それは、劉家軍が小沛に移って、しばらく後のこと。 ようやく入場当初の騒ぎも下火になり、玄徳様や関羽をはじめとした諸将も、本来の自分たちの役割に戻ることが出来るようになった頃であった。 城の中庭にある東屋で、おれは見知らぬ少女に声をかけられ、戸惑っていた。 ――小沛城に住む馬具職人に、公孫賛から譲り受けた鐙を見せ、その機能と使い心地を説明し、兵士たちから集めた改善点を伝えて、小沛での生産体制を整える。 字にすれば簡単そうな仕事にとりかかったのが、朝早く。だが、実際は結構大変だった。まず、鐙を見た職人さんたちが大騒ぎになってしまったのである。「まさかこんな簡単なことで」とか「どうして気づかなかったんだッ!!」とかいう声が飛び交い、しょっぱなから時間をとってしまったのである。 一体誰がこれを作ったのか、と興奮したように詰め寄ってくる職人さんたちは、正直怖かったデス。 これで、おれが発案した、とか言おうものなら、収拾がつかなくなりそうだったので、とりあえず公孫賛からもらった、という事実だけを伝えることにした。 さすがは白馬将軍殿、と職人さんたちは感心しきりであったが、とりあえず、伝えるべきことを伝えたおれは、量産に必要となる予算を早めに計算してほしいと言い残し、城に戻ってきたのである。 そこで、ほっと一息ついているところに、件の少女に声をかけられたのだが、正直、ちょっと見覚えがない。ここにいる以上、城の人間だとは思うのだが――しかし、どっかで見た気もするんだよな。 おれの戸惑いを察したのか、目の前の少女は、どこか困惑した様子で口を開いた。「あ、あの、北郷さん、どうかしたんですか?」「へ? あ、いや、そのですね」 まさか、あなたが誰かわからなくて困ってる、とも言えない。おれの顔と名前が一致してるところを見ると、多分、劉家軍の人だと思うが、はて? 思わず触りたくなるような、綺麗な白銀色の髪。それを、頭の後ろで束ねた、いわゆるぽにーてーるという髪型をした少女。 ぱちりと開かれたその瞳は、磨かれたばかりの紫水晶もかくやという美しさ。まるでお人形さんのような愛らしさが―― と、そこまで考えて、おれはやっと目の前の人物が誰か気づいた。「仲頴(董卓の字)?」「は、はい?」 思わず顔を見合わせるおれと董卓。 とりあえず、何から聞こうかと考えたが、やはりこれだな。「イメチェン?」「い、いめ……? あの、北郷さん、どういう意味なんでしょう、そのいめちぇんって」 董卓は不思議そうな顔で、小首を傾げるのだった。 聞けば、董卓は、劉佳様から「たまには、羽を伸ばしていらっしゃい」と半ば強引に部屋から送り出されてしまったそうな。 髪型を変えたのは、万一、董卓を見知った者が小沛にいたとしても、すぐには気づかれないように、との配慮だそうだが……「かえって目立ちそうだけどな」「え、ど、どこか変でしょうか?」 案外気に入っていたのか、ちょっとしょげた様子で、髪に手をやる董卓。 おれは慌てて、その勘違いを正した。「あ、いや、そうじゃなくてね。なんというか、似合いすぎてて、注目を集めそうって意味」「……え、え、ええッ?!」 今度は照れて顔を真っ赤にしてうつむく董卓。いかん、可愛い。 とはいえ、もちろん、董卓の可愛さを堪能するために偽りを言ったわけではない。 実際、おれが董卓と街ですれ違えば、絶対振り返る。 董卓の淑やかさと、ポニーテールという、どこか活発な印象を与える髪形の組み合わせが、実にこう、心の琴線に触れてくるのである。 恥ずかしさをごまかすためか、董卓がやや慌てたように口を開いた。「あの、お茶、おいれしましょうか?」「え? あ、いや、外に出るんだろ。おかまいなく」 せっかくもらった休暇なのに、仕事をしないでも、と思ったおれが遠慮すると、董卓は少し困ったように微笑んだ。「外に出ないといけない用事はないですし……それに、劉佳様は大丈夫と仰ってくれましたが、万一にも私の正体がばれたら、大変なことになってしまいますから」 その董卓の言葉を聞いて、おれは緩んでいた表情を、知らず引き締め直していた。 董卓はいまだ世間的には洛陽の苛政の責任者と考えられている。許昌に移った朝廷は、王允を討った曹操の行動に関しては正当性を認める旨の布告を出しているが、その他の王允の策略に関しては口を閉ざし、董卓や賈駆がその下で傀儡にされていたことを知る者は少ない。 だからといって、董卓たちの方から、それを明らかにすることもまた出来ない。なぜなら、それを主張すれば、どうして王允に唯々諾々と従ったのかの理由を問われることは必定であり――皇帝殺害の大罪が、天下に明らかにされてしまうからである。 劉家軍に匿われ、賈駆と共に劉佳様の傍で過ごした穏やかな時間で、董卓は、時折、微笑みを浮かべることが出来るくらいには、心の傷を癒せたようだった。しかし、罪の意識から解き放たれたわけではないことは、事あるごとに曇るその表情を見れば、察しはついた。 そして、おそらく――董卓が完全に解き放たれることは、未来永劫、ないのだろう。皇帝を殺した事実が、消えでもしないかぎり。 おれは董卓に気づかれないように、胸中でため息を吐くと、董卓にうなずいて見せた。「じゃあ、お願いしようか」「はいッ」 おれの言葉に、董卓は嬉しそうに駆け去っていく。お茶の道具を取りに行く足取りは、どこか弾んで見えた。 (良い子だよなあ) 甲斐甲斐しくお茶をいれたり、菓子を持ってきてくれたりする董卓を見て、自然にそんな感想が湧き出てくる。 出来ることなら、周りの目なんて気にならないようにしてあげたいものだが、こればかりは話の規模が大きすぎて、おれなどではどうにもならない。 おれの視線に気づいたのか、董卓が微笑みながら問いかけてきた。「あ、お代わりですか?」「――ああ、お願い」 杯を差し出し、飲み干した分を追加してもらう。 そうして、二人して、お茶をすすることしばし。特に言葉をかわすこともなく、二人して東屋からの光景をぼーっと眺めていたのであった。 できれば、そのまま心地よい空間に浸っていたかったが、残念なことに、休憩時間は有限であった。 職人さんたちの様子を見に行き、玄徳様に陳情する予算表を作成し、時間が余ったら馬の稽古というところか、と午後の仕事の段取りを考えつつ立ち上がったおれに、董卓が思わぬ頼みごとをしてきた。「あの、北郷さん、私もついていって良いですか?」 正体がばれないように気をつけますから、と上目遣いで見上げてくる董卓。 ――断言しよう。この頼みを断れるやつは人間じゃない、と。◆◆ だが、職人たちの仕事場について早々、おれは董卓を連れてきたことを後悔しはじめていた。 いや、董卓を『外』に連れて来たことは全然問題ない。問題なのは、董卓を『ここ』に連れて来てしまったことだった。 まあ、予測できたことではあったかもしれない。 馬具職人は、男の園である。そんな場所に可憐な少女を連れてくれば、それは騒ぎになるよなあ。 さすがに仕事そっちのけで董卓のところに押し寄せて来るようなことはしなかったが、見習いや若い職人の目線は、さきほどから董卓に集中しまくっている。 視線が固形化するものなら、多分、董卓は全身ハリネズミみたいになっていることだろう。 もっとも、少し驚いたことに、董卓はそういった視線をあまり苦にしていないようだった。 この辺は、さすがに元君主といったところだろうか。 だが、伏兵は思わぬところからやってきた。 若者たちだけでなく、明らかに妻子もちだろお前ら、と突っ込みたくなる連中までが董卓を見つめていたのである。 それどころか、その中の一人がとうとう直接、董卓の近くに行き、こんなことを口走った。「な、なあ、あんた。その、なんだ。良い人はいるのかい?」 ざわり、と建物全体がざわめいた気がした。 董卓が頬をあからめながら、首を横に振ると、男は更に勢い込んで、董卓に詰め寄る。 さすがに洒落にならん、とおれが足を踏み出しかけた時だった。男は大声でこう叫んだのである。「なら、うちの息子と見合いしてくれんかッ?!」 その言葉を聞き、おもわずこけるおれと若者たち。 だが、こけたのは、一定より下の年齢の者だけであった。 男の言葉に触発された中年、あるいは老年(つまりは職人頭の方々)の男たちが、我も我もと董卓に群がったのである。「いや、娘さん、うちの息子の方が有望だ! 末は大将軍か宰相かってくらいだぞ!」「あの放蕩息子が宰相じゃと? 滅亡決定じゃな! そこをいくと、うちの孫は違うぞい。長ずれば、やがて歴史に名をのこす英傑になるじゃろう!」「あれ、確か去年、お孫さんが生まれたっていってませんでしたっけ、頭?」「妻が年上の方が、家庭は上手くいくもんじゃ! 実経験じゃぞ!」「いつまでこの娘さんを待たせる気ですかいッ?! 娘さん、そこをいくと、うちの甥は一味違っててな――」 あー、なんだ、その。 なにか、いつのまにか身内の自慢大会になってないか? 彼らのあまりの迫力に、若者たちも竦んでしまっているし。 おそるべし、家族愛。「ほ、北郷さ~ん……」 などと言っている場合ではなかった。騒ぎのただ中に取り残され、董卓が目を回しそうになっている。 こんなところで董卓に倒れられたら、あとで賈駆に殺される。 外出の話をした時でさえ、尋常でない視線でにらまれたというのに。 かくて、おれは一族の繁栄を願う男たちのただなかに飛び込まねばならなくなったのである。◆ かろうじて敵陣からの離脱に成功したおれと董卓は、とりあえず近くの店で休むことにした。 喫茶店――というほど洒落たものではないが、座って飲み食いできる店である。 もっとも、さきほど茶も茶菓子も食べていたので、それほど腹が減っているわけではない。 おれも董卓も、お茶を頼んだだけで、あとは先刻の疲労を癒すために、机に突っ伏していた。 小さな笑い声が聞こえたので、顔をあげると、向かいの席で、董卓が楽しそうに口元を手で押さえて笑っていた。ポニーテールが、軽やかに揺れている。「どうかしたか?」 不思議に思って問うと、董卓は、なんでもない、と言うように首を左右に振ったが、またすぐに、くすくすと笑い出してしまった。「ご、ごめんなさい。何か、おかしくって」 董卓はおれに謝りながらも、さきほどの騒ぎを思い出して、なおも笑い続けていた。 まあ、董卓が領主である限り、絶対に出来なかった経験であることは間違いない。理由はどうあれ、董卓が笑ってくれたのならば、あそこに足を向けたのも失敗ではなかったということか。 ため息まじりの責任者の補佐をしてた人(結構若いので、争いには参加してなかった)から鐙の生産にかかるであろう金額の試算も受け取ったし、あとはこちらの仕事である。 お茶をすすりながら、あれやこれやと玄徳様に提出する表の作成について考えるおれであった。 そして城に戻るや、執務室(文官たち数名が共同で使っている部屋の一つ)に直行したおれだったが。「いや、ほんとに良いんだぞ。何も休みの時に、他人の仕事の手伝いまでしなくても……」 しかし、仕事にとりかかるや、困惑の声をあげることになる。 董卓がここまでついてきて、手伝いをしたい、と言い出したからである。 ここまで来ると、この娘、おれに惚れてるんじゃないかしらん、と自惚れそうになるおれ。 思った瞬間に、ありえねえ、と自分で突っ込みをいれてしまったが。 案の定、そういった艶めいた理由は一切合切、欠片もなかった。 董卓曰く「私も何か、皆さんのためにお手伝いできれば」とのこと。 最近、賈駆が無聊に耐えかね「仕事を寄越しなさい!」と諸葛亮と鳳統に詰め寄ったのは、つとに有名な話。あまりの勢いに、劉家軍の誇る軍師二人は「はわわ」「あわわ」と立ち尽くしてしまったとか。 無論、賈駆の能力は折り紙つきであり、今では、鳳統らと共に、戦術論、戦略論を激しく戦わせている姿を見かけたりする。 その姿を見て、董卓なりに感じるところがあったのかもしれない。 もっとも、董卓にしても、賈駆にしても、表立って働くことは出来ないので、どうしても裏方、縁の下の仕事になってしまうのだが――賈駆はともかく、董卓にとってはそちらの方が性に合っているかもしれんなあ。 洛陽での悲嘆ぶりを思えば、董卓が自分から積極的に行動に出ようとしていることは、手放しで喜んで良いことだろう。 あとで玄徳様には許可をもらわねばならないが、とりあえず――「おーい、叔治殿」 声をかけながら、少し離れた机で仕事をしていた王修に声をかける。「え? え? あ、あれ、北郷様?」 竹簡の山に埋もれ、一生懸命仕事に励んでいたため、おれが戻ってきたことにも気づいていなかったらしい。 ようやくおれの方を向くと、少しびっくりしたような顔をして、おれと、隣に立つ董卓の姿を見た。「あ、あの、どうかなさいましたか? あ、もしかして、また何か失敗を……」「あ、いや、失敗してないから、大丈夫。というか、叔治殿が仕事をしくじったところなんて、見た記憶ないんだけどな」 どうも北海では、失敗とも言えないささいな点をあげつらわれていたりしたらしい。資料集めにかける時間が長い、とかそんな程度のことを。 そのせいもあるのだろう。劉家軍の中でも、仕事中、王修はすこし萎縮しがちだった。 だが、実際、その正確な仕事ぶりは驚嘆に値した。 さすがに諸葛亮や鳳統ほどではないし、多少……うん、多少、のんびりとした仕事ぶりではあるが、計画の策定であれ、結果の報告であれ、王修が仕上げた仕事の見事なことといったら、あの簡擁が感嘆するほどであった。 綿密な準備と、職務への集中力。この二つは、劉家軍の文官の中でも、五本の指に入るだろう、とおれは考えていた。 もっとも、急を要する仕事とかだと慌ててしまうので、仕事を選ぶ必要はあるかもしれない。 ともあれ、新人に仕事を教えるなら、王修以上の適役などいないだろう。 王修の場合、その仕事ぶりの見事さは、才能というより、誰にでも出来ることを、怠りなくやってのける堅実さに求められる。 それは言い換えれば、努力次第で、誰でも実践することが出来るもの、ということであった。実際、おれもひそかに王修を見習いつつやっているのだ。「というわけで、王先生。お願いしますッ」「ええッ?! というわけでって、北郷様、あのどういうわけです? わ、私、人に物を教えられるような人間じゃ……」「快く承知していただけて感謝しますッ。はい、生徒さんも」「あ、はい。あの、王先生、よろしくお願いします」 ぺこりと頭を下げる董卓。 そして、つられて頭を下げる王修。「あ、はい、こちらこそ。至らぬ身ですが……って、北郷様?!」「では、年寄りはこの辺で失礼させていただきますぞ。あとはお若い者同士で」 おほほ、と笑って席に戻るおれ。 王修はわたわたと両手を振り回して、抗議する。「年寄りってなんですか、北郷様ッ?! お若い者って?!」「あの、先生、まずは何をすればよろしいでしょうか?」「ひえ?! あ、あの、先生って、その……う、じゃ、じゃあ、この資料をですね――」 澄んだ瞳で、自分を見つめてくる董卓の眼差しに、王修は顔を真っ赤にしながら、何がなにやらわからぬうちに、手元の資料の説明をはじめたのであった。 やがて、二人の間から戸惑いが消えたのを確認し、おれは目の前の竹簡に文字を書き込んでいく。 近づく夏の季節を感じさせる強い日差しが降り注ぐ、小沛城のある日の出来事であった。