南陽から東へ数日。 汝南の城にたどり着いた孫堅は、そこで腹心の部下の出迎えを受ける。 顎から首筋にかけて、見事な髭を生やした壮年の男性は、孫堅に向かって深々と一礼する。 程普、字を徳謀と言い、黄蓋と並んで孫家の武の要ともいうべき人物であった。 程普の後ろに控えるのは、韓当と祖茂の二人である。孫堅軍の中にあって、黄蓋と程普に次ぐ勇武の将軍たちである。 彼らを代表して、程普が口を開いた。「お久しゅうございます、文台様」「ええ、徳謀も壮健そうで何よりよ。義公(韓当の字)、大栄(祖茂の字)もね」 主の言葉に従い、一斉に頭を下げる三将軍。 彼らは、袁術の命により、陳の攻略を進めていたのだが、今回、急遽、寿春の地への参集を命じられ、軍を返してきたのである。 彼らだけではなく、荊州から豫州、揚州にかけて、幅広く展開している孫堅軍の多くが、寿春への集結を命じられていた。 南陽から寿春に向かう孫堅と、陳から寿春へ向かう程普たちが汝南で出会ったのは、あくまでも偶然に過ぎない。少なくとも、建前としてはそうなっていた。 だが、主君への挨拶を済ませると、そんな建前はたちまちかなぐり捨てられた。 程普は、孫堅の背後に控えていた戦友に声をかける。「祭(黄蓋の真名)よ、此度の件、一体どうなっておるのだ?」「徳謀、それはわしがおぬしらに訊ねようとおもっとったことじゃぞ。わしらは荊州からこの地に着いたばかり。寿春のことは、おぬしらの方が詳しかろう」 黄蓋の反問に、程普は困惑した様子を隠さなかった。「わしらも、ほとんど戦場にいたゆえな。寿春の君理(朱治の字)から、ある程度の情報は送られてきていたから、袁術が寿春でなにやら動いておったことは知っておる。だが、それにしても、ここまでの規模で軍勢を集めるとは思っておらなんだ」 袁術が寿春に集結させる軍の総数は、孫堅の軍を含め、その総数は、5万とも6万とも言われていた。 何処かへ軍を発するのかとも思われたが、これまでの例で言えば、袁術はまず初手に孫堅の軍を据える。今回は、そういった指示は来ていない。 そこのところが、黄蓋にも、程普にも解せないところだった。 「ふうむ、おぬしたちでも、予測できんほどじゃったのか」 腕組みして考え込む黄蓋に、程普は誰かを捜すようにあたりに視線をはしらせた。「伯符様と公瑾の姿が見えないようだが、どうしたのだ。あの二人なら、勘と理詰めの双方で真実を突き止めてくれそうだが」「後陣で、妹君らを待っておるよ。合流したら、すぐにもこちらに来るじゃろう」「ふむ。仲謀様と、尚香様か。やはり、お二人も寿春に招かれたのだな」「うむ、これまでは、神経質なまでに、我らを四方の国境に分散させて張り付かせていたというにのう。袁家の小娘め、一体なにを考えておるのやら」 黄蓋が肩をすくめると、程普は髭を揺らして、愉快そうに笑った。「全くだな。したが、此度の件、見ようによっては好機であろう。あまり大声では言えんがな――」 そこまで口にした程普は、袁術配下の城兵が近づいてくるのを見つけ、つとめて何気ない様子を装い、話題を当たり障りのないものにかえるのだった。 その夜、汝南城の一隅では、各地に散っていた孫堅軍が一堂に会し、にぎやかな再会が行われた。「母様、お久しぶりで――」「わ~い、かあさまーッ!」 孫権が礼儀正しく母に礼をほどこそうとする、その脇を、小さな旋風が駆け抜けていった。 その旋風はそのままの勢いで、孫堅の胸に飛び込んでいく。前回、袁術の褒賞の一貫として、南陽の城で顔をあわせてから、まだ三月と経っていない。それでも、まだ幼い孫尚香にとっては、母に会えなかった期間は、とても長く感じられたのだろう。「ふふ、シャオは相変わらず元気が良いわね」 孫堅は飛びついてきた孫尚香の身体を何なく受け止め、屈託なげに笑うが、姉である孫権は厳しい表情で妹をたしなめた。「シャオッ! 母様は一軍の主なのよ、礼儀をわきまえなさいッ」「えー、実の母娘なんだから、そんなの気にしないで良いでしょう。蓮華姉様、頭が固すぎだよ。ねー、かあさまッ」 姉に向かって舌を出すと、孫尚香は甘えるように母の胸に顔をうずめた。 そんな妹の姿をみて、孫権は柳眉を逆立て、さらに何か口にしかけるが、苦笑と共にそれを制したのは、二人の姉である孫策だった。「蓮華も、そう怒らないで。シャオにとっては久しぶりの母様なんだから、仕方ないわよ」「しかし、姉様ッ。部下たちの前で、このような真似をすれば、孫家の一族が、公私の別をつけられないものと思われてしまいます」「そこまで肝の小さな人間は、この場にはいないわよ。袁術の下の、そのまた下にいることに耐えられる物好きばかりなんだから」 孫策の言葉に、孫堅が孫尚香の頭を撫でながらも、少し憮然とした顔つきをした。「策、なぜだか当てこすられているように聞こえるのは、私の気のせいなのかしら?」「ええ、もちろん気のせいよ、親愛なるお母様?」 あははうふふと笑みをかわしあう孫堅と孫策。 その様子を見て、孫権と、そしてようやく母から離れた孫尚香は、それまでの経緯を忘れて顔を見合わせた。 孫権が口を開く。「あいかわらず――」「喧嘩ばかりなんだね」 孫尚香は、ため息まじりに、そう答えるのだった。 再会の喜びが一段落すると、孫堅は、姉妹の後ろに影のように控える武将に声をかけた。「興覇(甘寧の字)、蓮華とシャオの護衛、ご苦労でした」「もったいないお言葉です、文台様」 甘寧は、主君の言葉に深々と頭を下げると、すぐに口を閉ざし、再び周囲を警戒する態勢にはいった。 孫堅を客将格として抱える袁術であるが、信を置いているわけでは決してない。 今、この場に孫家の将帥たちが一堂に会していることも、それと知られれば、後々問題になってくることだろう。 もっとも――「内には興覇が、そして外では幼平(周泰の字)が目を光らせております。事がもれる心配はありますまい」 周瑜の言に、一堂は得心して頷くが、だからといって、いつまでも話し込んでいては、それこそ袁術側の疑惑を掻きたてるだけになる。 彼らは再会の喜びに緩んだ顔を引き締め直すと、現状の確認に移った。 孫堅軍の諸将の中で、もっとも長く孫堅に仕え、群臣の首座を占めるのは程普と黄蓋である。 口火を切ったのはその中の一人、程普であった。「――さて、我らが一堂に会する機会を得られたは喜ばしきことだが、問題はそれを許した袁術にある。今後、我らがどう動くべきか、皆の意見を聞かせてもらいたい。まず、公瑾に問いたい」 程普に指名された形の周瑜は、年長の諸将に丁寧に一礼してから口を開いた。「寿春の君理殿からの知らせによれば、袁術は寿春に大兵を集めると同時に、宮殿を珠玉で飾り立て、路上を花々で敷き詰め、楽師を募るなど、なにやら巨大な催しでもはじめようとしているようにも見えるとのことです」 周瑜が口にしたことは、すでに朱治を通して程普、黄蓋も知らされていることだった。当然、孫堅もすでに知っている。 周瑜がことさらそれを口にしたのは、寿春の様子を詳しく知らない他の諸将の為であった。「それを見るに、今回の命令、一概に戦のためのみとも思えない節がございます。ただ、私が考えるに、この際、袁術の狙いは捨て置いてもよろしいかと」 周瑜の言葉に、ざわめきがはしる。 韓当が訝しげに問いかけた。「公瑾、それはどういう意味だ? 袁術の狙いを知らねば、その対応も決められまい」「左様、常の公瑾らしくない物言いよな。敵を知らねば、百勝することは出来まいぞ」 韓当に同意して、祖茂もそう言った。他の諸将も、概ね同意見のようで、皆、しきりに頷いたり、同意の呟きをもらしている。 周瑜は孫策と義姉妹の契りを交わし、孫堅からも我が子同然に可愛がられている。 また、その鋭い洞察力と判断力は、孫堅、そして孫策に高く評価され、孫堅軍の軍師として認められてはいた。 だが、やはり孫家に仕えた閲歴の浅さは覆しようがなく、古参の武将、特に男性の諸将からは、あまり良い感情を抱かれてはいないのも事実であった。 もっとも、程普のように、先の反董卓連合、そしてそれに続く汝南と寿春の攻略戦において発揮された周瑜の智略を目の当たりにし、これまでの認識を改めた者もいる。程普が、最初に周瑜に問いを向けたのもそのためである。 だが、そうではない韓当、祖茂をはじめとした諸将は、予想とは異なる周瑜の反応に、難しい表情を隠せなかった。 韓当が改めて周瑜の発言の意図を問おうと口を開こうとした途端だった。「おぬしら、そんなこともわからんのかいッ!」 ぴしゃりと言い放ったのは、それまで、口を噤んで、各人の発言に耳を傾けていた黄蓋だった。 程普と並ぶ孫堅軍の最古参である黄蓋。その言は、孫堅すら無視できない力を持つ。 もっとも、当の本人はそういった自分の立場に気づきはしても、気にはしていなかった。その性格は豪放にして磊落、一度弓を取れば、空を飛ぶ燕さえ射落とすとされる精妙な弓術の使い手でもある黄蓋は、周瑜の発言にざわめく若造たち(黄蓋視点では韓当、祖茂もこれに入る)に鋭い眼差しを向ける。「袁術の狙いが何処にあろうが、わしらが採りえる手段は二つのみじゃ。これまでどおり、臥薪嘗胆、ただ耐え抜くか。それとも、此度の命令を契機として立ち上がるか。前者であれば、袁術の狙いなど知ったところで詮無きことよ。後者であれば、これまた意味のないことでもある。あやつらの狙いの如何に関わらず、我らは戦うことしか出来ぬのじゃからな。ゆえに、公瑾は袁術の狙いは捨て置けと申したのじゃ」 黄蓋は一息にそういうと、さらに言葉を続けた。「ここですべきは、袁術の狙いをあれこれ推測することではない。これからも袁術に従うか否か、それを決めることじゃ」 黄蓋の言葉に、諸将は寂として声も出ない。 その言葉に理があることがわからないような無能者は、孫堅軍にはいない。 確かに、袁術の狙いがどこにあるのであれ、孫堅軍のほとんどが一堂に会するような機会は、今後、長く来ないだろう。その意味でいえば、今回のそれは大きな好機であったし、程普と黄蓋もまた、そう考えていたのである。 程普が口を開いた。「寿春は、伯符様らが陥落させ、君理が工作を進めている土地。その意味でも、決起の成功率は他所よりも高くなろう。くわえて、敵の兵力は強大といえど、袁術は董卓との戦いで、宿将であった紀霊と兪渉を失っておる。張勲以外の将は大したものではなく、袁家がいかに強大なりといえど、敵の圧力を跳ね返すことは十分に可能であると考えるが、皆の考えは如何?」 程普に限らず、孫堅軍の諸将の中で、袁術に跪かねばならない現状を、快く思っている者など一人もいない。それでも、これまで孫堅軍が袁術の麾下にとどまっていたのは、孫堅、程普、黄蓋らが慎重に時期を見計らっていたゆえである。 袁術軍が凡将ぞろいとはいえ、その兵力の強大さはやはりあなどれない。それに、広大な領土を支配する袁術軍は、一度や二度、敗北したところで、まだ後があるが、確固たる地盤を持たない孫堅たちにはそれがない。 くわえて、頼りになる味方は四方の国境に縛り付けられており、連絡を取り合うことさえ容易ではないとあっては、独立のための行動自体がほとんど不可能だったのである。 だが、先日来、その警戒も幾分緩んで来つつあった。袁術が孫堅たちを信用した――というわけではあるまい。だが、巨大になった自己の勢力を見て、孫堅たちを軽視しはじめたことは、間違いないように思われるのだ。 好機至る――程普は、そう考えていたのである。 常は慎重な程普が、はっきりと意欲を見せたことが、列席の諸将を興奮させた。 もとより、自らの武勇に自信を持つ者たちである。長らく屈従を強いられた袁術との戦いは、彼らにとって望むところであった。 彼らは口々に程普の意見に賛同し、今こそ起つべき時と気勢をあげた。 そんな部下たちの意気盛んな様子に、孫堅は満足そうに頷いた。もとより、その身体に脈々と波打つは、往古、大陸を席巻した覇王と同じ楚の血潮。主君という立場さえなければ、孫堅こそがまっさきに戦いを主張したに違いないのである。「此度のような好機、そうそうあるものではないでしょう。袁術の麾下より脱し、孫家の旗を天下に押し立てるは、今この時を措いて他になしと見るのだけれど、策、冥琳、あなたたちはどう思う?」 熱気に満ちた一座の空気に、だが、孫策は感応しようとはしなかった。「私は、反対ね」 若くして、江東の小覇王と称えられる孫家の麒麟児は、ただ一言で、母と、そして年配の武将たちの熱意に冷水を浴びせた。 まさか、あの孫策が反対を口にするとは思っていなかった諸将の間から、動揺のざわめきが起きる。 孫堅は、娘の顔を見て、すっと目を細めた。「理由は?」「それを語るのは、私より冥琳の方が適任でしょ」 母に問われた孫策は、長い髪をかき上げながら、発言を譲るように周瑜を見やる。 その様子は、自らと周瑜の意見が違わぬことを確信しているようだった。 そして、周瑜はそんな孫策の言葉に、首を縦に振ったのである。 黄蓋が興味深げに小さく笑う。「ほう、策殿ばかりか、公瑾までが反対にまわるか。いかなる理由によってじゃ?」 顔は笑んでいても、その視線の鋭さは、歴戦の勇将のそれだった。周瑜を認める者の一人である黄蓋だが、無条件でその言葉を鵜呑みにするほど甘くはない。わずかでも周瑜の言葉に隙があったのなら、容赦なく叩き伏せてくれよう、とその目は雄弁に語っていた。 その黄蓋の視線を受けながら、しかし、周瑜は臆する様子もなく、あっさりと結論から口にした。「公覆(黄蓋の字)様、そして列座の方々も、ご承知のとおり、近年、袁術の陣営に大きな変化が起きております――」 汝南、寿春を陥とした東方遠征からこちら、袁術は、孫堅軍に資金と糧食を与え、各地に散っている同輩と連絡を許可するなど、明らかに孫堅軍への態度を変えつつある。 これまでは、孫家の勢力が伸張することのないよう戦力を漸減させ、功績に報いぬことも度々であったというのに、だ。 当初、孫策と周瑜は、この袁術の動きにさして注意を払っていなかった。それは、あの袁術や張勲の考えることを推量することの無意味さを知っていたからでもある。 その時の気分と感情で、どちらにでも転ぶ主従だとわかっていればこそ、当て推量はかえって害となりかねない。相手が明確な行動に移ったとき、その都度、対処していけば良いと考えていたのである。 孫策などは、大方、大きな領土を得た袁術たちの気まぐれであろうと思っていたくらいだった。 だが、あれから数月。 袁術たちの対応は変わることはなく、孫堅たちは水面下で着々と独立のための準備を進めることが出来たのである――そう、いささか容易すぎるほどに、順調に。 袁術に、なんらかの変化が起きており、それが今のところ、孫家に有利に働いている。 その認識は、孫策、周瑜と、程普らの間に大差はない。 両者が決定的に異なるのは、その変化が何によってもたらされているか、というところであった。 程普は、それを大身になったゆえの袁術の驕りと判断した。 そして、周瑜は――その袁術の変化は、孫堅軍を罠へと誘い込む隙だと判断した。「ここ最近の袁術の動きを見るに、まるで我らに早く起兵せよと言わんばかり。そのために、資金や糧食を与え、監視の目を緩めさえしております。そこまでして我らをけしかけている以上、袁術たちには相応の自信があるのでしょう。孫家の軍を壊滅に導く自信が」 だが、そんな周瑜の言に対し、真っ向から反論を口にしたのは、程普、黄蓋に次ぐ将である韓当だった。「我ら孫家の精鋭が集えば、袁術軍ごとき、たとえ10倍の兵力差があったところで恐れるに足りぬ。袁術めが、我らを決起させるために資金と糧食をよこし、一堂に集めたというのなら、それこそ勿怪の幸いではないか。奴らの軍を突き崩し、己が愚行を後悔させてやれば良い」 たとえ、袁術が何がしかの罠を仕掛けているのだとしても、食い破ってみせれば良いという韓当の勇壮な主張は、この場の多数の賛同を得るには十分な説得力があった。 そして、それは部下だけでなく、孫家に連なる者も含まれる。 孫権が口を開いた。「冥琳の危惧もわからないことはないけれど、袁術の軍ごとき、私たち孫家の軍にかかれば物の数ではないでしょう。ここでためらえば、悔いを千載に残すことになると思うのだけど」「蓮華姉様のいうとおりだよッ! シャオたちがばらばらにされてる状態だったら、我慢するしかないと思うけど、こうやって一箇所に集まれたんだもん。袁術みたいなお子様に、シャオたちが負けるわけないわッ」 孫尚香も、すぐ上の姉の意見に賛同の声を発した。 それを聞いた黄蓋が、楽しげに含み笑いをもらす。「ふむ、袁術めも、尚香殿には言われとうないじゃろうのう」「祭、何か言ったッ?!」「いや、何も言うとりはせん」「……むー」 孫尚香のじとっとした眼差しを、しれっとかわしてのけた黄蓋に対して、孫堅が口を開く。「それで、祭の意見はどうなの?」「そうですな――徳謀の意見、公瑾の意見、今のところ、いずれにも理があると見ます。じゃが、公瑾は、まだすべてを口にしたわけではないのじゃろう?」 黄蓋の視線を受けて、周瑜がかすかに苦笑を浮かべる。「さすがにおわかりになりますか。正直、確証のないことですので、口にすべきかどうか、迷っていたのですが」「ふん、あの程度の意見しか持てぬ若輩に、孫家の軍師を名乗らせはせんわい。して、何を危惧しておるのじゃ、おぬしともあろう者が?」 黄蓋の問いに、しかし、答えを返したのは周瑜ではなく、もう一人の起兵反対者である孫策だった。「むしろ、私がみんなに聞きたいくらいだわね。自分たちの見たいものだけを見てることに、気づいてる?」 孫策は、苛立たしげに髪をかきあげながら、そう言った。 孫策の思わぬ語気の鋭さに、黄蓋が少しだけ驚いた顔をする。「これまで、まあ馬鹿ではあっても最大の障害だった相手が、急に掌を返したように、こちらに有利なことばかりし始めた。おまけに本拠地から最も遠く、自分たちの目の行き届かないだろう寿春にわざわざ足を運んで、こちらの全軍を呼び集めている。さあ、牙をむけと言わんばかりじゃないの」 性質の悪い罠が仕掛けられているに決まっている。そんなところに、敵の目論見通り、全軍で入っていく必要がどこにあるのか。 孫策の言葉を、周瑜が引き継いだ。「これまで、我らの叛心を警戒し続けてきた袁術が、ことさら我らに独立を促すような真似をし始めた以上、そこになんらかの謀計が秘められているは必定。問題なのは、その謀計が何処から出ているのか、なのです」 これまでのように、袁術ないし張勲あたりの策であれば、察することは出来た筈である。 だが、今回の寿春召集の狙いが、いまだに明らかになっていないように、今回のそれは、これまでの謀略とは質が違った。 明らかに、これまでとは別人の頭脳から出ていると考えられるのだ。そして、寿春の朱治の偵知をくぐりぬけ、程普や周瑜にさえ狙いを看破されない深みのある策は、これを講じた者が侮れない人物であることをはっきりと物語っていた。 そして、周瑜は、その人物に心当たりがあった。「ここ最近、袁術の下に見慣れぬ者たちが集められております。聞いたことのない名前の者ばかりですが、私が見たところ、いずれも一角の人物。これまでの袁術のように、家の名と格のみを見て、集めたような者たちではございません。そういった者たちを集めている者の名は――あるいは、皆様も聞いたことがあるかもしれません――」 于吉、と周瑜はその男の名を口にした。 その名を聞いて、黄蓋はやや眉をしかめた。「ふむ、たしかどこぞの方士で、そのような名前の者がいたように記憶しておるが――そやつが、袁術のもとにおるのか」「はい。公覆様は酒ばかり飲んでいるので、南陽城内の情勢にはいささか疎いようですね。この名は、すでに侍女たちにまで広まっているのですが――」「これ、公瑾。このような場で説教を始めるでないわ。話をすすめんかい」「は。我らに対する袁術の態度が変わり始めた頃とほぼ同時期に、この男の姿が、袁術の付近で見かけられるようになりました。同時に、袁家の内治、軍事、外交、そういった面でも大きな変化が見受けられます。この男が、袁術に影響力を行使していることは、ほぼ間違いないでしょう」 周瑜の言葉に、しかし、他の諸将はそれがどうしたのか、と言わんばかりに顔を見合わせていた。 戦場の生き死にを目の当たりにしている諸将にとって、方士とは女子供を相手にする弁士程度の存在に過ぎず、そんな人間が袁術の傍にいたところで、起兵を躊躇しようと思う筈がなかったのである。「この際、于吉なる者を方士と侮る気持ちは措いてください。肝心なのは、あの男が袁術の下に現れてから、袁家の綱紀は粛正され、領内の統治もこれまでになく順調に進んでいるということです。それは占領して半年と満たないここ汝南の様子を見れば明らかでありましょう」 ざわつく諸将に対し、周瑜は押しかぶせるように言う。事実、汝南の統治はほぼ完璧に近く、領民たちも袁家の統治に服しているように見えた。そのことに、諸将はようやく思い至る。 なるほど、于吉とやら言う男は、なかなかの政治手腕を持っているらしい。だが、所詮、それだけではないか。そこらの見所ある者を召抱えたところで、孫家の誇る精鋭にかなう筈もない。 多くの者は、于吉を気にするのは、周瑜の取り越し苦労であろうと考えた。 それと悟った周瑜の顔に、一瞬、焦りにも似た表情が浮かぶのを、孫策は見た。 周瑜にとって、袁術は恐れるに足りないことを、孫策は知っている。それは、たとえ相手が得体の知れない男であっても同様だ。 そして、孫策の考えは、事実でもあった。総大将孫堅の下、周瑜が策を練り、諸将がその下で動く。この形が十全に機能すれば、相手がどこの軍であろうと互角以上に戦える自信が、周瑜にはある。 その周瑜が恐れるのは、敵ではなく、武に自信を持つあまり、無意識に相手を侮ろうとする味方の慢心であった。 もちろん、平時であれば、孫家の誇る精鋭たちは、そんな愚は冒さない。だが、袁術軍が相手となる今回の戦いにおいても、孫堅軍は平時の冷静さを保てるのか。周瑜をしてさえ、それは甚だ心もとないといわざるをえなかった。だからこそ、周瑜は現状で袁術軍に挑むことに反対の立場をとったのである。 だが、同時に、軍内における独立に向けた流れが、せき止められないであろうことも周瑜は予見していた。 独立に向けて、あつらえたように整えられた、今回の状況。 長年、袁術の麾下で耐え忍んできた孫堅軍の諸将にとって、この好機を見過ごすことは難しい。多少の疑義など吹き飛ばすほどに、年配の者たちの袁家への憤怒は根が深い。それは配下に限っての話ではなく、主君である孫堅にすら及んでいる感情であったからだ。 孫策にも言っていないことだが、この策略を仕掛けてきた相手は、おそらくそれを知っている。たとえ、己が狙いを看破する者がいたとしても、孫堅軍の大勢を動かすことはかなわない、と。 それどころか、今、生じているこの対立すらも、相手の思惑に含まれているのかもしれない。周瑜はそんな風にさえ考えていた。 そこまで考えていた周瑜が、では、何故、あえて孫策と共に反対を表明したのか。 物事を定める切所にあって、集団を構成する全員が同じ場所を向けば、それは奈落へ至る第一歩である。たとえ少数であっても、異なる方向を見据える者の存在は、集団としての安定性を保つために不可欠だった。 ことに軍師とは全軍の頭脳にして、最も冷静であらねばならない立場を指す。 軍内の熱気に感応し、打倒袁術の念に同調することは、周瑜には許されないことだったのである。 そういった周瑜の考えに気づかない孫堅ではなく、程普ではなかった。 彼らとて凡愚ではない。孫策と周瑜の指摘どおり、今回の袁術の動きに疑念を感じないわけではなかった。いや、むしろ疑念だらけと言っても差し支えあるまい。 だが、長の年月、押さえつけられていた反骨の気概は、絶好の機会を得て、各々の心中で、天に沖する焔となって燃え上がってしまっていた――もう、御することが出来ないほどに。 そして、その種火となるのは、武を重んじる彼らの誇り。袁術であれ、張勲であれ、あるいは得体の知れない方士であれ、張り巡らされた罠など食い破ってみせるという、猛虎の自負であった。 孫策と周瑜の反対も届かない。単純にして愚直、だがそれゆえに説伏することは困難な感情が、孫堅軍の主従の心に染み渡った時、事は決した。 孫堅は、ついに決断を下す。 すなわち、袁家の麾下から脱し、この乱世の空に、己が牙門旗を高々と翻すことを、はっきりと宣言したのである。◆ 一度、主命が下れば、それに服するのが臣下の務めである。 孫策はいまだ不服そうではあったが、周瑜は思考を切り替え、現状で採りえる策を披露した。 上策。ここ、汝南で蜂起し、城を占領する。寿春に集まった袁術軍の主力と、本拠地である南陽との連絡路を遮断することができるため、袁術は間違いなく出陣する。その軍勢と野戦で勝敗を決するも、汝南に篭るも、選択肢を孫堅軍の手中に出来る。万一、袁術が寿春から出なければ、西方を攻略して地盤を固めれば良いだけのことである。 中策。ただちに全軍で反転し、袁術の本拠地である南陽を制圧する。袁術軍の主力は無傷で寿春に残るが、南陽城の防備を固めれば、それを撃退することは可能である。 また、南陽は劉表、曹操らと地理的に近い。両者は袁術と友好関係になく、特に劉表に至っては宿敵ですらあるため、彼らと外交上で歩調をあわせることは十分に可能であろう。 もっとも、その場合、劉・曹に借りをつくってしまうため、それが今後の足かせとなる可能性も否定できない。 下策。あえてこのまま寿春に入り、袁術の膝元で叛乱を起こす。敵の狙いが定かではないという危惧がつきまとうが、敵の総帥である袁術を倒すことが出来れば、戦いは終息する。民も苦しまずに済むだろう。 周瑜は以上の三つを挙げ、孫堅に決断を請うた。「上策は速戦。中策は持久。どちらかをお選びくださいませ」 だが、孫堅は首をかしげた。「そう、寿春に赴くのは下策か」「御意。先刻、申し上げたとおり、敵の狙いが奈辺にあるのか、判然といたしません。他に採りえる手段がないのであればともかく、今、我らが軍には行動の自由が与えられております。この状況で、あえて危地に踏み込むは、下策と申し上げざるをえません」「確かにそうだが――元凶たる袁術を討ち取れば、勝敗は決するでしょう。我が軍と袁術軍の間に多大な戦力差があるのは紛れもない事実。速戦であれ、持久であれ、兵と民とに多大な負担をかけることに違いはない。敗北を恐れるわけでも、犠牲を厭うわけでもないが、ただ一人の死がその困難を帳消しにするのであれば、寿春に赴くのも立派な戦略ではないか」 それに、と孫堅は続ける。「寿春には朱治をはじめ、我らの味方が多く残っている。あの者らに今から使いを出し、寿春からの脱出を促すのはいささか迂遠でしょう。それなら、いっそ敵に懐に入り込んで事を起こせば、朱治らのこれまでの準備を無駄にせずとも済む。成功の可能性は大きく高まろう」 朱治たちを見殺しには出来ぬ、との孫堅の言い分に、周瑜が口を開こうとした時、周囲からはすでに孫堅の意見に賛同する声が次々とあがっていた。 孫堅軍の将兵は、長き苦難を共にしているだけに、将たちの紐帯は他軍に抜きん出て固い。くわえて、周瑜の作戦にしたがって迂路を取るよりも、孫堅の作戦にしたがって宿敵たる袁術と真っ向から矛を交えることを望む空気が、将たちの間に濃厚にたゆたっていた。 それが読めない周瑜ではなく、開きかけた口を閉ざさざるをえなかった。 そんな周瑜と、そして不機嫌そうに佇む孫策に向けて、孫堅は口を開く。 「万一、敵の備えがこちらを凌駕しているようであれば、朱治たちと共に寿春を出て、冥琳の策をとりましょう。この場の決定が漏れる筈もないのだから、寿春に赴いたところで、問答無用で捕らわれるようなことは、いかな袁術とてしないでしょうよ」「――そう上手くいけば良いけどね」「御意にございます」 孫策と周瑜が、それぞれの表情で孫堅に頷いてみせる。 確かに孫堅の言うとおり、叛意を示す明確な証拠がない以上、袁術とて問答無用で襲ってくるような真似はするまい。一応とはいえ、客将として己が麾下にいる者にそんな暴挙を働けば、以後、袁術の麾下に加わろうとする者がいなくなってしまうからだ。 だが、それでも二人の胸中から、懸念が消え去ることはなかった。 孫堅や程普たちの考えは、あくまでこちら側から見た視点にもとづくものにすぎない。 袁術側から向けられる視線は、こちらが考えている以上に鋭く、奥深いものではないのか。 孫策は直感によって、周瑜は推測によって、それぞれそう判断していたのである。 しかし、結局のところ、周瑜も、そして孫策もまた大勢に従うことになる。 二人の懸念には確たる根拠がなく、他者を説得しえなかったこともあるが、何より、二人とも――とくに孫策は、表面上はどうあれ、主君であり、母である人物を信じていたからであった。 孫堅のこれまでの戦歴を振り返るまでもなく、自分たちがまだ未熟な雛鳥であることは、二人とも承知していた。その孫堅が下した決断を、自分たちの囀りで翻せはしないこともまた理解していた。 その覇気と、武勇によって、江東の虎と称された孫家の長が倒れるところなど想像すら出来ぬ。此度の件、胸のざわつきはいまだ去らないが、それでも過ぎてみれば、そんな杞憂を抱いていたのだと笑って語れる日が来るであろう。 長年の屈従の日々に決別した母の、紅潮した顔を眺めながら、このとき、孫策は、そう考えていたのである……