「事破れた上は、その薄汚い命で償えッ! 殺してやるぞ、貴様らァッ!!」 疑いなく、それはおれの人生で最大の激語だった。 自らが死地に飛び込んだことを理解しながら、しかし、おれの中にそのことを悔いる感情は沸いてこない。 猛り狂う感情の荒波が、総身を駆け巡り、恐れも、怯えも押し流し、四肢が思うように躍動する。 全ての意識が、ただ一つのことに向けて、研ぎ澄まされていくようだった。 ただ一つのこと――目の前の相手を殺すことだけに。 おれは、雷薄に向けて、続けざまに剣を繰り出していった。 だが。 おれの目の前にいるのは、その品性が、どれだけ下劣であろうとも、意志を持った一人の人間。それも、戦場を踏んだ場数、殺し合いの経験で言えば、おれとは比べ物にならない歴戦の賊将である。 その賊将は、僚将二人が討たれ、なお呆然としているような腑抜けではありえなかった。「調子に乗るなよ、小僧ッ!」 こちらの攻撃を凌いだ雷薄は、声高に吠えると、一転して攻勢に転じてきた。 当初、雷薄はこちらの剣を防ぐことに終始していた。おそらく、僚将二人を瞬く間に討ち取ったおれの技量を、過大評価していたのだろう。 だが、今のおれは、はじめて殺し合いの場に出てきた新兵に過ぎぬ。技量とて、知れたものだ。 賊徒とはいえ、一軍を率いる将である雷薄にとって、おれの実力を見破ることは、さして難しいことではなかったのだろう。 小沛城で見学した、関羽たち劉家軍の将軍たちの稽古。その時に見た、流麗な、あるいは力強い攻撃と比すれば、目の前の雷薄のそれは恐れるに足らない。その太刀筋は粗く、攻撃は単調だ。関羽や趙雲たちならば、苦もなく雷薄を切り伏せることが出来ただろう。 しかし、おれにとって、雷薄は脅威を感じざるをえない敵であった。その荒々しい攻撃にこめられた敵意と殺意は、紛れも無い本物。風を裂いて襲い掛かる一太刀一太刀に、死の匂いがまとわりつき、おれの脳裏にけたたましい警告を響かせる。 自分を殺そうとする人間が、目の前で凶器を揮っている姿は、あまりにも禍々しく、背筋に氷柱をつきたてられたような感覚さえ覚えてしまう。雷薄の攻勢をかろうじて凌ぎながら、おれは一歩、また一歩と後退せざるをえなかった。 相手を殺す。ただそれだけに集中していてなお、この体たらくである。まして、敵は、目の前の雷薄だけではない。周囲には、なおも百名を越える賊徒がいるのだ。このままでは勝てないことは、火を見るより明らかであった。 だが、そんな窮地に立って、なお、おれは平静を保ちえていた。それは、彼我の力量の差を、誰よりもおれ自身が承知していたからである。 灼けるような怒りに胸奥を焦がしながら、凍るような冷静さで戦況を見据える自分がいて、その冷静な部分が認めていたのだ。 もう、小細工は通じない、と。 陳蘭と張凱を討ち取ったとはいえ、おれがしたのは、騙まし討ちに不意打ち。誇れるような戦い方ではない。 逆に言えば、おれにはそうすることしか出来なかった。怒りに任せ、真っ向から戦いを挑んだところで、勝ち目などないとわかっていたから。 どれだけ望んでも、闇夜を裂いて、援軍があらわれる奇跡が起こりえぬならば。 どれだけ猛り狂おうと、激情の奥底から、新たな力が湧き出ぬことも、また道理。 おれが引き出せるのは、おれ自身の力だけ。英雄ならざるおれに、百名の賊徒を蹴散らすような底力は望みえないものだった。 乱世は、そこまで優しい世界ではない。 その現実を突きつけようとでも言うかのように、剣撃をかわす度、雷薄の顔は余裕を取り戻していった。 勝てる、と思っているのだろう。 そして、それは事実であった。今なお、圧倒的に有利なのは雷薄なのである。彼我の力量差以前に、周囲を囲む百名近い賊徒が戦いに加われば、おれの身体は数秒で肉片に変じてしまうだろう。 これまで積み重ねた鍛錬が、戦況を覆すこと叶わぬならば、この場に倒れるのは、賊ではなくおれ自身。 それこそが、乱世の理。強き者が勝ち残り、弱き者が踏みにじられる、弱肉強食の現実である。 それを理解していながら、何故、勝ち目のない戦いに身を投じたのか。 繰り返すが、おれには、百名の賊徒を蹴散らす力などない。 万の兵に匹敵するといわしめた関羽や張飛、その百分の一の力さえ、おれにはない。 ゆえに、戦況を覆すことかなわず、この地で命を失うのが、おれの運命であり、従容としてそれを受け入れたがゆえに、おれは平静でいられるのだろうか?「はは、そんなわけあるか」 おれは、はっきりと声に出して笑った。脳裏によぎった考えが、あまりにおかしかった。戦況を覆すために、この場の賊徒すべてを倒す必要なんて、どこにもない。 突然笑い出したおれに向けて、雷薄が嘲りの言葉を吐き出した。「狂ったか? だが、容赦などせん。小沛の雑兵風情が、よくも好き勝手やってくれたものだ。何故ここにいるかは知らんが、貴様はここで殺してやる。そして、貴様の生首、劉備めの眼前に晒してやろう。それとも、貴様の眼前で劉備めを辱めるまでは生かしておいてやろうか。どちらでも好きな方を選んでかまわんぞ」 勝利を確信した雷薄が、何やらわめきたて、おれに嗜虐的な笑みを向ける。その表情を見れば、雷薄がこれまで敗北した者をどのように扱ってきたかが知れるというものだった。 その雷薄に対し、おれは一言も言い返さなかった。 怯えたわけでは、無論、ない。かといって、先刻のように怒りに震えているわけでもなかった。 深化した戦意と殺意を込めて、ただ、雷薄の姿を見据えていた。 そんなおれの沈黙をどうとったのか。雷薄が、さらに嘲りの言葉を吐こうとする。「どうした、恐ろしくて言葉も出ないか。だが、今更、容赦など――」「黙れよ、下衆」「――なんだと、てめえッ?! 今、何て言いやがったッ」 使い古された反駁の表現に対し、おれは、苦笑を禁じえない。その顔が、さらに雷薄の激怒をかってしまうが、気にする必要はないだろう。 おれは、古今の兵法に通じているわけではなく、あらゆる時代の戦法を熟知しているわけでもない。 だから、この時、おれの脳裏によぎったのは、元の世界の知識ではない。 少数の兵で多数を破るを邪道としながら、それを完璧に再現してのけた、年下の軍師たち。あれは、劉家軍の旗揚げ間もない、五台山の戦の時であったか。 百倍近い兵力差を覆したあの戦い。 劉家軍は、まず敵を挑発し、山砦へと誘き寄せた―― 「下衆と言ったんだ。雑兵風情? ではその雑兵に苦戦するおまえは、雑兵以下ということだな」 おれは意識的に口元に嘲笑を張り付かせる。 雷薄の顔は、今や赤を通り越して、くすんだ黒色に変化していた。 それを見て、おれはなおも言葉を続ける。「武器を持たぬ者しか相手に出来ぬ下衆どもなど、たとえ何百人集まろうと、劉家軍の敵ではないッ! 身の程を知れ、たわけッ!!」 おれは、嘲りの笑みを、勁烈な叱咤へと変じさせ、雷薄を挑発する。稚拙な手段ではあったが、興奮の極みに達した雷薄には、十分すぎるほどの効果があったらしい。おれの顔を見据える雷薄の両眼が、瞬時に赤く染まった。眼球の毛細血管が、昂ぶる感情で灼き切れたのだろう。「貴様ァッ!!」 怒号と共に、雷薄の体躯が、勢い良く前に出る。 豪剣が唸りをあげて襲い掛かってきた。 雷薄の攻撃を、おれは一見、事も無げに。しかし、内心では細心の注意を払って、受け、払い、凌いでいく。 挑発によって、雷薄の攻撃は、これまで以上に猛々しいものへと変じていた。受け損なえば、手足の一本や二本、容易に刈り取られる攻撃だ。 だが、その代わり、雷薄の太刀筋は、おれの目にさえ稚拙と映る程度のものに成り下がっていた。もはや雷薄は、昂ぶる感情に従い、力任せに剣を振り回しているだけに過ぎない。 その雷薄の猛攻を凌ぎながら、おれは自分自身に問いかける。 元の世界で、親父や爺ちゃんに半ば強いられた剣術の稽古。 こちらの世界に来て、死にたくないがために、繰り返した鍛錬。 おれが、これまで積み重ねてきたものは、この場の賊徒、全てを打ち倒すにはほど遠いものであるだろう。それは認めざるをえない事実である。 だが、しかし。 目の前の、怒りに我を忘れた賊将一人を上回れないほど、おれが積み重ねたものは小さなものだったのだろうか。 武術の技量はもちろんのこと。 親父や爺ちゃんに鍛えられた精神は。 玄徳様たちと乱世を駆け抜けてきた経験は。 眼前の賊徒一人に砕かれる程度の代物だったのか? 否、断じて否。 たとえ万人が肯おうと、決しておれは認めない。 乱世の理が、それを是と断じるというのなら、おれは、おれの誇りを以って、乱世の理を覆す。 目の前の相手を殺し、この窮地を脱することで、おれはそれを証明する。 そのための方法を、おれは知っていた。 少数が多数を破る要諦。挑発は終えている。敵は眼前にあり。残る行程はただ一つ――それは、ただひたすらに、敵の指揮官を討つことのみ! 雷薄の猛撃を受け、おれの歩調がわずかに乱れた。 それを好機と見てとったか、それまでも大振りを繰り返してきた雷薄が、それよりもさらに大きく振りかぶる。これで決める、と宣言するように。 剣が振り上げられた。そう思った時には、その剣は猛然と振り下ろされていた。 おれの身体を真っ二つに断ち割らんと、唸りをあげて迫り来る雷薄の剣。それを見て、おれはその剣撃が避けられないことを知る。 立ち止まって受け止めようとしても、雷薄の膂力は、構えた剣ごと、おれの身体を断ち割るだろう。 後ろに退こうと、その剣先は、おれの身体を捉えるだろう。 ――それゆえ、おれは前に出る。 雷薄の剣刃が、泥に汚れた甲冑を打ち砕き、おれの右肩に食い込んでくる。だが、刃の根元であったことが幸いし、振り下ろされた剣勢のほとんどが殺がれる形になった。「ちィッ!」 必殺を期した一撃をしくじった雷薄の口から、痛烈な舌打ちがもれる。 逆に、おれは飛び込んだ勢いを減じることなく、雷薄に身体ごとぶつかっていった。 大振りの剣を振り下ろしたばかりの雷薄は、その勢いを殺すことが出来ず、後方にたたらを踏む形となる――そこに、致命的な隙が生じた。「な――ッ?!」 そのことに、当の雷薄も気づいたのだろう。愕然としたような呻きが口からこぼれでた。 無論、おれが攻撃をためらう理由は存在しない。 おれは、自らの剣を雷薄に向けた。「ま、待――」 何か言いかける雷薄。その口に、おれは渾身の力を込めて、剣を突き刺す。もはや、一言たりとも、貴様の言葉を聞くことに耐えられぬのだと、そう告げるために。 剣刃は、歯を砕き、舌を貫き、口腔を切り裂き、なおも止まらず、進み続け――頸の後ろから、刃の先端が飛び出した。 雷薄の身体が、雷薄自身の意思によらず、二度、三度と痙攣する。おれはその胴に足をかけ、力任せに剣を引き抜くと、雷薄の身体を地面に蹴り倒した。 どう、と音を立てて崩れ落ちる雷薄の身体。 地面に倒れこんだ時、すでに雷薄の眼からは、意思の光が消えうせていた。 三人の賊将を討ち取ったおれは、小さく息を吐いた。 一人目の陳蘭は騙し討ち。 二人目の張凱は不意打ち。 三人目の雷薄とは、ようやく正面から戦ったものの、結果は運に味方された上での、かろうじての勝利。 胸を張れるような戦果ではないが、おれにしては上出来の部類だろう。もう一度同じことをやれといわれても、おそらく無理だろうし。 だが、そんなことより、問題なのは、今なお周囲を取り囲む賊徒だった。 ゲームであれば、敵将を一騎打ちで討ち取れば、その配下の兵は霧散するものだが、さすがに現実では、そううまくはいかないようだ。 とはいえ、さすがに、目の前で大将格を三人、一度に討ち取られてしまったことは、賊徒に大きな脅威を与えていた。 血まみれのおれの姿に向けられる視線には、畏怖さえ混じっていたかもしれない。 今、必要なのは武力ではなく、演技力。おれは、冷静に判断し、行動した。 ◆◆「北郷一刀、賊軍の将、三名まとめて討ち取ったりッ! なお、我が剣にて討たれんと欲する者は前に出よ! その薄汚いそっ首、大将どもと同じようにたたっ斬ってやるぞ!!」 昂然と。 その若者は、中庭の中でただ一人、犯しがたい威厳をもって、賊徒の前に立ちはだかる。 その裂帛の気勢は、傍らで聞いていることしか出来なかった曹純の胸奥を貫く。 息が詰まるほどの鮮烈さに撃たれ、曹純は、しばしの間、呼吸することを忘れていた。 だが、すぐに曹純は我に返り、現状を思い出す。 周囲を十重二十重に取り囲む賊徒は、明らかに若者の鋭気に気後れしている。 つい先刻まで、半ば以上、覚悟を定めていた曹純の目に、光が宿った。 気づいたのである。これは、脱出の好機。それも、おそらくは最後の機会である、と。「くッ」 曹純は、賊徒の目に止まらぬように、手を束縛する縄を外そうとするが、賊が力任せに結んだせいで、縄は容易に解けない。 曹純は焦る。 今でこそ、賊徒は北郷と名乗る若者に気圧されているが、このまま時間が経過すれば、すぐに気づくだろう。いまだに圧倒的に有利なのは自分たちなのだ、と。 賊徒たちが、それに気づけば、全ては終わりだ。北郷は賊徒たちに切り刻まれ、それは曹純たちの運命と重なるだろう。結末は変わらずじまいになってしまう。 賊徒たちが、大将を失って動揺している、今、この瞬間こそ、唯一無二の好機なのである。 そう考える曹純の耳元で、不意に声がした。(子和さまッ) その声と共に、曹純の右手が軽くなる。両手を縛めていた縄が、切り落とされたのだ。 曹純はそちらに目線だけを向け、出来る限り小さな声で問いかけた。(仲康かッ。一体、どうやって?)(はい、連中、ボクの力を甘く見たみたいです。結構きつかったですけど、なんとか) その言葉に、一瞬、曹純の目が丸くなる。 幼さに似合わぬ許緒の武力に恐れをなした賊徒は、許緒は特に念入りに縛り上げていた筈なのだが…… 許緒は、その膂力と、子供特有の柔らかい関節を駆使して、少しずつ、少しずつ、縛めを解いていったのだろう。 その許緒によって、密かに縛めを解かれた曹純は、土気色に変じていた自分の掌に血の色が戻っていくことを確認する。 縛られていたために、両手に強いしびれを感じる。そのしびれが消えるまでの時間が、曹純には、ただひたすらにもどかしかった。 その合間に、目線だけを動かして、周囲の様子をうかがう。曹家の護衛兵たちの中で、無傷の者は一〇名もいない。皆、手傷を負い、あるいは賊に斬られて地面に倒れ伏している。 その周囲には、いまだ少なくない数の賊徒がいる。武器が手元にない状況では、話にならない。許緒の力がいかに並外れていようと、武器なしで戦えるものではない。この時、曹純はそう考えていた。 曹純たちの武器は、当然のように邸で奪われている。なんとか、奴らの武器を奪うことが出来れば。そう曹純が思った時だった。「――ははは、なんとなんと。いつまで待っても邸に来ないからこちらから来てみれば、なんと大将がそろって討ち死にか。これは傑作だッ」 奇妙に甲高い響きを伴った声は、邸の中から聞こえてきた。 現れたのは、陳蘭よりもさらに大柄な体躯の持ち主である。曹純は、その顔に、どこか見覚えがあるような気がしたのだが、次に発された男の言葉で、その理由はあっさりと判明した。「おれの名は雷緒。そこで転がっている雷薄の一族の者だ。族兄を殺したのはてめえか、小僧?」「ああ、そうだ」 雷緒の問いかけに、北郷は言葉すくなにこたえる。 すると、怒り狂うかと思われた雷緒は、なんと大きく楽しげな笑いを放ったのである。「はっはァッ! まさか小僧にやられるとは、不甲斐ない族兄だ。まあ、おかげで、おれが好き勝手できるわけだがなッ」 その雷緒の声に応じるように、邸の中から、わらわらと賊の新手が湧き出てくる。 どうやら、この場にいた百名と同数以上の兵が、まだあたりにはひしめいているらしいと曹純は察した。一体、賊徒はどれだけの数を動員してきたのだろう。 だが、今はそんな詮索よりも重大なことがある。 一時は、大将を討たれて怯んでいた賊徒が、新手の登場に冷静さを取り戻してしまったのだ。 雷緒と名乗った賊徒は、配下の欲望を煽るように、声を高めた。「さあ、野郎ども、さっさとその小僧と、曹家の連中を皆殺しにしろッ! 邸内に山と積もれた曹家の財貨の分け前が欲しいのならなッ!」 その声に応じて、欲望に満ちた歓声が、賊徒たちの間から沸き起こる。 北郷が構築した戦況は、たちまち一変させられてしまったように見えた。 それだけではない。 雷緒は、懐に転がりこんできた幸運に、感情の手綱を制御しきれない様子で、こんなことまで口にした。「ふん、小僧。女ごときを主にしたのが間違いだったな。精々、あの世で悔やむが良いさ」 だが、知らず口をすべらせた発言に、冷徹な反応が返ってくる。「――ほう、どうしておれが玄徳様の配下だと知っている?」 北郷の声に、雷緒の表情が、一瞬、ゆれた。「それを口にしたのは、陳蘭を討つ前だった筈だが。まあ、大方、目障りな連中がやられてくれないものかと、陰で様子を見ていたといったところか」 そういって、北郷はゆっくりと剣を掲げる。 その顔がわずかに歪んだのは、先刻、雷薄から受けた肩の傷がうずいたからであろう。 しかし、続いて発された声には、苦痛の陰は感じられなかった。「下衆は下衆らしく、うごめくものだな。まあ、聞いていたなら、今更言うまでもないだろうが、念のためにもう一度いってやる」 そういうや、北郷は剣先を、雷緒に向けて突きつけ、冷然と宣告を発した。「薄汚い策謀の代価は、貴様らの命。百が二百になろうと、貴様らの末路はかわらない。劉家軍を敵にまわしたこと、後悔しながら地獄へ落ちろ」 圧倒的に不利な状況にあって、なおも昂然と胸を張り続ける北郷。 誇りもて屹立するその姿に、曹純は知らず惹き付けられていた。 それは、曹純だけでなく、賊徒たちも似たようなものであったようだ。 総身に、陳蘭と、張凱と、そして雷薄の返り血を浴びながら、毅然と剣を向けてくる若者の姿に気後れしたように、彼らは顔を見合わせる。「がァッ?!」 その隙をついて、動いた者がいる。 賊徒の一人の身体が、次の瞬間、舞うように宙に浮かびあがり、そして、力任せに地面に叩きつけられたのだ。 曹純の、手練の早業であった。 居残った賊の数人が、それに気づいて武器を振るおうとするが、彼らの一人は、悲鳴と共に顔を覆った。何事か、とそちらを向いた賊もまた、仲間と同じ目にあって、眼窩を押さえて地面に転がる。 彼らの手の隙間から、赤い線が幾筋も垂れてくる。「よくも、みんなをッ!」 中庭に転がった石の中から新たな武器を掴み取りながら、ようやく反撃を許された許緒が、怒りに震える声で叫んだ。 何も、剣や槍だけが武器というわけではない。硬い石を力任せに投げれば、それは立派な凶器となる。 まして、それが許緒の膂力によってなされた時、地面に転がる石は、必殺の武器へと変じる。 賊徒は、その凶器に目を撃ち抜かれたのである。「仲康、奴をッ!」 ほとんど一瞬で無力化されてしまった賊徒を他所に、曹純は、雷緒と名乗った賊将を指差す。 その曹純の言葉が許緒に届いたとき、その手には、すでに握り拳大の石が握られていた。「――えーーーーいッ!!」 気合の声と共に、許緒が投じた石は、放物線を描かず、ほとんど一直線に宙を駆ける。「なあッ?!」 迫り来る石に気づいた雷緒は、驚きの声をあげつつも、巧みに身体をひねって、許緒の一撃をかろうじて避けた。 だが、許緒の武器は、その足元に無数に転がっている。 次々に投じられる石を全て避ける術はない。 その膂力だけを見れば、雷薄を越える雷緒であったが、離れたところから、石で攻撃されては戦いようがなかった。 蛮勇が自慢の雷緒にとって、ただの少女にいい様にあしらわれている自分の姿が、どれだけの屈辱であったのか。 しかも。「ぐぬッ?!」 ついに、かわしきれず、こめかみから強烈な衝撃を受けた雷緒は、その場に膝をついてしまう。 周囲から失笑が起こる。 許緒の行動は、傍から見れば子供が癇癪を起こして石を投げつけているだけだ。ことに、雷緒と共に現れた賊徒は、邸内での許緒の猛勇を見ていないので、なおさらにその観が強い。 そんな子供の一撃を受けて膝をついた雷緒に、軽侮の視線が集中した。 そして、周囲からの視線が、雷緒の怒りを煽り立てる。「この……ガキがああァッ! 殺してやるぞォ!」 憤怒の声と共に立ち上がり、眼光鋭く許緒に視線を向ける雷緒。 だが。「――――ぇ?」 その語尾は、ありえざる光景を視界に捉えたために、奇妙に歪んだ。 雷緒の視界の中で、許緒は新たな石を掲げていた。 否、それは石であって、石ではなかった。庭園の光景を構成する巨石の一つ。大の大人が群がっても持ち上げることはおろか、動かすことさえ難しいだろうと思われるそれを、許緒は一人で抱えあげていたのだ。 さすがに、軽々と、というわけにはいかないようだったが、危なげなく巨石を抱えて立っている。 それは何のためか? その雷緒の疑問の答えは、すぐに明らかとなる。「やああああああッ!!!」 大喝と共に、許緒が巨石を勢い良く放り投げたのだ。 あまりの光景に、呆然と迫り来る巨石を見つめることしか出来なかった雷緒が我に返ったとき、すでに巨石は避けようもない距離まで迫っていた。「ヒッ?!」 慌てて逃げ出そうとするも、先の一撃の影響か、視界が大きく揺れ、咄嗟に足が地面を離れなかった。 一瞬の空白。 その後、大の大人が浮かび上がるほどの衝撃と共に、巨石は地面に落下した。 濛々と、砂埃が周囲に舞い上がる。 まもなく、その砂埃が晴れたとき、巨石の下に、物言わぬ躯を、北郷たちは見出すことになるであろう。 ◆◆ 戦いは終わった。 その少女の、神域に達したかのような膂力を目の当たりにした賊徒たちのほとんどが、雷緒の二の舞は御免だとばかりに、蜘蛛の子を散らすように逃げ散ってしまったのである。 その場に踏みとどまった者もいることはいたが、縛めから解き放たれた曹家の兵士たちの敵ではなかった。 中でも、あの怪力少女の奮闘は、凄まじいの一語に尽きた。 おれが参戦する間もあらばこそ、賊徒たちの姿は、中庭から消え去ってしまったのである。 あまりの事態の急転ぶりに、おれはほっとするよりも、笑いの衝動がこみ上げてきてしまった。 笑っていられる状況でも、笑って良い場面でもないことは承知していたのだが、張り詰めていた気持ちが、音をたてて緩んでいくのを自覚する。どこか、酔いから覚めた気分にも似ていたかもしれない。 しかし、あの子、一体何者なんだろう。 そう思い、曹家一行に向けたおれの視線が、当の一行からの視線と正面からぶつかった。 血泥に塗れながら、なお麗質を失わぬままに、曹家の若者はおれに丁寧に頭を下げた。「曹純、字を子和と申します」「北郷一刀です」 ほんとに男か、この人、などと内心で首をかしげながら、おれは曹純に名を名乗った。 遠めに声を聞いていたから、男だとはわかっていたが、しかし、間近で見ると、つい疑いたくなってしまう。 そして、その曹純の隣で、こちらを見上げているのが、件の少女である。 見たところ、張飛と変わらぬ年の少女である。背格好も似たようなものだ。にも関わらず、その膂力と棒術は、おそろしいまでの破壊力を持っていた。到底、ただの少女とは思えない。 そして、少女の名を聞いたおれは、少女の実力も当然のものと納得した。 少女はこう言ったのだ。「許緒、字を仲康って言います。にいちゃん、助けてくれてありがとーッ」 雨と、泥と、血に濡れながら、そういう許緒の姿は、戦場に不似合いなほど元気よく響いた。「ここで許仲康か。まあ、もう驚かないけどさ」 おれの呟きに、許緒が小首を傾げる。「んー、何か言った、にいちゃん?」「いや、なんでも」 おれは頭を振って、許緒に応える。 ところで、なんで「にいちゃん」なんだろう? 思わず和んでしまいそうになりながら、おれは首を傾げるのだった。 そんなおれに向けて、厳しい眼差しを向ける者が、少なからずいた。 それも道理で、今回の襲撃、徐州の兵士が、財宝に目が眩み、曹家を襲った――というわけではなかった。 それすらも、脚本の一部であることは、陳蘭たちの言動で明らかとなっている。そして、奴らが口にした「徐州のやんごとない御方」とやらの心当たりが、おれにはあった。 端的に言って、曹純たちは、徐州の勢力争いに巻き込まれたのである。 その意味で、小沛城主の配下であるおれもまた、彼らにとっては仇の一人であるといえる。復讐の刃が、おれに向けられる可能性は、決して低いものではなかったのである。 だが、そのおれの心配は杞憂だった。曹凛と名乗った御夫人は、険しい表情を浮かべる周囲の人間をたしなめ、そればかりでなく、じきじきにお礼の言葉まで仰ってくれた。 雰囲気はすこし違うが、どこか劉佳様を彷彿とさせる、品のある御方だった。 が、事態がようやく落ち着くかと思われた矢先、予期せぬ出来事が起こった。 それまで、ほとんど無言でいた曹嵩が、不意に急き込みはじめたのである。 曹凛様が気遣わしげにその背をさするが、全く治まる様子がない。それどころか、ますます咳は激しくなり、ついには、口元を押さえた両手が、赤く染まるほどの量の血を吐いたのである。 慌てて周囲の人間が曹嵩の下に駆け寄る。 少しでも楽にさせようと、服を脱がせた途端、周囲の人から悲鳴が起こる。 曹嵩の左の胸から腹にかけて、青黒い痣が大きく広がっていたのだ。 おそらく、先刻、雷薄に蹴られた際、肋骨が折れたのだろう。そして、折れた肋骨が肺を傷つけたというあたりか。 かなりの激痛であった筈だが、これまで、苦悶の声一つあげずに耐え続けていたのか、あるいは、声を出すことさえ出来ない状態だったのかもしれない。「主様、しっかりなさってくださいッ」 曹凛が、必死に呼びかけるも、曹嵩の口からは喘鳴がもれるばかりだ。素人目に見ても、良くない状況であることがわかった。 本来なら、この場で安静にさせ、医者を呼んでくるべきであったが、ここはいつ賊徒が戻ってくるかもわからない場所である。 まずは、安全な場所に移ることが先決であった。 ありあわせの板と布で、応急の担架をつくり、そこに曹嵩の身体を横たえる。 曹嵩の口からは、いまや絶えず喀血が繰り返されている。土気色に変じつつあるその顔を見て、おれは奇妙な既視感を覚えた。 おれは、今の曹嵩のような顔をした人たちを、何度となく見たことがあった。 それはどこであったか、と考えたおれは、すぐに気づき――そして、愕然とした。 今の曹嵩の顔色。それは、戦場に横たわる死屍のそれと、ほとんど変わることはなかったのである。