これまでのあらすじ 後漢末期。 天下、麻のごとく乱れ、各地で群雄が割拠する争乱の世。 後に三国時代と呼ばれる争覇の時代の魁ともいえる大乱の最中、一人の少年がその乱に巻き込まれる。 その少年の名は、北郷一刀。 ごく普通の高校生であった北郷は、理由もわからぬままに見知らぬ時代に投げ出され、生き抜くために、乱世という名の濁流に飛び込まざるを得なくなる。文字通りの意味で、命を懸けて。 当初、時代を遡ったと考えていた北郷だが、幾つもの出来事を経るに従い、やがて今自分がいる時代が、自らが知る歴史とは似て非なるものであることを認識する。 劉玄徳。関雲長。張益徳。諸葛孔明。鳳士元。いずれも歴史に名を残した勇将智将たちが、みな可憐な乙女であったからだった。 その事実に驚愕しつつも、彼女らに救われた北郷は、生き延びるため、そして元の時代に帰るために、自らが出来る範囲で彼女らに協力していくことを決意するのだった。 黄巾党らの賊徒を討ち、その功績を妬む大官を退け、徐々に力を蓄えていた劉家軍のもとに、中央からの知らせが届いた。 帝都洛陽において大権を握った董卓。彼女に抗う諸侯が連合を組んだのである。いわゆる反董卓連合の結成であった。 劉家軍は、劉備の学友であった遼西太守公孫賛と共に朝野を震撼させる大乱の渦中に赴く。洛陽の民を救い、乱の真相を確かめるために。 戦力でまさる反董卓連合軍であったが、飛将軍呂布をはじめとする董卓軍の諸将は敢然と連合軍と矛を交え、両者の戦いは熾烈なものとなる。 だが、この戦を影で操っていた朝廷の大官の策謀により、董卓軍は思うような作戦行動がとれずに瓦解、連合軍は一気に洛陽へと軍を進めた。その先頭には、乱の深奥に迫った劉家軍と北郷の姿があった。 ついに解放された帝都洛陽。 だが、それは偽りの解放であった。董卓軍と連合軍、双方の壊滅を望んだ朝廷の策謀により、洛陽に火が放たれたのである。 解放の喜びに沸き立っていた洛陽の軍民はこの猛火で大混乱に陥る。 乱の当事者と思われていた董卓は、自称洛陽一の踊り子貂蝉によって救われ、この混乱の最中、北郷らに救われるも、洛陽の大火は消しとめようもなく、歴史ある大都は炎の中に燃え落ち、数十万とも言われる難民をうみだしたのである。 この一連の争乱によって、かろうじて保たれていた朝廷の権威は大きく失墜。世は群雄割拠の様相を呈し始める。 この状況で目覚しい台頭を見せたのが陳留の曹操、字は孟徳であった。 洛陽大乱の首謀者であった者たちを討ち取った曹操は、皇帝の身柄を押さえると、洛陽の東南、許昌の地に新たな都を創建する。 皇帝を擁し、また洛陽の難民を受け入れた曹操の勢力は飛躍的な拡大を見せ、一躍大諸侯の一人として中華帝国にその名を知らしめたのだった。 一方、その頃、河北では董卓の乱に優るとも劣らない大叛乱が起きていた。 黄巾党が河北諸侯の留守を狙い、一斉に蜂起したのである。 黄巾党党首、大賢良師張角みずからが指揮する全軍は、その数十万とも言われ、河北は瞬く間に戦乱の巷となっていった。 劉家軍旗揚げの地であり、劉備の故郷でもあった楼桑村が危難に陥っていることを知った劉家軍は急ぎ洛陽から馳せ戻り、黄巾党と矛を交えた。 劉家軍の活躍、そして党首である張角らの離脱という予期せぬ出来事もあり、河北全土を焦土と化すかと思われた黄巾党の蜂起は短期間で鎮圧される。 その鎮圧に目覚しい功績を挙げた劉家軍の勇名はおおいに高まり、河北の朝野に知らぬ者とてない勢力となるのである。 一躍、名をあげた劉家軍だが、軍師諸葛亮は、劉家軍の名声を妬む勢力の存在と、高い武名ゆえに曹操、袁紹らの戦に巻き込まれる可能性を指摘。河北から離れることを提案する。 時を同じくして、北海郡が黄巾党の残党勢力によって攻撃されていることを知った袁紹から、劉家軍に対して出陣要請がなされたため、劉備は諸葛亮の進言を採り、劉旗を北海に向けるのだった。 北海救援に赴いた劉家軍、そして朝廷から黄巾党討伐を命じられた曹操軍。この二つの軍の活躍により、事実上、黄巾党は壊滅する。 この戦でさらに武名を高めた劉家軍のもとに、徐州を領する陶謙から使者がやってくる。 以前から劉備の為人、そして劉家軍の武勇に厚意を抱いていた陶謙は、自領の一つである小沛城を劉備に譲り、迫り来る大戦に備えて徐州の守りを固めようとしたのである。 仁君と名高い陶謙の誘いを受けた劉家軍は小沛に入城。ここに旗揚げ以来はじめて根拠地を得た劉家軍は、陶謙の支援を受けながらおおいに軍備を拡充していくのであった。 しかし、そんな劉家軍の厚遇をよく思わない者たちも少なくなかった。 やがて、彼らは劉家軍排斥を目論み、一つの暴挙に出る。領内を通過する曹操の一族を襲撃、この罪を劉家軍のものとしようと謀ったのである。 この曹家襲撃により、時代は一つの節目を迎えることになる。 とある出来事から、曹家襲撃の事実に思い至った北郷であったが、時すでに遅く、計画は実行に移されてしまう。 乱世のただ中にあって、剣を振るわずにここまで来た北郷は、はじめて自らの手を血で濡らし、悲劇を食い止めんとする。 だが、凶刃はついに曹操の父曹嵩、弟曹徳に及んでしまう。 この暴挙を知った曹操はただちに大動員を発令。公称二十万の大軍をもって、徐州侵攻を開始するのである。 陶謙の恩に報いるため、決死の覚悟で曹操軍の侵攻を食い止めようとする劉家軍であったが、勅命という理、報復という名分、なによりも圧倒的なまでの大軍を擁する曹操軍によって敗走を余儀なくされる。 そして、このままでは小沛城を抜かれるのも時間の問題と思われた矢先、更なる凶報が劉家軍にもたらされる。 徐州牧陶謙の死であった。 陶謙死去の後、実権を握った臨淮郡太守陳登は、曹操軍の侵攻に対して無抵抗を厳命、事実上の降伏を選ぶ。 味方であったはずの徐州側の援護を失った劉家軍は小沛放棄を決断、そんな劉家軍に対し、彭城を脱してきた孫乾は陳登の言葉と前置きした上で、広陵郡への脱出を提案するのである。 自身、降伏を選びながら、劉家軍には広陵への脱出を助言する陳登の真意をいぶかしみながらも、採るべき道のない劉家軍は淮河の南、広陵郡へと離脱をはかる。 関羽を配下とすることに執着する曹操の命を受けた張遼の猛追を受けるも、かろうじてこれを退けた劉家軍は、広陵太守陳羣率いる水軍の助けをうけ、淮河への離脱をはたすかに見えた。 だが、張遼軍のさらなる攻勢の前に苦戦を余儀なくされた劉家軍は、関羽、張飛、趙雲らの挺身によってかろうじて敵の追撃を振り切ることに成功する。 しかし、三将は河岸に残され、劉備と北郷はその無事を祈ることしか出来なかった。 かくて、かろうじて広陵郡に到達した劉備たち。 そこで、一連の退却ではじめてとも言える吉報に出会う。死んだとされていた徐州牧、陶謙との再会であった。 そこで劉備は、陶謙から徐州牧の印を授かると共に、陶謙の果たしえなかった理想の実現を託される。 我が娘。自身をそう呼ぶ陶謙の願いを受けた劉備は、州牧の印を受け取り、陶謙の指示のもと、広陵の南にある江都へと赴こうとする。 だが、曹操軍の追撃を振り切った劉備たちの前に、更なる難敵が出現する。 偽帝袁術。そして、その麾下にある飛将軍呂布であった。 仲国を建国した袁術は、その勢力をさらに拡げるため、また自身にはむかう者たちの見せしめとするため、淮南全域の徹底した掃滅を指示。その命を受けた袁術軍の馬蹄により、淮南各地は血と炎で埋め尽くされるかに思われた。 仲軍は怒涛の勢いで淮南の中心である広陵へと迫る。その先頭に立つは飛将軍。 対する徐州軍は兵の数、士気いずれも劣り、劉家軍にいたっては主軸とする武将たちが不在のままで、この難敵を迎え撃たなければならない。 曹家襲撃に始まる劉家軍の受難は、いまだその終わりを見ることが出来ずにいた……三国志外史 ~恋姫†無双~ 第十二章 悲壮淋漓(三) 徐州広陵郡。 淮河と長江に挟まれる広陵郡一帯の地は、大小無数の河川や湖沼が存在し、騎兵の行動には大きな制限がかかる。たとえ万を越える大軍であったとしても、それら自然の障害を走破することは難しい。自然、騎兵や歩兵の進軍する路は限られてしまうのである。 当然、そういった主要街道には堅固な城砦が築かれ、敵軍の侵攻を阻むための防壁が築かれてあり、歩卒騎兵の侵攻は不可能ではないにせよ、困難であり、なおかつ時間を必要とした。 淮南の地を欲するのであれば、何よりも水軍の充実こそが急務であり、それは広陵だけでなく江南においてもまったく同じことがいえる。 いわゆる『南船北馬』とは、同じ中華という地でありながら、北と南では、地形も、文化も、気候さえも異なるところから生まれた言語であった。 江南は沢国(たくこく=水の国の意)である。 そして、江南ほどではないにせよ、淮南江北(淮河の南、長江の北)の地もまた豊潤な水の恵みに満ちた土地である。 水軍を用いずにこの地を攻略するには、入念な準備と長い時間が必要となる。 ――そのはずであったのだが。「も、申し上げます、敵軍、内門を突破しました! ま、まもなくここまでやってまいりますッ!」「食い止めろッ!! 残っている兵士をすべて投入して食い止めるのだッ!」「残っている兵士などどこにもおりませぬッ! 全て戦線に投入しております!」「なッ?! くそ、この路西の防衛線をわずか一日で食い破るだと。あやつは――呂奉先は本当に人間なのかッ?!」「繰言を申している場合ではありませぬ。急ぎ撤退をッ」「ばか者ッ、城と民を守ろうとしている兵士たちを置いて守将が逃げてどうするというのだ。わしが呂布を食い止める。貴様は撤退の指揮を執れッ」「な、何を申されますか。殿(しんがり)はそれがしが引き受けます!」「だまれッ、よいからはやく――ぐッ!」 副官を叱咤しようとした守将の口から、真っ赤な液体があふれ出る。 その液体をまともに浴びることになった副官は、いつのまにか、将の首筋に一本の矢が突き立っていることに気づいた。 音を立てて倒れる将の身体。 立ち尽くす副官の視線の先に立っていたのは、全身を紅く染めた一人の女将軍であった。その人物が、袁術軍最精鋭たる『告死兵』を率いる将軍であることを副官は知っていた。 主力である告死兵は、その軍装を白で統一している。それは主将とて例外ではない。 では、何故、その身がまるで燃えるように紅く染まっているのか。 ――簡単だ。血に濡れているのだ。その手にかけた将兵の血に。 そこに敵将自らの血は一滴も付着していないこともまた、何故だか副官は知っていた。「……おのれ、呂布ッ。我が将の仇、兵たちの仇、討たずにはおかんッ!」 副官は持っていた槍を構えなおし、勢いよく床面を蹴って呂布に向かって駆け出した。 だが。「――させません」 呂布と副官の間に割り込んだ者がいる。 黒髪黒目の女将軍。手に持つは呂布の方天画戟と酷似した戟であり、その身は呂布ほどではないにせよ、敵兵の血を浴びて朱に染まっていた。「どけェッ!」「――ッ!」 激昂して飛び込んでくる敵将を、黒髪の将は哀しげに見つめながら、左足を半歩下げて半身になり、敵の穂先を避ける。 だが、副官は委細構わず身体ごとぶつかっていった。 おそらく、体格に任せて押し倒し、組み伏せよういう魂胆であろう。組み合いになれば、体格と膂力にまさる男の方が有利であるのは当然である。 しかし。「――はッ!」 そのことを予期していたように黒髪の将の手が翻り、その手の戟は弧を描いて副官の足を払おうとする。 咄嗟に飛びのいてその一撃をかわした副官は、機を逃さず振るわれた戟の第二撃もかろうじてかわしてのける。 勢いをそがれた副官はさらに後ろに下がるが、内心では舌打ちと、そして驚愕を禁じ得なかった。 黒髪の女将軍の戟の動きは、呂布には遠く及ばぬものの凡百の将を凌ぐことは明らかであった。呂布一人でさえ手がつけられないというのに、その配下にまで人物が集いつつあるというのか。 足元が凍るような恐れに苛まれつつ、それでも副官は武器を構える。再び対峙する両者。だが勝敗はすでに明らかだった。二人の周囲には、白装束に仮面をつけた兵士たちが幾人も集まっていたからである。 周囲の様子を見て、副官はここまでと悟った。一瞬だけ目を閉ざし、そして見開いた次の瞬間、副官から発された声には、静かだが、深い覚悟が満ち満ちていた。「……偽帝に仕え、民を殺し、歴史に汚名を残す。問おう、貴様らの武人の矜持、人としての誇りは何処にあるのかッ?!」 覚悟を定めた副官の叱咤への返答は、告死兵の一人が懐から放った短刀であった。 甲高い金属音と共にその短刀が宙を舞う。副官が素早く手にもった槍で弾き返したからである。だが、それが床に落ちる頃には、副官の背後にいた告死兵の槍がその腹を深々と貫いていた。 さらに両脇から、別の告死兵の刃が副官の体内に突きたてられ……末期の言葉さえ残せず、副官は息絶えたのである。 黒髪の将――高順は全身を貫かれて息絶えた先刻までの敵手の亡骸に歩み寄り、見開かれた瞼に手をあて、そっと閉ざした。 同時に、むせ返るような血と臓物の匂いが這い登ってくるのを感じ、口元を手で覆おうとする。 しかし、その手は中途でとまり、高順は諦めたように血臭の中で立ち尽くした。 一年前までの高順ならば、顔面を蒼白にして胃の中の物すべてを吐き出していたかもしれない。だが、今の高順はわずかに面差しを伏せるだけで、この惨劇の場に立つことが出来ている。 武人として、これを成長と呼ぶべきなのか否か。高順にはわからなかった。◆◆◆ 徐州広陵郡広陵城。 路西陥落。その報はすぐさま広陵にもたらされた。 西からの侵攻を阻む城砦郡の一つ。偽帝の侵攻に際しても大きな期待を寄せられていた堅砦が、ここまで呆気なく陥落するとは、広陵太守陳羣にとっても予想外の出来事であったのだろう。 広陵の防備を固め、袁術軍の侵攻から逃れてきた民を迎え入れるためにも、今はわずかでも良い、時間がほしかったに違いない。 だが、事実は事実。 広陵城に到る街道で、路西より大きな砦はない。敵が広陵城の城壁にとりつくまで、あまり猶予はないだろう。 仲軍の一部は臨淮郡に進んだようだが、主力は間違いなくこの城を目指してくるはずである。民の避難と、戦力の集中を押し進めつつ、同時に劉備らを南の江都へ送る準備も整えなければならず、陳羣は寝る間もないほど多忙の日を送ることとなるのである。 一方の劉家軍であったが、小沛で曹操軍と戦って以降、ろくに休むことも出来ずに戦い続け、逃げ続けてきたわけで、わずかの間とはいえ、この広陵城で休息することが出来たのは僥倖であった。 おれを含め、皆、貪るように睡眠をとり、敗走の疲れを癒す。 曹操軍から逃れたとはいえ、今度はある意味で曹操よりも厄介な敵と渡り合わねばならないのだ。疲労をのこしたままでは、いつ何時、不覚をとってしまうか分かったものではなかった。 もっとも、自分たちの先行きや関羽らの安否も含め、わからないことが山積み状態の今、のんびりと眠ることが出来るほど、太い神経の持ち主はなかなかいそうになかったが――「……だからといって、日も出ないうちに目を覚まさなくても良いと思うんだが」 おれは頭をかきながらぼやく。 とはいえ、目が覚めてしまったのだから仕方ない。物資の点検でもしておくか、とおれは部屋を出る。 広陵に入った劉家軍は曹操軍の追撃を受けながらの離脱であったため、資金、糧食、武具、医薬品等の必需品は最低限のものしか持ってくることが出来なかった。 江都にたどり着くまで保つかどうか。それに、江都に着いても、そこが安全であるという保障はないのだ。 そんなことを考えながら、広陵城の廊下を曲がろうとした時だった。「ッと?」「わ、わあッ?! あ、あれ、一刀さん?」 出会い頭に玄徳様とぶつかりそうになり、おれは慌てて足を止めた。「す、すみません、大丈夫でしたか、玄徳様?」「う、うん、大丈夫、だけど。一刀さん、こんな早くにどうしたの?」「いや、何故か目が覚めてしまいまして。ぼぅっとしているのももったいないので、物資の確認をしておこうかと」「そうなんだ。ご苦労さまです」「いえ、当然のことですので。玄徳様は、どうなさったのですか?」 おれの問いに、玄徳様は少し困ったように視線をそらす。「う、うん、一刀さんと同じ、かな。あんまり寝られなくて、河港の様子を見に行ってたの」 淮河の流れで栄える広陵の中心とも言うべき場所。 そして、北岸に取り残された関羽らを迎えに行った船舶が戻ってくる場所でもあった。 そのことに思い至ったおれは、咄嗟に声を詰まらせてしまう。 それに気付いたのだろう。玄徳様は少し慌てたように言葉を続けた。「あ、えと、愛紗ちゃんや鈴々ちゃんなら大丈夫だと思うんだけどね。子竜さんだっているんだし。ただやっぱり心配で……」 沈んだ表情の玄徳様を元気づけてあげたいのだが、いかんせん、口がまわらない。 北岸の戦況が厳しいことがわかるだけに、なおさらに安易な慰めを口にすることは出来なかった。 それゆえ。「……正直、あの状況を切り抜けることは、かなり難しいとは思いますが」 おれは安易な慰めでなく、率直な意見に口にすることにした。 玄徳様の表情が辛そうに歪もうとする、その寸前、次の台詞を放り込む。「でも、これまでだって似たようなものだったでしょう?」「え?」「これまでの戦いで、楽なものって何かありましたっけ?」「え、えと、どうだったかな?」 首を傾げる玄徳様。だが、考えるまでもなく、これまでの劉家軍の戦いに楽なものなんてありゃしねえのである。 そのすべてを切り抜けてきた一番の立役者こそ関羽と張飛。その二人が揃い踏みなのだ。いかに曹操軍といえど、易々と目的を遂げることはできないだろう。「おまけに、趙将軍までそこにいるとなれば、これはもう鬼に金棒、虎に翼、関将軍に青竜刀ともいうべき……あれ?」 なんか勢いにあかせて余計なことを口にしてしまった気がする。 だが、とうの玄徳様は「良いこと聞いたッ」みたいな顔をしていらっしゃる。「おおー、なるほど。うん、たしかにその通りかも。私が心配しなくても、愛紗ちゃんたちはちゃんと戻って来てくれるよね。そっか、鬼に金棒、虎に翼、愛紗ちゃんに青竜刀、か」 うんうんと頷きながら、あれ、と玄徳様は首を傾げる。「でもこれだと、愛紗ちゃんは鬼や虎と同じ扱いなんじゃあ……」「おお、そうだ!」 おれの口から、時ならぬ大声が飛び出した。「うわッ?! な、なに、どうしたの、一刀さん?」「玄徳様、実はとても重要で大切で欠かせない大切な用事を思い出してしまいました」「あ、うん、そうなんだ? それなら私も手伝うよ」 無邪気なほどにあっさりとこちらの言葉を信じ、手伝いを申し出る玄徳様。 おれは即座に作戦を変更した。「――しかし、実はあまり重要ではないような気もするので、後にまわしても良いかなと思わないでもありません」「そ、そうなの? じゃあさっきの愛――」「さりながら!」「は、はひ?!」「やるべきことは山積みであり、私はゆかねばなりません。玄徳様、どうかおとめくださいますな。しからばごめんッ」「は、はい、ごめんなさいッ?!」 シュタっと手を挙げて駆け去るおれ。 その背に、唖然としているのであろう玄徳様の視線をまざまざと感じながら、しみじみと嘆息する。 ――この危急の時に何をやってるんだ、おれは。「江都までの距離を考えると、本当にぎりぎりだな」 物資の目録を手早く作成しながら、おれが言うと、隣の王修がこくりと頷く。「そうですね。糧食は何とかなりそうですけど、武具や矢石の方が……今のままでは、一度の戦闘に耐えられるかどうかではありませんか?」「そんなところだろうなあ」 王修の分析が正しいことを、おれは自分の目で確認する。 言うまでもないことだが、戦とは人数を集めただけでは出来ない。剣を揃え、槍を集め、甲冑をつくり、矢を調え、それらを兵士に配ることで、ようやく集めた人数は『兵士』となるのである。 そして今度はその兵士を訓練し、編成し、率いる者を選び、合図を定め、いよいよ『軍』となり、ここまできてはじめて戦をする準備が出来上がる。 しかるに、急な退却であったから致し方ないとはいえ、現在の劉家軍には武器甲冑の類が大きく不足していた。 一度の戦闘で破損する武具や甲冑は思いの他、多いものだ。今のままでは、王修の言うように、一度大きな戦闘があれば、その後は劉家軍は軍として十分な力を発揮できなくなるだろう。「――由々しい問題ですね」 俺と王修の隣で腕組みしているのは太史慈である。 王修と太史慈の二人は、玄徳様と別れた後に廊下で並んで歩いているところに出くわした。 良く眠れなかったのは二人も同様であったらしく、物資の確認を手伝ってくれるとのことだった。二人の手助けもあって、確認は手早く終わったのだが、やはり現状はかなり厳しい。 広陵も、江都も豊かな街である。袁術としたら咽喉から手が出るほどほしいだろう。 当然、真っ先に部隊を向けて来る。広陵から江都に向かう劉家軍が袁術軍と遭遇する可能性は高い。最悪、こちらが江都に着いた頃には、城壁に袁術の旗が翻っていたなどという事態もないわけではないのである。 「広陵の陳太守に援助を申し出られてはいかがですか?」「それしかないでしょうね――ただ」 太史慈の提案を聞いたおれは、頬をかきながら口を開いた。「玄徳様が請われれば、陳太守は快く応じてくれるでしょうが、広陵城がこれから激戦に巻き込まれるのは、ほぼ確実です。それを分かっていて、戦備を割いてくれ、と玄徳様が仰るかどうか。まして、広陵には多くの民がいますから」 それを聞き、太史慈がはっとした顔で赤面する。「そうでした。自分たちのことばかりで、広陵のことまで考えが及んでいませんでした」 配慮が足りなかった、と悔やむ太史慈。黄金色の髪がかすかに揺れた。 これだけ切羽詰った状況だから仕方ない、と王修と二人で太史慈を慰めつつ、おれは改めて前途が険しいものであることを、胸に刻みつけるのだった。◆◆◆ 徐州臨淮郡東城県。 路西砦陥落の報告は、東城県にももたらされ、これを聞いた県令である張紘は顔が青ざめるのを自覚した。 臨淮郡に侵攻してきた袁術軍は、梁剛率いる二万。 これに対し、東城県の軍勢は正規軍と魯粛の私兵を併せて一千足らず。 その数も度重なる戦闘で減る一方であり、すでに張紘麾下の兵力は八百を切っていたのである。 路西の砦が陥ちたとなれば、袁術軍は一層の行動の自由を得る。ただでさえ不利な戦況が、ますます厳しいものになるのは間違いなかった。 最悪の場合、路西を陥とした袁術軍の主力がこちらに合流する。そうなれば、東城の県城で敵の猛攻を遮るのは不可能と言って良い。 だが、この張紘の危惧は、魯粛によって否定された。 常日頃、私財を投じて食客を養っていた魯粛は、彼らをつかって各地の情報を逐一集めており、路西を陥とした袁術軍が次ぎに向かう先もすでに掴んでいたのである。「広陵、ですか」「うん、ほとんど一直線って感じだね」 魯粛の報告を聞き、張紘の視線が卓上の地図に注がれる。 ただ、と魯粛は厳しい表情で続ける。「呂布率いる主力が広陵に向かったのは間違いないんだけど、その他の軍の動きはバラバラだね。長江流域に動いた部隊もいるみたいだし、やっぱりこっちにも援軍が向かったみたい。それも千や二千じゃないって」「具体的にはどの程度かわかりますか、子敬姉様?」「おおよそ一万」 魯粛の断定に、張紘は幼さの残る顔を苦渋に歪ませる。「一万……今いる二万と併せれば、三万」 それは今次の淮南侵攻で袁術が動員した十三万の大軍の、実に二割以上に及ぶ。 東城県のような小城にこれだけの戦力を叩きつける袁術の意図は明らかすぎるほどに明らかだった。すなわち、仲帝たる自分に刃向かう者は断じて許さぬという覇気の顕れである。 顔を歪ませた張紘の頬に、魯粛の両手が伸びた 魯粛は、え、という顔をする張紘の頬をぐにっと握りしめる。「ふえッ?! ね、姉様?!」「こら、子綱ちゃんがそんな顔してたら、下で戦う人たちが動揺するでしょ」「わ、わかりました、わかりましたからはなしてくださいーッ」 ばたばたと暴れる張紘を見て、魯粛はからからと笑いつつ手を放す。無論、手加減はしていたのだが、張紘の頬はかすかに赤くなっていた。 魯粛の意図がわからず、むう、と頬を膨らませる張紘。 そんな張紘に、魯粛は表情を改め、意外なことを告げた。 これは千載一遇の好機なのだ、と。「ど、どういうことですか?」「元々、東城みたいな小城、敵も味方もたいして気にも留めていなかった。だからこそ、甘く見た袁術軍の油断に乗じて、私たちは今日まで粘ってこられたわけだけど」 はい、と頷く張紘に、魯粛はさらに言葉を続ける。「それでも、精々まぐれか怪我勝ち程度にしか見られてなかったはず。だからこそ敵にも味方にも増援は来なかった。でも、路西を陥とした袁術が万を越える援軍を差し向けて来たのなら、偽帝の陣営も、もう私たちを無視できなくなってきたってことでしょう?」「はい、そうだと思います。身の程知らずな、小癪な敵だと。でもたとえそうだとしても、東城県の存在を、偽帝が無視できなくなったことは間違いありません――あッ」 何かに気付いたように、張紘が声を高める。 聡い張紘は、魯粛が言わんとしていることを察したのだ。 そんな妹分に、魯粛は器用に片目を瞑ってみせた。「そ。袁術の動きは今や四方の群雄、すべてが注目してる。その軍の動きも当然そう。淮北の曹操なんかはその筆頭だろうね」「偽帝の淮南侵略を食い止めたい曹操さんにとって、三万以上の軍をひき付けている東城県は、潰されるには惜しい戦略上の駒です」「淮北の支配が固まっていない以上、すぐに援軍が来るとは思えないけど、使いの一人二人を惜しむ曹操じゃない」「このまま守り続けていれば、曹操さんが援軍に来る。その確たる証人なり証拠があれば、皆さんもまだまだ頑張ることが出来ますね!」 そこまで言って、張紘は不意に表情を曇らせる。「けど、もし曹操さんが動かなかったら……」「その時はその時。仲の将で手ごわいのは一部だけだよ。援軍の将が誰かまではつかめなかったけど、梁剛にしてみれば面白いはずはないわ。離間の策をほどこすことも出来るでしょう。かえって梁剛の一軍だけよりも、援軍が合流してくれた方が引っ掻き回すのは簡単だよ」 魯粛は事も無げにそう言うと、卓上の椀をとって、味わうようにゆっくりと茶を飲みほした。 篭城中の東城県では、すでに茶の一滴は銀一粒に匹敵する贅沢となっていたのである。