「おーほっほっほっほっほ!」 翻る金色の牙門旗の下、袁紹の高笑いがあたり一帯に響き渡る。「この私の留守を良いことに、人の領土で勝手三昧! たとえ天が許しても、この袁本初が許しませんわよ!!」 高々と掲げられた袁紹の右手が、混乱する波才軍に向けて、鋭く振り下ろされる。 それに応じて動き出すは、袁紹軍の誇る2大猛将であった。「おっしゃあああ! 董卓との戦いじゃあ、ほっとんど出番なかったからなあ。やっと暴れられるぜ!」 文醜が大剣を振り回しつつ、ようやく鬱憤を晴らせる、と歓喜の声をあげる。「一応、呂布さんとは戦ったんだけど……4対1で蹴散らされちゃったしねえ」「こら、斗詩! いやなことを思い出させるな!」「あ、ごめ~ん、文ちゃん。まあ、呂布さんのことはともかく、黄巾党はさっさと追い出さなくちゃね」「そういうこと! よっしゃ、文醜隊、いっくぜええッ!!」「顔良隊も、いっくよー!」 それぞれが1万ずつの軍勢を率い、2人の猛将は迎撃の布陣を整えることさえ出来ない波才の軍勢の背後に、一斉に襲い掛かっていった。 波才軍にとっては、天地がひっくり返ったような衝撃であった。 だが、驚き慌てる暇もなく、敵、袁紹軍は猛然と突進を開始する。指揮官たちは、慌てて迎撃の指示を下そうとするが、その命令に従うべき兵士たちの顔には、すでに恐慌が表れ始めていた。 奇しくも、波才が口にした言葉は、そのまま黄巾党に向けられることになった。 敵の策略を、その眼前で打ち破り、その心を叩き折る。 正にその言葉の通り、波才が宣言した勝利の絵図が、袁紹軍の到来によって、もろくも崩れ去ったことを悟った兵士たちは、矛を交える前から気力を途絶させてしまったのである。 彼らは、互いに顔を見合わせ、一歩、また一歩と後方へと退いていく。 そして、ついにその中の1人が、悲鳴をあげて、敵に背を向けた。 その途端。「たわけッ! 敵に背を向けるとは何事かッ!」 怒号と共に、その兵士の直属の上官であった指揮官が、馬上から一刀の下に逃亡者を切り捨てる。 周囲が息を飲む中、その指揮官は剣を掲げて、兵士たちを叱咤する。「何を後れているのか! 敵が来たらば、戦うだけのことではないか! 剣を持て! 盾を構えよ! 卑怯な振る舞いをする者は、このおれが斬り捨てる! 勇を奮って戦え、者どもッ!!」 馬をさおだたせながら、その指揮官は周囲の将兵を鼓舞するように、声を張り上げた。 だが、その指揮官に対し、味方より早く応えた者がいる。「黄巾の賊徒にしては、なかなかの気概」「何ッ?!」 突然の言葉に、驚いて振り返った指揮官の目に映ったのは、白銀色の閃きと、凍土の如き怜悧な輝きを放つ瞳――「惜しむらくは、その身を託するところを間違えたところ」 その台詞が終わる頃には、すでに敵の指揮官は、馬上から切り落とされ、物言わぬ躯を大地に横たえていた。 袁紹軍の先鋒の、さらに先頭を駆けてきた人物は、長い白銀色の髪を風になびかせながら、配下の兵を差し招き、自身が開けた穴を拡大させていく。 主将と同じく、その配下の兵の行動も迅速を極め、波才軍は、ただでさえ備えの無かった後背に、より大きな穴を開けられてしまったのである。 その戦況を覆そうと、一際雄偉な体格をした黄巾党の武将が、その人物の前に立ちはだかる。「好き放題してくれたな、女ぁッ!」 並の男では、抱えることさえ出来ないであろう大鉞を振り上げ、その将は白銀の女性を攻撃する。体格に相応しい膂力の持ち主のようで、女性の持つ細剣では、男の攻撃を受け止めれば、剣ごと叩き折られてしまうだろう。 それゆえ、女性は相手の攻撃を受け止めなかった。 絶妙の角度で突き出された女性の細剣は、大鉞の剛撃を受け流したのである。火花を発しながら、女性の身体のすぐ横を鉞が通り過ぎた――そう見えた瞬間、細剣が弧を描き、男の頸部に致命的な斬撃をくわえていた。 たおやかな外見に似合わない正確無比な剣撃を以って、たちまちのうちに2人の武将を斬って捨てた女性に、配下の兵士が声をかける。「儁乂(しゅんがい)様! このまま、一気に敵本陣まで突っ切りましょうぞ! 黄巾の奴らに、我ら袁家の武、示してやります!!」 その女性――張恰(こう)は、部下の提言に、静かに頷いてみせる。 どちらかといえば、張恰は慎重に戦を進める型の指揮官であったが、今、この戦において、最も大切なのは慎重さではなく、大胆さ。味方の不利を顧みるのではなく、敵の隙を見据えることこそ、肝要なのだと、張恰は理解していた。「このまま、軍を進める。文将軍、顔将軍らの露払いを」「承知! しかし、お2人の出番はないかもしれませんな。波才とやらいう敵将の御首、我らが部隊が、ここで刈り取ってくれましょう!」 部下の激語に頷きを与え、張恰は悍馬をあおって、更に敵陣の奥深くへと突入していく。張恰の部隊が、その後へ続いた。 張恰の武威に圧されていた敵兵は、あえてその前に立とうとはせず、ただ呆然として、その駆け去る後姿を眺めることしか出来なかったのである。 袁紹軍の猛攻を受けた波才は、何とか全軍を立て直そうと奮闘していた。 だが、袁紹軍の先手である文醜、顔良、張恰らの攻撃の激しさに、指揮系統の掌握すらままならず、徒に損害が増えていく状況を、歯軋りしつつ見守るしか術はなかった。 波才軍の中には、友軍との連携を取れない状況で、善戦する部隊も少なくなかったが、その善戦はあくまで孤軍奮闘の勇を称えるという意味でのこと。戦局自体を変える力を持つには至らなかった。 中華屈指の突進力を誇る文醜の猛撃。 その文醜を巧みに、そして効果的に支え、かつそれに準じる破壊力を有する顔良の突進。 張恰によって痛撃を被った後に、この2人の突撃を受けては、指揮系統が崩れた波才軍に、その攻撃をとどめる術が残されていよう筈もない。 指揮官の制止の声も空しく、波才軍の将兵は次々と馬首を転じ、敗走しようとする。 だが。 波才軍の後背にあるは、未だ荒れ狂ったままの大清河の流れ。 その激流の向こうには、先刻までの敵軍が、矛先を揃えて待ち受けていることだろう。 前方には精強な袁紹軍。後方には咆哮をあげる大清河――ここにいたって、ようやく波才軍の将兵は、自らが背水の死地にいることを悟る。 つい先刻まで、劉備軍を相手に、圧倒的に優位に戦闘を進めていた筈の自分たちが、何故、一転して、こんな不利な戦況に身をおくことになったのか。波才軍の将兵のほとんどが、理解できなかったであろう。 劉備軍軍師 鳳統が心血を注いで築き上げた戦略図は、ここに全き完成を見る。 劉備軍との激闘を経ても、まだ7万を越える兵力を有していた波才軍であったが、袁紹軍の圧力に抗することが出来ず、後退を余儀なくされていく。 そこに、満を持して袁紹自身が率いる本隊が戦線に加わったとき、波才軍の命脈は尽きた。その軍勢の多くは敵に討たれ、さもなくば大清河の流れに飲み込まれ、あれほどの勢威を誇っていた黄巾党最精鋭たる波才の軍は、溶けるように崩れていった…… 後に、黄巾の乱に終止符を打った戦いとして知られる『大清河の戦い』は、その名称自体が戦の帰結を雄弁に物語っていた。 戦火は、ついに県城に及ばなかったのである。◆◆「中華を震撼させた黄巾党、幽州にて散る、か」 袁紹軍の攻勢を、小高い丘の上から見下ろす者たちがいた。その数は3。 その中の1人――白衣白甲の女性、すなわち趙雲が、感心したように呟く。「しかし、さすがは、河北にその名を轟かせる袁家の精鋭よ。不意を衝いたとはいえ、敵に立ち直る暇さえ与えぬ連携は見事だ」 その言葉に、こくりと頷いて、賛意を示したのは、諸葛亮であった。「はい。いまだ数で上回るとはいえ、今の黄巾党では、袁紹さんたちに立ち向かうことは出来ないでしょう――勝負あり、ですね」 波才軍は、今や軍と呼ぶことが出来ないほどに散り散りになっている。ここからの挽回は、古の武神 項羽でももない限り、不可能であろう。 だが、その諸葛亮の言葉に、否定の声がかけられる。 この場にいる最後の1人。頭上に輝く陽光を映して、きらりと光る頭部の持ち主――袁紹軍の軍師 田豊であった。「否とよ、孔明殿。勝負ならば、とうの昔についていた。わしらは、ただその勝利を彩るための添え物に過ぎぬ」 自軍の劇的な勝利を前にしても、その言葉にうわついた様子は欠片もない。 ただ、冷静に戦況をみつめる軍師としての眼差しが、そこにはあった。そして戦況とは、眼前の戦闘のみを指すものではない。 袁紹が率いる全軍はおおよそ5万。内3万は半董卓連合軍の際の精鋭であり、残り2万は、河北に領土を持つ諸侯であり、あるいは河北を故郷とする将兵であった。 幽州琢郡の軍勢などは、太守である劉焉が、黄巾党に占領された本拠を顧みず、朝廷へ仕える道を選んだため、半ば以上が離脱し、袁紹の旗下にはせ参じているのである。 そして、その中には、袁紹の本拠地である南皮城から合流した部隊も含まれている。それが、張恰の部隊であった。 彼らは、黄巾党の河北における一斉蜂起後の詳細な情報を袁紹の下に届ける役割も担っていた。 そこには当然、幽州の戦況も記されている。田豊は、すでに不落の村の事績も、劉家軍の奮闘も、そして黄巾党の分裂も、しっかりと把握していたのである。「ここまで黄巾壊滅のお膳立てを整えることが出来たのは、孔明殿をはじめとした劉備軍の勲である。そして、その勲を可能としたは、幽州の黄巾賊を、弧軍、押し止めた子竜殿らの殊勲。黄巾党が、楼桑村を陥としえなかった時点で、すでに勝敗は半ば、決まっておったのでしょうよ」 田豊の言葉に、しかし、諸葛亮もまた、首を横に振る。「元皓様のお言葉は光栄に思いますが、私たちだけで、黄巾党を食い止める術がなかったのは、まぎれもない事実です。元皓様がご主君を説いて下さらなかったら――袁紹様が軍を出して下さらなかったら、私たちは敗北を免れなかったでしょう。この勝利が袁家のものである所以です。何者が、それに異を唱えることが出来るでしょうか」 田豊は、諸葛亮の言葉に軽く肩をすくめる。その表情は、苦笑にも似たものであった。「黄巾党が攻めていたのは、我ら袁家の領土、本城ですぞ。これと戦うは、当然至極のこと。わしが説かずとも、本初様が首を横に振ることはなかったでありましょう。まして、このところ、我らは精彩を欠いており、本初様もご機嫌がよろしくなかったのだから、尚更です――このことは、そちらも、それは計算に入れておられたのではないかな?」 その言葉は、皮肉ともとられかねないものであったが、田豊の目は陽気な光を放ち、悪意とは無縁の言葉であることは明らかであった。 田豊は、己の指摘を受けて「はわわ」と恐縮する諸葛亮に穏やかな視線を注いだ後、趙雲の方に視線を転じた。「わしらは、これより掃討戦に移ることになり申そう。護衛は必要か?」「気遣いはありがたいが、不要でござるよ。貴軍も、一兵でも多くの兵を必要としておる筈。我らのことは気になさらず、存分に功をたてられよ」「確かに、貴殿ほどの腕があれば、黄巾党ごとき、歯も立つまいな――まこと、野に置くには、あまりに惜しい」 田豊の眼差しに、真摯な光が瞬く。「どうであろう、趙子竜殿。貴殿が望まれるなら、わしが、本初様に――」 田豊の言葉を聞き終わらぬうちに、趙雲がゆっくりと右手を前に出した。掌を、田豊に向ける形で。「この身を評価してくれるは嬉しゅうござる。まして、天下の袁家の軍師殿のお言葉とあらば、なお。されど、どうかその言葉は、貴殿の胸にお収めいただきたい」 言外に趙雲の言わんとするところを察した田豊は、右手で口許を覆い、苦笑いを漏らした。「ふむ。いささか性急でありましたかな。あるいは――」 そういって、田豊は趙雲に問うような視線を送る。「あるいは、もう見出されてしまわれたのかな?」「ふふ、さて、どうでしょうな。まあ、黄巾党がいなくなった今、時間は十分にありますゆえ、今少し、様子を見てからでも、遅くはありますまい」 軽やかに笑って、趙雲はその問いをいなすのだった。 その時、彼方の戦場から、一際、大きな喚声が上がった。 それまで、かろうじて抗戦を続けていた波才率いる本隊が、ついに袁紹軍の猛攻の前に崩れたち、大清河の下流へ向けて、敗走をはじめたのである。 当然、それを見逃す理由は、袁紹軍にはない。 袁紹、文醜、顔良は猛然と追撃を開始し、張恰は騎兵部隊を統率して、戦場の外縁を疾駆する。敗走する波才軍の頭を押さえる為であろう。 その様子を見た田豊が、かすかに目を細め、口を開いた。「――これで長かった黄巾の乱も、ようやく終わりですな」 さらりと口にした台詞は、動乱の終結を告げる祝うべき言葉である筈だった。だが、田豊の表情はいささかも変わらない。むしろ、先刻よりも厳しく引き締まったかに見えた。 そして、それは他の2人も同様だったのである。 あるいは、彼らはすでに知っていたのかもしれない。 1つの乱の終結は、それに数倍する規模の戦乱の始まりを告げるものでしかないことを。 大清河の流れさえ凌駕する歴史の激流、それを避ける術が、すでに中華の何処をさがしても見つからないであろうことを。 眼下の戦場の光景のさらに先。 それぞれが異なる立場に立ちながら、やがて来るに違いない「その時」を見据える3人は、馬首を返すまでのしばしの間、誰一人として口を開くことはなかったのである。◆◆ 琢郡の県城。黄巾の乱勃発以後、幾度も戦場となり、そして幾度も主を変えてきた城は、各処に戦禍の跡が生々しく残っており、城壁の修復も未だ終わっていない。 だが、今、その城門は大きく、そして力強く開け放たれていた。何故、閉ざしておく必要があるというのか。すでに琢郡を――否、河北全土を荒らしまわっていた暴虐なる勢力は、勇猛なる彼の軍の力によって、駆逐されたのだから。 玄徳様を筆頭に、おれたちが城門を潜った途端、鼓膜が破れるかと思うほどの、凄まじい歓呼の声が沸きあがった。 城門から城へと続く大路には、県城の民や、各地から避難してきていた琢郡の住民たちが溢れ、口々に劉備軍への感謝の言葉を投げかけてくる。 子供たちははしゃぎまわり、女性たちは手に手に、花や草木で編んだ冠を兵士たちに渡していく。 すでにそこには劉家軍や官軍、黄巾軍などという区別は微塵も感じられず、苦闘の痕跡を身体中に刻み込んだ将兵に対する賛辞は、尽きることがないかと思われた。 そして、そんな彼らを率いる者たちが、一際強く、そして熱狂的に歓迎されるのは、理の当然というものであったろう。「玄徳様! 貴方様は、我ら琢郡の民の救い主でございます!」「幽州の青龍刀 関将軍のお通りだ! 武神の雄姿を拝みたい奴らは、さっさと前に出てこーい!!」「張将軍、どうかこの饅頭をお食べくだされ! 将軍に食べてもらうために、3日前から寝ずにつくっておいたのです!」「うおおお、天和様がお帰りになった!! やはり、あの方こそ、この乱世を鎮める御方だ!!」「なんの、獅子奮迅の活躍を為した地和様を忘れてはなるまいぞ! 彼の戦女神の勲なくして、勝利はありえなかったというではないか!」「何ッ?! 貴様は戦をわかってないな! 地味に、しかし堅実に地和様を支えた人和様あっての勝利にきまってるだろうがッ!」「えーい、そんなことはどうでも良い! ともかく、おれたちが選んだ御方が勝ったのだ! 今はただ飲むのみよ!!」 勝利の喜びに浮かれた子女や、早くも酒に酔い、高歌放吟する男たちの口から、絶えることなく歓呼の声が繰り返される。 やはり、一際大きいのは、玄徳様、関羽、張飛の姉妹と、張角らの姉妹に対するものであった。 だが、それ以外にも、陳到や馬元義といった将軍や、軍師である鳳統にも賛辞の声は向けられている。 それは、先刻合流した諸葛亮や趙雲も同様であった。 趙雲は今回の戦に直接参加したわけではなかったが、すでに県城に避難した楼桑村の住民の口から、不落の村を支えた白甲の女傑の名は、幾度も語られ、城内では知らぬ者とてない状況なのである。 そんな民衆の歓迎の大波に飲み込まれてしまったおれたちは、城に到着するまで、予想外に時間がかかってしまった――まさか、最終的に、他の将兵を置いて、勇将たちが道を切り開くことになるとは思わんかった。まあ、それだけ民の中に巣食っていた不安が大きく、そしてそれが解消された喜びもまた、大きかったということなのだろう。 城に戻ったおれたちを真っ先に迎えてくれたのは、玄徳様の母君であられる劉佳様と、劉佳様の傍仕えをしている董卓、賈駆の両名であった。程立と戯志才、そして留守居の将であった鄒靖も、その後ろに控えている。 劉佳様にとっては、娘たちを、無事の再会が期しがたい激戦に送り出した後だけに、喜びは小さくなかっただろう。しかし、劉佳様は、玄徳様や、おれたちの顔を1人ずつ等分に見つめ、無事を労うように静かに微笑むと、それ以上、おれたちの時間を奪ってしまうことを避けるように、後ろに下がってしまった。 その慎みと、公私の別をわきまえた態度は、さすがは旧き王朝の血を繋ぐ方だと、周囲からは敬愛の眼差しが注がれていた。 かくして、県城に戻ったおれたちは、疲れた心身を癒す間もなく、いつぞや会議の場を設けた部屋に集まっていた。 結果として戦には勝ったが、それで「めでたしめでたし」となるほど現実は甘くはない。 今後の琢郡の統治、すぐに訪れるであろう袁紹の使者、今後の河北の情勢、そして張角たちの処遇など、話し合わねばならないことは、山のようにあるのだ。 だが、そういったことよりも何よりも、会議の席に座った人たちが最も知りたがったのは、今回の戦の顛末であった。 なにしろ、作戦の全容を知っていたのは、片手の指で足りるだけの人数しかおらず、自分たちがあの激戦でどのような役割を果たしたのかを、皆、知りたがっていたのである。 そして、今回の戦の事実上の総指揮をとっていた鳳統の口から、はじめて作戦の真の内容が詳らかにされるのであった。◆ 今回の一連の戦いにおいて、最も重要な要素は言うまでもなく袁紹軍の参戦である。 鳳統の作戦は、当初から、いかにして袁紹軍を戦略図に組み込むかを考え、策定されたと言って良い。 最初の――そして最重要の一手は、琢郡の軍勢を率いる者が劉玄徳である、ということを公表したことであった。 それを聞いて、玄徳様が首を傾げる。「え、え? それが、最重要の一手なの?」「はい。本来、連合軍において、作戦指揮者の決定は、多くの場合、兵力の多寡に左右されるものです。反董卓連合軍において、もっとも大兵力を率いてきた袁紹さんが総大将になったように。もっとも、袁紹さんの場合は、家柄や他の要素も大きかったですが……」 鳳統の言葉を、今度は諸葛亮が引き継ぐ。「わたしたちの場合、それは関わりありません。ですから、この場合、張伯姫さんが選ばれることが妥当である筈でした。ですが、総大将になったのは玄徳様。確かに、玄徳様の名は、先の戦いで幽州のみならず、河北の各地にも響き渡っていますが……」 ちなみに、作戦の全容を知っていた数名というのは、鳳統とこの諸葛亮、そして趙雲の3人のことである。趙雲に関しては、諸葛亮が袁紹への使者となるに際し、極秘の護衛を頼むために説明したとのことだから、実質、2人の軍師だけであったといってよい。「同時に玄徳様の率いる劉家軍が、まだまだ小さい勢力でしかなく、伯珪様のところに身を寄せていることも周知の事実です。そんな玄徳様が、万を越える軍勢を従える張伯姫さんの上に立つ。それを知った敵は、どう思うでしょうか」 関羽が静かに口を開く。「桃香様の後ろに、伯珪殿の影を見る、か」「はい。あるいは、玄徳様を伯珪様の傀儡とみなすかもしれません。いずれにしても、その段階で、敵の目は遼西郡――すなわち北東に注がれます。本来、最も注意しなければならない、南西ではなく」 南西――袁紹が、本領に戻ってくる方角である。 再び、鳳統が口を開いた。「……当然、それは敵に限った話ではありません。お味方の方々も、不利な戦況に対する切り札として、伯珪様の援軍を心待ちにされるでしょう。県城には、各地から張伯姫さんを慕って黄巾党の皆さんが引きもきらずにやってきていました。その中には、間違いなく波才さんの密偵も潜んでいた筈。そんな皆さんの言動を察知しない理由はありません」 ことさら、軍師たちが噂を広めたり、策をほどこしたりする必要はない。 事実を見せ、信じさせる。これほど容易いことはない。そして、それが事実であるがゆえに、敵将である波才もまた、信じざるを得なくなる。「皆さんに袁紹さんの件をお話しなかったのは、このためでもあります。この段階で、敵の脳裏に袁紹さんのことが、わずかでもよぎってしまう危険は、冒せませんでした」 小さな軍師たちの言葉に、うめきにも似た声が各処から上がる。 まさか、あの時点で、彼女たちがそこまで考えて行動していたとは、ほとんどの者が気づかなかったのである。 だが、そんな中、1人の人物が手を挙げる。「よろしいですかな、鳳軍師」 陳到であった。「はい、なんでしょう?「敵の目を北へと向ける。それは理解しもうしたが、しかし、策としてはいささか……何というのですかな、確実性がないように思えるのですが」 陳到の言葉に数名が頷く。 だが、鳳統はあっさりとその疑問に答えてみせる。「……そうですね、確かに敵の動きを、これだけで縛ることは出来ません。最悪の場合、こちらの狙いを悟られ、敵に袁紹さんの軍勢が捕捉される可能性もありました」 そう言って、しかし、鳳統は平然と言い足す。「それなら、それで構わないんです。洛陽から戻ってくる袁紹さんの軍勢は、最小でも3万。これに対抗するには、少なくとも同数の兵力をそちらに割かねばなりません。平原の押さえ、私たち、そして袁紹さんの軍勢。敵軍が10万に達するとしても、三箇所に兵を分ければ、当然、それだけ陣容も薄くなる。勝ち得る手段もまた増えます」 鳳統が一息つくと、また諸葛亮が言葉を引き継ぐ。「ただ、結局、敵は北へと目を向け、袁紹さんの軍勢に蹴散らされましたが。おそらく、仮に気づいていたとしても、軍を分けることはしなかった――いえ、あるいは出来なかったのでしょう」「出来なかった、とはどういうことだ?」 関羽の疑問に、諸葛亮は馬元義の顔を見る。「馬将軍や張季姫さんに聞いた波才さんの特徴は、己1人に権限を集中させ、部下を信じず、ただ手足のように操ること。それは、統率する者の力量によって巨大な力を発揮しますが、欠点も存在します。軍を分けることが出来ない、という」 関羽が、小さく頷いた。「そうか、自分を恃み、配下を手足として動かしていたのならば……」「急に手足に、自分の考えで動け、と言ったところで出来る筈はない、か」 感心したように、趙雲が呟く。「その通りです。あるいは、こちらを甘く見ていれば、適当な数の押さえを残して、袁紹さんと決戦する、という手もあるかもしれませんが……」「伯珪殿の影を見た以上、それも出来ぬというわけだな」「はい」「今度の場合、敵はこちらの思惑に乗り、平原に2万を残し、主力の8万をこちらに向けました。その知らせを受けたと同時に、私は子竜殿と共に南へ向かったんです」「まだ日も昇らぬうちに、いきなり部屋に押しかけてくるので、何かと思ったぞ」 その時のことを思い出したのか、趙雲は軽く肩をすくめて苦笑いすると、諸葛亮は恐縮して、肩を縮めた。「す、すみませんでした。事は急を要する上に、みなさんに知られるのは避けたかったので……」 波才軍が平原に兵力を集中させはじめた時点で、諸葛亮と鳳統は袁紹軍に対して偵察の兵を放っていた為、この時点で、すでに洛陽から取って返した袁紹軍の進路は把握していた。 当初、諸葛亮と鳳統は、袁紹軍の動きの鈍さは当然のことと思っていた。なにしろ、3万に及ぶ大軍である。騎馬を主力とした1万強の公孫賛軍や、わずか5百の劉家軍に比べれば、進軍速度もおのずと遅くなるだろう、と。 だが、州の境界線上、波才軍の偵知能力のわずかに外縁部にとどまっている袁紹軍の布陣を知り、その考えを改める。袁紹軍は、戦況をつぶさに眺めつつ、時を待っているのだ。 であれば、早急に袁紹と話し合わねばならないのだが、各地には波才軍の偵察兵や、あるいは今回の戦いとは関係のない盗賊たちがたむろしており、諸葛亮が1人で向かうのは危険すぎた。かといって、部隊を率いて進めば、要らぬ関心を集めてしまうし、敵に悟られる危険もあるだろう。 それゆえ、本来ならば有力な将軍となりえたであろう趙雲を、護衛という形で用いざるをえなかったのである。 かくして、趙雲の駆る駿馬の背に負われ、一路、南西へと赴いた諸葛亮は、袁紹軍の陣営に駆け込んだのであった。 この時、袁紹軍の軍師 田豊の下には、南皮から駆けつけた張恰により、ある程度の情報がもたらされていた。情報を吟味するに、波才軍が北への進軍を目論んでいるのは明らかであり、田豊は敵の出陣を待って、まず平原郡を奪還する心積もりであった。 しかる後、各地の兵力を集結させた上で、根拠地を失った波才軍を討つ。それは、袁紹軍の力をもってすれば、さして難しくはなかったであろう。 その期間で幽州が荒らされる可能性が少なくないとしても、だからといって、数にまさる波才軍に一か八かの攻撃を行うなど、賭博に等しい作戦がとれる筈はなかったのである。 袁紹の麾下にいる田豊にとって、何よりも優先すべきは、袁紹が治める領土を黄巾党から取り戻し、治安を回復させることであった。 その考えを変えさせたのは、田豊と対面した諸葛亮の口から語られた、劉備軍の作戦であった。 詳細を聞かされた田豊は、目を瞠って、しばし無言であったという。 あるいは、それが当然の反応であったかもしれない。 鳳統がつくりあげた戦略図は、戦場の最も危険で、困難な役割を自軍が引き受け、その成果のほとんどを袁紹軍に譲り渡すに等しいものであったから。 作戦通りに行けば、袁紹軍は、河畔に布陣した敵軍を後背から襲うという、必勝の態勢で参戦することになる。ただそれだけで、黄巾党壊滅の第一功は袁紹軍のものになるのである。 あるいは劉備軍が早々に敗れ、敵がすでに渡河を果たしている可能性もないことはないが、その時は改めて平原に取って返せば済むこと、袁紹軍に犠牲は出ない。 利、多くして、険、少なし。 田豊からこの話を聞いた袁紹が、飛びつくように頷いたのは、当然すぎるほど当然のことであった。 ――もっとも、感謝する諸葛亮に対しては、散々恩着せがましい言動を繰り返したそうだが。 曰く。「黄巾賊など、私たちだけで十分。こてんぱんのけちょんけちょんにしてやれるのですが、あなた方のように命をかけた脇役を引き立たせるのも、主役たる私の務め。それに、私の領土ではないとはいえ、幽州の民を見捨てるのは、覇者たる態度とは言えませんしね。よろしいでしょう、河北を統べ、いずれは天下を制するこの袁本初の力、お見せしてさしあげてよ、おーほっほっほっほ!」 ……だそうである。 そこから後は、結果が示すとおり。 劉備軍を追撃する形で、大清河に布陣した波才軍は、自らが死地に踏み込んだことに思い至らず、その後背から襲い掛かった袁紹軍によって、完膚なきまでに叩き潰された。 すでに、袁紹軍はその勝利を平原に篭る残党に知らしめ、平原奪還にとりかかっている頃合だろうか。 ここに幽州の、ひいては河北の危機は、その原因ごと取り除かれたのである。◆ 軍師2人の説明が終わると、室内の各処から、ほぅっとため息を吐くものが続出した。 それは、感嘆のそれであり、同時に畏怖のそれでもあったかもしれない。 自分たちが――否、敵でさえ、眼前の戦場の勝利のみを見ていたというのに、軍師たちにとっては、その戦場さえ戦略図を仕上げる一つの要素に過ぎなかったのだ。 勝てば無論よし。しかし負けたとしても挽回は成る。おそらく、大清河で早い段階で敗退していれば、敵軍に対し、背後から近づく袁紹軍の存在を知らしめる程度のことは、手段の一つとして用いただろう。 右か左か、その結果に勝敗を賭けていたわけではない。右に行けばこうする。左にいけば、こうする。起こるであろう事態すべてに対応策を定め、その中でも最善と考える結果に行き着くように、軍師たちは動き続けていたのである。 すべては、この小さく、か弱い軍師たちの掌の上で行われていたことを、他の者たちはようやく悟るに至った。それゆえのため息であった。 ガタン、と席から立ち上がる音がした。 突然のことに驚いた人々がそちらを見ると、2人の軍師が顔を見合わせ――そして、はかったように同時に頭を下げたのである。『勝手なことをして、ごめんなさい』 と、泣きそうな声で謝りながら。「え、え、ええ? どうしたの、2人とも??」「う、うむ。今の話で、何か謝罪するようなことがあったのか? 私は気づかなかったが……」「2人とも、どうしたのだー?」 玄徳様たちが、諸葛亮たちの突然の行動に、慌てたように首を傾げる。 それは他の者たちも同様で、皆、2人の謝罪の意味を解しかねているようだった。 いや、一人、その意味を解した者もいるようだ。 趙雲が愉快そうに笑いながら、口を開いた。「なに、作戦であれだけの苦闘を強いておきながら、その功績のほとんどを袁紹軍に譲ってしまったことを、謝しておるのだよ。主君の許しも得ずに僭越をしてしまった、とな」 その言葉に、玄徳様はぽかんと口を開き――すぐに、納得したように両手を叩いた。「ああ、そういうことか~。良いんだよ、2人とも。この前も言ったけど、孔明ちゃんと士元ちゃんは、私たちの軍師なんだから。今回のことだって、多分、はじめから聞いていたら、私、ぜったい顔に出てたと思うし……」「確かに。桃香様ほど、腹芸が出来ない人はめずらしいでしょう」「う……否定できない」 「にゃはは。お姉ちゃんはすぐ顔に出るから、隠し事は無理無理なのだ」「うう……鈴々ちゃんまで」 ぼそりとおれも呟いた。「以下同文、です」「って、一刀さんまでッ?! みんな、ひどいーー」 もー、という風に玄徳様が叫び、場の空気はおおいに和む結果となった。 玄徳様たちだけでなく、陳到も不満をあらわしてはいない。 一方で、馬元義は少々、張宝は少なからず、異論のありそうな顔をしていたが、そこは姉と妹の2人が、小声でなだめていた。 実際に戦場に出た者たちが不満を口にしない以上、城に残っていた者たちが意見を言える筈もない。 ましてや――「戦乱で苦しみ、虐げられている人たちのためにも、これ以上、黄巾の乱を長引かせるわけにはいかなかった。だから、少し無茶なことをした。孔明ちゃんと士元ちゃんがしたのは、そういうことだよね?」 玄徳様の言葉に、2人は顔を見合わせた後、小さく頷いた。「私は、皆が笑って暮らせる世の中をつくりたい。そのために戦っているの。だから、2人がしたことは間違ってなんかいないよ。少なくとも、私はそう思ってる。それさえ果たせるなら、手柄が誰のものなっても良いの――みんなが平和に暮らすことさえ、出来るなら」 もちろん、その結果として厳しい戦いに臨んで、亡くなったり、傷ついたりした人たちには、ちゃんと報いてあげないといけないけれどね、と玄徳様は俯きながら言い添える。 関羽が、主の言に賛同するように、大きく頷いた。「桃香様の言うとおりだ。それに、お前たちは、その犠牲をさえ、最小限に止めようとしたのだろう? 戦いを前に大きく兵力を縮めたことも、その1つだ」 それを聞いた陳到が、頭をかきながらも同意する。「確かに。私の手腕では、あれ以上の兵力を預けられては、統御しきれませなんだ。敵の攻撃を凌げる最低限の兵力と、味方が統御しきれる最大限の兵力。それが、1万という数字だったのですな」 預けられた3千の混成部隊を、なんとか統御することが出来た陳到の、心の底からの納得の言葉だった。 無駄な犠牲を出すことなく、作戦通りに事を進めるための兵力削減。 無論、それだけではなく、あらかじめ鳳統が説明したとおり、糧食の問題もあった。 だが、何よりも重要だったのは、城内の治安の問題である。 そもそも、黄巾党とはいえ、琢郡に集まったのは、波才の目にとまらなかった二戦級の部隊ばかり。錬度にせよ、経験にせよ、さほどのものではなく、頭に巻いた黄巾を取れば、普通の民衆とさしてかわらない。 では、何故そんな者たちが、城内の民衆に敵視されるかと言えば、それは彼らが兵であり、武器を持っているからに他ならない。ならば、その手に工具を持たせ、あるいは農具を持たせれば良い。元々、城内を補修する部隊は必要であったし、そうすることで、琢郡の人心を落ち着かせることも出来る。 別の言い方をすれば、軍縮というはっきりとした行動をとらなければならないほど、玄徳様たちが黄巾党党首を受け容れたことは、民たちに深刻な不審を抱かせていたのである。 ――もっとも、実際、3万が1万になったところで、黄巾党が城内最大勢力であることにかわりはないのだが、逆に黄巾党がこの軍縮を受け容れたという事実は、彼らに不穏な野心がないことの証左になったであろう。 それは民衆に対するのみにとどまらない。あの時点では、官軍、そして劉家軍の中にさえ、張角ら黄巾党への不審は確実にあったであろうから。そういった意味でも、あれは必要なことだったのである。 あの段階で造反者が出ていれば、戦うどころではなかったからなあ。 ◆ 不意に。 室内に笑い声が湧き上がった。 艶やかで、それでいて軽やかなその声は、趙子竜の口から発せられていた。「平和な世をつくる。そのためならば、手柄など誰にくれてやっても良い、か……」 くくっと喉の奥で趙雲が声をたてる。 それを見て、関羽の目がわずかに細まった。「……何か、異存があるのか?」 低く押し殺した問いに、趙雲は肩をすくめて見せた。「いやいや。貴公らの在り方に口を挟む権利など、私にはないし、その心算もない。だが、それが全ての人に通じるものだとは思わないでほしいものだ」「――要するに、己の功績にはきちんと報いろ、ということか?」「ほう、わかったか」「わからいでか。言われずとも、桃香様は働きにはしっかりと報いてくださる。功を誇るような真似をする必要はない」 関羽は険しい声音で言い、趙雲を睨みつける。 並の人間であれば、関羽の視線と言葉に畏服し、押し黙ってしまうところだったかもしれない。 だが、趙子竜という女性は、あいにく、どこをとっても並という表現が当てはまる人物ではなかった。「そうは言われてもな。楼桑村を賊徒から守り通し、敵将の趙弘、韓忠らを討ち取った功績を、軽く見られてはたまったものではないのでな。私は貴公らとは違い、功名も名誉も欲する俗人ゆえ」 平然と言い返す趙雲を見て、関羽の瞳の奥で、雷雲が群がり起こった。 関羽とて、趙雲の功績は認めているし、楼桑村の人々を守ってもらった恩義は、深く感じている――色々と助言もしてもらったし。 だが、だからといって、公然と報酬を要求するような人物には、嫌悪の情も湧こうというものではないか。 関羽の顔を見るに、そんな内心の感情がでかでかと書かれているように思えてならなかった。 一方、玄徳様は、そういった感情のしこりは持っていないようだ。なにしろ、母や故郷の村の恩人である。出来るかぎり報いたいという気持ちに偽りはない。 だが。「えーと、言いにくいんですけど、今、私たち、とっても貧乏で……」「と、桃香様! 何を言い出すんですか、いきなり」「で、でも愛紗ちゃん、事実だよ。うん、ちょっと笑ってられないなあ、と思うくらいに」 戦であれば、官庫を開くのも躊躇うものではないが、さすがに個人の恩賞を用意するために、城の金は使えない。くわえて、元々、城の財貨といってもたかがしれたものなのである。 今後、琢郡の統治が何者の手に委ねられるかがはっきり決まっていない以上、官庫に手はつけられない。となれば、劉家軍の懐から出すしかないのだが、そちらは玄徳様の言うとおりの状況であった。 どうしたものか、と困惑する玄徳様に対して、今度は趙雲は笑わなかった。むしろ、真摯といってもよいくらい、真剣な表情で、ゆっくりと玄徳様の前まで、歩を進めていく。「財貨は不要。今日を生きる糧と、今を楽しむ酒、それにつまみがあれば、それ以上は望みませぬゆえ。くわえて、我が望みは、金で購えるほどに、安くはありませぬ」 そう言うと。 趙雲は、玄徳様の前で。 静かに、片膝をつき、頭を垂れた。「劉家軍が主 劉玄徳殿に請う。我が槍、貴殿のために振るうことを、お許し願いたい」 突然の趙雲の言葉に、玄徳様は口と目で3つの0を形作った。 関羽らも、趙雲の言葉に驚きをあらわにしている。 ただ2人、先刻から黙ったまま、会議の進行を眺めていた程立と戯志才のみが、まるでこのことを予期していたように、平然としているのが印象的であった。「あ、あの、子竜さん。それって?」「無論、この趙子竜を貴殿の配下に加えてほしい、ということです。昨今の情勢を見るに、そろそろ天下を彷徨するのも終わりにせねば、と思っていたところ。此度の功績程度では、この願いは過ぎたものだとわかっているつもりですが、そこをまげてお願いいたす。いずれ、必ず貴殿の槍たるに相応しい力を、お見せいたしますゆえ」 趙雲の言葉が、ようやく玄徳様の理解に達した瞬間。 玄徳様はバネ仕掛けの人形のように、ぎくしゃくした動きで、頭を下げる趙雲の肩に手を触れ、上を向くように促した。 玄徳様の顔からは驚愕が徐々に消えていき、満面の笑みが浮かび上がっていく。 そして、自分を見つめる趙雲の顔を見ながら、はっきりと頷き、叫ぶように口を開いた。「よ、喜んで、お許しいたします!! ええ、もうばんばん振るっちゃって下さい!」 関羽が呆れたように口を開く。玄徳様に対して、そして趙雲に対して。「――桃香様、その言葉遣いは変です。それに、子竜殿も、まぎらわしい言い方をしないでもらいたい。あやうく誤解するところだったではないか」 玄徳様に促されて、立ち上がりながら、趙雲は微笑しつつ、口を開く。「いや、すまんすまん。しかし、ようやく我が槍を振るうに足る場所を見つけることが出来たのだ。多少、もったいぶりたくなるのが、人情というものではないか」「よくわかんないけど、子竜は鈴々たちと一緒に戦うことになったのか?」「おうよ。これからは共に戦場を駆けることになろう。よろしくな、益徳殿」「おう、よろしくなのだ!」 そんな光景を、おれが傍から眺めていると、不意に、趙雲がこちらを見た。 ――しかし、何故だかその顔に浮かぶ笑みは、おれの警戒を誘う。怪しいとか、誰かの間者だ、とかそういう意味ではなく、こう悪戯っぽい瞳の色が「さて、どうやってからかってやろうか」と言外に語っているような気がして仕方ないのである。「北郷殿も、これからは、色々とよろしくお願いする。色々と、な」「こちらこそよろしくお願いします――時に、何故、2回も繰り返したのです?」「いや、重大なことだったからだが。ひと言ではとても言い表せぬ」「ひと言で言い表せないって、何をするつもりですかッ?!」 相手からの無形の重圧に押され、思わず及び腰になるおれ。 そんなおれの叫びに、趙雲は意味ありげな流し目をおくってきた。「せっかちな御仁だ。同輩になったばかりではないか。だが、そんなに私のすることが知りたいのならば、そうだな、今日の夜にでも部屋を訪ねて参られよ。朝までとっくりと、語り明かすとしようではないか」 女性の部屋で、朝まで語り明かす。 そのシチュエーションに、一瞬、おれは絶句してしまう。 はっとその危険に気づき、慌てて、首を横に振ろうとしたのだが――「……ふむ。味方同士、仲が良いのは結構なことだ」 そう思うなら、その針のような眼光をやめてください、関将軍。「……朝まで……朝まで……」 何で顔を真っ赤にしてるんですか、玄徳様。想像はつくけど。「ぶーぶー、一刀のえっちー」 ここで直球ですか、伯姫様?! あと、何で今さら参加してくるんですか、もうすこし黙ってれば会議終わるのに!「……一刀さん。朝までって何するんですか?」「だ、駄目だよ、雛里ちゃん。それを聞いちゃ駄目!」 くぅ、士元でなければ嫌味だと思うところなんだが、その純粋さをどうか失わないでください! 孔明はもう手遅れっぽいな。いや、人としては正しい成長なんですけどね! そんなおれたちの様子を見て、趙雲がくすりと微笑みをもらす。 その笑みに、なんか底知れない不吉さを感じたのは、きっとおれの気のせいだったのだろう。 ――気のせいだよな、きっと? 誰かにうんと言ってもらいたくて、周囲を見回したおれの肩を、ぽんぽんと叩く人物がいた。「北郷殿」 簡擁だった。 頬がげっそりとこけているのは、おれたちが出て行った後の、城内のいざこざを一手に処理していたからだろう。お疲れ様でした。「何事も、諦めが肝心じゃよ」「いきなり希望を奪わないでください!!」 結局。 おれの悲痛な叫びは、誰の同意も得ることが出来ず、県城の空に吸い込まれていくのだった……