「ふふふ、曹操ともあろう者が油断しましたね。都をがら空きにし、あまつさえ膝元の叛意にも気がつかないとは。これまさに、天が恋殿に覇者への道を開いたということ! 恋殿、天下は目の前に迫っておりますぞーー!」 曹操軍が刻一刻と近づいてくる現在、陳留城にあって、もっとも鼻息の荒い人物が、両手をあげて吠え立てた。 しかし、その周りにいる者たちは、意外に冷静である。「おお、陳宮、気合はいっとるなー」 張遼が感心したように手を叩く。 その隣では、高順が困ったように頬に手をあてていた。冷静であるべき軍師が、武将よりも興奮してしまってはまずいのではないだろうか。 その高順の身体からは、すでに虎牢関と洛陽で受けた戦傷は綺麗に消え去っていた。虎牢関で大腿部に負った傷は、決して浅いものではなかったのだが―― 高順の隣で、赤兎馬に騎乗している人物が短く問いかけた。「………………高順、平気?」 言葉だけを聞けば、素っ気ないようにも思えたが、それはそういう話し方しかできない人だからだということを、高順は良く知っていた。 呂奉先という人物は、他者への気遣いが出来ないような主君ではない、ということも。「お気遣い、感謝いたします、奉先様。元化様のおかげで、怪我をする前よりも調子は良いくらいですよ」 高順が挙げた名は、若いながらに医術に通じた、とある人物の字である。 しばらく前、呂布一行はその人物――華佗と出会い、戦傷の痛みに苦しんでいた高順を治療してもらったのである。「あの無駄に元気の良い兄ちゃん、ほんまに名医やったんやな。今頃、またどっかで叫びながら治療してるんやろか」 張遼の言葉を聞き、高順は少し、むっとした様子でたしなめる。「文遠様、無駄に元気、という評は失礼ですよ?」「ああ、わるいわるい。けど、医者にしては騒がしい奴やったのは、高順も認めるやろ?」 診察の時のことを思い出し、高順はすこしだけ言葉を詰まらせ、小さく頷いた。 「元気になあれぇぇぇッ!」だの「ゴッドヴェイドォォォォ!!!」だのを毎日のように耳元で聞かされていたので、さすがにそれは否定できなかった。「むむ、何を暢気に和んでいるのですか! この一戦は、正しく天下分け目の戦い。奸臣曹操を打ち破り、天下に恋殿の忠義を知らしめるまたとない好機なのですぞッ!!」 張遼たちの様子に不服そうな陳宮。 だが、張遼はどこか納得いかない様子であった。「けどなあ、奸臣奸臣いうけど、曹操はそんな悪い奴なんか? 天子を擁して勢力を広げるんは、別に悪いことやない。実際、文和(賈駆の字)だって月にそうさせたわけやし、うちらはそれに従った。結局、なんやようわからんことになってもうたけどな」 当事者をのぞいて、いまだ洛陽における董卓軍の混乱の真相は闇の中である。董卓と賈駆の行方も杳として知れない。 張遼らも出来る限り探したのだが、元董卓軍として追われる身である彼女たちでは、捜索の手段も限られてしまい、結局、怪しまれる前に洛陽から離れざるをえなかったのである。 実のところ、劉家軍に身を寄せていた高順は、幾度か董卓の姿を見かけているのだが、その時の董卓は正体を知られることを避けるために変装していた上に、兵卒であった高順は、董卓の姿を遠目にしか見たことがなかった。 絵姿の董卓であれば見たことはあったが、所詮は絵姿。変装している人間をひと目でそうと見破ることは出来なかったのである。まさか董卓が諸侯連合の一軍にいるとは、つゆ思わなかった、ということも気づかなかった一因ではあるだろう。「無道にも三公の1人である王允殿を討ち、皇帝陛下を私する。これを奸臣といわずして、何を奸臣というのですかッ!」 煮え切らない張遼の態度に、陳宮が憤慨するが、それでも張遼は気が乗らないようだった。 真相が明らかになっていないとはいえ、董卓と賈駆の様子がおかしくなったのは、明らかに洛陽入城以後である。何ら確証があるわけではなかったが、張遼は朝廷の動向に対して、きわめて強い不審の念を抱いていた。 それは宮廷を統べる三公にも向けられる感情であり――そして、その仇討ちと、曹操の暴挙を声高に主張して、今回の挙兵に至った者たちへの不信に繋がるのである。 あるいは、張遼は鋭敏な嗅覚で、朝廷の一部から漂ってくる腐臭を嗅ぎ取っていたのかもしれない。 もっとも、今更それを言っても手遅れであることは、張遼も理解しているから、あえてこの場で言おうとはしなかった。「わかっとるわかっとる。もう賽は投げられたんや。あとはなるようにしかならんやろ。それに――」 張遼の目に、刃が陽光を反射するにも似た、物騒な煌きが踊った。「あの曹操と正面から戦える絶好の機会や。乱世に乗じることしか出来ん奴なんか、それとも、乱世を飲み干すほどに器のでかい奴なんか確かめさせてもらおやないか。楽しみやなあ」 その言葉を聞いて、陳宮は頬を膨らませる。「つまり、文遠は強い敵と戦えれば満足ということですか。戦闘狂というのも困ったものなのです。それでよく華雄に猪だの何だのと言えたもの――」「…………陳宮」 常より少しだけ強い口調で、呂布が陳宮を制止した。 華雄は汜水関の戦いで孫堅軍に討ち取られたと考えられている。呂布にしても、張遼にしても、そして陳宮にしても、さして親密だったわけではないが、それでも同僚であったのだ。不用意に口にすべき名前ではなかった。「も、申し訳ありません、恋殿」「………………ん」 陳宮の謝罪に、呂布は小さく頷いた。 いささか気まずくなりかけたその場の空気は、しかし、伝令の報告によって吹き飛ばされた。「申し上げます! 東南方に砂塵を確認、偵察に出た兵の報告によれば、数は5千とのこと! 曹操軍先鋒 曹洪の軍勢と思われます!」「おっしゃ、ようやくおでましか」 張遼が両手を強く叩く。 それを遮るように、陳宮が首を横に振った。「狙うは曹操の首ただ1つですぞ。曹洪なんて、放って置けば良いのです。じきに、曹操みずからやってくるのですから」 高順がかすかに首を傾げる。「しかし、ここまで迎撃をしなかった以上、罠の存在は敵も疑っているでしょう。総大将みずからが出てくるでしょうか?」「ふふん、やはりまだ高順は甘いですなあ。曹操は自分の頭脳に絶対の自信をもっているのです。そんな奴に罠を匂わせれば、挑発されていると悟って、罠を噛み破ろうとするに決まっておるのです! まして敵は、つい先ごろまで味方だった軍勢です。罠を恐れてこそこそ軍を動かしたと知られれば、臆病者と後ろ指さされるのは明白。よって、正面から来るに決まってるのです」 陳宮の指摘に、高順はほぅっと感嘆した。「さすがは公台様です。浅慮を申し上げました」「わかれば良いのですよ」 陳宮は、えっへん、という風に胸を張った。「ほんなら、奉先。そろそろ準備しとこか。曹操軍の展開の速さは尋常じゃない言うからな。初っ端から立ち遅れるわけにもいかんやろ」「……わかった」 張遼の言葉に頷くと、呂布は馬首を部隊の方向に向けた。「あ、恋殿、待ってくだされ~」 陳宮が真っ先にその後ろに続き、肩をすくめた張遼が2人を追って動き出す。 高順は、一行の1番最後をゆっくりとついていった。 その手が無意識に腰間の剣に伸びたのは、これから始まる戦が容易ならぬものであることを知るためであるが、もう1つ理由がある。この戦いで、高順はいきなり指揮官に抜擢されてしまったことが、その理由であった。 今、呂布が率いる兵は、陳留の軍勢も併せて、おおよそ1万ほど。その中で、呂布が信頼を置く虎牢関以来の精鋭は一千に満たない。陳宮は、これを基幹として軍を再編した為、高順もまた、50騎の騎兵の長に選ばれたのであった。 怪我が治る以前から、暇をみつけては陳宮に軍学の教えを請い、怪我が治ってからは、呂布や張遼に幾度も稽古をつけてもらっている高順であったが、つい先ごろまで、一兵卒であった身が、いきなり50人からの長になるとは考えてもいなかった。 当然、高順は控えめに――しかし、強硬に固辞したのだが、呂布軍を取り巻く状況が、高順の辞退を許さなかったのである。 呂布は困惑する高順に対し「…………だいじょうぶ」のひと言で、余計に高順を途方にくれさせてしまったし、陳宮にしても、信頼できる将は喉から手が出るほど欲しかった為「諦めるのです!」とあっさり高順の希望を蹴飛ばしてしまった。 高順としても、戦が迫っていることは承知している。いつまでも途方に暮れているわけにもいかない。それに、元々、呂布たちに助けてもらった身命である。恩人が望むなら、たとえ力不足であっても、将として戦うことが出来るように努めよう。 高順はそう決意し、今に至るのであった。 ただ、決意したといっても、緊張や恐怖が消えてしまうわけではない。気持ちを紛らわせるために、片手で剣の柄をもてあそんでいた高順の脳裏に、ふと洛陽での出来事が思い浮かんだ。 優しい眼差しで、もう一度、無事で会おうと言って、自分の手を握ってくれた人と。 焼け落ちようとする邸の中、死を覚悟していた自分の前にあらわれ、颯爽と助けてくれた人と。「今度会う時まで、無事でいること――そうでしたよね、玄徳様、北郷様」 彼女らとの別れ際の約束を果たすためにも、こんなところで倒れるわけにはいかない。 高順はそう考え、気持ちを新たに据えなおすのであった。◆◆ そんな呂布たちの姿を、高所から見下ろす視線があった。 それも、1つではなく、2つ。 そのうちの1人、燃えるような赤毛を肩のあたりでばっさりと断ち切った女性が、後ろに控える者に問いかける。「しかし、本当に1万程度で大丈夫なのか? 相手はあの曹操だ。いかに呂布が鬼神のごとき強さを誇るとしても、1人で戦局は変えられまい」 女性の名は張超。今回の挙兵の首謀者とされる人物である。 張超の背後に控えている男が、ゆっくりと口を開いた。「心配は不要です。何故なら、曹操が率いるは元々董卓めの兵士であった者たち。呂布の武勇の凄まじさは、骨髄に徹していますゆえ、陣頭に呂布の姿を見るだけで、意気阻喪するでしょう。そんな兵を率いて勝利を拾える筈はありませぬ」 秀麗な容姿、礼儀をわきまえた言動、いずれも非の打ち所がない人物である。 その口にするところも、理に適い、矛盾はない。 それゆえ、張超は安心してしかるべきであったが、朝廷からの使者としてこの男がやってきて以来、張超は心を許せないものを感じていた。張超の腹心である臧洪も「用心あってしかるべし」とこの男について、警戒を怠ることのないように説いている。 だが、そういったことを面に出せば、おそらくこの男は躊躇なく、朝廷にその旨を告げ、代わりの太守の派遣を要請するだろう。 陳留は張莫、張超姉妹の統治に服しているとはいえ、朝廷からの命令とあれば否とはいえない。 まして―― 張超は傍らにある太守の椅子に視線を向けた。本来、そこに座り、この挙兵の全権を振るうべき人物は、この場にはいなかった。「姉君は、まだ翻心する様子はございませぬか?」 まるで張超の内心を読み取ったかのような男の声が、張超の気に障る。「姉のことに関しては口出し無用。そう言った筈だ、李文優」 李文優――李儒は、張超の尖った声に気分を害する様子もなく、さらに言葉を続けた。「とはいえ、そろそろ将兵の間でも姉君の姿が見えないことは語られ出している様子。いつまでも病のせいにしておくことは出来ませんでしょう。疑惑は、容易に不信へと変じます。手を打つならば、早めに打っておいた方がよろしいかと――」 その李儒の言葉に、張超の瞳に雷火が走った。 「聞こえなかったか、文優。私は、姉のことに関しては口出し無用、と申したのだ。そなたは朝廷からの使者とはいえ、私に命じるいかなる権利も持たぬと記憶しているが、如何?」「無論、この身は漢朝に忠義を尽す一人の士大夫に過ぎませぬ。何条、太守様に命じるがごとき無礼をいたしましょうか」「承知しておるのであれば、差し出口は控えよ。姉上が持つ曹操の虚構も、敗北の事実の上に立てば打ち砕かれよう。案ぜずとも、張家の姉妹は、朝廷に付き、この乱世を平定する一助となる。その旨、司空殿に伝えるが良い。そなたの役目は、それ以上でも、それ以外でもないのだ」 張超はそれだけ言って、李儒に退出を命じた。 これ以上、話を続けていると、冷静さを保てる自信がなかったのである。 李儒が、どこか含みのある笑みを浮かべながら姿を消すと、張超は知らず、大きく息を吐いていた。 胸中に浮かぶのは、間もなく刃を交える曹操の、自信に満ちた小憎らしい笑みである。難問が山積している張超の現状をあざ笑うかのようなその顔を、張超は激しく首を左右に振って胸中から追い払う。「孟徳、私は後悔などしていないぞ」 自身に言い聞かせるように、張超は呟く。 事実、張超は後悔はしていなかった。朝廷からの密使である李儒がもたらした、対曹操戦を想定した一連の挙兵計画を見た瞬間から、今この時まで、張超は一度たりとも後悔はしていない。 皇帝を手中におさめるため、三公の1人を手にかけた曹操の非は万人の目に明らかであり、陳留の起兵は謀叛ではなく、正道に回帰するためのもの。張超はそう信じ、将兵にもそう告げて、今回の挙兵に踏み切ったのである。 作戦は順調に進んでいる。やがてこの地にやってくる曹操を、呂布の武力で討ち取ることが出来れば、時代は張超らに好風を吹かせてくれることだろう。兌州牧の地位を手に入れ、ついには皇帝を補佐する地位にまで登ることも不可能ではない。 あれほど嫌い、憎んでいた曹操を討ち、張超と張莫の姉妹の名を永遠に歴史に刻みつける。 その時は、おそらくもう遠くない。 ――にも関わらず。 ――何故、心に浮き立つものがないのだろう。 張超は、わずかに浮かんだその疑問を、慌てて頭から振り払った。 今は、そんなことを考えている場合ではないのだ、と自分に言い聞かせる張超。 しかし、同時に張超は知っていた。その疑問が再び頭をもたげるであろうことを――これまでそうだったように。◆◆ 陳留の戦いは、表面上は曹操と張莫の戦いであった。叛旗を翻したのは、太守である張莫となっているからである。 しかし、その内実は言うまでもなく、曹操対張超の戦いであり――さらに正確に言えば、曹操と呂布との激突であった。 張超がどのように考えているかは別にして、それが他者が見る陳留の戦いだったのである。 ついに、陳留城外でぶつかりあう両雄。 第一撃は、呂布軍が曹操軍に対して痛撃を食らわせる形となった。 李儒が推測していたとおり、深紅の呂旗を敵陣に見た元涼州兵が動揺し、曹操軍の諸将の手綱を一時離れてしまったのである。そのわずかな混乱を見逃す呂布たちではなかった。 呂布と張遼は猛然と敵陣に突っ込み、数にして3倍を越える曹操軍に対して、怯むことなく斬りかかっていく。 陳宮、高順は乱れた敵の陣列に向かって弓箭兵を並べ、整然と斉射を行い、さらに敵軍に出血を強いた。 曹操軍の陣営は、呂、張2将の馬蹄に蹴散らされ、矢の雨の中を逃げ惑い、あわや勝敗はこのままついてしまうと思われたのだが――「まさか、ここで呂布が出てこようとはね。なるほど、張超が強気になるのも頷ける。天下の飛将軍がいれば、この曹操に勝つことも出来ると踏んだか」 壊乱の気配さえ見せ始めた自軍を目の当たりにしながら、曹操は不敵に笑う。 陣頭に立っていた曹操は、すでに敵と刃を交えている。右手に持った倚天の剣先からは、敵兵の血が滴り落ちていた。「けれど、我が牙門旗、あなた如きに折らせはしない。我が戦ぶり、城壁の上から眺めているがよい」 曹操はそう言うと、背後に控える典韋に声をかける。「流琉、今からあなたに、牙門旗の持つ意味を教えてあげるわ。しっかりと、両の眼に焼き付けておきなさい」「は、はい、わかりました!」 戦況が明らかに味方の不利であることは、典韋にもわかっている。 曹操はどうするつもりなのか、とハラハラしていた典韋は、曹操のひと言に叫ぶように返事をした。 呂布軍の猛攻に押される一方の曹操軍だったが、両軍の兵士の錬度にはさして差はなかったであろう。 ただ、開戦前に李儒が張超に言ったように、元涼州兵が大半を占める今の曹操軍にとって、飛将軍 呂奉先が突如あらわれた衝撃と、その天下無双の武が自分たちに向けられるという恐怖は、他軍の兵士の何倍も強かったのである――実力を、半分も出せないほどに。 混乱し、畏怖し、ついには敗走へとうつりかけた曹操軍。 だが、そんな彼らを一喝する号令が戦場に轟き渡る。「我が将兵に告げるッ!」 その声を聞いた曹操軍の将兵は、まるで叱咤されたかのように背筋を伸ばし、後退しかけた足を止め、その声がしてきた方向に視線を向けた。 その視線の先には、曹旗の下、毅然として戦場を睥睨する金色の髪の将の姿があった。「何を恐れ、何に怯えるのか。敵将、いかに猛勇を奮おうと、見よ、我が旗はいまだこの戦場に立っている。それはすなわち、この曹孟徳が、この戦場にかわりなく屹立していることを意味するのだ!」 曹操が剣を持っていない左腕を一振りすると、たちまち親衛隊が曹操の前に陣をつくった。その全てが騎馬兵である。 次に曹操は、倚天の剣を高々と掲げ――「敵将がかの呂布であろうと、恐れるに足りぬ。この曹孟徳が戦場にあるかぎり、勝利は必ず我が手中に帰するゆえ! 敗北を恐れ怯えるな! 勝利を求め咆哮しろ! この孟徳が先陣を切ろう。我と、我が旗の後に続くのだ、勇敢なる我が将兵たちよ!」 その言葉と共に、勢いよく振り下ろす。 間髪いれずに、数百の親衛隊が一斉に動き出した。猛々しい騎馬の突進は、呂布軍らに優るとも劣らぬ猛々しさを感じさせるものだった。 突撃が始まると、曹操の姿はすぐに騎馬隊の中に消えてしまった。 しかし、戦場の只中を駆ける『曹』の牙門旗が、曹操の健在をあらわし、曹操の行く手を明確に示しているではないか。 曹旗が行く先にあるは、深紅の呂旗。 圧倒的強さで戦場を屈服させんとする、中華最強の兵団である。 それを見た曹操軍の将兵は、畏怖も恐怖も忘れ、竦みそうになる足腰を叱咤して、牙門旗の下へ駆けつけるべく、各処で一斉に動き出した。 主君を討ち死にさせるわけにはいかない。 それに、曹操の軍律の厳しさは、先日の戦の後で思い知ったばかりである。 くわえて、曹操は軍律こそ厳しかったが、将兵に対する恩賞は公正であり、気前が良い。青州軍の家族に都への移住許可が出たのなら、望めば自分たちも同じ褒賞を得られるかもしれない。 青州であれ、涼州であれ、生活の苦しさに大きな違いはない。董卓亡き後、混乱している涼州から家族を引き取ることが出来る好機でもあるのだ。 忠誠ゆえに。利ゆえに。あるいは家族を思う心ゆえに。 曹操軍の将兵は、呂布の武名への怯えを打ち払ったのである。 張遼は、それまでの劣勢を耐え凌ぎ、瞬く間に態勢を立て直したどころか、一転して攻勢に移った曹操軍に驚いていた。 そんな張遼へ向けて、曹操軍の騎兵が、馬上、槍を構えながら突撃してくる。突き込まれて来る槍をかわしざま、その頸部を飛龍刀で断ち切ると、敵兵は首筋から鮮血を迸らせて、馬上から転落した。 しかし、ただ転落したわけではない。その兵士は首筋に埋め込まれた刃を抱えつつ、地面に落ちたのである。「ぬッ?!」 完全に討ち取ったと思っていた張遼は、敵兵の思わぬ行動のために、武器を手放してしまう。 それを好機と見て取ったのだろう。周囲の曹操軍の兵士たちが一斉に張遼に向かってきた。「チィッ」 張遼は小さく舌打ちすると、手甲の裏に潜ませていた飛刀を抜き放ち、無防備に突っ込んでくる敵の騎兵の喉許に投じる。 飛刀は吸い込まれるように敵兵の喉を刺し貫き、敵は悲鳴をあげることも出来ずに馬上から転がり落ちた。「将軍ッ!」 その間、張遼麾下の兵士が、地面に横たわる敵兵から飛龍刀を奪い返し、張遼に差し出した。「おう、ありがとなッ! しっかし、なんや急に粘りが出てきたなあ。さっきまでとは別の軍みたいや。あの劣勢を、この短時間で立て直せるんか。曹操ってのは恐ろしいやっちゃなあ」 張遼はどこか楽しそうにそう言った。 敵の巨大さを知るほどに、戦い甲斐が増してくるとでも言うかのように。 その張遼の慨嘆に、聞き覚えのない声が応えた。「それは華琳様が聞けば喜びますね」「む。誰や、おまえ?」 張遼の視線の先には、鮮やかな金色の髪を背中に流した女将軍がいた。 その正体を誰何しながらも、張遼は訝しげに口を開く。「……曹操? いや、ちがうか。あの化けもんみたいな覇気はないな」「いかにも、私は曹孟徳ではない。我が名は曹子廉。敵将 張文遠と見受けました。華琳様の歩む天道を妨げんとするあなたは、この私が除きます」 そういうと、曹洪はすでに血に塗れた長剣を張遼に突きつける。 張遼はかすかに口許をゆがめた。「曹操自身ならともかく、曹家の一門だっちゅうだけの奴にくれてやるほど、この首は安くないで。命が惜しいなら、とっとと本陣に戻り。そんで曹操連れてくれば、相手したるわい」「おや、名にしおう張文遠も、人を見る目には欠けているのですね。曹家の一門に、一族の名を売り物にするような無能者がいるとでも思っているのですか?」「ふん、よう言うた。なら、この飛龍刀の一撃を防いで、大言の責任を取ってみぃッ!!」「言われずとも、そうさせていただきますッ!」 言うや、互いに愛馬をあおって突進する2人の将軍。 甲高い剣戟の音は、幾たびも繰り返され、決着は容易につかないものと思われた。◆ 一方、別の場所では、別の将軍たちが刃を交えていた。「ええぃッ!!」 長大な双鉄戟を構えた典韋が、気合の声と共に呂布に向けて攻撃を繰り出す。 そこに込められた力と、速さは尋常なものではなく、常人ならば身体を真っ二つに切り裂かれてしまったことであろう。 だが。「…………甘い」 典韋の猛撃を、呂布は方天画戟で正面から受け止める。典韋がどれだけ力を込めようと、呂布の戟は微動だにしなかった。「そ、そんな……」 かつてない力量差をまざまざと見せ付けられ、典韋はつかの間、呆然とする。しかし、それは戦場において致命的な隙となる。 その隙を逃さず、呂布の戟が、典韋の戟をからめとり、宙高く弾き飛ばす。 そして、呂布の戟はその勢いのままに、まるで命を持つもののように、するすると典韋の首筋めがけて打ち込まれていった。 戟を弾かれ、典韋が我に返ったときには、すでに呂布の戟は眼前にまで迫っていたのである。 死を覚悟しかけた典韋は、それでも両目を閉じることなく、敵将の顔に鋭い眼光を注ぎ続けた。 すると、典韋の視界の中で、呂布が小さく首を傾げた。 いや、首を傾げたのではない。呂布の額を狙って射放された矢を、その動作だけでかわしてのけたのである。「流琉、下がれ!」「は、はい、秋蘭様!」 夏侯淵の援護を受け、典韋は慌てて後退しようとするが、呂布の追撃はまだやまない。 夏侯淵が二の矢を番えるより早く、その刃は再度、典韋に迫り――そして、今度もまた、その刃は典韋に届かなかった。 甲高い金属音と共に、呂布の戟を弾いたのは、この場にいた最後の将。「…………曹操?」「いかにも。私が曹操よ。そういえば、こうして言葉をかわすのは初めてだったわね、呂布」 倚天の剣を構えた曹操は、悠然と呂布と相対する。 だが、典韋は曹操の腕がかすかに震えていることに気づいた。典韋を助けた際、呂布の剛撃をまともに受け止めたためだろう。あれでは、次の攻撃は受けきれないに違いない。 典韋は咄嗟に曹操の前に立とうと身体を動かしかけたが、曹操は無言でそれを制する。 その曹操に向けて、呂布は方天画戟を頭上で一回転させ、曹操に突きつけた。「…………おまえ、敵。敵は、倒す」「確かに敵は倒すべきもの。けれど呂布、あなたにとって、敵とは何なのかしら。私が反董卓連合軍を結成したとき、董卓に仕えていたあなたにとって、私は敵だったでしょう。けれど今は?」 曹操の問いに、呂布は少し考え込むように俯いた。「…………陳宮が言ってた」「ふむ。陳宮とやらが敵だと言ったから、私が敵なのだとすれば、私が陳宮を敵だと言うと、陳宮はあなたの敵になるのかしら?」「…………ならない。陳宮は友達、家族。でも、おまえは違う。だから、おまえは恋の敵」 その呂布の言葉に、曹操は小さく嘆息する。「結局、戦う理由を他者に預けるか、呂奉先。それだけの武勇がありながら、惜しいこと」 そう言いながら、曹操は倚天の剣を構えなおす。すでに、しびれは腕から消えていた。「呂布、おぼえておきなさい。あなたの武勇は天より与えられたもの。それを振るう理由を他者に預けるかぎり、あなたは天から咎を受けることになる。それはあなた自身のみならず、あなたに近しい者たちも巻き込むことになるでしょう。天は力と共に試練を与えるもの。その試練は、己を持たない者には、決して乗り越えることは出来ないわ」「…………おまえの言うことは難しい。けど……たぶん、大事なことだというのはわかった。謝謝」「それは重畳。もっとも、ここで倒れるあなたにとっては、不要の言だったかもしれないわね」 曹操が言うや、四方に潜んでいた親衛隊が一斉に立ち上がり、弓矢を構える。 周囲から矢の的とされた呂布は、たちまちのうちに絶体絶命の危機に陥って――しまった筈なのだが、呂布はいたって平然としていた。「…………恋がお礼をいったのは、もうおまえに礼を言う機会がないから。それは今も変わらない」 たとえ幾十の弓矢に囲まれようと、曹操を討つ障害にはならないのだ、と呂布は言う。 両雄の眼光が、中空で衝突し、火花を散らす。 あたかも、舞台の最終幕のような、奇妙な静謐さがあたりに満ちる。 もし、誰かが今、この場に通りかかったとしたら、ここが血で血を洗う戦場だとは、とても信じられなかったに違いない。 だが、そんな静寂は瞬時のこと。 たちまち、戦場は血風、死臭の漂う修羅の空気を取り戻す。 曹操の斉射を命じる声と。 呂布の赤兎馬をあおる掛け声と。 その2つが同時に陳留の天地に響き渡った……◆◆ 劉家軍が、陳留で曹操軍と呂布軍が激突したことを知ったのは、両者の最初の戦いが痛みわけに終わって、しばらく経ってからのことだった。 情報源は孔融である。より正確に言えば、朝廷から孔融に遣わされた使者の口から語られた顛末を、後で教えてもらったのだ。 それによれば、曹呂の軍勢は陳留城外で激戦を繰り広げ、互いに少なからざる被害を受けて、軍を退かせたのだという。 両軍の戦力に差があったことを考えれば、これは事実上、曹操の敗北といってよい。 これを受け、朝廷に逼塞していた反曹操派は、ここぞとばかりに曹操に対する弾劾をはじめたらしい。 そして、孔融に使者を派遣したのも、その反曹操派の勢力であった。 孔子の直系である孔融を取り込み、自分たちの主張に正当性を持たせようというのだろう。 とはいえ、何故、はるばる遠い北海にまで来たのかを疑問に思う者もいた。たしかに孔子の子孫である孔融の発言には一定の信頼が備わっていることは否定できない。しかし、朝廷や天下の事を議するに、不可欠な人物というわけでもないのである。それほどの人物ならば、とうに中央に召還されていただろう。 その答えは、どうやら皇帝の意向にあるらしい。 漢帝劉協が、今はなき王允を深く信頼していたのは周知の事実である。その王允を討ち、朝廷の実権を握ったのが曹操である以上、皇帝が曹操に親しみを抱くわけがない。 曹操の敗北を知れば、むしろ皇帝の方が積極的に曹操の追い落としをはかると、反曹操派は考えていたようである。 だが、実際には、皇帝は動こうとはしなかった。 反曹操派の弾劾に対しても、明確な根拠の提出を求め、感情論を並べ立てる者たちへは不穏当な言動は謹むようにという注意まで行ったらしい。 これには、反曹操派も慌てたようだ。もし曹操が勢力を巻き返すようなことがあれば、明確な敵対を口にしてしまった自分たちの破滅は明らかである。 そのため、彼らは皇帝に再度、訴え出る一方で、諸州に対しても使者を出し、反曹操包囲網を築こうとしているということらしい。 なんのことはない。要は董卓が洛陽を制したときの焼き直しである。 天下国家のこととあって、孔融はかなり張り切っているらしいが、正直、もっと他にやることがあるだろう、といってやりたい今日この頃である。 そんなおれは、今日も今日とて配膳係として目のまわるような忙しさの中にあった。 北海城は、黄巾党の長期に渡る包囲によって、ほぼすべての物資が不足しており、なかでも食料と医薬品に関しては、早急に手をうたねばならない状況であった。 だが、幸いというべきか、今の劉家軍には危急を凌げる物資があった。袁紹軍から受け取った分のことである。 これを平原から運び込むことで、とりあえず、北海城は一息つくことが出来たのである。 ――ちなみに、劉家軍が北海で戦っている間、諸葛亮は袁紹軍との折衝を一手に引き受け、物資の受け渡しに懸かりきりになっていたのである。おれはその手伝いをしていた――具体的に何をしたかというと、若い身空で肩こりに悩む諸葛亮の肩を揉んだりしていただけなのだが。 爺ちゃん直伝の肩揉みは、えらく好評だったのが、ちょっと嬉しかったりする。 話を戻すが、もちろん、3千の軍隊用の物資だから、10万近い城民にとって十分な量とはとてもいえない。周辺の城邑には、援助を求める使者が各処に派遣されていたが、それらの使者が帰って来るまでには、まだしばらく時間がかかる。 それまで劉家軍が出来ることといえば、炊き出しくらいのものだったのだ。 というのも、孔融は劉家軍の救援に関して感謝の意を示してはいるが、城中への出入りや、あるいは城壁の修復などの軍事作業には、劉家軍の手を借りようとはしなかったし、こちらから申し出ても、丁重に断られてしまうばかりだった。 そんな対応が続けば、嫌でも孔融の心底はわかってしまう。孔融は劉家軍を警戒しているのだ。送り狼になりかねないとでも思っているのだろう――ちょっと例えが違う気もするが、まあ大筋では間違いあるまい。 命がけで救援に駆けつけ、貴重な物資を供出している相手に疑われては、快かろう筈はない。 とはいえ、やはりというべきか、相変わらずというべきか、玄徳様は一向に気にする様子もなく、北海城の民衆の役に立てることを喜ぶばかりであった。 そんな主を間近に見ているのに、臣下が不満を口にするわけにもいかない。それに、食事を配っている時や、見回りをしている時などには、住民から感謝の声をかけられることも多いのだ。孔融らはともかく、住民が劉家軍に対して、心から感謝してくれていることは明らかであった。 かくて、劉家軍は今日も笑顔で配膳係をこなしているのである。◆「あの、北郷様。少しよろしいでしょうか?」 おずおずと声をかけてきたのは、田豫と似た年頃――つまり、おれより何歳か年下の女の子であった。「ああ、大丈夫ですよ、叔治殿」 おれがつとめて穏やかに応えると、目の前の少女――王修、字は叔治という名の少女は、目に見えてほっとした様子を見せた。 王修は孔融配下の文官――と言えば聞こえは良いが、要は雑用係、走り使いであった。 人との対応に慣れていない様子で、よく言葉を詰まらせたり、何を言えばわからなくなって黙り込んでしまったりするため、そういった役目を振られてしまうのだろう。 最近はもっぱら劉家軍と城との間を駆け回っており、その縁でおれとも顔見知りとなったのである。 「で、ご飯は大盛りをご希望で?」「ち、ち、違います! そうではなくて、ですね」「なんと、特盛りをご希望ですか?! むむむ、他ならぬ叔治殿のためとあらば、否やはございませんが、その身体のどこに、そんなに入るのでしょうか。子義殿といい、叔治殿といい、おそるべきは北海の女性の胃袋ですね」「だから、違いますってば! ご飯から離れてください――」 おれの言葉に、王修はわたわたと慌てて手を左右に振り、頬を赤く染めている。 うむ、相変わらずからかい甲斐のある子である。なにかこう、見てて微笑ましいというか、保護欲がかきたてられるというか、そんな感じ。 だが、当人はいたって真面目に職務に就いているので、あまりからかうのも気の毒である。じゃあ最初からするな、と言われそうだが、そこはそれ、王修のような女の子らしい女の子とはあまり縁がなかったもので、つい悪戯心が首をもたげてしまうのだ。 ――念のために付け加えておくと、決して玄徳様たちが女の子らしくない、と言っているわけではない。断じてない。ただ、劉家軍の女性陣は、武芸であれ、智略であれ、人徳であれ、人並みはずれている人たちばかりであるし、身分的にもおれより上の人たちなわけで、そうそう気楽にからかったりするわけにもいかないのである。 おれが内心でそんな言い訳をしていると、にこやかに微笑みながら、第三の人物が割って入ってきた。「――私としては、そこでどうして私の名が出てくるのかがとても気になるのですけど、北郷さん?」 太史慈だった。あと、こめかみのあたりがひくひくと痙攣してた。 おれは平静を装いつつ、王修に向かって口を開く。「――駄目ですよ、叔治殿。子義殿にあまり失礼なことを言ってはいけません」「え、え、私が言ったことになってます?!」「事実ですし」「うあ、真顔で嘘ついてます、この人。し、子義ちゃん、私、そんなこと言ってないよ?!」「ああ、罪を分かとうとするとは、王叔治、おそるべし」「悲しそうにため息つくのはやめてくださいッ? ほんとに私が言ったみたいじゃないですか?!」 おれと王修のやりとりを聞き、太史慈が呆れたように首を左右に振った。「なにか、すごい息があってますね、2人とも」「いつもこんな感じですからね」「うう……会う度にからかわれているってことじゃないですか」「ああ、そうだな」「普通に肯定しないでください、北郷殿?!」「いえ、もう漫才は結構ですので」 再びはじまりかけたおれと王修の会話は、太史慈にばっさりと切り捨てられてしまった。◆ 太史慈は、叫びすぎて、ぜいぜいと息切れしている友人の顔をじっと見つめた。「し、子義ちゃん、どうかしましたか?」「いえ、ただ、叔治ちゃんがこんなに誰かと話しているところを見るのは久しぶりのような気がしたの」 太史慈が知る王修は、人見知りが激しく、他者との会話に苦労することが多い少女だった。 身に蓄えた知識は、決して他の文官に劣るものではないのだが、それをうまく言葉に出来ないために、官の評価は低く、同輩からの評価も芳しくない。それは年のこともあろうし、女性であるということも一因になっているだろう。 北海郡は、多くの郡県がそうであるように、官の人間のほとんどは男なのである。 それが、劉家軍が来てからというもの、小さからざる変化があったように太史慈は感じている。 王修の引っ込み思案が、以前にくらべ、あきらかに改善されているのだ。そして、今の会話を聞いて、太史慈はその原因の一端を垣間見たことを悟った。 友人の変化は、太史慈にとっても嬉しいことであり、それをもたらしてくれたであろう人へ感謝する気持ちはあるのだが――「私が食いしん坊だという偽りを広げようとした罪は、拭えません」「申し訳ありませんでした」 真顔で怒る太史慈に、素直に頭を下げる北郷であった。 ◆ 太史慈に深謝した後、おれは王修に話しかけた。「そういえば、叔治殿は何の用事だったんだ?」「あ、はい。あの、劉家軍の方々が、間もなく北海郡を離れられると聞いたので、その確認を、と思ったんです」 なにやら緊張したように、背筋をしっかりと伸ばして、おれに確認を求める王修。 その格好だと、何気に存在感を主張する胸のあたりに視線が行きそうになるのは男のサガです、はい。ちなみに、王修と同年の太史慈が、ちょっと羨ましそうな顔をしているが、そこも触れたりはしない。死にたくないので。「ああ、それなら、今、玄徳様たちが話し合ってるところだよ。多分、もうじき行き先が決まるんじゃないかな」 おれは王修の問いに首を縦に振った。 元々、劉家軍の目的は青州黄巾党の討伐である。北海郡の一軍を撃破し、城を救った上は長居する必要はないし、その理由もないのだ。曹操によって青州黄巾党が滅びた上は、次の襲来もあるまい。 それに、このまま長く北海城に居続けると、要らぬ疑惑を招きかねない、という理由も大きかった。 斜に構えて言えば、北海郡において、劉家軍は用済みなのである。 民衆はともかく、孔融らはそう考えているだろう。篭城時の無策さとあいまって、今の北海において劉家軍の人望は、太守である孔融を大きく凌ぐ。このまま時が過ぎれば、玄徳様を北海郡に迎え入れようとする気運が民衆から立ち上るのは必至であり、そうなってしまえば、孔融をはじめとした城側の役人たちの地位は大きく脅かされることになるのである。 なにも孔融たちを非難しているわけではない。もちろん、快い筈もないが、しかし、孔融らの反応は当然といえば当然のことだった。琢郡の劉焉と比べれば、むしろましな対応だとさえ言えるだろう。 こういう経験をすると、平然と玄徳様を麾下に入れていた公孫賛が特別だったということが良くわかる。おれは公孫賛に対して、普通の人、などと評価していたのだが、少なくとも人を容れる度量において、公孫賛は普通などではありえなかった。「そ、そうなんですか」 おれの返答を聞いた王修が、しゅんと俯いてしまった。 顔中に失望が浮かびまくってるあたり、本当に嘘がつけなさそうな子である。 王修が食料の心配をしてるなら、問題ない。玄徳様のことだから、食料の大半は残していくに決まっているからだ。 だから、心配するな、と口にしたおれに、王修のみならず、太史慈からも冷たい視線が注がれた。 む、なんですか、その空気読めみたいな眼差しは? あ、もしかして。「ああ、ひょっとして、劉家軍に加わるって話を辞退しにきたのか?」『え?』 おれの言葉に、2人が同時に目を丸くした。 だが、そんな2人の反応に、おれの方が困惑してしまった。「む? もしかして聞いてないのか?」 またしても同時に頷く2人。 はて、てっきり話はついていると思っていたのだが。 要は、恩賞の話である。 玄徳様が袁紹から官位を授かったため、今の劉家軍は官軍扱いである。 とはいえ、領土もなく、戦場を転々とする性質は義勇軍の時と変わらない。それゆえ、孔融は袁紹ではなく、玄徳様本人に援軍に来てくれたことへの謝礼をしなければならなかった。 だが、長きに渡る篭城で、軍費も食料も底をついている今の北海城では、十分にお礼をすることも出来ない。 そこで、孔融は朝廷に奏上して、玄徳様に新たな官位を賜ってくれたのである。 それが「別部司馬」という官位であった。 陳到から聞いたところによると、官位としては都尉より上。軍事を司るという意味では都尉と変わらないらしい。 簡潔に記すと、この時代、軍を統べる将軍の下に校尉がいる。校尉は、軍の主力を率いる指揮官に相当するのだが、別部司馬とは、その主力に含まれない部隊の指揮官を指すとのこと。ちなみに、都尉は校尉の下に位置する官位である。 まあ、「別部司馬」はかなり乱発されている官名であり、実質的な権限はないに等しいが、玄徳様の功業が認められている証だと思えば、めでたいことだといえるだろう。 この使者が北海と朝廷を行き来する間、玄徳様が孔融に求めたものがある。 北海の府庫に山と積まれている孔家歴代の宝物――万巻の書物という名の、宝物である。これの閲覧許可を、玄徳様は求めたのである。 孔融はあきらかに気が進まない様子であったが、人と時間を限定した上で、許可を出してくれた。知識を修めるという意味で、またとない機会である。孔明と士元なんかは驚喜して、数日の間は、ただひたすらに竹簡の山に埋もれている有様であった。 そして、最後に玄徳様が孔融に求めたものが、人材であった。 もっとも、これは玄徳様の発案ではなかったりする。 では、誰が玄徳様にそうするように薦めたのかと言うと。 ――おれが太史慈の顔を見つめると、太史慈はすぐに真相に気づいたらしい。「……あの、もしかしておばあちゃんですか?」「正解」 太史慈の祖母君には、おれも何度かお会いしている。 最初に会った時には「ふむ、55点じゃな」という謎の言葉も頂いた。辛口ですね、何の評価かわからんけど。 もっとも、とても気さくな方で、太史慈との会話は自然に頬がほころぶ微笑ましさであったから、悪い印象なぞ抱きようがなかった。 太史家の家長殿は、孫娘の求めに応じて北海郡に来た劉家軍に対し、丁寧に礼を述べ、炊き出しにも協力してくれたりした。北海郡における劉家軍の評判の良さの一因は、あの祖母君にあるといっても良いだろう。 北海城に来て、しばらく経ったある日、その人物が、玄徳様に言ったのである。 今回の褒賞として、北海郡の二粒の宝石を望むように、と。「え、あの二粒って?」「もちろん、子義殿と叔治殿のことだろ」 おれの言葉に、王修は驚いて固まってしまった。 一方の太史慈は、勝手に話をすすめた祖母に憤慨している。「私たちにひと言もなく、そんな話を進めてたなんて。まったく、おばあちゃんったら!」 まったくもう、という感じで怒っている太史慈の姿は、だが、不服があるようには見えなかった。 王修の方は――まだ固まってるか。「太守はかなり渋ったみたいだけど、なんでも、祖母君じきじきに一喝したらしいぞ」 おれは騎馬の調練のためにその場にいなかったが、後から孔明に聞いた話では、それはもう、本当に雷が落ちたかと思ったくらいの声量であったらしい。さすがの孔融も、一も二もなく応諾するしかなかったそうな。 グッジョブです、おばあちゃん。 もっとも、おれにとっては大歓迎なことだったが、本人たちが乗り気でないなら、強引に事を進めるのはまずかろう。 まさか、本人たちが承知していないとは思ってもいなかったしなあ。 太史慈は大丈夫そうだが、王修にとってはどうだろうか。劉家軍に加わるということは、絶えず戦に巻き込まれるということ。もちろん、剣をとって前線に出るようなことをする必要はないが、この城で不遇を囲っている方が、命の危険はないとも言える。 そう考えたおれが、王修に声をかけようとした時だった。「え?」 思わず、おれは間抜けな声をもらしてしまった。 王修がいきなり、顔を覆って泣き出してしまったからである。「ふぁ……ぐす、ず、すみません、いきなり……」 困惑するおれに向かって、王修はそう言って謝るのだが、涙が止まる様子はなかった。 立ち尽くした格好のまま、謝りながらも泣き続ける王修に、おれはどう反応するべきかわからなかったので、とりあえず、思い当たることから謝ることにする。「う、ご、ごめん。からかいすぎちゃったか?」「ち、ちが……ます。そうじゃ、ぐす、ないです……」 うう、そうすると何か他にまずいことしたか、おれ? おれが動転していると、太史慈がそっと王修の前に足をすすめ、その身体を抱きしめてあげた。 太史慈の胸に顔を埋めるようにして、さらに王修の泣き声が高くなる。 うああ、まずい。胸が痛みまくるぞ、良心の呵責で。 そうやって、おろおろと慌てふためくおれを見かねたのか、太史慈は目線で、おれに落ち着くようにうながした。 今は何も口にしないで良い、というように、そっと唇の前に人差し指を立てる太史慈。 それを見て、おれは太史慈の祖母から聞いた話をふと思い出す。 王修の両親はすでに他界しており、今は城で文官として働き、城内で寝起きしている。これは、娘1人をのこして逝くことを憂えた両親が、孔融に願い出たためであった。 王修の両親は、さして身分が高いわけではなかったが、今際の際の願いとあって、孔融はこれを承諾し、文官として召抱えたのである。 ただ、元々、男尊女卑の観が強い北海の城での生活は、まだ若い王修にとって、辛いものであったらしい。王修の引っ込み思案は、このあたりにも原因があるのだろう。 ともあれ、そんな境遇でこの先、何年も耐え忍ぶよりは、外に新天地を求めた方が、王修のためにも良いだろう、と祖母君は考えたのだろう。 それは同感だったが、しかし、せめて本人にひと言くらい言いましょうね、おばあちゃん。 ところで。 ここは劉家軍が炊き出しをしている場所である。 太史慈と王修は容姿の整った少女であるからして、各処からちらちらと視線が向けられるのは自然なことであった。 まして、いきなりその中の1人が泣き出そうものなら、いやでも注意を惹いてしまう。 それがただの将兵ならば、まだ弁解のしようもあるのだが……「ふむ、この短期間で北海に女をつくり、涙させるとは――北郷一刀、侮れぬ」「げ」 その声を聞いたおれは、額に冷や汗を滲ませた。 今のは間違いなく趙雲の声。会議に参加していた趙雲が、ここにいるということは……「うわ、うわ、一刀さん、女の子泣かせるなんて、ひどーい!」 めずらしく怒ったような調子の玄徳様の声。「最低です、一刀さん」「……最低ですね、一刀さん」 冷たい視線を向けているであろう、軍師2人の声。 そして。「……」 声もなく、背後で響く金属音。 おれは、それが何の音か、本能で理解した。「無言で青龍刀を構えないでください、関将軍ッ?!」「問答無用ッ!」 それこそ、孔融を一喝したという太史家の家長に匹敵するような特大の雷が、おれの頭上に降り注いだ次の瞬間。 おれの身体は一瞬で宙に舞っていた。というか、宙を飛んでいた。「ぬあああッ?!」「うわわ、ほ、北郷さん?!」「おー、一刀が空飛んでるー、いいなー♪」「ふん、自業自得よ」「仕事をさぼっていた罰として、当然ね」 田豫や張家の姉妹たちの声が、たちまち遠くなっていった。◆ 少し離れたところで、その様子を見ていた董卓が、慌てたように隣にいる人に話しかけた。「あの、あの、助けに行かないと」「いいのよ、月。放って置きなさい」「そうそう。乙女の怒りの恐ろしさ、ご主人様に味わってもらいましょう。私というものがありながら、失礼しちゃうわ、まったく」 興味なさげな賈駆と、ぷんぷんと怒っている貂蝉の2人を見て、董卓は心底困りきった顔で、宙を飛ぶ北郷の姿を見る。 董卓の足では、どれだけ走っても間に合いそうもないが――せめて、怪我の手当てくらいはしてあげないと。 そう思って駆け出そうとした董卓の肩を、そっと掴んで引き止めたのは、先刻からずっと苦笑しっぱなしの劉佳であった。「劉佳様?!」「大丈夫、愛紗ちゃんもちゃんと手加減してるから」「え、え? でも、手加減っていっても……」 空を飛んでいるんですけど、と言いかけた董卓に、劉佳はそっとある一点を指差して見せた。「ほら、ちゃんとあそこの堀に落ちるようにしてるから」 その劉佳の言葉が終わらないうちに。 満々と水を称えた城の内堀から、大きな水柱が立ち上がった。 ぽかん、とその水柱を見つめる董卓に、劉佳は「ね?」と優しく微笑みかけるのだった。 余談であるが。 それから数日の間、北海の住民の中で、空を飛ぶ人間を見た、という目撃談が続出し、怪奇現象として人々の話題を攫うことになる。 しかし、真相を知る人たちが一様に口を閉ざしたことにより、ついにその正体が判明することはなかったのである……