城全体がお祭り騒ぎに包まれた明くる日。 すでに城内の各処では、戦後の後始末が始まっている。城壁の修復をはじめ、この戦乱で家や田畑を失った人たちに、とりあえず当面暮らすことの出来る仮の住居を用意する等に関しては、元黄巾党の面々に頑張ってもらうことになった。 実際、彼ら自身にも必要なことであったから、異論は出なかった。むしろ、黄巾の乱さえ起こらなければ、真面目に働いていたであろう人たちも多く、戦いよりもこちらの方が向いているかもしれない。 度重なる戦闘によって、負傷、あるいは戦死した者たちへの対応も欠かせない。 ことに、大清河の戦いでは、敵、味方ともに多数の死傷者が出たため、県城には傷病兵が溢れている状態だったのである。 軽い怪我? つばでもつけときなさい! 骨が折れたかもしれない? うわ、ほんとだ。あっちにお医者さんがいるから、並んで待っててください。 腕が使い物にならない?! そっちの人は足?! おーい、憲和殿、障害の表にこの人たちを追加しますよ。皆さん、後で担当から話がありますんで、あちらでお待ちください。足が悪い人は一緒に行きますので、ちょっと待っててね。 と、まあ、そんな感じである。やってることは、病院の受付みたいなものだった。 傷病兵の対応が一通り終わると、今度は戦死者の埋葬が待っている。敵味方を含め、数多く出た戦死者の埋葬は、大変な労力が必要となった。 おれも2日間にわたった作業に参加したのだが、正直、当分、肉は食べられそうにない。さすがに、もう何度もこういった作業をこなしていたから、青くなって倒れたりはしなかったが、慣れを感じることは、きっと一生ないに違いない。 当然といえば当然だが、この時代に、しっかりとした社会保障の制度なんぞあるわけもなく、兵士としてやっていけないほどに重い怪我を負った場合、補償もなくお払い箱になることもめずらしくはない。戦死した兵士の家族に、その報告がいかないということもざらだった。 だが、劉家軍に関しては話が異なる。玄徳様はそういったところをおろそかにすることはなく、戦後の補償も出来るかぎり、丁寧に、真摯に行っており、そういった行動が、また兵士たちの忠誠心を高める結果にもなっているのである。 だが、今回の戦いに関して言うと、文字通りの意味で、これまでとは桁が違った。 劉家軍に属する兵士のみに限定するなら、何とかなりそうだったが、元黄巾党の方まで目を配るとなると、完全にお手上げ状態である。ぶっちゃけ、金がないのだ。先日、玄徳様が趙雲に断言したように。 本来であれば、こういう時は太守が責任を以って官庫を開き、行動すべきなのだが、あいにく、今の琢郡には太守が不在である。 袁紹軍からの情報によれば、なんでも劉焉は、とっとと琢郡を見限って太守の地位を返上し、朝廷に出入りしているとか。 地位に伴う責任というものを、関羽あたりに小一時間、説教してもらいたいもんである。 ともあれ、そういったわけで、官庫は開けない。城内では、すでに玄徳様を太守に、という声が、誰はばかることもなく挙がっており、玄徳様自身がその気になれば、太守の座に座ることも可能であったろう。 だが、玄徳様は、名分なき統治は、戦の火種となりかねないと心配されており、周囲の薦めに軽々と応じようとはしなかった。 ならばいっそ、朝廷に使者をおくって、琢郡太守の地位を願ってみようか。幸い、元劉焉配下の鄒靖殿などもいることだし。 おれたちが、玄徳様に聞こえないところで、こっそりそんなことを話し合っているとき、一騎の早馬が、県城の城門を駆け抜け、城内に報告を届けてきた。◆◆「あ、伯珪、良かった。無事だった……んきゃあッ?!」 あ、玄徳様が公孫賛に吹っ飛ばされた。「と、桃香様ッ?!」「げ、玄徳様、大丈夫ですかッ?!」 慌てて、関羽と諸葛亮が玄徳様の傍に駆け寄っていく。「うー、膝すりむいたー」 玄徳様が涙目で痛みをこらえている。 一方。 玄徳様を突き飛ばした(多分、本人にその意識はないのだろうが)張本人である公孫賛は、荒い息をつきながら、一直線におれの下までやってきた。 のみならず、おれの肩をむんずと掴むと、何やら血走った目で、顔を覗き込んでくる。「は、伯珪様?」 おれは鬼気迫る公孫賛の様子に、しり込みしつつ、肩の手をどかそうと試みる。しかし、よほど興奮しているのか、公孫賛は巌のような力強さで、おれの肩をがっしりと掴んでおり、容易に離れそうになかった。関羽たちには及ばないにせよ、公孫賛はれっきとした武将であり、当然、膂力も強い。肩から、みしみしと音が鳴る。普通に痛い。 おれがそんなことを考えていると。 それまで、荒い息をつくのみで、ひと言も発しなかった公孫賛の口から、はじめて人の言葉がもれ出てきた。「……北郷」「は、はい、なんでしょう?」 おそるおそる問い返すおれに――なんと、公孫賛はいきなり、満面の笑みを浮かべて抱きついてきた。「……はッ、は?!」 あまりにも予想外の事態に、おれは「伯珪様」と口にすることさえ出来なかった。 そんなおれに向かって、公孫賛は興奮したように、顔を真っ赤にして、叫んだのである。「お前は、天才だッ!!」 ――とりあえず、皆が落ち着くまで、しばらく時間がかかった、とだけ言っておこう。 ようやく落ち着きを取り戻した公孫賛が、それでも、まだかすかに頬を紅潮させながらも口にした言葉は、おれにとって拍子抜けするものであった。 反董卓連合に参加する際、易京の馬具職人に注文していた鐙(あぶみ)が完成した、というのである。「……ああ、そういえば」 そんなものも頼んでいたな、というのが正直なところだった。 戦いに次ぐ戦いで、すっかり頭から抜け落ちていた。これで、多少、馬に乗るのが楽になると思えば嬉しくないことはないが、しかし、それと先の天才発言がどう結びつくのだろう。 おれがそんなことを考えていると、公孫賛はきっぱりと断言した。「北郷、お前、自分が空前の発明をした自覚はあるか? おそらく、この一事だけでも、お前の名前は歴史に残るぞ」「はッ?!」 あまりにも予想外の言葉に、おれは目を丸くする。 周りで聞いている玄徳様たち――先の公孫賛の行動のせいで、まだ目が冷ややかだった――も、公孫賛が何を言っているのか、よくわからないようだ。 そんなおれたちの様子をもどかしげに見ていた公孫賛は、乱暴におれの手を掴むと、厩舎の方向に大またで歩き出した。 ちなみに、元々、この時代にも鐙というものは存在した。 ただ、それは鞍に乗り易くするためのもので、鞍のいずれか片方に、鉄の輪をぶらさげておく程度のものだったそうな。 だが、おれの依頼を受けて職人がつくったものは、鞍の両方にきちんと輪が下がっており、その形状は、半月形となっている。 足を差し込む易いよう、かつ落馬した時に足が抜け易くするための工夫であった。 発明というよりは、既存品の改良と言った方が正解だろう。 おれとしては、多少は乗り易くなるだろう程度にしか考えていなかったのだが――「何を言ってるんだ、おまえは」 公孫賛に、思いっきり呆れられました。「多少どころじゃないぞ、これ。最初、職人から見せられたときは、頭の上に雷が落ちたかと思ったほどだ」 易京城内での反乱を、一日経たずに鎮圧した公孫賛は、その後始末と、残党の有無を確認するため、身動きがとれない状況になっていたらしい。そんな時、職人の1人が、太守様へ、とおそるおそる鐙を持ってきたのだそうだ。 騎兵の習熟度をあらわす1つの境目は、騎射が出来るか否かである。 これが出来ないようならば、どれだけ馬を自在に駆れても、一人前とは認めてもらえない。任務といっても、伝令や偵察として用いられるくらいである。 弓矢は両手で扱うものだから、騎射するときは足で馬体を挟み込み、馬を御さなければならない。馬が足を止めている間ならばまだしも、疾走中にそれをやるのがどれだけ難しいかは、少し想像してみればわかるだろう。 北方の騎馬民族の戦闘における強さの1つ。それは、彼らのほぼ全員が、騎射を当たり前のように行うことが出来る点に求められる。 騎射を行えない者は、狩で獲物をとることすら難しい。彼らにとって、乗馬も騎射も、出来るようになりたい、では済まされない。出来なければ、飢えて死ぬしかないのである。自分も、そして家族も。 そして、彼らはそれを日常の1つとして行うがゆえに、習熟度は、漢族のような農耕民族の比ではない。 中国4千年の歴史という。 その歴史にあって、塞外の騎馬民族を相手として、勝利を得た人物は少ない。 漢代に限って言えば、有名なところでは、前漢の李広、衛青、霍去病。後漢の班超などの名が挙げられる。多分、史実に詳しい人ならば、もっとたくさん挙げられるだろう。 彼らはいずれも、その一事を以って勇将としての名を轟かすに至っている。 それは言い換えれば、それだけ彼らが破った敵が強大であり、精強であることの証左ともいえるだろう。弱い、無能な敵に勝っても、栄誉は得られないのである。 後に、騎馬民族の国そのものを制してのけた唐代の李靖などは、その筆頭とも言えるだろうか。 ともあれ、騎馬民族の存在は、それだけ恐れられており、その騎馬民族を制した公孫賛の白馬部隊は、全員が騎射を行うことが出来る兵たちで構成された精鋭部隊であった。 その精鋭の証たる騎射の難易度を大きく下げたのが、おれの注文した鐙なのだと、公孫賛は言う。 実際、馬には乗れても、騎射は行えない、という者たちに試させたところ、その半数以上が不恰好ながらも、なんとか騎射を行えるようになったという。おそらく、訓練を経れば、残りの者たちも遠からず騎射が出来るようになるだろう。 それどころか、見習いレベルの兵士たちの中でも、筋の良い者は騎射が出来るようになったりしたらしい。 それはつまり、たった一つの道具によって、公孫賛の軍勢は、飛躍的に強化されたということ。鐙の制作費を考えれば、それによってもたらされる効果は破格といえる。 さらに、その強化は一時的なものではなく、今後も永続的に続いていくのである。 公孫賛をして、天才と叫ばしめた理由が、ここにあった。◆ 百聞は一見に如かず。百見は一幹(実際にやること)に如かず。 そういうわけで、鐙を使って馬に乗ってみることになった。 極言すれば、鐙とは、馬上で踏ん張ることが出来るだけの道具なのだが、それがもたらす効果はかなり大きい。 元々、騎馬の術に優れていた者たちも、馬体を締め付けながら騎射するよりも、鐙に体重を預けて騎射した方が、命中率が高まることを実感したようである。 ちなみに、おれはというと…… ヒヒィンッ! と馬が高々と棹立ち、場上の人間を振り落とす。「うおぉぉッ?!」 間抜けな悲鳴をあげつつ、振り落とされるおれ。 ぬう、騎射どころの話じゃないなあ。やはり乗馬は難しい。まあ、それでも乗っていられる時間は確実に長くなっている。時間さえかければ、何とかなりそうではあるな。「これで7回目の落馬。おにーさんは、本当に馬に乗るのが下手ですね」「……別に数を数える必要はないと思うのですが、仲徳殿?」「いえいえ、己の至らなさを指摘されることも、成長の1つの手段ではあるのですよ?」「む、確かにその通りですね」「ついでに言うと、あと3回落ちると、稟ちゃんとの賭けは風の勝ちなので、頑張ってください」「励ましてるのか、落ち込ませたいのか、どっちだッ?!」 勝手に人を賭けの対象にしていることに、ひと言物申したいおれだったが、相変わらず程立には柳に風であった――別にうまいこと言ったなんて思ってません、はい。「ふむ。なるほど、ほんの一工夫で、これだけ効果があるとは驚きです」 一方の戯志才は、おれを振り落とした馬の鬣を撫でつつ、興味深そうに鐙を観察している。 眼鏡の奥の瞳が、きらりと光っているところを見るに、その言葉どおり、本当に驚いているようだ。 董卓から聞いたのだが、程立も戯志才も、鳳統たちの作戦をほぼ見抜いていたらしい。それだけの策士に感心されるというのも、なかなか乙なものだった。「公孫伯珪殿は、元々、塞外の騎馬民族との戦いで勇名を馳せた方。騎馬部隊の強化に直結する物が得られれば、褒賞もさぞ気前良く払うだろう、と思っていたのですが、なかなか味なものを頼まれたものです」 戯志才は小さく微笑みつつ、おれの顔を見やった。 鐙開発の褒賞を問われ、おれが何を望んだのかを、すでに聞いているのだろう。「玄徳様たちにも言われたんですが、そんなに意外ですかね。物ではなく、人を欲したのは?」 簡潔に言うと、調教と牧畜の玄人をくれ、と頼んだのである。無論、永続的に。なので、独り身限定である。 別に奇をてらったわけではない。金銭や軍馬を望んでも良かったのだが、公孫賛とて、反董卓連合やその後のいざこざで、かなり懐はさびしいだろう。であれば、物ではなく、人を望むのが良いと思っただけである。 ちなみに、おれの言葉を聞いた瞬間、公孫賛の顔は盛大に引きつっていた。 これも当然といえば当然で、軍馬の増産や、その発育のノウハウは極めて重要な軍事機密に属する。馬が戦力に直結する以上、それは当然のことであり、それに携わる人間を他者に預ける者などいる筈もない。 劉家軍は、今のところ公孫賛の客将であるが、やがて独立するのはほとんど既定のこと。公孫賛が、自軍の機密を、はいどうぞと渡すことにためらいを覚えるのはいたし方ないことだった。 とはいえ、ここで首を横に振ろうものなら、君主としての尊厳に関わる、と公孫賛は思ったのだろう。さすがに玄人は寄越してくれなかったが、見所があるという1人の見習いを劉家軍に譲ってくれた。 姓は田、名は豫、字は国譲。 おれより、多分、2つ3つ下だと思うのだが、丁重な物腰が印象的な少年である。 公孫賛の領内でも孝子として名高く、その評判を聞いた公孫賛が召出して、その下で学問を修めていた。その一貫として、馬のことも学んだらしいのだが、これがとても性に合っていたらしく、それからは更に熱心に軍馬に関する様々な知識を習得していったらしい。 長ずれば公孫賛配下の熟練者に迫る技量を持つに至るだろう、という公孫賛自身のお墨付きであった。 ただ、その瞳にやや力がなく、頬がこけて見えるのは、先年、流行り病で母を亡くしたからであるそうだ。「遼西にいれば、事あるごとに母を思い出してしまいます。しばらく、環境を変え、母の死の痛みが和らぐのを待ちたいと思っていたところ、伯珪様に今回のお話をいただき、喜んで志願した次第です」 おれたちに引き合わされたとき、田豫はそう言って寂しそうに微笑んだ。 ちなみに、田豫は見るからに紅顔の美少年といった風情の少年である。そこに陰のある雰囲気が加われば、これはもう騒がれないわけがない。不謹慎といえば不謹慎なのだが、張角や張宝などはきゃーきゃー言っていた。 しかし、本人はいたって生真面目な性質らしく、困惑した様子で助けを求める視線をおれに向けてきたりする。 うむ、ごめん、ぶっちゃけ無理です。内心で呟きつつ、おれがこっそり顔の前で両手をあわせると、泣きそうな顔になってた。うーむ、個性的な面子が揃うこの軍には、貴重な人材かもしれん。常識人、という意味で。 そして、常識人が苦労するのが、劉家軍の慣わしである。頑張れ、同士。頑張れ、おれ。 ◆「名声よりも民の幸せを願い、一時的な利を措いて、無形の可能性を得る。星殿が決断した理由、よくわかるように思います」 戯志才の言葉に、程立もゆっくりと頷いた。「そうですねー。この乱世に屹立する大樹の息吹を、確かに感じるのですよ。まあ、星ちゃんは劉佳さんのメンマも理由に含まれているでしょうが」「……メンマ?」 おれは、この状況で耳にするとは思っていなかった単語を聞き、目を点にする。 そんなおれに向かって、戯志才はため息を吐いた。「北郷殿も、遠からず知ることになると思いますよ。星殿は武人としては非のつけどころのない御仁なのですが、少々、なんというか、特殊なこだわりを持っているのです」」「どれだけ特殊かというと、星ちゃんにとって、幽州1州は、劉佳さんのメンマ一壷に匹敵する程度の価値しか持っていないというくらいに特殊なのです」「……そ、それは確かに特殊かも知れませんね」 おれは芸も無く、そう言うしかなかった。ほかにどう反応しろというのか。「そういえば……」 おれは気を取り直して、この機会に聞いておきたいことを口にしようとする。 戯志才と程立は、今後、どうするつもりなのか。 歴史どおりなら、2人は曹操に仕えることになるのだが…… 正直なところ、あの諸葛亮たちの作戦を、県城に居ながらにして見破るような人物が、曹操陣営に参加するのは勘弁してもらいたい。それも、1人ならず、2人も。 ただ、それはこちらの事情に過ぎない。2人が、玄徳様に仕える意味を見出せないようなら、無理強いするわけにもいかない。 それに、2人が曹操陣営に参加すれば、間違いなく曹操の勢力は飛躍的に強化される。内政でも、軍事でも。それは、曹操領の住民にしてみれば、願ってもないことに違いない。治安も良くなり、税も安くなり、戦で死ぬ人は減るのだから。今後、拡大の一途を辿るであろう曹操の勢力のことを考えれば、玄徳様に仕えるよりも、曹操に仕えた方が、結果としてより多くの人を助けることが出来るのである。 まあ、おれが色々考えたところで、事態は何も変化しないのだが。要は2人の気持ち次第である。 そう思って、おれがそのことを口にしかけた時だった。 慌しい馬蹄の音と共に、城内から、玄徳様のもとに報告が届けられる。 それは、平原郡を奪還し、冀州は南皮城に戻った袁紹からのもの。 今後の河北統治における話し合いの席に、玄徳様たちを招くので、ただちに南皮城まで参られたし、と権高に告げるものであった。 ◆◆ 冀州南皮城。 河北最大の商業都市であり、同時にあの波才軍の度重なる攻撃に小揺るぎもしない城塞都市としての面も持つ。 大諸侯である袁紹の本拠地ということもあって、治安の良さは特筆に価するもので、そのため各地から山海の物資が、南皮城には引きもきらずに集まってくる。 それを求めて人が集まり、その人を求めて、更に人が集まる。その循環は止まることはないとさえ思われ、南皮の人口は、河北のみならず、中華全土を見渡しても3本の指に入るほどであった。 その繁栄は、黄巾党の蜂起で途絶えたかに思われたが、袁紹軍によって黄巾党が駆逐されるや、再び人々は河北の野に溢れ出し、南皮はその中心として、めまぐるしく動き出そうとしていた。 活気を取り戻しつつある南皮城にあって、活気とは無縁の重苦しい雰囲気が立ち込めているのが、袁紹をはじめとした河北諸侯の集う会議の場であった。 その席に座るのは、袁紹とその麾下の文官たちを除けば、公孫賛と玄徳様、諸葛亮、張角、張宝、張梁の他、袁紹軍に協力した河北の諸侯数名のみである。 関羽と趙雲、そしておれは、かろうじて参加を認められたが、それは護衛役としてであり、発言権はない。関羽は玄徳様の後ろに、趙雲は公孫賛の後ろに、そしておれは張角たちの後ろに立つことになった。 正確に言えば、おれは遠慮したのだが、玄徳様たちに連れてこられてしまったのだ。 明らかに場違いじゃないかと思ったのだが、諸葛亮曰く「一刀さんの視点は、とても参考になるので、是非」とのこと。 どうも鳳統の一件以来、諸葛亮のおれへの評価はうなぎ上りのようだ。そこまで大したことはないんだが、しかし、期待されればやっぱり嬉しいもの。期待を裏切らないように頑張るとしよう。 ちなみに、諸葛亮の参加は、向こうの軍師の田豊が、是非に、と望んだそうである。 予想通りというべきか。 会議の席で語られる内容は、ほぼ袁紹側による一方的な通達に終始し「会議」と呼べるような要素はほとんどなかった。 最も大きな兵力を持ち、最も大きな手柄をたてたのが袁紹軍である以上、それはある意味、当然のことであったかもしれない。諸侯の多くは、今回の戦によって、袁紹軍が被った被害に対して、多額の物資を供出することを約束させられていたが、諸侯たちは苦い顔をしつつも、それに逆らうことはしなかった。 そして、いよいよ本題となる琢郡の始末に話が及ぶ。 当初、袁紹軍軍師 田豊が示した案は、玄徳様を琢郡太守とし、幽州を統べる州牧に袁紹を据える、というものだった。劉備軍の軍功に報いると共に、それごと袁紹の勢力に加えてしまう、というわけである。 当然、異論は出た。 今回の戦いにおける劉備軍の活躍は、すでに多くの者たちが知るところとなっている。しかし、これまで公孫賛の客将に過ぎなかった無官の女性を、一躍太守に抜擢するのはいかがなものか、と。 しかも、袁紹が幽州の牧となれば、冀州を含め、河北4州の半ばが袁紹の領土となってしまう。他の河北の諸侯にとって、はいそうですか、と了承できることではなかった。 公孫賛にしても、玄徳様の琢郡太守はともかく、袁紹の幽州牧就任は肯うことはできなかった。それは、事実上、公孫賛が袁紹配下になることと等しいからである。 とはいえ、今回の黄巾党蜂起において、劉備軍と袁紹軍がいなければ、河北は黄巾党の一党に蹂躙されていたであろうことは、衆目の一致するところ。劉備軍は公孫賛の客将であるが、公孫賛の軍自体は、実質的に参戦したとは言いがたい。 であれば、その2つの軍が共に利益を得るのは当然であり、何の功もない者たちが、それを妨げることは難しい。 下手に反対を貫けば、最悪の場合、2つの軍を同時に相手とることになりかねない。そして、この2軍を相手に勝利しえる勢力など、今の河北のどこを探してもいる筈はなかった。 おれは内心、目を瞠る思いだった。 言うまでもないが、この流れは玄徳様にとっては福音である。尉だの、県令だのではなく、いきなり太守である。袁紹麾下、というところがネックといえばネックだが、公孫賛との紐帯をしっかりとしておけば、いざという時にも対応出来るだろう。 もっとも、今後のことを考えると、素直に喜んでばかりもいられない。 確実に袁紹は曹操と敵対することになるだろうし、実戦となれば、袁紹は間違いなく、玄徳様や公孫賛を前線に据えようとするに違いない。 そして、おそらくそこまで田豊は見据えている。 袁紹は、一介の義勇軍に対しても、功績にはしっかりと報いるという公平さを示した上で、なおかつその戦力を有効に、ある意味で狡猾に自軍に組み込もうとするやり方は、流石に音に聞こえた田元皓と言えた。「では、皆様方、ご異存がある方はおられようか? ご異存ある方がおられぬようであれば、ただちにこの結論を朝廷に奏上し、劉玄徳殿の琢郡太守、並びに本初様の幽州牧の任の裁可を得ようと存ずる」 田豊はそういって、対面に座した諸侯たちの姿に視線を注ぐ。列席した者たちの表情は、納得と不服が相半ばするものであった。 だが、積極的に異論を口にして、袁紹軍の不興を買おうとする者はいそうにない。 そう判断した田豊が、口を開く。「では、これにて――」「お待ちあれ。まだ、1つ、討議すべきことが残っているでしょう、元皓殿」 田豊の声を打ち消したのは、諸侯ではなかった。 田豊の隣に座す者――すなわち、同じ袁紹軍に属する文官である。 その文官の姓は郭、名は図、字を公則といった。「公則殿か。討議すべきこととは、何を指して仰られているのかな?」「無論、此度の乱の最大の元凶のことでござるよ、田軍師。むしろ、最も重要なこの議題を、何故に挙げられなかったのか、私にはそちらの方が不審に映りますな」 郭図の言葉に、一座の視線が一斉に1人の人物に向けられる。 その人物。 ――元黄巾党党首 張角のところへ。◆ 河北の諸侯たちが、何故張角のことに触れなかったのか。 それは、すでに劉備軍と袁紹軍の間で話し合われたと判断したからであった。だからこそ、この場に張家の姉妹が呼ばれているのだろう、と考えたのである。 だが、今、郭図の言葉で、諸侯はその考えが誤っていることに気づく。 その雰囲気を察した諸葛亮が、はじめてここで口を開いた。「それは、張伯姫さんのことを指して仰っておられるのでしょうか?」「然り、だ。そもそも、大賢良師などと称し、黄巾の乱を引き起こしたは、その女どもであろう。民衆を唆し、中華の各地に戦火と悲哀を撒き散らした者が、なぜこの場にのうのうと席を連ねておるのだ? そなた、劉備殿の軍師らしいが、さては劉備軍は、黄巾賊に与したのか?」 根拠なき誹謗に、諸葛亮の瞳に雷光がはしった。「それは邪推というものです。玄徳様と、その麾下の軍は、これまでも、そしてこれからも、民衆に害を為すことは絶対にありません。賊などと呼ばれる理由はどこにもない筈です」「これは口清く申すものよな。現に、そなたらは民衆に害を為した黄巾賊どもと手を繋いで、この場に座しているのではないか」 郭図の嘲弄に、袁紹側の人間の幾人かが同調するように笑い声をあげた。「黄巾の乱における張伯姫さんたちの責任を、すべて否定するわけではありませんが、黄巾党の軍権が大方たる3人にあったのは事実です。それは、超伯姫さんが離脱を宣したにも関わらず、10万を越える黄巾党の兵士が、大方側についたことからも明らかでしょう。そして、その10万を食い止めるために、張伯姫さんたちが戦ったこと。そして、彼女らのお陰で、大方波才の軍を食い止めることが出来たこと。この2つは天下に隠しようのないことです」 諸葛亮の懸命な抗弁に、今度は郭図ではなく、その隣にいた人物が口を開く。 姓は逢、名は紀、字は元図。「今、口にされたな。責任の全てを否定するわけではない、と。正しくその通り。軍権の有無など、蹂躙された民衆にとっては、何の言い訳にもならぬ。黄巾の乱における張角らの罪科は、ただ一度の勝利程度で償えるものではないわ」 逢紀の言葉に、郭図が間髪いれずに頷いた。「然り。ましてや、波才の軍を破りしは、我ら袁家の軍。そなたらは、ただその手助けをしたに過ぎぬ。その程度の功績で、天下の動乱を引き起こした罪が許されると知られれば、今度は、中華全土が無法者たちの手によって騒乱に包まれてしまうだろうよ」 郭図らの言は暴論というわけではない。 むしろ、正しい指摘と言っても差し支えあるまい。 これまで、袁紹側から、張角のちの字も出てこなかったから、正直、油断していた。本気で疑っているかどうかは別にしても、張角たちを取引材料の1つとして利用するつもりで、この場に呼んだのか。 そして、更に別の人物が口を開こうとした時だった。 冷静で、それでいて鋭利な口調で、張梁が袁紹の文官たちのさえずりを一蹴する。「得意げに正論を振りかざして、悦に浸っているところを申し訳ないのだけど。そもそも、あなたたち官の人間が、もっとましな統治を行っていれば、何の問題もなかった。そのことは理解しているの?」 張梁は、別に興奮しているわけではない。むしろ、その顔は冷ややかですらあった。その怜悧な視線が、郭図らを射抜くように見据える。「後漢の王朝の統治が、どれだけひどいものだったか、あなたたちは想像もつかないのでしょう。私たちの幼い頃の暮らしは、とてもひどいものだった。あなたたち役人は、税を取り立てるだけで、治安も守らず、盗賊を取り締まることさえしない。飢饉があっても、民のことなど考えもせず、戦争ばかり。なけなしの食料を税として取られ、それさえない人たちは、奴隷のように扱われた。たまりかねて抗議すれば、棒で打たれ、ひどい時には切り殺される……」 張梁の言葉は、官の横暴を訴えるときに良く用いられる言葉の連なりであり、目新しいものはない。だが、その言葉に込められた現実感は、実際にそれを経験したものでなければ、表現できないものであった。「姉さんが必死に私たちを養い、そして守ってくれなければ、私はきっと、どこかで野垂れ死んでいたか、奴隷として売られていた。いずれにせよ、今、ここにいることは出来なかったでしょう。その私たちが、あなたたちの言葉に、ひとかけらでも罪悪案を抱くとでも思っているの? ここ冀州で――あなたたちの治める、この地で地獄を見た、私たちが?」 近くで聞いていたからこそ、おれにはわかった。張梁の語尾が、ほんのかすかに震えたことが。「そうよそうよ! 偉そうに人の罪を問うなら、まずあんたたちが罪に服してみなさい! 黄巾の乱で民衆が蹂躙された? ふんッ! あんたたち役人は、その何十倍もの人たちを虐げてきたくせに、何を正義の味方みたいな顔でふんぞり返ってるの!!」 張梁に続いて、張宝が文官たちに指を突きつけ、弾劾の言葉を紡いでいく。 それを聞いて、郭図や逢紀の顔が紅潮していく。その内容に動揺した――というわけではないだろう。賊徒の首魁に、突然、弾劾された怒りと、そしてその言動の無礼さに立腹しているに過ぎまい。 会議の場は、一触即発の空気に包まれた。 すでに、袁紹側の警備の兵士たちは、剣に手をかけている者さえいる。 ならばこちらも――というわけにはいかなかった。それこそ、向こうに実力行使の口実を与えてしまう。 とはいえ、どうすれば良いのか。 南皮城内で、袁紹と敵対するなど自殺行為だが、だからといって張角たちを贄にするなど論外だ。 これが、劉家軍内のことなら、論理立てて説明すれば、わかってくれる人たちばかりなのだが、あいにく、ここにいる袁紹軍の人の大半はそうではない。故意に難癖をつけてくる相手に、正論を言ったところで意味をなすまい。 重要なのは、向こうの要求が何なのかを理解することである。 そして、向こうの要求は見え透いていた。 おれの思考を読んだように、諸葛亮がゆっくりと口を開く。「そちらの要求は、張伯姫さんたちの処刑、そういうことですか?」「……それ以外のものに聞こえたか。そちらこそ、何故、今まで張角を野放しにしておったのだ? 天下万民、これすべて、乱の首謀者の処刑を願っておる。それが出来ぬというのであれば、劉備殿に野心があると思われても不思議はあるまい」 逢紀の言に、諸葛亮の口許が苦りきった。「もし、私たちが頷かないときは、黄巾党の勢力を利用して、何事かを企んでいる、と布告するわけですね」「さて、それはわからん。だが、そのような危険のある人物を野放しにするほど、我らは甘くはない。そなたらと違って、な」 それに対して、さらに何事か、諸葛亮が反論しかけたのだが――「あー、もう! ちんたらちんたら! いつになったら、このせせこましい会議は終わるんですのッ?!」 いきなり、唐突に、袁紹が噴火した。 何やら、かなり怒っている様子である。これまで、そうとう我慢を重ねていたらしいが、その限界を突破してしまったらしい。「劉備さんとやら!」「は、はいッ?!」 突然の袁紹の呼びかけに、玄徳様は慌ててかしこまった。「張角さんとやらは、あなたの配下になりましたのよね?」「え、いえ、配下というか、協力者というか……そう、仲間。仲間になったんです」「仲間でも配下でも、どちらでも良いですわ! 要するに、黄巾の乱の首謀者を自軍に迎え入れる。あなたはそう仰るわけですわね?」「はは、はいッ!」「よろしい! ならば、野心なき証として、琢郡太守の地位は辞退しなさいな。それで、あなたたちに野心がないことを信じてあげましょう。いかがかしら?」 ――ぶっちゃけちゃいましたよ、この人。 場に満ちる唖然とした空気の中、おれは額に汗を流す。 おそらく、袁紹が言ったことは、あちらの郭図やら逢紀やらが、時間をかけて誘導していこうとした結論そのものなのだろう。 その結論を、いきなり目の前に突きつけられた玄徳様は、目を白黒させていたが、やがて相手の言っていることを理解したのだろう。 微笑み、そしてあっさりと結論を口にした。