つい先刻まで、地面を濡らしていたのは、天より降りしきる雨粒のみであった。 だが、今、そこに鮮紅色の液体が付け加えられる。しかも、その量は時と共に増えこそすれ、減る様子は少しも見られなかった。「ヒィィ、た、助け――が、グァッァァッ?!」「や、やめて、お助けを、いや、いやあああッ!!」 邸内の各処から響く絶命の悲鳴と、絹を切り裂くような叫びが、地面に流れる紅色の水溜りの上を通過していく。 狂笑を響かせる賊徒たちが、その中を闊歩し、新たな犠牲者を見つけては、死と暴虐を生産していく。 それは、乱世という名の時代の一つの側面。 人が、野獣になりうるのだという、悲しい証左の一つであったのかもしれない。 邸内では、護衛の兵たちに囲まれた曹嵩が、狼狽した視線を、落ち着きなく左右に向けていた。「ど、どういうことだ。賊め、わしらが曹家の人間と知っておるのか?!」「ち、父上、いかがいたしたらよろしいのでしょうッ?」 曹徳もまた、常に無い父親の取り乱し方に、混乱している様子だった。 息子の問いに、曹嵩はようやく責任を問う者の姿を見つけ出す。「ぬう……純ッ! 一体、これはどうしたことだ?!」「――申し訳ございませんッ。お叱りは後ほど。今は、急ぎこの場所より逃れることが先決かと存じます」 砕けるほどに、歯をくいしばりながら、曹純はそう言った。 そんな曹純に、曹嵩は更に言い募る。「他の護衛の者たちはどうしたのだ。孟徳の元から遣わされた者たちも含めれば、四〇近い人数がいたのではないのかッ?!」 周囲にいる護衛は、およそ一〇名ばかり。明らかに数が少なかった。「御意にございます。ですが、邸内に散った方々をお助けするためには、ここにだけ人数を集中するわけにもいきませんでした」 その曹純の言葉に、今回の移住の一件で、曹純が曹操に裏切ったと思いこんでいる曹徳が、噛み付くように反論する。「ふざけるなッ、子和、おまえが何とかしろッ! おまえが責任者なんだろうッ?! お前が何とかしろよッ!!」「御曹司、お静かにッ! 賊徒に気づかれてしまいまする。ここで立ち止まっていては、危のうござる」「何をえらそうに言ってるッ! そもそも、お前が孟徳にこびへつらったりしなければ、こんなことにはならなかったんだろうがッ!! さっさと護衛の兵たちを連れて来いよッ」 混乱と、困惑と、驚愕とが混ざりあい、曹徳は常に無く狼狽した様子で、心に浮かぶ言葉をすべて口にしている様子であった。すでにその論理は破綻している。 だが、当の本人はそれに気づくことなく、さらに口を開いて、曹純を責め立てようとするが、さすがに曹嵩は、息子ほど狼狽してはいなかった。 くわえて、曹純の言うとおり、この場で立ち止まっていては、いつ賊徒に包囲されるか知れたものではない。「徳、口を噤むのだ。確かに純の言うとおり、ここで立ち止まっていては危うかろう」「で、ですが、父上ッ!」「黙れといっておるッ!」 声こそ抑えられていたが、まぎれもなく本気の父の一喝に、曹徳は不承不承、口を噤んだ。それを確認した曹嵩は、改めて曹純に視線を向ける。「純、急ぎ進むぞ。徳も良いな」「御意ッ」「……わかりました」 更に悲鳴と襲撃の物音がしない方角へ向け、移動する曹純たち。 だが、すでにこの邸は完全に包囲されてしまっているらしい。どちらへ行こうとも、そこには必ず賊徒の目が光っていた。 密かに脱出することは、すでに不可能である。曹純はそう結論せざるをえず、一旦、邸の中へ引き返した。 一体、これだけの数の賊徒が、どこからやってきたのか。だが、曹純はその疑問を、頭を振ることで追い払った。今は、賊徒の正体を確かめている場合ではない。いかにして、この襲撃から、曹家の一族を守るかを考えるべきであった。 すでに、賊徒の手にかかった者たちは少なくないが、少なくとも、曹嵩と曹徳、そして曹凛だけは何としても逃がさなければ、曹操や姉に、なんの顔あって見えることが出来るというのか。 ようやく、曹純は、なんとか安全と思われるところを見つけた。 邸内のやや奥まった位置にある一室、今のところ、周囲に敵の気配はない。無論、時間が経てば、賊徒もここまでやってくるだろうが、今少しの間ならば隠れ潜むことは出来るだろう。 そう判断した曹純は、曹嵩に向かって口を開く。「私は、曹凛様をお連れしてまいります。しばし、ここでお待ちくださいませ」「――うむ、わかった。だが、ここは安全なのか?」「……確実に、というわけではありません。もし、私がいない間に賊徒が寄せてくるようならば、別の場所に避難してください」 その言葉に、怒りの声をあげたのは、またしても曹徳だった。 先刻よりは、幾分か冷静さを取り戻してはいたようだが、やはり曹純を見る目には不信感が漂っている。「護衛すべき者を置いて、どこに逃げるつもりなのだ、子和。自分ひとりならば、賊徒から逃れられるとでも思ったか?」「……曹凛様をお連れする、と申し上げた筈です、御曹司。どのみち、邸の包囲を抜けるには、この人数では無理です。曹凛様をお連れするのは、その為でもあるのです」「ふん、口では何とでも言える。元々、おまえは孟徳たちと近しかった。私たちより、あちらを助けた方が、後のためにも良いというわけだ」 熱に浮かされたように、非難の言葉を口にする曹徳。普段は、多少、倣岸なところはあるものの、ここまで他者を攻撃する性質ではない。突然の襲撃に混乱し、攻撃性がむき出しになってしまっているようだった。 また、常の曹純であれば、曹徳がここまで強く出れば、事の是非は措いて、かしこまって頭を下げていたであろう。そうすれば、曹徳としても出立以来抱えている不満に関して、溜飲を下げることができる。曹徳はそれを期待していたのかもしれない。つまり、曹純の人の好さに甘えていたのだ。 だが。 突然の襲撃と、今も遠くから響いてくる悲痛な叫びに、平常心を失っているのは、曹徳ばかりではない。曹純もまた、すくなからず平常心を失っていたのである。 普段であれば、繰り返される曹徳の罵詈を受け止めることは、曹純にとって難しいことではなかった。苦笑まじりに相手を落ち着かせることも出来たであろう。 しかし、今の曹純に、それだけの余裕はない。小さく頭を振ると、曹徳の言には応えず、曹純は踵を返す。 その背後で、曹徳が何やら言っているのが聞こえたが、その言葉は音として曹純の耳に響いたのみで、意味のある言葉としては聞こえなかった。◆「ええーーいッ!!」 気合の声とともに一閃した棍に、こめかみを直撃された賊徒の一人が、声も無く、廊下の壁に叩きつけられた。 苦痛の声があがらなかったのは、棍を受けた衝撃で、すでに意識が刈り取られていたからであった。 ただ一撃で、賊徒の一人を打ち倒した棍の使い手は、荒い息を吐いて、周囲を警戒する。 すでに、先刻から一〇名以上の賊徒を倒しているが、敵は一向に減る様子を見せない。それどころか、徐々にではあるが、こちらに向けて包囲の輪を狭めているような気配さえある。「曹凛さま、大丈夫、ですか?」「ええ、私は大丈夫です。季衣こそ、無理をしていませんか?」「へへ、このくらい、へっちゃらですよッ。でも、早くこの邸から逃げた方が良いんじゃありませんか?」 許緒は、不安げに曹凛に問いかける。 だが、曹凛は許緒を気遣いながら、その言葉には首を横に振った。 襲撃してきた者の正体も、数も、目的もわからず、勝手の知らない邸を徘徊したところで逃げ切れるとは思えない。いずれ必ず曹純から、何らかの連絡が来る筈なので、それまでは無闇に動き回らないようにしなければ。曹凛はそう考えたのである。 「子和は、必ず来てくれます。季衣に危険を押し付けてしまい、申し訳ないけれど、いま少しの間、ここにいる皆を守ってやってください」 室内には、曹凛以外にも、数名の子供たちや、年の若い侍女たちが震えながら座り込んでいた。護衛の兵士たちが、外の混乱の中から、文字通り命がけで助け出してきた者たちである。 彼らの姿を見て、許緒は表情を引き締めて、しっかりと頷いてみせる。「わっかりましたッ! 大丈夫ですよ、このくらいの敵、ボク一人ででも、蹴散らして見せますッ」「――ありがとう、季衣。そして、護衛の方々にも、御礼を言います」 その曹凛の言葉に、この場に残っていた数名の兵士たちが、無言で頷く。 他の護衛たちは、曹凛の求めに応じ、今なお、外の戦場にあって、生き残った者たちを救おうと懸命に働いているのである。 曹操の親衛隊である彼らにとって、曹凛は主君の母。その命令に否やを唱える筈はない。だが、その顔に不満はなくとも、焦りはあったかもしれない。この襲撃が大規模なものであること。こちらの敗北が時間の問題であること。この二つは、もはや疑う余地はない。 このまま邸に篭っていたところで、何処からか援軍がやって来る筈もない以上、時を選んで、この包囲を突破しなければならない。時が経つほどに、犠牲者の数が増えることを考えれば、決断は早く下すべきなのである。 今もまた一人。「ぐァッ!」 廊下の先で、外の戦いから、こちらに戻ってこようとしていた一人の護衛が、後ろから賊徒の一人に斬り倒される。 その護衛兵が助けたのであろう侍女らしき少女の口から、甲高い悲鳴がほとばしった。 許緒らは咄嗟に助けようとかけだすが、彼我の距離は遠く、口元を歪めた賊徒が、侍女に向けて振り下ろした刃を止めることはかなわない。 思わず、目を閉ざしてしまった許緒の耳に、澄んだ金属音が響き渡った。と、思うまもなく、くぐもった賊徒のうめき声が沸き起こる。 瞼を開いた許緒の耳に映ったのは、侍女の手を引きながら、こちらへと向かってくる曹純の姿であった。その服は、賊徒の血を浴びて、紅い縞模様を帯びていた。「子和さまッ!」「仲康、無事だったか、良かった! 曹凛様はこちらにおられるかッ?」「は、はい、子和さまをお待ちしていたんですッ。こっちです!」 侍女と曹純が室内に入ると、部屋の隅で震えていた侍女たちが怯えたような視線を向けた後、驚きの声をあげる。どうやら、今しがた曹純が助けた侍女の知り合いらしい。 曹純は、侍女をそっと促して、知り合いのもとへ行かせると、曹凛の前で深々と頭を下げた。「駆けつけるのが遅くなりました。申し訳ございません」「良いのですよ、子和。主様たちはご無事ですか?」 曹凛は、曹純の遅参の原因を察していたのか、前置きもなくそう問いかけた。 曹純は首を縦に振る。「はい。今は邸内の一室に隠れておられます。曹凛様たちも、急ぎそちらへ。合流し、賊の包囲が薄い箇所を一気に突破いたします」「わかりました。ですが、まだ外で戦っている者たちや、逃げ切れていない者たちは……」 そこまで言いかけ、曹凛はそっと目を伏せた。言っても詮無いことだ、と気づいたのであろう。 曹純もまた、かすかに俯いた。時折、響いてくる悲鳴に、罪悪感を刺激されながら、それでも曹純は決断を下さざるをえない。「――参ります。こちらへ」「――わかりました。皆、お立ちなさい。急ぎ、この邸から逃げますよ」 後半は、侍女や一族の子供たちに向けたものだった。 みな、襲撃に怯えていたが、曹凛の言葉に小さく頷き、自分たちの力で立ち上がる。騒ぎ立てる子供がいないのは、僥倖であったと言って良い。 それは曹凛の穏やかな態度によるものか、あるいは子供たちの幼い胸中にも、今の状況がわずかなりと理解できていたのかもしれない。ここで騒げば、何もかもが終わってしまうのだ、と。◆◆◆「何なんだよ、これは……」 途切れなく耳に飛び込んでくる女性の悲痛な声。 それとは対照的な、極上の獲物に狂喜する賊徒たちの哄笑。 地に倒れ伏しているのは、武器を帯びてもいない人たちばかり。その中には、女子供の姿さえ見つけられた。 そして、そんな人たちの亡骸を踏みにじりながら、いまだ生きている者たちに嬉々として襲い掛かっている賊徒ども。 強者が弱者を蹂躙する、それは、おれにとって、小説やゲームでしか見ることが出来ない筈の光景だった。現実に見ることがあってはならない光景だった。 雨の中、方々を駆けずり回り、ようやく掴んだ曹家一行の情報。たどり着いた邸からは、しかし、すでに尋常ならざる声と物音が響いてきていた。 賊徒が雨に紛れて襲撃を決行したのなら、おれが雨に紛れて侵入することも出来る筈。 そう考えて、後先考えずに邸にやってきたおれの眼前で繰り広げられていた、予測もし、覚悟もしていた筈の光景。 それを見ても、おれは、怒りも、憤りも感じることはなかった。ただ呆然とつぶやくことしか出来なかった。眼前のこれが、現実であるという認識が、上手く働かないのだ。 こんなことがあってはならない。こんなことが、現実で起こる筈はないと、胸中で誰かが繰り返しささやいている。 ああ、おれは幾度も戦場に立った。実際に剣で殺しあうことこそなかったが、戦の後、身体といわず、手足といわず、切り刻まれた戦死者の亡骸を葬るのは当然の責務であったし、鼻が曲がるほどの死臭に、耐え切れず嘔吐したこともある。 この世界で、人は戦い合い、殺し合う。それは知っていた。 だが、おれが知っているそれは、武器を持つ者同士が、夢を、理想を、野望を、志を以ってぶつかりあう戦いだった。 眼前のこれは、戦いなどではない。虐殺であり、陵辱。武器を持つ強者による、武器さえ持てない弱者に対する蹂躙。そんなものがあって良いのは、ゲームか小説の中だけである筈なのに。 わかっていた。 おれが見ている光景は、きっと大陸の各処で繰り広げられているのだということは。いまだおれの背中に残り、そしておそらくは生涯消えないであろう鞭打たれた傷跡。そもそもの最初に味わったあの暴虐こそが乱世の姿なのだと。 おれは、幸運にも張角たちに見出され、玄徳様たちと出会い、そこから解き放たれたが、あの出来事そのものが無くなったわけでは、決してない。 わかっていた? ならば何故、おれは今、眼前の光景に衝撃を受けているのだろう。悲鳴をあげて逃げ惑う人たちを助けようともせず、賊徒を打ち倒そうともせず、ただ立ち尽くしているのは、どうしてだ。 無論、おれ一人出て行ったところで、何かが変えられるわけではない。そんなのは当たり前だ。おれは関羽でも、張飛でもない。歴史に名を残した英雄とは格が違うのだから。 だが、そんなおれでも、これまでは何とかがんばってきた筈。出来ないことは出来ないが、しかし出来る範囲で、自分なりに戦ってきたのではなかったか。 逃げる人たち全員を助けることは出来なくても、一人二人を助けることは出来るかもしれないのに。 賊徒すべてを討ち果たすことは出来なくても、一人二人を不意打ちで倒すことくらいは出来るかもしれないのに。 腰に差してある剣の柄に手を伸ばす。 木刀ではない。真剣、人を殺し、命を奪える物だ。 その扱いを、おれは知っている。その心構えさえ、おれは教えられている。ならば、この場で剣を抜けない理由は、どこにもないのではないか。「おれは……」 だが、そんなおれの迷いと呟きをかき消すように、賊の怒号が轟いた。「いたぞおおッ!」「逃すな! 曹家の連中だぞッ!!」 突然、沸き起こったその声に、おれは咄嗟に近くの草むらに身を潜める。 遠くない場所から、短くも激しい戦いの音が響いてくる。 怒号と悲鳴が交錯し、やがて、声もなく潜み続けるおれの視界に、二人の男性と、数名の女性が、賊徒に引きずり出されてきた。 男性は、見るからに争いごととは縁の無さそうな格好をしている。女性たちは、彼らの家族なのだろうか。彼女たちは震え上がって、声すら出ない様子であった。 男性の一人、年嵩の方が、歯軋りしつつ、口を開く。「貴様ら、私を曹家の長と知っての狼藉か。このような真似をすれば、ただではすまんぞッ!」 その言葉で、おれはその人物が曹操の一族であると知る。年齢からいって、曹操の父親である曹嵩か。すると、その傍で顔を真っ青にしているのは、曹家の末子である曹徳だろうか。 だが、曹嵩の叱咤を受けても、賊徒は怯む様子を見せない。それどころか、あざけるような笑い声さえ起こっているではないか。 その嘲笑に、曹嵩はさらに声を高めた。「許昌を治める曹操は、私の娘だ。このような狼藉を知れば、娘は、それをなした者たちを地の果てまで追い詰め、皆殺しにするだろう。その覚悟があってのことかッ!?」 だが、その叱咤を受けても、賊徒の誰一人として動じることはなかった。 その中の一人は、むしろ不快さに耐えかねたように、曹嵩の身体を、乱暴に足蹴にする。「やかましいんだよ、老いぼれッ!」 曹嵩が苦痛の声をもらし、地に倒れ伏す。隣で震えていた妻らしき女性の口から、甲高い悲鳴が起こる。 厭わしげに眉をしかめた賊の一人が、女性へも手をあげかけたが、それを止めたのは、同じ賊の一人であった。 一際雄偉な体格をしているところを見ると、あるいは賊の首魁であるのかもしれない。 もっとも、それは情けをかけたという意味ではなかった。「やめろ。こいつらは貴重な人質だからな。あまり乱暴に扱うな。お前もだぞ、雷薄」「ああ、悪い。しっかし、身分や地位に安住してる奴に、偉そうなことを言われると、腹が立ってしかたねえ」「まあ、気持ちはわかるさ。もう少し待て。他の奴らもだ。事が終われば、そこにいる女どもも、お前らの好きにさせてやる」「さっすが、陳蘭将軍は太っ腹ですなあ」 雷薄のわざとらしい追従に、陳蘭は苦笑した。「張凱殿、そちらの方は、まだ片がつかんのか?」 陳蘭の問いに、張凱と呼ばれた男は、頭をがしがしとかきながら、面白くなさそうに頷いた。「すまねえ。護衛の奴らが邪魔でな。中でも、長らしい男と、小娘の一人が、やたらと手ごわい。まあ、人質のことを持ち出したから、もうじき片がつくと思うが」「それならば良いが。しかし、小娘といったか? 女子供に苦戦するとは、ふふ、公子たちの部下もたるんでいるのではないか?」 陳蘭の揶揄に、張凱はちっと舌打ちをする。「まあ、この件が終われば、我らは同輩。あまり不手際を責めるのはやめておこうか」 優越感に満ちた笑いが、陳蘭と、そして雷薄の口元に浮かぶ。 張凱は不快そうに顔をしかめるが、小娘にてこずっているのは事実らしく、言い返すことは出来ない様子だった。 それからしばし。 張凱の言葉どおり、手を後ろで縛られた護衛とおぼしき男たちと、一〇名近い女子供が、賊に囲まれながら連れてこられた。 もっとも年嵩と思われる女性が、曹嵩の姿を見て、わずかに表情を強張らせた。「ッ、主様! お怪我をなさっておられるのですか?」「凛か。うむ、だが、大事はない。お前も、よく無事だった」「はい……いつまで無事でいられるかは、わかりませんけれど……」 曹凛は、そう言うと、鋭い視線を陳蘭に向けた。 ほんの一瞬、陳蘭はその視線に気圧されたように、わずかに怯む様子を見せる。「降伏をすれば、命まではとらぬ。降伏せねば、女子供に到るまで皆殺しだ。そう言われたゆえ、ここに参ったのです。約定は、守っていただけるのでしょうね?」「……さて、な。おれはそのようなこと、言った覚えがない。雷薄、おまえはどうだ?」「おれもしらねえ。張凱さんよ、お前さんが言ったんかい?」「いや、知りませんなあ」 いやらしい笑みを浮かべながら、張凱は首を横に振ってみせた。 わざとらしい賊徒たちのやり取りに、それまで黙って立ち尽くしていた男性が、敵意をこめて、三人の賊将を見据える。「貴様ら、警告もなく襲い掛かってきた上に、約定まで翻すつもりかッ?!」 その男性、外見だけを見れば、男装をしている麗人のようにも見えるくらい、秀麗な容姿をしていた。 陳蘭と雷薄は、てっきり女性だと思い込んでいたらしく、その力強い言辞に、意外の観を隠さなかった。「なんだ、てめえ男か。ちッ、いただくつもりだったのにな」「おや、雷薄。別におれは譲ってもかまわんぞ?」「冗談言うな。こんだけ上玉がそろってんだ。何がかなしくて、わざわざ男なんぞを押し倒す必要がある?」 そう言うや、雷薄は、曹凛の横で震えている侍女たちの所に、ずかずかと歩みより、彼女らの顎を掴み、無理やり自分に顔を向けさせた。 小さな悲鳴があがるが、雷薄は気にする素振りさえ見せなかった。「ふん、さすがは天下に聞こえた曹操の一族だ。侍女たちも美人ばかりだな。陳蘭、こいつら、おれがもらってもかまわんな?」「好きにしろ。小娘に興味はない」「ありがてえ。張凱は、そっちの年増どもが好みだったな?」「ええ、まあ。やんごとない身分の女性を、おれみたいな身分の低い野郎が弄ぶのも、面白いんで」 下卑た笑みを浮かべ、張凱が見据えたのは、曹嵩の傍で震える妾たちであった。当然、そこには曹徳の母もいる。 これまで、口を閉ざし続けていた曹徳であったが、張凱たちのあまりに礼の無い態度に、怒髪、天を衝く勢いで立ち上がった。「おのれ、下種どもめ。母上に何と言う無礼をッ! 九族、ことごとく殺しつくされたいのかッ!」「おやおや、曹家の御曹司は、状況が理解できていないと見える。おれたちを殺す前に、自分たちが殺されるところだということに気づいていないのか?」 陳蘭のあざけりに、曹徳の顔色は、青を通り越して、土気色にさえ見えた。「なッ?! 貴様らごとき賊徒が、曹家の一族を手にかけるというのか?! 身の程を知れッ!!」 甲高い曹徳の叫びを聞き、雷薄の眉間に太い皺が刻まれた。「……うるさいんだよ、小僧」 奇妙に低い呟きに、尋常ならざる殺気を感じ取ったのは、当の曹徳ではなく、先の男性であった。「御曹司、お逃げ下さいッ!」「な……」 その言葉に、曹徳が怪訝そうに呟いたその瞬間。 雷薄の大柄な体躯が、勢いよく曹徳に向かった。 と、思う間もなく、その手に握られた剣が一閃する。 「……に?」 怪訝そうな表情を浮かべたまま、曹徳の首が、宙を飛び、雷薄の足元に落ちていく。 首を失った身体は、前に倒れるか、後ろに倒れるか、しばし迷うように揺れ動き……やがて、どうっと前に倒れこんだ。 その首から、あふれるように鮮血が地面に流れていく。その様を疎ましそうにながめながら、雷薄は、足元の曹徳の首を、無造作に蹴り飛ばした。 そして。 奇妙に重く、湿った音を立てて、曹徳の首が転がる。止まったのは、偶然にも、おれのすぐ近く。 こちらを向いた顔は、雨と泥で濡れ、自分の身に起きたことが理解できないとでも言いたげであった。 曹徳の死と同時に、それまでおとなしくしていた曹家の護衛たちが一斉に動きだそうとしたようだが、後ろ手に縛られた状態では、精鋭といえども如何ともしがたい。たちまち、周囲を取り囲む賊徒たちに斬り倒されていく。 同時に、彼らは思い思いに女性たちにまで襲い掛かっていき、あたりは表現しがたい鬼気に包まれようとしていた。 その一部始終を、おれは草むらの陰に、身を潜めたまま聞いていた。見ていた。身動き一つせずに。 助けたいとは思った。だが、助けられるとは思えなかったから。 この場にいるのは、三人の賊将だけではない。周囲には、数十、いや、一〇〇名を越える賊がたむろしているのである。 おれ一人が出て行ったところで、賊将のところまでたどり着くことさえ出来はしない。彼らに紛れて近づいたところで、あの狂乱の中から、誰かを助け出して逃げ出すことも、出来はしない。 邸の近くに繋いである月毛がいれば、無理やりにでも突っ込むことは出来たかもしれないが、今から月毛のところまで戻っている間に、事態は終わってしまうだろう。 だから、仕方ない……仕方ない?「そんなわけあるか、くそ、くそ、くそ、くそ、くそッ!」 気がつけば、おれは何度も掌を地面に叩きつけていた。 眼前で繰り広げられる地獄絵図。それを防ぐことが出来ない自分の無力さが腹立たしくてならない。 そして、その無力さを言い訳にして、暴虐から目をそむけようとささやきかける、自身の弱さに吐き気さえ覚える。 だが、やはり、どれだけ憤りをあらわにしたところで、立ち上がることは出来そうになかった。 死にたくない。すべての根にある気持ちは、ただそれだけ。 その気持ちが、正義感とか、見栄とか、意地とか、そういった全ての感情を覆い隠す。 今、はじめて感じたことではない。これまで、おれが劉家軍の戦いに加わらなかったのは、まさしく死にたくなかったからだ。いつか、日本の家に帰る、そのために。 だが、ひそかにおれはこうも思っていたのだ。 もし。どうしても。本当にどうしても、自分の力が必要になる時が来るのだとしたら。その時は、この剣を振るうことになるかもしれない、と。 だが、それは臆病者の自己弁護に類するものであったらしい。 戦うべき時は今だとわかっているのに。 玄徳様が望む未来。誰もが笑って暮らせる世の中をつくるために、今、戦うべきだとわかっているのに。何も、剣をもって突撃するだけが戦いではない。たとえば、大声をあげて注意を逸らせば、立派にかく乱になる。 だが、おれは、そんなことさえ出来ないでいた。 いや、言葉を飾らずに言おう。 出て行けば死ぬとわかっている場所に。 関われば殺されるとわかっている場所に。 おれは、出たくなんかなかったのだ。 背後を振り返る。 彭城の会議が終わってから、多分、それなりの時間が過ぎている筈。希望があるとすれば、おれからの伝言を聞いた張飛が駆けつけてくれることだった。曹家の情報を教えてくれた人たちにも、この後、張飛たちがやってきたら、同じことを教えてくれと伝えてある。 だが、雨を引き裂き、救世主があらわれるような、そんな奇跡は物語の中だけであるらしい。 救いの手が、何処からか差し伸べられることはなく。 悲劇は、悲劇のままに終幕を迎え。 おれは、すべてを見殺しにした臆病者の烙印を押されることになるのだろう。 その筈だった。 覚悟を定めた曹純の声が聞こえてきた。「――私たちがここで殺されるにしても、次は貴様らの番だ。孟徳様は、貴様たちを決して生かしておかない」「ふん、確かにその通り。貴様らを殺した者が、おれたちだとばれればの話だがな」「……これだけのことをして、隠しおおせるとでも思っているのか?」「隠せはすまいな。だが、実行した者が誰かはわからぬやもしれんぞ。たとえば、こんなものが落ちていたら、曹操はどう思うかな」「『劉』の兜――『劉』……貴様、まさかッ?!」「その通り。まあ、曹操ほどの奴だ。素直に信じはすまいが、疑いを分かつ程度のことは出来よう。それに、おれたちの主は、徐州のやんごとない御方でな。打つ手はいくらでもあるのさ」「徐州の……」 その言葉で、曹純は何事かを悟ったらしい。おそらく、徐州の内情について、ある程度の知識はあったのだろう。 だが、そんなことはこの際、どうでも良い。 今、あいつは――陳蘭は何を言った?「小沛城主、乱心す。ふん、正義を掲げようと、その正体は財貨に目が眩んだ愚か者、とでも噂を広めようか」 だから、お前は何を言っている?「聞けば、徐州の内部にも、あやつに反感を抱く者も多いという。噂を広めるのは、さして難しいことではあるまい」 おれの視界の中で、曹徳の首が転がっている。 その向こうでは、おそらくは面白半分にいたぶられたのだろう。身体中に剣をつきたてられた男性の亡骸が、泥にまみれている。 その隣には、半ば以上、肌があらわになった女性が、空ろな表情を浮かべ、横たわっている。その首は、ありえない方向に曲がっていた。 ――血と泥と、汚濁にまみれた光景。「曹操の怒りは、おれたちではなく、小沛に向けられる。そして、おれたちは小沛を討って、曹操の覚えめでたく、漢帝の忠臣となって歴史に名を残すというわけだ。はは、どうだ、なかなかの筋書きではないかッ、なあ、雷薄!」 おれの脳裏に、初めて会った頃の玄徳様の笑顔が浮かぶ。 あの時、玄徳様はこう言っていた。『私だって、まだまだ半端な人間です。平和な世の中をつくりたくて、でもそんな力はなくて。それでも、みんなの力を借りて、少しずつでも、そういう世の中をつくっていきたい』 あの時、おれは玄徳様の澄んだ眼差しから、目が離せなかった。胸を打つ鼓動が、うるさいくらいだった。『北郷さんが、それに力を貸してくれるなら、とっても心強いです。もちろん、私も出来るかぎり、北郷さんが目的を果たせるように力を貸します。それは、みんなも同じことです。みんなで支えあって、みんなで頑張って、みんなの目的を果たしましょう!』 煌くような生気に満ちた瞳を見て、おれは思ったのだ。 ああ、関羽も張飛も、この輝きに惹かれたのだろう、と。 そして、見たくなった。あの輝きにあまねく満たされた、中華の大地を。そこで生きる人々の笑顔を。「まったくだ! 案ずる必要はねえぞ。おまえらの仇は、おれと陳蘭がきっちりとってやるからよ。小沛の城主は、けっこう良い女だっていうし、しっかりと罰も与えてやるさ。おまえたちの分までなッ」 ――音も無く、何かが弾けた。 そうか 右手に泥を浸し、顔といわず、甲冑といわず、塗りたくる。 おまえたちは 徐州の官服を着たままでは、賊将のところに行くことが出来ない。 あの笑顔に 大きく、ゆっくりと、息を吸いこむ。 汚物をなすりつけようと言うのか 静かに、深く、息を吐き出す。 ならば、語る言葉などあろう筈もない いつか、恐怖も、躊躇いも、心の中から消えていた。 ――殺してやる。 ◆◆「申し上げますッ! 街道より、劉の旗を掲げた一団が接近しておりますッ!!」 狂乱の宴に参加していた者たちの耳に、その報告は唐突に届けられた。 陳蘭たちにとって、それは予期せぬ報告であった。このあたりは小沛の統治下にあるが、駐留している官軍の部隊はない。それは、陶商や張凱たちにも確認してあることだった。 襲撃の知らせが行ったにしても、早すぎる。陳蘭は、脱ぎかけた衣服を直しながら、報告をもって駆け込んできた兵士に、鋭い眼差しを向けた。「偽りを申すと許さぬぞッ! 徐州の軍が、こんなに早く、ここに来る筈がない!」「はッ、しかし、確かに徐州、それも小沛の劉備の軍ですッ!」 よほどに慌てているのか、泥まみれの顔と姿をさらしながら、その兵士は怯むことなく、陳蘭に再度、同じ報告をした。 ためらう様子さえない、その姿に、陳蘭はかすかに眉をしかめた。 事に及ぼうとしていた雷薄と、張凱も慌てたように陳蘭の下に駆け寄ってくる。 陳蘭は、二人の姿を視界の端にとらえる。 周囲の兵士たちも、動揺した視線をかわしあっていた。兵士たちばかりではなく、曹家の一行も、か細い藁を掴んだような表情を浮かべている。 あたりの視線が、陳蘭に集中する。宴の淫らな雰囲気は、一人の兵士の報告によって、跡形も無く消し飛ばされていた。 陳蘭は鋭い舌打ちの音をたてると、肝心のことを問いただす。「それで、現れた兵士の数はいかほどかッ?! まさか千や万の軍勢が現れたわけではあるまい」「は、現在、確認が出来た兵の数は――一人にございます」 兵士の報告を聞いた陳蘭は、頷こうとして、失敗した。「――な」 思わず。 ほうけたように問い返す陳蘭。あまりにも予期せぬ報告に、歴戦の武将が、一瞬だけ、自失する。 開かれた口の、すぐ真下の空間を、一条の閃光が横切ったのは、次の瞬間であった。「……に?」 くしくも、それは先刻の曹徳と同じ言葉であったが、陳蘭は果たしてそれに気づいただろうか。 一瞬の間を置いて、半ば以上、切り裂かれた陳蘭の頸部から、噴水のように血が体外にあふれ出る。 報告を持ってきた兵士は、自ら切り裂いた傷口からあふれ出た血を避けることなく、半身を鮮血で染め上げながら、ゆらりと立ち上がる。 そして。「――小沛城主、劉玄徳が麾下、北郷一刀」 短い、味も素っ気もない名乗り。 それを口にするや、北郷と名乗った兵士は、持っていた剣を振るう。 状況が理解できず、立ち尽くした格好の張凱の顔に、刃についた血が降りかかる。血が目に入るような幸運はなかったが、それでも張凱を狼狽させることは出来た。「ぬ?!」 その隙を、見逃す理由がどこにあろう。 躊躇なく、ためらいなく、陳蘭の血を吸った剣が、袈裟懸けに斬り下ろされる。 だが、殺到する殺意にかろうじて反応した張凱は、あやういところで、その剣撃を受け止める。 鈍い金属音が、あたりに響く。 だが、北郷と名乗る兵士の剣勢を受け切れなかった張凱は、大きく体勢を崩し。「はああッ!!」 続く北郷の第二撃を避けることはかなわなかった。 真正面から振り下ろされた北郷の一撃は、張凱の額を切り裂き、両の眼の間まで断ち割ってのける。 声も無く倒れ伏す張凱。 瞬く間に、二人の将を失った賊徒は、いまだ目の前の光景が理解できず、ほうけたように立ちすくむ。「どうした?」 静かな声が、静まりかえった邸内に木霊する。「殺しつくすのだろう。奪いつくすのだろう。その罪を、すべて玄徳様になすりつけるのだろう」 奇妙なまでに平静な声は、憤怒が飽和したゆえか。「いいだろう、やってみろ。その代わり――」 否、飽和などしようものか。その身は、天に沖する怒りの炎に満ちている。 次に発された言葉こそ、その具現。 「事破れた上は、その薄汚い命で償えッ! 殺してやるぞ、貴様らァッ!!」 大喝と共に、北郷一刀は、ただ一人残った賊将、雷薄に向かって、斬りかかって行ったのである。