おれたちを救ってくれた恩人たちの旗揚げの地、幽州は楼桑村。 黄巾賊の追撃をかろうじて振り切ったおれたちは、なんとかここまで逃げてくることができた。「ああ……死ぬかと思った……」「はうう、同感です……」「あうう、お花畑が見えました……」 卓に突っ伏すおれ、朱里、雛里の3人。 情けないというなかれ。武器を持った連中に追われるというのは、それくらい、心身をすり減らす経験だったのである。 真正面から対峙すれば、まだ覚悟の決めようもある。しかし、逃げている最中に、後ろから、矢やら槍やら投げられた日にはかわすことも出来ないし、その恐怖が余計に冷静さを奪い、心身の疲労を増幅させてしまうのだ。 撤退戦の遂行は至難を極めるというが、しみじみとその言葉が実感できた1日であった。 そこまで考えて、おれはふと、大切なことを忘れていたことに気づいた。 のんきにこんな分析をする前に、あの少女たちに礼を言わなければ。今、おれたちが無事にこの村にいられるのは、間違いなく、あの娘たちのお陰なのである。 何度も命を救われながら、礼を言うのも忘れていたなど、人として恥ずかしいことこの上ない。おれは1人、赤面すると、礼を言うべく、あの少女たちを捜そうとする。 だが。「あ、いたのだ! おーい、桃香お姉ちゃん、愛紗、こっちなのだー!」 元気な女の子の声があたりに響き渡る。 見れば、あの時、おれたちを助けてくれた3人のうちの1人だ。 朱里たちと大してかわらない小柄な身体。だが、蛇矛を振り回して、黄巾賊を蹴散らす様を繰り返し見た今となっては、子供扱いなど出来るはずもない。確か、他の2人からは鈴々と呼ばれていたな。 そして、その鈴々の声を聞いて、この場に姿を現したのは、愛紗、桃香と呼ばれた2人であった。 愛紗と呼ばれる少女は、例のきつい眼差しの子である。もっとも、向けられるのはおれ限定で、朱里や雛里に優しく微笑む横顔は、見ているこちらも、どきっとするほど綺麗だった。 そしてもう1人。桃香という名の少女は、おれが非礼にも押し倒してしまった子である。もちろん、あの後、すぐ謝ったし、桃香も、恥ずかしさに頬を染めながらも許してくれたが、健全な高校生としては、抱きしめた際の柔らかい感触は、なかなか忘れられるものではない。いや、自信をもって断言することじゃないのは重々わかっているが、もてない男のサガというものである。ご容赦あれ。 おれたちの他にも、奴隷とされていた民衆の一部は、一緒にここまで逃げてきていた。なぜ一部のみなのか、というと、帰る当てがある人々はそれぞれの故郷に帰り、おれのように帰る当てのない人たちが、ここまで来たからである。その数は200人以上にのぼる。 そう、つまり。 目の前の3人の少女は、おれたちを含め200名以上を、黄巾党の追撃から救ってのけたのである。何者ですか、あなたたち。 くわえて、愛紗と鈴々の2人の武力は、はっきりいって反則級である。稽古や鍛錬でたどり着くことのできない領域、この2人は、疑いなく、天与の才を持っている。 そして、何より驚くべきは、その2人から姉と慕われ、100名以上の義勇軍を率いている桃香という名の少女である。 見た目、おっとりとしながら、少しドジな面も垣間見えたりして、実におれの好み……って、そんなもん関係ないな、うん。 そんな普通の女の子であるはずの子が、義勇軍の長だというのだから、一体、何がどうなっているのやら。 とはいえ、色々と不思議な点はあるにせよ、彼女らがおれや朱里たちの命の恩人であることに変わりはない。 おれは自分の名を告げて、改めて御礼を言った。「北郷、一刀殿……」 桃香が、舌で転がすように、おれの名を呟いている。 その隣に座る愛紗は、相変わらず、警戒するような目線でおれを見据えていた。「姓が北郷、名は一刀……字は持っておられぬのか?」「ええ、これまでは必要なかったもので」 愛紗の問いに、おれは曖昧にうなずく。 同じ問いは、黄巾党にいた時も何回かされたことがある。その度に、おれは同じ答えを返したが、相手はその都度、奇妙な眼差しで、おれを見つめたものであった。 というのも、中華帝国では、名を呼ぶことが著しく非礼に当たるからである。その人物を名で呼びことが許されるのは、親や主君といった目上の人間のみである。 そのため、普段の呼びかけには字が用いられるのだ。 字は、通例、成人の証として付けられる。自ら付けても良いし、師が授けることもある。あるいは主君が与えることもあるという。これよりずっと後の時代だが、あの有名な宋の文天祥の字である宋瑞というのは、時の天子より、文天祥が賜ったものである。 ちなみに、成人の証と言っても、現代日本みたいに20歳でなければならないわけではない。おれくらいの年齢の男児であれば、字くらい持っていても不思議はないのである。 とはいえ、ちゃきちゃきの日本人であるおれが、名で呼ばれることに不快を感じるはずもない。なので、おれは東夷から来た、ということにしていた。 東夷というのは、文字通り東の蛮族という意味で、そんな出自を明らかにすれば、色々と誤解される可能性はある。あるのだが、2字の姓、2字の名というのは極めて珍しい上、おれ自身、この時代の常識や風習に無知であることもあり、東夷から来たという理由は、そういった不自然な点の言い訳になってくれるのである。それに、事態を四捨五入すれば、本当のことだしな、うん。 というわけで、ここでも同じことを言うことにする。 一同、ほう、と感心したような、驚いたような顔をするところは、今までの人たちと同じだった。 予想通りの反応に、思わず笑みをこぼしたおれだったが、目の前の少女たちが自己紹介を始めた途端、その笑みは瞬く間に凍りついた。 最初は、朱里だった。「わ、私は姓は諸葛、名は亮、字は孔明といいます」 水鏡女学院に在籍していたが、戦乱で苦しむ人々の助けになりたくて、旅に出たという朱里改め諸葛亮。 ……え? その次は雛里。「姓は鳳、名は統、字は士元と申します……」 そういってから、全員の視線が向けられていることに気づき、慌てて帽子で顔を隠す雛里改め鳳統。 ……ええ?! いや、ちょっとまって。 諸葛孔明と鳳士元って、伏竜と鳳雛?! なんでこんなところにいるんだ……って、旅に出たって言ったよな。しかし、こんな女の子たちが、あの2大軍師とおっしゃいますのんか? この世界、やっぱり普通じゃないな。 よし、落ち着こう、おれ。この世界はもう何でもありだ、矢でも鉄砲でも持ってきやがれ! なかば無理やり、自分を納得させようとしていたおれだったが、次の一言で、その虚勢も吹き飛ばされた。「じゃあ、今度は私たちだね」 そういうと、桃香がにこりと笑って、自分の姓名を告げたのである。「姓は劉、名は備、字は玄徳。よろしくね、みんな」 ……は? 劉……玄徳? その名を聞いて、おれがぽかんとしている間に、愛紗が続けた。「私は姓は関、名は羽、字は雲長。戦乱に苦しむ民草を救うため、姉者と共に立ち上がった。見知り置きを願う」 脳の負荷が限界を追え、おれは乾いた笑いを浮かべて、鈴々の方を見た。 桃香が劉備、愛紗が関羽ということは、当然、鈴々は…… 「鈴々は、姓は張、名は飛、字は益徳なのだ!」 やっぱり?! 何なんだ、この錚々たる面子は一体?! おれはあまりに予想外の展開に、しばらく呆然としたまま、動くことさえできなかった。 だが、しかし。 冷静になって考えてみれば、さして驚くことではなかったかもしれない。そもそも、最初にあった張角たちがあれだったのだし。むしろ、劉備たちは性別こそ違え、黄巾賊に戦いを挑み、民衆を助けようとしているところは、おれの知る劉備たちと何ら変わらない。 諸葛亮と鳳統に関しても、おれの知る2人よりも、ちょっと行動力がプラス修正されただけだと思えば、十分許容範囲内だ。 うん、別に問題はないな。ないったらないんだ、疑問に思ったら負けだぞ、おれ!「あの、それで、実は北郷さんたちにお願いがあるんだけど、聞いてくれますか?」 劉備の言葉で、おれは内心の葛藤から、ようやく現実に立ち返ることができた。「あ、はい、何でしょうか?」 恩人の頼みとあれば、出来るかぎり応えるのは当然のことである。 だが、劉備は何やらもじもじとしながら、おれや諸葛亮、鳳統らに視線を送るのみで、なかなか口を開こうとはしなかった。 はて、どうしたんだろう? おれは首を傾げ、諸葛亮や鳳統の方に視線を向けるが、彼女らも不思議そうに劉備を伺うだけであった。「あの、その、あの、ですね。実は……えっと、ううう……」 何やら言いにくそうに何度も言いよどむ劉備。 頬を染めて、何やら困惑するその様子は、正直、目を離せないほどに愛らしい。もっとも、本人にその自覚はかけらもないだろうが。 困惑する劉備の横で、関羽が小さく苦笑しながら、助け舟を出した。「姉者、私から言いましょうか?」「だ、だめだよ、愛紗。こういうことは、ちゃんと私からお願いしないと!」「承知しました。では、ご存分に」「ううう」 関羽の言葉に、思い悩みながらも、何事か決意した様子の劉備。 そして。 劉備は、おもむろにおれたちの前に立つと。 がばぁ! と、すごい勢いで頭を下げ、こう叫んだのであった。「わ、私たちと一緒に戦ってくれませんかッ?!」 劉備が、出会ったばかりの彼らを仲間に迎えようとしたのは、決して一時の思い付きではなかった。 黄巾賊の根拠地で。 劉備たちは、その場にいた奴隷たちを逃し、行く当てのない者たちは自分たちの根拠地へ連れて帰ろうとした。その数はおおよそ200人。義勇軍の、ほぼ倍の数にあたる。 いきなり、自分たちの倍の非戦闘員を抱え込むわけだから、義勇軍の行動が大きく阻害されることになるのは明白だった。 追い討ちをかけられれば、散々な目に遭うだろう。 劉備たちの危惧は、しかし、諸葛亮と鳳統によって、あっさりと否定された。 諸葛亮は言う。「黄巾党の人たちは、追い討ちをかけないと思います」 希望的観測……にしては、いやに確信に満ちた言葉だったので、劉備たちは、その根拠を問うた。「お話を聞くかぎり、この場にいるのは張角さんを筆頭とする黄巾党の主力で、幽州の太守様を相手にしていたのですよね。そうであれば、官軍の不意の奇襲を受ければ、まず守りに力を割かねばなりません。下手にうって出れば、別働隊に本陣を襲われる危険がありますから」 朱里の言葉を受け、雛里も口を開く。「それに、情報を集めれば、今回の襲撃が少人数によるものだということはわかると思います。そして、偵騎を放てば、こちらが少数で逃げているのも、すぐにわかるでしょう。黄巾党の本陣に、こんな寡兵で攻め寄せる者がいるとは考えにくいですし、官軍の罠ではないかと疑うのが普通だと思います」 理路整然と述べ立てる2人。「……何者ですか、あなたたち」と北郷が呟いていたが、劉備もまったく同感だった。 2人の論旨は至極もっともだったが、問題は、敵がそのあたりをまったく考慮しないおばかさんであった場合である。 それに備えたのが北郷だった。 何も難しいことをしたわけではない。北郷は、ただこう叫んだだけである。「張角様たちが狙われているぞ、迂闊に打って出るな」と。 戦術眼がない黄巾賊であっても、党首への崇拝は有り余るほどに持っている。こう叫んでおけば、黄巾賊は簡単には動けない。仮に謀を見抜いた者がいたとしても、配下がすぐにそれに従わないだろう。 かくて、劉備たちはほとんど敵勢力と接触せずに楼桑村にたどり着くことができたのである。 少数の追っ手はかけられたが、関羽、張飛らが簡単に蹴散らせる程度の数であった。 諸葛亮と鳳統の識見。北郷の機転。何より、黄巾賊の根拠地の真っ只中で彼らが見せた義侠心を目の当たりにした劉備にとって、3人はぜひとも仲間になってほしい人物と映ったのである。 それを言いよどんだのは、あの場で自分が示した無様さを自覚していたからだ。 彼らの目に、劉備自身が、共に戦うに足りる人物だと映っているとは思えず、躊躇してしまったのである。 しかし、それは杞国の憂いに等しいこと。 それは、劉備自身の目にも、すぐに明らかとなった。 小さくとも、一軍の将たる者が、どこの馬の骨とも知れない者たちに頭を下げる。 その意味がわからない者は、この場にはいなかった。 諸葛亮と鳳統は視線をかわし、互いの意思が等しいことを瞬時に確認しあう。「あ、頭を上げてください、玄徳様! 私たちの方こそ、お願いします。私たちを、みなさんの軍に加えて下さい!」「朱里ちゃんの、言うとおりです。どうか、お顔を上げてください……」 諸葛亮が、鳳統が、口々に劉備軍への参加を願う。 それを聞いて、劉備の顔がぱっと輝いた。 その視線が、最後の1人に向けられる。劉備だけではない。諸葛亮も、鳳統も、どこか不安げな目でおれを見上げていた。 この地に来てからはもちろん、この地に来る前も含めても、おれは、ここまで正面から他人に求められた経験はなかった。 それゆえ、目の前の少女の誘いに、心が大きく揺れ動いたのは事実である。。 だが、おれは劉備配下の将軍たちのような力は、欠片も持っていない。今後、劉備たちが辿るであろう道筋や、おれの身の安全などを考えるに、放浪軍に等しい彼女らの軍に身を委ねることが得策であるとは思えなかったのも、また事実であった。 なぜなら。 おれは元の時代へ帰らなければならないから。そのためには、決して死ぬことはできないから。 降りかかる火の粉は払う。だが、正義のために武器を手にとり、命をかけて戦う、などということをしようとは思わなかったし、出来るとも思えなかった。 この世界で生き抜く意思を持たない人間が、この世界で何を成せるというのか。 おれのためらいを感じとったのだろう。 諸葛亮と鳳統の顔は曇り、劉備はしょんぼりとした様子で俯いてしまった。 ああ、なんかずきずきと胸が痛む。良心とか、誇りとか、そういった大切なものが、身体の中で暴れまわっている感じ。 ここまで真正面から頭を下げて、共に戦ってほしいといってくれた少女の願いを足蹴にしようとしているのだから、それも当然か。 まったく、我ながら終わっている。しかし、返事はきちんとしなければならないだろう。「おれは、いずれ東に帰るつもりです。あちらには、待っている人もいる。この地で戦い、死ぬことはできないんです。だから……」 だから、共に戦うことはできない。 そう断られることを覚悟したのだろう。劉備がぎゅっと拳を握り締めるところを、視界の隅で見た。 だが。「だから、その……あー……そんな半端な奴が、あなた達と行動を共にしたところで、大したことはできないと思いますけど、それでも良いんですか?」 おれの口から飛び出したのは、そんな情けない台詞だった。 きっぱり断ることも、格好良く受諾することもできない自分の軟弱さが恨めしい。 その引け目があったため、おれは劉備の方を見ることができなかった。きっと呆れられているのだろうなあ、と半ば覚悟する。 それは突然だった。 ぎゅっと、柔らかい感触が、おれの手を包み込むと、胸のあたりまで引っ張りあげられたのだ。 驚いて顔を上げると、いつのまにか、すぐ近くに劉備の顔。 劉備はおれの手を握り、胸のところに持ってくると、心底ほっとしたような顔で微笑んだ。「私だって、まだまだ半端な人間です。平和な世の中をつくりたくて、でもそんな力はなくて。それでも、みんなの力を借りて、少しずつでも、そういう世の中をつくっていきたい」 間近にある澄んだ眼差しから、目が離せない。胸を打つ脈動は、明らかにさきほどのそれとは違うものに変わりつつあった。「北郷さんが、それに力を貸してくれるなら、とっても心強いです。もちろん、私も出来るかぎり、北郷さんが目的を果たせるように力を貸します。それは、みんなも同じことです。みんなで支えあって、みんなで頑張って、みんなの目的を果たしましょう!」 煌くような生気に満ちた瞳を見て、おれは思う。 ああ、関羽も張飛も、この輝きに惹かれたのだろう、と。 そして、見たくなったのだろう。この輝きにあまねく満たされた、中華の大地を。そこで生きる人々の笑顔を。 今、おれがそう思ったように。