北海郡北部。 青州黄巾党 管亥の軍に属する10騎ほどが、付近の偵察を行っていた。 しかし、開戦からすでに1ヵ月以上。見かけるのは野牛や野鹿くらいとあっては、緊張を維持することは難しい。偵察兵らの顔には、明らかな緩みが見て取れた。 戦う相手がいないということは、手柄をたてる機会もないということである。先日、城から抜け出た一団がいたらしいが、結局、城外で捕斬されたとのことであり、それ以後は、また元通りの退屈な任務が彼らを待っていた。 そのため、暇を持てあました彼らは、狩りを行い、あるいは付近の村々で狼藉を働くなどして、無聊を慰め、日々を過ごしていたのである。「ち、しけてやがんな」 馬上、今日の戦利品を手にとりながら、賊の1人が吐き捨てる。 それに答えたのは、その隣で、同じように品定めをしている同輩であった。「仕方ないだろう。このあたりの田舎村じゃあな。金目のものが欲しいなら、北海城に押し込むまで待てばいいさ」「ふん。どうせ管亥様の直属部隊が1番乗りをした挙句、美味しいところは全部かっさらうんだろう。おれたちに回ってくるものなんて、知れたものさ」「まあ、そりゃそうだ」 手に持った貨幣の、赤黒い何かをそぎ落としながら、男はもう一度吐き捨てる。「ち、機会さえありゃあな。こんな見回りばっかじゃあ、手柄のたてようがねえぜ」「そのかわり、命をかける危険も少ないだろう。おれは、母ちゃんとガキが6人いるからなあ。下手に危ないところよりは、暇な部署の方が良い」「おめえは、そんなんだからいつまで経っても一兵卒なんだよ。見てろよ、おれはもっと上にいってやるぜ」 それぞれ思うところは異なる兵士たちであったが、現在の状況に飽いているという一点で共通していた。 そして、それは彼らの周りにいる黄巾賊たちも同じことである。 青州に盤踞する黄巾党は、官軍ですら、あえて戦いを避けるほどの勢威を誇ってきた。その勢いは、張角と波才が決裂し、黄巾党が事実上、敗亡した現在であっても変わらない。 自分たちが、青州最強の兵団であるという驕りと慢心。それらが、彼らのうちに巣食うようになったのは、むしろ当然であるといえたかもしれない。 それゆえに。 砂塵をあげて、近づいてくる騎兵の姿を見たとき、彼らは咄嗟にそれが味方だと考えてしまった。 平原郡から袁紹軍が出たという報告は届いていない。北海城の包囲が破れたとは聞こえていない。であれば、敵が来る筈がない。 危機感の欠如したその思考は、しかし、一瞬で粉微塵に砕かれる。「がああッ?!」 黄巾賊の1人が、突然、悲鳴を上げて馬上から転落した。その肩には、矢が深々と突き刺さっている。 何事が起きたのか、と戸惑いを見せる賊徒の1人が、これも矢に左腕を貫かれ、悲鳴と共に地面に落ちる。 そこまでされて、ようやく偵察兵らは、向かってくる騎兵集団が敵であることを理解した。 慌てて、剣や槍を構え、敵を迎え撃とうとするが、向かってくる一団は、わざわざ相手の間合いに近づいてこようとはしなかった。 彼らは、騎馬の機動力を活かし、猛然と接近しつつ、次々と矢を射掛けてきたのである。 馬上、矢を放つ騎射は高等技術である。しかるに、接近してくる騎兵集団は、ほぼ全員が騎射を行い、こちらを攻撃してくるのだ。 これには、偵察兵たちも仰天した。 騎馬を用いるの利は機動力にある。戦うにせよ、退くにせよ、機動力が優る方が有利なのは言うまでもない。 だが、その機動力が互角であった場合。つまり、相手も同じ騎馬兵であった場合、勝敗を決するのは騎手の技量に他ならぬ。 騎射すら出来ない偵察兵と、それを自在に行う兵団との戦いであれば、勝敗の結果は火を見るよりも明らかであった。 騎射によって足を止められた偵察兵に対し、相手はなおも矢を射掛けながら、たちまちのうちに包囲陣形を作り上げ、逃げ道を閉ざしてしまう。 突撃すれば離れ、逃げようとすれば詰めてくる相手の動きに翻弄されるうちに、黄巾賊は1人、また1人と味方を失っていった。 四方から矢を射掛けられ、反撃すらままならない状況に追い込まれた黄巾賊。やがて、抗戦の意欲を削いだと判断した相手からの投降の呼びかけに対し、彼らは首を縦に振る以外の選択肢を持たなかったのである。◆ 劉家軍の兵士たちが、黄巾賊を縛り上げている様子を傍らで眺めながら、太史慈はただ感嘆するしかなかった。 太史慈自身の矢によって、戦闘の火蓋が切って落とされてから、まだいくらも経っていない。にも関わらず、勝敗はすでについてしまっているのである。驚くべき早業であった。 そして、劉家軍の中にあって、そう考えているのは、太史慈1人だけではなかった。「まこと、水際立った戦ぶりですな。見事というしかない。さすがは子義殿、頼もしき方々をお連れ下さった」 そう口にしたのは、武安国である。 平原郡へ向かう途中、賊の猛追にあって太史慈とはぐれた武安国は、その後、敵を何とか振り切ることに成功したのだが、太史慈の後を追って平原郡へ向かおうとはしなかった。 太史慈より後れて平原についても意味はないと考えた武安国は、援軍を太史慈に任せ、自身は周囲に散らばる黄巾賊の状況、そして偵察の兵士たちの様子を調べることにしたのである。黄巾賊を目にする度に、部下たちの報復を望む心が騒いだが、今はまだ時ではない、とその衝動を押し殺し、武安国は何日もかけて賊徒の状況を調べ上げたのであった。 そして、平原郡より先遣隊として出撃した趙雲麾下の騎馬隊と、その案内役に立った太史慈の姿を見つけて、劉家軍に合流した武安国は、調べ上げた情報を逐一趙雲らに告げたのである。 そんな武安国の努力と忍耐は、正しく報われた。 趙雲は、武安国の情報を得るや、2百騎に及ぶ部隊をいくつかの小集団に分け、黄巾賊の偵察兵をことごとく捕捉、時を選んで、これを一斉に撃滅していったのである。 その鮮やかな指揮ぶりは、太史慈と武安国をうならせずにはおかなかったが、それと同じ、あるいはそれ以上に2人が感嘆したのは、劉家軍騎馬隊の錬度の高さであった。 前線から離れた部隊の偵察兵とはいえ、相手は青州黄巾党。その彼らを相手に、ほとんど犠牲らしい犠牲もなく、勝利を得てしまうとは、実際に自分たちの目で見ていなければ、容易に信じることは出来ない戦果であった。 そして、それを可能としたのが、たった一つの馬具なのだという事実もまた、太史慈たちに衝撃を与えたのである。「ほんの1つ2つの工夫で、鐙がこれほどまでに役に立つようになるとは、思いもしなかったですな」 武安国は首を振りつつ、感心しきり、という様子で口を開いた。 太史慈も全く同感だったので、こくりと素直に頷いた。鞍の両脇に、半月形の鉄の輪を吊り下げる。ただそれだけで、馬の御し易さにこれほどの違いが出ようとは、太史慈は想像したことさえなかったのだ。「本当にそうですね。玄徳様の騎馬隊の強さ、一因は鐙によるものなのでしょう」「それは間違いないでしょうな。正直、馬はあまり得手ではなかったのですが、その私でさえ騎射が出来てしまうのですから。これを考え付いた者は、よほどの者なのでしょう」 武安国はそう言うと、ふと気づいたように、太史慈に問いを向ける。「そういえば、子義殿は、その者に会われたのでしたかな?」「ええ、北郷さん――あ、その鐙を考えた人の名前ですが、北郷さんには平原でお会いしましたよ。そも、劉家軍と引き合わせてくれたのも、北郷さんだったんです」「なんと。それは、重ねて感謝しなくてはなりませんな。その北郷殿は、騎馬隊におられるのか?」 武安国の問いに太史慈が答えようとしたとき、唐突に、第三者の声が割って入ってきた。「一刀なら、後方の輜重隊と行動を共にしておるよ。あの者の戦は、敵と矢石を交えることではないのでな」 白銀の甲冑に、陽光が小さく反射する――あらわれたのは、趙雲であった。 その姿を見て、太史慈が深く頭を下げる。「これは、趙将軍。此度の勝利、おめでとうございます」「見事な戦ぶり、感服つかまつりました」 太史慈と武安国の賛辞に、趙雲は軽く肩をすくめた。「なに、子義殿の弓術と、報民殿の情報のおかげだよ。それに、黄匪との戦闘はここからが本番。勝利の祝いは、北海城を取り戻してから頂戴しよう」 麾下の兵力を縦横に動かして、黄巾賊の哨戒網を一蹴した趙雲は、言葉どおり、この程度の功を誇るつもりはないようで、その顔に勝利の高揚感はなく、次の戦に向けて戦意を高めている様子であった。 そして、それは太史慈たちとて同じことであった。 今回の勝利で、平原郡を見張る黄巾党の目は、ことごとく潰すことが出来た。そして、敵はそのことに気づいていないであろう。 今を除いて戦機はない。 だが、幾許かの不安も存在しないわけではなかった。「子義殿から、劉家軍の総数は3千と伺いましたが、北海を攻めている黄巾党は2万に及ぶ大軍でござる。勝算はおありなのですか?」 武安国の問いに、趙雲は意外なことを聞いた、とでも言うように目を瞬いた。 だが、すぐに苦笑混じりに、ひとりごちる。「なるほど。確かに3千対2万では、勝算を気にするのが当然か。ふむ、その当然のことに気づかないあたり、私もいささか不利な戦に慣れすぎたかな」 戦に不慣れな村人たちを率いて、万を越える黄巾党の攻勢を幾度も耐え凌いだ楼桑村での戦いに比べれば、今回の戦など趙雲にとって難事と呼ぶに値しない。「だが、心配は無用ぞ。2万の大軍とはいえ、相手は城を包囲している最中。我らが直接、矛を交えるのは北側の部隊のみだ。これは5千、多くても6、7千程度であろう」 これで、3千の劉家軍との戦力比は1:2。そして、こちらは城を攻囲している敵の背後を衝く優位を保持しているのだから、勝算は大きく跳ね上がる。「確かに、奇襲の利はあるでしょうが、こちらに倍する敵軍を短期で打ち破ることが出来るかは、賭けではありますまいか。時間をかけてしまえば、異変に気づいた他の部隊が瞬く間にやってきてしまいます」「なに、敵を全滅させようというわけではないのだ。城までの道を切り開くに、さして時間はかからぬよ。むしろ、敵が半刻以上、陣を保つことが出来たなら、惜しみない賛辞を送らねばなるまいな」 いまだ不安を消しきれていない武安国に向かい、趙雲は余裕を持った態度で、そう口にする。もっとも、自分の言葉だけで相手の不安が消せるとは、趙雲自身、思ってはいない。 どのみち、間もなく答えは出るのだから、今、ここで討論をしても仕方ないことであった。それは、武安国にしても了解するところであったから、それ以上の疑問を口にしようとはしなかった。 劉家軍の第一の目的は、北海城の救援であり、賊徒の掃滅はそれからのことである。まずは城に入り、気息奄々たる北海城に救援の事実を知らしめる。しかる後、城内の軍兵と共同して、青州黄巾党を叩く。それが、劉家軍の当面の作戦目標であった。 趙雲がもたらした成果については、すでに本隊に連絡が行っている。趙雲たちも、次の行動に移る頃合であった。「将軍、捕虜はいかがいたしましょうか?」「縛り上げて、森の中にでも転がしておけ。武器と馬を回収した後、合流地点に向かうぞ」「は、かしこまりました!」 趙雲の指示に従い、速やかに行動に移る兵士たち。 やがて、戦場の後始末を終えた部隊は、馬首を東へ向けて走り出した。 本隊と合流するなら、北西に向かわねばならない。しかし、将兵の誰1人として、その進路に疑惑を持つことはなかった。 北海郡の東は東莱郡へと続く。かつては、険阻な地形を防壁として、一国が置かれていたこともある地域である。そして、その名残は、今もまだ東莱郡の各地に残っていた。 すなわち、騎兵が身を隠すことの出来る場所には、事欠かないところなのである―― ◆◆ すでに城が黄巾賊に囲まれてから幾日経ったのか。北海の城壁を守る兵士たちは、その正確な日にちを思い出すことが出来なくなっていた。長引く黄巾賊の包囲と、昼夜を分かたずに行われる攻撃は、将兵の心身を確実にすり減らしていたのである。 それゆえに。 その夜、突如として北門付近で発生した敵兵の喚声と、矢石を交える戦闘の物音を聞いて、咄嗟に何事が起きたのかを判断できた者は、城内にはいなかった。 城壁の上では、兵士たちが長期の篭城に疲れ果てた顔を見交わしている。「おい、なんだと思う、この音は?」「戦の音だな。誰かが戦ってるんだろう」「んなもの、お前に言われないでもわかっとるわ。誰と誰が戦ってるんだって意味だ」「まあ、片方は黄巾賊だろうな」「ほんとにわかりきったことしか言わない奴だな」「わかる筈のない質問をするお前に言われたくはない」 兵士たちは不毛な会話をかわしつつ、億劫そうに弓を取り、矢を番える。 誰が戦っているにせよ、北海城と無関係である筈がない。答えはすぐに出るに違いないのである。 この場にいる兵士たちは、皆、1つの期待を持っていた。だが、誰もそれを口にしようとはしない。口にした途端、その期待は無残に砕かれてしまうように思えてならなかったのである――これまでと同じように。 奇妙な静寂の中、城門前に弓矢の狙点を定めた孔融軍の兵士の目に、やがて、暗夜の混戦の靄を突っ切ってくる見慣れない旗印が映る。 そこに記されるは『劉』の文字。 そして、その旗印の下、黒髪をなびかせ、青龍刀を掲げる女将軍が、声高に城中に呼びかけてきた。「北海の将兵に申し上げる! 我らは漢の都尉 劉玄徳麾下の軍兵3千、この城が黄巾賊に囲まれていることを聞きつけ、救援に馳せ参じた! 開門願いたい! 繰り返す、劉玄徳麾下3千が北海城の救援に馳せ参じた、開門願いたい!」 その声を聞き、城壁上の兵士たちにどよめきが起こる。 それは、彼らが心密かに望んでいた言葉そのものであったが、だからこそ、彼らは咄嗟に行動に移ることが出来なかった。「いかがしたか?! まさか城中の兵がことごとく力尽きたわけではあるまい。開門を!」 度重なる外からの呼びかけに、この場の責任者である年嵩の兵士の1人が、ようやく言葉を返した。「しばし待たれよ! これより孔太守に伺いを立ててまいる!」 だが、その言葉に対して、返って来た返答は半ば以上、怒声であった。「何を悠長なことを言っているのだッ! 我らは3千と言った筈。こちらに展開していた部隊は打ち破ったとはいえ、時を置けば、他方の部隊もやってくるだろう。逃げ道もない城門の前で、それらを迎え撃てとでも言われるのか?!」 相手の言葉に理を認めた兵士は、一瞬、言葉に詰まった。 だが、ここで勝手に城門を開け、これが黄巾賊の罠であったとしたら、北海城の命運は間違いなく尽きる。一介の部隊長が決断できることではなく、また、決断する権限もなかった。 しかし、城外の相手は、そんな兵士の逡巡に構おうとはしない。「罠を疑い、我らを受け容れぬとあらば、それもまた良し。我が軍はここから退却するゆえ、城の命運はそなたらの手で切り開くが良かろう。要らざる手出しをした無礼は詫びさせてもらう!」 開かれぬ城門に業を煮やしたのか、女将軍はそう言うと、さっさと馬首を返そうとする。 それを見て、城壁上の兵士たちは慌てた。ここで援軍を追い返すような真似をすれば、それこそ後で太守からどのような叱責を浴びるか知れたものではない。なにより、他の兵や、城内の民衆の激怒に晒されることは、火を見るより明らかなことであった。 彼らは決断する。 たとえ、これが罠であったとしても、どのみち落城までの日数が、ほんの数日、短くなる程度であろうから。「ま、待たれよ! ただ今、城壁を開くゆえ! 我ら北海の軍民、劉玄徳殿の援軍を歓迎する!」 その声と共に、城門付近に待機していた兵士たちが、慌てて門を開く。 幾度と無く黄巾賊の攻撃に晒されながら、いまだその機能を失っていない頑丈な門が、きしみをあげながら大きく開かれていく。 そして、開かれた城門から、劉家軍の兵士たちが次々に城内に駆け込んできた。 孔融軍の兵士たちは、これが罠ではないかという恐れを抱きながら、彼らの様子を見ていたが、無論のこと、劉家軍の兵士たちが不穏な行動をとる筈もない。 その様子を見て、ようやく、城内の兵士たちは、真実、援軍が到来したことを悟る。 やがて、彼らの内の1人が、歓喜の声をあげる。その隣にいた者が、すぐにそれに唱和し、さらにその隣の者へと伝わっていき――やがて、それは北門を守備していた全ての兵士の口からほとばしる歓喜の絶叫となっていったのである。◆◆「北海郡太守 孔文挙と申す。貴殿らの救援、心より感謝する」「劉玄徳です。えーと、その、一応、都尉にしてもらったところです。太守様も、城の皆さんも、ご無事で何よりでした」 孔融の謝辞に、劉備が緊張の面持ちで答えを返す。 孔子20世の孫として、孔融の名は広く知れ渡っている。文人として、若いときから令名のあった人物でもある。 劉備も学がないわけではないが、やはり孔融のような本物の知識を蓄えた者から見れば手慰みのようなものだろう。劉備はどうしても緊張を消すことが出来ずにいた。無学者と思われたらどうしよう。 だが、この劉備の危惧は取り越し苦労の類であった。 確かに孔融は学を鼻にかけるところがあったし、正論を振りかざす癖を持っていたが、それはもっぱら上にいる人物、すなわち州牧や、あるいは朝廷の大官に向けられていた。 目下の者や、民を前に、学識を誇示し、相手を貶めるような悪癖と、孔融は無縁だったのである。 互いの挨拶が終わると、孔融はやや早口で劉備に問いかけてきた。「1つ、聞かせてもらいたいのだが、貴殿らは、この城の危難をどうやって知ることが出来たのだ?」 孔融の問いには、無論、それなりの理由がある。 先日、城外で数名の兵士たちの首が晒された。これまで、救援を頼むために城外に出て失敗した者たちと同じように。 黄巾賊にとって、それは城中の士気を挫く手段であったのだろうが、これには孔融も驚きを隠せなかった。何故なら、孔融はそのような指示を下していなかったからだ。 急ぎ、確認が行われ、黄巾賊に討たれた者たちは、城壁の守備を担当していた小隊の1つということが判明した。 彼らは、孔融の命を受けることなく、独断で城外に出て、そして捕斬されたというのだ。 配下の死は痛ましい限りだが、それが軍令違反ゆえとなると、話は変わってくる。 その行いが、どれだけ真剣に城のことを考えたものであったとしても、命令違反を見過ごせば、それに倣う者が続出してしまうだろう。ただでさえ寡少な兵力を、これ以上、無為に失うわけにはいかない。 そして、詳しく事情を調べ始めた孔融は、やがて件の小隊が、1人の少女に付き従う形で城外に出たことを知る。少女の正体に思い当たるところがあった孔融は、いそぎその少女の容姿を確認し、己の悪い予感が的中したことを悟ったのである。 そして、劉備の口から出た言葉は、孔融の予測どおりのものだった。「太史子義殿の命がけの奔走で、北海郡の危難を知るを得ました」「……そうか。やはり、というべきなのかな。歴戦の兵士でさえ抜けることが出来なかった重囲を、こうも容易く突破するとは、さすがは慈だ」 孔融の吐息は、嘆息か、それとも感嘆か。 だが、劉備は首を横に振って、その言葉を否定する。「容易く、ではありません。子義殿は仰っていました。自分がここにたどり着くことが出来たのは、命を盾にして道を切り開いてくれた兵の皆さんのお陰だ、と。だからこそ、この使いを失敗するわけにはいかないって、私に頭を下げてくれたんです――太守様は、とても得難い配下をお持ちなのだと思います」「……かたじけない。それを聞いた者たちも、泉下で喜ぶことであろう。そして、慈の願いに応じてくれた貴殿らの義心にも、重ねて礼を申し上げる」 瞼の裏に、首だけとなった部下たちの姿を思い浮かべながら、孔融はもう一度、劉備に向かって頭を下げるのだった。◆ 一通りの情報交換が終わると、話は現在の戦況に戻された。 劉家軍が城内に入ったことにより、城中の士気はおおいに高まっている。 当初、北門での騒ぎを聞き、他部署の兵や、民衆は、とうとう黄巾賊の侵入を許したのか、と覚悟をした者も少なくなかった。 1ヵ月以上、城門が開かれることはなく、賊の昼夜を問わない攻撃に晒され続けているのだ。 いつそうなったとしても、おかしくない戦況だということは、いまや女子供でも知っていることだった。 だが、劉家軍の到来は、そんな彼らの不安と諦観を、雲の彼方まで蹴飛ばしてのけたのである。 兵数にすれば、わずか3千であるが、より重要なのは、援軍が来たという事実。それはすなわち、北海城の危急が、黄巾賊の重囲を破って外に届いたということなのである。 そんな彼らの希望に、劉家軍は1つの情報をもって応えた。 河北の雄たる袁紹の軍勢もまた、軍備を整え次第、北海城まで出撃する手筈だ、と。 それを聞いた将兵や民衆が狂喜したのは、当然のことであったろう。 しかし、これは偽りの情報であった。袁紹は、北海城の危急を知っても、すぐに兵を出そうとはしない。だからこそ、劉備たちにお鉢がまわってきたのである。 そしてまた、出してもらう必要もない――それが、劉家軍の誇る軍師 鳳統の見解であった。 何故、わざわざ将兵を欺くような情報を与えるのか、との問いに、鳳統は次のように答えた。「……私たちが来たことで、城内の皆さんの士気はとても高まっています。反対に、黄巾党の軍は動揺していることでしょう。けれど、時が経てば、また元に戻ってしまいます。2万対3千。兵数だけを見れば、私たちが、まだまだ圧倒的に不利な状況にいることに、気づいてしまうからです」 鳳統は、更に言葉を続ける。「敵の後ろには、まだ多くの兵力が残っています。季姫さん(張梁)によれば、青州黄巾党の総兵力は10万に迫るとのことでした。そのことを思い出せば、敵は余裕を取り戻し、味方は意気を阻喪してしまう。この城を救うためには、冷静にさせてはいけないんです。敵も――そして味方も」 敵には、自分たちが不利な状況にいるのだという錯覚を与え続け。 味方には、自分たちが有利な状況にいるのだという幻想を植え続け。 その上で、錯覚も幻想も、事実に変えてしまわなければいけない。鳳統はそう説くのであった。 孔融は、信義と正当性を重んじる性質である。 これが、他の件であったならば、民や配下を欺くような真似は、言下に拒絶したに違いない。いや、戦時である今だとて、完全に納得しているわけではない。しかし、孔融にしても、その配下の諸将にしても、鳳統の、堂々とした論調に圧倒されそうになっていた。否、圧倒されていた。 軍事に限って言えば、両者が身につけた知識と理論に、大きな差はない。むしろ、長く生きた分、孔融の方が優れているくらいだろう。 だが、孔融が、学んだ知識を机上でのみ用いることが出来るのに対し、鳳統は、それを現実に活かす術を心得ていた。荊州から旅立ち、中華の地を巡ったこと。実際の戦場で人の生死を目の当たりにし、戦の何たるかを肌で感じたこと。そうやって、自らの目と手足で感じたすべての経験が、鳳統の知識に血肉を与え、発する言葉に力を添えていたのである。(ねえねえ、愛紗ちゃん)(何ですか、桃香様)(士元ちゃん、とっても堂々としてるねえ。ちょっとびっくりしたかも) 劉備の囁きに、関羽は微苦笑をもらした。(確かに) 今の鳳統を見て、いつも「あわわ」と言って慌てている者と同一人物だと考えるのは、なかなかに難しいことだろう。 もっとも、まるで別人のように変わった、というわけではない。劉備や関羽のように、鳳統と長らく行動を共にしていた者には、それがわかる。(自信、なのでしょうね。自らの行いと、それがもたらす結果を、顔をそむけることなく受け止めようとする心が、人を前に向かせるのです) 自信とは、文字通り、自らを信じること。おそらく鳳統は、先の戦いのどこかで、その端緒を掴み取ったのではないか。関羽はそう考えていた。(それが何なのかを問うのは、野暮というものでしょう。桃香様も、頼もしい軍師に負けないように、精進なさっていただかねばなりません)(うん、そうだよね) 鳳統の年齢を考えれば、まだまだこれからも伸びていくことは疑いない。知らず、いつか北郷が言った言葉を、劉備は思い出していた。(天下の諸侯が、領土の半分を献じても手に入れたいと願う、不世出の人材――鳳凰の雛、鳳雛、だったよね) 鳳統だけではない。新たに加わった趙雲はもちろん、これまで共に戦ってきた関羽、張飛、諸葛亮、陳到、簡擁らは大陸全土を見渡しても稀有の人材である。形は違えど、あの董卓や張角もまた、劉家軍に協力してくれている。 これだけの人たちに力を貸してもらっているのだ。立ち止まることも、挫けることも許されない。あの桃園での誓いを果たすために、劉備に出来ることは、全力で走り続けることだけしかない。 孔融らを相手として、堂々と渡り合う鳳統の姿を見ながら、劉備はそう考え、静かに拳を握り締めるのだった。 ◆◆ 北海城を取り囲む黄巾党にとって、劉家軍の参戦は予想外の要素であった。 しかし、この時点で管亥にはまだ幾分かの余裕が残っていた。 袁紹に北海郡の情勢が知られたのは痛手であるが、万を越える軍勢がすぐに徴募出来る筈はない。やってきたのは、3千にも満たない寡兵であり、兵力はまだまだ黄巾党が上回っている。 すでに北海城の防壁は崩壊寸前であり、今更、守備兵が増えたところで大きな問題とはなりえない。 管亥はそう判断を下したのである。 劉家軍が入場を果たした明くる日、管亥は早くも軍を動かした。 下手に時間を置けば、味方の兵士が臆してしまうと考えたのである。 城壁の下に押し寄せる黄巾党の軍と、城壁の上で待ち構える劉備・孔融の連合軍の戦端が、ここに切って落とされた。 この戦いにおいて、管亥は緒戦から激しく城を攻め立て、城壁上の相手の心胆を寒からしめた。一時は、遂に城壁の一部を乗り越えるかと思われるほどの勢いであり、連合軍は防戦に追いまくられる羽目に陥ってしまう。 その理由は、両軍の連携不備にあった。昨日、城内に入ったばかりの劉家軍と、孔融の軍は、部隊長級の指揮官たちの話し合いが1度、行われただけで、まだ互いの連携が確立されていなかったのである。 また、劉家軍の将兵は、攻める戦はともかく、守る戦の経験がほとんどない。時に、孔融軍の防戦の邪魔をしてしまう場面さえ見受けられる有様であった。 無論、それは黄巾党指揮官 管亥の思惑のうちにあった。 所属の異なる軍が、すぐに緊密な連携が取れる筈はない。急な援軍は、かえって敵の敗因となりえるのである。 そして、眼前の戦闘は、管亥の予測どおりの展開を見せていた。 城中の混乱を見た管亥は、ここが戦機であると睨み、全軍に攻勢を強めるように指示を下す。敵が混乱から立ち直る暇を与えず、一挙に城壁を乗り越え、城中に突入しようとしたのである。 ――そう動いてくれ、と劉家軍が願っていたとおりに。 攻める兵士が増えれば、守る兵士が減る。それは単純な算数である。 攻勢に出て、手薄になった黄巾党の陣営の後方から、突如、火の手が上がった。 何処からともなく放たれた、幾十もの火矢によって、火は瞬く間に燃え広がっていく。兵士たちが慌てて消火しようとするが、二の矢はその彼らに向けて降ってきた。 悲鳴をあげて倒れ付す守備兵たち。妨げるものもなく、火は目の前にある物資を舐めるように飲み込みながら、更に勢いを増していく。 後方の火の手に気づいた管亥の口から、悲鳴のような声があがった。「だ、誰が糧食に火を放ったのだッ?!」 管亥の問いに答えたのは、猛々しく突進する馬蹄による轟音。 無論、その部隊は、城内に入らず、城の外で機を窺っていた趙雲率いる騎馬部隊であった。◆ この戦いにおいて、鳳統は先の戦いのように、作戦に複雑な含みを持たせることをしていない。 その作戦の内容は、まず、城の守備には歩兵部隊を、外の遊撃部隊には騎兵部隊を充てる。 入城と同時に、城外の敵部隊に向け、更なる援軍の存在をちらつかせ、相手の動揺を誘う。相手が大事をとって退却すればよし。あるいはそこまで上手く行かなくても、城攻めを急がせる程度の効果は期待できるだろう。 敵が攻めてくれば、城の部隊がそれを凌ぎつつ、外に待機させていた騎馬部隊で、包囲軍の外から撹乱を行い、更なる敵の混乱を誘う。 そして、最終的に、城の内外の部隊が呼応して、敵を撃退する、というものであった。 鳳統が策を弄することをしなかったのは、それだけの時間の余裕がなかった、という理由もあるが、何よりも、彼我の戦力差を踏まえ、小細工を用いる必要はない、と判断したからに他ならない。 漫然と1ヵ月以上も城を囲むことしかしない敵軍が相手ならば、今の劉家軍の戦力をもってすれば、撃破することはさして難しいことではない。鳳統はそう考えたのである。 果たして、その鳳統の考えは正鵠を射た。 というよりも、鳳統の予測を越える勝利を得ることが出来た。 実を言えば、鳳統とて、まさか緒戦でいきなり相手の兵糧を焼き払うことが出来るとまでは考えていなかったのである。 だが、管亥が城攻めを急いだこと、そしてそれを見切った趙雲が、一撃で敵の急所を貫いたことにより、戦況は一気に連合軍の有利に傾くこととなる。 糧食の大部分を焼き払われた黄巾党は、しかし、なおも城の包囲を解こうとはしなかった。 あるいは、緒戦において敵の主力を撃滅するという巨大な戦果がなかったならば、管亥はこの時点で退却なり、増援の要請なりを行うことを考慮したかもしれない。 しかし、ここまで圧倒的優位な状況をつくりあげながら、肝心の城を陥とせないとあっては、管亥の能力に疑問を抱く者が出てくる可能性がある。否、それはすでに軍内から瘴気のように立ち上り始めていた。 退却は論外。本隊に増援を要請することも、結果として、管亥の立場を危うくさせるだろう。 ――その判断と、落城は間近という戦況が、逆に管亥の目を曇らせ、戦機を見失わせるに至っていた。 この上は、一刻も早く城を攻め落とさねばならない。 そう考えた管亥は、火を噴く勢いで、苛烈に城を攻め立てたが、兵士たちは、指揮官ほどに勝利への執着を保つことが出来なかった。 包囲は破られ、兵糧は焼き払われ、そして後背からは絶えず敵の遊撃部隊の撹乱が行われる。 その状況にあって、迷うことなく目の前の城壁に向かうことが出来るほど豪胆な兵士は少なかったのである。 ことに、黄巾党に恐れられたのが、城外の騎馬部隊である。 騎馬の機動力を利した一撃離脱の戦法を用い、まるで、動きの鈍い黄巾党をあざ笑うかのように、幾度も攻撃を仕掛けてくる騎馬部隊。 彼らの昼夜を問わない襲撃に怯え、兵士たちはろくに眠ることさえ出来ない有様であった。 騎兵自体の数が少ないため、1つ1つの戦闘での死傷者の数はさほどでもなかったが、騎射を自在に行い、奔放のようでありながら、理にかなった戦術を駆使する騎兵部隊の動きに、管亥はじめ黄巾党の誰も、ついていくことが出来なかった。 その騎兵部隊の中でも、さらに恐れられる人物が2人いた。 1人は、緋色の槍を振りかざし、鮮血の舞を踊る白衣白甲の将軍。 1人は、古の養由基の再来かと思われる精妙な弓術を誇る碧眼の武将。 ことに、後者に関しては、襲撃の度に指揮官を射落とされ、軍内の指揮系統にきわめて深刻な損傷を負わされるに至っており、黄巾党の憎悪と恐怖は、否応なく高まっていった。 この騎兵部隊が、東莱のあたりから出撃していることは、管亥も掴んでいたのだが、あのあたりは複雑な地形が広がっており、発見は容易ではない。少数の部隊を派遣しても蹴散らされるだけ。かといって大規模な部隊を動員すれば、北海城への押さえが足らなくなる。 そんな痛し痒しの状態に苦慮する管亥であったが、その対応を考えるよりも早く、糧食が尽きる事態に至ってしまった。 糧食が尽きれば、戦うことはおろか、包囲を続けることさえ不可能である。 北海城に固執する管亥は、おそまきながら、ようやく退却を決断するのだが、この決断はあまりにも遅すぎた。 夜陰、ひそかに陣を引き払う黄巾党。 しかし、すでにこのことあるを予期していた劉家軍は、瞬く間に敵の退却を察し、ただちに城門を開いて追撃に討って出たのである。 あるいは罠かもしれない、という危惧を持つ者もいたが、ほとんどの将が敵の退却は真実であると感じていたし、また、それは事実であった。 退き際を強襲された黄巾党に、振り返って武器を構える気力は、最早残っていない。 城内の部隊が突出してくることを予期し、逆撃の態勢を整えていた黄巾党であったが、劉家軍の最初の一撃で、その陣列は脆くも乱れたった。さらにそこに、城内の部隊に呼応した趙雲率いる騎馬部隊が追い討ちをかけた瞬間、黄巾党の軍隊としての指揮系統は完全に崩壊した。 2万を越える軍勢は、算を乱して崩れたち、兵士たちは後ろも見ずに、懸命に逃げ出していく。 そこに、青州最強の兵団の面影は微塵もなかった。 ここに、北海城は長きに渡る青州黄巾党の攻囲を退けることに成功したのである。 大きく開かれた城門を前に、城内の民衆は歓呼の声を上げ、長い篭城を戦い抜いた兵士たちは、立つことも出来ないほどの安堵に襲われ、その場に膝をつく者が続出した。 ただ、将兵であれ、民衆であれ、顔に浮かんだ笑みは同じであった。 苦しい戦いに耐え抜いた喜びと、そして守るべきものを守りきった誇りを満面に浮かべた北海の住人たちの歓喜の声は、いつまでも絶えることはないかと思われた。◆◆ 明けて翌日。 北海郡の西方にあって、何とか追撃の手を逃れた管亥は、ようやく自軍を再編することが出来たのだが、そのあまりの惨状に愕然としていた。 管亥の下に集まった兵士は、2万の軍勢の内、わずか4千に過ぎなかったのである。 討ち死にした兵士も多く、また今も別の方向へ逃げている者もいるであろう。だが、ほとんどの兵士たちが、管亥を頼むに足りずと考え、自主的に離脱したことは明らかであった。 たった4千では、再戦もおぼつかず、他所の城市を襲って糧食を奪うことも難しい。 万策尽きた管亥に出来たことは、青州黄巾党の本拠地に使者を出すことしかなかった。 本拠地には、いまだ数万の軍勢が控えている。敗北の罪は厳しく問われるだろうが、その問罪をかわすことさえ出来れば、再度、軍旅を催すことも十分に可能である。 管亥はそう考え、そこに一縷の希望を託したのである。 管亥は知る由もない。 この時、すでに青州黄巾党の本拠地が、陥落寸前であるという事実を。 しかし、たとえその知らせを耳にしたとしても、管亥は信じることはなかったであろう。 青州において、圧倒的な勢威を振るう彼らを相手どり、一体何者が、勝利を掴みえるというのか、と一笑に付したに違いない。 だが、それはまぎれもない事実。 青州黄巾党は、今、許昌より発した一軍によって、滅亡の寸前にまで追い詰められていたのである。 その軍を率いる者の名は、曹孟徳。 許昌に移された後漢王朝の、事実上の主宰者である。