彭城に戻る頃には、すでに日は完全に落ち、城内は夜の帳に覆われようとしていた。 おれはすぐに兵士たちの待機所に向かう。そこには、小沛から同行してきた騎兵たちがいる筈であったからだ。 もっとも、小沛からやってきた三〇名全員ではない。彼らも、おれと同じく今は自由行動を許されている。残っているのは、貧乏くじを引いた二名だけだった。 趙雲率いる騎馬隊に所属するおれは、当然、彼らとは顔見知りである。そのおれが、顔と服を泥まみれにして現れたので、二人とも、驚いた顔で駆け寄ってきた。 そんな彼らに、おれはやや急き込んで問いかける。聞けば、まだ玄徳様たちは、会議から戻ってきていないとのことだった。 やはり、徐州の命運に関わる会議であってみれば、一刻やそこらで終わる筈もないか、とおれは嘆息する。 その拍子に、ずきりと肩が痛んだ。 自然、先刻のあの男の顔が思い浮かぶ。おれは痛む肩をさすりつつ、頭を切り替えた。 あの男が何者なのか、あの言葉が真のことなのか。そして、本当におれの知識どおり、曹家の一行が襲撃されるのか。そのいずれも、考えているだけでは、決して明らかにならない類の問題である。 確かめるためには、行動するしかないのだ。 とはいえ、今の段階では、おれの危惧――曹家襲撃という事態の予測に、何ら物証はない。それゆえ、徐州の官軍に動いてもらうことは難しいだろう。 今のおれの予測とは、街で聞いた噂話に、元の世界で聞いた知識を重ねただけのもの。他人に話したところで、ホラ話にしかなるまい。 実際、元の世界にいたとき、おれが、異世界の知識とやらを聞かされる立場にたっていたとしたら、多分、鼻で笑って済ませただろう。それくらい荒唐無稽な話なのである。 そこまで考えて、ふと冷静になる。 おれが知っているのは、あの男から漏れ聞いた「曹操の一族が徐州から許昌へ向かっている」という一事のみである。 襲撃が企てられていると聞いたわけではないし、そもそも一行がどこにいるのかも知らない。 物証云々以前に、あまりにも情報が不足している。この状況で「曹操の一族が襲撃されるかもしれない」と騒ぎ立てれば、かえっておれが怪しまれてしまうだろう。 あるいは、玄徳様たちならば、おれの話に耳を傾けてくれるかもしれないとも思う。しかし、たとえ玄徳様たちが信じてくれたところで、今の状況のままでは、動くに動けない。曹家の一行を救い、徐州の虐殺を未然に防ぐために、今は情報を集めるべきであった。 襲撃があるかどうかもわからない。あるとしても、何も、今日明日に襲撃が起こると決まったわけではない。 今、無闇に騒ぎ立て、がむしゃらに動き回れば、かえって状況を混乱させてしまうかもしれない。 ――おれはそう考え、自分を納得させようとしてみたのだが。「――虫の知らせってのは、こういうことを言うのかな」 おれのつぶやきに、二人の兵士が怪訝そうな顔をする。 おれは、彼らのうちの一人に玄徳様たちへの言伝を頼み、もう一人に、急ぎ同僚たちを呼び寄せてもらうよう頼み込んだ。おそらく、皆、街中へ出て行ってしまっただろうから。 当然ながら、おれには兵士たちへの命令権などない。 そんなおれからの、突然の頼みに、二人はいぶかしみ、当然のように理由を聞いてきたが、今のおれに確たる答えが返せる筈もない。 おれは、頼む、と深く頭を下げるしかなかった。 二人に首を横に振られれば、如何ともしがたい状況であったが、幸いにも二人は、おれの汚れた格好と、切迫した表情に、何事かを感じてくれたようだった。顔を見合わせ、一拍置いた後、二人は同時に頷き、おれの頼みを肯ってくれた。 後で酒を奢れよ、と言われたのはご愛嬌であろう。 おれはもう一度、二人に頭を下げると、踵を返して部屋を出る。向かう先は、城の厩舎である。「すまないな、まだ疲れもとれてないだろうに、無理をしてもらうことになった」 おれは、先刻はずしたばかりの馬具を、再び月毛に付け直しながら、詫びの言葉を口にする。 田豫先生曰く。馬と接するの心得は、人と接するが如くなり。 無理を強いているとわかっているなら、きちんと謝罪をしなければならないのである。 たてがみを撫でるおれの手に応えるように、月毛は小さく嘶くと、おとなしく馬具を着けさせてくれた。「ありがとうな」 感謝の意をこめて、もう一度だけたてがみを撫でると、おれは月毛を引いて、厩舎を出る。 城門のところで門衛に誰何されたが、小沛城への急使である、と告げると、疑う様子もなく通してくれた。むしろ、敵が攻め込んで来たのか、と逆に訊ねられてしまった。すでに徐州の将兵も、近づく戦の空気を感じているのだろう。 おれは、その質問に首を横に振り、門衛たちの心配を払うと、馬首を北西、小沛の方角に向けた。 晩秋の夜、天頂に輝く月は煌々と輝き、あたりの地形を明るく照らし出してくれている。 その月光の下、快速を飛ばす月毛の背にあって、後方をかえりみると、すでに彭城の城門は、はるか遠くに見えた。 彭城から十分に離れたと見るや、おれは、今度は馬首をまっすぐ北に向けた。 曹家が避難していたのは、徐州の北東部、瑯耶郡であるとの報告は、小沛城にいたとき、鳳統経由で聞いていた。 瑯耶郡は、青州黄巾当の残党退治の際に駐留していたところなので、位置関係はすぐにわかる。 曹家ほどの大家の移住ともなれば、人数も物資もかなりのものになるはず。瑯耶郡と、許昌を繋ぐ大路を探れば、あの男が言ったことの真偽を確かめることは可能であろう。 おれはそう考えつつ、胸奥を騒がせる不安にせかされるように、月毛の脚をさらに速める。 やがて、おれの頭上に月光が蔭った。「ん?」 そして、頬に冷たい水滴を感じ取る。 怪訝に思って空を見上げると、先刻まで頭上に浮かんでいた星月の輝きは、いつのまにか掻き消えるようになくなっており、重く厚い雨雲が急激な勢いで広がってきていた。 見る見るうちに強くなってくる雨足。あたりを照らしてくれていた月光は、雲に遮られ、周囲を暗闇が包み込んでいく。「……ついていないな」 おれは小さくぼやくと、月毛の脚を緩める。整備された街道とはいえ、夜闇の、しかも雨の降る中を、全力で駆けるだけの技量は、おれにはない。 周囲を見回してみたが、近くに民家はないようだ。ここは、あせらずに進むしかないか。 おれはそう考え、額の水滴を拭い取った。◆◆ 「なかなか止まないな、この雨」 雨音が屋根を叩く音に耳を傾けながら、曹純はぽつりとつぶやいた。 曹家の血を引く者の特徴である金色の髪と、端整な容姿が、曹純の、どこか遠くを見るような眼差しとあいまって、見る者の目を奪う秀麗さを醸し出している。 その様は、あたかも、一国の姫君が窓辺で憂う様にも似ていたかもしれない。 もっとも、当の曹純は、そういう自分の容姿や雰囲気が好きではない。 出来れば、もっと粗野で、荒々しい印象を持たれたいと常々思っていた。黄金を梳かしたような髪を、ざんばらにしているのも、それが理由だったりする。 折角、綺麗な容姿をしているのにもったいない。そう他者から言われる度に、曹純はこう言い返す。 何が悲しくて、頬を紅潮させた男から視線を向けられなければならないのか――私だって男なのに。 曹純、字を子和。 曹家の柱石である曹仁と母を同じくする、まぎれもない曹操の血縁であり、同時に、曹家にあって数少ない男性でもあった。 現在のところ、曹家にあって若者といえば、曹純と、曹徳の二人くらいしか見当たらない。 それゆえというべきか、曹純は幼い頃から曹嵩に目をかけられて育ってきた。曹嵩としては、いずれ、曹純を曹徳の腹心とする心算があったのだろう。 曹純は幼い頃から礼儀正しく、恩に感じる為人であったので、曹嵩の厚遇には感激し、感謝もしていたが、しかし一方で、曹嵩や曹徳のように、曹操への敵愾心を持つことはなかった。 曹仁と曹純はとても仲の良い姉弟であり、それは曹嵩と曹操の反目に巻き込まれても、いささかも揺らぐことはなかったのである。そして、そんな姉弟は、いつか分裂しかかる曹家を繋ぎ合わせる役割を、曹凛と共に担う格好になっていたのである。 この姉弟の立場は、ともすれば、曹操、曹嵩両者から不快に思われかねない危険があったのだが、結果を見れば、それは杞憂に過ぎなかった。 曹仁が、その豪気さと質実な志向で曹操の信頼を受け、一軍を率いる将として活躍している一方、曹純はたおやかな外見と、人当たりの良さが曹嵩に好まれ、徐州への退転にも随行を許されるほどの信頼を勝ち得ていたのである。 今回の許昌移住は、曹家の一つの転回点になるだろう。曹純はそう考え、瑯耶郡を出立して以来、顔から憂いが消せずにいた。 これまで、互いに反感は抱いていても、表立った対立は避けてきた曹操・曹嵩父娘であったが、今回、曹操ははっきりと力ずくで相手の選択肢を奪ってのけた。 これにより、曹嵩、曹徳は不快の塊となっている。すでに曹家の実権が曹操の手に渡っている以上、直接的な行動に出ることはないだろうが、家内の不和は、他家につけこまれる元になりかねぬ。 そして、それ以上に曹純の危惧を煽るのが、曹徳の為人であった。 曹嵩は、娘である曹操への隔意を隠さず、現在の曹家が女性を中心として動いている現状に不満を見せているが、やはり他家から養子として入ってきた人物であるだけに、最低限の節度は心得ていた。 だが、そんな曹嵩の期待と、実母の溺愛を一身に受けて育った曹徳にはそれがない。 幼馴染である曹純から見ても、曹徳は優秀である。きらと光る才能を感じたことは、一再ではない。だが、惜しむらくは、その才能を統御する自制心に、いささかならず欠けているところであろう。 節度なき才能の発露は、周囲を巻き込み、自分自身を傷つけることになりかねぬ。 今回の件で、曹徳が本格的に曹操に対して害意を抱いてしまえば、それこそ曹家衰退の因をつくることになりかねないのである…… 曹純は軽く首を振ると、気分を変えるために視線を転じた。 日没から降り始めた雨は、夜半になっても止む気配を見せない。それどころか、風雨は徐々にではあるが、強まっているようだ。 風雨を避けて立ち寄った土地の富豪の邸は、元々、今夜の宿にと決めていたところだったので、一〇〇名近い一行を受け入れて、なお幾分かの余裕が感じられる広さであった。 その邸の欄干に寄りかかる曹純の顔に、雨滴が数滴、飛んでくる。 曹純が物憂げにその雫を拭ったとき、廊下を駆けて来る一人の少女の姿が目に映った。「子和さまー」「ん、仲康(許緒の字)じゃないか。どうしたんだい?」 弾むような足取りで曹純のところまで駆けて来た許緒は、息もきらさずに用件を告げる。「曹凛さまが呼んでますよ。明日の予定を確認しておきたいんですって」「わかったよ、伝言、ありがとう」 そう言ってから、曹純は視線を再び外に向ける。 いまだ降り続く雨が、今夜中に止むとは限らない。もし、明日まで降り続くようなら、雨の中を許昌目指して歩いていかねばならないことになる。 それは、曹純や、あるいは護衛兵たちならば苦でもないことだが、瑯耶郡で安楽に暮らしてきた者たちにとっては、耐え難い苦行にしか思えないことだろう。 今の曹純が説いても、曹嵩や曹徳が肯うとも考えにくい。それを知る曹凛は、そのあたりのことを、あらかじめ決めておきたいと考えたのだろう。 曹純はすぐに曹凛の伝言に納得を示したが、許緒は今ひとつ理解しきれていないようだった。「あの、子和さまが曹嵩さまたちに言っても駄目なんですか?」 農村育ちの許緒にとって、雨の中を出歩く程度のことが、なぜ、それほどつらいのかが理解できない。 とはいえ、身分の高い人が面倒を嫌がるということは知っていた許緒は、それなら、曹純が言い聞かせればいいんじゃないかな、と考えたのである。 実際、瑯耶郡にいた頃、曹純の一言が、我がままを言う者たちを諌めた事例は枚挙に暇がなかったりするので、許緒の疑問はしごく真っ当なものであった。 だが。 曹純は苦笑いを浮かべつつ、頭をかく。「孟徳様が、手紙で今回の移住の指揮権を私に委ねてしまったのは知っているだろう。それで、お二人が機嫌を損ねてしまったんだ」 一行の護衛に現れた三〇名の兵士は、いずれも曹操直属の最精鋭であった。この少し後に「虎豹騎」と名づけられることになる彼らの長は、到着するや曹純に対して曹操からの命令書を手渡した。 そこには、護衛の差配を曹純に一任する旨の命令が記されていた。曹操は、今回の移住の指揮を曹純に委ね、送った兵士たちの指揮さえ曹純に任せたのである。 これを知った曹徳などは、言葉にこそしなかったが、曹純を見る目に、露骨な軽侮の色を浮かべていた。曹純が、曹操におもねり、曹徳たちから離れようとしているとでも考えたのだろう。 そして、この曹徳の考えは、あながち的外れというわけでもなかった。 曹操は、両親を許昌に招く今回の件を機に、曹純を正式に麾下に組み込むつもりだったのである。 元々、曹純の人柄、才覚を評価していた曹操が、戦乱が本格化し、一人でも才能ある者を欲する時期にも関わらず、なぜ曹純を招かなかったかといえば、それはひとえに他州に住まう一族の安全の為――もっとはっきりいえば、母である曹凛の為であった。 つまり、曹純が傍にいれば、母の身に滅多なことはあるまいと信頼するくらいには、曹操は曹純を評価していたのである。 だが、両親が許昌に移れば、一族の安全は、ほぼ保障される。曹純ほどの人材を、父や弟たちのままごとにつき合わせておくのは惜しい。 そう考えた曹操は、今回の命令を曹純に送ったのである。それを聞いた父たちが、どういう反応をするかを見越した上でのことであった。 曹純の言葉は、簡略すぎて許緒には理解しずらかったらしく、小首を傾げている。 それを見て、曹純は内心で小さく息を吐いた。 曹純は、命令書を見ると同時に、曹操の思惑を悟っていた。曹操が、父と弟を突き放した目で見るのはいつものことであるとはいえ、やはり心に寒風を吹き込む父娘関係とはいえないだろうか。 そんな事実を、許緒のように純真な娘に説明する必要はあるまい。 そう考えた曹純は、笑って許緒の頭を撫でると、曹凛の部屋に向かう。 その曹純の耳に、雨滴の音を裂いて、やや遠くの方から嬌声が聞こえてきた。おそらく、随行してきた一族の者たちと共に、曹嵩たちが宴でもはじめたのだろう。歩を進めるにつれて、管弦の音らしきものも聞こえてくる。 その音に、曹純はわずかに眉をひそめながら、曹凛の部屋の扉を叩いたのである。 ――この時、曹純は襲撃の可能性を考えていなかった。 それは、決して無能ゆえではない。曹純は実際に戦場に立った経験こそ少ないが、情報の重要さというものはわきまえており、許昌へと到る道々に偵察を出していた。 善政の基は治安の確保に始まる。徐州を治める陶謙はそのことをわきまえており、その領内に賊徒の影はほとんど見えない。先だって、青州黄巾党の残党が瑯耶郡を暴れまわったが、それも劉家軍によって討伐された。 無論、どのような善政の下でも、少人数の盗賊は存在する。しかし、彼らを根絶するのは黄河の流れを止めるにも似た難事であろう。 また、曹操一行は百人近い大人数であり、三〇名を越える武装兵が護衛についている。そういった小規模の賊徒が襲撃してくる恐れはなかったのである。 そういった事を確認した曹純は、半ば以上、賊徒襲撃の警戒を解いた。 それを油断と言うのは酷であろう。まさか、方向の異なる国境から、曹家の移住があることを予期して、一〇〇名をはるかに越える賊徒が分散して移動しているなど、誰が想像できようか。 まして、その賊徒が今まさに集結しつつあり、さらには彭城から発した私兵の一団が、それに合流しようとしているなど、神ならぬ身に、見抜けよう筈はなかったのである。◆◆「殿下、準備は完璧ですぜ。獲物はまだ、こっちには気づいていないようで」 部下の張凱(ちょうがい)の報告に、陶応は不快そうに眉をしかめた。 陶家の兄弟直属の私兵を率いる張凱だが、その態度や言葉遣いは、礼を知らぬも甚だしいものがあった。 もっとも、陶応とて、雇われ兵に礼儀作法まで求めはしない。これまで払い続けてきた金額に見合うだけの働きを見せてもらえれば、無礼の一つや二つ、目を瞑るのは容易いというものであった。 だが、聞き過ごすことができない言葉もある。「愚か者が。殿下などと呼ぶなッ」 低く、だが鋭く叱咤する陶応。その顔の下半分は、布地で覆われており、よほどに親しい者でもない限り、外観だけで陶家の次子であるとは気づかないだろう。「おっと、そうでしたな。失礼しやした、旦那様」 にたりと下卑た笑みを浮かべる張凱。その表情を見てもわかるように、張凱は、陶家の兄弟に忠誠を誓っていなかったが、ことさら反発したり、逆らったりするつもりもまたなかった。 なかなかの額を払ってくれる上客であり、今回のように美味い汁を吸わせてくれる場合もある。張凱なりに、ではあったが、兄弟のことは気に入っていたのである。「――ッ、まあ良い。陳と雷の二人は、そろそろ配置につく頃だな」「ですな。間もなくでしょうや。しっかし、女子供が混じった、たかだか一〇〇人の集団を、わざわざ包囲する必要なんかあるんですかい?」 陶応の慎重さを、張凱は密かに哂う。 張凱の部下だけで、ほぼ同数。陳蘭と雷薄の手勢を加えれば、三倍に達しようかという兵力差である。しかも、こちらは全て武装した戦闘員である。どちらが有利かは論を待たない。 包囲などせずとも、正面から襲い掛かれば、敵を殲滅するまで、さして時間はかからないだろうと張凱は考える。 陶応としては、曹家の一行の生き残りが出れば、小沛の劉備の仕業と見せかけようとする策が水泡に帰す恐れが出てきてしまう。そのために、完璧を期し、包囲を布こうとするやり方は、決して間違ってはいないだろう。 しかし、戦いに慣れた張凱などの目から見れば、それは完璧を期すというよりは、ただの決断力の無さに思われるのであった。 後は、陳蘭たちの合図を待つばかりとなり、陶応は少数の護衛を引き連れて、その場を離れていった。 その後姿を見ながら、張凱は周囲の部下たちに笑いかけた。「野郎ども、こんな美味しい獲物は滅多にお目にかかれねえぞ。山賊どもになんざ、遅れをとるんじゃねえぞッ」 その声に、部下たちが抑えきれない興奮を表情に滲ませる。 大声をあげられないため、地面を踏み鳴らしたり、各々の得物を振り回したりと、あたりは一気に殺伐とした雰囲気に包まれていった。 先刻から降り続く雨に、すでに皆、下着までずぶ濡れの状態であったが、そんなことを気にかける者は、誰一人いない。 そして―― 星月の輝きが、厚く、暗い雨雲に閉ざされ、地上は闇に包まれている。 曹家一族の滞在する邸の周囲を、甲冑を身に着けた男たちが、ゆっくりと包囲する姿は、誰の目にも映らなかった。彼らの来ている甲冑の発する音は、雨音に遮られ、闇夜の中に溶けていく。 男たちの目に浮かぶのは、殺戮への衝動か。蹂躙への欲望か。 破局へと到る時計の針は、ゆっくりと、しかし確実に時を刻み続ける。 それは決して止まることはなく。 止めようと足掻く者の手は、この時、あまりに遠く、あまりに小さく。 ――やがて、時計の針は、その時を指し示す。