しすたぁずのステージが続いている間は、おれの数少ない休息時間である。 舞台の進行やら、衣装の変更やらはちゃんと専門の人がいるから、素人が口を出す隙はない。 だから、おれはふと足を外に向けたのである。 特に深い理由はなかったが、あるいは、無意識のうちに引け目を覚えていたのかもしれない。今の自分の生活が、黄巾党の略奪の上に成り立っているという事実から、目を逸らし続けていることに。 振り下ろされる鞭。倒れふす男の姿。 それは、かつての自分の姿を髣髴とさせた。そして、そんな酷虐な状況の周囲には、生きる希望を失い、うつろな顔をした奴隷たちの姿があった。おれがいた頃と、何一つ変わらない――いや、周囲の人々を見れば、確実に悪化している状況を目の当たりにして、おれはしばし呆然とする。「おお、これはこれは。3姉妹のお気に入りマネージャー殿ではありませんか」 そんなおれに、横からわざとらしい声がかけられる。 振り返ってみれば、いつぞやの監督役の男であった。一ヶ月以上、顔を見ることはなかったが、下卑た顔つきは相変わらずだ。「このようなところに、わざわざ足を運ぶとは、どういったご用向きですかな? かつての自分と同じ境遇の者どもを哀れみに来られたのか。あるいは、笑いに来られたのか?」 こちらを挑発する意図があるのは明らかな言葉だったが、あやうくおれはそれに乗せられそうになってしまった。張角たちの傍に仕えているとはいえ、おれが黄巾党の中で地位を得たわけではない。下手に現場に口を出せば、また奴隷に戻されてしまうだろう。 目の前の男は、おれの性格を覚えている。そこを衝こうとしたのだろうが、その手に乗るか。 だが、おれがそっけなく対応すると、男はさも満足そうに何度もうなずいてみせた。「なるほど、なるほど。せっかく奴隷の身から解放され、将軍たちの傍近く仕えることが出来る立場を手に入れたのに、またそれを失ってはたまったものではないでしょうからな。かつての自分と同じ立場の者のことなど、構っている暇はありませぬよなあ」 耳障りな、嫌らしい笑い声があたりに響き渡る。 ぐ、と言葉に詰まるおれの姿を見て、男の笑い声はさらに高くなる。 結局。 おれは、すごすごとその場から退散するしかなかった。 胸中から様々な言い訳が湧いて出てくる。おれでは彼らを助けられない。強いてそうしようとすれば、おれは奴隷に戻され、彼らを救うための手段を探すことさえ出来なくなってしまう。そうだ、張梁に頼めば、あるいは助けてくれるかもしれないなど等。 だが、誰に言われるまでもなく、おれ自身が知っていた。単に、おれに意気地がないだけなのだということを。この世界に来たばかりの頃、当たり前のように出来ていたことが、今のおれには出来ない。 あの男を蔑む資格など、おれにはない。強いられて働かされている人たちにしてみれば、今のおれは、あの男と大差ない奴にしか見えないだろう。「何をやってるんだろうな、おれは……」 おれの呟きは、客席から響く、観客たちの歓声にかき消されるくらいに小さく。 けれど、その問いかけは、いつまで経っても、おれの中から消えることはなかった。 人間、どんなことにも慣れることはできるらしい。 そんなわけで、マネージャー業に慣れてきたおれは、密かに黄巾党の内部を調べることにした。といっても、別に機密文書を探すとか、兵力配置を確認するとか言うことではない。 現在、黄巾党が、大陸各地で勢力を広げ、多くの惨禍を招いているのは事実である。一方で、党首であり将軍でもある張家の姉妹は、おれが見る限り、ほとんどアイドル活動に専念しているように見えるのだ。 であれば、おそらくそちら方面は、別の人間が指揮を執っているに違いない。おれはそう考えたのである。 そして、そういう視点を得て、黄巾党の内部を見回せば、これまでは気づかなかった様々な流れも見えてくる。 一応、軍事の報告も姉妹のところに回ってくるのだが、決まって張梁がいない時だということ。 時に張角にお菓子やら衣装やらを渡しながら。 時に張宝に小難しい台詞を並べ立て、煙に巻きながら。 彼らは将軍たちの許可を得て、独自に動く権限を得ているのであった。 彼ら――波才、張曼成、程遠志ら、黄巾党の実戦部隊を率いる連中こそが、黄巾の乱の実質的な首謀者なのだと考えられた。 もっとも、それがわかったところで、おれに出来ることは何もない。 妙な動きを見せれば、たちまちの内に斬られることになるだろう。 というのも、男のおれが、張家の姉妹の傍近くに仕えていることは、この姉妹を利用しようとしている者たちにとって歓迎すべきことではないからである。 たかがマネージャーとはいえ、党首の一言があれば、軍を率いる立場になることさえ出来るのだから、彼らも気が気ではないのだろう。 もっとも、張角たちがおれを頼るとしても、それはあくまでマネージャーとしてであり、間違っても軍事的な方面に関することではない。それは明らかだが、遠方にいる有力者たちは、勝手におれの影を大きくしてしまっているらしい。否、大きくなる前に、消してしまおうとしているのかもしれない。最近は、妙な視線を感じることも少なくなかったりするのだ。 なぜそんなことがわかるかといえば、剣術の稽古の時、爺ちゃんや親父から「必殺」とか「必滅」とか、そういった類の意思を毎回のようにぶつけられていたからである。 子や孫に、毎回、命の危機を覚えさせる家族というのもどうかと思うが、それはまた別の話。 つまるところ、このまま漫然と過ごしていては、遠からず不幸が訪れるということである。 それに、仮にこれをうまいこと乗り越えたとしても、黄巾党自体が、いずれ討伐されることに変わりはないだろう。 盧植や皇甫崇ら朝廷の戦力が動き出す前に、黄巾党から抜け出さないと、滅亡に巻き込まれてしまいかねない。もっとも、これに関しては、おれの知る歴史とはだいぶ異なるようだから、あるいは別の結果が出るのかもしれないとは思う。 しかし、民衆を救うという名目を抱えながら、その民衆を虐げるやり方が、いつまでも通用するとは思えなかった。そう考えると、張角たちも、いずれ史実どおりの運命を辿ることになってしまう。世話になった恩もあるし、あんな可愛い子たちが悲惨な運命を辿るところなど見たくはない。何とかしたいところだが、まさかアイドルグループやめて、とも言えないしなあ……張梁に、それとなく伝えて注意を促しておくしかないか。張梁なら、冷静に状況を見極めて、手遅れになる前に逃げ出すこともできるだろう。 さて、そうと決まれば、あとは行動あるのみである。 そう思った途端、不思議なくらい身体が軽くなったような気がした。明確に意識していたわけではなかったが、やはり今の状況は、色々な意味で、おれの心身に負担をかけていたのかもしれない。 問題は、どう行動するかである。 奴隷たちを解放するという目的のためには、具体的にどういう方法を採るべきだろうか。 ただ逃がすだけでは、またすぐに捕まってしまうだろうし、脱走者には厳罰が下されるわけだから、事態をより悪化させるだけに終わるだろう。 1番良いのは、この地の領主に保護してもらうことだ。確か、この時期、幽州の太守は劉焉であったはず。ぬ、あれは演義の創作だったっけ? 官匪、などという言葉があるくらいだから、朝廷の者だからと無条件に信じるのは危険だ。黄巾党という前門の虎から逃がし、官匪という後門の狼に差し出してしまったら目も当てられない。 実際、おれは張梁の使いで何度かその手の役人と会ったことはある。もちろん、黄巾党です、なんて名乗らずに、だが、正直、いけ好かない連中が大半だった。露骨に賄賂とか要求してきやがったし。「むむ、そうすると、手詰まりになっちまうな」 あれも危険、これも危険と考えていると、結局、何も出来なくなってしまいかねない。 今日、明日に結論を出さなければいけないわけではないが、1ヵ月2ヶ月と余裕があるわけでもない。なるべく早めに方策を探らねばならないだろう。 心中密かにそう考えるおれ。 それが急転直下、それから3日と経たないうちに行動を起こす羽目になるとは、流石に予想だにしていなかった。 切っ掛けは、単純といえば単純なことだった。 後日のために、と人目につかないように周囲の様子を探っていたおれの耳に、奴隷のものとおぼしき悲鳴が聞こえてきたのである。 本来であれば、後日のために、歯を食いしばって聞こえなかったフリをするべきであった。 だが、おれは即座に地を蹴って、悲鳴が聞こえてきた方に駆けつける。 聞こえてきた声は、どう聞いても、年端もいかない少女のものだったからである。「何をしているッ?!」 その場に駆けつけたおれが見たものは、2人の少女であった。 2人とも、おれよりずっと年下に見える。元の世界でいえば、おそらく小学校高学年くらいではなかろうか。 1人は肩よりやや上のあたりで髪を切りそろえ、もう1人は頭の後ろで結わえた髪が腰まで伸びるほどに長い髪の持ち主であった。 前者は地面にうずくまり、後者はその少女に寄り添い、更なる恥辱から友人を庇うために、両手を広げて身を挺している。 そして、彼女らの前に仁王立ちしているのは、もう見慣れてしまった、あの監督役の男だった。 言い訳させてもらうと。 様子を見なければ、という理性はおれにもあった。 だが、男に殴打されたとおぼしき少女が顔を上げたのを見たとき。 その頬に走った無残な傷を見たとき。 おれの中の理性は、陽光を浴びた薄氷のように、あっさりと消え去り、 気がついた時には、おれは少女たちと男の間に立ちふさがっていた。 「あ、あの……」 怯えた様子もあらわに、長い髪の少女が口を開く。 だが、その小さな声を掻き消すように、憎憎しげな男の罵声があたりに響き渡った。「おら、また邪魔するのか、てめえ! いい加減にしねえと、ぶっ殺すぞ!!」 歪んだ楽しみを邪魔された憤りもあらわに、男は居丈高に吠え立てる。 だが。「……それはこっちの台詞だ、たわけ」 おれは無造作に。そして躊躇なく、腰に差していた剣を、鞘ごと抜き放つと、その勢いのままに男の顔面を殴打する。鼻と唇の間。鍛えようもない、人体の急所を、手加減抜きで。「ぐああッ?!」 もんどりうって、地面に倒れる男。 言い訳のしようもない、明確な反逆行為に、周囲の空気が凍りついた。 だが、おれはそれを気にもかけず、振り返って2人の少女に向き直った。「大丈夫か……って、大丈夫なわけないよな。立てるかい?」 おれの言葉に、呆然としてこちらを見上げていた2人の少女は我に返ったようだ。「は、はわわ、だい、大丈夫です、立てます、はい」 傷つけられた少女は、そう言うと、慌てて立ち上がる。 その少女を、心配そうに見つめるもう1人の少女。「しゅ、朱里ちゃん、平気なの?」「う、うん、平気だよ、雛里ちゃん。雛里ちゃんこそ、大丈夫だった?」「うん、私は、その、何にもされなかったし……って、あわわ、ご、ごめんなさい、私、お礼も言わずに!」 長い髪の少女――雛里、というらしい。真名かもしれないので、本人に向かって名前は呼ばないでおく――は、おれに向き直ると、慌てたようにぺこぺこと頭を下げてくる。目深なつば付き帽子が、動きにあわせてひょこひょこと揺れていた。 もう一方の少女――こちらは朱里というらしい。以下同文――も、友人にあわせて頭を下げてくる。「礼には及ばないよ。立てるようなら、早いところ、ここから逃げ出した方が良い。親御さんはいる?」 おれの質問に答えたのは、朱里の方だった。「い、いえ、私たち、旅の途中で、黄巾党の人たちに捕まっちゃって、ここまで連れてこられたので、ここがどのあたりなのかも、わからなくて……」 隣では、雛里がうんうんとうなずいている。 どうやらこの2人、おれと同じ立場らしい。とはいえ、はっきり言って、今はおれ自身、大ピンチの真っ最中。申し訳ないが、一緒に行動すると、この子たちまで危険な目に遭わせてしまうだろう。 それに、周囲の人間たちも、ようやく自失から立ち直り、剣呑な空気が漂ってきつつある。急いで、この子たちをここから去らせねばならなかった。「じゃあ、これを持って、急いでここから逃げなさい」 そういって、手持ちの全財産を銭入れごと朱里に渡す。正直、最低限、自分の分は残しておきたかったが……この状況で、その行動をとると、色々と台無しなような気がしたので止めておいた。たまには、こんな正義の味方みたいな役回りをするのも良いだろう。 だって、一生に一回、あるかないかだしね。『あの、でも、あの……』 2人して、はわわあわわと慌てる少女たち。 なんか和む光景だが、さすがにもうタイムリミットだ。 というか、ひょっとして…… おれがあたりを見回すと、2人もつられて、同じ動作をする。 おれが倒した男は、まだ地面でうめいているだけだが、監督役、見張り役は当然、他にもいる。 いつのまにか、おれたちの周囲は、そういった連中で囲まれつつあった。「……あのー」 朱里が心細げに声をかけてくる。 努めて冷静を装いながら、おれはそれに応える。「なんだい?」「ひょっとして、もう手遅れですか……?」 否定してほしい、という気持ちがありありと伝わってくる言い方だった。 隣の雛里も、口こそ開かなかったが、朱里と同じ眼差しをおれに向けてくる。「……ああ、その、なんだ。心配するな?」「はわわ、さ、最後が疑問系になってますよ?!」「大丈夫大丈夫。うん、きっと。多分。おそらくは……」「あわわ、ど、どんどん確信が薄れていってます?!」 うむ、ごめん。ぶっちゃけ、四面楚歌です。 というか、今更だが、さっさとこの場を逃げ出してから、話をすれば良かったな。 いくら3姉妹の傍仕えとはいえ、実際に手を出してしまった以上、この連中が手加減をしてくれるとも思えない。この少女たちとて、命をとられることはなかろうが、死んだ方がまし、という状態があることも、おれは知っている。「さて」 呟くと、剣の鞘を払う。 護衛役を兼ねる場合もあるため、稽古は欠かしていないが、実際に人を斬ったことはない。だが、おれが爺ちゃんや親父から教わったのは、剣道ではなく、剣術。剣の道ではなく、術。 爺ちゃんは言っていた。 古来より、剣とは力に過ぎなかった。剣術とはそのための技術であり、心構え。力をどのように振るうかは、そのもち手の心根次第なのだ、と。 親父は言っていた。 現代において、人を斬り殺すのは犯罪である。だが、剣に拠らずとも、人は人を傷つけ、殺めている。そんなニュースが、毎日のように流れているではないか。そんな時代だからこそ、覚悟を持っておくことは無意味ではないのだ、と。 2人に、心からの感謝を。 今このとき、おれの心に迷いはなく、その手は震えていない。 それが実績のない人間の虚勢ゆえだとしても、今はそれで良い。 年端もいかない2人の少女を危難から遠ざけるために、戦うこと。男であれば、誰もが一度はあこがれるようなこの場面で、見苦しく狼狽しないでいられるのは、爺ちゃんたちのお陰だ。「おれが前に動いたら、後ろについてきて。包囲を一気に破るよ」 おれは後ろを見ずに声をかける。 正直なところ、返答は期待していなかったのだが。『はい!』 2人は、綺麗にそろった返事を返してきた。なかなかに、度胸のあるお子様たちのようだ。願ったりかなったりというやつだな。 よし、では、北郷一刀、これより吶喊しま……!「官軍だ! 官軍が攻めてきたぞーー!!」「総員、応戦するのだッ! 急げ急げー!」「み、みなさん、奇襲ですよー。急いで逃げてくださーい!」 っす?! 唐突にあたりに響き渡った敵襲の声。 動揺したようにあたりを見回す黄巾賊たちに向けて、数本の矢が降り注いできた。 数にすれば、たかが数本。だが、その弓勢は強烈であり、一矢一殺とでもいうべき威力を持っていた。 そして、死者が出たことで、混乱は爆発的に拡大していく。 あたりは騒然とした空気に包まれ、たちまちのうちに状況は混迷の霧の中に沈みこんでいった。 「何をしているッ?!」 その声は、劉備の耳に、落雷のごとき衝撃と轟音をともなって響き渡った 振るわれた暴虐。 止められない自責。 そして、現れた防ぎ手。 それは、いかなる奇跡であったのか。 敵情を知るべく、黄巾賊の懐に入り込んだ劉備たちは、そこで強制労働に従事させられている奴隷たちを見つけ、憤慨する。 だが、この地の黄巾の勢力は、簡擁が読んだように小規模どころの話ではなかった。 しかも、党首たる張家の3姉妹が揃い踏みしているとあっては、100や200の義勇軍では相手にもならない。 劉備たちに出来るのは、この事実を太守に知らせ、官軍の被害を最小限に食いとどめることだ。そして、一刻もはやく黄巾の乱を終わらせ、奴隷たちを解放してあげること、それだけだった。 それだけだったのだが……「愛紗、鈴々……」 劉備は、懇願するような視線を妹たちに向ける。 その意図は、2人にもはっきりと伝わった。 関羽と張飛は、困惑した顔を見合わせる。いかに彼女らが勇武を誇ろうとも、数百、数千の敵軍の波を押しとどめることはできない。今、この場で動けば、間違いなくそういう事態になってしまうだろう。 それは、劉備とてわかっていた。 わかってはいても、目の前の光景を見てしまった以上、何もせずにここから立ち去ることは出来なかったのだ。 関羽は、劉備を説得しようと口を開きかけ……結局、何も言えず、最後には小さく微笑みをこぼした。「そうですね。姉者がそういう方だからこそ、私と鈴々は、姉者についていくと決めたのです。全ての民を解放することはできませんが、出来るかぎりは助けましょう」「うん、鈴々に任せておくのだ! 黄巾の奴らなんか、敵じゃないのだ!」「こら、鈴々! 声が大きいぞ。我らは敵中にいるのだぞ?!」 関羽の叱責に、張飛はぺろっと舌を出して謝った。「ごめんごめん、忘れてた」「まったく、お前というやつは……だが、今はともかく、彼らをいかに逃がすか、ですな。なにはともあれ、簡擁殿に連絡して、義勇軍を連れてきてもらいましょう。さすがに我らだけでは、何も出来ませんから……」 関羽がそこまで言いかけたとき、3人の耳に悲痛な声が飛び込んできた。 それもすぐ近くからだ。 咄嗟にそちらに駆け寄った3人が見たのは、鞭を持った男と、その前に蹲る2人の少女だった。 何が行われたのか。何が行われるのか。誰の目にも明らかだった。 鈴々が、幼い顔に怒りの表情を浮かべて、その場に飛び込んでいこうとする。 だが、関羽は鎮痛な表情で、それを押しとどめた。(何をするのだ、愛紗! 止めないと、あの子たち、大変な目に遭うのだ!)(わかっている! だが、ここで私たちが飛び込めば、私たちだけではなく、姉者も危険にさらされるのだぞ!) 関羽とて、張飛の行動を止めたくはなかった。関羽と張飛だけならば、多勢の敵に囲まれても、わが身を守ることくらいは出来ただろう。 だが、もう1人。劉備の武勇は、2人に遠く及ばない。否、2人どころか、そのあたりの兵士にさえ及ばないかもしれない。 それを知るからこそ、関羽は、敵情視察に劉備が同行することに反対したのである。 だが、危険を関羽たちにゆだね、1人、安全な場所にいるなど、劉備に承知できるはずもなく、結局、3人そろって、この場所に来ることになったのである。 そのことは、劉備自身も自覚するところだった。 自分が足手まといになっているということ。それが、こんな形で関羽たちの行動を束縛することになるとは思いもしなかった。 自分の迂闊さと、それがもたらそうとしている結果に、劉備の顔が青ざめる。 少しでも役に立てれば、と思ってやってきたのに、関羽たちの足を引っ張り、挙句、あの少女たちを見捨てることになるのだろうか。 そんなことは駄目。 そんなことは許されない。 たとえ、ここで自分が傷つき、倒れることになってもかまわない。 今、目の前で行われようとしている暴虐を止めることが出来ないような人間に、幸せな世の中などつくれるはずはない! 前に飛び出そうとする劉備。 それを察して、関羽と張飛が慌てて止めようとした、その瞬間。「何をしているッ?!」 その声は、劉備の耳に、落雷のごとき衝撃と轟音をともなって響き渡った 振るわれる暴虐。 止められない自責。 そして、現れた防ぎ手。 それは、いかなる奇跡であったのか。「官軍だ! 官軍が攻めてきたぞーー!!」「総員、応戦するのだッ! 急げ急げー!」「み、みなさん、奇襲ですよー。急いで逃げてくださーい!」 関羽と張飛は、叫びながらも次々と矢をつがえ、放っていく。 2人の強弓は、次々と黄巾の兵士たちを射抜き、物言わぬ躯へと変えていく。 ちなみに、劉備は関羽に弓を持たせてもらえなかった。「姉者が射ると、彼女たちに当たってしまいかねません」 申し訳なさそうにしながらも、関羽はきっぱりとそう言い切ったのである。 劉備はそれを否定できなかった。「うう、なら、せめて声だけでも出します!」 そういって、混乱を助長させるために、偽の官軍情報を叫び続ける劉備。 もっとも、黄巾賊は、すでに自分たちで勝手に混乱を広げており、劉備の叫びは、あんまり効果がなかったりするのだが、本人は気づいていない。 だが、劉備の叫びは別の効果を発揮した。 逃げ出した少女たちが、劉備の声を辿ってこちらにやってきたのだ。 後に、こっそり朱里と雛里、そして一刀は声を合わせて、劉備たちのもとへやってきた理由を口にした。『桃香の声が、あからさまに不審だったので』 と。 朱里と雛里を連れ、おれは矢を放っていると思われる人たちがいる方向に駆けてきた。 敵の敵は味方、というわけではない。本来なら、さっさと陣地から抜け出すべきだった。 だが、ひっきりなしに聞こえてくる、どこか気の抜ける警告の声が、そういった警戒心を鈍らせてしまったようだ。 少なくとも、黄巾に味方する人ではあるまいと思い、おれは、その場所へとたどり着き。 そして。「きゃッ?!」「わッ?!」 その場に飛び込んだ瞬間、1人の少女と正面からぶつかる羽目になった。 勢い良く飛び込んできた為、咄嗟に止まることができず、そのまま少女を押し倒すような格好になってしまう。 地面に倒れる寸前、少女の腰を抱えるようにして、なんとか互いの身体の位置を入れ替え、少女を下敷きにすることだけは危うく避けたが、お陰で受身もとれずに、まともに地面に身体を打ち付けてしまう。「ッ痛?!」「あ、わ、きゃあ、大丈夫ですか?!」 目を閉じて、痛みを堪えるおれの身体の上で、何やら慌てふためいた声が途切れ途切れに聞こえてくる。 何やら柔らかい感触が繰り返し胸のあたりに感じられたが、それは気にしちゃいけないと言い聞かせる。「あ、あの、あのですね」 おれの身体の上にいる少女が、申し訳なさそうに声をかけてくる。 なんだろうか、と不思議に思って目を開けてみると、ほとんど目の前に、可憐な少女の顔があった。「うおッ……って、痛?!」「きゃあ、だ、大丈夫ですか?!」 おれは咄嗟に顔を離そうとするが、当然ながら、地面にもぐれるはずもない。 もろに後頭部を地面に打ちつけてうめくおれに向けて、少女は心配そうに声をかける。 おれは痛む部位をおさえるために、両手を頭の後ろにまわし。 そこでようやく、少女の腰を掴んだままでいた事実に気がついた。 つまり、おれはこの少女を抱き寄せたまま、地面に転がりこみ、その手を離そうともしなかった不埒者というわけである。 ふと。 おれは背筋をはしる悪寒に気づく。なんというか、爺ちゃんが10人集まっても、ここまでにはなるまいと思えるような必殺の気配が濃厚に漂っていた。 おそるおそるそちらに目を向けると、手に青龍刀を持った、なんかすごい鋭い目つきの少女が、おれの顔をじっと睨みすえていたのである…… 劇的といえば劇的であったが、感動やら運命的やらという単語とは全く無縁の、それがおれと劉備、関羽、張飛ら中国史上に名高い英傑たちとの最初の出会いであった。