少し時が進む。 江南のとある都市の一画。 おれはふとした拍子に、世話になっている医者に徐州での出来事を話す機会があった。 人を殺したという事実が、無意識のうちに、おれの心身に変調を及ぼしていたことを知ったその医者は、真顔で言った。「そうか。玄徳殿は、一刀の命の恩人なんだな」 そして、突然の言葉に驚くおれに向かって、医者はその理由を説明してくれた。「病は気から、というだろう。はじめて戦場に出た兵士が、体調を壊すことはめずらしくないんだ。これの厄介な点は、一刀がそうだったというように、本人に自覚がないところだな」 彼はこれまで、多くのそういった患者を診てきたのだという。 人を殺した自責の念で、自分の殻に閉じこもる者、あるいは戦場の狂気に蝕まれ、精神の均衡を崩す者のように、はじめから重度の症状を示す者もいるそうだが、ほとんとは、おれのように、食欲の減退、睡眠の不足などの、一見したところ、大きな異常とは思われないささいな症状から始まるらしい。 いずれも、患者本人は、戦場での高揚感が持続しているだけだろうと気にも留めない場合が多いのだそうだ。事実、おれがそうであったように。 だが、それが一定の期間にわたって続くと、状況が大きく変わる。 食欲がない状態が、普通の状態になってしまうことにより、ご飯を「食べたくない」から「食べられない」に変化してしまうのである。 腹が空かないため、食物を口にする回数が減り、量も少なくなり、その状態が続いた結果、ついには身体が食物を拒否するようになってしまう。いわゆる拒食症にも似た症状である。 この状態に到ると、無理に食べ物を口にしても、身体が拒絶して嘔吐してしまうようになる。体調の維持に必要な栄養が補給できないのだから、心身に影響をきたしてしまうのは必然であり、それが高じれば、いずれ命に関わる事態になる。 ましてこの時代、おれがいた日本のように点滴や注射で栄養を補給する技術は存在しない。食べ物を食べられなくなれば、冗談ではなく、すぐに栄養失調から、衰弱死に到ってしまうのだ。 死に到る病。 その医者は――華佗は、おれがそのまさに一歩手前にいたのだと、そう言った。 そう指摘されて、おれは声もなく頷くことしか出来なかった。 本物の医者に言われると、説得力が違う。あの頃は、自分がそれほど危険な状態であったという自覚はまるでなかった。 もっと言えば、そんなことにこだわっている余裕さえなかったのだが。 時代の乱流に翻弄されっぱなしだった徐州時代のことを思い起こし、おれはかすかに首を振った。今では離れ離れになってしまった人たちの表情や言葉が、昨日のことのように脳裏をよぎる。 そんなおれの様子に気づいているのか、いないのか。華佗はいつものように、熱い気迫を込めた声で、力強くおれに向かって口を開く。「再会できたなら、きちんと玄徳殿に礼を言っておくんだぞ。もし、そのまま放置していたら、本当に命を失っていたかもしれないんだ」「もちろん、玄徳様には感謝してますよ」 その名を口にするたびに、胸に鈍い痛みがはしるが、おれは首を振って、胸中の想いを振り払う。そして、いささかわざとらしく、華佗に向かって話しかけた。「そ、そういえば、元化(華佗の字)殿なら、そういう患者はどうやって治療するんですか?」 そう訊ねたのは、これ以上、玄徳様の名を耳にしたくなかったからだった。 すると、華佗はあっさりとおれの話に乗ってくる。「一刀。五斗米道の教えに死角はない。数千の時を経て、研ぎ澄まされた我が鍼の力で、治せぬ病などありはしないッ!」 大きな効果音と共に、背後になにやら炎を燃え盛らせて、おれに向かって断言する華佗。 あれ、たしかさっき、死に到る病がどうとか言っていたような……? しかし、華佗はおれの疑問にかまわず、自分の言葉が偽りでないことを実証しようと、行動に移っていた。 懐から取り出した一本の鍼。今、華佗はその小さな鍼に向け、巨大な氣を送り込む。 そういったものとは無縁のおれにさえ感じ取れる、圧倒的なまでの氣の大きさ。 中華一との呼び声高い名医、華元化の、これが実力なのか。「うおおおおおッ! 我が身、我が鍼と一つとなり! 一鍼同体! 全力全快! 必察必治癒……病魔覆滅――げ・ん・き・に、なれえええええええッ!!!」「はぐぅッ?!」 氣のこもった鍼に身体を貫かれ、おれはその熱さに思わず叫び声をあげてしまった。 そんなおれを見た華佗は、今の今までの勢いを綺麗に消し去り、ただ一言、しずかに呟いた。「――病魔、退散」「い、いや、そもそもおれは病気じゃないんですが……って、うおおお、なんか腹減ってきたああッ?!」「天枢という経穴を突いた。身体の臓器の働きが活発となり、滞っていた氣の流れが、音をたてて動き出したんだ。その食欲は、そのためのものさ。一刀は、食が細いからな。倒れるほどじゃないが、そのままだと、身体に良くないぞ」「な、なるほど、てかすごい勢いで腹の虫が鳴っているッ?! 元化殿、ちょっと飯店に行ってきますッ!!」「おう、たらふく食べてきてくれ。施療院は、おれ一人でも何とかなるからな」 にこやかな笑みで手を振る華佗に見送られ、おれは襲い掛かる空腹感にたえながら、なじみの飯店に直行したのである。 緑豊かな江南の都市に、長江から清涼な風が運ばれてくる。 これは、そんな穏やかなある日の出来事であった。◆◆ そして、徐州、小沛城に時は戻る。 この時のおれは、数年の後に、そんな出来事が起こるとは露知らない。 それに、目の前の問題を片付けることに精一杯で、他のことに気を配る余裕も持っていなかった。 目の前の問題とは何か? それはすなわち。 じー、と。 料理の盆を前にしたおれを、じっと見つめる玄徳様であった。 おれが口にするまで、梃子でも動きません、と言わんばかりである。「あの、玄徳様。まことに申し上げにくいのですが、そう見つめられると、とても食べにくいのですけど?」「じー」 今度は口に出して、じーっと見つめられてしまいました。 案外、お茶目な玄徳様である。 聞く耳もちません、という意思表明なのかもしんないが。 さすがにここまで玄徳様に強いられては、この料理、口にしないわけにはいかなかった。 相変わらず食欲はなかったが、それでも半ば無理やり、口に詰め込む。「ぐッ」 一瞬、反射的に、口の中のものを吐き出しそうになってしまったが、そんなことをすれば、目の前の玄徳様に肉やら野菜やらが降り注ぐことになってしまう。気合で我慢し、咀嚼し、水と一緒に咽喉の奥に流し込む。 ふーっと息を吐き出したおれだったが、今宵の玄徳様は容赦がなかった。「はい、じゃあ次はこれなんかどうかな。ぴりっとした辛味が効いてて美味しかったよ」「了解っす」 言われるがままに、玄徳様の指す皿に箸を向けるおれ。 今度は吐き出しそうになることもなく、きちんと咀嚼できた。確かに、玄徳様の言うとおり、辛味が素材の味を引き出しているところが美味である。 ちなみにこの料理、劉家軍の料理人たちがつくっている。琢郡の県城で召抱えた人たちのことだが、軍中の保存の効いた食材からでも、あれだけ美味いものがつくれる彼らであれば、城の新鮮な材料をつかえば、より以上に美味しいものがつくれるのは当然といえば当然であった。 気がつけば、玄徳様にすすめられる前に、おれは皿に箸をのばすようになっていた。数日間、ろくに食べていなかった影響が、ようやくあらわれたのか、おれはかなりの空腹を自覚した。自然、箸は勢いをまし、皿の上をめまぐるしく動き出す。 そんなおれの様子を、玄徳様はわずかにまなじりを下げ、優しい眼差しで見つめていた。 そうして。 玄徳様が持ってきてくれた料理の全てが、おれの腹におさまると、今度は眠気の方が襲い掛かってきた。牛になるぞ、おれ、と言い聞かせても、ちょっと堪え切れないくらいに強い。 考えてみれば、ほとんど食べなかった以上に、ほとんど眠っていないんだよな、と思い出す。 自然に、大きなあくびが口からこぼれでた、おれの顔を見た玄徳様は、やっと安心できた、とでも言うように、柔らかい表情で微笑み、ゆっくりと口を開く。「色々といいたいことはあるんだけど、それは帰ってきてからだね。今は、一刀さんに一つだけ命令するよ」「……はい」 寝ぼけ眼のおれを見て、玄徳様は笑みを引っ込め、真剣な顔でおれに注意を与える。「一刀さんは、多分、まだしばらくは、食欲もなくなるし、眠るのも難しいままだと思う。でも、そんな時でも、今みたいに無理やりにでも、これまでどおり、きちんと食べて、きちんと眠ること。少なくとも、そうするように努めること。身体をこれまでどおりに保っていれば、いずれ心の方も落ち着いてくる筈だから」 私もそうだったしね、と玄徳様は小さく呟くが、すでに意識を手放しかけていたおれは、その言葉を聞くことが出来なかった。 後から思えば。 この時、おれがしっかりと玄徳様の言葉を聞いていたならば、この後のおれの彷徨はなかったかもしれない。 おれは、玄徳様が、前線で剣を振るって戦ったためしを聞いたことはない。おそらく、玄徳様は、その手をじかに敵の血で浸したことはない筈だ。 その玄徳様が、おれと同じような症状を抱えたことがあるということの意味。 この時、それを知ることが出来ていれば、あるいは―― だが、それは訪れなかった未来。かなわなかった可能性。 朦朧とした意識の彼方で、玄徳様の声を聞いていたおれは、ここで一つの可能性から手を離す。「おやすみ、一刀さん……」「……おやすみな、さい、です……」 その一言を呟くや、おれの意識は瞬く間に闇にのまれていったのである。◆◆ そして、起きたら、日が暮れてました。「……はい?」 思わず、呆然と呟くも、それで時間が巻き戻る筈はなく。 おれは、地平線に没しようとする茜色の夕陽を呆然と眺める。 就寝したのが、昨日の夜。 国境への出陣は、今日の朝。 そして今は、夕方である。 どれだけ否定しようとも、あの夕陽が、おれに現実を突きつけてくるのだ。 つまるところ、おれは――「寝過ごしたーッ?!」 室内に響き渡る悲鳴は、他の誰でもなく、おれの口から出たものであった…… 当然というか何というか。 小沛城はとても閑散としていた。 玄徳様は、小沛の三万の軍勢を引きつれ、とうのむかしに出陣した後だったからだ。「あ、一刀さん、おはようござ――って、もうおはようっていう時間じゃないですね」 呆然と立ち尽くしていると、小さな人影が駆け寄ってきて、おれにそう話しかけてきた。「あ、孔明、か。えっと、だな」 何からたずねたものか、と寝起きでうまく働かない頭を小突くおれ。 そんなおれに、諸葛亮はくすりと微笑み、口を開く。「『今回は、一刀さんはお留守番♪』」「ぬッ?」「玄徳様からの伝言ですよ」 にこにこと笑う諸葛亮の顔を見ているうちに、おれはようやく事の次第が飲み込めてきた。 そう、これはつまり。「――孔明の罠?」「むしろ、玄徳様の罠ですね」 そういうと、ちびっこ軍師は三度、微笑みをおれに向けたのである。 諸葛亮が城に残ったのは、出陣した主力の後背を固めると共に、小沛城に篭城する場合に備え、防備を整えておくためである。 武器、糧食はもちろん、陣地構築用の資材や、負傷兵のための医薬品など、防戦のために用意しておくべきものは、枚挙に暇がない。 とはいえ、諸葛亮や鳳統、おまけに賈駆まで揃った劉家軍の軍師たちである。当然、こういう戦況になる前からそういった物資は蓄えられており、正確な目録が記され、いざというときの搬出の準備まで遺漏がない状態で、まさしく備えあれば憂いなし、という感じだった。 だからこそ、こうやって、おれと話している暇もあるのだろう。「当然、一刀さんが無茶しないよう、玄徳様にも頼まれてますから」 えへん、とばかりに胸を張る諸葛亮。その得意げな様子に、おれは思わず微笑をこぼしてしまったが、次の瞬間、慌しい足音と共に、この場に現れた兵士の報告を聞き、その微笑はたちまち吹き飛ばされる。「申し上げます、彭城の孫乾殿より、火急の使いが参っております」「火急、ですか。孫乾さんが慌てるなんて――もしかして」 諸葛亮の言葉を肯定するように、その兵士が叫ぶように言った。「彭城の、陶州牧の意識が戻られたとのことでございますッ!」 その言葉に、おれは両の目を大きく見開いた。 つい昨日まで、彭城は主である陶謙が倒れ、情勢を主導するべき人物が不在のまま、曹操軍の侵攻に備えていた。 一応、孫乾たちが他の家臣を抑え、曹操との対決姿勢を打ち出しているのだが、一廷臣である孫乾では他の者たちを抑えるにも限界がある。 事実、小沛城には、他からの援軍や物資などは届いておらず、ほとんど孤軍で戦うことを余儀なくされていた。陶謙が健在であったなら、今頃、小沛は他の徐州の軍勢であふれかえっていてもおかしくはないことを考えれば、陶謙の病状は、今後の徐州の運命に直結すると言ってよかった。 その陶謙の意識が戻ったというのであれば、それは吉報に他ならない。 本来なら、すぐにも玄徳様は彭城に戻るべきであった。 陶謙が健在なうちに、指揮系統を一つに束ねておかないと、今後の情勢に対応できなくなってしまうからである。 聞けば、曹家襲撃時に彭城で行われていた会議では、袁術戦における玄徳様の指揮権の優越がほぼ認められていたらしいが、件の襲撃以降、その決定は事実上保留扱いになってしまった。この際、袁術戦に限らず、劉家軍を徐州軍の上に据える決定をしてもらえないものか、とおれが考えた、その時。「あーら、ご主人様、目を覚ましたのねん。ちょうどよかった、このあたしの愛と精気がたっぷりこもった晩御飯が、ちょうど出来上がったところよん」 その声と、姿と、そしていまだ遠く離れているにも関わらず、何故だか鼻を刺激する独特の匂いを瞬時に嗅ぎわけ、おれは咄嗟に踵を返す。 すると、そこには。「――一刀、どこにいくの?」 いつのまに近づいていたのだろう。そこにいたのは、無表情で佇む張角であった。 いつもの微笑みは浮かんでおらず、いつぞや垣間見た、あの怜悧な眼差しが射抜くようにおれを見据えている。 その顔は、どうみても怒っていた。 心当たりは――まずい、山ほどある。 前後を封じられたおれは、咄嗟に左右を見るが、すでにそこには、張宝と張梁がしっかりと立ちはだかっている。 冷や汗を流しつつ、その場から動けなくなるおれの背後から、肩に手がかけられた。「つかまえたわよ。さあ、ご主人さま、遠慮は不要。おかわりも十分に用意してあるわ。存分に、ご堪能あそばせ♪」 ――その貂蝉の声に、おれは、もうなんか色々諦めざるをえなくなってしまった。 それでも、その視線が最後の希望を探すかのように貂蝉が持つ盆へと向かい――その上に並ぶ、黒こげになった山椒魚にしか見えない焼き物や、得体のしれない煙をあげる炒飯や、何故だかぐつぐつとぶきみな泡をたてながら沸騰している濃緑色の飲み物を見て、おもわず悲鳴じみた声をあげてしまうのだった……◆◆「ん? 愛紗ちゃん、今、一刀さんの声がしなかった?」「は? いえ、桃香様、お気のせいではありませんか。私は何もきこえませんでしたが」「そ、そう? おかしいなあ……」 首を傾げた劉備であるが、すぐにその視線を眼前の軍勢に戻した。 地平の果てまで続くかに見える将兵の大軍。林立する軍旗には『曹』『夏侯』『張』といった名が大書され、それらが風に翻る様は、相対する軍に恐るべき威圧感を与えるであろう。今、劉備たちがそうであるように。 曹操軍十万。対するは徐州軍三万。 数の上では、比べるべくもない差が存在する。そして報告にあったとおり、曹操軍の士気と錬度は恐ろしいほどに高い。今でこそ、整然と静まり返っているが、一度命令が下れば、彼らは鉄血の海嘯となって徐州領内に殺到してくるであろう。 その曹操軍の先頭に、今、ゆっくりと馬を進ませてくる人物の姿があった。 腰に差すは倚天の剣。その身をあずけるは中華屈指の名馬、絶影。 吹き付ける風に黄金の髪をなびかせながら、勁烈な眼差しを緩めることなく、劉備の姿を見据えるその者の名は、曹孟徳という。 曹操が進み出るに従い、劉備もまた前に出る。 関羽が後に続こうとするが、それを手で抑え、一人、曹操と対峙するために馬を進ませた。 そして。 三国時代を代表する二人の英雄は、はじめて、歴史の表舞台でぶつかりあう。 両軍あわせて十万をはるかにこえる将兵たち。その全てが見つめる中で、まず口火を切ったのは、曹操だった――