先刻まで、吸い込まれるような蒼穹が広がっていた筈の寿春城の空は、いまや灰色の雲が重く垂れ込め、いつ雨粒が零れ落ちてきてもおかしくはない様子であった。 移ろいやすき秋の空とはいえ、あまりにも急激な天候の変化に、お祭り騒ぎであった寿春の民も驚いて空を見上げている。 そして、そんな彼らの目の届かない街路の一画で、今、長刀と戟が真っ向からぶつかり合っていた。 飛び散る火花は、二度、三度とほの昏い寿春の路地を照らし出す。周泰は、そのかすかな明かりに照らされた黒髪の武将の姿を見据えた。 着ている服は、先刻、朱治の邸で襲い掛かってきた敵兵たちと同様であるが、その顔に仮面はない。 そこには、周泰とほとんど変わらない年頃の少女が、身体に似合わぬ長大な戟を提げて立っている。これまでの袁術軍にはいなかった人物であることを、周泰は見て取っていた。件の方士が集めているという人材の一人であろうか。「――ッ!」 だが、そんなことは、この際どうでも良い。目の前に立ちはだかるならば、力ずくで退けるだけだ。 周泰は、素早い身のこなしで、相手との距離を瞬時に詰める。 そして、振り下ろされる長刀。 しかし、相手は、戟の柄の部分で周泰の一刀をはじき返し、なおかつ、一歩踏み込み、反撃に転じてきた。 左から右へ。首を薙ぎはらうような戟の一閃を、周泰は深く身を沈めてかわすや、こちらもすぐさま反撃に転じた。 弾けるように前方に飛び出した周泰は、敵の胴を一薙ぎにしようと魂切を振るう。「――くッ」 相手は、その周泰の攻撃に、かすかに声をもらしながら、素早く後方へ退いた。 そうはさせじ、と周泰はさらに相手との間合いを詰めようとするが、体勢を立て直した相手は、猛然と戟を突きこみ、その周泰の動きを牽制する。 周泰は咄嗟に後ろに飛んで、その一撃をかわす。 両者は、再び路地の中央で向かい合った。 傍から見れば、まったくの互角に見えたかもしれない。だが、向かい合っている当人にとって、互いの実力差は明らかであった。 強い、と高順は心中で感嘆していた。 目の前の少女の動き、その一つ一つが、研ぎ澄まされた刃にも似て、危険きわまりないものだった。 袁術領に来てから数月。呂布に一から鍛えなおしてもらい、高順の武力が、以前よりもはるかに高まったことは疑いない。それでも、もし、この相手とはじめから一対一で向かい合っていれば、すでに高順は物言わぬ躯と成り果てていただろう。それくらい、相手の力量は恐るべき域に達していたのである。 だが、ここに到るまで、幾人もの告死兵を切り捨て、それに数倍する告死兵に追われてきた相手の疲労はかなりのものであり、それゆえに高順はかろうじて伍すことが出来ていたのだ。「……はあ、はあ」 今なお、肩で息をしつつも、目の前の少女の眼光は、いささかも衰えない。必ず、この死地を脱するとの確信を以って、高順と向かい合っている。 その顔を見てしまえば、降伏と口にすることさえはばかられる。 くわえて、朱治の邸に来たということは、この少女はまず間違いなく孫堅の配下である。あの場所で何が起こったのかも、すでに悟っているようで、こちらを見据える視線には、敵愾心が溢れており、降伏を受け入れる筈はないと思われた。 高順が戟を握る手に力を込めると、それに応じて周泰も、長刀を握る手の力を強めた。 中空で激突する二つの視線。 緊張が、音もなく高まっていき、やがて、それが弾ける、と思われた瞬間だった。 突然、悲鳴とも怒号ともつかない奇妙な喚声がわきおこり、二人の鼓膜を揺るがした。 誰か一人のものではない。押し寄せる波のように、時に高く、時に低く木霊するその喚声は、それが数多くの人々の声であることを物語っていた。 周泰の顔に、戸惑いが浮かぶ。それを見て、高順はややためらいながら、はじめて声を発した。「孫将軍が、討ち取られたのでしょう。その事実が布告されたのだと思います」「――戯言です。そのような小細工、私には……」 通じない、と言いたかったのか。だが、高順を見る周泰の目には、隠しきれない狼狽の色がうまれていた。◆ 戯言を、と口にしつつ、周泰は高順の言葉に偽りがないことを悟ってしまった。 相手を信用したわけではない。ただ、すでに朱治が誅殺されているという事実から、今回の寿春への召集の裏にあるものを考えたとき、周泰の脳裏は、その結末しか導き出せなかったのである。 敵の狙いは孫家の壊滅。城内に入ってしまった時点で、すでに逃れることは至難に違いない、と。 だが。「――そこを、どいてください」 それでも、諦めるわけにはいかない。周泰にとって、孫家は唯一にして無二の主家。孫堅は、数ならぬ我が身を引き立ててくれた大恩人である。その目で確かめるまで、全力を以ってお救い申し上げるのが自らの役目である、と周泰は考えたのである。 決意をすえなおした周泰の眼差しに力が戻る。 たちまちのうちに、狼狽を駆逐し、鋭気も新たに敵を見据える視線を、高順はどこか眩しげに受け止めた。 後方から、複数の足音が殺到してくる。 それが、朱治の邸から追いかけてきた告死兵の一団であることは明らかだった。 高順を前に、複数の告死兵を後ろに相手取って、なおこの危地を突破できると考えるほど、周泰は自惚れてはいなかった。 であれば、目の前の相手を斬り倒して進むのみ。 わずかに腰を落とした周泰の身体が、次の瞬間、弾けるように前に出る。地面をけりつける音と、斬撃が同時に聞こえるほどの、瞬撃であった。 だが、高順は予期していたように、周泰の刃を戟で受け止め――「――え?」 思わずつぶやいたのは、攻撃された高順ではなく、攻撃をくわえた周泰の方だった。 これまで、ことごとく周泰の攻撃を阻んできた高順の身体が、あっさりと吹き飛ばされたからである。にもかかわらず、周泰の腕に手ごたえはほとんどなかった。 ――まるで、高順が自ら後ろに飛んだかのように。「……どうして?」 周泰の問いに、高順は答えない。 黒の瞳に、どこか悲しげな色を湛えながら、その視線を路地の先、出口へと向けるだけだった。 その意を察した周泰は、困惑を覚えながらも、反射的に先に進もうと四肢に力を込め――駆け出す寸前、自らの名を告げていた。「周泰、字を幼平と言います」「……高順、字は伯礼、です」 ただ、互いの名前だけを告げて、孫家と袁家、互いに異なる家に仕える少女たちは、一時の邂逅を終えたのである。◆ 周泰の姿が、寿春の街並みの中へと消えていく。 それと、ほぼ時を同じくして、仮面の兵士たちが、この場に飛び込んできた。 壁際で倒れている高順の姿を見て、彼らが動きかけるのを制し、高順は指を、先刻周泰が消えた方角へと向けた。「急ぎ、追ってください。孫家の残党同士、合流されると厄介なことになりかねません」 諾、と返事をするや、彼らは一斉に動き出した。 一糸乱れることなき動きは、高順と同じく、呂布の徹底した猛訓練の賜物であった。 呂布の方天画戟を模してつくった、自らの愛用の戟を支えとして、高順は立ち上がる。 不審に思われないよう、加減せずに壁にぶつかっていったので、背中がかなり痛かったりするが、今は身体よりも、心の方がずっと痛む。 何が、それほどに心を苛むのか。 袁術の麾下で、心ならずも、その謀略の片棒を担いでいること。それはもちろんある。 だが、それよりも――『私が、公台殿を謀った? ふふ、誰よりも公台殿を追い詰めたあなたが、それを口にするとは驚きです』『不思議そうな顔をするところを見ると、本当に気づいておられなかったようですね。公台殿が、どうしてあれほどに功を焦ったのか――奉先殿のお傍にて、文武に成長著しいあなたに、脅威を覚えたのですよ。このままでは、軍師たる地位が、あなたに奪われてしまうのではないか、と。智を以って仕える公台殿にとって、軍師の地位を失うことは、奉先殿の隣に立つ場所を奪われることでもあるのです』『あなたは、出藍の誉れ、と世人に称えられるやもしれません。ですが、後から来たものに追い抜かれた公台殿は、奉先殿と共にある理由を失い、独りにならざるを得ない。そう、奉先殿と出会う以前の、孤独な日々に戻らなければならない』『公台殿は、それだけは避けたかった。だからこそ、勝機が薄いとわかっていながら、兌州の乱に乗じようとし――そして、今また、私が差し出した手を掴んだのですよ。しかし、それはあくまでも公台殿の決断の結果。私を非難するのは見当違いというものです。公路様の下で働くことが誤りだというのであれば、ご自身の口で公台殿に仰れば良い』『ふふ、もっとも、それを聞いた公台殿が何を思うかまでは、私の知るところではありませんがね……』 于吉という名の方士の、含んだ笑みが脳裏をよぎり、高順は唇をかみしめる。 今回の袁術の行動は、はっきり言えば、だまし討ち、闇討ちに類する不名誉な行為であり、どんな形であれ、それに参画してしまえば、天下に悪名を流すことになってしまうだろう。 策略、謀略などといえばもっともらしいが、その非道は覆うべくもない。まして、相手は江東の勇将として名高い孫堅であるのだから、その非道はなおさら際立ってしまうに違いない。 高順は、そんな悪行に、主君である呂布が関わることは断じて避けたかった。 当然、それは陳宮も同じである、と高順は考えていたのだが。 しかし、陳宮は、兌州の乱よりこちら、呂布や自分たち将兵を受け入れてくれた袁術の恩に報いねばならない、と主張して譲らなかったのである。 陳宮の言うとおり、今の呂布一行は、袁術の親衛隊の一員という形で扶持を受けており、袁術の命令を拒否できるだけの権限はない。だが、それならこれまでの恩を謝して、袁術領を出てしまえば良い、と高順は思う。ここ数月、呂布たちは遊んでいたわけではなく、将兵の練成につとめていたのだから、何を恥じることもなく退去できる、と。 そして、揚州に隣接する徐州には劉備がいる。あえて卑怯者の汚名を被らずとも、劉備の下で再び呂布の武名を高からしめれば良いではないか。 高順は、于吉や李儒、あるいは袁術らの下にいることは、呂布の為にならないと感じていたのである。 だが、陳宮はあくまで袁術の下にとどまることを主張した。 そして、陳宮は、ここだけの話と念を押した上で、今回の帝位宣言を呂布と高順に伝えたのである。愕然とする高順と、ぽかんとする呂布に向けて、陳宮はさらに言い募る。『それを教えられるくらいには、自分は于吉たちに信用されているのです』と。 そして、陳宮はさらに秘奥の策略を、このときはじめて高順たちに明かした。 それは、偽帝となった袁術を、呂布の武力を以って討ち取ることで、一躍、巨大な勢力を得ようというものであった…… 高順は、みずからの白装束を、厭わしげに見下ろす。 袁術麾下の最精鋭と銘打たれた告死兵。 中華帝国において、喪に殉じる色は黒ではなく白であり、そのせいだろうか、高順は、この衣装が呂布の命運と重なってしまうような、奇妙な悪寒を覚えずにはいられなかった。 高順は知らなかったが、陳宮の考えた策は、孫家のそれと重なる部分が多い。実現性という意味でいえば、決して低いとは言えないだろう。 だが、孫家にあって、呂布たちにないものがある。 それは天下への信義とでも言うべきもの。孫家の名は中華帝国に知れ渡り、その主である孫堅が忠義の人物であることはつとに有名である。孫堅が袁術を誅したとしても、それは漢帝への忠義によるものと考えられるだろう。無論、そうとはとらない者たちも多いだろうが、少なくとも、孫堅がそう主張することに不自然さはない。 だが、呂布にはそれがなかった。天下無双の驍将として、その武名は天下に鳴り響いているが、逆に言えば、呂布にはそれ以外の確固たる評が確立していないからだ。むしろ、兌州の乱において、張家と袂を分かち、見捨てたことで、自己の勢力を拡げることしか考えない人物である、と思われている節さえある。 そんな呂布が、仕えたばかりの袁術を弑逆すれば――しかも、袁術の野望をそれと知っていて見過ごし、その上で正義の名をとなえて袁家の勢力を乗っ取ろうとすれば、その後に何が待っているのか。 そのことに思いを及ばせた高順は、背筋に冷たいものを感じてしまうのだ。 とはいえ。 先刻の少女、周泰のまっすぐな眼差しを思い浮かべながら、高順は力なく俯き、つぶやいた。「もう、賽は投げられてしまいました。私たちは、この道を征くしか、ありません」 その声に、悔いがないと誰に言えよう。 孫堅を討ち取り、孫家を壊滅させ、そして帝号を僭称する袁術の麾下に属した呂布たちは、もはや引き返すことはかなわない。 陳宮の策を、呂布が認めた以上、高順はそれに従うだけだ。 それでも。「……今度会う時まで、お互い無事にいること。玄徳様……お約束、守れないかもしれません」 それでも、ありえたかもしれない未来に、未練が残っていることを、高順は恥ずかしいとは思わなかった。 ◆◆ 一方で、迷いや憂いとは無縁な者もいる。 寿春城内にあって、孫家の掃討を推し進める于吉と李儒の下に、白装束を身に着けた陳宮が報告に訪れる。「これは公台殿、孫家の追討はいかがですか?」「心配は無用なのです。孫家の将たちがいかに強くても、遠方から火と矢を浴びせれば、どうにもならないのです」 その言葉どおり、すでに陳宮の手勢は、孫堅軍の重鎮である程普を討ち取り、孫権、孫尚香らを追い詰めていた。 もっとも、これは甘寧の奮戦と、そして後から駆けつけてきた孫策、周瑜の二人によって囲みを破られてしまう。 それでも、すでに城門は閉ざされ、城壁上には隙間なく兵士たちが配備されている。孫策たちの逃亡が失敗に終わるのは、時間の問題であろうと思われた。「なるほど、これで孫策たちを討ち取れば、ほぼ計画通り、ということですね」 陳宮の報告を受け、于吉は満足そうに頷いた。「さて、孫堅殿、いえ孫堅の叛心が明白になったことで、南陽を治める者がいなくなってしまいました。南陽は、袁家にとって失うことは出来ぬ大切な領土。なまなかな者に任せるわけにはいきません。これは内意ですが、その席には文優殿に就いてもらうことになるでしょう」 于吉の言葉に、李儒の顔に喜色が浮かんだ。この人事は、あらかじめ知らされてはいたのだが、かつては一介の文官に過ぎなかった身が、いまや太守の座にまで上り詰めようとしているのである。興奮を隠せる筈はなかった。 于吉は、恭しく頭を垂れる。「御意。必ずや、ご期待に沿ってみせましょう!」「期待していますよ。公路様も、そして私もね」 于吉は次に、陳宮に視線を向ける。「奉先殿には、ひとまず公路様の親衛隊の総指揮を。しかし、遠からず袁家の軍を総率する大将軍の座に就いてもらうことになるでしょう。江東の虎、孫堅を討ち取った奉先殿の功績は隠れ無きもの。公路様もいたくお喜びでした。大将軍の旨と併せて、公台殿の口から、奉先殿に伝えてあげてください」 今、その座にいる張勲の存在を無視して、于吉はにこやかに言い放ったのである。 その言葉に、陳宮の口元に「しめた」と言うように微笑が浮かびかけたが、陳宮は慌てて口元を引き締め、内心を押し隠した。「し、承知です。では、早速恋殿にお伝えしてまいりましょうッ」「お願いしますよ。奉先殿は、公路様のお傍にいる筈です」 于吉の言葉を聞くやいなや、陳宮は脱兎のごとく駆け出すのであった。 その後姿を目で追いながら、李儒は低声で于吉に問いかけた。「……よろしいのですか、于吉殿。呂布らを公路様のお傍に置くなど、虎に生肉の番をさせるようなもの。遠からず、食われるは必定ですぞ」 李儒の懸念に、しかし、于吉は肩をすくめるだけだった。「そうでしょうか。あるいは、張勲殿が返り討ちにするやもしれませんよ。あの方も、なかなかに底の知れない人ですから」「で、あれば、何もわざわざ貴重な戦力を噛み合わせるような真似はせずともよろしいのでは? 四方の群雄が、公路様が帝号を唱えることに、黙っている筈もございませぬ」 怪訝そうな顔の李儒に、于吉は微笑んで答えた。「なに、今日明日にも内乱が生じるわけではありません。それに、四方の群雄といっても、江南を統べる者はおらず、西の劉表は天下を望む野心なきゆえに、おそらく動きません。東の陶謙は病魔に蝕まれ、後継争いに火種を抱えていると聞きます。注意すべきは、北の曹操のみでしょう」 于吉の説明を聞いても、李儒の不安は拭われない。 注意すべきは、北の曹操のみ。それはその通りであろう。しかし、その曹操の武威こそが何よりの脅威ではないのか。 そして、もし曹操が動くのであれば、もっとも危険なのは許昌に近い南陽郡であろう。 李儒は己の才覚に相応の自負を抱いているが、曹操や、その麾下の群英と、独りで相対しえると考えるほどに愚かではなかった。 そんな時に、袁家に内乱でも起きようものなら目もあてられない。 だが、そんな李儒の不安を、于吉は一笑に付す。「安心なさい。曹操が、南陽郡に攻め寄せることはありません」「……それは、何ゆえでしょうか?」 于吉の言葉に、単なる気休め以上の何かを感じ取った李儒は、神妙に問い返す。 その問いに、于吉はこうこたえた。「間もなく、曹操はそれどころではなくなるからですよ」と。 だが、そうなる理由を説明しようとはせず、さらに于吉は言葉を続ける。「曹操は、間もなく全軍を挙げて徐州に攻め込みます。その時、袁家は劉備の南への出口を塞ぐ。ふふ、さてこの包囲、いかようにして抜こうとするでしょうか。興味深いことです」 于吉は楽しげに笑う。 微笑む于吉の姿は、めずらしいものではなかったが、李儒の目に、その微笑はいつもと少し異なるように見えた。いつもの空ろなそれではなく、まるで本当に興がり、楽しみにしているように見えたのだ。 その言葉が、李儒に向けられたものではないことも明白だった。 思えば、李儒は于吉の目的が何なのかを知らない。 権勢を振るうこと。富貴を得ること。己の名を上げること。乱世にあって、何一つ望まぬ者など居はしない筈。だが、于吉はそういったものに、全くといってよいほど興味を示さない。その策謀は、李儒をして戦慄させるほどの冴えを見せながら、その目的が、これまで李儒には見ることが出来なかったのである。 だが、今ようやく、李儒はその端緒を掴んだように思えた。 于吉は言ったのだ。曹操が徐州に攻め込む、と。 徐州牧は陶謙である。ゆえに、人名を出すとき、真っ先に挙げるのは陶謙であるのが自然であろう。 しかし、于吉が名を挙げたのは劉備。陶謙に招かれ、小沛城の統治を委ねられた、あの幸運な小娘の名であった。 あるいは、于吉は劉備と何かの因縁があるのかも知れぬ。李儒はそう考えたのである。 実のところ、自身も多少の因縁を持ってはいるのだが、この時、李儒はそのことに気づいていなかった。 于吉が、再び口を開いた。「すでに、手は打ってあります。曹操のことは案ずるには及びません。文優殿は心置きなく、南陽の統治に専念してください」「はッ」 于吉の言葉に、李儒は雑念を振り払った。 あの賈駆ですら扱いかねていた呂布を、于吉は幾重もの鎖で縛り付け、掌中に置いた。 陳宮の自責の念を正確に衝き、雪辱の機会を与え、袁術の下に赴くように呂布に請願させた。陳宮を家族と考える呂布が、その請いをはねつける筈もない。 呂布にとってもう一人の家族であり、今の呂布一行の中で、ただ一人、呂布に再考を促すことが出来る高順には、陳宮が思いつめた原因が己にあることを指摘し、その口を噤ませた。 武力で押さえつけるでもなく。 金品を与えるでもなく。 ただ、わずかの会話だけで、あの飛将軍を籠の中に押し込めてしまったのである。 その手際は、李儒の目から見ても、空恐ろしいものであった。 その于吉が、すでに手は打ってある、と言ったのである。李儒に出来るのは、かしこまって頭を下げることだけであった。◆◆ 同時刻。徐州瑯耶郡。 曹操の父・曹嵩と、その母・曹凛は、曹操が宮廷に仕えるようになった後、故郷の陳留に隠棲していたのだが、中原での戦火を避けるため、さらに遠方の瑯耶郡まで避難していた。 許昌に皇帝を迎え、勢力の地盤を整えた曹操は、幾たびも母に向けて、許昌へ移り住むようにと願ったのだが、曹凛はともかく、曹嵩の方が娘の頼みに肯わなかったのである。それどころか、曹嵩は許昌どころか、さらに陳留から東へ離れた瑯耶郡に居を移してしまった。 兌州の乱が起きたことで、陳留を離れた曹嵩の判断が誤りでないことは明らかとなったが、実のところ、曹嵩は陳留の不穏な気配に気づいていたわけではない。娘への、半ば当てつけじみた行動が、たまたま良い方向に転んだだけの話だった。 このことからも明らかなように、曹嵩は、我が子である曹操に対し、愛情らしい愛情を持っていなかった。その理由は、曹嵩と、曹嵩の父であり、曹操の祖父である曹騰との関係までさかのぼる。 宦官とは、後宮内における諸事を処理する去勢した者たちのことを指す。その権限は、本来、後宮内に限られるものであったが、漢王朝、とくに光武帝以降の後漢の王朝にあって、その勢力は後宮内にとどまらず、宮廷にも伸張するまでに至っていた。 曹騰は、その宦官の中でも大身の人物で、宮廷で大きな権限を振るっていた。宦官は去勢しているため、子供はいないのだが、権力や財貨を得れば、それを後代に遺したいと考えるのが人の情である。そんな宦官の願いをかなえるため、ある程度以上の高位の宦官は、皇帝の許可を得られれば、養子を迎えることが許される制度がある。 そして、その制度を用い、曹騰が養子に迎えたのが、曹嵩だったのである。 大身の曹騰が、念入りに選んだだけあって、曹嵩は優れた人物であり、曹騰へも常に敬意と忠節を示した。 ただ、養子とはいえ、曹騰の機嫌を損なえば、すぐにその座は別の者にとってかわられてしまう不安定なもので、曹嵩は義父の歓心をかうことに必死に務めなければならなかった。 孝心の篤い曹嵩に、曹騰は満足した。孫にあたる曹操が生まれたときは、老いた頬をほころばせて喜んだ。男児でなかったことに、いくらか失望はあったものの、遠からず願いはかなえられるだろう。そう考えていたのである。 残念ながら、曹騰は男児を見ることなく亡くなるのだが、曹騰が生きている間、曹家には波風一つたたなかったといってよい。 だが、それは曹嵩にとって、豊かではあっても、破滅と背中あわせの心労の絶えない日々でもあったようだ。 曹騰亡き後、曹嵩は、娘である曹操への態度を翻した。それまでは、何かにつけて甘やかし、その賢さを褒め称えていたのだが、まるで人が変わったように、曹操に無関心になってしまった。 まだ幼かった曹操にとっては、突然の父の変心である。困惑し、悲しみ、なんとか父に褒めてもらおうと、これまで以上に勉学に励み、武芸に打ち込むようになったが、父の態度が昔の優しいものに戻ることはなかった。 父の愛情は、ようやく側妾によって得た男児の曹徳に注がれ、曹操は一顧だにされなかったのである。 妻である曹凛は、夫の内心の屈折を察してはいた。 そのことに心を痛め、事あるごとに、父娘の間に生じてしまった捩れを解きほぐそうと努めたのだが、すでにそれは取り返しのつかないものになってしまっていたらしい。 何故、義父が生きていた頃に、夫の苦悶に気づかなかったのか、と曹凛は己の不明を嘆くしかなかった。 かくて、曹家の上に時は流れ―― やがて、長じるに従って、曹操自身も父の内面を察することが出来るようになっていた。 それと悟ったとき、最初に曹操の心によぎった感情が何であったのか。それを知る者は曹操以外にいない。 だが、自ら望んで曹家の養子となり、しかしその重圧に心を折られ、娘に八つ当たりする父に対して、愛情も敬意も抱けなかったことは疑いない。曹操にとって、男とはその程度のものだ、という認識が根ざしてしまったのも、あるいはこの時であったのかもしれない。 いずれにせよ、父との表面だけの関係を、曹操は受け入れた。 すでに父に愛されぬことを嘆く年齢ではない。周囲には、夏侯惇や夏侯淵といった友がおり、曹仁、曹洪といった妹たちがいた。父に愛されるよう空しい努力をすることより、彼女らと共に野を駆け、机を並べることの方が、よほど曹操を安らがせたのである。 そして、そんな曹操を見て、ますます曹嵩の愛情は曹徳に注がれるようになり――やがて、曹操が宮廷に仕える日が訪れるのである。◆「曹凛さま~、持っていく荷物って、これだけで良いんですかー?」 『元気』という文字をそのまま声にしたような明るい声音に、曹凛の顔に自然と笑みが浮かぶ。「ええ、それだけですよ、季衣(許緒の真名)。ありがとう」 ありがとう、と言われ、許緒の顔が嬉しそうにほころぶ。「えへへー、どういたしまして、です。でも、曹凛さま、あの曹孟徳さまの母上なのに、こんな、つつ、つつ……えーと……何でしたっけ?」「慎ましい、ですよ。季衣には、もっと宿題を増やさないといけないかしら?」 教師の顔で曹凛が首をかしげると、たちまち許緒の顔に焦りの色が浮かぶ。「……ううー、あ、あのッ! もっと山みたいに荷物があるのかと思ってたんですけど」 わたわたと両手を振ってごまかそうとする許緒を見て、くすりと曹凛は微笑んだ。 はじめて、曹凛が許緒に会った時は、埃まみれの身体と、幼い顔に不似合いな、暗く、辛そうな表情を浮かべていたのだが、すでにその面影は微塵も感じられない。 そのことに、安堵していたのである。 陳留領内の外れ、他州との国境沿いに位置していた許緒の村が、野盗に襲われたのは、まだ曹凛たちが陳留にいた頃――反董卓連合軍が、洛陽に攻め入っていた時のことだった。 幼いながらに並外れた力を持つ許緒は、賊の包囲を破り、陳留城までたどりつくと、村を救ってくれるように兵隊たちに訴えでた。 これが平時であれば、張莫、あるいは張超の下に訴えが届いたであろうし、姉妹のどちらが聞いたにせよ、捨て置くことはなかったであろう。 だが、この時、張莫は連合軍に参加し、張超は補給線を確保するために出陣している最中だった。 残っているのは、治安を維持するための兵士のみ。即断することも出来ず、早急に張超に使者をはしらせることしか出来なかったのである。 だが、今まさに襲われている村を救うには、その行動は悠長に過ぎた。 使者が張超の下にたどり着き、張超がすぐさま軍を返したとしても、優に一週間は経過しているだろう。許緒の村が持ちこたえられる筈がなかった。 そう訴える許緒であるが、それ以上の決断を下すことを、この時、城に残っていた将兵はためらった。臆病ゆえではない。これが陳留を狙ういずこかの敵の策略だという可能性も考えられたのだ。村を救うために兵を出し、その隙に城を陥とされでもしたら、どうするというのか。 許緒の言葉、兵士たちの言葉、そのいずれにも理があった。 どれだけ必死に訴えられても、兵士たちは動くことが出来なかったのである。 許緒の視界が、半ば絶望で覆われようとしていた、まさにその時。「どうしたのですか、見れば幼子のようですが、そのように埃まみれになって」「え?」 傍らから声をかけてきたのは、ちょっと信じられないくらい綺麗な女性だった。 許緒は、ぽかんと口を空けて、その貴婦人の姿に見入るしかなかったのである…… ◆ その後の曹凛の動きは、さすがはあの曹操を生み、育てた人である、としか言いようがなかった。 夫の私兵を駆り出し、たちまち三〇人近い部隊をつくりあげると、呆気にとられる夫や、顔を真っ青にして反対する兵士たちを押し切って、許緒と共に村へ向かってしまったのである。 この時、すでに張莫は、曹操の麾下にいる。主君の母を見殺しにしたとあっては、後でどのような処罰が下されるか、想像するだに恐ろしい。 慌てに慌てた陳留の留守部隊は、張超へ事の次第を告げる使者を発し、大至急の帰還を請うや、準備の出来た兵たちから随時、出陣させていったのである。 かくて、許緒の村を襲った賊徒は、血相をかえた陳留勢の猛攻を受け、わずか半刻で壊滅する羽目になる…… この一件以後、許緒は曹凛に私淑し、曹凛も許緒の人柄を気に入って、手元に置くようになったのである。 曹凛は、いずれ、許緒がきちんと勉学を身につけた時、許緒が望むなら曹操に推挙しようと考えていた。曹操をはじめ、夏侯姉妹や、曹仁、曹洪の子供時代を知る曹凛は、許緒の姿に、幼いときの彼らの姿が重なって見えた。つまりは、それだけの資質を、許緒は秘めていると見抜いたのである。 そんなことを考えていた曹凛の耳に、ややためらいがちな許緒の言葉が飛び込んできた。「……あの、曹嵩さまや、曹徳さまも、許昌までご一緒するんですよね? でも、お二人とも、なんだかすごく機嫌が悪いように見えるんですけど」「――そう、やっぱり、季衣の目にもそう映ってしまうわよね」 許緒に心配をかけないように、胸中でため息を吐く曹凛であった。 風雲急を告げる中華帝国の情勢を鑑み、これ以上、父と母を徐州に置いておくことは出来ないと考えた曹操は、此度、これまでにない強い調子で、許昌への移住を請うてきた。いや、請うというより、それはもう命令に近い。 使者と共にあらわれた、数十人の屈強な男たち。彼らは服装こそ、そこいらの農民たちと似ていたが、実際は曹操の命令を受けた手錬の兵であることは明白であった。そして、それが父の拒絶を許さない曹操の意思表示であることも明らかだった。否といえば、力ずくで、というわけである。 かつては、聡明をうたわれた曹嵩である。娘の意図に気づかない筈はない。無理やり連れ出されるという不名誉を免れるためには、みずからの意思で首を縦に振るしかなかったのである。 だが、当然といえば当然ながら、その心中は穏やかならざるものがあった。そして、父に溺愛された曹徳や、その曹徳の母たちもまた同じ心境であったのだ。「親への孝は、儒の根本。これまでのような一介の廷臣ならばともかく、朝廷で大身となった華琳は、いつまでも二親を放っておくわけにはいかない。それは仕方のないことなのだけど……」 もちろん、それだけではないだろう。自らに敵対する者たちが、曹凛たちの存在を知れば、どう動くかわからない。そういった心配もしているに違いない。あの娘は、決して、それを態度にはあらわさないだろうけれど。 だが同時に、娘に物事を強いられることに、不快をおぼえる夫の心情もまた、無理からぬこと、と曹凛は思う。 許緒は腕組みしながら、首を傾げた。「うーん、難しいんですねー。ボクなら、家族と一緒に暮らせるなら、その方がずっと良いのにって思うだけですけど」 その素朴な言葉に、曹凛は深く頷いてみせる。「そうねえ、みんなが、季衣みたいに素直になってくれれば、世の中に争いなんて、ほとんどなくなってくれるでしょうにね」 そう言った後、曹凛は気がかりそうに口を開く。「季衣。もし望むなら、村に帰ってくれても良いのよ? あなたには、とてもお世話になっているし、お別れするのはつらいけれど、私はあなたを縛り付けるつもりはありませんから」「へッ?! あ、いえ、そういう意味で言ったわけじゃないですよッ! ボ、ボクは曹凛さまにお仕えできて、とっっっても嬉しいんですからッ!! い、今のは、その、物のたとえ、というやつです」 ぽかんとした後、慌てて首と両手を左右に振る許緒の姿に、曹凛は暖かい眼差しを向けた。 それは、曹凛一行が、許昌へと出立する、前夜の光景であった。