「なッ?!」「ひィッ!!」「――ッ!」 驚愕が、広間に満ちた。盆に視線を集中させていた袁術軍の者たちが、一様に驚きと――そして、恐怖を顔に浮かべる。 それも仕方ないことであろう。 まさか、人の頭部が中から出てくるなど、誰が予想できようか。 だが、どれだけ信じられなかろうと、それは疑いなき事実。告死兵が持ってきた盆に載せられた首は、瞼は閉ざされ、髪を綺麗になでつけられ、あたかも眠っているかのようであったが、その首を切り裂いた赤い傷口が、この人物に襲い掛かった惨劇が夢ではないことを証し立てていた。 孫堅軍の者たちの目に、恐怖はなかった。あるのは驚愕と、そしてそれ以上に激しい怒りであった。何故なら、彼らは皆、その首が誰であるかを知っていたからである。「――朱治ッ!」 程普の口から、血を吐くような呻きがもれた。程普だけではない。周囲の将たち、そして孫堅もまた、その首が配下の朱治の首であることに気がついた。ここ寿春にて、孫家のために働き続けていた部下。しかるに、今日、何故か一度も姿を現さなかった配下。 孫堅も、不思議には思っていた。だが、何分、謁見が急であったこともあり、たいして気にとめてはいなかったのだ。 だが、朱治の首を前にすれば、全ての物事が、一本の糸で結ばれる。 朱治は、反董卓連合結成時、孫堅にしたがって洛陽に遠征した将の一人であり、当然、玉璽のことも知っている。 孫家に曇りなき忠誠を捧げる朱治が、玉璽のことをもらすとは考えにくいが、あるいは家族を人質にでも取られてしまったのか。 だが、手段はどうあれ、朱治を捕らえた者は、朱治の口から玉璽が今、いずこにあるかを聞き出したのであろう。そして、用済みとばかりに、その首を刎ねてしまった。 配下が騙まし討ちに等しい所業で命を奪われたのだ。朱治の痛み、無念を、その相手に十倍にして返してやることを、孫堅は瞬時に誓った。 その犯人を見つけるのは、いたって容易い。すなわち、孫堅軍以外で、孫堅が玉璽を秘していると知っている者こそ、その蛮行をなした者。 つまり――「――于吉ッ!!」 認識が理解をもたらし、理解は憤怒へと直結する。孫家の主従が、怒りの咆哮をあげながら、武器を抜き放とうとする、まさにその寸前であった。 それまで、静黙を保ってきた告死兵の一人が、この時、化鳥のように動いた。 激昂した孫堅が、剣を抜こうとする刹那、一瞬で間合いを詰めた仮面の兵は、いつの間に抜き放っていたのか、手に持った剣を一閃させる。 白銀の閃光が、孫堅に襲い掛かる。 さすがの孫堅が、唖然として、避けることさえ出来なかった。 孫堅と、その兵士、最初に動いたのは孫堅であった筈だ。にもかかわらず、先に襲い掛かってきたのは、兵士の斬撃であった。 武人が、相手に切りつけるまでに必要な三つの行程。 踏み込み。抜剣。斬撃。 長く戦塵を駆け抜けてきた孫堅であったが、自らが撃ちかかろうと踏み込むまでのわずかの時間で、斬撃まで終わらせるような、神域の武を相手取ったのは、初めてであった。 音もなく飛び込んできた、告死兵の一撃は、孫堅の右肩から、左の腰までを一撃で切り裂いていた。だが、血飛沫が飛び散ることはない。 その兵の剣先についたのは、切り裂かれた孫堅の衣服の屑だけである。 何のためかはわからないが、告死兵は、孫堅の衣服のみを断ち切ったのである。「ちィッ!」 孫堅は、咄嗟に後方に飛び、今度こそ、腰に提げていた南海覇王を抜き放つ。 相手の思惑はわからないが、これは稀有の幸運であった。もし、相手がその気であれば、間違いなく、孫堅は斬殺されていたであろうから。 不意に。 謁見の間に、奇妙に透き通った音が木霊した。 それが、告死兵に切り裂かれた衣服の隙間から、床へと零れ落ちた、一個の玉が転がる音であることを、孫堅は悟る。「――しまッ?!」 思わず手を伸ばすが、自ら後方にとびすさってしまった孫堅の手は、床に落ちた宝玉に届かない。 それを拾い上げたのは――「『受命于天 既寿永昌』。まさしく、秦の始皇帝が霊石を削って作り出したという、伝国の璽でございますね」 于吉は、くすりと微笑むと、それを袁家にもたらしてくれた孫堅に向かって、労を謝するように、恭しく頭を垂れた。 事態を悟った孫堅麾下の将軍たちは、一斉に動き出そうとする。 于吉の慇懃無礼な態度に立腹したわけではない。玉璽の存在を明らかにされてしまえば、孫家こそ逆賊に堕ちてしまうことを知っていたからである。少なくとも、目の前の方士は、間違いなく事態をその方向へ持っていこうとするだろう。 何としても、玉璽は取り戻さねばならなかった。 だが、そんな彼らの眼前を、左から右へ、剣光が一閃する。 孫堅に襲い掛かった告死兵が、孫家の将軍たちの動きを制するために、持っていた剣を横に振るったのだ。 否、それはただの威嚇ではなかった。「がああッ?!」「義公ッ?!」 いち早く飛び出していた韓当が、苦悶の声をあげながらも、床に倒れ伏す。なんとか右手に持った剣だけは手放さずにいたが、顔の上半分を覆った左手の隙間からは、暗赤色の液体が、にじみ出るように零れ落ちてくる。 告死兵の剣は、精確に、韓当の両目を断ち切っていたのである。 息をのむほどの剣技の冴えに、一瞬、袁家、孫家、双方の動きが止まる。 その静寂を衝いて、于吉の声が朗々と響き渡った。「こと破れたり、というところですね、孫家の長」 その于吉の言葉に続いたのは、それまで、黙然と事態を見守っていた李儒であった。 底の見えない昏い瞳が、孫堅に向けられる。「玉璽を隠し持ったるは、主家への義ゆえではなく、漢朝への忠ゆえでもなく、ただ己が野心を満たさんとする我欲、我執の念ゆえであること、すでに明白であるッ!」 李儒は、謁見の間にいる者たちすべてに届くように、高らかに孫堅を弾劾した。「諸将よ、何を迷うことがあろうか! 天命に従いて、公路様の剣となるか。逆賊に付き従って、千載に悪名を残すのか。いずれに理があり、いずれに栄光が待つか、赤子の目にさえ明らかではないかッ! 迷いは不要、ただちに逆賊孫堅を討ち取れィッ!」 冷静に考えれば、この李儒の言は矛盾をはらむ。 漢朝の臣、という立場からすれば、玉璽を秘した孫堅の罪は明らかであり、その我欲を責められるは当然であろう。 だが、漢に叛するという点では、袁術たちとて等しい罪業を背負っている。孫堅を討つことと、袁術に従うことは、必ずしも一致しない。 だが、争気と殺気に満ちた混乱は、人々の心から冷静さを失わせていく。また、この期に及んで、孫堅にもつかず、袁術にも従わない傍観者の立場をとることが至難であることは言うまでもなかった。 何よりも。「たわけたことをッ! 逆臣が、我らを逆賊とののしるなど、片腹いたッ――」 たまりかねて、于吉と李儒を論難しようとしたのは、先刻の傷にも怯まず、立ち上がった韓当だった。 両眼を断ち切られながら、なおも于吉らを弾劾しようとした、その韓当の首筋に、一本の矢が突き立った。 常の韓当であれば、避けることは出来たかもしれない。だが、今の韓当に、迫り来る矢を避ける術はなく、韓当は、首筋に刺さった矢を掴みながら、血の泡を吐いて、再度、床に崩れおちた。そして、今度は立ち上がることが出来なかった。 いつのまにか。 謁見の間の柱の影からあらわれた弓兵が、群臣に向かって弓を構えていた。 そのいずれもが、仮面で顔を覆っているのは、言うまでもないことか。 拱手傍観していれば、その矢は、やがて自分たちに向けられることになるかもしれない。袁術の家臣たちの多くがそう考えた。 今、この時、命を惜しむのならば、どちらにつくべきかは明らかであった。◆◆ 次の瞬間、謁見の間に響いたのは、数知れぬ抜剣の音。 その大半は袁術に従う者のそれであり、孫堅に与する者たちは、ほんの一握りに過ぎなかった。 たちまちのうちに喚声と怒号が錯綜する争乱の場と変じた謁見の間。 孫堅たちは、つい半刻前には想像もしていなかった窮地に立たされていた。「蓮華様、こちらへッ」 甘寧は、目の前に立ちふさがる袁術軍の武将数名を斬り倒すと、孫権へと呼びかけた。 このまま、謁見の間にとどまり続ければ、待っているのは斬殺の運命だけであろう。 それは、孫権にもわかっていた。だが、理性が導き出した逃走という結論を、荒立つ感情が認めようとしないのである。「わかっているッ、だが、ここまで袁術ごときに虚仮にされてッ!」「お怒りはごもっともですが、今はこらえてください。ここにとどまれば、死は免れません」 あくまで冷静に、孫権を諭す甘寧。 だが、その甘寧の言葉に肯んじないのは、孫権だけではない。 孫権の近くにいた孫尚香もまた、逃げることをよしとはしなかった。「思春、朋輩の無念を晴らさずに逃げるなんて、それでも孫家の将なのッ?! 孫家に敵対するやつらなんて、このシャオ様がとっちめてやるんだからッ!」 孫尚香の言葉に、甘寧の視線が、一瞬、倒れた韓当と、そして首となった朱治に向けられる。 その視線に、怒りがないなどと誰に言えよう。 だが、視線を戻した甘寧の言葉に、感情の揺れは微塵もない。「朋輩の無念を思えばこそ、ここで無駄死にすることは出来ぬのです。そして、お二方を無駄死にさせることも出来ないのです」 甘寧の言葉に、なおも孫家の娘たちが反論しようとした時だった。 告死兵の一人が、隙ありと見たのか、孫権に向かって斬りかかってきた。 甘寧は、咄嗟に孫権の前に立ちふさがろうとするが、それよりも早く、告死兵の身体は、勢い良く謁見の間の床面に叩きつけられていた。 告死兵を後背から斬り捨てたのは、孫家の重鎮である程普であった。「お二方とも、何をグズグズとされておられるのかッ! 興覇、おぬしがついていながらッ!」「――は、申し訳ございません」 程普は孫家の武将の首座に位置し、若年の甘寧とは親と子ほど年齢が離れている。言い返す言葉などあろう筈がない。 また、長年、孫家に付従ってきた程普にとって、孫権や孫尚香は我が子に等しい。この危急の時にあって、程普の言葉には主家への遠慮はかけらもなかった。「で、でも、徳謀ッ! 朱治の仇も討たずにッ!」 孫尚香は、それでもまだ納得しようとはしなかったが、程普はこの期に及んで、論争に時を費やす必要を認めなかった。「それがしが、血路を開きまする。お二人はその後ろに続いてくだされ。興覇、おぬしは追いしたう敵兵どもを排除せよッ!」 言うや、程普は孫権たちの返答も聞かずに、謁見の間の出口へ向けて飛び出していく。 なおもこの場にとどまろうとすれば、程普を見殺しにする結果になってしまうだろう。孫権たちは、いやおうなく、逃走の道を選ぶしかなかった。「蓮華様、小蓮様、敵と斬り結ぼうとはなさいませんよう。ただ逃げることだけお考え下さい」 憎しみにまかせて敵兵を殺そうとすれば、要らぬ隙を生じることになる。 甘寧の助言に、孫権と孫尚香は、無念さを隠さず、しかし、しっかりと頷いて見せた。「――さて、飛んで火に入る夏の虫、とは言うけれど」 孫策は口元に不敵な笑みを浮かべながら、剣を右に左に走らせる。 その都度、孫策の剣刃は、新たな敵兵の血に塗れた。孫策が持つのは、かなりの名剣であるが、すでに告死兵を含む10人近くの敵兵を斬り倒した刃は、敵兵の血と脂にまみれ、剣としての用をなせなくなりつつあった。 だが、切れ味が鈍ろうと、孫策の剣撃の脅威はいささかも衰えない。 鋼の刃は、今や鮮血色の鉄鞭となって、群がり来る敵兵を次々と打ち据えていった。「――ふむ、実際、その立場に立ってみると、なかなかに面妖な気分ね」 その孫策の隣では、こちらも孫策に勝るとも劣らぬ武威を見せ付ける孫堅の姿があった。 宝剣、南海覇王は、その類まれなる切れ味を存分に発揮し、袁家の将兵の血を吸って猛り立つ。 この母娘の前に、袁術軍の将兵は次々と倒れ伏す。苦悶の響きは絶えず、絶命した屍は、瞬く間に山のように積み重なっていった。 だが、それだけの奮戦も、状況を変えるには至らない。 何故なら、袁術側の主力である告死兵の姿が、ほとんど見受けられないからである。 時折、襲い掛かってくる者もいるにはいたが、韓当を斬った者とは比較すべくもない技量の者ばかりであった。 それが、孫堅たちの疲労を待つためであることは明白であったが、孫堅たちの後背をまもっていた周瑜は、敵の秘した狙いも看破する。 おそらく、袁術――あるいは于吉と李儒は、孫家の手を借りて、旧勢力を排除するつもりなのだろう。彼らにしてみれば、ここでどちらが倒れようと気にかける必要はない。孫家という目の上のコブを殲滅し、旧態依然の袁術軍の将たちを排除して、かつ自分たちの戦力を最大限に温存する。 これまでのところ、腹立たしいまでに、敵の思惑通りになっていることを、周瑜は、そして孫堅母娘も、認めざるを得なかった。「蓮華と小蓮は?」 孫堅の問いに、孫策がそっけなく答えた。「徳謀と思春がついているから、心配いらないでしょ。それより、こっちの心配をした方が良いんじゃない? そろそろ退き時だと思うけど」「私も、雪蓮に同意します、文台様」 孫策と周瑜の意見に、孫堅はあっさりと頷いて見せた。「――そうね、そろそろあなたたちは退きなさい」 その孫堅の返答に、孫策は、やっぱり、と言いたげに肩をすくめた。「……あなたたち、というところを見ると、自分は残るとか言いそうね、母様。あいにく、そんな真似をさせるつもりはないわよ。私も、冥琳もね。母様あってこその孫家。こんなところで、神輿を失うわけにはいかないの」 孫策にはわかっていた。 袁術の張り巡らした策謀に絡めとられ、自分のみならず部下たちまで、死地に足を踏み入れさせてしまった自らの愚かさを、母がどれだけ悔いているかを。 だからこそ、争いがはじまってこの方、ずっと孫堅の傍を離れずにいたのである。 いざとなれば、力ずくでも良い。引きずって逃げられるように。 そして、そんな孫策の心を、周瑜もまた悟っていたのである。 だが。「策」「なあに?」 異論なら認めない。そう言わんばかりの孫策の仏頂面に、孫堅は穏やかな笑みを投げかけた。「私は、死を以って責任をとろうとしているわけではないわ。もっと単純に――」 誰かがあの将を止めなければ、ここで孫家の柱石は全滅する。 それがわかっているからこそ、孫堅はこの場に残る心算だったのである。 いつのまに、そこに来ていたのか。 孫堅たちの視線の先には、先刻、孫堅をして反応できない剣撃を浴びせてきた告死兵の、おそらくは将軍の姿があった。 仮面の隙間からかすかに見える緋色の髪が、孫堅にそれを教えたのだが、仮にそんな特徴がなかったとしても、眼前に佇む武人の鋭気と覇気を見誤ることはなかったであろう。 剣を交えたからこそ、孫堅にはわかる。この人物は、ここで仕留めねばならない。さもなくば、孫堅がここまで必死に築き上げてきたもの、その全てが崩れ去ってしまう、と。 人が。 物が。 何よりも、志が。「なら、私たちが――」「雪蓮」 口を開きかけた孫策に対して、孫堅は娘の真名を呼んだ。 その意味を、孫策は一瞬で悟った――悟ってしまった。 共に強情であり、我の強い母と娘である。顔をあわせれば憎まれ口を叩くようになってしまったのは、必然であったかもしれない。それでも、その心底は、暖かく、確かな絆で結ばれていた。 当人たちに言えば、むきになって否定したであろうが、たとえば周瑜の目から見れば、それは明らかなことであったのだ。 こうしている間にも、袁術の手勢は増え続け、孫家の味方は次々に倒れてく。 もはや、一刻の猶予もない。孫堅はそう判断し、眼差しを孫策から、周瑜へと向けた。「冥琳」「……はい、文台様」「これからは、あなたと雪蓮が孫家を背負うことになるわ。この子の世話は大変だと思うけど、よろしくお願いね」 母とも慕った主君の最後の願い、それに否やをとなえることなど、出来る筈がなかった。 周瑜は、苦渋の表情を押し隠し、深々と頭を下げる。「……我が真名に誓って、必ずや」 その周瑜の言葉に、孫堅はにこりと、心底嬉しそうに微笑むのであった。 孫堅のすぐ後ろ。それまで、何とか告死兵の猛攻をとどめていた祖茂の巨躯が、崩れ落ちる。 だが、祖茂は最後の力を振り絞り、眼前の告死兵に突進し、わずかな、しかしかけがえのない時間を導き出す。 その時間を用いて、孫堅は最後の言葉を、二人の娘に遺した。 孫家は、今日この時をもって壊滅的な打撃を受けるだろう。再び天下に挑む力を得るまで、どれだけの時間が必要となるかは、孫堅にもわからない。 わかるのは、新しい孫家の柱石は、目の前にいる我が娘たち以外にいないということだ。 孫権と、孫尚香、そしてそれ以外の若き将たちを導くのもまた、二人の役割となる。 それはすなわち――「雪蓮、冥琳、我が愛する娘たちよ。この母の果たしえなかった夢、あなたたちに託すわ」 孫家の未来が、二人の手にゆだねられたということだった。 将軍の、兵士の、その家族の、すべての未来を娘たちに託した孫堅は、軽やかな動作で、孫策に向けて愛剣を放った。 反射的にそれを受け取った孫策は、ただ一度だけ、奥歯を強くかみ締める。 だが、すぐにその表情は冷静さを取り戻し、そして、己が剣を、代わりに孫堅に放り投げた。 それを受け取った孫堅は、それ以上、言葉を重ねようとはしなかった。言うべき言葉は伝えた。そして、背後に迫り来る敵は、もうこれ以上の猶予を与えてくれないであろうから。 無言で告死兵と向かい合う母の背に、孫策は小さく何事かをつぶやいた。 それは、近くにいた周瑜にすら聞き取れないほどにかすかな声。 けれど、何故か孫堅の耳に、それははっきりと聞こえてきた。孫策はこういったのである。「母様――孫家の宿願、必ず果たして見せるからね」と。 そして、孫策もまた、その言葉が母に届いたことを知っていた。 それが、母娘の別離の時となる。 孫策は素早く踵を返して出口へ向かい、周瑜もその後に続く。 孫策は母より託された『南海覇王』を、周瑜は得物である鞭『白虎九尾』を、それぞれに構えると、群がる敵兵のただなかに、ためらうことなく突っ込んでいくのだった。◆◆ かくて、残され、対峙するは江東の虎と、緋色の髪の告死兵。 周囲はすでにことごとく袁術の手勢に制圧されつつあり、勝敗の帰結はすでに明らかである。 だが、孫堅はそんな些事を気にかけることはなかった。 その胸に宿るは、悔いであり、無念であったが、しかし、一人の武人として、目の前にいる、神勇の武人と矛を交えることを喜ぶ気持ちがあることも否定できない孫堅であった。 孫策が用いていた剣を下段に構え、孫堅は口を開いた。「我が姓は孫、名は堅、字は文台。孫家の長と対するに、その仮面は無粋ではないかな、武者殿。地獄の羅刹に、己を手にかけた者の名前くらい言ってやりたいものとは思わんか?」 名乗りをあげはしたが、孫堅は、はじめから、相手の返答など期待していなかった。 だからこそ。「…………ん」 その言葉に、相手があっさりと応じた時は、驚くよりも先に、奇妙な可笑しさを感じてしまったのである。 かすかに笑みをもらした孫堅の視線の先には、仮面を外した告死兵の素顔がある。 緋色の髪と、緋色の瞳。 その茫洋とした眼差しは、何故か、孫堅に、母を捜す迷い子を連想させた。 そして、孫堅はその迷子が誰であるかを知っていた。 あれは確か、虎牢関のこと。遠目に見ただけであったが、あの驍雄の武将を、忘れられる筈もない。「ふむ、まさかおぬしが袁術の下にいたとはな。いや、それとも、おぬしがついたは、あの方士の方か? いずれにせよ、惜しいことだな――飛将軍・呂奉先」「…………」 告死兵――呂布は、しかし、もう孫堅の言葉に応じようとはしなかった。 無造作に構える呂布。しかし、相対する孫堅は、呂布の身体から発する圧倒的な覇気を感じ取っていた。 だが、物理的な圧迫感さえ伴ったそれを総身で受け止めながら、孫堅は口元にはっきりと笑みを浮かべたのである。「孫家のことは、次代に託した。最後に、すべてのしがらみを捨て、中華最強の武人と戦う機会をえようとは、ふふ、天も味なことをしてくれるものよ」 孫堅の腰が、わずかに落ちる。ただそれだけの動作に、呂布は進みかけた足を止め、剣を構えなおした。 しなやかな四肢に力を込める孫堅の姿は、相対する者にとっては、その異名たる虎の姿にも似た、危険きわまりないものであったのだ。あの呂布ですら、防御の姿勢をとらざるをえないほどに。 たちまちのうちに、両者の間に闘気がゆらめき、覇気が渦を巻いた。 周囲の将兵は、息をすることさえ忘れ、この稀代の激突を両の眼に収めることしか出来ない。この時、孫堅を討つという武名を欲し、ひそかに動きかけていた李儒でさえ、身動ぎ一つ出来なくなっていたのである。 無論、当の二人は、そんな小者の思惑になぞ気づいていない。気づく必要もまたない。 軟弱な者ならば、その眼光だけで気死したであろう睨みあいは、実際のところ、ほんの数秒でしかなかった。 今や、ただ二人だけの舞台と化した謁見の間に、孫堅の気合が轟いた。「――殺ッ(シャア)!」 そして、それを真っ向から受け止めた呂布の口から、はじめて、はっきりとした雄たけびがあがった。「…………アアアッ!」 圧倒的な武と武のぶつかり合い。 両雄の激突に、寿春の城そのものが揺れたかのように思われた。 呂布の額を断ち割らんとした孫堅の一刀は、その前髪を一房切り落とすにとどまった。額を断ち割る寸前、呂布がほんの半歩、身を引いたからである。 そして。 満を持して、呂布が前に出た瞬間、勝敗は決した。 ――呂布の剣が、孫堅の胸元から引き抜かれた瞬間、胸の傷口と、孫堅の口とから、暗赤色の液体があふれ出る。それは、たちまちのうちに孫堅の足元に紅い水溜りを形作っていった。「……天下、無双、か。聞きしにまさる……」 孫堅の口から出たのは、純粋に他意のない感嘆の言葉であった。 だが、その数語の間にさえ、孫堅の口からは絶えず血が吐き出されていく。人が死に逝く、それは、凄惨な光景である筈だった。だが、鮮血のただなかで、それでも膝を折らぬ孫堅の姿が、凄惨の一語に優る何かを、はっきりと周囲に知らしめていたのである。それは、誇りというものであったろうか。 されど、それをもってしても、もはや運命は変えられぬ。 己が血でつくられた泉の、ただなかに立ち尽くす孫堅の瞳から、急速に生気が喪われていく。 そのことを、はっきりと感じ取った孫堅は、最後の力をこめて、口を開き。「――飛将軍よ、礼を言う」 己が命を奪った相手。生涯の最後に、最高の武を発揮させてくれた相手に向けて、短く礼を口にするのであった。 それと同時に、その目から、完全に生気が消える。 ゆっくりと、床に崩れ落ちていく孫堅。 血溜りの中に倒れ伏そうとするその身体は。「………………」 寸前、歩を進めた呂布の腕の中におさまったのである。 時に、孫堅、38歳。 江東の虎と恐れられ、荊州をはじめ、中華の各地にその武名を轟かせた孫家の長は、宿願を果たさずして逝く。 主君の死によって、孫家が受けた影響は甚だ大きく、この後、孫家の名は群雄の列から消えうせる。その名が再び現れるのは、これより一年近く後、江南の地においてである。 また、孫堅が寿春城で果てた時刻、長江下流域の住民たちの多くが、長江の水面に黄竜の姿を見たとされる。黄竜は、名残を惜しむように、しばらくの間、水面下をさまよっていたが、やがてその姿を再び河の奥底へと隠してしまう。 孫堅を慕う住民の多くが、この黄竜の姿を見て、孫堅の死を知った、と後の史書は記している……