――周知の如く、州とは中華帝国の広大な領域を、司・冀・兌(えん)・青・并・徐・揚・荊・豫・涼・益・幽・交の13に分けた統治区分のことである。これを司るのが州牧であり、州を構成する郡を統べる者が太守である。 すなわち、州牧とは、天下13州の1つを統治する権限を与えられる役職であり、当然ながら、その権威は極めて大きい。今のところ、おれの知っている諸侯の中で、州牧の位を得ているのは袁紹くらいのもので、あの曹操すらいまだ州牧の地位には就いていなかった。 もっとも、曹操に関しては皇帝を擁しているため、一概に他の君主と比較することは出来ないかもしれないが、いずれにせよ、州牧がかなり高い地位だということは間違いないのである。 そして、劉家軍は今、その州牧の1人である陶謙の居城・彭城の中に招かれていた。「洛陽以来となりますな。貴殿らを我が城にお招きできたこと、嬉しく思いますぞ」「陶州牧もお元気そうで、何よりでございます」 謁見の広間にて、陶謙と玄徳様は互いに礼を献じた。 周囲には、徐州の文武の要となる者たちが居並び、玄徳様と、そしてその背後に控える劉家軍の面々に種々の視線を注いでいる。 好意的な視線もあれば、警戒を露にしている者もいた。だが、中でも最も多いのは好奇の視線であるようだった。彭城内にあって、劉家軍とは何者なのかを知る者は、それほど多いわけではないらしい。 糜竺たちは、すでに水面下で暗闘が始まっていると口にしていたが、いまだそれを知らぬ者も少なくないということなのだろう。 おれがそんなことを考えている間にも、陶謙と玄徳様の話は続いていく。「此度、我らの急な要請に応じ、琅邪郡の賊徒を退治してくれたこと、心より感謝いたす」「と、とんでもないです。元々、私たちの目的は黄巾党の残党を掃討することでしたから……」 度重なる陶謙の謝辞に、玄徳様は照れたように顔を俯かせる。 その様子を見る陶謙の視線は、とても暖かかった。「たとえそうであっても、貴殿らの軍が徐州の民を救うてくれた功績はいささかも色あせることはありませぬでな。官と民とを問わず、徐州を代表して貴殿らに改めて感謝を申し述べさせてもらいたい」 陶謙の言葉に、玄徳様のみならず、後ろに控えているおれたちも、一斉に頭を垂れた。 そして。 さて、と陶謙が口を開く。「功績に報いるは、領主の務め。玄徳殿、なんぞ望みはおありであろうか――と、本来ならば問わねばならぬのじゃが」 陶謙は笑みを引っ込め、真摯な眼差しで玄徳様をじっと見つめる。「すでに先触れの使者から話は聞いておられるじゃろう。小沛城主の件、承諾いただけようか?」 陶謙の言葉に、広間に集った諸官からざわめきが起こった。 小沛城は、彭城、臨准城に継ぐ徐州第三の都市。兌州、豫州に通じる徐州の玄関口の役割を果たし、軍事的に見ても、政治的に見ても、決して失ってはならない最重要拠点である。 現在の小沛城主は、徐州軍を統べる2将軍の1人糜芳。陶謙の信頼厚い糜竺の弟でもある。 その糜芳の下、駐屯する兵力は3万を越える。これは兌州の動乱が飛び火することを恐れた為の配備であったが、つまり小沛城主とは、それだけの権限を有する要職なのである。 陶謙は、それを劉備に務めてもらいたい、と口にしたのだ。 劉家軍の実力を知らず、そしてここに至る経緯を知らない者たちが動揺したのは、むしろ当然と言ってよかった。 もっとも、例えそれらを知っていたとしても、外から流れてきたばかりの、しかも女性が主力の勢力に、そんな重要な役割を与えると言われれば、反対を唱える者は出てくるだろ。まして、初めから劉家軍を敵視している者がいるのなら、なおさらである。「父上! 何を血迷ったことを仰せられるのですか?!」 広間の入り口から、怒気に満ちた声が聞こえてくる。 名前を口にするのも億劫になる奴らが来たらしい。 まあ、洛陽の時とは違い、今回は、こいつらがどういう人物かを知っているから、心の準備は万端である。おれはそう思っていたのだが――「兄上の言うとおりでござる。このような氏素性も知れぬ輩に、よりにもよって前線たる小沛を委ねるとは! 失ってから悔いても及ばぬのですぞ!」 ……準備は出来ていた、筈なのだが。「いかにも。まして女子供の集団に小沛の守備をさせたとあっては、諸侯の侮りを受け、ついには侵略を招くは必定でありましょう。琅邪郡の賊徒を討ち取った功績には、金品でも与えておけば足りまする」「さよう。女の分際で戦場にしゃしゃり出てくるような、身の程知らずの下卑た輩には、それが何よりの褒美でありましょう」 ……馬鹿兄弟が現れて、何分も経っていないというのに、たちまち、心の堤防が決壊寸前になってしまった。なんたる未熟さか。当の関羽たちはどこ吹く風と平静を保っているというの……に? おれの前にいる関羽の肩が、ふるふると小刻みに震えている。 視線を横に向けると、唇に危険な微笑を浮かべた趙雲の横顔があった。 後方の人たちの姿は見えないが、何かこう、胸をしめつけるような不穏な空気が、ひたひたと背後から迫ってくるように感じるのは、気のせいなのだろうか。 ……ああ、この、小刻みにカチカチなっているのは、田豫が震えて、歯を鳴らしている音か。とすると、うん、気のせいじゃないようですね。あっははは。 ――どうしよう、なんか皆さん、普通に怒ってらっしゃるのですが。 さすがに青龍刀や龍牙などの武器は持ち込んでいないから、洛陽の時みたいに、刃を突きつけるような真似は出来ないが、しかし、ここにいる武将たちなら、馬鹿兄弟ごとき、素手でひねることが出来るだろう。 この場でそんなことをする短慮な者はいない筈だが、しかし、あの兄弟がこれ以上、言論の自由を行使し続ければ、その限りではない。 もし、本当にそうなってしまえば、さすがに冗談では済まなくなる。洛陽の時とは違うのだ。陶謙とて、多くの家臣が見守っている場で、嗣子に危害を加えられれば見過ごすことは出来ないだろう。 仮に、だが。 あの2人が、その状況を現出させ、劉家軍を危地に陥れようと、わざと暴言を吐き散らしているのだとしたら、あの兄弟は、実は侮れない才能を秘めている――わけないか。どうみても、あれが地なんだろう。そして、だからこそ厄介だったりするのだ。 おれの心の平安のためにも――あと、田豫の心に心的外傷を残さないためにも、この空気は早めに打破する必要がある。 そう考え、おれが口を開きかけた時だった。「黙らんかッ!!」 凄まじいまでの一喝が、謁見の間に――否、城中に響き渡った。 広間にいる誰1人として、口を開くことが出来ない。 それは玄徳様たちもそうであったし、件の兄弟も同様であった。 おれもまた、あまりの覇気と声量に反射的に姿勢を正して、その叱咤を発した人物に視線を固定させてしまう。 その人物――徐州牧 陶謙の顔に。「商、応」『は、はい』 一転して、静かな声で息子たちに呼びかける陶謙と、顔をひきつらせて、それに応じる陶商、陶応の兄弟。 劉家軍を責め立てていた傲慢さは、すでに影も形もない。完全に、父の気迫に飲み込まれ、むしろおどおどとしている、と表現してもよい様子であった。「そなたら、なにゆえこの場におるのか。今、この場にいるは、徐州の政治、軍事を司る者のみ。そなたらは我が子であるが、政事にも、また軍務にも権限を持たない身であろう。この場にしゃしゃり出てくることさえ許されぬに、あまつさえ口を差し挟むなど僭越きわまる。控えよ」 陶謙の口調は穏やかであったが、息子たちを見つめる視線は君主としての威厳に満ちたものであり、陶商たちが対抗できるものではなかった。 それでも、なお陶応が口を開いたのは、勇気でも覇気でもなく、ただ甘えに過ぎなかったのだろう。「し、しかし父上、徐州の次代を継ぐ我ら兄弟にとっても、無関係な話では……」 弟の言葉に、兄である陶応も同意だというように頷いた。◆ 州牧の子として、何不自由なく育ち、周囲にかしずかれて生きてきた2人。 嗣子を授かるのが遅かった陶謙は、息子たちに期待し、徐州でも指折りの学者や、あるいは武芸の師を招き、2人をひとかどの人物に育て上げようとした。 その甲斐あって、というべきだろう。陶商も、そして陶応もまた、文武に光るものを感じさせる力量を有するに至る。その成長を、当時、陶謙は目を細めて見守っていた。自身が苦闘して得た徐州の地を譲るに足る子たちなのだと、そう信じて。 子供たちの文武の才を賞賛する配下の言葉に、満足げに頷く陶謙は、しかし、この時、息子たちに、もっとも大切なことを教えることが出来なかったことを悔いることになる。 それは謙る(へりくだる)ということ。 才能を鼻にかけ、相手を見下すような人物に、喜んで仕える者など居はしない。 古来より、大を成す君主は、身をかがめ、腰を低くして賢人を招き、それによって大望を果たしてきた。 往古、周の文王が、野人である太公望を敬意を以って迎え、周朝の世を切り開いたように。 戦国時代、燕の王が、王の身にありながら配下の郭隗に謙り、その評を以って市井に逼塞していた楽毅を招いたように。 主君が、優れた人物であるに越したことはないだろう。だが、優れた才能は往々にして、主君としての器に限界をつくってしまう。己が優れていると思えば、配下を軽んじる心を生み、また己を凌駕する配下の才能を嫉視する基にもなる。 そうなることを防ぐためにも、謙ることの意味を、陶謙は息子たちに伝えなければならなかった――言葉にして、行動によって。 陶謙は、己が行いによって、息子たちに伝えている心算であった。だが、父の器量に不足があったのか。あるいは息子たちの器量が父に及ばなかったのか。それはわからないが、いずれにせよ、確かなことは、陶謙が伝えたいと願ったことが、陶商、陶応らの兄弟には伝わらなかったということであった。 それでも、陶謙は諦めたわけではなかった。 いずれ、わかってくれる日が来るかもしれぬ、と。 古来より、君主として晩成した者は、枚挙に暇がない。無論、晩成することなく、ただ齢を重ねるだけの者は、それよりもさらに多いことは承知していたが、それでも陶謙はかすかな希望を持って、2人を手元に置きつつ、その行動を見守り続けたのである。 ――その結果が、目の前で戸惑いを見せる息子らの姿であると思うと、陶謙の口から、知らずため息が漏れた。 本心を言えば、ここで正式に劉備に徐州を譲る、と宣言してしまいたかった。 徐州のためにも、そして息子たちのためにも、その方が良い。陶商らが徐州を継げば、最終的には配下に裏切られるか、あるいは他勢力の侵略を受け、業火の中で滅びる運命が待つだけだろう。陶謙は後継者として息子たちを見限りはしたが、親として愛情を失ったわけではない。劉備に徐州を譲ることは、我が子を救う道でもあったのである。 だが、今の劉備たちは、まだ徐州の臣民にとって馴染みが薄い。 十分な信用と実績を積み重ねた上でならともかく、今の時点で内心を吐露することは、無用な混乱を招くだけの結果に終わるだろう。最悪の場合、配下の分裂を進め、戦火の勃発を促しかねなかった。 ゆえに、陶謙は順序だてて、事を推し進めていくしかなかったのである。「――陶商、陶応」 長く続いた沈黙の末に発せられた父の言葉を聞き、2人は顔に安堵を浮かべたが。「下がるが良い」 ただ、短くそう言われ、兄弟は顔を強張らせた。 再度、反論しようと口を開きかけたのだが、陶謙は厳しい面差しを崩さず、無言で退廷を促している。 老いたりとはいえ、1つの州を支配する者の勁烈な眼光を浴びた兄弟たちに、それを跳ね返すだけの心の強さは望むべくもなかった。 かくして、徐州牧 陶謙に請われ、劉家軍は小沛に入城する。 援軍としてではなく、政軍両面を司る城主として。 すなわち、琢郡楼桑村で決起してよりはじめて、劉家軍は根拠地となる地を手に入れることが出来たのである。 これにより、劉家軍の戦いは、新たな段階に進むことになる。◆◆ 「か、一刀さん、次はどこに行くんだっけ?!」「は、はい! えーとですね、次は農民たちの代表者と会談ですね」 おれが予定を確認すると、玄徳様は慌てたように、隣にいる関羽に問いかける。「愛紗ちゃん、愛紗ちゃん、服、これで良いかな?」「桃香様! 袖口に油の染みがついた服で民の前に立つおつもりですか?!」「え~ん、だってゆっくり食べている暇もないんだもん」「お忙しいのはわかりますが、なりません。民は、上に立つ者を、我らが思う以上に良く見ているものです。まして我らはこの地に赴任してきたばかり。些細なことでも失望させるわけにはいきません」「了解~、じゃあ着替えるね」 そういって、いきなり服に手をかける玄徳様を見て、おれは悲鳴をあげてしまう。「うぉわッ?! げ、玄徳様、すぐ出て行きますから、服ぬぐのはちょっと待って?!」「きゃッ?! あ、ご、ごめんね、一刀さん」「い、いえいえ。じゃあ、馬の用意はしておきますので」 慌てて踵を返すおれの背後で、関羽が玄徳様に、いくら忙しくとも、女性としての慎みがどうのとお説教をしている声が聞こえてきた気がした。 ――劉家軍の戦いは、新たな段階に進みつつある。 それはつまり『土地を治める』という戦いであった。 玄徳様は琢郡でそうしたように、一時的に民衆の上に立ったことはあるが、領主として土地を治めた経験は皆無である。当然、関羽、張飛らもそうだし、諸葛亮や鳳統にしても、統治のための知識は持っていても、それを実践に移すのは初めての経験となる。 そんなわけで、小沛に入城するやいなや、劉家軍は上を下への大騒ぎとなっているのだった。 根拠地を得た、と喜んでいる暇もありはしない。 新しい城主に挨拶しようとする街の有力者やら、今のうちに玄徳様に取り入ろうとする商人やら、はては治安や耕地の要望を持った民衆が押し寄せてきて、小沛城はちょっとしたお祭りなみの混雑状態であった。 それらへの対応のために、諸葛亮と鳳統、簡擁、王修らは執務室から出ることができず、玄徳様や関羽は前述のとおり、面会を望む者たちへの対応でてんてこ舞いとなっている。 それ以外、たとえば張飛や趙雲、陳到、太史慈らはのんびりしているかといえば、さにあらず。 小沛城に駐留している3万の徐州兵が玄徳様の麾下に入ったことにより、劉家軍もまた大規模な再編を余儀なくされており、現在、将軍や武将たちはそちらの作業にかかりきりであった。 そんな中にあって、張家の姉妹や、董卓たちが比較的落ち着いているのが、随分と印象的であった。やはり、黄巾党、あるいは董卓軍の主として、こういった状況を幾度も経験してきているのであろう。 で、おれは何をしているかと言えば、玄徳様の傍らでスケジュール管理をしていた。秘書ともマネージャーとも言う。こんなんばっかりだ。 一応、護衛も兼ねているのだが、これは関羽がいるから、ほとんど必要ないことだと思う。 とはいえ、外から見れば、玄徳様は新しく城主に立った新参者。しかも女性にして、漢王朝の後継を示す剣を持っている。色々な意味で、危険が予測されるため、気を抜くことは出来なかった。 黄巾党時代から、こういった役割は慣れているので、まあ適任といえば、適任なのだろう。 騎馬隊の方は田豫が頑張ってくれているので問題ないしな。 玄徳様の下を訪れる人たちは、様々であった。ただ新しい城主の人柄を知ろうとしている者もいれば、深刻な嘆願を携えてくる者もいる。好意的な視線を向けてくる人もいれば、明らかに玄徳様を侮っている態度の者もいた。 しかしながら、そういった態度で接してくる者たちは、これまでとていなかったわけではない。問題なのは、その桁違いの数の方であった。 それこそ、謁見だけで一日が終わってしまう上に、それでも長蛇の列が途切れない状況なのである。 これでは政務にも影響が出てしまう上に、玄徳様の身体が持たないと判断したおれは、こっそり関羽と相談した上で、玄徳様に会わせる面会の人の数を絞ることにした。 有力者――いわゆる豪商や土豪と呼ばれる者たち――あるいは明らかに重大な用件を持つ者以外は、お帰り願うことにしたのである。 何故こっそりとする必要があるのかといえば、玄徳様に知られれば、反対されるに決まっているからだ。自分に会いに来た人々をすげなく追い返すような真似が出来る方ではない。 まして、有力者には会っても、市井の人には会わないといえば「とんでもない!」と怒られてしまいかねないのである。 一応断っておくと、門前払いをしたわけではない。 そういった人たちの相手は関羽にしてもらっただけである。 玄徳様に会うことは出来なくとも、劉家軍の№2である関羽が相手をすれば、訪ねてきた者たちも満足してくれる筈だと考えたのだ。それに、そういったことは抜きにしても、関羽の誠実さ、凛とした為人は、十分に人を惹き付けるものであろうから。 実際、ほとんどの人は関羽と話をかわし、おとなしく引き下がってくれたのだが、中にはごねる者たちもいた。 なんというか、自分は大物であると信じ込んでいる人ほど、その傾向が強かったように思う。たたき出してしまいたかったが、下手なことをすれば、玄徳様の悪評につながりかねない。実際、それを匂わせて、面談を強要しようとする者もいたのである。 そういった相手には――仕方ないので貂蝉に相手をしてもらい、お引取り願うことにした。 この人事は見事に成功し、貂蝉が言葉を尽して説明すると、皆、すみやかに納得し、快く立ち去ってくれたのである。 ――嘘はついてない。嘘はついてない。 とはいえ、さすがに貂蝉を便利屋扱いしたようで気が咎めたのだが、貂蝉が「もうすこし落ち着いたら、酒に付き合ってちょうだいな。それで十分だわん」と言ってくれたので助かった。 ともあれ、ようやく玄徳様の負担を減らすことが出来たとほっと胸を撫で下ろすおれたちだった。 だが、しかし。◆「――冷静に考えてみれば、いきなり面会の人数が減れば、それは普通気づかれてしまうよな、と気づいたおれであった」「一刀さん、誰に何を説明してるの?」 むすっとした表情を隠そうともせず、おれの前で拗ねている玄徳様。さすがに年が年だけに、頬を膨らませたりはしていなかったが、うむ、可愛い。「――なんだか、怒られているのに、反省の色が見えないのは気のせいかな? あと、何かすんごい失礼なこと考えてない?」「とんでもございません」 ははー、と平伏するおれ。こうすれば表情隠せる、とか素で思ってしまうあたり、いつのまにか、随分性格悪くなったなあ。 まあ、あれです。明らかに面会の人が減ったことに不審を抱いた玄徳様が関羽に問いただし、関羽が慌てて疑惑を否定するも、結局、ばれてしまったのである。「関将軍?」 「……すまん」 おれの視線を受け、しおれている関雲長。いつもと立場が逆である。ちょっと楽しい、と思ったが、それは口に出さないでおこう。これ以上、話を脱線させると、玄徳様が本気で怒ってしまいかねんし。 もっとも、玄徳様は玄徳様で、おれたちの行動の理由がわかっているためか、本気で怒髪天を衝く、というわけではないようだった。 それでも機嫌の悪さは相変わらずのようで、「もちろん、私のことを考えてくれたのは嬉しいし、感謝してるんだけど。でも、私にひと言もなく、勝手に話を進めちゃうのはどうかと思うの」「は! 仰るとおりです。桃香様、申し訳ございませんでした」「配慮が足りませんでした。すみませんでした」 同時に頭を下げる関羽とおれ。 玄徳様は、そんなおれたちを見て、一度、小さく息を吐き出すと、気を取り直すように、ぱんと手を叩いた。「じゃあ、今度からは、きちんと私にも話をして、仲間はずれにしないこと。良いよね?」『ははッ!』「うん。じゃあ、この話はここまで」 玄徳様は微笑んで、この話に終止符を打ったが、やはり、自分に会えなかった人たちがどう感じたかは気になったようだ。「でも愛紗ちゃん、みんな文句を言ってたりしなかった?」「はい。桃香様が政務に忙しいのは真のことですし、その旨を申せば、皆、納得してくれました。幾つかの要望は受け取りましたが、いずれもさほど手間のかかることでもなし。官衛の役人に指示して処理させておきましたので、ご心配には及びません」「そっか。なら良かった」 ほっと胸を撫で下ろす玄徳様。 貂蝉の世話になった人たちについては……言わない方が良いだろうな、うん。いろんな意味で。◆ 時間が経てば、どんな騒ぎも落ち着きを見せるもの。劉家軍が小沛の城に入って半月が過ぎる頃には、城も街も大分落ち着きを取り戻したように見えた。 諸葛亮と鳳統が、合同会議の開催を呼びかけたのは、そんな時であった。 混迷する兌州の戦況を掴んだので、それについての報告と、今後の対策を話し合うため、とのことであった。 小沛に着いて間もない頃、おれは玄徳様と軍師たちにこう言った。 小沛は徐州の玄関口にあたる城である。 それはすなわち、他国の侵略に真っ先に晒される城ということでもある。 相手が人間である以上、何の準備もなく兵を起こすことは不可能であり、ある日、突然、国境に雲霞の如き敵の大軍があらわれた! なんていう事態を避けるためにも、情報収集は密に行わなければならないのではないか、と。 ――なんというか、釈迦に説法も甚だしいとは思ったのだが、おれが知る歴史において、徐州という土地で何が起こったのかを考えると、他勢力の情報を詳細に掴んでおかねば、いつ何が起こるか知れたものではない、と考えたのである。 今の時点で、曹操なり袁術なりの進入を招けば、かなりまずいことになるのは目に見えているしな。「――まず、兌州の戦況なのですが」 会議の冒頭、諸葛亮は集まった面々に、兌州の戦況の概略を説明した。 濮陽城を攻め立てていた張家の軍勢は、定陶の地に陣を据えた曹操によって後背を脅かされることになった。濮陽城を再び攻撃されれば、背後を衝かれることは明白である。かといって、時を同じくして北東と南西より進入を図った曹操軍の別働隊に当たろうとしても、状況は変わらない。 これを何とかするには、曹操の本隊そのものを打ち破らねばならないのだが、定陶の陣は堅固であり、一朝一夕には抜くべくもない。くわえて、張家の軍勢が定陶に向かえば、今度は他地域の曹操軍が、その後背を襲うべく動きだすだろう。「つまり、張家は完全に手詰まり。そういうことか?」 関羽の質問に、鳳統がこくりと頷いた。「……はい。まだ呂布さんもいますし、張家に味方する領主もいますから、すぐにも滅亡、ということにはならないでしょう。ですが、これは決着が着くのが遅いか、早いかの違いしかもたらさないと思います」「これは、私たちにとっても、無関係ではありません。兌州を回復した曹操さんが、次に矛を向ける可能性が高いのは、東の徐州か、南東の豫州のいずれかです。北の袁紹さんと戦うのはまだ力が足りませんし、西の長安に攻め込むのは、時期尚早。もっと足元を固めてからでしょう」 諸葛亮の言葉に、趙雲が腕組みする。「たとえ豫州を攻めるにせよ、我らに影響がないわけではないしな」「はい。私は、曹操さんは足元を固める意味でも、許昌の東の陳、そして梁の地(いずれも豫州)を攻略すると見ています。兌州から一度退いた際、梁の地で兵を休めていたことを考えると、すでにそのあたりの手は打っていると見た方が良いでしょう。そして――」 言葉を切った諸葛亮の視線に促されるように、地図を見る。 地図を見れば瞭然としているが、許昌から発して、陳を過ぎ、梁を通れば、次にあるのは徐州の小沛。つまりこの城である。 その程度の距離なのだ。おれたちと、曹操とは。「情報によれば、曹操さんが動員した兵力は10万を越え、20万に達する勢いです。今の私たちでは、たとえ城に篭ったところで太刀打ちできる相手ではありません。兌州の決着が着くまでに、出来るかぎり防備を整えておく必要があります」 諸葛亮がそう結ぶと、皆、一斉にうなずいた。「次に、もう1つ、気になる勢力があります」 諸葛亮が卓上の地図の一点を指し示すと、再び、皆の視線がそこに集中した。 荊州は南陽の主 袁術の勢力である。「董卓さんとの戦いの後、汝南、寿春と次々と勢力を広げた袁術さんですが、兌州の戦況を横目に、さらに領土拡大の動きを示しています。報告によれば、袁術さんは汝南に兵を集めつつあるとのこと。あるいは陳の攻略を始めるつもりかもしれません。そうなれば、曹操さんと袁術さんの間で戦火が交えられる可能性が出てきます」 元々、袁術の勢力と曹操の勢力は境界を接している。 両者はいつ矢石を交えてもおかしくない状況なのである。 これまでは、互いに動きを見せていないが、同盟を結んだという話も聞かない以上、いつ状況が動き出すかしれたものではない。「むしろ、あの2人がかみ合ってくれれば、我々としては願ったりなのですが」 陳到が気難しげな顔で、口を開いた。 その言葉に賛同した馬元義が、いっそ、こちらからそのように働きかけたらどうか、という意見を口にすると、各処から賛同の呟きがもれた。 しかし。「逆に、2人が盟約でも結んだ日には、最悪の事態になりかねないのでは?」 藪をつついて、蛇が出てはたまらない。正直、郭嘉や程立たちが、そんな策に引っかかるとも思えん。逆に、下手なちょっかいは、曹操の逆鱗に触れる可能性さえあるのではなかろうか。 曹操は、本気で袁術と盟約を結ぶことはないだろうが、戦略として有効だと考えれば、手を結ぶことをためらったりはしないだろう。曹操・袁術連合軍など、考えるだに恐ろしい敵である。領土だけ見れば、今の袁術は曹操を越えているわけだし。 おれの意見に、諸葛亮と鳳統が同時に頷いた。「一刀さんの言うとおり、下手に謀略を仕掛け、それが裏目に出てしまえば、曹操さんと袁術さんが手を携えて徐州に攻め込んでくる可能性さえ出てきます。そうすれば、かえって自分たちで窮地に飛び込むようなものです。まだ謀略を仕掛ける時期ではないでしょう」 馬元義が、頭を掻きつつ、頼りなげに頷く。「言われてみれば、その通りかもしれませんな。では、当面は諸方に注意を払いつつ、実力を蓄えることに全力を尽すのが最善ということになりますか」「……はい。幸い、陶州牧は、この城に潤沢な資金と兵糧を用意してくれています。兵を募り、武器や軍馬を整えるには、またとない環境です」 鳳統の言葉に、陳到が深く頷く。「確かに。府庫を見れば、この地の豊かさが良くわかります」 陳到の言葉に、皆、深々と頷いた。 徐州の豊かさと、その豊かな土地をあっさりと玄徳様に委ねた陶謙の決断は、劉家軍にとって、干天の慈雨にも等しい意味を持つ。そのことは、全員が心得ていることであった。 その後も幾つかの報告と質問がかわされ、会議は月が中天に輝く時刻になって、ようやく終了したのであった。◆◆ 自室に戻ったおれは、水差しから杯に水を注ぐと、窓際から外を見下ろした。 もっとも、時刻が時刻だけに、すでに街から灯火は消えており、城壁上の篝火が、おぼろに浮かび上がるのみであった。 視線を転じて、今度は室内を見渡してみる。机と寝具くらいしか置いていない質素な部屋だが、特筆すべきことは、この部屋にいるのがおれ一人という点である。 これまでは、戦陣の中での天幕暮らしが当たり前、良くて簡擁らと一緒の雑魚寝部屋であったのだが、小沛城に移ってから、晴れて一人部屋をゲットすることが出来たのである。 こればかりは、本気で陶謙に感謝した。贅沢を言える立場でないことは重々承知しているが、やはり一人になれる時間というのは必要だと思うのである。「まあ、テレビもパソコンも、本も携帯もない以上、さっさと寝るくらいしか出来ないけどな」 もう一度、視線を窓の外に移すと、今度は空を見上げた。 地上が暗いためだろう。天上は星と月の光で、煌々と輝いて見えた。 もっとも、この世界に来て数月。もうこちらの星空の方が当たり前のように感じられるようになっていたりするのだが――「この世界、か」 寝台の上に寝転び、天井を見上げながら、ぽつりと呟いてみる。 この世界。 歴史上の多くの英傑たちが、女性となって駆ける世界。 人の生死が手の届くところに転がっている危うい世界。 そして、そんな世界に、いつのまにか慣れてしまった今の自分。「黄巾賊に捕まってから、まだ1年も経っていないのになあ」 背中に刻まれた傷跡を、服越しに撫ぜてみる。この痛みをこらえながら、黄巾賊の陣からの脱走を考えていた夜から、もう何年も過ぎたような気がするのだが、季節は一巡すらしていない。 そのことが、とても不思議に感じられた。 身体を横に傾けると、部屋の壁が視界に映る。染みが少々目立っていた。 その染みを目で数えながら、これまでの出来事を思い返してみる。 すぐに気づいたのは、元の世界に戻る手がかりが、これっぽっちもなかったということだ。都合の良い道標はなく、助言者も現われず、ただ劉家軍の中で、生き抜くことに精一杯であった。このあたりは、小説やゲームほどにご都合主義ではないということなのだろう。 郷愁に焦がれ、涙するほど女々しい性格ではないつもりだが、やはり故郷を思えば、両親や家族の姿が思い浮かぶ。「母さんは心配してるだろうなあ。けど心配してそうなのは母さんだけか。親父は平静を装って茶を飲んでそうだし、爺ちゃんにいたっては、茶を飲みつつ『あやつなら何かあったとしても、自分で何とかするじゃろ。そのために鍛えてやったんだしのう』とか言ってそうだ」 言葉にすると、本当にそうだと思えてくるから恐ろしい。 まあ親父と爺ちゃんはともかくとして、母さんには、せめて無事の便りの1つも送ることが出来れば良いのだが、それは無理な相談か。「しっかし……」 徐々に瞼が重くなってきた。 眠りの淵に落ちていく意識を感じつつ、おれはあくびと共に呟いた。「どこの誰だか知らないけど……おれに、この世界で何をさせたいのかね……」 ――そうして、おれの意識は全き闇の中に落ちていったのである。 どこか遠くで、虫の鳴く声が聞こえたような気がした。◆◆ 数日後、小沛城に一騎の早馬が駆け込み、兌州の戦況に変化が出たことを告げた。 許昌から北上し、陳留城を攻撃していた曹仁の部隊が、これを陥落させ、城内で幽閉されていた張莫を救出。張莫は、今回の一挙がおのが意志とは関わりないこと、全ては妹である張超の独断によるものであることを表明、自らこの追討軍を率いることを宣言した。 これを受け、定陶の地で曹操率いる本隊とぶつかりあっていた張超の軍勢は大きく動揺し、その麾下から離脱する者が相次いで出るに至る。 時を同じくして、濮陽以北の地をことごとく平定した鮑信と夏侯惇の軍勢が、ついに定陶に到達。張超の軍を指呼の間に捉える。 ここに、兌州を巡る争いは、ついに最終段階を迎えようとしていた。