許昌より西に二刻ばかり歩くと、広大な荒れ野が広がっている。 地味が悪いことから、農産や牧畜には向かず、主に演習場として利用されている場所である。 そして今、その荒野で、新しく編成された曹操軍が、二手に分かれ、演習を行っていた。 その様子は実戦もかくやと思われる激しいもので、今、この場に通りがかった者がいれば、すわ戦かと慌てて逃げ出してしまったことであろう。 曹操の姿は、演習地となった荒野を見下ろす小高い丘の上にあった。 陳留でひそかに喪に服している張莫を除き、傍らにいる典韋の他は、曹操の近くに将帥の姿はない。現在、許昌にいる全ての将軍が、演習に参加しているためである。 農作物の収穫が終わったこの時期、曹操が演習を行ったのは、無論、近づく戦いに備えてのことである。 同時に、練成を終えた騎馬部隊の仕上がりぶりを確認するという理由もあった。 そして、東西二つの軍に分かれた曹操軍は、今、まさに主君である曹操の眼下で、猛々しく矛を交えているのである。 白の布を巻いた西軍の騎馬部隊を率いるのは、夏侯惇、夏侯淵の二人である。 一方、その両者と対峙する赤い布を巻いた東軍の騎馬部隊の指揮官は、先ごろ曹操軍に加わった張遼と、曹仁の二人となっている。 董卓軍、そして呂布軍の中核として盛名を馳せた張遼はいわずもがな、曹一族の中核として名高い曹仁もまた、平凡とはほどとおい統率力を有する指揮官である。 将帥の力量は、ほぼ互角。だが、西軍の騎馬部隊が、曹操の旗揚げ当初から付き従っている精鋭部隊であるのに引き換え、東軍のそれは、許昌で徴募した新兵たちが主力となった部隊である。 東軍の不利は、誰の目にも明らかであるように思われた。 しかし。 東軍の部隊は、驚くべきことに、夏侯姉妹の率いる騎馬隊と互角に近い形勢を保っていた。全体として、押されていることは否めないのだが、最精鋭たる部隊を相手に、一歩も退かずにぶつかりあっている。 実戦経験、そして訓練時間の双方において劣る東軍が、西軍と互角に近い形勢を保てている理由。それは、今回、東軍にのみ配されている一つの馬具――鐙に求められた。 西軍の軍師を務める荀彧は、夏侯姉妹の騎馬部隊の突進力を計算に入れていただけに、序盤でその勢いが食い止められたところを見て、本陣で罵声をあげることになり、荀攸はその怒りを抑えるために、四苦八苦することになる。 一方、東軍の軍師を務める郭嘉と程昱は、李典、楽進、于禁らに部隊を展開させ、夏侯姉妹の騎馬部隊を半包囲し、その脅威を除こうとした。 だが、この動きは、ぶつぶつと夏侯惇たちに文句を言いながらも、郭嘉らの狙いをいち早く察した荀彧が、曹洪の部隊に東軍の本陣を衝く姿勢を示させたことで、中途で遮られて終わった。 それからも、両軍は互いに戦機を掴もうと、部隊を縦横無尽に動かすが、その狙いは相手側の軍師に看破され、その指示の下に動く将軍に的確に対応され、勝敗は容易に決することはなかった。 そして。 結局、演習が終了する日没にいたるまで、東軍は西軍の猛攻を凌ぎきることに成功する。 西軍優勢という戦況は覆らなかったが、新兵主体の東軍を最後まで崩しきれなかったことが、古参の者たち――主に夏侯惇と荀彧――の表情を歪ませることになったのである。 許昌に戻った曹操は、兵士たちには解散を命じたが、自身は休む間もなく、将軍たちを引き連れて、演習の検討に入った。 その席上、真っ先に口を開いたのは、張遼であった。 呂布たちとはぐれて後、麾下の兵士たちの安全と引き換えに曹操軍に下った張遼は、その開けっぴろげな性格も手伝って、たちまち曹操陣営における席を確保していた。「いやー、いまさらやけど、奉孝と仲徳がつくった鐙っちゅうのは、すごい効果やなあ。元ちゃんたちも驚いたんちゃう?」「う、うむ。まあ、認めるのにやぶかさではないぞ」 夏侯淵がため息を吐きつつ、訂正する。「吝か(やぶさか)、だ。姉者」「お、おう、それだそれ」「たしかに文遠の言うとおり、訓練を終えたばかりの者たちが、あそこまで善戦するとは驚いたな」「そうやろ? 元ちゃんは、なんや、ズルしとるような気がするっちゅうて、あんまり乗り気じゃなかったようやけど、これ、曹操軍に正式に採用されて良かったんちゃうか。なあ、孝ちゃん(曹仁)もそう思わへん?」 張遼の問いに、今日の演習で同僚だった曹仁も、はっきりと首肯する。「そうだな。確かに訓練期間を著しく短縮させることが出来るし、騎射が出来るまでの期間も、格段に早くなる。今後のことを考えれば、騎馬部隊は多いに越したことはないわけだから、文遠の言うことはもっともだ。ただ――」 曹仁が言葉を切り、考え込むように俯いた。 ここで、はじめて曹操が口を開いた。「ただ、何かしら、鵬琳?」「は。鐙を用いれば、様々な利がございます。それは間違いないのですが、同時に欠点もございます。つまり、鐙が無ければ、馬にも乗れず、騎射も出来ない、という騎兵たちを大量につくりだしてしまう、ということです」「ふむ。便利であるがゆえに、そこに安住してしまいかねない、ということね」 曹操が頷くと、夏侯惇が手を叩いて、曹仁に賛意を示した。「そう、それです、華琳様! 鵬琳の言うとおり、これは、兵士たちを、中途半端なところで満足させてしまうのでは?」「ふむ――稟、風、あなたたちの意見を聞かせてもらえるかしら?」 曹操に促され、郭嘉は眼鏡に手をやりつつ、口を開いた。「確かに、元譲殿の仰ることはもっともです。ですが、それは他の馬具――たとえば鞍や、手綱にも同じことが言えるのです。元譲殿も、鞍なし手綱なしで馬を駆るのは難儀するのではありませんか?」「うむ、確かに。不可能ではないが、常と同じようにはいかんだろうな」「だからといって、馬具のない状態で馬を駆る修練などはなさいませんでしょう? そのようなことに時間を費やすのならば、他の武芸や、訓練に時間を割いた方がはるかに有益です」 その郭嘉の言葉にこたえたのは、夏侯惇ではなく、夏侯淵であった。「つまり、奉孝は、鐙もまた、他の馬具と同じように、あって当然のものになる、と考えているわけか」「はい、そのとおりです。無論、鐙なしで馬に乗れて、騎射も出来るというのが理想ですが、それだけの錬度を備えた騎兵を育てるのに必要となる資金も手間も膨大なもの。それは皆様方もご存知でしょう」 郭嘉は卓上に広げられた大陸図の北を指し示す。「――中原、そして河北の平野を制するために、騎馬隊の充実は不可欠です。やがて来る袁紹、公孫賛らとの戦い、さらにその後のことを考えれば、今この段階から、騎馬の拡充に力を注ぐのは当然のことです。さもなければ、我らは常に敵の後手にまわってしまうことでしょう。詩にもあります――『はやからざれば、すなわち遅し』と」◇ 濮陽城を守りぬいた郭嘉と程昱は、兌州の動乱が鎮まった後、荀彧の推薦状と、鍾遙の推挙によって、曹操に仕えることになった。 その段階で、郭嘉は鐙の改良を具申しており、具体的な構造を図面に記してさえいたのである。 鐙の詳細な図と、それを用いた時の利点および問題点が列挙された郭嘉の具申は、曹操によって即座に取り上げられ、数日後には、許昌において実用化されるに至る。 それ以後、曹操軍の騎馬部隊の拡充ぶりは目覚しいものがあった。曹仁、夏侯惇らが懸念するように、鐙の普及が、将兵の技量の低下を招くのではないか、との声も少なからず存在したが、実のところ、その点は、郭嘉が最初に曹操に差し出した具申書に明記されており、郭嘉の見解は、すでに述べたとおりのものであった。 鐙の改良と、それによる騎馬部隊の拡充。 曹操軍の戦力を大きく高めたその功績が、新参の郭嘉によるものであることは万人が認めるところであった。 だが、曹操から称された郭嘉は、その功績を言下に否定する。 郭嘉は言う。 自分は、とある人の発案を取り入れただけのこと。功績の全ては、その人物のものである、と。 郭嘉は、自分と程昱が劉家軍にいた時、鐙のことを知ったのだと素直に告げて、曹操の褒賞も、賞賛も固辞した。 そんな郭嘉の正直さに、曹操はますます、この新しく加わった智者を信じる気持ちを篤くしながら、自然な流れとして、こう問いかけたのである。 では、その者は誰なのか、と。 そして、曹操ははじめて、その人物の名前を耳にすることになる。◇「公孫賛、劉備、そして私。今のところ、鐙の技術を知るのはそれだけかしら。たしか、袁紹の陣にいたのでしょう?」 曹操の問いに、郭嘉が答える。「おそらく、袁紹殿は鐙のことは知らないでしょう。袁紹殿は、玄徳殿を煙たがっておりましたので、劉家軍の陣営では、南皮の者はほとんど姿を見かけませんでした。もちろん、密偵の一人二人はいれていたでしょうが、鐙の形が変わったことの意味を、看破できるほどの者がいたとは思えません」「そう。もっとも、戦の技術を、いつまでも秘密のままにしておけるわけもない。いずれ、麗羽も、そして諸侯もこの新しい鐙の価値に気づくでしょう。けれど、わずかな間とはいえ、麗羽に先んじたこの優位は大きいわ――北郷とやらに、感謝しなくてはならないかしら」 曹操の言葉にいち早く反応したのは、郭嘉ではなく、曹操の傍らに侍していた荀彧であった。「華琳様が、そんな男に感謝する必要なんてありません! その北郷とやら、奉孝と仲徳が華琳様の陣に赴くと告げたにも関わらず、口止め一つしなかったというではありませんか。このように自軍に益のある軍事機密を、平然と他軍に流出されるような愚か者、華琳様が意識する必要すらございませんッ」 甲高い声で訴える荀彧に、曹操はわずかだが、憮然とした顔をのぞかせる。「あら、桂花も、鐙の改良については驚いていたじゃないの。北郷とやらが愚か者だったとして、その愚か者でさえ考えることの出来た改良を、これまで想像すらしなかった私や桂花は、なんと例えられるべきなのかしら?」「そ、それは……そ、そうですッ。きっと、北郷もどこか別の誰かから聞いたに違いありません! そうして、手柄顔で自分の功績として吹聴したに決まってますッ! 男なんて、そんなくだらないことしか出来ない奴らなんですから!!」「――と、桂花は言っているのだけど、風、あなたの意見を聞かせてもらえる?」 曹操が、それまで黙っていた程昱を振り返ると――「――ぐー」 寝ていた。 郭嘉の拳と、荀彧の拳が同時に唸る。「――寝るなッ」「御前で寝てるんじゃないわよッ」「ををッ?! 珍しく連撃ですね。風もちょっとびっくりです」 驚いたように目を瞬かせる程昱を、荀彧はきつい眼差しでにらむ。「さっさと華琳様の質問にお答えしなさいッ。聞いてなかったなんていったら、この場から蹴りだ――」「おにーさんが功績を吹聴した、なんてことはないと断言しますですよー」「……って、しっかり聞いてるんじゃないのぉッ?! い、いえ、それよりそう断定する根拠は何? なんなの?!」 荀彧の詰問に、程昱は小さくあくびしながら答える。「おにーさんは、鐙の件、功績だなんて思ってませんでしたから。ただちょっと、楽するために思いつきを言ってみただけだと、笑っていたのですよ。わざわざそんな怠け根性を吹聴する理由がないのです」「――ちょっと待ちなさい。なに、その北郷ってやつ、自分が何を考え付いたのかさえ、わかってないの?」 荀彧の問いに、今度は郭嘉が苦笑しつつ頷いた。「ええ。公孫賛殿から鐙のことで褒め称えられても、ぽかんとしていたくらいでしたから。中華の歴史を変えかねないことをなした自覚は、かけらもないのは間違いないでしょう」 それを聞き、荀彧は思わず卓上に突っ伏していた。「……う、うそ。そんなくだらない男が考え付いたことを、この私が……華琳様の軍師であるこの私が、考え付かなかったなんて、うそよ……」 なにやらぶつぶつと呟きだした荀彧を他所に、なにやら考え込んでいた夏侯惇が、妹に問いかけた。「なあ、秋蘭」「どうした、姉者?」「洛陽で、華琳様と共に劉備の陣に行ったことがあったろう。あのとき、やけに軟弱な男がいた気がするんだが、北郷というのは、あいつのことか?」「ふむ、可能性はあるな。奉孝たちから聞いた特徴とも一致する。しかし、あいつが北郷とやらだとしたら、どうするのだ、姉者は?」 夏侯淵の問いに、その姉は勢い良く口を開いた。「決まっているッ! あいつ、あのときだって華琳様に褒められていたのだぞ! そして今回もだ! 華琳様の一の部下として、あんな軟弱な男に華琳様の感謝を独り占めされてなるものかッ」 猛獣の如く吼え猛る夏侯惇を見て、夏侯淵は小さくため息をついた。「あのときは、あの男、確か朝廷の策謀にそれとなく勘付いていたのだったかな。そして今回は馬具の改良。なんというか、どちらも姉者には向かない分野ばかりだぞ。どうやって華琳様に褒めていただくつもりなのだ?」「むむむ……よし、私も一つ、馬具を改良してやろうッ」「ほう。何を、どう改良するつもりなのだ?」「そ、それは、だな……そうだ! 馬にかぶとをつけて、額のあたりに槍をつけてはどうだ? そうすれば、騎馬を集団で突撃させるだけで、槍衾が出来上がるぞ。敵は驚いて、逃げ散るに違いない」「そうだな。だが、そんな重いものを頭にしばりつけたら、馬自体が使い物にならんだろう?」 夏侯淵の指摘に、夏侯惇はさらに深く考え込む。「ぬぬぬ…………はッ?! 思いついたぞ、秋蘭。まさに時代を越える発明を!」「ふむ。どんな発明なのだ?」「聞いて驚け! 鞍の両脇に剣をくくりつけておくのだ。剣二本分ならば、たいした重量ではないし、馬が走るのに邪魔にはならんだろう。敵の傍を通り抜けるだけで、敵はばったばったとなぎ倒されていく。実に痛快ではないか!」「うむ、姉者が想像しているものは、なんとなく理解できるが、しかし、それだと味方が集団で動く際、邪魔になるだろう」「……むむ」「小回りの利くのが騎馬の利点でもあるし、それ以上に集団で動いてこそ、騎馬部隊は真価を発揮する。集団行動を阻害する馬具を、華琳様がほめてくださるとは思えんぞ」「そ、それなら、部隊で動く時以外は、自分で背負っておく、とかはどうだ? そして、いざ戦闘になったら、また元通りにするのだ」「なるほど。それなら問題は解決するが――しかしそんなことをしている暇があるなら、自分で剣を振るった方が早いのではないか、姉者?」「あ」「はいはい、おしゃべりはそこまでにしなさい。桂花も、いつまでも落ち込んでいるのはおやめなさい。私は、萎れた花を愛でる趣味はないわよ」「は、はいッ、かしこまりました、華琳様ッ!」 曹操の一言で、たちまちのうちに元気を取り戻す荀彧。その姿を見て、荀攸がほっと安堵の息を吐いていた。 曹操は、曹洪に問いを向けた。「優琳、小沛に入った後、劉備たちはしきりに軍備を拡張してると言ってたわね?」「御意。ことに、今、お話のあった騎馬部隊の増員を急いでいるようです。徐州のみならず、他州にまで軍馬を買い求めに行っているとの報告が入っております」「ふむ。河北と違い、准河流域の徐州では、騎馬の増員は難しいでしょうけれど、それでも自分たちの利点は心得ているようね。北郷や劉備が凡物だとしても、周囲の人間はそうではないということか」 曹操は、劉家軍の河北での戦いぶりについては、郭嘉の報告書で精確に把握している。 そして、北海の救援に赴いた劉備が、陶謙から乞われて小沛城に入った顛末についても、曹洪からの報告で承知していた。 曹操の顔に、笑みが浮かぶ。 少女のようなそれではなく、大陸を席巻せんと志す覇王たる者の笑み。「徐州という要地に腰を据えた以上、遠からず劉備とはぶつかることになる。陶謙という後ろ盾を得た以上、これまでよりも戦い甲斐のある相手になっているでしょう。いいえ、なっていてもらわなければ困る。楽しみね」 そう。曹操は本気で楽しみにしていた。 徐州の兵、数万を麾下に従えた劉家軍と戦う時が来る、その瞬間を。 河北と北海で劉家軍の採った行動は気に入らぬ。しかし、その甘さが、小沛城主という地位を呼び込んだのだとすれば、劉備もまた、曹操とは異なる意味で、天に選ばれた者であるのかもしれない。そんな風にも思えるのだ。「――劉玄徳。今度こそ、証明してみせなさいな。あなたが、この私と、天下という舞台で共に舞える英雄であるということを。もし、それが出来ぬのならば、今度こそ、関羽は私が頂くわ」 劉備が英雄であるならば、それもよし。 曹操の覇気は、相応しき敵を見つけて、天を衝く焔となって燃え盛ろう。 劉備が英雄でないならば、それもまたよし。 かの天下の豪傑を膝下にねじ伏せ、その美髪を我が物として撫抱しよう。 いずれに転んでも、曹操に益こそあれ、損はない。 ただ、出来うべくんば。 曹操は思う。 劉備が、自分と並び立つ英雄であるように、と。 何故ならば、英雄を倒すという覇気と、関羽を欲する欲と、二つながらに満足させる最良の答えこそが、それなのだから。 自然、曹操の口から笑いが漏れる。 めずらしく楽しげな、主君の笑みに見蕩れる部下たちに気づくことなく、曹操は楽しげな笑いをこぼし続けるのであった。 しかし、その翌日。 曹操の機嫌を一変させる報告が、遠く寿春から早馬によって届けられた。 昼夜を問わず駆け続けた使者は、息も絶え絶えになりながら、曹操の下まで案内されてきた。 そして、曹操はその使者の口から、袁術領寿春で起きた凄惨な粛清を知らされる。 すなわち。 ――孫家、壊滅す、と。◇◇ 小沛の街の中心部にほど近い一画。そこに軒を連ねる酒楼の一つに、おれはいた。 このあたりの店は、繁華街のど真ん中にあることからも察せられるように、どの店も高い。控えめにいって、ここで飲み食いした後は、次に給金を貰える日まで、爪に火をともす生活を強いられるのは間違いないくらいに。 つまりは、おれとは無縁な場所であり、無縁な店である筈なのだが、それなのに何故、おれがこんなところにいるかというと……「あらん、ご主人様。杯が止まってるわよん?」 おれの目の前で、貂蝉が酒瓶を掲げる。 普段であれば、即座に踵を返すところなのだが、今日は先日の礼――玄徳様に面会に来た人を追い返すのに協力してもらった件――の席なわけで、そういったことは出来ない。 付け加えるならば、これが仮に私的な誘いであったとしても、逃げようとは思わなくなっている自分に、おれは気づいていた。その理由が、ここの代金が貂蝉の驕りだから、というわけではないことも。もっとも、その心境の変化に気づいたのは、最近というわけではなかったが。「ああ、悪かった」 おれは貂蝉が満たした酒盃をあおる。 喉の奥が、焼けるように熱い。どれだけのアルコール度なのか、ちょっと心配になるが、さすがは高級店というべきか、出される酒はいずれも癖が無く、飲みやすい酒ばかりだ。さほど酒に強くないおれでも、充分に堪能できる美味さだった。 酒楼の最上階、夜天の下、卓に並べられた料理から立ち上る芳香は、食欲を誘い、自然、手の動きは早くなる。 「貂蝉は食べなくて良いのか?」 先刻から、酒盃を傾けるばかりで、料理に手をつけようとしない貂蝉に、おれは声をかける。 すると、貂蝉は酒で赤くなった頬に手をあてながら、くすりと笑った。「私のことは気にしないで良いわよ。ご主人様こそ、お城ではほとんど箸をつけられないでいたでしょう? 幸い、ここには私しかいないし、ゆっくりとお食べなさいな」「――不思議だ。貂蝉から後光がさしているように見えるんだけど?」「あらやだ。ついにご主人様が私の魅力に気づいてくれたのかしら。身体を磨いておかないといけないわね」「それは不要だと、全力で断言させてもらう」「相変わらずつれないわ」 貂蝉とそんな会話をかわしながら、おれは次々に皿を空にしていった。 なにせ、城では周囲から、なんともいえない視線が突き刺さり、ろくに飯も喉を通らない状況なのである。ご飯って、味がするものだったんですね…… ――まあ、半分くらいは冗談である。逆に言えば、半分くらいは本当のことだったりするのだが。 その理由というか原因は、張角にあった。 先日の舞台後のやりとりは、やはりというか、おれの一夜の夢などではなく、朝会において、張角は実にさわやかに恋人宣言をかましてくれたのである。 あの時のことは、正直、思い出したくもなかった。 なぜなら……思い出すだけで、背筋が凍るから。悪寒がはしるから。全力で、そこらの地面に穴を掘りたくなるから。何のためか? おれが入るために決まってる。 背筋が凍るのは、冷たい眼差しによるもので。悪寒がはしるのは、死への恐怖によるもので。穴があったら入りたくなるのは、羞恥心をいたく刺激されたからである。 それが三つ同時に襲い掛かってきたあの瞬間、よくぞ逃げ出さなかったものだと、おれは自分で自分をほめてやりたかった。 もっとも、一言もなく立ちすくんでいるくらいなら、いっそ逃げた方が良かったのかもしれない。 先日のことを思い出し、知らず、おれが深くため息を吐くと、貂蝉が口を開いた。「ふふ、憂いは去らず、という様子ね、ご主人様」「――去ってほしい、とは心底願っているんだけどなあ」 おれのため息まじりの返答に、貂蝉は首を横に振る。「願うだけで、かなうものなんて、この世にはないのよ、ご主人様。それがどれだけ小さく、ささやかなものであろうとも、願いをかなえるのは、その人自身の力なのだから」「……そうはいってもなあ」 おれは三度、ため息を吐く。 貂蝉の言うことに理があるのはわかるのだが、実際、どうすれば良いのだろうか。 張角の想いに応えるか否かというのなら、話はさほど難しいことではない。日本のことを張角に――張角たちに話して、信じてもらえるかどうかはわからない。しかし、いつか帰るべき場所があることを話し、張角の期待に応えられないことを謝するしかないだろう。 それがどういう結末を呼ぶのかは、正直、さっぱりわからないが、それでも結末は訪れる。 だが、張角の恋人宣言を聞いた後の、他の人たちの反応はどう考えれば良いのだろう。特に、玄徳様のよそよそしさと、関羽の刺々しさは、かなりきつい。諸葛亮と鳳統も、なんだかあからさまにおれを避けている風であるし、その他の人たちも、おれへの眼差しにきついものが混ざっている気がするのだ――おれの気にせいだ、と思いたいところなのだが――「――ご主人様。本当にわからない? 玄徳ちゃんや、雲長ちゃんが、どうしてああまでご主人様への態度を変えたのかが?」 貂蝉の言葉に、それまでとは違う何かを感じたのは、多分、気のせいではないだろう。酒に酔っているとはいえ、そのくらいのことは、まだ感じ取れる。 そして、貂蝉が言いたいことも理解できる。恋人とか、そういう方面の経験はゼロに等しいが、他の人たち――というか、玄徳様と関羽の態度は、わかりやすいことこの上ないからだ。「……でもなあ。ありえないだろ、あの二人が、おれに好意を持っているなんて」 あの劉玄徳が。あの関雲長が。そして、もしかしたらだが、あの伏竜と鳳雛が、おれに想いを寄せている、なんて誰が信じられるというのか。 たとえば、これが名前が同じだけの女の子である、とかなら、まだわからないでもない。 しかし、あの人たちは、姿かたちは少女だが、その内実は、まさしく、おれの知る英傑たちと異ならない。 もちろん、河北での鳳統、あるいは洛陽での玄徳様のように、内に少女としての――いや、人としての柔らかさ、とでも言うべきものを抱えているのは知っている。 だが、それは男であれ、女であれ、戦乱の世に生きる人であれば、誰もが持っているもの。おれの知る歴史上の鳳統や、劉備とて、迷い、ためらうことはあった筈だ。しかし、彼らはそれに屈せずに戦い続けた。だからこそ、歴史に不滅の名を刻み込むことが出来たのだろう。 それは、この世界の少女たちとて変わるまい。おれはそう思うのだ。彼女たちは、どれだけの困難が待ち受けていようとも、それを克服し、この時代に燦然たる足跡を記すことになるだろう。 おれの言葉が、彼女たちを幾許か元気付けることが出来たのだとしても、それはその背をほんの少し押しただけ。たとえ、おれがいなくとも、誰かがやったことだろう。鳳統には諸葛亮がいるし、玄徳様には関羽がいるのだ。 そんな些細な出来事に調子に乗った挙句、彼女たちに好意を寄せられているなどと自惚れることが、どうして出来ようか。「……いや、決して出来ないであろう」 おれはそんなことを口走りつつ、小さく頭を振った。 貂蝉と話しているうちに、少し酔いがまわってきたらしかった。 貂蝉は、おれのそんな独白を、ただ静かに聴いてくれていた。 時折、相槌を打ちながらも、笑うことなく、遮ることなく、ただ静かに酒盃を傾けつつ、おれの言葉を胸に収めてくれている。 やがて、おれが胸のうちを吐露し終わると、貂蝉はゆっくりと口を開いた。まるで、酔ったおれに理解させるように、穏やかな声が、その口から発される。「ご主人様の考えは、間違ってはいないでしょう。玄徳ちゃんたちは、疑いなく英傑の名に相応しい子たちだもの。その名前は、もし、この世界の歴史が続くのならば、ずっと語り継がれていくことになるでしょう……」「……ああ、そうだな」 おれは、貂蝉の言葉に、一瞬、違和感を覚えたが、それは貂蝉の次の言葉によって、掻き消されてしまう。 貂蝉は、こう言ったのだ。「――だから、おれが彼女たちを支える必要なんてない。守ることなんて出来ない。英雄でもなんでもない、おれなんかが、そんな大それたことを思うだけでも失礼だ――」「――え?」 その声は、まるでおれの内心が、そのまま言葉となって溢れたものであるように思われた。 それくらい、貂蝉の言葉は、おれの本心を的確に浮き彫りにしていたのである。 だが、貂蝉はおれの驚愕を意に介さず、謳うように続けた。「それは若者にとって、空を飛ぶ鳥、水に泳ぐ魚、あるいは天に輝く星たるか。手を伸ばせど届かぬもの。心焦がれても得られぬもの。同じ場所に立ちたいと、夢見ることさえかなわぬゆえに」「貂蝉……?」 突然の貂蝉の行動に、おれは訝しげに問いを向ける。 その言葉の意味するものがわからないほどに、酔ってはいない。 だが、貂蝉が今さらそんなことを口にする理由まではわからなかった。 そんなおれの疑問に気づいているであろうに、貂蝉は笑みを浮かべ、酒盃を呷るのみだった。 その笑みは、普段の骨太な、漢気のあるそれと違って、やんちゃな我が子を見守る親のような、そんな温かさと苦笑が入り混じったものであるように思う。 ――いかん、だいぶ酔ってきたか。なんかありえない想像をしてしまいそうになりました。 おれは頭の中に浮かびかけた光景を振り払うと、貂蝉にならって酒盃を傾けた。 見上げれば、星たちが、その光を競い合い、煌びやかな天上の饗宴を織り成している。 そういえば、朝廷には天文を司る官吏もいるそうだ。彼らは、この燦燦たる星々に、一体、何を見出すのだろうか。 日本から来たおれにしてみれば、天が、人や世界の命運を映し出すなど、迷信だと思える。しかし、ここまで見事な星空を毎日のように眺めていると、夜空にはしる白銀の大河に、人智を超えた何かを見出そうとした人たちの気持ちも、理解できるような気がした。 おれは、さきほどの貂蝉の言葉を思い起こす。「――天に輝く星たるか、か。なるほどな」 その通りかもしれない、とおれは思う。 この乱世を、身命を賭して駆け抜けて、繚乱たる輝きを放つ英雄たち。 その傍らにあって、その輝きを見つめる機会を得たおれは、多分、幸運なのだろう。同時に、傍にいるからこそ、他のこともわかってしまう。 人身で、それだけの輝きを放つ彼女たちが、おれとは比べるべくもない、偉大な人たちなのだ、ということ。少女の姿かたちの奥に、確かに存在する格の差とでも言うべきか。 おれと玄徳様たちとの距離は、なるほど、たしかに見上げる星々との距離と、さほど違わないのだろう。 もっとも、だからといって「どうせおれなんてそんなもん」などといじけているわけでは、断じてない。 あいにくと、打ちのめされるのは小さな頃から慣れているのだ――まあ、打ちのめされるといっても、爺ちゃんや親父との稽古で物理的にやられただけなのだが。 それに、玄徳様や関羽、張飛あるいは諸葛亮、鳳統、他にも張角や太史慈、それこそ董卓や賈駆たちもまた、偉大と称しえる人物であるのは確かだが、だからといって、彼女たちだけで事務処理全部が出来るわけでもなく、城内の掃除や洗濯が片手間で片付けられるわけでもない。 農民が作物を育てねば、食は得られず。 仕立て屋がいなければ、服も着れない。 税をおさめる民がいなければ、一国は成り立たず、矛を持つ兵卒がいなければ、軍は組織できない。 彼らが、真に才を発揮するために必要なのは、たいした才もなく、歴史に名前を残すような能もない、無名の人々なのである。そう、おれのような。 英雄は大衆を救い、大衆は英雄を活かす。 そう考えたからこそ、おれは玄徳様たちのところにとどまっているのだ。救われた恩は、無論あるにしても、である。 おれは、玄徳様たちとは違う。 だが、玄徳様たちのために、何もできないわけではない。 そう信じているのだ。 だからこそ、というべきか。「――ちょっと役に立ったくらいで、惚れられるなんてありえないわけだ」 おれがそういうと、揺れる視界の中で、貂蝉が困ったように首を傾げていた。「なるほどねん。それもまた、一つの哲理。ご主人様に、人の想いの何たるかを教授してあげようとおもったのだけれど、そこまで考えていたのね」 そういって、はあ、と貂蝉は物憂げに身体をくねらせると、やおら、ずずい、とおれに顔を近づけてきた。「――ますます、惚れたわん」「ぬあッ?!」 貂蝉の攻撃(接吻)を、おれは慌てて椅子ごとあとずさってかわした。 貂蝉を仲間として認めることと、その恋情に応えることとは別問題である――言うまでもないけどさ。「というか、いきなり何をするか、おのれはッ?!」「あら、想いが昂じた挙句、私の身体が勝手に動いてしまったのよ」「信じられるかッ?! というか、身体が勝手に動いたというなら、なんで立ち上がってこっちに近寄って来る?!」 身の危険を感じたおれは、急いで屋内に戻ろうとするも、予想外の事態が、それを阻んだ。「くッ。鍵が?」「あらあら、たてつけが悪いのね。あとで女将に文句を言っておかないと。でも、ご主人様との間に邪魔が入らないように、しばらく人払いをしてしまったのよねえ。晩秋の今の時期、夜は冷えるわ」 貂蝉はなにやら考え込むように、頬に手を当てて考え込む。そして、やがて解決策を見つけたのか、力強く頷きながら、こういった。「でも大丈夫。ご主人様、ここは遭難した時のように、二人で裸身になって、お互いを暖めあ――」『あってたまるかあァァァッ?!』 ――って、あれ、なんか、声が重なったような? と思う間もなく。 爆砕、とでも表現するべきか。 さきほど、おれが阻まれた扉が、文字通り、粉微塵になって吹き飛んだ。「な、な、なッ?」 突然の事態に、おれは何が何だかわからず、その場に立ち尽くす。 やがて、扉の残骸と、埃をかきわけて姿を現したのは――「……おーまいごっと」「おう、迷子っと?? 迷子はどちらだ。いくら捜してもみつからないと思えば、こんなところに女連れとはッ」 現れたのは、黒髪も美しい劉家軍の青竜刀――いや、まあ要するに関羽だった。 何故、こんなときに関羽が現れたのか。なぜこんな破壊行為に及んだのか。状況がさっぱり理解できん。 だが、関羽は何やら怒った様子で、つかつかとまっすぐにおれに向けて歩いてくる。 おれは、とりあえず疑問を口にすることにした。「あの、状況が理解できないのですが」 そう言うと、関羽は口元をひくつかせながら、顔だけはにこやかに、懇切丁寧に説明してくれた。「南から早馬がきてな。火急の召集だというのにお前の姿が見えず、心配して捜しまわってみれば、美女を連れて酒楼へ行ったという。しかも、相手は伯姫殿ではないという。子竜に聞かされた時には、一刀両断にしてやろうかと思ったのだぞ。今度は一体、誰をたぶらかし――」 あたりに鋭い視線を飛ばした関羽は、当然ながら、すぐに貂蝉の姿を見つけ出す。 戸惑ったように、もう一度周囲を見回すが、これも当然ながら、この場には他に誰もいない。「これは――どういうことだ??」 そこで可愛く首を傾げられても、何と返せば良いのやら。 とりあえず、貂蝉に確認をとる。「趙将軍に、今日のこと、言ったのか?」「ええ、そもそも、ここを教えてもらったのも子竜ちゃんにだもの」「ということは――」 おれは気の毒そうに、関羽を見る。 今の短い会話で、関羽も事の真相に気づいたらしい。 さきほどまでとは違う意味で、顔を真っ赤にしている。「そ、その、なんだ、もしかして、私は――子竜にからかわれたのか?」「……」 肯定の言葉を発しなかったのは、武士の情けというものである。武士じゃないけど。 関羽は、しばらく、ぱくぱくと口を開閉させていたが、やがて、天にも届けと言わんばかりの大喝が、その口から迸った。「お、おのれ、子竜ォォォォッ!!!」 だが、絶叫する関羽は、いまだ背後から迫り来るもう一つの絶望を知らない。 顔を真っ赤にさせて悔しがる関羽の肩を、おれは軽く突っついた。 涙目で振り向いた関羽に、屋内の方を指し示す。つられて、関羽がそちらを向くと、そこには無残に破壊された壁面と、笑顔でこめかみに怒りマークを浮かべる女将の姿があった。 言うまでも無いことであるが、ここは高級酒楼の、最上階の一室。調度をふくめて、全てが一流の物品で占められている。 関羽の破壊活動が、何をもたらしたのか。想像するまでもないくらい明白だった。 赤から一転、顔を蒼白へと変じさせた関羽の様子は、少し見物だった。絶対、口には出せないが。 案の定、女将が差し出した請求書には、なんかとんでもない数字が書かれていた。たとえていうなら、ここでおれと貂蝉が飲み食いした金が、はした金に思えるくらい。 周囲を見渡せば、調度のいくつかが破片の直撃をうけたか、壊れている。いかにも高級そうな壺やら像やらもあり、桁外れの請求額も仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。 女将による圧倒的な勢いの攻勢に、関羽はたじたじとなって、時折、こちらに助けを求める視線を向けてくるのだが。「――無理だよな」「――無理よねん」 おれと貂蝉は、たちまち、意見の一致を見て、同時に首を横に振り、救援の不可なるを関羽に伝えた。「は、薄情者ッ?!」 慌てふためく関羽に、女将はさらに声を高めた。「関将軍ッ! いくらお城の方とはいえ、これだけのことをされて、黙っているわけには参りませんよ。この部屋の修繕代、調度の弁償金、いずれもビタ一文たりともまけませんからねッ!」「う、そ、それはまことにあいすまんと思うのだが、あいにく、全財産を投じても、とうてい、その額には追いつかぬのだが……」「ならば、お城の玄徳様に訴え出るまででございますッ」「うぐッ?! こ、このようなことで、桃香様にご迷惑をかけるわけには――ッ!」「ならば、将軍が何とかお金を工面してくださいッ。さあッ! さあ、さあッ!! さああああッ!!!」「……なあ、貂蝉」「なにかしら、ご主人様?」「あの女将さん。将軍として城で召抱えられないかな?」 関羽を相手にあの迫力。あの女将、ただものではないッ。 だが、おれの言葉にこたえたのは、貂蝉ではなかった。「それはやめてほしいものだな。女将がいなくなると、折角見つけた店がなくなってしまう」 いつのまに、この場に来ていたのだろうか。 気がつけば、そこには白の衣を纏った柳腰たる女性――趙雲がいた。 驚きの感情が、いつのまにか飽和状態になっていたのだろう。おれは大して驚きもせず、怪訝そうに問いかけた。「趙将軍まで、ですか。一体、何事です?」「詳しくは城でな。ちと厄介なことが起きたようだ」「――将軍?」 てっきり、何かの悪ふざけかと思っていたのだが、趙雲の顔には、そういった雰囲気が欠片もなかった。 つかつかと、いまだ言い争いを続ける――正確に言えば、一方的に関羽にまくしたてている女将に近づいていく。 当然、関羽も、女将も、その姿にすぐに気づいた。「あら、趙将軍ではありませんか。お元気そうで何よりでございます」「すまんな、女将。粗忽な仲間が迷惑をかけたようだ」 さらっと言う趙雲に、当然、関羽が黙っている筈はない。「し、子竜、お主ッ?!」「すまん、雲長。少々、悪ふざけが過ぎたようだ」 どんな返答を関羽が予測していたにしろ、この返答はそれ以上に関羽を、そしておれを驚かせた。「な――?」 あの飄然とした趙雲が、ここまであっさり自分の非を認めるとは、どういうことか。 だが、関羽は趙雲の答えを聞き、何かを悟ったのだろう。それまでの慌てた様子から一変して、冷静な将軍としての顔になった。「私にも責任の一端はある。どうだろう、女将。ここは私の顔に免じて、少し時を貸してくれまいか。無論、その分の対価は上乗せしよう」 趙雲の提案に、女将の顔に不服の表情が浮かぶ。 だが、しばらく何事か考え込んでいた女将だが、やがて小さく肩をすくめて、首を縦に振った。あるいは、趙雲と関羽の顔に漂う、ただならぬ雰囲気に気づいたのかもしれない。「ほかならぬ、趙将軍のお頼みです。承知するといたしましょう」「恩に着る。ほれ、雲長、お主も礼を言わぬか。普通なら、身包みはがれて、下働きさせられるところだぞ」「む、むう……礼を言う、女将」 小沛城の誇る二大将軍にそろって頭を下げられ、女将は苦笑しきりであった。 結局、飲み食いした分だけを払って、酒楼を後にしたおれたちであったが、関羽と趙雲の雰囲気は酒楼を出てからも変わらなかった。あるいは、女将をごまかす手段なのか、とも思わないではなかったのだが、どうやらそんな底の浅い事態ではないらしい。二人の緊迫感が、無言でそれを教えてくれた。 つい昨日まで、おれに向けられていたものとは違う。そんな生ぬるいものでは、断じてない。 これは、たぶん――「子竜、詳細はわかったのか?」「お主が街に突撃したすぐ後、第二報が来た。最初の報告に、間違いはない――これは、荒れるぞ」「そうか。城外に出ている鈴々と叔至も、早急に呼び戻さねばならんな」「すでに使者は出ている。二日もあれば戻れるだろう。寿春の乱の影響が出るまでには間に合いそうだ」 関羽と趙雲の会話を、黙って聞いていたおれだったが、聞きなれない言葉が出てきたことで、つい口をはさんでしまった。「寿春の乱?」 この時期、そんな出来事があっただろうか、と首をひねったおれに、関羽と趙雲は、歩く速度を緩めずに口を開いた。「先刻、南の国境から早馬が着いたことは言ったな。報告によれば、袁術領となった寿春で、大規模な粛清が行われたとのことだ」「粛清、ですか」 おれはわずかに眉をひそめた。 粛清とは、敵を破ることを意味しない。味方を切り捨てる時に用いられる言葉である。 この場合、それは袁術軍の戦力低下を招くことを意味し、徐州にとっては決して損となる話ではない。しかるに、おれも、そして貂蝉でさえも、関羽の言葉に、不吉なものを感じざるをえなかった。 それは、この一報が、仮初の平穏が終わり、血泥で染め上げた戦乱という名の嵐を告げるものだと無意識に感じ取ってしまったからなのだろう。 そして。 趙雲は、関羽の言葉に、こう付け加えたのである。「第二報で明らかになった死者の名は――孫堅だ」「えッ?!」「なにッ?!」 おれと関羽の驚愕の声が、同時に街路に響き渡る。「孫堅だけではない。その重臣のほとんどが、寿春城内で横死したらしい。そして、それをなした者の名は――」 趙雲は一拍置いて、ゆっくりと告げた。 「――飛将軍 呂奉先」と。