大清河上流に不審な堰あり。 その報告によって、波才は敵の策の全容を看破する――看破した、と波才は確信した「ふむ、敵将は水を使うか。手際はなかなかのものだな。程遠志や、張曼成ならば、あるいは敗北の憂き目を見たやも知れぬ」 だが、と波才は嘲笑う。自分には通じはしない、と。 波才の傍らに控えていた部下の1人が、勢い込んで、波才に命令を請う。「波大方、是非、それがしに一隊をお与えくだされ! 敵の小癪なる策略、未然に潰してくれましょうぞ」 その声に触発されたように、周囲から我も我もと名乗りを挙げる者たちが続出する。 だが、波才は部下の熱意に感応しない。 堰発見の報告をしてきた兵に、その不審な堰を厳重に見張るように命令を下すのみにとどめた。しかも、堰の周囲にいる敵兵に手を出してはならぬ、とまで言い添えて。 それを聞いた周囲の者たちが、一様に驚きの表情を浮かべる。 彼らは、当然のごとく、波才が堰を奪え、と命じるものだとばかり考えていたのだ。 1人が、その疑問を口にする。「堰を奪わないでよろしいのでしょうか? おそらく、敵兵は百に満たず、一部隊を派遣すれば、すぐにでも蹴散らせましょう」 その疑問に対し、波才は明確に答えを示した。「これほどの好機、その程度で済ませるには惜しい――上兵は謀を伐つ。ここで奴らの戦意を根こそぎ叩き潰し、琢郡を制圧する」 もっとも、と波才は皮肉げに笑う。矛を交えてしまった今、上兵も下兵もないのだが、と。 だが、部下たちの中に、波才の言葉と、その笑みを即座に理解できる者はいなかった。 側近の1人が、おそるおそる訊ねる。「謀を伐つ……と、申されますと?」「敵に成功を確信させてやるのだ。これだけの苦闘の末に、ようやく見えた光明ゆえ、連中はそこにすがりつくしかなくなろう。その眼前で、我らが敵の策を破って見せれば、そのとき、連中に戦う気力は残るまい」 おお、とようやく波才の意図を理解した部下たちから歓声とも嘆声ともいえない声がわきあがる。 具体的に言えば、敵の期待どおり、こちらは大挙して大清河に躍りこみ、渡河の気配を示す。そうすれば、敵は上流に合図して、堰をきりおとすだろう。 一度それを行えば、もはや後戻りはできない。その時点を見計らって、波才が全軍を退かせる。 そうすれば、濁流が飲み込むは、ただ河に生きる魚くらいのもの。戦況の挽回を信じた敵軍は、こちらの掌で踊らされていたことを知り、絶望にうちひしがれるだろう。 仮に敵の将軍たちがなお戦うことを欲したとしても、その時には、もはや兵士たちの気力が尽きている筈だった。「し、しかし、そこまでうまく行くでしょうか? 全軍反転するとなると、ある程度で侵攻をとめなければなりませんが、敵の狙いは本隊の筈。退却の余裕を保っていた場合、罠を動かさないやも知れませぬ。かといって、敵に罠の発動をうながすために深入りすれば、退き時を逸した場合、甚大な被害を被ってしまうでしょう」 作戦に対する懸念を示された波才だったが、怒りもせず、あっさりとこう答えた。「誰が、全軍反転と申したか」「は、は?! では……まさかッ?!」「先の戦いで、敵の前衛に良いようにやられた部隊に通達せよ。汚名を返上する機会を与えるゆえ、是が非でも、渡河を成功させよ、とな」 波才は冷静に、そして冷酷に命令を下す。 氷の鞭で打たれたかのように、部下たちの表情が一瞬で凍りついた。波才が、不要と断じた自軍の兵士を餌にして、敵の判断を促そうとしていることは、明らかであった。「他の者たちもだ。理解したならば、疾く、行け」 これ以上の反駁を許さぬ態度で、波才が配下を叱咤する。 部下たちは、はかったように一斉に頭を垂れ、すぐさま自陣に引き返した。表情を、硬く強張らせながら。 たちまちのうちに、自分以外の人間がいなくなった場所に独り座し、波才は不敵な笑みを口許に浮かべた。「さて、あまり時をおいては、我が軍を待ちわびる敵に礼を失するであろう。期待どおり、追撃してやるとしようか」 嘲笑を湛えた波才の目には、すぐに訪れるであろう敵軍が絶望する瞬間が、はっきりと映し出されているようであった。◆◆ 対岸では、波才軍の攻勢に備え、劉備軍が防戦の準備に追われていた。 北岸にあらかじめ堅固な陣地を築いておくほどの余裕は、資金的にも、時間的にも劉備たちにはなく、急造の柵や土壁をこしらえるのが精一杯であった。 すでに戦力として計算できない左軍は後方に配置し、河畔で敵を待ち受ける主軸は中軍、及び右軍である。すでに遊撃部隊を率いていた張飛と鳳統は中軍に加わり、すぐにも攻め寄せてくるであろう敵軍を待ち受けていた。「中軍、右軍、遊撃軍、あわせてかろうじて5千、か。随分、やられてしまったな」 関羽が首を左右に振りながら、口を開く。「……そうですね。敵には、その倍以上の打撃を与えていると思いますが、やはり数の少ない我が軍の方が、死傷者の増加は堪えてきてしまいます。これ以上の損害を受ければ、軍としての形を取ることが難しくなってしまうでしょう」 関羽の言葉に、鳳統がうつむきがちに答える。 自らの策で戦い、そして死んでいく敵味方の姿を、ずっと目の当たりにし続けてきたせいか、その顔色は青を通り越して、土気色に見えるほどであった。 そんな鳳統をみて、劉備が心配そうに、その顔をじっと見つめる。「士元ちゃんも、後ろに下がった方が良いんじゃないかな? 後はもう、例の作戦を実行するだけだから、士元ちゃんが前線にいる必要はないでしょ?」「……お心遣い、ありがとうございます、玄徳様。でも、私はここにいます……いえ、いさせてください。ここで後方に退がってしまえば、私は多分、いつか自分の中にいる化け物に、負けてしまう……」「へ? 士元ちゃん、化け物って?」 劉備が不思議そうに問うと、鳳統がかろうじて笑顔を形づくり、微笑んで見せた。「この戦いが終わったら、ご説明いたします。玄徳様にも、みなさんにも。どうか今しばらくの間、私を信じてください……私と、私を信じてくれた、一刀さんを」 悲痛とも言える鳳統の言葉は、しかし。「何を今更、なのだ。鈴々は、とっくのとうに士元を信じているのだ!」 張飛の元気にあふれた声によって、呆気なく、悲哀の色を払拭させられてしまう。 張飛に同意するように、関羽も劉備も、力強く頷いた。「鈴々に同感だ。むしろ、今更そんなことを言われるのは心外だぞ、我らが軍師殿?」「そうそう。そもそも、孔明ちゃんも士元ちゃんも、私がお願いして、一緒にたたかってもらってるんだよ? もっとでーんと構えて、私たちに指図をしてくれても良いくらいなんだから」 劉備の言葉に、鳳統が戸惑ったように、首をかしげた。「で、でーんと、ですか?」「そうそう。こう、椅子にふんぞり返って『これ、玄徳、茶を持ってまいれ』みたいに」「あ、あわわ、そんな無礼なこと、と、とんでもないですッ?!」 慌てふためく鳳統に、関羽が穏やかに笑いかける。「まあ、桃香様の戯言はともかく」「ざれッ?! 愛紗ちゃん、ひどい……」「ともかく、士元は士元の考えるとおりに指示してくれれば良い。我らはその指示を全力でやり遂げる。その結果が、たとえ敗北であったとしても、その責は我ら全員が共有すべきもの。どちらが上でも、下でもない。他の軍は知らず、桃香様の理想の下に集った我らが劉家軍は、そういう軍なのだ。そうだろう、士元?」「……は、はい、そう、ですね……そう、でしたね」 土気色だった鳳統の頬に、ほのかな紅がさし、その口調には、小さくとも、確かな力が戻りつつあるように思われた。 この場にいた他の将たちは、そんな劉備たちのやりとりをみて、改めて、自分が所属する軍がどのようなものであるかを確認する思いであった。 そして。 そんな穏やかな空気を切り裂くように、その報告はもたらされる。「申し上げます! 敵、波才軍、一斉に渡河を開始いたしましたッ!!」 それは、河北諸州を巻き込んだ、黄巾党蜂起の最終幕。 同時に、後漢末の乱世の炎を一際強く燃え上がらせた、黄巾の乱そのものの最終章を告げる声でもあった。◆◆「ここで矢が尽きてもかまわん! 撃って撃って撃ちまくれぇッ!!」 関羽の号令と共に、数千を越える飛矢が一斉に大清河に躍りこんだ波才軍に襲い掛かっていった。 射撃の範囲にいた兵士たちは一斉に盾を構え、迫り来る矢から身体を守ろうとする。先陣の兵士たちの盾は、たちまちのうちに針ねずみの如き有様となり、盾の合間をぬった矢に、喉を射抜かれた兵士が、苦悶の声をあげながら、河中に没していく。だが、そういった兵はきわめて少なかった。 波才は、先陣に盾と重甲で固めた歩兵たちを配し、敵の射撃の効果を最小限に食い止めたのである。 関羽は、矢が尽きてもかまわない、と口にしたが、効果のない敵に、いつまでも貴重な矢石を投じているわけにもいかない。自然、劉備軍の矢の雨はその密度を薄くすることとなる。 その隙をついて前に出たのが、波才軍の第二陣であった。 彼らは、なんと次々に土嚢を投じ、河を埋め立てはじめたのである。 黄河や長江ならともかく、大清河のような中小の河川では、1万人の軍勢を人夫として働かせれば、ある程度の埋め立ては可能であった。完全に河を消す必要はない。渡河を少しでも容易にする程度のことは、さして難しいことではないのである。 まして、波才は1万が2万でも、その作業に従事する兵士を増やすことが出来るのである。ここに、8万の軍勢の脅威があった。 当然、劉備軍は彼らに対しても攻撃を仕掛けるが、第一陣の兵士たちがそれを黙って見ている理由はない。第一陣が敵の攻撃を凌ぎ、第二陣が河を埋め立てていく、という単純な、しかし効果的な連携によって、少しずつ、しかし確実に波才軍は北岸へと迫りつつあった。 波才軍が、河の半ばまで達するのを見た劉備は、懸命に不安を抑えながら、傍らでじっと戦況を見つめる鳳統に視線を向ける。「士元ちゃん、まだかな?」 その問いに、鳳統はこくりと頷く。 だが、その視線は前線に向いたままだ。わずかな気配さえ見逃すまいと、つぶらな瞳を懸命に見開いている。 鳳統が、この戦いでほどこした最後の策。 大清河の流れを用いた奔流の計。 だが、今、堰を切ったところで、波才軍に与える損害は知れたもの。それは劉備もわからないではないのだが、やはり迫り来る敵軍を、そして苦闘する味方を見れば、気が逸ってしまう。「うぅぅぅ」 だが、劉備はうなりながらも、それ以上、鳳統の集中を妨げようとはしなかった。 ただ、祈るように両手を組み、前線で戦う将兵の武運を願うのみであった。 だが。 やはり、1人の祈りが、戦況を覆すことなど夢物語でしかなく。 敵軍はついに河半ばを過ぎ、ついに両軍は互いの顔を認識できる距離まで差が縮まってしまった。 ここにおいて、波才軍の兵士たちは次々に盾を捨て、河中に身を投じはじめる。 その彼らに向けて、弓箭兵の斉射が浴びせられ、波才軍の兵士たちは次々と倒れていき、大清河は朱い彩りを帯びる。 だが、全ての兵士を、斉射で止めることは不可能である。味方の屍を盾に矢を掻い潜る者もいれば、水練に長けた者は水を利用して劉備軍に肉薄する。 そして、ついに、波才軍の兵士の1人が北岸に達した。 1人の突破は、それに続く複数の成功を生み、やがてそれは連鎖式に広がっていく。その数は瞬く間に増え続け、たちまち数百を数える兵士が、劉備軍の前面にあらわれるに至った。 それを見た劉備が、小さく息を飲む。 ほぼ同時に。「今です、玄徳様!」 鳳統の強い声が、策の発動を促した。「う、うん!」 奔流の計の真髄は、敵の分断である。半渡に乗じ、敵中軍を水勢で押し流せば、北岸に上陸した部隊は孤軍となる。これを河中に追い落とせば、敵は退かざるを得ない筈である。 ゆえに、最も重要なのは、計を実行に移す時期であった。早すぎても、遅すぎても、作戦は十分な成果を得られず、結果、劉備軍は敗北してしまう。 今、北岸に上陸した敵勢は少ないように見える。だが、合図を送り、堰をきったところで、すぐに水が押し寄せて来るわけではない。実行と、効果の間の時差さえ計算にいれ、鳳統は戦機は読みきったのである。「合図を、狼煙をあげて!」 劉備の指示によって、陣営の後方から、待機していた兵士によって狼煙が上げられた。 それは、上流で待つ北郷に、堰を切るように告げる合図。 すなわち、劉備軍、最後の作戦の合図であった。◆ 自軍が勝勢に乗っているにも関わらず、波才は1人、平静な面持ちを保っていた。 それは、前衛の将兵が、ついに北岸に達したことを知っても変化はない。 その波才の目に、一筋の煙が映った。同時に、部下の1人が声をあげる。波才の作戦など知る由もない、若い兵士である。「波大方、敵陣より、何かの合図らしき狼煙があげられました! あれは、一体?!」 兵士の不審そうな声を聞きながら、波才はほの暗い笑みをもらす。「ふん、なにかしら工夫しているのかと思ったが、狼煙を使うとは。気づかれていないと信じきっているらしいな。侮られたものだ」 その視線は、大清河の上流に向けられ、微動だにしない。「波大方?」「……」 言葉でなく、鋭い眼光で部下の差し出口を制した波才は、迫る勝利の足音を感じつつ、これまでどおり逸ることなく、その時が至るのを待つのであった。◆ 普段は穏やかであろう大清河の流れは、今、おれの眼下で怒涛となって下流へ向かって迸っている。その様は、あたかも、人の力によって、不自然に捻じ曲げられていた大清河が、不遜な人間への怒りを示しているかのようであった。 その怒りに直面することになるであろう波才軍の将兵に、おれはほんの一時ではあるが、同情の念を禁じえなかった。 そんなおれに、傍らにいた貂蝉が声をかけてきた。「ご主人様、作戦はうまくいくと思う?」 おれは、その質問に肩をすくめて答えた。「戦場に踏み込んだことのないおれに、んなことわかるわけないだろ。ただ――」「ただ……なにかしら?」「うまくいって欲しい、とは切実に思う、な」 おれは下流からあがった狼煙を見て、堰を切った。それはつまり、玄徳様たちが、最後の手段であるこの作戦を、使わなければいけない戦況に陥ってしまったということを意味する。 この作戦がうまく行かなければ、その時は、敗北が待っているだけだろう。 敗北は、何もかもを塵に変えてしまう。志も、命も、誇りも、何もかもを。 硬く握り締めていたおれの拳に、硬い感触が感じられた。貂蝉の手だった。「……大丈夫よ、ご主人様。ご主人様たちは、こんなところで負けたりはしないわん」「貂蝉……」 握り締めてくる掌の暖かさに、おれは少しだけ、心に安らぎを覚えた。「たとえ、敵がこちらの全てを上回っていたとしても、ご主人様も、ご主人様の大切な人たちも、私が守ってあげる。だから、心配しないで……」「……ああ、そうかもな。貂蝉が傍にいるなら、何も怖くないって、そう思える」「あらやだ。照れちゃうじゃない」 そういって頬を赤らめた貂蝉は、おれの顔を見て、そっと瞼を閉じる。◆◆ そして、ご主人様は、吸い寄せられるように、私の顔に唇を寄せ……◆◆「るわけないだろうがあああああッッ!!!」「ひゃあッ?」 速攻で貂蝉を突き飛ばしたおれは、素早く安全圏に退避しようとする。逃げられそうもなかったら、大清河に飛び込もう。すごい勢いで流れてるから、多分死ぬけど。このまま、貂蝉に捕まると、間違いなく死ぬから、まだマシだ。 そんなことを考えつつ、おれは、勝手に物語を書きかえようとした貂蝉を問い詰める。「何をやらせる、何をッ?!」「あらやだ、ご主人様だって、その気だったくせにん。私が傍にいれば、何も怖くないんでしょう?」「最大の恐怖が傍にいるから、他のはたいしたことないって意味だッ!!」 「あらやだ。そんな大声で、私が1番だ、なんて。貂蝉はずかしい♪」 1人悶える貂蝉を見て、おれは全身から力が抜けていくような気がした。 実のところ。 今回の作戦で、おれは貂蝉に対する認識を大きく改めていた。 貂蝉は、ただの変態ではないのかもしれない、と。 力仕事で、作戦に協力してくれた、という恩だけでそう言っているのではない。 貂蝉は作戦の間中、部下への目配りや、配慮の仕方など、そういった今までおれとは縁の無かった事柄を、そうとはわからない風を装って、色々指摘してくれていたのである。 おれがそれと気づくのは、いつも後になってからで、つまりそれだけ自然に、かつ丁寧に、貂蝉はおれを導いてくれていたわけだ。 その外見と性格ほどには、貂蝉は奇態な人物ではない。そう考えて貂蝉を見ていると、これまでは見えなかった、あるいは見ようともしなかった面が至るところで見て取れた。 人としての大きさとでも言うのだろうか。玄徳様とは、また違った器量の在り方が、貂蝉からは感じられる――ような気がするのである。 貂蝉は、かつて王允の邸に逗留していたというが、あるいは王允もまた、外見からでは測れない貂蝉の魅力に気づいていたのだろうか? もっとも――「今の貂蝉を見てると、微塵も感じないんだけどな」「あら。何のことかしら?」 不思議そうに首を傾げる貂蝉を見て、おれは小さく笑うだけで、今、考えていたことを、言葉にして伝えることはしなかった。 ――もちろん、誤解された挙句、襲われるのが嫌だったからである。 おれたちが、そんなことを言い合っている最中。 不意に、貂蝉の目が鷹のように細まった。 その鋭い視線は、おれの背後を、射抜くように見据えている。「ご主人様、あれを」 そういって、貂蝉が指し示す先には、一筋の煙があがっていた。疑いようもない、狼煙。対岸で、おれたちとは異なる勢力の誰かが、合図を送っているのである。 だれが? どこに? なんのために? その答えに思い至ったとき、おれの顔から、音を立てて血の気が引いていった。「貂蝉ッ!」「わかってるわん! 玄徳ちゃんたちが危ない!」 素早く行動に移りながら、しかし、おれも、そして貂蝉もわかっていた。 今からでは、何一つ間に合わないであろうことを。 いかに貂蝉であっても、ここから一瞬で玄徳様のもとへ戻ることなど出来はしない。 おれたちの策が、すでに敵に見破られていることを、玄徳様に伝える術は、どこにもないのであった……◆◆ それは、劉備たちにとって、信じられない光景であった。あるいは、信じたくない光景、というべきかもしれない。 総攻撃に出た――そう思われていた敵軍が、一斉に踵を返したのである。 正確に言えば、敵軍全てではない。河半ばまで達していた敵の本隊が、踵を返し、南岸に引き返していくのである。 北岸に上陸していた敵部隊にとってさえ、それは予期しないことだったのだろう。彼らは明らかに狼狽し、混乱していた。 だが、最も驚愕していたのは、劉備たちであったかもしれない。 すでに奔流の計は実行に移されている。だが、敵の素早い退却を見るに、おそらく――否、間違いなく、間に合わない。 まるで、奔流の計が実行される瞬間を見計らっていたかのような、あまりにも鮮やかな退却であった。 そして、それが意味するものは――「し……士元ちゃん……」 劉備が震える声で、自軍の軍師に呼びかける。 だが、その軍師は、口を真一文字に引き結び、主の言葉に答えようとはしなかった。 その場にいた者たちは、それが、答える術がないゆえだと考え――そして、彼らの眼前に、敗北の二文字が瞬いた。 誰一人、言葉を発することが出来ない状況の中、地軸を揺るがすような轟音が、大清河の上流から響いてくる。 自然、この場に集った者たちはそちらに視線を向ける。 数日間、人為によって溜められた大清河の濁流が、全てを押し流さんと押し寄せてくる。 だが、それを引き起こした者たちが、その標的としようとした軍勢は、すでに河の南岸へ達しており、その目的を果たすことは不可能であった。 関羽は、前線部隊の指揮をとりながら、現在の戦況を正確に把握していた。 すでに、自分たちの軍勢から勝機が去ったことも。 これから待ち受けるであろう結末も。 全てを理解しながら、なお、関羽の目から、戦意が消え去ることはなかった。「皆、聞けぇ!」 その口から発されるは、闘将と呼ぶに相応しい覇気の塊。最後の希望の綱であった計略が未発に終わったことを知り、意気消沈していた将兵は、その叱咤を受けて、身を震わせた。「我が軍の奔流の計は、敵の奸智の前に不発に終わった」 自軍の将兵を前に、関羽はひと言で現在の状況を説明し終える。 将兵たちの顔に絶望の陰が忍び寄ろうとする、その寸前。 関羽は言う。 だが、しかし、と。「戦が、これで終わったわけではない! 大清河は荒れ狂い、わずかではあっても敵軍の足を止めるだろう。此度の戦で黄巾党は少なからぬ痛手を負い、我らはなお、数千に及ぶ軍勢を有する。くわえて、県城には、鄒将軍の率いる無傷の官軍が控え、公孫伯珪様の援軍も、数日後には到着されるはずだ」 長大な青龍刀を高々と振り上げ、関羽は兵士たちを鼓舞せんと試みる。「思い起こせ! 我らが尊き志を! 故郷が、家族が、友が、守らなければならぬ者たち全てが、我らの後ろにあることを! ただ一度の不利を味わった程度で、彼らを黄巾党の好餌とすることなど、この関羽、断じて肯わぬ!!」 関羽の言葉が、静寂に満ちた陣地の隅々まで届けとばかりに、高らかに響き渡る。 そして、その声に応じるように、各処で俯いていた兵士たちの顔が、ゆっくりと上げられていく。 その瞳に、絶望とは異なる意思が瞬きだす。「劉の旗の下に集いし、精鋭たちよ! 勇気を奮うは今であり、絶望を払うは今である! この関羽、皆の先駆として、この身、尽きるまで戦うことをここで約そう! 我らが後ろに続かんとする勇士は、剣を掲げよ! 槍を突き出せ! その誇りを我らが主に、そして、我らを見守る皇天后土に示すのだ!!」 黒髪の猛将の猛き叱咤を受け、まず剣を掲げたのは、関羽の周りにいた兵士たちであった。 何かに迷うように、ゆっくりと。だが、途中からは、自らの怖気を払うかのように、力強く。 やがて、それに呼応するように、徐々に掲げられる剣槍の数は増していった。「躊躇うことはない。守るべきものがあるからこそ、我らは戦ったのだ。それが、ただ一度の敗北で捨てられるほど軽いものではないと思うのならば、皆、己が武器を掲げよ」「勇者たちよ! 欲望よりも正義を選び、経文よりも人物を選んだ勇士たちよ! 我らが勇気を、3人の姉妹に示そうぞ! ここで立ち上がらなくて、我らが姉妹に何の顔(かんばせ)あって見えるというのか!」 陳到の静かな深みある言葉が、馬元義の甲高い叱咤が、それぞれの軍で響き渡る。 いつか、劉備軍の将兵は、俯くのを止めていた。 ある者は剣を、ある者は槍を、また弓を掲げ、腹の底から雄雄しき叫びを響かせる。 戦況を思えば、それは強がりに類するものであったかもしれない。顔を上げたからとて、勝利が掴めるわけでもない。 だが、確かに言えることがあるとすれば。 俯いている限り、勝利という名の天上の星は決して見えないということ。それが、手を伸ばせば届くところにあることにさえ、気づかないということであった。 関羽の叱咤によって、士気を盛り返したかに見える自軍を見て、劉備は小さく身体を振るわせた。無論、怖気ではなく、それとは対極に位置する感情ゆえに。 そして、頼もしい仲間たちの様子を見て、劉備自身もまた、気力を据えなおすように、一度、両手で頬を叩く。皆が絶望に負けまいとしているのに、総大将である自分が沈んでいて良い法はない。「士元ちゃん、これなら……」 かすかな希望を込めて、先刻からひと言も発しない鳳統に声をかける。 みんなの勇気が、鳳統に力を与えてくれることを祈って。 だが、鳳統は劉備の希望を否定するかのように、首を横に振る。「玄徳様、私たちは勝てません」「し、士元ちゃん、そんなこと……!」 慌てて否定しようと、口を開きかけた劉備に、鳳統はもう一度、首を横に振ってみせる。 その視線は劉備には向けられず、大清河の南。陣容を整え、河の流れが落ち着き次第、決着をつけようと逸りたっている波才の軍に向けられている。「……戦場において、勝利を決する要諦の第一は兵力です。その点において、私たちは、はじめから大きな不利を背負っていました。そして、結局、最後までそれを覆すことはかないませんでした。私が考えていたとおりに……」 その言葉を聞いて、さすがに劉備の眉が急角度に上がった。「士元ちゃん! 軍師のあなたがそんなこと言ったら、一生懸命戦った愛紗ちゃんたちが!」 「……関将軍やみなさんには、申し訳ないことですが、私たちが出来るのは、精々、時間を稼ぐことと、戦場を限定することくらいだと、私は考えていたんです。今の私たちの力では、それが限界……」「……士元ちゃん?」 不意に。 劉備は傍らに立つ少女が、まるでこれまで知っていた鳳統という名の少女とは別人に思えた。 周囲の空気が、一瞬のうちに数度下がったかのように、背筋が震える。 それはきっと、恐れではなく、畏れ。 人の身に封じられていた何かが解き放たれる瞬間を、自分は見ているのかもしれない。 何故か、劉備はそんな風に思ってしまった。 ――もっとも、その奇妙な考えは長続きしなかったが。「玄徳様!」 くるり、と鳳統は身体を翻し、主の顔を見上げた。 一瞬、息を飲んだ劉備だったが、そこにいるのは、劉備が良く知る、鳳士元という名の女の子だった。 その顔に満ちるのは―― 満面の笑み。「あの、えっと、士元ちゃん?」 あまりにも唐突な変化と、そして状況にそぐわない鳳統の表情に、劉備は混乱したように目を丸くする。「玄徳様、今、言ったように私たちは勝てません。でも、黄巾党は、ここで終わりを迎えます」「ふえ?!」 劉備軍は勝てないけど、黄巾党は負ける? なぞなぞのような鳳統の言葉に、劉備は戸惑いを隠せない。 その劉備に答えを示そうと、鳳統の指が、ある方向に向けられる。 その方角とは、南。最初に劉備の目に映ったのは、河の水面と、布陣する波才の軍。「その、もっと向こうです」「へッ?!」 波才の軍の、更に向こう? 劉備が目を細めて、そちらの方向を見やる。 すると……「あれ? なんか、すごい砂埃が舞ってない?」「ええ、舞ってますね」 劉備の問いに、鳳統が微笑んで頷く。「あっちって、平原がある方角だよね? え、もしかして、敵の援軍なのッ?!」「……あわわ、玄徳様、そうだったらさすがに、私も笑っていられません……」 鳳統は、困ったように首を傾げる。 一方の劉備は、鳳統の言わんとしていることがわからず、混乱しっぱなしであった。 だが、不意に、遠方より接近してくる軍が掲げている旗印が、劉備の目に飛び込んできた。 その旗印は――◆◆「ふー……」 程立は食後のお茶を飲み干し、満ち足りた顔で息を吐き出す。 窓からは燦々と陽光が降り注ぎ、くちた腹とあいまって、その場にいる者たちの眠気を誘うようだ。「というより、これはむしろ寝ないと罰が当たりそうなのですよ……ぐー」「早速寝るなッ」 賈駆のこぶしが、程立の頭をぽかりと叩いた。 賈駆が席から立ち上がり、憤然として口を開く。「というか、なんであんたたちは、そんなに和んでるのよ! ボクたちは大変な知らせに顔を青ざめさせてるのに!」「ををッ? 失敬失敬、あまりの陽気に、ついうとうとと」「公孫賛の援軍が来られなくなったって教えてくれたのは、あんたたちでしょうが! どうしてそこからご飯をご馳走になった挙句、昼寝するという状況になるの!」「え、詠ちゃん、詠ちゃん、失礼だよ。仲徳さんに謝って」 いきりたつ賈駆の袖を、隣に座った董卓が引っ張り、賈駆は不承不承、席に座る。 その賈駆に、程立が一行に緊張した様子を見せずに、説明してみせた。 「それはですねー。ここで風たちが何をしても、もう状況に変化を起こすことは無理だからなのですよー。なら、すこしでも休息をとって、次の事態に備えるのが賢明というものなのです」 程立の横で、同じようにすました顔で食後のお茶をすすっていた戯志才も、冷静に頷いた。「風のいうとおりです。もはや賽は投げられました。私たちに出来るのは、何の目が出るかを確認することだけです」 戯志才の言葉に、賈駆はさらに口を開きかけたが、それより先に、董卓が賈駆を叱り付ける。「詠ちゃん、他の人に失礼なこと言ったら駄目だよ?」 め、と言うように睨んでくる董卓に、賈駆は勢いを止められてしまい、小さくため息を吐く。 賈駆はつまらなそうに再度、口を開いた。「まあ、私は月さえ無事ならそれで良いんだけど、あんたたちは軍議の席にも出たし、官軍の将軍にも進言できる立場なんでしょ。こんなところで油を売ってて良いの?」「それなら心配ないですね。鄒将軍には、もう全部、言っておきましたから」「……みんな押し付けてきた、とも言えますね、あれは」 戯志才が呆れたように言うと、程立が気の抜けた声で反論する。「それは誤解というものです、稟ちゃん。苦労が深いほど、報われたときの喜びは大きくなるもの。風は、やがてくる勝ち戦の報を、より深く味わってもらうために、鄒将軍に泣く泣く雑事を委ねてきたのですよ」「物は言いよう、とはよくいったものです。しかも、自分で雑事といってるではないですか」 程立の言い分を、一刀両断にする戯志才。 戯志才の言葉に含まれた意味に、気づかない賈駆ではない。はっとした様子で顔色を改める。 だが、今度も賈駆より先に口を開く者がいた。 董卓である。「あ、あの、あの、勝ち戦って……」 程立と戯志才は泰然とし、賈駆は憤然としているこの場にあって、董卓は1人、憂色が消せなかった。 董卓も、賈駆も、事情が事情である為、劉佳の傍仕えという形で日々を過ごしており、軍議の席には出ていない。しかし、一時とはいえ、天下を握りかけた主従である。今の状況が理解できないわけではなかった。 劉家軍の人たちは、董卓らにとって恩人である。 そして董卓は、現在の主である劉佳が、娘たちの無事を祈っている姿を何度も目にしている。おそらく、城内の他の人々は気づいていないだろう。人前では、にこやかな笑みを崩すことがない方だから。 だからといって、心配でないわけはないのだ。そのことを知った董卓は、何とかその憂いを払って差し上げたいと考えていたのである。 そんなところに、今回の知らせである。 ただでさえ、不利な戦を強いられている劉家軍。まして、頼みの綱である公孫賛が来られなくなったと聞けば、平静ではいられなかった。 しかし、今、程立は勝ち戦と口にした。それはどういう意味なのか。「ふむふむ、では、これを見てみてください」 問われた程立は、懐から球状のものを取り出し、卓の上に置く。「……卵?」「はい、卵ですー。で、これをこう、積んでみるのですよ」 そういうと、程立は懐から幾つもの卵を取り出し、次々と積み重ねていく。 程立は意外な器用さを発揮して、卵を幾層も積み重ねていくが、不安定な楕円形をした卵で出来たものは、やはり不安定にならざるを得ない。 董卓は慌てて、崩れそうになる卵の塔を支えるように手を伸ばす。「わ、あ、く、崩れちゃいませんか、これ?」「そう。これがいわゆる累卵の危うきにある、という状況なのです。まさしく、今のこの城ですねー」 卵塔の珠玉の出来に、程立が満足そうに微笑むと、賈駆がぼそっと呟いた。「ていうか、そんなにたくさんの卵をどっから持ってきて、どうやって割らずに懐に持ってたのよ、あんたは?」「さて、質問なのです」「無視ッ?!」「今、風が黄巾党になって、この塔を崩そうと近づいていきますー。そして、おねーさんは塔を守る人たち――つまり、私たちです。さて、ここでおねーさんは、塔を守るために、何をするのが1番良いと思うですか?」 なにやら憤然としている賈駆を華麗に無視しつつ、程立は董卓に問いかける。「え、ええと、それは……」 うーん、と董卓は積み重なった卵を見ながら、真剣に考え込む。 とりあえず立ち上がり、ぱたぱたと足音を立てて、程立の前に立ちふさがる董卓。「こ、こう、でしょうか?」「でも、そうすると、風はこう動くのですよ」 そう言うと、程立は同じようにぱたぱたと移動して、董卓がいない方向に回り込む。それを追う董卓、そこから逃げる程立、しばらくの間、何故か鬼ごっこが続いた。 そして、2人が動き回る微細な振動でさえ、不安定な累卵の塔にとっては致命的であったらしい。不意にがらがらと音をたてて崩れてしまった。 董卓が小さく息をもらす。「ああ……」「……と、まあ、こんなことをしている間にも、塔は崩れてしまうのです。塔を崩したくなければ、とりあえずおねーさんが支えてあげるのは必須なのですよ」「でも、それだと仲徳さんが崩しちゃいますよね?」「もちろんなのです。そして、それが、大雑把にいって、今の戦局なのですね」 ただ守っているだけでは崩される。崩されないように動きまわっても、自然に崩れ落ちてしまう。そんなものを、どうやって守るというのだろうか。「では、答えは来週発表――」「引っ張りすぎです」 それまで話に加わらなかった戯志才が、程立の頭をぽかりと叩く。「おおう。稟ちゃん、もうちょっと手加減してほしいのですよー」「何を言ってるんですか、物資が不足しているこの時に、大切な食料を持ち出してきておいて」 ため息を吐きながら、崩れた卵を1つ1つ手近の籠に入れていく戯志才。ちなみに、ゆで卵なので割れてなかった。「後で、厨房の人たちに謝りにいきますよ。良いですね?」「……ぐー」「寝たふりするな!」 再度、戯志才のこぶしが宙を飛んだ。 あわあわと慌てる董卓に向かって、戯志才は眼鏡の位置を直しつつ、口を開く。「まあ、風の例え方はよろしくなかったですが、言っていることはこういうことです」「え、え?」 戯志才の言葉の意味がわからず、一瞬、董卓はぽかんとする。 そんな董卓に向かって結論を口にしたのは、戯志才でも程立でもなく、それまで蚊帳の外にいた賈駆であった。「つまり、仲徳――黄巾賊を止めるのは、何も月自身でなくてもかまわない、ということよ」 そう口にする賈駆に、すでに知らせを聞いたときの動揺の気配はない。 程立たちの会話の中で、すでに答えに気がついたのであろう。「つまり――」◆◆ 波才は、眼前で荒れ狂う濁流を眺めながら、会心の笑みを閃かせていた。 最後の希望である計略を、見事に打破されたのだ。敵の将兵が受けた衝撃は、並大抵のものではあるまい。張家の姉妹の扇動とて、体力が尽きれば効果も上がらぬ。「もはや、敵は戦う体力は尽き、気力は果てた。我らはただ、凋落の軍勢を討ち取るのみ。勝利はすでに約束されたぞ!」 波才自らがその旨を知らしめると、配下の軍勢から歓呼の声があがる。戦えば勝つ。必勝の戦いを前に、将兵は凶熱的に騒ぎ立て、その士気は多いに高まった。 不要であった脆弱な部隊も、敵の手で排除できた。 全てが、波才の思惑通りに進んでいる。 後は、一戦して敵を蹴散らすのみ。 大清河の流れが鎮まれば、今度こそ、劉備軍を完膚なきまでに殲滅してくれよう。敵が県城まで退いたところで、もはやこちらの勢いをせきとめる術は、敵にはない。 向こう岸で何やら叫んでいる者がいるが、所詮、最後の悪あがきに過ぎぬ。 波才が、そこまで考えた時。「ぬぅッ?!!」 唐突に。 波才の全身を、悪寒が襲った。 かつて、波才が感じたことのない、冷たい感触。 それは、まるで冥府の羅卒に全身を舐められたかのようで……「なんだと、言うのだ……?」 戸惑ったように周囲を見回しても、波才に危険を知らせるものはない。配下の将兵たちも、波才に畏怖と崇敬の念を向けるのみで、害意を宿した者はいない。 だが、気のせいだと安心することは出来なかった。 大清河の水流を見た時に感じた違和感とは、比べ物にならないほどの奇怪な確信がある。今、感じたのは、まぎれもなく、この身に迫る危機なのだ、と。波才に流れる戦士の血が、迫り来る絶望的な何かを恐れているのだ、と。「ばかな! 今、この時に、一体、どんな危機があるというのだ」 波才は、自分の内心の声を、一笑に付した。 これまで、決して等閑にすることのなかった直感から、はじめて、波才は目を背けた。 それも仕方が無いことであったかもしれない。 ――もう逃げられない。 そんな直感を受け容れることなど、出来る筈がなかったから。 だが。「も、申し上げますッ!!!」 破局は、目を背けようとも、止まることはなく。「は、背後から、多数の軍勢が接近中です!!」「慌てるな。おおかた、平原の留守居どもが、手柄ほしさに参陣してきたのだろう。指揮官を呼べ。勝手に任地を離れるなど、厳罰に……」 だが、兵士は、波才の言葉など聞いていなかった。 波才の無意識の逃避を遮り、その兵士は近づいてくる軍勢の名を叫ぶ。 そして、それを聞いた時。「敵軍、およそ5万!! 中央に掲げられた牙門旗は『袁』!! 冀州の、袁紹の軍勢ですッ!!!」 ――はじめて。 これまで、決して動じることのなかった波才の顔が、はじめて、ひび割れた。