「本当によろしいのですか?」 周りに馬を並べる兵士たちに、太史慈は困惑しながら問いかける。 兵士たちは、太史慈とは立場が違う。太守の許可を得ずして城外に出るのは、紛れもない軍令違反である。下手をすれば、死罪になりかねない重罪だ。 だが、それを知ってなお、兵士たちの行動は変わらない。「そもそも、我らが至らないばかりに、北海は滅亡寸前まで追い詰められているんだ。その危機を救おうとする君に、協力するのは当然だろう」 先刻、太史慈の祖母に一喝されたその兵長は、長い篭城の心労でやつれた顔に、かすかに苦笑を浮かべる。「君のおばあさんの言っていた通りだよ。何もしようとしない者が、何かをしようとする者を止めることはできない。まったく、返す言葉がなかったな」「す、すみません。祖母が失礼なことを……」「なに、おかげで自分たちのなすべきことがはっきりわかったんだ。感謝こそすれ、怒る筋合いはないさ」 兵長の言葉に、周囲の部下たちも、それぞれに頷いた。 恐縮する太史慈を見て、兵長は強面な顔に、意外に柔和な笑みを浮かべた。「しかし、お嬢さん、随分、豪壮な弓を持っているが、失礼だが扱えるのかい? いや、君が弓馬の扱いに優れているのは、馬の乗り方を見ればわかるんだが、少し君には大きすぎないかな」「そう見えますか。私としては、むしろ重さといい、大きさといい、丁度良いくらいなんですけど」「ほう……」 言葉どおり、兵長は太史慈の外見や性別に相応しからぬ実力を、察してはいた。 だが、首を傾げつつ、傍目にも重量のあると思える豪弓を軽々と扱う少女を見て、自分が彼女をまだ見損なっていたことに気づく。 それに――「どのみち、今更言っても手遅れかな」「はい、そのようです」 2人の視線が、群がる黄巾党の陣容に向けられていた。 包囲軍の間隙を縫う形で馬を進めてきた太史慈たちだったが、これ以上の接近は、確実に相手の警戒網に引っかかってしまうであろう。いよいよ、本当の意味での脱出の難事が始まろうとしていた。 当初、太史慈は黄巾党の兵のふりをして、行けるところまで行こうと考えていた。黄布を頭に巻けば、連中は敵味方の区別はつけられないだろうと、そう考えたのである。 だが。「私のような若輩が考え付くということは、他の誰でも考え付くことだと気づいたのです。黄巾党が、その備えをしていないとは思えません。現に、これまで包囲を抜け出た人がいないのならば、なおのことです」 太史慈の言葉に、兵長は難しい顔で頷いた。「確かにそうでしょうな。では……」 降伏を装うか。あるいは、この10人の集団を囮と本隊に分けるか。兵長の頭に様々な考えが過ぎる。ただ1人でも、黄巾党の包囲を突破出来れば、それで良い。そのために犠牲になる覚悟は、あの烈女に一喝されたときから、出来ていた。 だが、そんな兵長の決死の覚悟をよそに、太史慈はきっぱりと言い放つ。「そうです。小細工はいりません。正面突破、あるのみです」「……は?」 思わず、間の抜けた顔をしてしまう兵長であった。 姿を隠すこともなく、堂々と城の方向から、馬を進めてくる集団を見ると、咄嗟に黄巾党の兵士たちは、自分たちの得物に手を伸ばした。 だが、武装しているとはいえ、相手がこちらと戦おうとする素振りさえ見せないのを見て、首を傾げる。「おい、なんだと思う?」「さてな。城側からの使者か、もしかしたら、降伏かもしれん。ただ、そう見せて突破しようとしてくる可能性もある。十分、注意しろよ」「おうよ。折角の勝ち戦だ、死んじまうのはもったいないからな」 言いながら、兵士たちは、声高に呼びかけを行う。「そこの奴ら、止まれ! ここから先に踏み込めば、死あるのみぞ。何ゆえにここに来たのか、目的を言えッ!」 だが、制止の声にも関わらず、相手は止まる気配を見せない。 ただまっすぐにこちらに向かってくる相手の様子に、黄巾党の兵士たちが武器を抜こうとする、その刹那。「あなたが、この部隊の長ですか?」 はじめて、敵の先頭を歩く者から声がかけられた。 その声が少女特有の高い響きを帯びていたので、戦意を高めかけていた兵士たちは、気組みを挫かれ、顔を見合わせる。 声をかけられた長が、訝しげに口を開いた。「いかにもその通り。重ねて問うが、何用か。使者ならば、話を聞くのは降伏のみだぞ。助命も、和平も、我らはいずれも受けることはない」「使者ではありません。訊きたいことがあるだけです」「ほう、それはかまわんが、見逃せというのは聞けぬぞ。ここより先を通ることに関しても――ここから後に引き下がるに関してもだ!」 長の言葉とともに、周囲の兵士たちは散開し、少女らを取り囲む。少女たちが、城に引き返そうとしても、逃がさないように。 少女――太史慈は、周囲を取り囲まれたことに動揺することなく、淡々とした口調で問いを続ける。「あなたにお子さんはいますか? 親や兄弟はいますか?」「む? それはもちろんいるが、それがどうしたのだ。まさか、家族のために、人殺しなどやめてくれ、とでも言うつもりか?」 あざ笑うというより、むしろ苦笑に近い表情を浮かべた長に、太史慈は首を横に振る。「では、部下の方にお願いいたします。ご家族の方に伝えてください。父を、子を、兄弟を殺した者の名を」 「我が姓は太史」 家宝の弓を構える。半瞬にも満たぬ間に。「名は慈」 矢を番える。刹那のうちに。「字は子義」 弦を引く。強弓が、瞬く間に満月の如く引き絞られる。「これより、あなたたち黄巾党の陣、押し通らせていただきます!」 放たれた矢は、狙い違わず、敵兵の長の眼窩に突き刺さり、瞬時のうちに、その頭蓋を打ち砕いていた。 太史慈のあまりの早業に、一瞬、黄巾党は何が起きたのかを理解できず、空白の時を招く。 どさり、と奇妙に軽い音がしたのは、馬上からくずれおちた敵の長の身体を、地面が受け止めたためだった。 その音で、周囲の情景が、音を立てて動き出す。 ようやく事態を飲み込んだ黄巾賊が、怒りの声を挙げ、武器を振り上げて殺到してこようとする。 だが、その間に、すでに太史慈は二の矢を番え終えている。おそらく副官だと思われる長の傍らにいた兵を、これも一矢で馬上から転落せしめると、馬を駆って、正面から突っ込んでいった。 そして、その後ろに孔融軍の兵士たちが続く。 太史慈たちはわずか10数名。とはいえ、すでに敵は包囲の形をとっていたので、正面の陣容は薄い。まして、太史慈の早弓の腕前を見せつけられ、明らかに怯む色を見せている。 迷うことなく突っ込んでいく太史慈たちとの気迫の差は、瞭然としていた。 ◆◆ 言葉どおり、正面から黄巾党の陣営に挑み、驚くべき馬術の冴えを見せて、敵陣を駆け抜ける太史慈の後ろに、かろうじてついていきながら、兵長は驚嘆の思いを隠せずにいた。 すでに、兵長の持つ鉄槌も敵兵の血で赤黒く染められているが、太史慈の矢が射抜いた敵兵の数は、兵長の比ではない。近矢、遠矢、いずれも必中。命は奪えずとも、確実に戦闘能力を奪う技量は、太史慈の年齢を考えれば、空恐ろしいほどであった。 だが、太史慈がいかに人並み外れた武勇を誇ろうと、少数での敵陣突破が容易く成る筈もない。何より、兵長自身を含め、太史慈の後ろに続く者たちは、そこまで並外れた技量を持っているわけではないのである。 どれだけ敵を斬り、突き、弾き飛ばしても、その向こうからは敵兵が群がるように沸いて出る。ようやく突破したと思えば、周囲からは、石や矢が間断なく襲ってくる。「……ぐあぁッ?!」 また1人。馬を射られ、落馬した味方の兵に、黄巾党の兵士たちが次々と襲い掛かり、その兵士は血塗れになって事切れた。 それを見た兵長が、奥歯を噛みつつ、こもった声で部下たちに問いかける。「何人、残っているッ?!」「半数よりやや上、というところです、武兵長」 答えたのは、これまで兵長の補佐を務めてきた副長格の男である。兵長とは長年の付き合いであり、沈着な性格をしていた。 その副長の言葉を聞き、兵長はやや意外さを感じた。「ふむ、まだそれだけ残っているか」「はい。ほとんと、あの少女のお陰ですが」 彼らの視線は、今も単騎で敵陣に穴を開けつつある太史慈に向けられている。矢が残り少なくなったことを考慮してか、すでに腰間の剣を抜き放っていた。 どうやら、少女は弓ほど剣が得手ではないようだが、それでも、その手腕は凡百の兵士が太刀打ち出来るものではない。少女の周囲に群がる黄巾賊らは、次々に血煙をあげながら、地面に倒れ伏していった。「……惜しいな。はじめから、あの少女を陣頭に据えていれば、黄匪など、とうに打ち破れていただろうに」「繰言を言っている場合ではありますまい、武兵長……いやさ、奉民殿。あの少女がいかに優れた技量を誇ろうと、体力が無限に続くわけではありません。女性、まして我らより年少の者に、このまま頼りきりとあっては、男として、年長者として、鼎の軽重を問われることになりましょうぞ」 それを聞き、兵長は小さく笑って頷いた。「わかっているさ。この鉄槌が飾り物ではないことを、黄巾党に教えてやろう」 言うやいなや、兵長は馬を駆って太史慈と並ぶ場所まで来ると、群がる黄巾賊に向けて、大音声で呼ばわった。「我が姓は武、名は安国、字は報民! 黄匪ども、貴様らを、この鉄槌を赤く彩る血糊にかえてやろう。命がいらぬ者からかかって来い!」 その名乗りに怒気を示した黄巾賊が数名、武安国に向かってくるが、巨大な鉄槌が一閃すると、まとめて吹き飛ばされてしまった。 その膂力に、隣で太史慈が目を丸くしている。 太史慈に向けて、にやりと笑いかけると、武安国は今度は自ら敵陣に向かって駆け出ていく。 それに並ぶように、太史慈も遅れじとばかりに馬足を速めた。「みな、武兵長と、子義殿に続けぇッ!」 副長の号令一下、生き残った兵士たちが雄叫びと共に、黄巾賊の陣営に踏み込み、そして斬り破っていった。 勇猛を以って鳴る青州黄巾党であったが、長く続く包囲戦の中で、戦意と緊張を常に維持し続けることは難しい。 まして、勝ち戦にある者は、勝利を味わいたいがために命を惜しむ。 太史慈の選択した正面突破は、勝利を間近にした軍勢の油断と、兵士たちのためらいを、これ以上なく的確に衝く結果となった。 命を惜しむ者たちに、命を惜しまない者たちが戦いを挑むのだ。その勝敗は誰の目にも明らかであった。 ◆◆ その報告が、北海城攻撃の総指揮官たる管亥の下に届けられたのは、太史慈たちが完全に包囲の網を斬り破ってからであった。「なんだとッ?!」 わずか10名程度の部隊が、それに数倍する死傷者を置き土産として、包囲を破ったと知らされ、管亥はつかの間、言葉を失った。「包囲を破った敵は、一路、西へと向かったとのことです。いかがいたしましょうか?!」 部下の問いに、管亥は我に返ると、怒声を張り上げる。「馬鹿者、早急に追撃せよッ! たかが10人如きに包囲を斬り破られるとは、なんたる失態だ!」「か、かしこまりましたッ」 尻を蹴飛ばされたように、部下はそそくさと管亥の前から姿を消す。「西、というと、やはり平原か」 管亥は小さく舌打ちした。 平原郡が黄巾党の手にあったのは、すこし前までのこと。 すでに大方たる波才は破れ、主力を失った平原郡の黄巾党は、なす術なく袁紹の軍門に下ったと聞く。 その後、袁紹は南皮へと戻り、領内の復興に力を注いでいるらしい。だが、北海の戦況が知られれば、その限りではないだろう。 並の諸侯であれば、反董卓連合から、黄巾党戦まで続く戦闘の連続に、財政は青息吐息の状態であろうが、袁紹ほどの実力の持ち主であれば、まだ府庫に余裕があってもおかしくはない。 袁紹に北海の戦況を知られることは、断じて避けねばならなかった。「仕方ない、か」 管亥は追撃部隊に、直属の精鋭をくわえるように命じ、さらには麾下の全軍に、再度、威令を徹底させる。「全軍に通達せよ。城内から外に出る者、城内に入ろうとする者、これ悉く殺しつくせ、と。近い日、北海城に総攻撃を行う。勝利を味わいたくば、あとわずかの間、奮励せよ!」「ははッ!」 部下たちが陣営の各処に散っていく様子を眺めながら、管亥は内心、これで良い、と自らの判断に頷いていた。 精鋭まで投じた以上、包囲を破ったという敵兵も、こちらの追撃から逃れることは出来まい。 また、もし仮に逃れたとしても、袁紹が話を聞かない可能性もある。さらに、もし袁紹が動いたとしても、こちらは2万を越える軍勢なのだ。また、それだけの軍勢を集めるには時がかかろう。 そして、北海城に、それだけの時間を稼ぐ力は、最早ない。 管亥の確信は揺らぐことはなく、それは――「申し上げます! 追撃部隊より、城外に脱出した敵兵を捕捉、撃滅したとのことです!」 その報告を受け、より確固たるものとなり、管亥の口許に笑みを浮かび上がらせるのだった。◆◆ 時を少し遡る。 敵包囲陣を斬り破った太史慈たちは、敵の追撃を避けるため、岩場の陰に隠れた。 その途端、積み重なった心身の疲労が、一斉に襲ってきたのか、兵士たちは次々に地面に膝をつく。その数は先の戦闘でさらに減り、すでに一行は、太史慈を含め、5名のみとなっていた。 武安国と副長は、その彼らに聞こえないよう、今後のことを話し合う。「やはり、袁紹か」「はい。青州の郡太守は、黄匪の武威に竦んでおります。平原の袁紹に助けを求めるのが1番でしょう。もっとも、それは敵とて承知しているでしょうが」 北海城は、1ヵ月以上に渡り、黄巾賊の完全な攻囲下にあった。その間の河北諸州の情報は、無に等しい。副長は、そこを危惧していた。「1ヵ月以上もの間、北海郡からの人の流れが絶えていたのです。不審に思われない筈はなく、周囲の城から偵察の兵の1人くらいは出ていなければおかしいのです。そして、その者の目に、2万もの大軍が映らない筈もない。しかし、結局、どこの軍も動きませんでした。あるいは、それどころではない事態が、河北では起きていたのかもしれませんね」 武安国は難しい顔で、腕組みをする。「とはいえ、のんびりと情報集めをしている時間はないぞ。すぐに追っ手もかかるだろうしな」「それはその通りです。ですが、道々、注意することくらいは出来るでしょう。万が一の話ですが、すでに平原が敵の手中にあるやもしれぬのです。注意するに越したことはありません」「わかった――が、それは子義殿に言うべきことだな」 武安国は、奇妙にさっぱりとした様子でそう口にした。 副長が何か口にしかけるが、片手をあげてそれを制する。「このまま、漫然と西へ向かうのは危険きわまりない。そうだろう?」「はい」「誰か1人でも、平原郡に辿りつけば良い。これもそうだな?」「はい」「であれば、もっとも可能性の高い者にその任を委ね、余の者はそのための布石となれば、より可能性は高まるだろう。何か間違ったことを言っているだろうか?」「いいえ、仰るとおりかと」 副長の返事に、武安国は満足げに頷いた。「民である子義殿に、官兵である我らが、何もかもを託すのは気が引けるが、あの者なら成し遂げてくれるだろう。北海城の兵士の底力、黄巾党に見せてくれようぞ」 武安国の言葉に、少しだけ間を置いて、副長は小さく頷いた。 幾重にも張り巡らされた、敵包囲部隊を斬り破ること3度。 さすがに心身に疲労を覚え、膝をついて休息をむさぼっていた太史慈は、武安国らの提案に声を失った。「しかし、それでは、皆さんが……」「なに、我らも死ぬつもりはありません。適当なところで逃げますから、心配はいりませんよ」 太史慈の言葉を先回りして、武安国はからからと笑う。「子義殿はわき目も振らず、北に向かっていただければよろしい。適当なところでまっすぐ西へ向かえば、ほどなく袁紹殿の領内です。袁家の精鋭をもってすれば、黄巾党を討ち果たすことは容易いでしょう。我らはその為の囮となる。得られる成果を思えば、黄巾賊に追われる危険など、やすいものです」 武安国は、意図的に楽観を述べているが、太史慈とて、事態がそんなに簡単にいかないであろうことはわかっている。 一度は突破された黄巾賊とて、今度は死に物狂いで追撃してくるだろう。その追撃から逃げることは容易くはあるまい。 だが、同時に武安国らが語った作戦が、もっとも可能性の高いものであることも、太史慈は理解できていた。感情的に納得出来るものではなかったが……だからといって、ここで感情のままに反対意見を述べたところで、事態は悪化するばかりである。 そしてそれは、太史慈たちのみならず、北海城の官民すべての命に関わってくるのだ。 太史慈は、しばしの沈黙の後、ゆっくりと首を縦に振る。「ご納得いただけたか。では、すまぬが、その甲冑を頂けまいか。さすがに貴殿の武勇は目立つゆえ、その姿がないとなれば、黄巾賊も不審に思おう」 その言葉もまた、反論の余地がないものだった為、太史慈は素直に頷いた。祖母が用意してくれた大切な甲冑ではあるが、こういう事情なら、祖母も許してくれよう。それに、命以外は何一つ惜しむな、と言って送り出してくれたのは、他ならぬ祖母なのである。 生き残りの兵士の中で、もっとも小柄な兵士が、太史慈の代わりに甲冑をまとう。その兵士は、髪の色も目の色も、太史慈とは異なったが、これはもうどうしようもない。 その時、まるで太史慈たちの準備が整うのを待っていたかのように、遠くから馬蹄の轟きが、かすかにこの場まで響いてきた。 黄巾賊の追っ手であることは、確かめるまでもない。 武安国が、愛用の鉄槌を持って、太史慈に向かって深く頭を下げる。「子義殿。短い間ではありましたが、貴殿ほどの勇士と戦場を共に出来たことを誇りに思います。北海城の命運は、貴殿の手に委ねられる。かような責任を、年若い貴殿に押し付けるのは気が咎めるのだが、何卒、よろしくお願いする」 兵長の言葉に、部下たちが一斉に揃って頭を下げる。 太史慈は、それに対し、ただひと言だけで応えた。「はい」 武安国は、その短い返事に破顔すると、踵を返す。「では、これに……」 て、と言おうとした武安国。振り向きかけたその隙を見計らったかのように放たれた重い拳の一撃が、甲冑の隙間から、武安国の腹にめりこんだ。「がぁッ?!」 予期できる筈もない一撃を受け、武安国はたまらず、膝をつく。「……な、おま……え」 急速に薄れいく意識の中、武安国の視界は、拳を構えながら、何故だか穏やかな表情を浮かべた副長の姿を捉えていた。◆「さて、では兵長の鉄槌は、私が持っていかせてもらいましょうか」 まるで何事もなかったかのように、平然とそう口にする副長に、太史慈は目を丸くする以外のことが出来なかった。 そんな太史慈に向かって、副長が、やはり穏やかに語りかける。「子義殿」「は、はい?」「先の武兵長の言葉は、まぎれもなく我ら全員の思いです。しかし、もう1つだけ、いや、2つだけ、貴殿の重荷の荷物を増やさせてもらいたい」「それは……」「お察しのとおり。目を覚ませば、怒り狂うに違いない武兵長をなだめてあげてください。そして伝えてほしいのです」 副長は一度、言葉を切り、地面に倒れこんだ武安国に語りかけるように、口を開いた。「子義殿と同じく、武兵長……報民殿もまた、これからの中華に欠かせぬ御方と、我ら配下一同、ずっと考えておりました。最後の無礼は許さずとも結構です。ですが、どうか御命を大切に。この言葉だけは、お守りくださるように、と」 瞳に悲しみを湛えつつ、小さく、しかりはっきりと頷く太史慈に、副長はもう一度、礼を言うと、今度こそ踵を返した。後ろにいた兵士たちが、一斉にそれに倣う。 たちまちのうちに馬上の人になった彼らが、馬を駆けさせる寸前、副長が思い出したように、口を開き、最後の言葉を発する。「そうそう。もう1つだけ。報民殿に、酒は控えめになされよ、とも付け加えて置いてくださいッ!」 言うや、弦から放たれる矢のように、みな、一斉に駆け出していく。 太史慈は、胸に手をあて、そっと瞑目した。 去り行く彼らの武運を、天に祈るために。 だが、その祈りが通じぬであろうことも、太史慈には何故だかわかってしまった……