが、あいにくと立場と戦況の双方がそれを許さなかった。立場の方はいわずもがな、戦況を示す勝敗の天秤は、呂布に傾くことはあれ、劉家軍に傾くことはありえない、それを知るゆえである。 たしかに今日の攻勢を防ぐことはできたが、呂布とその親衛隊がただの一度も動いていないことに北郷は気付いていた。それはつまり、敵がまだ本腰をあげていないことを意味する。 おそらく、敵は呂布が動くまでもなくこの砦を陥とせるつもりでいたのだろう。北郷はそう思う。その意味でいえば、今日は敵の思惑を挫いたことになるが、それはわずかな時間を稼ぐ程度の意味しかもたず、明日からの攻勢は激化の一途を辿るであろう。 北郷は開戦に先立つ陳宮の豪語を耳にしたわけではなかったが、もしそれを聞いていれば、陳宮と同じように口元に笑みを浮かべていたかもしれない――ただし、声をたてずに。 実際に、今の北郷は心身の疲労で笑うどころではなかった。それでも、その顔には隠しきれない安堵があった。何故なら北郷の目的はすでに達されていたからである。その思いが、言葉となって口をついて出た。「呂布率いる一万の軍勢を一日、釘付けにした。戦果としては、十分すぎるな」 元々、北郷は砦を守り抜こうとして戦ったわけではない。呂布の部隊が全軍をあげて高家堰砦に攻め寄せた時点で、策は半ば以上成功していたと言って良い。今日、死に物狂いで稼いだ一日は、劉備たちにとって貴重な猶予となるであろう。北郷はそう確信しており――それは事実その通りであった。「――そう。十分すぎるくらいなんだが」 闇夜に瞬く呂布軍の篝火に視線を送りながら、城壁上の北郷は小さく呟く。 空を見上げれば、そこには厚く重い雲が垂れ込め、星月の光を遮って地上の闇を一層濃いものとしている。 それを見て、北郷は厳しく強張っていた顔をかすかにほころばせた。「天の時はこちらの味方、か。これも玄徳様の徳の賜物かな――もう一日、稼がせてもらうぞ、飛将軍」 そういうや、北郷は身を翻し、砦の中へと戻っていく。 疲れ果てた将兵に、今日の戦で、最後の勤めを果たしてもらうためであった。