小沛を放棄し、南へと進軍する劉家軍。 その前途は多難だった。曹操軍の追撃から逃れると同時に、彭城の勢力圏を避ける必要があったからである。 彭城の陳登が敵にまわったと決めつけることはできなかったが、無防備な横腹を見せられる相手でもない。たとえ昨日までの味方であったとはいえ、陳登が曹操に降伏するならば、劉家軍を見逃すことは出来ないだろうからである。 にも関わらず、おれたちは陳登の指示した場所に向かっていた。徐州を幾重にもはしる淮河の支流の河岸。そこに徐州の水軍が待っているというのが、陳登の言葉であった。 罠ではないか、という疑問は当然のように出た。しかし、他に逃げ道がないことも事実である。あるいは彭城を急襲し、劉家軍が占拠するという手段もあるにはあったが、玄徳様が許可するかという点を考えると、実現性はないに等しい。 西へと逃げ延びるという案もあったが、豫州はすでに袁術の勢力が浸透しつつあり、五千に満たない小勢で踏み込んでも勝ち目は薄い。また、仮に袁術軍を退けることが出来たとしても、豫州は曹操と袁術に挟まれた場所であり、発展も飛躍もなしえないであろうことは明らかであった。 つまるところ、劉家軍の逃げ道は南にしかなかったのである。無論、南に逃げ延びたとて、希望に満ちた展望が待っているわけではない。曹操から離れることは、すなわち袁術の勢力圏に近づくことを意味する。それでも、他の方角へ逃げるよりは、まだ可能性はあると玄徳様たちは考えたのである。 もしこれが陳登の罠であり、指示された地点に伏兵を設けられていれば苦戦は免れないが、しかし率直にいってしまえば、曹操や袁術の大軍を相手にするよりも徐州の官兵の方がまだしも勝つ可能性は高かろう。率いる者によっては、話し合いの余地もあるに違いない。 そのように衆議一決した劉家軍は、南へ向けて進軍の足を速めたのである。 そして、劉家軍は目標とする場所まであと一日たらずというところまでたどり着く。あとは鳳統が放った偵騎の帰りを待ち、そこに陳登の言葉どおり徐州軍が待っていれば、それに合流する。あるいは罠があるようならば食い破るか、それとも迂路をとって更に南下するか。 何事もなく合流出来れば、それが一番良いんだけどな、などとおれが考えていると。「申し上げますッ! 後方、小沛の方面より敵影!」 その言葉どおり、劉家軍の後方からもうもうと砂埃が立ち上っているのが遠望できた。かすかに身体に感じる揺れは、万を越える馬蹄が、大地を蹴りつける影響か。「やっぱり、そううまくはいかないか」 おれが舌打ちすると、ほぼ同時に見張りの兵が敵将の名を告げる。「先頭にある旗印は――ち、『張』の文字! 敵将は張遼と思われます!!」 その報告を受け、劉家軍に属する将兵の顔が瞬く間に引き締まる。 進軍のあまりの速さから『神速』の異名をとる驍将。董卓、呂布、曹操とそれぞれに卓越した君主に仕え、そしてその全員に将として重んじられた才略がいかに恐るべきか。その脅威は、先の防衛戦において、劉家軍に属する全員が骨身に染みているところであった。 曹操軍の陣頭にあって、張遼は奔騰する戦意を押さえつけながら、それでも声がうわずるのを抑え切れなかった。「よっしゃ、捉えたでーッ!」 劉家軍の退却は、速やかに進められた。曹操軍に捕捉されれば、兵の数からも、士気の点からいっても勝ち目はない。誰もがそれを知っているゆえに、その足は少しばかり行き過ぎなほどに速かったのである。 その劉家軍に、張遼率いる軍は追いついた。 張遼は小沛城を全く無視し、その脇を風のように通り抜けると、ただまっすぐに劉家軍を追撃してきたのである。劉家軍の率いる兵力は一万、その全てが騎兵であるからこそ可能な追撃速度であった。 張遼は部下たちに命じ、左右両翼を拡げ、劉家軍の側面にまわらせ、半包囲の態勢をとる。 それに対し、劉家軍は全軍を中央に集結させ、円陣を組んだ。 張遼の軍が、すべて騎兵で編成されているのに対し、劉家軍の騎兵は千に満たず、その他の兵は歩卒である。騎兵の展開の速さに歩卒がついていくのは至難の業だ。 数において劣り、軍を展開させる速さにおいて劣る以上、劉家軍から仕掛ければ手ひどく叩かれてしまうだろう。敵の攻勢にあわせて軍を進退させ、相手の隙に乗じるのが最善であると軍師たちは判断したのである。 にらみあう両軍の間に、たちまち敵意と殺意がぶつかりあい、それは乱流を生んで、両軍の旗をはためかせる。 気弱な者ならば、立ち入ることさえ出来ないであろう戦場の真ん中を、だが張遼は動ずる気配もなく馬を進めてくる。「うちの名は張文遠! あんたら、無駄な抵抗はやめて、とっとと降伏しいや――ちゅうても、どうせ聞かんやろ。面倒やからそれは飛ばすわ」 そういうと、張遼は歓喜の表情で高らかに叫ぶ。「関羽ッ! 出てこんかい、うちと勝負やッ!」「張文遠じきじきの指名とあれば出ざるをえないな」 劉家軍の陣中から、関羽がゆっくりと姿を現した。「だが、良いのか。見たところ、他の将の姿はないようだな。私がここで貴様を斬れば、軍を纏める者もなく、貴様の軍は壊滅することになるぞ」「はッ! 自分が勝つに決まっとるっちゅうわけか? うちもなめられたもんや」 張遼は手に持った飛竜偃月刀を頭上で一回転させると、その刃先をまっすぐに関羽に突きつける。 関羽を見据える張遼の眼差しは、離れて見ているおれでさえ、背筋がふるえてしまうほどの闘気に満ちていた。「最初に言っといたる。関羽、あんたがここでうちを斬っても、残った部下が報復したりはせんわ。その時はあんただけやない、あんたらの軍の一兵卒に到るまで逃がしてやれ言うてあるわ。だから、うちを生け捕って、退却を有利にしようとか余計なことは考えんでええで」「ほう、それはありがたいな。だが、その条件を聞くかぎり、そちらが勝てば、我らが軍に降伏しろとでも言うつもりか」 関羽の鋭い詰問に、張遼は小さく肩をすくめる。「いいや、んなこと言わへんわい。うちが勝ったら、関羽、あんたは華琳の下まで来てもらうで。別に華琳に仕えろっちゅうわけやない。ただ抵抗せずにうちについて来ればええだけや」 どや、破格の条件やろ。 そういって、張遼はからからと笑って見せた。 関羽の目がかすかに細くなる。 関羽の内心の動きが、おれにはよくわかった。 相手の言葉を鵜呑みにすれば、たしかに張遼の提案は破格と言える。勝って得るものは大きく、負けて失うものは少ない。無論、一度曹操の陣門に赴けば、そう簡単に帰される筈もないが、それでもその危険に目を瞑ってでも、ここで張遼と戦う価値がある提案であった。 関羽が、ゆっくりと青竜偃月刀を構えた。 本当なのかと言質をとることはしない。あの張文遠が口にした時点で、それは誓紙を差し出されたに等しい価値があると考えたのだろう。 その関羽の動きを見て、張遼はもう一度笑った。張遼もまた、関羽の動き一つで、関羽が今の条件を受諾したことを悟ったのである。 酷似した二つの偃月刀が、戦場の中央で向かい合う。 竜虎相撃つ。そんな言葉が、自然と脳裏に浮かび上がる。馬上にある二人は無言。ただゆっくりと進む二頭の馬の足音だけがあたりに響いている。 おれは我知らず、ごくりと生唾を飲み込んでいた。 それはおれだけでなく、おそらくこの戦場を見つめる両軍の将兵すべてが、同じ動作をしたのではないだろうか。それほどまでに、二人の将が向き合う場の空気は張り詰め、咳(しわぶき)の音一つ聞こえない。 ――そして。二人の距離が、あるところまで縮まった時。「殺ッ!!(シャアッ!!)」「殺ッ!!(シャアッ!!)」 寸秒も違わず、二人の口から同時に気合の声が迸り、両軍の将兵は、落雷の轟きにまさる衝撃に撃たれたのである。◆◆「おら、おら、おらァッ!」 一声ごとに一閃。張遼の飛竜刀が続けざまに関羽に襲い掛かる。 受け止める関羽の得物は、重さ八二斤の青竜刀、並の兵士ならば持ち上げることさえ難しい業物である。当然、そこいらの武器では、衝撃を与えることさえ容易ではない。 にも関わらず。「ぬッ」 受け止める関羽の顔に、余裕はなかった。張遼の一撃を受け止めるたびに、関羽の手にしびれるような衝撃がはしる。 張遼の斬撃の鋭さ、手に持つ武器の威力、いずれも凡百のものではありえない。 関羽は、内心で舌を巻いていた。 かつて敵として戦った者たちの中で、今の張遼に匹敵するほどの斬撃を放ってきた人物を、関羽は一人しか知らない。 すなわち、虎狼関で戦った飛将軍呂布その人しか。「チィッ」 短い舌打ちの後、最初の攻勢を凌がれた張遼がわずかに後退する。 だが、関羽は追撃をかけようとせず、馬上、わずかに乱れた態勢を立て直し、青竜刀を握る手に力を込めるにとどめた。 そんな関羽を見て、張遼はやや皮肉っぽく笑う。「どや、とっとと本気にならんと、命とりになるで」「様子を見ているということに関しては、お互いさまだと思うが……」 そういってかすかに苦笑した関羽だが、次の瞬間、その目には雷光が煌いた。「だが、確かに様子見をしている場合ではなかったな。ここで貴様を討ちとり、我らは退かせてもらうとしよう。張文遠、その首、頂戴するッ!」「はッ、やれるもんなら、やってみいッ!!」 互いに愛馬をあおり、激突する二人の将。ぶつかりあった二本の偃月刀が、甲高い悲鳴をあげ、中空に火花が散った。「はああああッ!!」「おらあああッ!!」 二将の咆哮が戦場に響き渡り、連鎖する金属音が痛いほどに聴覚を乱打する。 右、左、正面、正面、右、右、左とみせて右、正面、左。 時に力任せに斬りかかり、時に技巧を絡めて隙をつくる。ぶつかるのは刃の部分だけではない。柄をもって相手を叩き伏せ、あるいは石突き(刃の反対部分)をもって相手の身体に突きかかる。 並の兵士であれば――否、一軍を率いる将であったとて、この二人を相手取れば、一合と打ち合うことさえ難しかったに違いない。わずかな隙が、かすかな躊躇が、即座に死に直結する必殺の一撃を、しかし、二人は苦もなく繰り出し、苦もなく避ける。 両雄のぶつかり合いは時と共に激しさを増し、大気が鳴動する。天地さえその猛気にあてられ、震えたのかと思われた。「はっはァ、さすが関雲長や、ここまで力を振り絞るんは、いつ以来やろうなあ!」「そういってもらえるとは光栄、だがおしゃべりしている暇などあるのか?!」 関羽が青竜刀を腰だめに構える。刃鳴りの連鎖が、ようやくわずかに途切れた。 関羽の動きが止まったのはほんの一瞬。しかし、張遼は好機と見て素早くその脳天に刃を振り下ろそうとして――(なんやッ?!) 背筋をはしる悪寒に、反射的に身をのけぞらせるように、身をかわす。 それでも、わずかに遅い。「はああああッ!!」 一瞬の溜め。だが、関羽が全力を込めるためには、その一瞬で十分であった。 その一撃は、これまでの斬撃が嵐とするならば、天地を貫く雷挺か。 右から左へ。八二斤の青竜偃月刀が唸りをあげて振るわれ、その刃先は、とっさに身をかわした筈の張遼でさえ避け切れぬ。「くぅッ?!」 張遼の甲冑の胸元よりわずかに下の部分がはじけ飛び、紅の鮮血がそれに続いた。 それを見た曹操軍からは悲鳴にも似た叫びがあがる。 だが。「そうや、こう来んと面白うないわッ!! 関羽、もっとおまえの本気を見せてみィッ!!」 張遼はいささかも怯まず、飛竜偃月刀を真っ向から振り下ろす。 全力を込めた一撃の後だけに、関羽の反応がわずかに遅れた。関羽は、とっさにその一撃を柄で受け止めるも、張遼の気迫に押され、馬上で態勢を崩してしまう。 そして、その隙を見逃す張遼ではなかった。「おらァッ!!」 飛竜刀の刃先が弧を描き、関羽の肩口から、その身体を両断せんと袈裟懸けに振り下ろされる。 その勢いから見るに、態勢を崩した今の関羽では、受け止めようとしても青竜刀ごと弾き飛ばされてしまうだろうと思われた。 そして、そう思ったのはおれだけでなく、玄徳様も同様であったらしい。「愛紗ちゃんッ!!」 思わずあがった玄徳様の悲鳴が、おれの耳朶をうつ。 劉家軍の人々が息をのむ中、迫る張遼の刃に対し、関羽はその一撃をなんとか受け止めようとし、咄嗟に石突きを突き出した。おれの目にはそう映った。 だが、そんな力ない動きでは、張遼の猛撃は止められない。事実、張遼の飛竜刀は、関羽の青竜刀を、柄ごと両断する勢いで振り抜かれる――その寸前だった。 関羽は、わずかに青竜刀の角度を変えた――言葉にすれば簡単なことだが、張遼ほどの将軍の、渾身の一撃を前にして、それを行える者など、中華全土を見渡しても何人いるか。 青竜刀が角度を変えたことにより、力点をずらされた飛竜刀は、柄を叩き折ることが出来ず、火花を散らしながら滑りおちていく。関羽は、張遼の刃を止められぬと悟るや、受け止めるのではなく、受け流すことを選択したのである。 そして。「チィッ?!」 舌打ちしつつ、咄嗟に刃を引き戻そうとする張遼であったが、先の関羽と同じように、渾身で放った攻撃だ、すぐに持ち直すことは難しい。 そのために要した、ほんのわずかな時間。だがそれは、関羽が態勢を立て直すには十分すぎる時間であった。「もらったぞ、張文遠ッ!!」 叫びざま、関羽がお返しとばかりに青竜刀を袈裟懸けに振るい、張遼を斬り伏せようとする。 先の関羽と同じ不利に陥った張遼は、しかし、やはり易々と討たれたりはしなかった。「ッ、そいつはどうやろな!」 飛竜刀を引き戻していては、関羽の一撃に間に合わない。そう悟った張遼は、なんと得物を手放し、そしてその身軽さを利して、一瞬のうちに馬上から姿を消したのである。「なッ?!」 そこらの軽業師など足元にも及ばないような張遼の身のこなしに、思わず関羽は目を丸くする。 わずかな時間をおいて、地面を蹴る音がしたのは、上半身の力だけで馬上から飛び上がった張遼が、あぶなげなく着地した音であった。 かろうじて関羽の一撃をかわした張遼。 しかし、その手に武器はなく、相手の関羽は馬上にある。「勝負ありだな、張遼」 だが、その関羽の言葉を、張遼はなおも猛々しい戦意を燃やしながら、真っ向から否定した。「あほぬかせ。うちはまだ死んどらんどころか、このとおり五体満足や。関羽、おのれは武将を馬から落としたら勝ちだとほざくんか? これは子供の遊びやない。武に生きる者が、互いの誇りをかけた戦いや。勝負ありなんつー台詞は、うちの首をとってからにしい」「――その武、その覇気、ここで露とするには惜しい。後日、再戦を期すというわけにはいかんか。貴様が死ねば、貴様の主や部下も悲しもう」 張遼はその言葉を聞くと、笑いながら懐に手を伸ばした。そして、懐剣を取り出し、関羽に向けて構える。「華琳のことも、みんなのことも大切や。けどな、それ以上に大切なもんもある。うちは強い奴と戦って、自分が一番強いっちゅーのを証明したい。そのために戦こうとるんよ。あんたを前にして、ここで退くわけにはいかん」「……そうか、ならば」 そういうや、関羽はひらりと馬上から地面に降りる。それどころか、近くに転がっていた張遼の飛竜刀を掴むと、それを張遼に向けて放ってしまったのである。 咄嗟にそれを受け取った張遼は、しかし、その顔にはじめて怒気を浮かべていた。これまで、戦意を叩きつけることはあっても、そこに怒りを滲ませることはなかった張遼が、本気で怒っていた。「……お情けのつもりかい、関羽」「そうではない。貴様に誇りがあるように、こちらも武人としての矜持がある。一騎打ちで、馬上から、得物を失った者を斬り伏せるなど御免こうむる」「はん、やっぱりうちをなめてるんやないか。まるっきり弱者に対する強者の態度や」 はき捨てるような張遼の言葉に、しかし、関羽は冷然と言葉を返す。「それがどうかしたか」「なんやとッ?!」「そう思うのならば、私を倒し、相手の力量を見誤った未熟を思い知らせればよい。我ら武人は口舌の徒ではない。示すべきものは、言葉ではなく、己が武を以ってあまねく示せ」 その声は決して大きくはない。むしろ小さいとすらいえた。 しかし、そこに込められた清冽な覇気は、張遼ほどの武将から言葉を奪うほどに深く、重い。 言い切った関羽は、両の足で地面を踏みしめ、青竜偃月刀を張遼に向けて構えてみせた。 対する張遼は。 関羽の言葉を受け、しばし、瞑目していた。その一言一言を吟味するかのように。 そして、やがて開かれた眼からは、怒気は綺麗に掻き消えていた。「はは、確かにあんたの言うとおりやな、関羽。ちいとばかし、むきになってたかもしれん。勝負に水を差すような真似して悪かったわ」 からりとした笑みを浮かべると、飛竜刀の石突の部分で、一度だけ、強く地面を打ち据える。 次の瞬間、その顔からは笑みが拭われ、先刻にまさる戦意がその顔を覆っていく。それはどこか清爽さを感じさせるものでもあった。「ほんなら改めて名乗らせてもらおか」 構えをとりながら、張遼はゆっくりと言葉をつむいでいく。「我が姓は張、名は遼、字は文遠」 戦いに望むとは思えないほどに純粋な光を瞳に満たし、張遼は関羽に向けて大喝する。「関雲長、その青竜偃月刀を叩きおって、うちはあんたの上に行く! 覚悟せィッ!」 関羽も、構えをとりながら、相手の礼に、礼をもって返す。「我が姓は関、名は羽、字は雲長」 その姿は、張遼の裂帛の気合を受けて、微動だにせぬ。 そうして、黒髪の武神は、しずかに笑んだ。「張文遠、その大言に見合うだけの力を示してもらおう」 そして、一拍の間を置いた後、二人は同時に地面を蹴った。「ゆくぞッ!!」「こいやァッ!」 かくて、共に竜を冠する武器を携えた二人の勇将は、今度は地上で、真っ向からぶつかりあったのである。◆◆ 劉備軍が、南へと退くのを見届けた途端、張遼はがくりと地面に膝をついた。「ち、張将軍、ご無事ですか?!」「将軍、しっかりなさってくださいッ」 魏続、宋憲、侯成ら張遼麾下の武将たちが慌てて駆け寄る。その顔はいずれも青い。それも仕方ないことだろう。 先の関羽との一騎打ちで張遼が負った傷は、傍目にも決して浅くないことがわかったからである。 事実、左肩をおさえてうずくまる張遼の手から、紅色の液体が今もぽたりぽたりと地面に零れ落ちていた。「……ああ、騒がんでええって。命に関わるようなもんやあらへんからな」 だが、そう口にする張遼の顔は、部下たちにもまして蒼白であった。 魏続らはしかりつけるような勢いで将の手当てを命じると、ただちに敵軍へと追撃をかけようとした。兵力の上ではまさっているのだ。後背から襲い掛かれば、流浪の軍など、容易く打ち破れよう。 そう息巻く彼らを、しかし、張遼は厳命によって食い止める。「うちを約定もまもれん下衆にする気かい。負けたら見逃す言うたの、聞いてたやろが」「し、しかし、このままにすますことは出来ませんぞッ」「さよう。将軍を傷つけた報いを受けさせねばなりませぬ。それにこのままでは、曹操様からもお叱りをうけましょう」「侯成のいうとおりでござる。張将軍、なにとぞ、追撃の許可を」 言い募る部下たちに対し、それでも張遼は首を横に振った。「あかん。華琳の怒りは、うちがきちんと引き受けるわ。おまえらには累が及ばんようにするさかい、余計な真似はするんやない。それより、誰でもええから、このこと、華琳のところに知らせておき。うちは、少し眠るさかいな」 そう言うと、張遼はまもなく眠るように意識をうしなった。気力も、そして体力も限界に近かったのだろう。それでも劉家軍が去るまで毅然と立っていたことが、最後の意地だったに違いない。 張遼を天幕に運ばせ、医療に心得のある者に任せると、魏続ら三将は天幕から出て話し合った。 とはいえ、語ることは多くない。張遼の言うとおりにするのであれば、本隊に使者を送り、その指示を待つのみである。 だが。「――このままでは措けまいよ」「うむ、張将軍の仇を討つことが一つ。それに、関羽もまた、張将軍によって浅からぬ手傷をおうている。捕らえる絶好の機会だろう」「いかさま。そうなれば、曹操様のおぼえもめでたくなろうし、将軍の敗北の罪も消し飛ぼうさ」 彼らは口々に言い合うと、互いの意見の一致を確認し、同時に頷いた。 このしばし後、張遼の軍から、八千の兵が南へ向けて動き出す。 彼らは一路、劉家軍の後を追う形で、その距離を縮めていった。 ただし、急追はせずに。ゆっくりと、しかし確実に相手を捉えながら、彼らは劉家軍を追尾していったのである。◆◆「関将軍、食事をお持ちしましたけど……食べられますか?」 おれは関羽の天幕に声をかけながら入ろうとする。 が、その途端、なんか固いものが飛んできて、頭を直撃した。食事が載った盆を落とさなかったのは奇跡だと思われる。 慮外な暴行に、さすがにおれも声を荒げかけた。だが。「ば、ばかもの! いきなり入ろうとする奴があるか。こちらは怪我の手当てをしている最中だぞ」「――まことに申し訳ございませんでした」 関羽の怒ったような、それでいて慌てたような声を聞き、全身全霊で謝罪せざるをえなかった。 張遼との一騎打ち、関羽はみごとに勝利を収めたのだが、さすがに無傷というわけにはいかなかった。最後の攻防で、二人はほとんど同時に互いに斬りかかり、お互いに肩を負傷していたのである。 傷自体は張遼の方が重いだろうが、関羽のそれも決して浅くない。 で。 その肩の傷を手当てしているということは、甲冑はもちろん、服も半ば脱いだ状態なのであろう。そんなところに男のおれが無遠慮に踏み込んだら、それは篭手の一つも投げられて当然であった。むしろ斬り捨てられなかっただけ感謝すべきかもしんない。「も、もう良いぞ、北郷殿」「し、失礼いたします」 そういっておそるおそる天幕に入ると、中には関羽の他に女性兵がいたが、彼女はくすくすと笑いながら、ささっと出て行ってしまったため、天幕の中に残ったのは、おれと関将軍の二人だけとなった。 なにはともあれ、おれはすぐに頭を下げた。「すみませんでした、関将軍」「む。今後は気をつけるようにな。言うまでもないが、他の天幕に入る時もだぞ。もし桃香様のお着替えをのぞくような真似をしたら……」 そういって、言葉を切る関将軍。あの、自分で言って、自分でその光景を想像して怒りを膨らませるのはやめてください。「もちろん、そんなことはしませんよ」 まだ死にたくないし。とは口には出さねど、心底からの本音であった。「っと、食事を持ってきてくれたのだったな、すまない。しかし、どうしてそなたがそんな役目をしているのだ?」 不思議そうに問う関羽。 一応、おれも趙雲麾下の文官であって、侍女や従者がやるような仕事を振られたりはしない。人手が足りないときに手伝ったりはするが、今日の場合はそうではなかった。「お見舞いといいますか、怪我の様子をうかがおうかと思いまして。そうしたら、玄徳様が、ついでだからご飯も持っていってあげて、と」 ちなみに、玄徳様たちはおれが来るまえにここに来ている。おれが遅れてきたのは、広くもない天幕に、あまり大勢で押しかけるのは良くないだろうと思ったためだった。 無論、怪我の具合が大事に到っていないかどうかは、真っ先に確認したのだが。 おれの言葉に納得した様子の関羽だったが、しかし、おれが持ってきた食事を並べているうちに新たな疑問がわきあがってきたらしい。 いや、らしいというか、多分、そうなるだろうな、とおれも予測していたのだが――「で、北郷殿。このずいぶんな量は、何か意図あってのことか?」 優に四人分はありそうな食事を見て、関羽の頬が、ちょっとひきつっているように見えたので、おれは慌てて自らの潔白を主張しなければならなかった。「ち、違います、持って行けといったのは玄徳様ですッ!」「……桃香様が?」「は、はあ。私も多すぎませんかと言ったんですが、その『愛紗ちゃんには一杯食べて、はやく元気になってもらわないといけないから』とのことで……」 決して、関将軍の食事量をあらかじめ計算した上で持ってきたわけではないのです。「それはありがたいことだが、しかし、さすがにこれは……かといって、折角桃香様が下さったものを残すわけにもいかないし――」 忠義一徹の関羽は、そこまで悩まないでも、と思うくらいに目の前の食事を見て困惑していた。 見かねたおれは、すこし控えめに提案してみる。「あの、少し手伝いましょうか。幸いというか、まだおれも食べていませんし」 関羽のところから帰った後に食べるつもりだったのである。さすがに怪我した関羽より先に食べて、先に休むというのは気がとがめた。「……む、そうか。なら頼むとしよう」 では遠慮なく。 適当に目の前の皿から料理をつまみながら、おれはふと思いついて口を開いた。「張将軍も連れてくれば良かったですかね」「鈴々がいたら、逆にこの程度では少なすぎることになってしまうぞ」 言われて、おれはその情景を想像し、頷かざるをえなかった。「なるほど、確かに」 すると、今度は関羽の方が、ややためらいがちに問いを発してきた。「……そういえば、北郷殿。かなり調子を崩されていたと聞いたが、その後、どうなのだ?」「あ、ああ、はい、みんなのおかげで、大分良くなりました。今も、普通に食べられてますし」 それを聞き、関羽はほっと息を吐いたように見えた。「そうか、それは良かった。軍の編成で多忙であったゆえ、様子を見ることも出来ず、案じていたのだ」「そ、そうなんですか? すみません、将軍にまで余計な心配をかけてしまっていたとは」「余計なというか、その……ま、まあ快方に向かっているのなら、何よりだ。もう少し落ち着いたら、色々と話したいこともあるしな」 関羽の言葉に、おれは小首を傾げる。「話、ですか?」「ああ。これからのことと言えば、察しもつくのではないか?」「――なんとなくですが、わかったように思います」 おれがそう言うと、関羽は小さく頷いたきり、その話を掘り下げようとはせず、眼前の料理に箸を伸ばす。 おれもまた、それ以上拘泥せずに料理に集中することにした。 二人しかいない天幕は、うってかわって沈黙に包まれる。 それでも、どこか暖かな空気が天幕内に流れているような気がした。 その証拠に、関羽の顔も、どこか安らいだものに見える。時折、その顔がしかめられるのは、傷の痛みの影響であろう。 その関羽の姿を見て、おれはこれから先、無益な戦を避けることが出来れば良いと思わずにはいられなかった。