県城の城外に集った1万の軍勢は、今、正に出陣の時を迎えようとしていた。 その編成は元黄巾党の兵士を中心とし、その上に劉家軍の兵士たちを据える、という形となっている。劉家軍の兵は、関羽の教練を受け、実戦を経験して鍛えられてきた兵たちであり、元黄巾党の兵士たちを統べることは可能な筈であった。 部隊は4つ。 劉備、関羽、張角の中軍。陳到、張梁の右軍。馬元義、張宝の左軍、いずれも3千名の兵士を率いる。 更に、遊撃部隊として、張飛、鳳統が1千名の部隊を率いる。これは全軍が騎馬兵で編成されていた。 元々、幽州は北方の騎馬民族と、地理的に近しい関係にある。そのため、遼西ほどではないにせよ、琢郡も騎馬部隊の数が多い。 この遊撃部隊は、官、劉、黄巾等の所属を問わず、騎馬兵として動くことの出来る兵をことごとく集中させた精鋭部隊であった。 張家の姉妹が三軍に均等に配されたのは、もちろん、士気高揚の為であったが、その効果は早くも明らかになりつつある。 出戦する各部隊に、張角たちがそれぞれ帯同することを知った兵士たちは、迫り来る決戦が自分たちに不利なものであることさえ埒外に放り投げ、張角たちに勝利を捧げん、と鼻息荒く雄叫びをあげるのであった――◆◆ 県城から、意気上がる軍勢が出立する日。 おれは彼らを見送ることはしなかった。何故なら、彼らより先に城を出ていたからである。 その目的は、工作部隊を率いて、大清河の流れを堰き止めることであった。 玄徳様たちが出陣した、という知らせを受け取ったとき、おれは泥と砂に塗れて、土嚢を担いでは運び、運んでは河に放り投げ、せっせと大清河の流れをせき止めている真っ最中であった。 ――隠しようもないので、正直に明かすと、水攻めの準備をしているところです。 当然といえば当然だが、河を堰き止める、というのは大変な作業である。 物語の中でなら、一行が二行で描写されるところであろう。「鳳統が頃合を見計らって、合図をする。堰き止められていた大清河の水勢が、轟音をたてて解き放たれ、波才軍を次々と飲み込んでいった……」とかいう具合に。 だが、実際に水計を用いるとなれば、それに先立つ準備というものが必要なのである。 それも、敵の斥候に見つけられては意味がないから、なるべく短期間に、なるべく目立たぬように造らねばならない。そしていざ発動というとき、なるべく効果的に崩せるように工夫しておかねばならないのだ。ただ土嚢を積み上げれば良い、というわけではないのである。 懸命に仕事に従事するおれたちに、天に輝く月が金色の光を投げかけてくる。 すでに戦端が開かれるまでのタイムリミットは始まっている。作業は昼夜兼行で進めなければならないのだ。 そして、そんなおれを、うっとりした眼で見つめる視線が……「飛び散る汗、弾む肉体、悩ましげな息遣い……ああ、太陽の光の下のご主人様も素敵だけど、月明かりに映る姿も、また違った味わいがあるわねえ……」「働け、そこ」 なにやら身悶えしている貂蝉を半眼で眺め、おれは短く注意した。 土嚢の他に、河に打ち込み、土嚢を積む土台とする杭やらなんやらも作っておく。どうすれば効率よく流れを堰き止められるか。どう積めば、即席の堰が用を成せるのか等、細かい指示は軍師たちからもらっていたとはいえ、実際にそれを作り、組み立てるのは、おれたちの役割である。 高校に通っていた時分に、学校に内密で肉体労働のバイトをしたことがあるのだが、当時は、きついなーと思っていたバイトも、今やっていることに比べたら、もう鼻歌交じりでも出来そうだ。 忙しさも、身体への負担も、全く異なる。やはり、作業の工程を、ほぼ全て人力に頼らざるを得ないという点が大きいのだろう。時代が違うのだから、当たり前といえば当たり前なんだけどな。 といっても、あくまでそれはおれを基準にしての話であったようで、部隊の中には、ほんの一握りではあるが、この重労働に全然堪えていない人もいた。 貂蝉なんかは、土嚢をお手玉しつつ運んだりしているもんだから――みんな、目を点にして見ていた――大多数の人は、貂蝉が部隊長だと考えているのではなかろーか。 ちなみに、本当の隊長は誰かというと。 ……いや、実はちょっと言いにくいのですが。 この部隊の隊長、私こと北郷一刀です。 まあ、部隊といっても、たかだか百にも満たない工作部隊なんだけど。 諸葛亮曰く。おれも、そろそろきちんとした功績をたてる必要があるらしい。 確かに、劉家軍の規模も膨れ上がり、参画する人数も増大の一途をたどっている。輜重部隊の改善や、不満処理をしているだけの人間が、玄徳様たちの周囲にうろちょろしていては、他の人からの目が厳しくなるのは明らかであろう。 それが、おれ個人に向けられるならまだしも、玄徳様への不満となってしまえば、冗談事では済まされない。 そんなわけで、おれは数十人からの若者たちで成る工作部隊の指揮を執ることになった。もっとも、工作部隊といっても、その実態は力自慢たちを集めただけのものであり、別にその道の玄人を配下にしたわけではない。 気心の知れた劉家軍の人たちは、大半が出撃部隊に加わっている。そのため、部隊員を選ぶにしても、面識のない元黄巾党や、志願兵の中から、選り抜かなければいけない。 はじめ、おれは次のように考えていた。 理想を言えば、気は優しくて力持ち、みたいな人が良いのだが、生憎、そううまく事は運ばないだろう。人数自体は、さして苦も無く集められるだろうが、指揮を執るのが、おれのような若造だとわかれば、自分の力に自信がある者ほど、不服を口にする筈だ、と。 だが、おれの予想は、外れた。より正確に言えば、不服を口にする者は確かにいたのだが、それは表面化する前に解決してしまったのである。 理由は―― いつのまにやら、おれの傍で部隊に加わっていた貂蝉が、おれに不平をもらす人間を、片っ端から説得してしまったからであった。 ……まあ、何人か、顔にキスマークつけて、泡吹いて倒れてたりしたんだけど。どんな説得をしたのかは、怖くて聞けなかった。 倒れた人たちに関しては、恐れ多いことながら、玄徳様の母君であられる劉佳様が介抱してくれた。「このくらいのこと、お安い御用ですよ」 と言って、コロコロと笑う劉佳様に、おれは恐縮しきり。主君の母君に何をさせてるんだ、と怒られても仕方ないところだ。かといって、作戦までの時間を考えれば、おれが介抱するわけにもいかないので、お願いしてしまった。 ちなみに、劉佳様の傍で、侍女に扮して仕えていた董卓と賈駆も手伝ってくれたそうである。 多分、賈駆は「なんでボクがこんなことを」とぶつぶつ言っていたのだろうな。 おれがそう口にすると、劉佳様はちょっと困ったような顔をされた。図星だったらしい。 任務に就く前から若干の離脱者を出すというハプニングはあったものの、おれは、なんとか初の隊長任務をこなすべく、初日から奮闘した。 そして前述したとおり、おれ以上に奮闘してくれたのが貂蝉である。「ぬふふ、ほらほーら、いとしのご主人様の初の檜舞台、失敗は決して許されないわ。みな、全身全霊を込めて、任務を成功させるのよ」 そう言いながら、率先して土嚢を担ぎ、用水路を築き、貯水池(元々、低地にあった土地を拡張してつくっている)を広げていく。いずれも素早く、手際も良く、文字通り瞬く間に作業は進められていった。多分、貂蝉1人で30人分くらい働いていたと思われる。 全身、これ筋肉か。恐るべし、洛陽の踊り子。 最初は、そんな貂蝉を唖然としてみていた他の者たちも、やがて貂蝉の働きを見て発奮し、作業をこなす速度は、全体的に見ても加速度的にあがっていった。 彼らもまた、県城に残った家族や、自らの故郷である琢郡を守りたいと願い、ここまで来た者たちである。やる気に関しては貂蝉に劣る筈がない。 この作業が、黄巾党を壊滅させる策の一端であることを知る彼らにとって、この場で力を惜しむ理由はどこにもないのである。 かくして、交代で休憩をとりながら、部隊としては昼夜兼行で作業を続けること数日。 お粗末な出来ながら、かろうじて物の役に立つ堰が完成した――一応断っておくと、粗末なのは外見だけで、内実はしっかりした造りになっている。 その証拠に、眼前の大清河の流れは、しっかりと堰き止められており、用水路を通った河水が、順調に貯水池の水位を上げている。 後は、戦闘部隊からの合図があり次第、堰を壊し、貯水池を解放すれば、満々と湛えられた水は、怒涛となって下流に押し流されていくだろう。 城を出る前に聞いていた予定通りに両軍が進んでいるのならば、それは明日。 作業が完成した今、その戦いの勝敗に直接関与することが出来ないおれにとって、出来ることは、ただ仲間たちの武運を祈ることだけである。「……長い1日になりそうだわねえ」「……そうだな」 おれは貂蝉と2人で、大清河の畔に立ち、川面を流れる水の動きを眼で追った。 この滔々とした流れが下流に向かい、そこで布陣しているであろう劉家軍のところに辿りつくまで、果たしてどれだけの時間がかかるのか。そんなことを考えながら。◆◆ 偵察によって、敵軍が大清河の南に進出してきたことを知った波才は、しかし、行軍の予定を変更することはせず、ただ堂々と軍を進めるのみにとどめた。 なまじ、不利な地点に布陣した敵を討とうと欲を出せば、陣容に乱れが出る。そこを、背水の陣によって死兵と化した敵に衝かれれば、苦戦は免れないと考えたからである。 波才は別に敵を恐れているわけではない。敵が奇策に出たということは、つまるところ、正攻法では勝てないと判断したからに過ぎない。 ただ、無用の損害を嫌ったゆえに、無理を慎んだのである。 勝利の要諦である兵力は、波才軍が敵を圧している。後は、この兵力を正攻法で運用すれば、勝利はおのずと波才の手の中に転がり込んでくるだろう。いつものように。 ただ1つだけ、いつもの波才軍と異なる点といえば、農民たちを狩り出して先鋒に立たせる、という常の戦法をとっていないことである。 その理由の1つとして、琢郡近辺の町や村に住む民の多くが、波才軍の侵攻を知って身を隠した為に、道々で人狩りが出来なかったことが挙げられる。琢郡の県城に逃げ込んだ者もいれば、付近の山林に身を潜めた者もいる。いずれにも共通しているのは、県城からの知らせによって逃げ出した、ということだった。 これは無論、諸葛亮、鳳統らの作戦の一環であった。波才の戦い方は、張梁や馬元義によって詳細に知らされており、それに先手を打った形である。 ただ、この手は、波才軍の占領下にある平原郡までは及んでいなかった為、波才がその気になっていれば、そちら方面の民衆を駆り立てることは可能であっただろう。 しかし、そのために要する時間を、波才は惜しんだ。時間をかければかけるほど、琢郡の防備は固まってしまう。そこに公孫賛の援軍が加われば、負けはしないにしても、要らぬ時間を浪費し、無用の損害を被る羽目になりかねない。そう判断した波才は、自軍のみでの出陣を選択したのである。 そして。 敵軍を視界の彼方にとらえるに至った波才は、物見の部隊からの報告に、口許をわずかに歪めた。「誰かは知りませんが、小癪な輩がいるようですね」 かつて、波才らが主と仰いだ3人の姉妹が、遠くに布陣する敵の部隊に加わっているとの知らせは、波才に敵軍の中の策士の存在をはっきりと伝えていた。「もっとも、いささか認識が甘いようですがね。今更、張角たちを持ち出してきたところで、こちらの動揺なぞ誘えはしません」 その言葉どおり、波才軍は動揺も混乱もなく、敵軍との距離を詰めていく。 そして今、両軍は相手を指呼の間に捉える。 陣頭に将が立って、相手に呼びかけることはない。すでに、互いが不倶戴天の敵であることを知悉するゆえに、戦いの始まりは、言葉ではなく、抜き放たれた剣であり、掲げられた槍であった。◆ 後に『大清河の戦い』と呼ばれることになる戦において、最初に動いたのは劉備軍であった。 4つに分けられた部隊の内、陳到、張梁の率いる右軍と、馬元義、張宝の率いる左軍が、波才軍に向かって突撃を開始する。 数において圧倒的に劣る劉備軍から攻めかかる。この攻撃は、波才軍の意表を衝くかに思われたが、帥将である波才は、この攻撃を予期していた。 背水の陣を布いた以上、縮こまっていることに意味はない。前進して活路を開く道を、劉備軍は選ぶであろう、と。「放てぇ!!」 波才軍の先陣から、一斉に矢が放たれる。矢羽が風を裂く音が、数百、数千と重なり合い、劉備軍に襲い掛かる。 右軍を率いる陳到は、全軍に盾を構えさせ、次々と襲い掛かってくる矢を受け止め、あるいは払いのけつつ、じりじりと敵との距離を詰めていく。 陳到にとって、千を越える軍勢を指揮するのは、初めての経験であったが、その指揮ぶりは堂に入ったもので、敵の弓箭兵の攻撃は大した効果をあげることが出来ずにいた。 陳到が注意したのは、敵の攻撃よりも、むしろ味方が指揮に従わずに突出してしまうことであった。 人公将軍 張梁を慕う兵たちで構成され、作戦として退路を断たれた右軍の士気は、否応なく高まっているが、それはともすれば陳到の制止を振り切り、遮二無二、波才軍に突撃しようとする動きへとつながりかねない危険を内包している。 その為、陳到は懸命に軍の手綱をとらなければならなかったのである。 後方に控えた張梁からも、陳到の指揮に従うようにという命令は出ているのだが、高揚した戦意は、兵士たちの冷静さを少なからず奪ってしまっており、戦局において不安定なしこりを生じさせつつあった。◆ 右軍が兵士たちの統率に苦慮していた時、そんな苦慮とは一切無縁であったのが、左軍の馬元義、張宝の部隊であった。 劉備軍は、中左右の3軍に張家の姉妹を配したとはいえ、指揮権は各将軍に与えられている。しかし、ただ左軍のみは、名実共に、張宝が部隊の指揮官として動いていた。「みんな、もっちろん、ちぃのこと、守ってくれるわよね?」『応!』「ちぃに似合うのは、笑顔と泣き顔のどっちかなー?」『笑顔だ! 笑顔だ!』「ちぃに相応しいのは、勝利と敗北、どっちだろー?」『勝利! 勝利! 勝利!!』 張宝の言葉に、兵士たちの興奮がみるみるうちに高まっていった。その士気は、中軍、右軍を凌駕し、彼らの雄叫びは戦場全体を駆け巡るかのようであった。 何故ならそれは、作戦として高揚を促されたものとは異なる力だから。 彼ら左軍の兵士を熱狂させるのは、彼らに訴える少女の言葉。仕草。そして、その心。 全てが織り合わさって、将兵を華やかなる舞台へ誘い行く。 敬愛する人を守ってみせるという誓い。 大切な人に笑顔でいてほしいと願う祈り。 崇拝する人のために勝利を捧げようとする決意。 これより彼らが向かうは、その全てが懸かった戦場という名の舞台。張宝の言葉は、彼ら将兵に、その舞台の主役が己であると信じさせる力に満ち――全ての兵士たちの士気を沸点へと導いていく。 3千に及び将兵の戦意は、今や沖天に達する勢いとなり。 彼らを導いた戦乙女は、正しく、その戦意を正面の敵へと叩きつける。「みんなッ! ちぃのために戦い、ちぃのために勝利して、ちぃのために生きて帰りなさい!!」『おおおおおッ!!!』 全員の注目を惹き付けるように、張宝は一呼吸置いた上で、高らかに命令を下す。「全軍、突撃ッ!!」 ◆ 中軍に控える劉備、関羽、張角は、後方にあって、先陣をきった左右軍の動きを見ていた。 ことに、味方をすら置き去りにして、敵軍深く突っ込んでいってしまった左軍の勢いには、目を見張らざるをえない。「なんともはや……」 呆れたような、感嘆したような、どちらともつかない声をあげる関羽。「うわー……すっごいねえ」 左軍のあまりの勢いに、劉備は眼を丸くしている。 その隣で、張角が困ったように、頬に手をあてていた。「あらー、ちぃちゃん、めずらしく舞台以外で本気出しちゃったのかな?」 張角の言葉を聞き、劉備が額に汗を浮かべる。「そ、そうなんだ……ねえ、ねえ、愛紗ちゃん?」「なんですか、桃香様?」「もし、伯姫さんたちが本気で黄巾党を率いて天下を狙ってたら、今頃、大変なことになってたかもしれないね」「……同意せざるをえませんね」 左軍は、元々、張宝ファンで固めているとはいえ、それを統べる中級指揮官は劉家軍の者たちである。だが、張宝は、ファンという下地を持たない彼らさえ、たちまちのうちに熱狂の渦に巻き込み、戦場へと導いてしまったのである。 扇動という言葉では到底足らない、それは天与の魅力(カリスマ)に他ならない。そして、その魅力を活かし切ることのできる張宝の手腕は、関羽ほどの猛将でさえ、背筋が寒くなるほどであった。 武勇を競えば、あるいは軍略で対峙すれば負けるつもりはない。しかし、張宝と対峙した者は、そういった軍事の力量以前に、勢いだけで蹴散らされてしまうのではないか。関羽には、そんな風にさえ思えるのだ。 「ところで、愛紗ちゃん、作業は順調?」 劉備の問いに、関羽はしっかりと頷いた。「問題はありません。元々、孔明たちの準備は万全でしたから、私は指示されたとおりにするだけです」「そっか。さすがは孔明ちゃんと士元ちゃんだよね。えーと『謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決する』……だっけ?」「り、留侯(前漢の張良)ですか、桃香様がそんな例えをされるとは……」「えへへー、私だって、いつまでも昔のままじゃないんだよ。ちゃんと勉強だってしてるんだから――って、愛紗ちゃん、そんな涙ぐまなくても……」「こ、これは失礼しました。まさか、桃香様の口から『勉強』などという言葉が自主的に出てこようとは……」 なんだか「我が生涯に悔いなし」とでも言い出しかねない関羽の感激ぶりに、劉備は冷や汗を流しつつ、ぼそっと呟いた。「――勉強しただけで、ここまで感激されるっていうのも、ちょっと複雑かも……」 その劉備のぼやきが終わらぬうちに、中軍のもとに県城からの使者が訪れる。 県城から駆け続け、大清河の流れを泳ぎぬいたその人物の報告は短かった。 が――「易京城にて、反乱勃発。公孫伯珪様、動けず」 その内容は、劉備たちの顔色を奪うに充分なものであった……◆ 波才軍は、重厚な防御で距離を詰めてくる陳到の右軍に合わせて動こうとした矢先に、矢石の雨を縫って突っ込んでくる張宝の左軍の突撃を受け、咄嗟に対応が取れず、その肉薄を許してしまう。 このまま弓箭兵を以って敵を削っていくか。それとも、槍先を揃えて、敵を迎え撃つか。 敵軍に生じたわずかな逡巡を、左軍は見逃さなかった。馬元義を先頭に、一気に突撃をかける左軍は、その溢れる戦意で、敵の第一陣を文字通り一蹴してしまう。 馬元義によって空けられた陣容の一穴は、左軍の猛攻によって、瞬く間に広げられていった。 そして。 波才軍の注意が左軍に惹き付けられた瞬間、陳到もまた、右軍に突撃の号令を下す。 その判断は絶妙を極め、左軍によって開けられた戦線の穴埋めをしようとしたところに、新手の、それも別方向からの突撃を受けた波才軍は、左右の頬を続けざまに打たれたに等しい状況に陥った。 波才軍の前線指揮官は咄嗟に下すべき指示に迷い――そのためらいは、瞬く間に配下の兵士たちに混乱をもたらしていった。 第一陣から「苦戦」の報告を受けた波才は、しかし顔色1つ変えることはなかった。 戦場の匂いに逸った部下たちは、口々に出撃の許可を乞うが、波才はそれらに冷厳な一瞥をくれるのみで、本営の兵を動かすことはなかった。「少々、督戦に慣れすぎましたか。民という盾がなくなった途端、この体たらくでは、今後も物の役に立ちませんね」 胸中でそう呟きながら、波才は敵軍の動きを観察する。 鍛え上げた筈の軍勢は、敵の勢いにたじろぎ、すでに前線は混戦状態になってしまっている。 今のところ、戦闘に参加している波才軍は前衛のみとはいえ、その数は優に敵の数倍。勢いだけの敵軍など、覆滅していてもおかしくはない――にも関わらず、現実は敵は思うように軍を動かし、こちらはそれに振り回され、自ら傷口を広げている有様であった。「率直なところ、少々、甘く見ていましたか。勢いだけと思っていましたが、どうしてどうして、なかなかに有能な将もいるようです。しかし――」 波才は第二陣へ伝令を飛ばし、突進してきた部隊の後方を脅かすように指示を下すと同時に、第一陣へは、防御に徹し、敵の浸透を許さぬように厳命する。 敵の両翼と、中央の軍を分断できれば、戦力比は更に開く。勝利は、より確実なものとなるだろう。 かりにうまくいかなかったとしても、それはそれでかまわない。 後方を扼す動きを見せれば、敵は動揺する。背水という劇薬の効果に、一時、猛り狂っている敵軍だが、その効果は有限であり、ある時期が過ぎれば、敵兵は疲れ果て、将の指示に従うことさえ出来なくなろう。 ただ時間を稼いでいるだけでも、勝利は波才の手元に転がり込んでくるのである。 波才がそこまで考えたとき。「よろしいでしょうか?」 いつまで経っても聞きなれない男の声が、波才の鼓膜を震わせた。「戦闘中の指揮官の耳に入れるに足る情報なのでしょうね?」「無論。勝敗を決する要素ともなるでしょうね」「ほう? 何事ですか、于吉」 于吉の言葉に、常とは違うものを感じた波才が促すと、于吉は口を開き、あっさりと言った。「左慈の工作が成功しました。遼西の公孫賛は動けません」 ぎらり、と波才の目に鈍い輝きが宿る。それは漢族ではなく、戦の勝利の匂いをかぎつけた匈奴の戦士の眼差しであった。 波才の口調が変わる。「たしか、あの小僧が何をしているのか知らない、と言っていなかったか、貴様」「私も、左慈から知らせを受け、ようやく知ったのですよ」「……まあ良い。その情報は確かなのだな?」「疑うのならば、確認のほどを。しかし、それでは戦機を逸するのではないですか?」 ふん、と先刻とは似ても似つかぬ粗暴な素振りで、波才は腕組みをする。「公孫賛はなかなかの善政を布いていると聞く。その領内、しかも本城で反乱を起こさせるなど、幻術でも使ったのか?」「どれだけ良き政事を行おうと、不満を持つ者はどこにでもいます。女の太守、ということに不服を抱いている者も。幻術など用いずとも、そこを衝けば良いのですよ」 その言葉を聞いた波才の目が、すっと細まる。言い方を変えれば、波才軍に、同じことを起こすのも容易い、と于吉は言っているに等しい。(やはり、生かしておくのは、危険すぎる) この戦が終わった後、于吉たちは処断する。波才はそう決めた。 だが、今はまだ戦の最中。勝利を確定させるまで、油断してはならない。 とはいえ、今の知らせで、波才軍の勝利は、より確実なものになった。ここから挽回するのは、古の韓信が甦ったところで、容易くはあるまい。 「さて、どう動く、劉玄徳?」 波才の顔に、酷薄な笑みが浮かんだ。◆「敵、第二陣、動き出しました。左右軍の後背を扼すためと思われます!」 斥候の報告に、張飛は手を叩いて喜ぶ。「おー、士元の言ったとおりなのだ! やっと鈴々たちの出番~!」「はい。私たちは左右軍の退路を断とうとする敵の、さらに後背を衝きます。張将軍は、騎馬の機動力を利し、縦横無尽に、燕人張飛の勇名を轟かせてください」「まかせておくのだッ! 突撃、粉砕、勝利なのだッ!!」 鳳統の言葉に、張飛は蛇矛を振り回し、勇み立つ。 だが、つとその動きを止めると、張飛は覗き込むように鳳統の顔を見やった。「……ち、張将軍、どうかなさいましたか?」「くふふ、士元が愛紗みたいになってるのだ」「え、え、ええええ?! わわ、私が関将軍みたいにって、どういうことです??」「こう、顔がこんな風になって」 張飛は眉間に皺をよせてみせる。「目つきはこんな感じで」 虎も裸足で逃げ出しそうな鋭い眼差しをする。「あと、口がこうなってるのだッ」 口許をへの字に曲げて見せたあと、張飛は実に楽しそうに笑い声をあげる。 一方、鳳統は「がーん」と擬音がつきそうな顔をして、ショックをあらわにしていた。「あ、あわわ、そ、そんな顔してましたか?」「なってたのだ。まるで、お兄ちゃんを怒るときの愛紗みたいだなーって思った」「―――――ッ?!」 あまりの衝撃に、身体全体を硬直させる鳳統。「おっと、じゃあ鈴々はそろそろ行って来るのだ! 士元はここで鈴々の大活躍を見ておくのだーッ」 そんな鳳統を置いて、張飛はさっさと馬足を速め、部下を差し招いて出撃してしまった。 そのあとに残されたのは――「……か、一刀さんを叱るときの、関将軍……あの、閻魔様みたいな……?」 こっそりと不穏な言葉を呟きつつ、呆然と佇む軍師の姿であった。 ◆◆ 戦闘開始から一刻余り。うちつづく戦闘により、両軍の死傷者の数を増す一方であった。 河畔の地に咲いた花は馬蹄に踏みにじられ、緑萌える草木は、人間の血によって、朱の彩りをほどこされ、愚かなる人間の愚かなる戦いに、河神が怒りの咆哮をあげても、何ら不思議はないかに思われた。 この時、戦場を俯瞰してみれば、劉備軍の優勢は動かし難い。しかし、未だ、勝敗の行方は杳として知れなかった。 劉備軍は、緒戦において、陳到、張宝らの活躍によって波才軍の機先を制し、戦闘を優位に運ぶことに成功する。 それに対し、波才は劉備軍を分断せんと、第二陣を戦場に投入するも、この事あるを予測していた劉備軍軍師 鳳統は、張飛率いる騎馬遊撃部隊に第二陣を要撃させ、敵の作戦行動を未然に妨げることに成功。 これにより、混乱する敵第二陣に対し、これまで動かなかった劉備率いる中軍が攻勢を仕掛け、勇将関羽と、元黄巾党党首 張角の鼓舞に奮い立った将兵の奮戦により、波才軍第二陣は敗走を余儀なくされる。 ここにおいて、劉備軍は勝利への階に足をかけたかに思われた。 だが、劉備軍と対峙する波才は、好転する気配さえない自軍の戦況に苛立ちを見せず、味方が崩れそうと見るや、その都度、援軍を送り込み、劉備軍の鋭鋒を粘り強く受け止め続けた。 波才は知っていた。 いかに劉備軍が奮戦し、波才の軍が不利であるように見えたところで、それは一時のこと。 彼我の兵力比が示す勝利への道は、開戦からいささかも変わってはいない。 8万の軍が被る1千の損害と、1万の軍が被る1千の損害では、大きく意味が異なる。 当初の混乱さえ脱すれば、あとは圧倒的な兵力を利して、正攻法で押し込んでいくだけで良い。退くことを放棄したゆえの劉備軍の勢いは、時と共に減じ、連続する戦闘の疲労は確実に将兵の心身を蝕んでいくだろう。 転回点が来るのは、おそらくもう間もなく。 そして、一度戦況がひっくり返れば、再度の挽回はもう不可能となる。 ただ1つ、波才にとって気がかりだったのは、敵の援軍である公孫賛の動向である。 だが、これは于吉たちの報告で杞憂となった。勇猛名高い白馬将軍といえど、神仙ではない。遼西からこの地まで、一昼夜で駆け抜けることなど、出来はしない。 油断を戒めつつも、波才はすでに半ば以上、勝利を確信していた。 その確信は――「申し上げます! 敵、左軍、崩れました、前衛部隊が押し込んでいきます!!」 配下の報告によって、全きものへと変ずる。 開戦当初から、もっとも激しく動き続けていた部隊が、もっとも早く疲れ果てるは当然のこと。 将としての波才の目に、自軍の勝利が明確に映し出された。 怜悧さを失わずにいた波才が、ここではじめて吼えるように命令を下す。「頃はよし。全軍に伝えよ。これより、我が軍は総攻撃に移る!」 主将の命令に、配下の兵は野太い喚声で応じ、波才軍は怒涛の如き突進を開始するのであった。◆◆「敵本隊、動き出しました!」 伝令からの報告を受け、劉備はただちに両翼の部隊に後退を指示する。 とはいえ、後退といっても、背後に水を湛える大清河がある以上、限界はある。河で進退きわまったところで、敵本隊の攻撃を受ければ、劉備軍は確実に全滅してしまうだろう。背水の陣を布いた多くの軍が、そうやって滅びたように。 そのことは、陳到や張宝らも当然わかっている。だからこそ、そんな事態にならないように奮戦していたのだが、やはり兵力の差は容易に覆すことが出来なかった。 敵は豊富な兵力を背景に、入れ替わり兵力を交代することが出来る。それに対し、劉備軍にそのような余剰兵力はなく、攻撃にせよ、防御にせよ、交代も休息もなく、常に同じ部隊が動かねばならない。死傷者の数は時間と共に増え、健在である将兵も、心身に蓄積した疲労によって、動きを鈍らせている。 その影響は、すでに無視できないレベルになりつつあった。否、左軍に関しては、緒戦からの奮戦で他部隊より消耗が激しく、すでに限界を越えたというべきであったかもしれない。 疲労困憊した左軍への追撃は、未だ余力の残る右軍がかろうじて食い止めるを得た。 それによって出来た、わずかな時間を利用して、劉備軍の将たちは、中軍の陣営にて、一堂に会した。 そして。 そこで見たものに、左右軍の将たちは驚愕する。 それは、橋であった。 軽舟を数珠のように並べ、それを板と縄でもって繋ぎ合わせただけの、簡素な橋。だが、それは大清河を南北に結び、劉備軍の退却を可能とするものである。 張宝などはそれを見た時、呆然とし、次の瞬間、盛大に文句を言い始めた。「こんなものがあるなら、最初から言っておきなさいよね!」「し、しかし、それを知っていたならば、我らはここまで奮闘できなかったのではありますまいか?」 張宝と共に戦いぬいた馬元義が、憔悴の色を浮かべつつ、そう反論する。「わかってるわよ、そんなこと! ただ、あたしたちに隠し事をしながら戦ってたってのが気に入らないの」「そ、それは軍略ですから、いたしかたないかと……」「わかってるっていってるでしょうが! これは単なるやつあたりよ!」「さ、さようでしたか」 馬元義は理由のない口撃の対象となったことに困惑しながらも、内心、素顔の張宝が見れてこっそり喜んでいた。 その後、やってきた陳到と張梁は、橋を見て驚きはしたものの、陳到は深く頷き、張梁は肩をすくめただけで、表立って文句を言うことはなかった。 そうして、全員が揃ったところで、改めて劉備の口から、今回の作戦が詳らかにされた。 先日の軍議では、公孫賛の援軍が到着するまで、何とか時間を稼ぐことが主眼とされていた。 公孫賛の部隊は、騎馬部隊が主である。その機動力を以って、大清河を大きく迂回し、敵の後背を扼す。退路を断たれた敵軍の混乱に乗じ、前後から挟撃する、というその作戦は、しかし、公孫賛が動けなくなったことで、根本的な変更を余儀なくされた。 そこで次善として用意されていた策が明らかにされる。 それはすでに全員が見た、あの軽舟による浮き橋を用いて、全軍を北岸に移し、改めて戦線を立て直すというものだった。 立て直すとはいえ、新たに援軍が来るわけではなく、苦戦は免れないであろうが、河を挟む分、これまでよりは幾分、戦いやすくなる筈だった。何より、激戦に次ぐ激戦に疲れ果てている将兵を休息させることは、絶対に必要なことである。 はじめに左軍、次に右軍、さらに遊撃部隊を退かせ、殿軍は中軍が務める。 死傷者の数、疲労の蓄積等を考え、その順番は速やかに決められた。 かくて、劉備軍は、一斉に退却を開始する。 作戦ゆえのものではなく、敵の攻勢に押し負ける形での退却は、将兵の心身に積もった疲労をいや増し、その足取りは重く、その顔つきに、開戦当初の猛々しさを見出すことは難しかった。◆◆ 大清河の河畔まで軍を進めてきた波才は、河面で燃え上がる2本の炎の橋を眺め、嘲りの言葉を発する。「敗れたときのために、退路は用意してあったか。そのような不覚悟な背水の陣が、用を為す筈がなかろうが。下らぬ、所詮、女子供の軍勢か」 もっとも、その女子供の軍勢を、完全に捕捉できなかったことに、波才は多少の自嘲の念がある。 退却を開始した劉備軍を追撃しようとした波才軍であったが、敵の殿軍の堅陣をついに突き崩すことがかなわなかった。 開戦から、もっとも戦いが少ない部隊であっただけに、左右軍ほどに疲労も死傷者も少なかったのだろう。 とはいえ、その殿軍もある程度、痛めつけることは出来た。橋を焼かれたといっても、大清河の水量を見るかぎり、渡河にそれほどの時間はかかるまい。 対岸に布陣する劉備軍からの攻撃は避けられないだろうが、多少の被害を顧みずに前進すれば、ほどなく渡河は果たせるだろう。 波才はそう考え、配下に命令を下そうとする。 だが、自身の考えの中で、何かが引っかかった。 波才は基本的に数字で物事を見る性質だが、匈奴の血がもたらす戦場での直感を等閑にはしない。 鋭い眼差しで眼前の光景を見つめる波才の脳が、目まぐるしく思考を展開する。 ――やがて、波才はこの地の出身であるという兵士を呼び出し、訊ねた。「聞くが、この河の水量は、元々この程度なのか?」 波才の問いを聞き、兵士は緊張した様子で返答する。「乾季であれば、この程度の水量になることもありますが、今の季節にしては不思議なほどに水が少なくなっております」 波才は小さく頷くと、その兵士に続けて命令を下す。 何名かを引きつれ、大清河の上流を偵察せよ、と。 それからしばらく後。 波才の下に、息せき切って報告の兵士が訪れる。その報告は、波才の予想通りのものであった。 それを聞いた波才は、口を三日月の形に開くと、そこから低い笑声を発したのであった……