姓は陳、名は登、字は元龍。 父、陳珪から臨准城主の座を受け継いだのは二五の時。 農政に力を入れて、収穫高を高める一方、盗賊を厳しく取り締まり、また官吏の腐敗にも厳罰を以って対処した為、臨准郡の治安は目だって良くなった。 陶謙の配下には内治に優れた者が多く、領内は良く統治されているのだが、その中でも陳登の名は良く口の端にのぼった。それほどの水際立った手腕だったのである。 また、陳登は内政のみならず、野盗の討伐や、あるいは他国の侵略に対する策戦立案などでも功績をあげ、若年ながらも文武に練達した傑物だと高い評価を受けるに到る。 それから数年。今や陳元龍の名は、徐州の高官の一人として隠れもないものとなっていた。 陳登は、評判に相応しい能力と自負を持ってはいたが、それをひけらかしたり、あるいは他者を押しのけたりする灰汁(あく)の強さはない。彭城にあって、文官としては孫乾、糜竺に次ぐ立場であり、武官としても曹豹、糜芳の後塵を拝する立場であるが、これに不満をあらわしたことはなかった。 何故なら、それが徐州を平和的に治める上で、最も良い形だと判断していたからである。 瑯耶郡の曹豹、沛郡の劉備、広陵郡の陳羣らと同格の立場にありながら、華やかな功績から背を向け、堅実に、着実に足元を固め、他者を支えて、徐州を磐石ならしめてきた陳登は、その影働きゆえに、徐州内部の心ある人々から厚い信頼を寄せられていた。その人脈は多岐に渡り、実のところ、陶商、陶応らとも一応のつながりを持っていたのである。 もっとも、それは陳登が本心から望んだものではなく、あちらの情報が筒抜けになっているわけではない。件の襲撃のことも、陳登はまったく知らなかった。 そんな陳登であったから、襲撃以後は、徐州を安定させるために彭城に詰めきりであった。臨准城は父の陳珪に委ね、孫乾と共に混乱する徐州の政務を、文字通り、寝る暇もなく処理し続けていたのである。 ゆえに、意識を取り戻した陶謙が、まず真っ先に、この二人から状況を聞き取ろうとしたのは、当然すぎるほど当然のことであった。 彼ら二人から事の次第を聞き取った陶謙は、ただでさえ優れない顔色を、さらに悪くさせてしまう。陶謙の顔色は、今や土気色に変じていた。「まことに、申し訳のしようもございませんッ」 群臣をまとめ切れなかった罪を謝する孫乾に、陶謙は力なく頭を振る。「公祐(孫乾の字)の罪ではなかろう。このような時に倒れてしまう我が身の不甲斐なさよ」 州牧の沈鬱な声に、眼前の二人は声も出ず、畏まることしかできない。 その二人の様子を見て、陶謙はそれ以上、自責の言葉を発しようとはしなかった。 何より、今は自分を責めるよりも先に、しなければならないことがある。「……今、彭城で動かせる兵力はいかほどか?」「はッ。すぐにも、ということであれば、曹将軍と糜将軍の部隊、あわせて二万がほど。数日いただければ、残りの二万も彭城を発つことが出来るでしょう。おおよそ四万です。彭城の守備を手薄にしてよろしければ、あと一万程度は繰り出せるかもしれません」 孫乾の言葉に、陳登が隣接する自城の情報を付け加えた。「臨准城では、父が兵をそろえております。集まった軍は二万近いとのことでございます。もっとも、農民たちを中心とした兵ゆえ、曹操軍や袁術軍とどの程度戦えるかはわかりかねます」「……そうか」 陶謙は、寝台の上で上体だけを起こしながら、腕組みをした。 陶謙の領土は、徐州、揚州、二つの州に及ぶ。本来であれば、動員兵力は十万を越える。無理をすれば、十五万の大軍を編成することも不可能ではない。 だが、曹操、袁術の二大勢力に挟まれた現状では、陶謙に従うことにためらいをおぼえる者も当然いる。彼らは明確に徐州に叛旗を翻すことはしなかったが、かといって彭城の指示に唯々諾々と従うことはしなかった。 静観して様子を見る。その態度をとる者は少なくなかったのである。 とはいえ、ここまで戦力的にも、道義的にも追い詰められた状況にあって、なお七万の兵力を動員できること自体が、陶謙の日ごろの徳望の厚さを知らしめていたであろう。 そして、その彭城の戦力と、小沛の軍勢をあわせれば十万に届こうかという大軍が出来上がる。数だけを見れば、曹操軍に対抗することは十分可能であった。 もっとも、兵の質という点で言えば、陳登の言うとおり、両軍は大きく隔たっている。 曹豹、糜芳の二将麾下の軍勢はまだしも、余の部隊は徐州各地で徴募した農民兵たちが主体となる部隊である。錬度において、曹操軍とは比べるべくもあるまい。 そんな兵を動かせば、数合わせどころか、味方の妨げになる可能性すらあった。 そう考えれば、取り急ぎ打てる手は限られてくる。「――曹、糜の二将軍を呼んでくれぃ。二人には、直属の部隊を率いて、早急に小沛の増援に向かってもらわねばならん」「御意、残余の兵はどういたしますか?」「当面は彭城、臨准を中心として防備を固めるのじゃ。曹操殿以外に敵がおらぬわけではない。危急の時に備え、兵力はなるべく集中しておかねば――」 と、陶謙が言いかけた時であった。 慌しく扉を叩く音が室内に響き渡る。病状の身の州牧の部屋を訪れるには、あまりに乱暴なその物音を聞き、もたらされる知らせが容易なものではないことを室内の者たちは悟る。 そして、その考えは正しかった。 息せき切ってあらわれた文官は、開口一番、こう告げたのである。「瑯耶郡、曹操軍の別働隊の攻撃を受け、すでにして陥落せり」 曹仁、曹洪、曹純ら曹一族に率いられた別働隊は、兌州東部で鮑信の軍と合流するや、電撃的に国境を突破、一路、瑯耶郡の県城を目指した。 太守である曹豹が彭城に出向いているとはいえ、瑯耶郡の将兵は決して勤めを怠っていたわけではない。情報収集には異能を見せる曹豹は、当然のように兌州にも情報網を張り巡らせていたから、十万に迫る軍勢が動けば、それに気づかない筈はなかった。 事実、徐州国境を突破した鮑信率いる九万の軍勢は、たちまち瑯耶郡の偵察網に捕捉された。 しかし。 曹家の三将に率いられた一万の騎馬部隊。これを捉えることは出来なかったのである。 徐州内の地理に精通した曹純が先頭を駆け、諜者を扱う腕では曹豹以上の曹洪が徐州側の諜者をことごとく排除し、そして曹仁が部隊を完璧に統率する。 全てが騎兵で編成された部隊は、恐るべき機動力でもって相手の警戒網をかいくぐり、朝靄けぶる瑯耶郡の県城を指呼の間に捉えた。そして、未だ曹操軍がここまで到っていないと考えて、いつものように門を開いた県城に向かって、曹操軍は喊声をあげて突撃を開始する。 ――勝敗が確定するまで、半刻もかからなかった。 報告は続く。「曹操の軍は『なべて百姓に罪はなし』として、民には手をかけておりませんが、城に立てこもって抵抗を試みた将兵は、ことごとく討ち取られたとのことです」 一度切り結べば降伏は許さぬとして、勝敗が決した後、降伏を申し入れた将兵にも、曹操軍は容赦なく刃を突き立てていったという。 その峻厳な態度が、徐州制圧に対する曹操軍の強い決意を雄弁に物語っていた。 だが、事態はそれだけにとどまらない。瑯耶郡を制圧した曹仁らは、後始末を鮑信に委ねるや、更に徐州の領内深く進撃を開始したのである。 瑯耶郡を越えたら、次は東海郡である。しかし、東海郡は他領に接しておらず、当然のように曹操軍を止められるだけの備えはない。 そして、東海郡を越えてしまえば、その次は―― 「……この彭城、であるな」 陶謙の言葉に、孫乾、陳登の二人は顔をこわばらせた。 しかも、凶報はそれだけにとどまらなかった。 広陵太守陳羣より、寿春の袁術軍の動きが、にわかに活発になった旨の報告が届けられたのである。 偽帝の侵攻、不可避なり。 報告は、その言葉で終えられていた。 陳羣は剛直な為人で陶謙の厚い信頼を得ている人物であり、准河以南の陶謙領を堅実に治めてきた。袁術が准南に台頭する以前、揚州牧の劉遙が広陵の支配権を欲して、大挙して押し寄せてきたことがあったが、陳羣は単身、敵陣に赴き、劉遙と対等に渡り合い、広陵の地を寸土も侵させず、撤退させてのけた。文武どちらかといえば文の人であるが、その豪胆さはなまじの武官に優ることはるかであろう。 その陳羣が、急使を発してまで知らせてきたのだ。間違いなく、袁術は動きだすであろう。あるいは、すでに寿春の城を出ている可能性さえあった。 西北からは曹操率いる本隊が。 北東からは瑯耶郡を席巻した曹操の別働隊が。 そして、南からは袁術の主力が。 いずれも、徐州領を併呑せんとして襲い掛かってくる。「彭城にて、楚歌を聞く日が来ようとはな……」 陶謙は知らず、ため息を吐いていた。 だが、すぐに首を振って、諦念を追い払う。州牧として、その事態を避けることこそ、陶謙の務めであったから。 漢の臣として、偽帝に屈することは出来ない。ゆえに、陶謙が採れる手段は、何としても曹操と和平を結び、袁術に対抗することである。 そして、そのための手段も陶謙は持っていた。先頃は、配下の者たちの反対もあって、実行に移すことが出来なかったが、事ここに到れば、彼らも陶謙の行動を認めざるを得ないだろう。 陶謙の唯一の心配は、曹操が復讐に狂い、徐州の民に害をなす可能性であったのだが、瑯耶郡での曹操軍の行動を聞くかぎり、刃向かいさえしなければ、民も将兵も無事でいられると確信できた。 無論、陶謙はわかっていた。その条件でさえ、和平がどれだけ成り難いかということは。 このまま兵を進めるだけで、徐州を征服することも、襲撃者たちを処断することもかなう以上、ここで曹操が和平に傾く理由はないに等しい。 だが、袁術が動いたことにより、別の方向から曹操を説くことが出来るようになったことに、陶謙は思い至っていた。 徐州を南北から追い詰めつつある現在の戦況は、あたかも曹操と袁術が手を結んだように見えてしまう。漢の忠臣という立場をとる曹操にとって、偽帝と手を組むことは、すなわち自ら拠って立つ基盤を崩すことである。 あるいは、他の勢力――袁紹あたりがそこを衝いて、曹操の正当性を否定しようとすることも、十分に考えられた。 それゆえ、ここで徐州と和平を結び、協同して袁術に当たるという方策を、曹操に説くことが出来る素地はかろうじてあったのだ。 そのためには―― 「公祐、元龍」「はッ」「はい」「先の命令を改める。曹、糜の両将軍は彭城に待機。わしが商と応、それに件のならず者どもを連れ、小沛に赴く。護送の兵を含めても、千も要るまい。のこりは彭城の守備を固めよ。そして、小沛の玄徳殿を彭城に呼び戻し、わしが戻るまでの間、徐州全軍を総率してもらうのじゃ」 陶謙の言葉に、二人は主の意図を悟り、反対の言葉を口にしかけたのだが、結局、その口からは一言も発されなかった。 孫乾と陳登は、先の軍議で、陶謙が曹操のもとへ赴こうとした時、それに反対を唱えた。 それは、感情的な判断ではなく、きちんとした成算があってのことだった。 曹操がいかに大軍を擁するとはいえ、陶謙軍もまた、徐州、揚州に及ぶ広大な領土を有する一個の勢力であり、一朝一夕に敗亡の淵に立つことはない。 小沛の劉備に徐州軍を総率してもらえば、曹操軍を押し返すことさえ不可能ではないかもしれない。また、そこまで都合良くいかなくても、曹操軍の足を止めることは十分に可能であろう。 そうして時を稼ぎ、手薄になった兌州、許昌を狙って袁紹が動き出すのを待つ。否、待つだけではなく、袁紹に密使を遣わして、曹操の背後を衝くように依頼する。 そうすれば、曹操はいつまでも徐州に拘っていることは出来ず、遂には兵を退かざるをえまい。 孫乾たちはそう考えたゆえに、陶謙が曹操の下に出頭することに反対したのである。 理由はそれ以外にもある。 徐州の諸将は、先の軍議で、劉備の指揮下に入ることを了承したが、それはあくまで陶謙が上に立っているからこそ。陶謙が、今回の責任をとらされて討たれでもしたら、素直に劉備の指揮下に入るとは考えにくかったのである。 陶謙がいなければ徐州はまとまることが出来ず、結果、混乱で国力を漸減した挙句、衰亡への一途を辿ることになるであろう。たとえ曹操の不興を買おうとも、今、主を失うかもしれない危険を冒すことは、孫乾たちには出来なかったのである。 だが、孫乾は、そして陳登も、自分たちが曹操という人物を、大きく見誤っていたことに、ようやく気がついていた。 その軍勢の圧倒的なまでの強さ。ことに、瑯耶郡の県城を陥落せしめたという一万の騎馬部隊の機動力は、時間を欲するこちらの思惑を根本から覆すものであった。 そもそも、騎馬部隊は、軍馬の養成から、兵士の育成に到るまで、金も手間も大きく必要となるもの。反董卓連合が組織された時、噂に聞く白馬将軍公孫賛でも、率いていた騎馬部隊は五千に満たなかった。 それを考えれば、曹操が持つ一万の騎馬部隊が、いかに脅威であるかは言を待たない。しかも、この方面の軍が別働隊であることを考えれば、曹操の本隊もまた、同数、あるいはそれ以上の騎馬部隊を有していると考えられる。 劉備であれば、ある程度の時間を稼ぐことは可能であろうと楽観視していたのだが、それは戦を知らぬ文官の浅見であったことを、孫乾は認めざるをえなかった。 袁紹の下に遣わした使者はまだ戻ってきていないが、このままではたとえ袁紹が動いたとしても、それより早く、曹操が彭城に到達してしまうのは確実であった……◆◆ 陳登は小さく頭を振る。 結局、孫乾は陶謙の意に従い、曹操に和平を働きかけることに賛成した。陳登もまた、それを否定はしなかったため、すでに陶謙は病状の身をおして、小沛へ赴く準備を進めつつある。 陶謙が意識を取り戻したことで、彭城もだいぶ落ち着きを取り戻しており、その一事だけを見ても、陶謙の徳望の高さがうかがわれた。 だが、陳登は、孫乾たちと異なり、今回の決定に少なからぬ疑問を抱いていた。 正確に言えば、今回の決定というより、今後の徐州の権力のあり方について、というべきであるかもしれない。 すなわち、陳登はこう考えていたのである。 このまま、陶家を中心に据えていると、徐州全土が立ち行かなくなっていく、と。 とはいえ、その考えは、謀反を起こす、あるいは敵国へ通じるという手段を正当化するためのものではない。 陳登は、陶謙への忠誠という点で、孫乾に優るとも劣らない。それは事実である。 二人の違いは、孫乾が陶謙個人に対して忠誠を誓っているのに対し、陳登は徐州牧としての陶謙に忠誠を誓っているという点であった。 別の言い方をすれば、孫乾が陶謙という主君に従っているのに対し、陳登は徐州に住まう民に従っているとも言えるだろう。 陳登は、州牧としての陶謙に心からの忠誠を尽くしていた。それは、そうすることが徐州の民人にとって最善だと考えていたからである。 そして、その陶謙が、劉備に州牧の座を譲る意向を示したときも、それに孫乾らと共に賛意を示した。これもまた、そうすることが徐州の平穏を維持するために最善だと考えたからである。 わざわざ外様の劉備に州牧の座を譲れば、無用な混乱が起きるだろうことはわかっていたが、たとえ内部の誰かに譲るにせよ、これまでの陶謙の功績が際立っている以上、権力の譲渡には多かれ少なかれ混乱がつきまとう。陳登が劉備以外の誰かにつき、孫乾、糜竺らと対立すれば、混乱は長引きこそすれ、縮まることはないだろう。 混乱を最小限に抑えるためには、孫乾らと協力して、劉備を擁立するべき。陳登はそう判断したからこそ、孫乾らと共に積極的に劉備に働きかけたのである。 だが、陶商たちの愚行によって、全ては水泡に帰してしまった。 陶謙個人に責があるわけではない。主君にたいして不遜な物言いになってしまうが、陳登は陶謙に同情を禁じえないほどである。 だが、このまま陶家を徐州の首座にすえ続ければ、陶家の不始末は、そのまま徐州の罪となり続ける。その事実に陳登は思い至り、以来、その胸中から苦悩は去っていなかった。 陶謙の齢と、見え隠れする病魔の影。この二つを考えれば、陶家の命運と、徐州のそれを、これまでと同じように重ね合わせることの危険さは、誰の目にも明らかである。 これが平時であれば、まだ平和裏に動くことも出来たかもしれないが、今の戦況では、それも難しい。 徐州の平和を保つためには、どうするべきか。 そう考え、密かに懊悩する陳登の苦悩を、遠く揚州の地から察している者がいた。◆◆ 徐州彭城、陳登の私室。 蒋欽、字は公奕は、今、部屋の主と相対していた。 相手の名は陳登、字は元龍。徐州臨准城主として、陶謙の信頼厚い重臣の一人。 袁術に仕える蒋欽にとって、ここは敵地の真っ只中といっても過言ではない場所である。そんな場所で、徐州の高官に対して密書を差し出す。相手の心持一つで、いつ首を刎ねられてもおかしくない状況であった。 蒋欽は、もちろん、そのことに気づいている。それでも、主君である袁術と、軍師である李儒から直々に与えられた任務である。必ず果たしてみせるとの気概は、臆することなく陳登に向けた瞳を見れば、一目瞭然であったろう。 たとえ、その心中に少なからぬ疑問が渦巻いていたとしても。 つい先ごろまで、蒋欽の中で、世の中は単純なものであった。 自らを見出し、また、先の揚州牧劉遙の苛政から揚州の民を救ってくれた袁術に忠勤を尽くすこと。それが蒋欽にとってのするべきことであり、考えるべきは、そのためにはどうすればよいか、ということだけであった。 蒋欽は袁術も、大将軍である張勲も、さらには軍師である李儒や、方士である于吉も、みな尊敬していた。于吉の当塗高の予言を聞き、その意味を知ったときには、心から嬉しく思ったし、袁術が皇帝の位についたときも、万歳を唱えるつもりだった。 自分たち揚州の民を思う様に搾取し、酷使した漢王朝に比べれば、善政を布く袁術が皇帝になってくれた方が、揚州に住まう者にとっても良いことと考え、何の疑問も覚えなかったのである。 正確に言えば、今でもそう考えてはいる。だが、先日までは存在しなかった疑問もまた、蒋欽の中に生じていた。 その切っ掛けとなったのは、やはりあの孫家の粛清であろう。 もし、蒋欽があの時、城内におらず、後から城の発表を聞いただけであれば、驚きはしても、疑い惑うことはなかったかもしれない。 孫家が玉璽を私し、それを袁術が咎めても改めず、遂には剣をもって叛逆に踏み切ったという袁術の筋書きは、全てが嘘偽りというわけではない。そのことを、あの時、寿春城内にいた蒋欽は知っているからである。 だが、粛清に到る一部始終を目の当たりにした蒋欽は、それまで無謬と信じていたものに、かすかな疑義を感じるようになっていた。 それは嫌悪と称するには薄弱で、反感と称するには曖昧な、けれど決して肯定ではない感情。 袁術と、その側近たちを見る目に混ざり始めた濁点を、まだ蒋欽は明確に意識してはいなかったが、それでも今までのように、袁術への忠勤に一途に専心しきれない自分を、蒋欽は感じていたのである。 一方で、袁術からの密書を読む陳登もまた、内心に懊悩を抱えているという点では、使者である蒋欽と大差はなかった。 袁術の提案はありふれたもので、要するに、陳登を徐州牧に任命するから、仲に従え、という要求である。 陳登は考える。 袁術が、この提案を孫乾や糜兄弟ではなく、自分にしてきたのは何故か。 陶謙の廷臣という立場である彼らと違い、臨准城と固有の武力を抱える自分を引き抜いた方が効果的だと考えたのか。 それとも――陳登が内心で抱えている迷いを、見抜いた上でのことなのか。 後者だとすれば、偽帝といえど侮れぬ。 そんなことを考えながら、密書の表面を撫でる陳登の視線は、じつのところ、そのほとんどを捉えていなかった。 徐州の現状。主陶謙への忠節。その子息の処断。迫る曹操の軍。それと命がけで戦っているであろう劉備軍。袁術からの密使。いくつもの事柄が陳登の脳裏をよぎり、音をたててぶつかりあう。 陳登が望むのは徐州に生きる者たちの平穏である。そのために、今、どう動くべきなのか。 誰もが満足する結末は、すでに存在しない。そこに到る方途もない。であれば、陳登が守りたいものを守るために、そして望む未来を得るために、効率良く行動していかなければならない。 誰を、あるいは何を守り、何を、あるいは誰を犠牲にするのか。 ――やがて、陳登は蒋欽に向かって、ゆっくりと口を開いた。 ◆◆ 徐州で起こった惨劇を契機とした争乱は、ついに戦火へと発展し、周辺諸州を巻き込んだ大火になろうとしていた。 小沛城に、玄徳様曰く「お留守番」の身となっていたおれは、留守居の諸葛亮や張角たちと共に、その大火を鎮めるべく、城中を駆け回っていた。 ――決して、貂蝉の料理から逃げ回っていたわけではない。いや、逃げられるものなら逃げたかったのだが、そうすると張角たちどころか、董卓や賈駆、王修までが包囲網に加わってくるので、余計に大事になってしまうのである。 劉備軍の人員のほとんどが、対曹操戦に出陣している今、城内のいたるところで人手が不足しており、みな、懸命に働いている。その上に、おれのために迷惑をかけるわけにもいかない。 よって、貂蝉曰く「愛と精気のたっぷりこもった」料理が並べられた食卓を、おれは甘受していたのである。 実のところ、貂蝉の料理は、癖の強さと見た目の悪さをのぞけば、案外美味かった。くわえて、見た目の悪さも、弱ったおれの身体のことを考え、精のつくものを選んだためであったらしい。これは、食後の杏仁豆腐をつくってくれた劉佳様がこっそり教えてくれた。謝謝、貂蝉。 彼らのおかげで、おれの体調は少しずつではあるが、戻り始めているようだ。食欲も、眠気も、まだ薄いとはいえ、時に応じて身体をノックするようになっていた。 だが、徐州の情勢の方は、一向に好転の兆しさえない。 迫り来る曹操軍。まとまらない徐州勢。そして、おそらくは後方で爪を研いでいるであろう袁術軍。 戦況は、正直、絶望的といっても過言ではないだろう。 だが、それでも、おれは何とかなると考えていた。おれが劉家軍に加わってよりこの方、不利な状況に陥ったことは一再ではない。それでも、玄徳様を筆頭に、皆で何とかしてきたのだ。まして、今や玄徳様の勢力は、人材の数、質、兵力いずれをとっても旗揚げの頃とはくらべものにならない充実ぶりである。 これで何とかならないわけはない。 事実、陶謙は意識を取り戻し、わずかとはいえ状況に光が差してきている。徐州の残余の戦力を小沛に集結させれば、いかに曹操軍が巨大とはいえ、食い止めることは不可能ではない。 あとは襲撃に加わった連中を全てひっとらえて曹操に突き出し、何とか和平に持ち込む。あるいは領土の一部を割譲しても良いだろう。曹操がどうしても和平を肯わないようならば、河北の袁紹を頼んでも良い。 どのような手段であれ、曹操を退かせることが出来れば、南の袁術が攻めてきても、対抗することは可能である。 この考えは、根拠のない妄信ではない。諸葛亮もまた、おれと似たようなことを考えていたことからも、それは明らかであった。 もっとも諸葛亮のそれは、おれよりもはるかに具体性に富んだものであったが、いずれにせよ、徐州がまとまり、曹操と和し、袁術に抗する。その方針は、多くの人が共有するところであったのだ。 陶謙の意識が戻った。その吉報が届いて間もなく、小沛城に鳳統からの急使が訪れ、おれたちは玄徳様たちの敗戦を知った。 小沛に入城してからこちら、関羽、張飛ら将軍たちによって鍛えられ、見違えるほどに錬度を高めた劉備軍であったが、曹操軍の猛攻を遮ることは出来なかったのである。 その知らせを受け取るや、諸葛亮はすぐさま小沛の守備兵力から、増援の部隊を送り出した。 とはいえ、ほとんど全力出撃であった為、小沛城内に余剰兵力は存在しない。援軍に出せた人数は、千にも満たないものだった。 そして、その程度の数が加わったところで、勢いを盛り返すことが不可能なのは、誰もが理解するところである。 くわえて、それだけの人数を出せば、ただでさえ手薄になっている小沛城の防備が成り立たない恐れさえあった。 それゆえ、諸葛亮は彭城に向けて、援軍を求める使者を送ったのである。陶謙が意識を取り戻した今ならば、あるいは諾の返事が得られるかもしれないと考えて。 だが、曹操軍の進撃は、その間も止まることはない。 玄徳様は小沛城からの援軍と合流すると、州境から小沛城の間に点在する砦や陣地を拠点として、曹操軍の進軍を止めようと試みた。だが、兵力差は依然として大きく、策を用いようにも、あの曹操に夜襲や奇襲を許す隙がある筈もない。 かといって、正面から矛を交えても、鉄の壁に槍を突き立てるようなもの。かえってくるのは、欠けた鉾先と腕のしびれのみであろう。 双方、卓越した智者を擁する両軍の激突は、しかし、互いの兵力を叩き付け合う凡庸な力押しの戦となっていた。 もとより、兵力のぶつけ合いならば、数に優る曹操軍の勝利は揺るがないという事実がある。 漢帝より勅命を受けた軍が、小沛の寡兵ごときに、わざわざ小細工を弄するまでもない。 そんな確かな自信に裏打ちされた、曹操軍の堂々たる進軍を前にしては、いかな鳳統といえど、容易に付け入る隙がない。 結果、劉備軍は善戦しつつも後退を余儀なくされていったのである。 潮が満ちるように、ゆっくりと、しかし着実に徐州領内への侵攻を続ける曹操軍。もはや劉備軍に残された手段は、小沛への篭城しかないかと思われた矢先。 小沛城に、一騎の早馬が駆け込んできた。 その早馬は彭城からのもので、おれたちはその使者が、先の諸葛亮の増援要請に対する陶謙の返事を携えてきたものとばかり考えていた。 疑いなく信じてしまったのは、おれたちが彭城の動きに気づいていなかったことの、何よりの証であった。 覇王曹操。 偽帝袁術。 成り立ちこそ異なるが、いずれも乱世に雄なる者。 中華を席巻せんとする両雄の光輝は、相対する者の目を灼かずにはおかない。その両雄に前後をふさがれる形となった劉備軍が、彼ら以外の勢力、まして味方である筈の徐州に目配りが行き届かなかったとしても、それは仕方のないことだったのかもしれない。 ――そう我が身をかばいたくなるほどに、このとき、劉備軍に迫っていた危機は巨大なものだったのである。 だが、それとてもまだ序章であったことを、おれは知る。 真の始まりは、おれたちの眼前に、人の形をして現れた。「こ、公祐殿ッ?!」 あらわれた急使の姿を見て、諸葛亮をはじめ、おれたちは驚きを隠せなかった。 そこにいたのは、彭城で政務をつかさどっている筈の孫乾であったからだ。しかも、その出で立ちは、髪は乱れ、服はほつれ、孫乾本人は息も絶え絶えという様子であったから、なおさら驚かざるをえない。 そんなおれたちを前に、孫乾は、前置きもなく彭城で起きた一大事を告げた。 ――徐州牧陶謙、崩御す。 ……劉家軍が分裂を余儀なくされることになる、苛烈な退却戦が始まろうとしていた。