東の空から、朝焼けの輝きが地平に滲み出る時刻。劉家軍は早々に行軍を再開した。 元々、一刻たりとも無駄に出来ない戦況であったことにくわえ、後方の張遼軍が動き出したことを、偵騎が発見したからでもあった。 あの張遼が約定を破るとも思えなかったが、しかし事実は事実である。一気にこちらに襲い掛かろうとはせず、一定の距離を保って追尾してくる張遼軍の動きはこちらの焦慮を誘うかのようであり、事実、劉家軍の将兵は休息もそこそこに出立しなければならなくなった。 その軍の中にあって、おれは少し戸惑いながら、馬を進ませる。脳裏に浮かぶのは、昨日の関羽の言葉である。『これからのことと言えば、察しもつくのではないか?』 関羽の言ったこれからのこととは、これから先のおれの身の振り方であろう。 おれは劉家軍に参加する時、玄徳様や関羽たちに言った。おれはいずれ郷里に帰るつもりであること。だから、死ぬわけにはいかず、戦に参加することは出来ない、と。 惰弱と蔑まれても仕方ないようなこの言葉を、玄徳様は快く受け容れ、なおかつおれを歓迎さえしてくれた。その恩に報いる意味でも、おれはこれまで自分の出来る範囲で務めて来たつもりである。 だが、おれは今回、自分の手をはじめて他人の血で染め、そしてそのために心身のバランスを崩してしまった。玄徳様が気づかなければ、今頃、倒れていたかもしれない。 その事態は、みなのおかげでかろうじて回避できたが、しかしこれから先、同じことが起こらないと言い切ることはできなかった。 おれは、あの時陳蘭らを殺したことを後悔しているわけではない。しかし、それでも人を殺したという罪が、おれの心を圧迫してくるのだ。陳蘭らは死んで当然の奴らだったと幾度言い聞かせても、それは決してきえなかった。 きっと、この胸の染みは、相手がどうという問題ではなく、単純に人殺しという罪が刻み付けた烙印なのだろう。そして、それはおそらく、これから人を殺すたびに大きく、重くなっていくに違いない。 今の劉家軍の状況を鑑みれば、今までのように文事に専念して戦いに関わらないという態度を続けていくことは難しい。王修のような少女ならばともかく、おれのように戦うことが出来る男を後方で遊ばせておくほどの余裕は、劉家軍にはなくなりつつあるからだ。命を守るために、剣をとらねばならないような状況も訪れるだろう。 そう、おれが劉家軍にいる限りは、である。ゆえに、生きて郷里に帰ることを優先するならば、必然的に一つの結論が導き出される。それが、関羽がいった『これからのこと』という言葉の意味なのだ。「覚悟を決めないといけないんだよな……」 戦いに巻き込まれることを厭い、劉家軍を抜けるか。 劉家軍の兵として、この手を血で染めていく道を選ぶのか。 関羽は、今すぐ決めろ、などとは言わなかった。しかし、いつまでも先延ばしに出来ることではない。 玄徳様の下を離れたいと思ったことはない。 でも己が手を血で染める覚悟は決められない。 ――そんな中途半端を許すほどに、乱世は優しくはないのだから。 むしろ今まで、おれのそんな自侭を受け容れてくれた玄徳様たちの優しさが稀有なものだったのである。 だが、それももはや限界。関羽の言葉には、その注意も含まれているのだろう。「おれは……」 陳蘭の咽喉を切り裂いた光景が。 張凱の頭蓋を断ち割った感触が。 雷薄の口腔を貫いた衝撃が。 そして、彼らの血潮を浴び、剣を振りかざしていた時の高揚感が。 事が終わった後、おれを捉えた躁が。 幾重にも重なりあって、おれの胸中を揺り動かす。 玄徳様のためであれ、生き残るためであれ、あれを日常のものとすることにおれは耐えられるのだろうか。「おれは……」 燻る決意。はきつかない心。 馬を駆るおれの目に、ようやく陳登に指示された泗水流域の河岸が映し出される。そこには、確かに軍船とおぼしき幾艘もの船が接岸し、陶家の旗印を掲げた軍隊がこちらを待ち受けていた。 しかし、おれは彼らに関心を払えない。 選びたい未来はわかりきっているのに、それをえらべない未熟さを自覚し、そんな自分に半ば怒りを覚えていたからであった。◆◆ 烏の濡れ羽色、という古風な表現が良く似合う漆黒の髪をまっすぐに伸ばし、腰のあたりで一つに結ったその女性は、凛とした眼差しで玄徳様たちと対峙していた。 臆することなく、まっすぐに相手を見つめる黒瞳は、彼女の勁い意思を物語って余りある。 しかし、それは相手を圧迫する類の眼光ではなかった。ぴんと伸びた背筋、礼にかなった挙措、柔らかな物腰は、対峙する者に落ち着きと、信頼を与えるものであった。 女性の名は、姓は陳、名は羣、字は長文。 すなわち徐州広陵郡が太守にして、彭城の陳登が劉家郡救援のために遣わしてくれた援軍を率いる人物であった。「これまでは馳せ違ってお目にかかることは出来ませんでしたが、ようやくお会いすることがかないました。お初にお目にかかります、劉玄徳様」 玄徳様を前にした陳羣は、まずはじめにそう口にすると、玄徳様に向かって深々と頭を下げた。「はじめまして、陳太守。お会いできて嬉しいです」 玄徳様はにこりと微笑んだ後、陳羣に頭を下げる。 友好的な挨拶であったが、顔を上げた陳羣の表情はすぐに鋭く引き締められた。それはどこか切迫した様子さえ感じさせるものであった。「お問いになりたいことは多いことと存じますが、時がありません。劉家軍の方々は、急ぎ船に乗っていただきたいのです。此度の顛末、私の知るかぎりのことは船上でお話ししますゆえ、どうかご了承いただけませんか」 彭城の陳登の思惑が不透明な現在、その陳登の指示の下で動いていると思われる陳羣に、唯々諾々と従うことの危険性は語るまでもない。まして、船の上では逃げ場もないのだ。 陳羣は信頼に足る人物であると思われたが、それを言えば陳登だとて十分に信頼できる為人であった。それでも、この危急の際にあって、その人が何を重んじるかによって、とるべき行動に差異が生じる。 陶謙と玄徳様への節義を守った孫乾が、この場にいるように。 民衆を戦火から遠ざける最良の選択を模索したであろう陳登が、彭城にいるように。 そして、陳登の指示に従ってここにいる以上、陳羣が後者に近い立場にいると考えるのは当然であろう。 陳羣の言葉を聞いた劉家軍の諸将の表情に、否定的な感情が映ったのはそういった事情による。 そして、そんな周囲の様子に気づかない玄徳様ではなかった。 おそらく、玄徳様個人としては陳羣を疑いはしていないだろうが、陳羣の請いに即答しなかったのは他者の気持ちを慮ったに違いない。決断を間違えれば、自分のみならず、劉家軍全員が河水の底に沈むとなれば、なおさら決断を慎重に下さなければならない。 陳羣も、この反応は予期していたのだろう。さらに言葉を尽くして説得しようとしかけたが、その陳羣よりも早く口を開いた者がいた。「玄徳様」「あ、なに、孔明ちゃん?」 進み出た諸葛亮は、ためらう様子もなくあっさりと口を開いた。「急いで陳太守の船に乗りましょう。ここで時を浪費することは避けなければなりません」 ざわと周囲の者たちの間から動揺の気配がこぼれでた。 罠の可能性に思い至っていないのではないかとさえ思われるほどに、今の諸葛亮の言葉には迷いがない。「あ、それはもちろんそうしたいんだけど、孔明ちゃんは賛成なんだね?」「はい、賛成です。より正確に言うならば、これ以外の選択はわたしたちにとって鬼門でしかありません。今は陳太守が差し出してくれた手をとることが、唯一の活路なんです」 諸葛亮の言葉に、ややためらいがちに口を開いたのは孫乾だった。「し、しかし、よろしいのですか。私が口にするのは筋が違いましょうが、元龍殿の思惑定かならぬ今、船団の状況を確認するくらいのことはした方がよろしいのでは?」 陳羣に聞こえないように小声で囁く孫乾の顔色は暗い。 孫乾は徐州の臣として、玄徳様を迎えるために挺身してきた。そして玄徳様が小沛城に入って以降も協力を惜しまず、玄徳様の統治に貢献してくれた。 それもこれも、主君である陶謙の願いと、また孫乾自身の徐州の平穏を願う志ゆえのこと。孫乾にとって、玄徳様こそが次代の徐州を担う人材であり、その人物のために奔走することこそ、自分の責務であると信じてきたのであろう。 だが、状況はそんな孫乾の願いと奔走を嘲笑うかのように迷走を続けている。今や、劉家軍は徐州から逃げ出すように小沛を捨て、南へと逃げ続けている。曹操軍のみならず、孫乾が同志と信じていた陳登もまた、その動きに加担している可能性は高い。 今、孫乾の胸を埋めるのは、玄徳様への慙愧の念であろう。請うて来てもらいながら、自分たちの事情によって玄徳様たちを戦塵に巻き込み、あまつさえ後ろから刺すにも似た手段で逃走を余儀なくさせている。 これ以上、徐州側の都合で玄徳様たちを不利な立場に置くことは忍びがたい。諸葛亮に対する孫乾の言葉は、そんな思いがにじみ出る苦渋に満ちたものだった。 だが、そんな孫乾の言葉に、諸葛亮はしっかりと首を横に振る。「心配はいりません。公祐さんが恐れているような事態にはならないと思います」 あまりにもきっぱりと言い切られ、孫乾が驚いたように目を瞬かせた。「し、しかし……」「……朱里ちゃんの言うとおりです」 孫乾が疑念を口にしかけると、諸葛亮の隣から鳳統も口を開いた。「公祐さんがここにいること。陳太守がここにいること。この二つだけで陳登さんたちを信じる理由には十分すぎるほどです。急ぎましょう、玄徳様。おそらく、後方の張遼さんの軍は、私たちが徐州の軍と合流するところを待っているのだと思いますから」 気忙しく口を開く鳳統の姿は、とてもめずらしいものだった。その言葉に秘められた意味も、深長である。おそらく、即座にその内容を理解できたのはごく少数であろう。「え、あ、えーと、士元ちゃん、それって――って、話は船の上で、だったよね」「はい、それがよろしいかと」「うん、わかった」 玄徳様は鳳統に頷くと、無言で佇む陳羣に視線を戻す。「陳太守、どういう風に軍を分ければ良いか教えてもらえますか」 五千になんなんとする劉家軍である。まとめて乗せられるような巨船が、泗水の支流に浮かべられるわけもない。分乗するのは当然だが、その差配は陳羣に任せた方が滞りなく進むであろう。 そう考えた玄徳様の言葉に、陳羣はやや戸惑ったようだった。 おそらく、陳羣はもっと玄徳様たちが逡巡すると思っていたのであろう。劉家軍に対する徐州側の対応を見れば、それが当然なのだから。 だから、おもいがけずあっさりとこちらの言葉を信じた玄徳様に、戸惑いを隠せなかったのである。 しかし。「――ふふ、なるほど。公祐殿や子仲(糜竺の字)殿たちが、こぞって褒め称えた理由が得心できました。陶州牧が、あなたさまに夢を見たことは、決して間違いではなかったのですね」 陳羣は玄徳様の言葉に虚飾がないことを悟り、小さく笑みをもらした。 だが、すぐに顔を引き締め、陳羣は言葉を続ける。その表情は、涼やかさの中に、凛とした気品のようなものが感じられた。「曹家の軍が迫っているのなら、なおのこと急がなければなりません。こちらへ、劉家軍の方々。広陵の誇る水軍は、貴殿らの手足となって動くでございましょう」 そういって、踵を返す陳羣。 長い黒髪が風にたなびき、一瞬、えもいわれぬ香気があたりに満ちる。 将兵の間から、思わずほうとため息が漏れた。ちなみに、おれも例外ではない。 陳羣は見たところ二〇代の半ばか、あるいはわずかに上くらいだろう。劉家軍にはいないタイプの、綺麗なお姉さん的美女の立ち居振る舞いに、ため息を漏らすのは理の当然というものである。 隣で関羽がなにやら咳払いしているが、それは気にしない方向で、などとおれが思った瞬間だった。「――きゃうッ!?」 びたん、と擬音でもつきそうなほど見事に、陳羣がこけた。 別に地面に石が転がっている様子もないが、それでも陳羣はこけた。なんというか、言い訳のしようもないくらい見事に。あれはもしやすると、顔から地面に突っ込んだのではあるまいか。 あと「きゃう」って悲鳴あげたのは、陳羣だよな……多分。 沈黙が場を支配する。 劉家軍の面々は、皆、何を言えば良いのか、何をすれば良いのかわからず、おどおどと周囲を見渡すばかりであった。あと、孫乾は見なかったふりをしてる。「あ、あの……大丈夫、ですか?」 おそるおそる、という感じで玄徳様が地面に倒れふしたままの陳羣に声をかける。 すると、陳羣はすっくと立ち上がり、服の汚れを払う仕草をしてから、至極真面目な表情で頷いて見せた。「……はい、大丈夫です。失礼しました」 目の端に雫が浮いているのは、多分、見ない振りをしてあげるのが優しさなのだろう。 陳羣は顔からつま先まで、まだら模様の汚れが転々とついている。河岸の土は泥混じりで、払ったくらいで取れる汚れではないようだ。それは陳羣も承知しているのだろう。表情こそ真面目だったが、泥に汚れた隙間から垣間見える頬は真っ赤に紅潮していた。「だ、大丈夫なら良いんですけど……」 玄徳様は何か口にしかけるが、陳羣の身体が、おそらくは羞恥のためだろう、小刻みに震えていることに気づき、慌てて口を閉ざす。今は一刻もはやくこの場を切り上げるべきだ。そう判断したのか、玄徳様は震える陳羣の手をとると、早口でまくしたてた。「さあいきましょう。すぐいきましょう。みんなも急いで準備お願いね。わ、わたし、陳太守と一緒に先にいってるから、それじゃッ!」 シュタ、と手を挙げるや、玄徳様は常にない機敏さで、陳羣と共にさっさと河船の方に歩み去ってしまった。 そんな玄徳様を、おれたちは半ば呆然としながら見送る。「年上、黒髪、どじっ娘か……おそるべし、陳長文」 無意識にそんなことを口にした瞬間、隣にいた関羽のことを思い出し、無意識に防御の姿勢をとりかけたおれだったが、関羽はなにやら思案げに腕を組んでいた。「どうかしたのですか、将軍?」「いや、たいしたことではないのだが――今のはもしや計算なのかと思ってな」 関羽の言葉に、はじめは首をかしげたおれだったが、すぐにその言わんとするところを察して表情を改める。 たしかに、今の光景を見た劉家軍は毒気を抜かれた状態で、玄徳様にいたってはさっさと相手の船に歩き始めてしまっている。徐州側と劉家軍の間に横たわっていた溝は、陳羣の転倒一つで埋め立てられてしまった観があった。 これを意識してやったというのなら、関羽のいうとおり、おそるべきは陳羣だいえる。 いえるのだが――「きゃぶッ?!」「わ、わあ、陳太守、しっかりしてくださいッ?!」 遠くから聞こえる陳羣の悲鳴と、玄徳様の焦りまくった声。 それを聞いたおれは、関羽に問いかけた。「……計算、ですか?」「……すまない、忘れてくれ」 言葉すくなにこたえた関羽は、なんか色々な意味で重いため息を吐くのだった。 思わぬ失態を衆目にさらしてしまった形の陳羣だが、その能力はやはり一郡の太守に相応しいものであったようだ。自軍の統率は言うにおよばず、劉家軍を部隊ごとに分け、次々に軍船に収容していきながら、混乱や遅滞は微塵もない。関羽たちも感心するくらい見事な手際だった。 劉家軍の将兵は陳羣の指示に従い、次々に軍船に乗り込んでいく。 皆の顔には、ここまでの道中にはなかった穏やかさが感じられた。 具体的な援軍が目の前にいるということ。そして、か細くはあっても活路が見出せるようになったことが、その大きな理由だろう。もちろん(?)陳羣のどじも、おおいに心を和ませる役に立ったに違いないが。 小沛を脱出して以来、ついぞなかった穏やかな空気が劉家軍を包み、おれはほっと安堵の息を吐く。 しかしそれは、あまりにも早計であったらしい。月毛の背から下り、手綱をとって玄徳様の乗る船に乗船しようとしていたおれは、不意に奇妙な振動が地面を揺らしていることに気づいた。 まるで小規模の地震が起きたかのように、細やかに揺れるこの大地の感触を、つい先日、おれは体験したばかりであった。そのことに思い至り、おれは慌てて後方を振り返る。 まるでそれを待っていたかのように、次の瞬間、後方に出ていた偵騎の一人が息せき切ってあらわれ、悲鳴のような報告をもたらした。 曹操軍、接近と。◆◆ 劉家軍の追尾を続ける魏続たちの下に、待ちかねた知らせが届いたのは、昨夕のこと。 それは劉家軍が一定の方向に進んでいることから導きだされた推論を肯定する報告であった。「――陶謙の軍がいて、我が軍に敵対した劉備らと行動を共にしている以上、これを攻撃するは当然のことよ」「うむ。我らは劉備を攻撃するにあらず。曹将軍閣下のご一族の仇であり、勅命に従わぬ陶謙めを討つのだからな。その場に劉備がおり、陶謙めに対する攻撃を邪魔するようであれば、それを排除したところで問題はない」「さすれば、曹将軍のお怒りに触れることもあるまい。文遠様に申し開きすることもできよう――まあ、叱責は免れまいが、な」 劉家軍の進む先に、徐州の水軍が待ち受けていると知った魏続たちは、そう言って頷きあうと、ただちに行動を開始した。 麾下の八千の軍勢を率い、全速でもって追撃を開始したのである。 これまで続けてきた緩やかな進軍によって離れてしまった劉家軍との距離を一挙に縮めるために、彼らは夜の闇を駆け抜け、暁闇を裂いて、ついに劉家軍を指呼の間に捉えるに至る。 この行軍は、劉家軍の放った偵騎すべての思惑を完全にはずした。夜間の行軍が困難であることは軍事上の常識である。しかも曹操軍にとっては慣れない徐州の地。それをまさかほとんど脱落者もなしに走破するなど予測しえる筈もない。 あるいは魏続らの遅々とした行軍を見ていたこと、そして彼らの主将である張遼を関羽が倒したことが、偵察に出た兵士たちの胸に、続らが能動的に動くことはあるまいという予断を知らず知らずのうちに育んでしまったのかもしれない。 諸葛亮と鳳統は、玄徳様に言明したように、魏続たちの狙いを察してはいた。それゆえ、乗船に関しても負傷兵を最優先に、その後、玄徳様やおれのような文官らを順番に乗せつつ、後方への防備は決して怠っていなかったのである。 しかし、さすがに彼らが現れる時期までは予測できなかった。その予測をするに不可欠な情報が、軍師たちの手元に来なかったのだから当然である。 そして、ここで皮肉にも陳羣の有能さが裏目に出る。 偵騎の報告と、ほぼ時を同じくして、稜線から湧き上がる黒雲の如き勢いで襲い掛かってきた曹操軍に対し、この時、劉家軍はすでに後方の部隊も乗船のために動き始めていたのである。もし、いま少し乗船に手間取っていれば、彼らはいまだ守備の列についていたであろう。 ある意味で、魏続らは完璧な戦機で仕掛けたと言えた。 もとより魏続らの騎兵を統率する技量は卓抜しており、それは今回の夜間行軍を見るだけでも明らかである。あの張遼の部下として恥ずかしからぬ、彼らは武将であったのだ。 その彼らの猛襲を受ける形となったのは――「愛紗ちゃんッ?!」 船上の玄徳様が顔色どころか声まで蒼白にして叫ぶ。 後衛を指揮していた関、張、趙の三つの旗印。曹操軍はそのうちの関の旗印に向けて一斉に襲い掛かったのだ。 無論、張飛、趙雲の部隊にも少なからぬ騎兵が攻撃を仕掛けているが、関羽の隊に『魏』『宋』二つの旗印が向かっているところを見れば、敵の狙いが奈辺にあるかは誰の目にも明らかであった。 本来、関羽は負傷兵として真っ先に乗船しなければならなかったのだが、あの関羽がそんなことを肯う筈がない。「これは負傷などといえるほどの深傷ではありませんよ」 そういって、当たり前のように後詰に参加していたのである。 「乗船、急いでください。敵の到達前に船を出しますッ!」 陳羣ら徐州の水軍が緊張した声を張り上げる。 騎兵の一部が、後詰部隊を迂回して河岸に接近してくる姿を捉えたからだ。 さらに陳羣は続けざまに指示を下した。「弩隊、構え! 敵が射程内に入れば攻撃を開始せよ! 同時に三番艦、四番艦に信号。水上から援護を。少しでも良い、敵の足を止めなさい」「御意ッ!」 船上の部下に反攻を命じつつ、すでに離岸していた僚船に水上からの援護を命じる。 よく訓練された水軍は、主将の命令に速やかに応じるが、曹操軍の奇襲はそんな彼らの動きを楽々と上回る。徐州勢は、この騎兵集団の速度を目の当たりにし、戦慄を禁じえなかった。彼らの知る騎兵とは、あまりにも勝手が違う。 それを実証するかのように、敵の先頭集団が一斉に馬上で弓を構えた。「騎射だと?!」 百や二百ではない。千をはるかにこえる騎兵が一斉に弓を番える場面は、河北より騎兵の充実で劣る徐州軍では決して見られないものであった。 敵から放たれた矢羽の雨は、徐州軍のみならず、乗船するところであったおれたち文官の列にまで及んだ。悲鳴と絶叫が交錯する中、おれは唇をかみ締めつつ、月毛の背にまたがった。 飛んでくる矢を弾くような芸当はおれにはできない。それゆえ、おれに出来たのは立ちすくむ仲間たちを叱咤し、船の上に導くことだけであった。「足を止めるな、船に急げ! 怪我をした人は隣の人が手を貸してあげるんだ」 そういいながら、おれは手近にいた怪我人をやや乱暴に馬上までひっぱりあげる。その男性の文官は小さく悲鳴をあげるが、すみません、かまっていられる状況ではないです。 騎射の弓が届くということは、つまりそれだけ接近されてしまっているということだ。まだかろうじて射程範囲に入ったくらいの距離である上に、水上からの援護と少数の劉家軍の兵士たちの奮闘のおかげもあって、曹操軍はまだ本格的にこちらに攻撃の手を向けてはいない。 だが、相手の狙いはまず間違いなく水陸の分断。ここで水軍を追い払ってしまえば、陸に残った部隊は逃げ場もなく殲滅されるだけなのだ。 それゆえ、おれは怯え、あるいは痛みを訴える人たちを半ば怒鳴るようにして船へと追い立てる。 自分でも乱暴だと思うが、しかし、あの襲撃の時のような光景を再び見ることは断じて避けたかったのだ。「ほ……ごう、さまッ」 その混乱の最中、耳慣れた声が飛び込んできた。 一瞬、駆ける人々の中に王修の姿を見た気がしたが、それも一瞬。混乱の中に声も姿も消えていく。 もっとも、それは王修が無事に船に乗れる波の中にいることを意味するから、安心すべきことではあった。 そう思って安堵しかけたおれの目に、不吉な光景が映る。 それは抵抗を突き破って河岸まで到達した数十に及ぶ騎兵部隊の姿だった。 その先頭を駆ける者が掲げる旗印は『侯』。「……侯成、か。この前みたいにはいかないな」 おれの中のイメージ的には陳蘭や雷薄とそうかわらない武将だが、陳蘭たちは略奪をこととした賊将で、こちらは曹操軍に属し、張遼の麾下にあって将をつとめるほどの人物。同列で語ることは出来ないだろう。 くわえて、あのときのように奇襲や不意打ちが通じる状況ではない。一応、おれも馬に乗ってはいるが、騎兵同士の戦いの訓練なんぞ受けていない。それ以前に、騎射で狙われたら、避けようもない。 迫りくる騎馬隊に向けて、後方の水軍から弩弓が雨のように降り注ぎ、避け切れなかった敵兵が落馬していくが、他の兵たちはそれに構う素振りも見せない。馬上、身を屈め、盾を構えて猛然とおれに向かって突っ込んでくる。「ちッ!」 音高く舌打ちしながら、おれは腰の剣を抜き放った。 何が出来るとも思えなかったが、何もしないわけにはいかない。 そのおれの姿に気づいたのだろう。侯成とおぼしき敵将が大喝を発した。「そこを退けィ、小僧ッ!」 声に出して返答をする必要を認めなかったおれは、馬上、無言で剣の切っ先を侯成に向ける。 それだけでこちらの意図を察したのだろう、急接近しながら侯成は持っていた槍を振りかざし、おれの胸に狙いを定めつつ吼えた。「ならば、死ねッ!」 掛け違いざま、おれの胸板を貫かんと繰り出される侯成の一撃。おれは落馬しかねないほどに身体を捻り、その矛先をかわしざま、力任せに剣を振るう。 剣と槍が絡み合い、金属音がおれの鼓膜に響く。「――つッ」 右手にはしった鈍いしびれに、おれは無意識にうめきをもらしていた。 だが、おれの後方で馬首をかえした侯成は、今度こそおれを討ち取ろうと雄たけびをあげながら向かってくる。 咄嗟に剣をかまえると、賢い月毛はおれが指示するよりもはやく、馬首を転じてくれた。顔中に猛気を滾らせながら、一直線にこちらに駆けて来る侯成の顔が視界に映る。 一瞬、その視界の隅で、何かが動いたような気がした。 と、思う間もなく。「ぬ、ぐあああッ?!」 こちらに突進していた侯成が、苦痛の悲鳴をあげる。慌てて手綱を引き締め、落馬こそ免れたが、その右肘には一本の矢が深々と突き刺さっていた。 突如、この馬に乱入してきた者は一人二人ではなかった。気がつけば、曹操軍に倍する数の騎兵が駆けつけようとしていたのだ。「射よッ!」 その将軍が命じると、劉家軍の誇る騎馬部隊は一斉に曹操軍へ向けて騎射を浴びせかける。 不意を打たれた形となった侯成の部隊はたちまち乱れたつ。その乱れに乗じ、劉家軍の将軍――趙雲は名槍龍牙を振り回しながら、その陣列に突っ込んでいった。「勅命を掲げ他領に踏み込んでおきながら、自らは約を破って奇襲をかける。曹操軍の欺瞞、すでに知れたり。その様で、貴様らは徐州の何を糾すつもりかッ」 鍛え上げられた曹操の騎兵部隊といえど、趙雲の武勇に抗することは難しい。 龍牙が虚空を舞う都度、鮮血の虹が宙をはしり、不吉な、だが奇妙に美々しい光景を描きだす。 その趙雲に対し、苦痛をこらえながら侯成が反論する。「我らは勅命に従い、徐州の軍を討つのみ。それを阻んだのは貴様らであろう。張将軍が約したは、貴様らが逃げるならば追わぬということのみ。我らの軍事行動を阻害し、あまつさえ武力をもって阻むのであれば、これを排除するは当然のことよ!」「ふ、なるほど。だから我らと徐州の軍が合流するのを待ったというわけか。小心者らしい小細工だな。いっそ理屈など抜きにして、ただまっすぐに我らを討っていれば、まだ曹操の怒りをかわすことも出来たかもしれぬのに」 いいながら、趙雲は小さく笑った。「まあ、ここで討たれるそなたには、無用の言か」「ほざけ、この首、女ごときに易々とくれてやるつもりはない!」「女ごとき、か。この常山の趙子竜を相手にして、いつまでその大口をたたいていられるか、楽しみなことだ」 そういって、駒を進める趙雲。 悠々としているようにみえて、その実、わずかの隙もないその姿に、侯成はたちまち彼我の力量差を自覚する。万全であっても、何合打ち合えるかもわからないような相手に、利き腕を怪我した状況で戦いを挑むほど侯成は愚かではなかった。 なにより。 侯成は、遠くに僚将たちの動きをのぞみ、そこに包囲されつつある『関』の旗印を見出して、趙雲とは異なる意味で小さく笑った。 もはや目的は果たしたも同然。侯成には、ここで命をかける意味はなかったのである。◆◆ 後方へ去る侯成を、趙雲は追撃しようとはしなかった。 そんなことに時間を費やす余裕がなかったからである。「一刀、無事か」「なんとか」 死ぬかとは思いましたが。普段ならそんな軽口を叩くところだが、今はそんな時間さえ惜しい。「ならば急いで退くぞ。雲長と益徳が時間を稼いでくれているが、それも長くは保たんだろう」 その趙雲の言葉どおり、騎馬部隊を率いた趙雲が後方へ下がったことで、敵軍の圧力は関羽と張飛の二人に集中していた。今はかろうじて持ちこたえているようだが、彼我の兵力差を鑑みれば、遠からず陣を破られるのは明らかであった。 そして、慌しく兵を退いた趙雲は、はらはらしながら船上で待っていた玄徳様に向け、こう言った。 ただちに船を出されたし、と。「で、でも、愛紗ちゃんと鈴々ちゃんが、まだ?!」 趙雲の進言を受け、当然のように玄徳様はためらいを見せる。関羽と張飛だけではない。彼女らの部隊はいまだ船上の只中で戦い続けている。その数は百や二百ではない。 趙雲の言葉は、彼らを見捨てろと言うに等しかった。 しかし、趙雲は口を閉ざすことなく、言葉を続けた。「その二人からの伝言です。『すぐに合流するから、先に行け』と」 このまま関羽立ちの部隊を船に乗せようとすれば、当然、曹操軍の攻撃はこちらに集中することになる。曹操軍は八千。対する徐州の水軍は船団の動きに支障が出ないぎりぎりの数しかいなかった。これは劉家軍数千を乗せる上で必要な措置だったのだが、いざ戦となれば戦力的に見て無力に等しい。 あるいは劉家軍の将兵が戦に加わることも出来ないわけではなかったが、水軍は騎兵と同様、あるいはそれ以上に習熟を必要とする兵科である。慣れない劉家軍が水兵たちの代わりを務めることはほとんど不可能であり、また無理にそれをしたところで、ろくな効果は望めないに違いない。「で、でも……」 無論、玄徳様もそれくらいのことは弁えているであろう。 ここで決断をためらえば、被害は関羽ら劉家軍将兵にとどまらず、武器を持たない文官たち、そして陳羣ら徐州の軍にも及んでしまうことも。「――でもッ、愛紗ちゃんと鈴々ちゃんを、他のみんなを見捨てるなんてッ」 だが、だからといって後衛を置き去りにすることを肯うことが出来る劉玄徳ではなかった。まして、今の関羽の体調は万全ではないのだから。 思わず、といった様子で、玄徳様の手が、腰の宝剣『靖王伝家』に伸びる。 その手を、そっと掴みとめたのは趙雲であった。「子竜さん?」「軍略として、ここで退くは当然。されど、玄徳様に雲長らを見捨てろなどと申し上げるつもりは毛頭ござらん」 そう言うと、趙雲は玄徳様の前で跪き、命令を請うた。「我が主よ、この身にお命じくだされ。後ろで戦う全ての者たちを救うように、と。今の雲長と益徳では時間を稼ぐ以上のことは難しいやもしれませぬが、この身が加われば、連中を追い払った上で、この場を脱することもかないましょう」 気負う様子もなく、そう口にする趙雲に、玄徳様は目を丸くし、周囲の者たちは唖然としていた。 趙雲が口にしたのは、先刻の侯成など及びもつかぬ大言である。にも関わらず、昂然と玄徳様を見つめる趙雲の顔を見ていると、その言葉がまるで既定の事実のように感じられてしまうのだ。 そんな周囲の様子には構わず、趙雲はなおも言葉を続けた。「河北よりこの地まで、御身の槍たるに相応しき力を示す場に恵まれませなんだが、ちょうどよい。御身の槍がどれほどの冴えを示すものか、存分にご覧なされよ――国譲(田豫の字)」「は、はい」 突然の呼びかけに、それまで黙って佇んでいた田豫が、慌てて返事をした。「騎兵の指揮は、叔至(陳到の字)殿にとってもらうことになろうが、その補佐はこれまでどおりそなたの仕事だ。任せたぞ」「わ、わかりました、お任せください!」「一刀」「はッ」 趙雲の呼びかけに、おれは緊張の面持ちで応えた。「これよりしばしの間、玄徳様を守る力は薄くなる。そなたの力が必要な時も来るだろう――」 だから、玄徳様の力になってさしあげろ。おれはそんな言葉が出るものと思い、趙雲の言葉に頷こうとした。 しかし。 趙雲の言葉は、おれの予測を完全に覆す。「――だからこそ、それを言い訳にするな」「え?」 思わず、おれは趙雲の顔をまじまじと見つめてしまった。 吸い込まれるような紫水晶の瞳が、煌くような輝きを放っている。吸い込まれるようなその瞳に、半ば魅入られながら、おれは趙雲の言葉を聞いた。 もっとも、趙雲が口にしたのは、それほど長い言葉ではなかった。「なに、誰かのために戦うことと、戦う理由を他者に預けることは似て非なるもの。それを忘れずにいればよい。さすれば、そなたなら、いずれ必ず気づくであろうよ」 その言葉の意味がわかったかと問われれば、おれは首を横に振っただろう。 それでも。「――はい」 それは、今のおれにとって最も大切な言葉であるという奇妙な確信に促され、おれは深々と頭を下げた。 それゆえ。(あと少しの猶予があれば、と思っていたのだが。天は、この者に何を望んでおるのか) おれは、おれの姿を見る趙雲の視線に含まれた懸念に気づけなかったのである……