平原郡より8万の兵力を以って出撃した波才は、偵察によって得た情報に眉を顰める。 敵の主力と思われる1万の軍勢が県城を出て、南、つまりこちらに向けて出撃した、というのだ。 波才が握っていた情報では、県城に集った兵は3万を越える。だが、その大部分は黄巾党の兵士であり、城内の民衆との摩擦は避けられないだろうと読んでいた。 くわえて、仮に官側が彼らを受け容れたとしても、恐れるに足らない理由が、波才にはあった。波才は黄巾党の精鋭部隊はほぼ全て掌握しており、今も麾下に組み込んでいる。その波才の目に留まらなかった部隊ということは、すなわちその程度の部隊ということ。3万が5万でも、撃破する自信はあったのである。 それゆえ、そのうちの1万が分派行動に出たところで、脅威とはなりえない。とはいえ、ただでさえ少ない戦力を分かつほど、敵は愚劣なのだろうか。「敵の指揮は、誰がとっているのでしょう、やはり張角ですか?」 偵察から帰った兵は、波才の言葉に首を横に振った。「そうではないようです。劉玄徳なる者が、黄巾党を含めた全軍の指揮をとっているらしゅうございます。その旨はすでに大きく喧伝されておりました」「劉玄徳……?」 わずかに怪訝そうな顔をした波才だが、その名は近い記憶の中にあった。「ほほう、程遠志を討ち取った者ですか。たしか、遼西の公孫賛の下に付いたと聞いていましたが……」 そこまで口に出し、不意に波才は黙り込む。「将軍、いかがなさいました?」 訝しげに問いかける部下に、波才は奇妙に低い声で問う。「県城に、遼西の公孫賛の旗はありましたか?」「公孫賛、ですか? いえ、公孫の旗は見受けられませんでしたが……」「――なるほど。そういうことですか」 波才は納得したように、幾度か頷く。 配下の者には、その納得が何に対するものなのかを察することは出来なかったが、波才は部下の差し出口を嫌う。ここで問いを重ねるような真似をすれば、不興を買うのは明白だった。 その予測どおり、波才は短く命じた。「下がりなさい、指示は追って下します」「承知いたしました」 配下が姿を消すと、波才は腕組みをして椅子に座す。 総大将が劉備ということは、その背後に公孫賛がいることは疑いない。 おそらく、敵の狙いは遼西の援軍が到着するまでの時間稼ぎであろう。 しかし、軍を分けた理由はそれだけでは説明できない。県城に篭っていた方が、守る側が有利なのは当然である。 考え込む波才の耳に、不意に別の人間の声が届いた。「物資の不足、度重なる戦による城壁の破損、そして黄巾党に対する民の不安と不審……まあ、そういったところでしょうか」「……于吉ですか。下がれと命じた筈ですが?」「ご容赦ください。折角の情報を腐らせるのも、何ですのでね」「情報、ですか?」「ええ、私の手の者が探り当てたところによれば、現在、県城に篭るのは、元劉焉配下の兵おおよそ3千のみ。残りは城外に出たようです」 于吉の報告に、波才が訝しげな顔をする。「張角に従った黄巾党の兵士は3万を越えるという話でしたが? 城外に出た兵士は1万。計算が合いませんね」「すでに劉備の命により、黄巾党の多くは兵役を解かれたとのことです」「ほう、一兵も惜しい時期に、わざわざ兵力を縮小させたのですか?」「大変な時期だからこそ、精鋭を以って事に当たりたいと思ったのでしょうね。残余の兵の大半は城壁の修復に従事しているようですよ。急がないと、あの調子では半月もすれば、毀たれた城壁も元に戻るだろうとのことです」 波才の問いに流れるように答えを返す于吉。 その1つ1つが貴重なものであったが、波才は薄気味悪いものを感じずにはいられなかった。「相変わらず、どこからそれだけの情報を仕入れているのやら。兵力の縮小など、連中にとって最重要の機密事項でしょうに」 于吉は、波才の言葉に小さく笑う。「そこは、蛇の道は蛇、と言っておきましょうか。つけくわえれば、易京城にも動きがあるようで。どう動くにせよ、急がれた方がよろしいかと」「承知していますよ。白馬将軍が出てくるとあれば、こちらにとっても好都合。わざわざ連中が合流するのを待つ必要もありません。おそらく、敵は大清河を隔てて布陣し、こちらの渡河の隙を衝く心算でしょう」 大清河とは、琢郡と平原郡の中間、やや琢郡よりに位置する河である。黄河や長江などといった河川とは比較にならない小ささだが、かといって渡河の危険は大して変わらない。不用意に進軍すれば、手痛い打撃を受けてしまうだろう。「しかし、逆にここで劉備軍を撃破してしまえば、公孫賛は孤軍となる。一戦して蹴散らせば、一挙に幽州を制圧することも出来るでしょう」 于吉の情報は、出所は不明だが、正確性においては信頼が置ける。 波才は決断を下し、椅子から立ち上がると、声高に外に控えている配下の者たちを呼び集めた。 それからしばし後。 波才軍は重厚な陣容を保ちながら、琢郡へ向けて進軍を再開する。 その陣中には攻城用の兵器も見て取ることが出来、波才が全戦力を挙げて、この戦いに臨もうとしていることがうかがわれるのであった。 しかし――次に彼らの下にもたらされた報告は、波才の予測を完全に裏切った。 それは、急進した劉家軍が、一挙に大清河を南に渡り、河を背にして布陣を整えているという報告であった。◆◆ 鳳統が作戦案の大部分を説明し終えた時、その場にあったのは、沈黙であった。 それも、決して良い意味のそれではない。「――玄徳殿」 会議の場に立ち込める重い空気を破ったのは、鄒靖の苦々しい声であった。「は、はい、何ですか、鄒将軍」「我ら琢郡の兵、あなた様には大きな恩がございます。それゆえ、此度の戦、あなた様の指揮に従うことに異論はございませぬが、しかしながら、この作戦には反対させていただきますぞ」 馬元義も、即座に鄒靖に追随する。「それがしも、同様でござる。申し上げにくいことながら、この作戦は、我らに死ねと仰っているようにしか聞こえませぬ」 馬元義の乱暴な例えに、しかし反論する者はいなかった。 それは、彼の言葉が、この場にいた多くの者の胸に去来したものと等しかったからだろう。 関羽もまた、彼らと同じく、鳳統の思惑がわからず、訝しげに問いかける。「――士元」「は、はい」「言葉は乱暴だが、馬殿の言い分は、決して理解できないものではない。そなたも、先刻申していたではないか。波才軍は錬度も装備も充実しており、正面から戦うのは避けるべきだ、と」「は、はい、そう言いました」「では」 関羽は視線を卓上の地図に戻した。 そこには、劉家軍を示す青の駒と、敵である波才軍を示す赤の駒が置かれている。 そして、劉家軍の青い駒が置かれている場所は――大清河の南。「では、何故、よりによって背水の陣を布く必要があるのだ?」 そこは劉家軍にとって、敵を正面に、河を背後に据える、兵法では禁忌中の禁忌とされる死地であった。◆ 背水の陣――その言葉の意味を知らない者は、この場にはいない。 そも、なぜ河畔が死地なのかといえば、後背を河水で塞がれた兵士たちが動揺し、戦う前から意気阻喪してしまうからに他ならない。軍の力は、兵の士気によって大きく上下する。河畔で布陣することは、敗北への第一歩であると言って良い。 それゆえ、多くの兵家は、背水の陣を必敗の陣形として忌避するのである。 だが。 往古、この背水の陣によって、巨大な成功を得た人物が、ただ2人だけ存在する。 1人は西楚の覇王 項羽。 1人は前漢の名将 韓信。 いずれも、その勇名を万古に伝える英雄であった。 項羽は、鉅鹿城の戦いにおいて、秦の名将である章邯を相手に、背水の陣を用いることで、数倍の兵力差を覆し、事実上、天下を手中にした。 韓信は河北制圧における重要な戦であった趙での戦いにおいて、やはり数倍の兵力差を背水の陣を用いて打ち破り、その勇名を以って、主君である劉邦をすら恐れさせる影響力を持つに至る。 だが、それはあくまで歴史に名を残す英傑であればこそ可能であった偉業。 鄒靖や馬元義から見れば、劉家軍の軍師が、机上の兵法に淫し、策に溺れているのではないかとの疑いを禁じえないのであった。 まして、実際に兵を率いて、その死地に立つことになる馬元義が不服を口にするのは、当然といえば当然のことであった。◆ そして、出撃する軍に帯同を求められた者の中には、馬元義以上に不服を抱いている者もいた。「ちょっとあんたッ! ちぃたちを殺すつもりなのッ?!」 ビシィッ、と鳳統を指差し、詰問するのは張宝であった。 白皙の頬が、怒りと興奮で鮮やかな紅に染まっている。「ひッ?! あ、あわわ、そ、そんなつもりでは……」「じゃあどういうつもりよ! こんな逃げ場もないところで、こっちの何倍もある敵を相手にどう戦えっていうの?! そもそも――!」「待たれよ! 文句を言うのは、士元の説明を聞いてからにされるが良い」 騒ぎ立てる張宝を制したのは、眉間に深い皺を寄せた関羽であった。 関羽の質問の答えを鳳統から聞こうともせず、声高に相手を責める張宝の態度は、関羽にとって我慢ならないものであったのかもしれない。 一方の張宝もまた、無謀としか思えない作戦案を聞かされ、あまつさえ、その最も危険な場所に自分がいるとあっては、平静でいられる筈もない。 関羽と張宝。 気の弱い者であれば、気死しかねない勁烈な視線が中空でぶつかりあい、火花を散らしたかに見えた。「……あ、あの、その……うぅぅ」 険悪な雰囲気でにらみ合う2人を前に、発言者である鳳統は何とか口を挟もうとするが、2人の迫力にそれもなしえない。 普段であれば、助け舟を出す筈の諸葛亮も、気遣わしげな眼差しを鳳統に向けてはいるが、実際に声をかけることはなかった。 他の者たちにしても、それは同様である。客将格である趙雲や戯志才は、どこか興味深そうに、会議の推移を見守っているばかり。程立は――「……ぐー」 寝ていた。 その間にも、2人の論戦は熱を増す一方で、ついには張宝がとうとうこんなことを言い出す。「そもそも、将軍とか言われていたって、たかだか千にも満たない義勇軍なんでしょ! 私たちがそっぽを向いたら、この城なんてたちまち陥とされちゃうわよ?」 それを聞き、関羽の眼に雷光が煌く。「ほほう、賊徒の首魁がくちはばったいことを。その罪、いまだ償われたわけではないのだぞ?」「その賊徒の協力がないと戦えない弱小軍が、大層な口をきくわね」「なんだと?!」「なによッ!」 がるる、と唸りをあげ――たりはさすがにしなかったが、そんな勢いで視線と言葉を応酬しあう2人の剣幕を前に、玄徳様はハラハラしつつも口を挟めず、張角は困ったように首を傾げるばかり。 場の空気は時と共に重さと暗さを増す一方で、とてものこと、これから協力して敵とあたることが出来そうにはない様相だった。 だからこそ。「――くく」 耐えかねたおれの笑い声は、会議の場に、奇妙に大きく響いてしまった。 ぎょっとしたような視線が、周囲から幾本もおれに向かって突き刺さる。 おれはそれを感じたが、しかし、こみ上げる笑いの発作を堪えることは難しかった。「あはははは!」 時ならぬおれの大笑は、重苦しい空気をかき乱し、場に戸惑いと不審を撒き散らした。◆◆「ちょっと、一刀! こんなときに何を笑ってるのよッ?!」「北郷殿! このような時に、不謹慎であろう!!」 張宝と関羽の鋭い叱咤に、さすがに口を押さえて笑いは飲み込んだが、表情はまだにやけたままであろうことは、自分でもわかった。 そんなおれの様子を見た2人が、更にまなじりを吊り上げる。 再度、怒声を放とうと口を開きかけた2人に、しかし、おれの言葉が半瞬だけ先んじた。「玄徳様」「は、はい??」 突然のおれの呼びかけに、玄徳様が戸惑いをあらわにする。 おれは玄徳様の困惑に構わず、静かに頭を下げる。「今更ながらではありますが――お祝いを申し上げます」「お、お祝いって??」 おれの突然の言葉に、玄徳様は目をぱちくりさせる。「はい。玄徳様は、諸侯が万金を投じても……いえ、そんな例えでは追いつきませんね。彼らが、領土の半分を差し出したところで、得ることが出来ない不世出の人物を、その麾下に置くことが出来た。そのお祝いを、申し上げます」 そう言って、おれはその人物――鳳凰の雛たる、少女に視線を向けた。 突然のおれの言動に戸惑っていた人たちの視線も、同様に鳳統に向けられる。 鳳統は玄徳様と同じように、目を瞬かせていたが、おれの言葉の意味を理解した途端、顔を真っ赤にして、あわわと慌て始めた。「あわわ、あ、あの、一刀さん、そ、そんな突然何を……あぅぅぅ」 皆の視線に耐えかねたのか。あるいはおれの言葉に恐縮したのか。鳳統は帽子を深く被って、顔を隠してしまった。 うむ、なんと言うか、寒気さえおぼえる軍略の才能の持ち主とは思えない可愛らしさである。 おれが玄徳様に言った言葉は、別にこの場の空気を掃うための芝居ではない。心底からのものだ。 ただ、そんな巨大な才能が、こんな愛らしい少女に宿ってしまったということ。これは鳳統自身にとって、幸せなことなのかどうか。おれはそこが少しだけ心配になる。鳳統にとっては、余計なお世話かもしれないけれど、な。◆ おれはのんびりとそんなことを考えていたが、会議場の空気は奇妙に停滞し、何人かは苛立ちの表情を覗かせていた。おれの発言が、会議の進行を妨げるものととられたのだろう。 室内が、先刻までとは違った意味で、重苦しい空気に包まれる中、これまで口を開かず、皆の発言に耳を傾けていた人物が、はじめて口を開いた。「北郷殿」「何でしょうか、陳将軍?」 陳到は神妙な顔で、おれに問いを向ける。「士元殿を不世出の人物だと言われたところを見るに、北郷殿は、士元殿の策の深奥を見極められたと見えるのだが、如何?」「それは買いかぶりですね。士元の作戦は、おれ程度に見極められるほど、底の浅い策ではないでしょう。ただ、おれなりに理解できたところはあります」 たとえて言えば、それは海上に見える氷山のようなもの。目に見える部分はほんの一部だけで、海面の下には、どこまでも深く氷は続いているのだろう。 だが、その氷山は、海上に見える部分だけでも、おれ程度の鈍才を圧倒するに足る偉容を誇っているのである。「それでは、北郷殿に理解できたところだけでも、説明して下さらぬか。正直なところ、私には士元殿の案が、無用な危険を孕んでいるように思えてならぬのです。何故、わざわざ城を出て戦うのか。何故、河を渡って布陣するのか」 陳到の言葉に、幾人かが同意、というように深く頷いた。 彼らの疑問に、おれは莞爾とした笑みで応える。「それほど難しい話でもありますまい。士元の策の要諦は3つしかないと思いますよ。1つは、城内での不和を避けるために城を出なければならないこと」 おれは少し苦笑しながら、関羽と張宝に視線を送る。2人は、ばつが悪そうに視線をそらせた。 今でさえ、さきほどまでの関羽と張宝のような小競り合いが、城内では絶えないのである。篭城戦になり、心身に負担がかかれば、今の状況が加速度的に悪くなるであろうことは、火を見るより明らかなことだった。 それゆえ、城内に篭るという策は使えないのである。「1つは、城内の民を、これ以上戦に巻き込まないために、県城を戦術から除外すること」 単純に県城の防壁が脆くなっているから、というだけではない。程遠志の攻撃を含め、県城は短期間で幾度もの攻撃を受け、主を変えている。その間、城内の民が、落ち着いて生活できている筈はなく、県城の人心は不安定な状態となっている。 劉家軍は、先の戦功もあって、住民たちに歓迎されているが、それも何かの拍子で反転しないとも限らない。否、すでに黄巾党を受け容れるという決定をしたことに対して、間違いなく民衆は不安と――そして不満を抱いているのである。 鳳統が、出戦部隊に、全黄巾党兵士をあてたのも、これが理由の1つであろう。「そして最後の1つは、今回、この勝たなければいけない戦いに、将兵が一丸となって、全力で戦える戦場を選ぶこと」 今の状況では、劉家軍は戦を避けることが出来ない。劉家軍が戦場を逃げ出せば、残された民衆は、波才の軍に踏みにじられてしまう。それが間違いないからこそ、劉家軍にとって、この戦を避けるという選択肢は、はじめから無いに等しいのである。 張角たちもまた然り。ここで逃げ出せば、後は波才による徹底した追及が待つのみである。以前のように、大陸を自由に歌い歩くことは、永く出来なくなるだろう。 無論、官軍については言うまでもあるまい。ここで負ければ、今度こそ、琢郡は賊徒の手に落ちてしまうのだ。 ゆえに、誰にとっても、この戦いに次などない。どれだけ戦力差があろうとも、今、ここで、勝たなければならないのである。 そのためには――「これだけの戦力差です。城を背にする、あるいは伯珪様の援軍と合流することを前提に戦端を開けば、兵士たちはどうしても崩れ易くなるでしょう。だからこそ、士元は背水の陣という最後の手段を用いたのでしょう」 全滅か勝利か、2つに1つ。使わずにすめば、それに越したことはない。けれど、今のおれたちの状況では、使わずに済むという選択肢が見当たらない。だからこそ、鳳統はその危険性を十分に理解した上で、この作戦を立案したのだろう。 自らを、渡河部隊に組み入れて。◆ おれの言葉に、張宝が慌てたように卓上の地図を確認する。そこには、将たちの配置も記されていたのだが、鳳統の名は、おれの言葉通り、渡河部隊の最後に記されていた。 会議の場に、沈黙が満ちる。 だがそれは、先刻までのものとは、明らかに異なる意味を持つものであったろう。 それを示すかのように、鄒靖と馬元義が、鳳統に向けて、深く頭を下げた。 馬元義にいたっては、狼狽のあまり涙目になっていた。 そして。「ほらほら、ちぃちゃんも」「うー。わかってるわよ……」 張角に促され、張宝も渋々といった感じではあるが、鳳統に謝罪の意を示した。 当の鳳統は、あっちこっちから頭を下げられ「あわわ」と慌てふためいていたりするが、まあ問題はとりあえず解決したようで、良かった良かった。 互いに不安と不満を抱えたまま、一大決戦を挑むなんて、遠慮したいからなあ。◆◆ 鳳統の作戦案が全会一致で採択されると、後は細部を詰めるだけとなった。 鳳統が立案した作戦の全容は、全員が思わず息をのむほどに見事なものであったが、その分、戦機はごく限られており、時の使い方が作戦の成否を分けるものと思われた。 それらの作業が一段落し、会議が解散の運びとなった時、すでに夜は更け、月が天上に煌々と輝く時刻となっていた。 あくびをこらえつつ、廊下を歩いていたおれは、背後から、急ぎ足で近づいてくる軽快な足音に気がつく。 振り返ったおれの目に映ったのは、諸葛亮と、鳳統という、劉家軍が誇る2大軍師の姿だった。「さきほどは、本当にありがとうございました」「……あ、ありがとうございました」 同時にぺこりと頭を下げる2人を見て、おれは困惑を覚えた。 多分、さきほどの会議のことを言ってるのだろうが、別に礼を言われることではないんだがな。 それに、実は1つ気づいたことがあるのだ。「孔明としては、余計じゃなかったのかな、おれの言ったことは。士元に、自分の口で説明できるようになってほしかったんだろう?」 そうなのだ。 陳到の問いに答えながら気づいたのだが、おれがわかる程度のことを、諸葛亮がわからない筈はない。 普段なら、鳳統のフォローは欠かさない諸葛亮が、何故黙っていたのか。 おそらく、諸葛亮は、鳳統に軍師としての自信を持ってほしかったのだろう。 どれだけ優れた策をたてられる能力があったとしても、それを自身の口で説明できなければ、誰も賛同してはくれないし、その作戦に命を賭してもくれないだろう。 劉家軍は、今後、ますます激しい戦いに身を投じていくことになる。鳳統が軍師として、名実ともに羽ばたく為にも、その一歩は必要にして不可欠なものであろう。 ただ、おれ自身、そのことに気づいたのが、調子に乗って自分の見解を喋っている最中だというから、間抜けな話である。 恐縮するおれに、だが。「そこまで、気づいていらっしゃったんですか」 諸葛亮は、目を丸くした後、はーっと感嘆の声をあげていた。隣では、同じような顔をした鳳統が、赤い顔でこちらを見つめている。 うう、なんかむしょうに身体がこそばゆいんですけど。「確かに、一刀さんの仰るとおりなんですが、でも、私の思惑なんかより、一刀さんが言ってくれた言葉の方が、雛里ちゃんにとっては自信になったと思います。さっきから、雛里ちゃん、ずーっと一刀さん一刀さんって……」「しゅしゅ、朱里ちゃんッ?! 言っちゃだめーー!」 慌てふためく親友の様子を、孔明は暖かい眼差しで見つめつつ、くすくすと微笑んでいる。 遅まきながら、からかわれた、と悟った鳳統は、あぅぅ、と悶えながら、また帽子を被って、顔を隠してしまった。「孔明、あんまり士元をからかっちゃ駄目だぞ」「からかってなんていませんよ。だって本当のことですもの」 おれの言葉に、孔明は腰に手を当て、胸を張って言い返した。「だから言っちゃ駄目だってばーーッ?!」 大声をあげる鳳統、というきわめて珍しいものが見れただけでも、会議に参加した意味はあったのかもしれない。 賑やかな2人の少女を見ながら、そんな風に思うおれであった。 これで終われば、今日という長い一日は、めでたしめでたし、で終われたかもしれない。 だが、この後、鳳統が口にした言葉は、長い一日の中で、最も重要なものとなる。 落ち着きを取り戻した鳳統は、おれに向かってこう言い出したのだ。「私は、一刀さんが言うような、価値のある人間じゃありません」と ◆ ――とりあえず。えい。「あいたッ?!」 おれのデコピンが、鳳統の額にクリーンヒットした。「はわわ、か、一刀さん、急に何を?」「いや、とりあえず、士元が寝言を言ってるかどうかの確認を、と思って」「……あの、雛里ちゃん、本気で涙目になっちゃってるんですが……」 ううう、と額を押さえて座り込んでしまっている鳳統を見て、諸葛亮は冷や汗を流している。「やむをえざる犠牲というやつだな」「そ、そうなんですか?」 そうなのだ、うむ。「で、士元」「はは、はいぃッ!」 額への一撃が、よほど聞いたのか、諸葛亮の言ったとおり、涙を湛えた目でこちらを見る鳳統。 ……ちょっとやりすぎたかな、と内心思わないでもなかったが、今は気にしないようにしよう。「寝言を言ってるわけではないようだけど、今の発言はどういう意味だ? なお、次の発言によっては第2撃が発動するので、ご注意されたし」「あわわッ?! あ、あのその、決して自分を卑下してるわけでは、なくて、その。私の中には、化け物がいるって、一刀さんに知っておいてほしかったんですッ」 ……化け物?◆ 鳳統の周りの空気が、変わったように思われた。 その口調に、どこか冷たいものを宿しながら、鳳統はおれに向かって口を開く。「一手うまれれば、また一手。軍略とは絶えず成長を続ける、化け物のようなもの。そして軍師とは、その化け物を飼いならし、主たるべき人物に尽くす者を指します。それは同時に、みずからの内に化け物を抱え込むことでもあるのです」 軍略とは化け物、か。それを聞いて、おれは先刻、鳳統の策を聞いたとき、背筋に走った寒気を想起せずにはいられなかった。「一刀さんは、さっき仰いました。この戦いは、勝たなければならない戦いだ、と。私も同感です。この戦いに、敗北は許されない。完璧な勝利を以って、波才さんの軍を打ち破る。そうしなければ、みんなが笑って暮らせる世の中をつくるという、玄徳様の――いいえ、私たちの大志は、ついに果たされずに終わってしまうでしょう」 これが、本当にあの気弱な少女なのかと思ってしまうほど、今の鳳統は毅然としていた。「軍師の――私の役目は、その勝利を導くことです。そのためならば、私はどんな手段でも用いるでしょう。たとえ、それがどれだけ危険なものだとわかっていても。たとえ、それがどんなに過酷なものかわかっていても」 それが、ただ単に今回の背水陣を選択したことを指しているわけではないことが、何故かおれにはわかってしまった。 おれは直感的に悟る。おそらく、鳳統は、あの会議で策の全てを打ち明けたわけではないのだ、と。 必要であれば、自分は味方すら欺き、勝利をもぎとる人間なのだ、と鳳統はそう言っているのである。「勝たなければならない戦いなら、打てる手は全て打つ。尽せる策は全て尽す。それ以外の行動を、私の中の化け物は許さない……だから、私は一刀さんが思ってくれているほど、立派な人間ではないんです。玄徳様はもしかしたら、とんでもない疫病神を味方に引き入れてしまったのかも、しれません……」◆ おれの右手が上がったとき、鳳統が顔を強張らせて額を押さえたのは、先のデコピンの影響に違いない。 またやられる、と思ったのだろう。 その瞳に溜まった涙は、さて、デコピンのためか、今の話のためか。 まあ、どちらでもかまわん。 おれはそう思いながら、右手を鳳統の頭に伸ばし――そっと、髪の毛を撫でてやった。「ふぇ?」 予期していた衝撃が来ず、鳳統は呆然とした様子でおれを見上げる。 おれは、そんな鳳統を見ながら、しみじみと呟いた。「全く、何を言ってるのかな、このちびっ子軍師は」「か、一刀さん?」「まあいいや。とりあえず、おれを見損なっていた罰として……」 おれは右手だけでなく、左手も鳳統の頭に乗せ、わしゃわしゃとかき回してやった。「あわわわッ?!」 鳳統は予期せぬ攻撃に、成す術もなく、されるがままだ。 おれは思う存分、鳳統の柔らかい髪の毛の感触を堪能してから、両手を放してやった。「ほい。髪の毛くしゃくしゃの計、完了」「はぅッ?! ほんとにくしゃくしゃです……」 鳳統は自分の頭に手をやり、その惨状に驚き、慌てて髪を梳くのだった。◆ 鳳統が髪を直し終えるのを待って、おれたちは再び、さきほどまで会議をしていた部屋に戻った。 鳳統の誤解を解いておかないと、今後に差し支えると思ったのである。かといって、こんな夜更けに、女の子の部屋に行ったり、おれの部屋(簡擁との相部屋)に連れ込むわけにもいかん。 当然のごとく、部屋にはもう誰もおらず、先刻の軍議の熱気もすでに霧散していた。 その部屋で、卓を挟んで、向かい合う形で腰掛けたおれは、正面に座す鳳統と、そしてさきほどから、ずっと優しい眼差しでおれたちを見つめている諸葛亮に向けて、口を開いた。「まず言っておくとだな。おれが、玄徳様に、士元のことを不世出の人材って言ったのは、軍師としての力を言ったわけじゃないぞ。いや、もちろんそれもあるにはあるけど、本当に言いたかったのは、そこじゃない」「……と、言いますと?」 小首を傾げる鳳統に、おれは更に言葉を続けた。「会議の時に言ったとおり、士元の作戦に感銘を受けたのは確かだよ。背水の陣なんて、一見、やぶれかぶれの戦法に見えて、その実、これ以上なく現状を見据えた上での作戦だった。伯珪様との連携、大清河の利用、全て見事の一語に尽きた。でも多分、普通の軍師だったら、そこで終わっていた筈だと思う」 しかし、鳳統は違った。 自らが立案した作戦が、現状では最善と知りながら、なおかつ過酷なものであることも理解し、その策の責任をとるべく、自分の居場所を最前線に据えた。「……そ、それは、弱冠の身で、玄徳様から軍師たる地位を与えられたことに対する、当然の責任です。そんな、褒められるようなことでは……」 本当に、心底そう思っていたのだろう。予想しなかったことを褒められ、鳳統は喜ぶより、むしろ困惑しているようだった。 そんな鳳統を見て、おれの顔には自然と笑みがこぼれる。「さてさて、どうして当然なのかな」「ど、どうしてって、言われても……」「では訊き方を変えようか。勝つためには何でもするって言ってた化け物さんに質問だ。君が最前線に出ることは、勝利のために、絶対不可欠なことなのかな?」 おれの問いに、鳳統は、しゅんとして俯いた。「もちろん、軍師が直接、戦場を見て指図できれば、益することも多いと思う。けど、今回は間違いなく乱戦に――いや、激戦になる。背水の陣を布き、なおかつ冷静に戦局を動かせるほど、今のおれたちの軍は整備されてないだろう?」「は、はい、その通りです……」「士元は、兵士としては、新米にすら及ばない。逆に、戦力はわずかだが削がれる結果になりかねない。これもその通りだな?」「……はい」「つまり、今回、士元が前線に出ることは、勝利のためどころか、かえって敗北の因さえつくりかねないわけだ――では、改めて聞こう」 おれは、一呼吸置いた後、鳳統に問うた。「士元、どうして前線に出ようとした? おれが今言った程度のこと、士元が気づいていないわけはないだろう?」 ひと言もなく、視線を落として黙り込んでしまった鳳統。 おれは、簡潔に結論だけ口にした。「軍師として、期待をかけてくれた玄徳様に、応えたかったんだろう? 自分がたてた作戦が危険なものだとわかっていたから、せめて自分も兵たちと同じ場所に立ちたかったんだろう? たとえ、それが感傷だとわかっていても、その行動が勝利に結ぶつかないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。そうじゃないのか?」 鳳統は、力なく頷いた。「……はい。一刀さんの言うとおりかもしれません……」「なら」 おれは、破顔した。「士元は、自分の中の化け物に逆らえるってことだ。どんな策をたてたとしても、人としての誇りがそこにあるなら、それは愚策にはならないし、主君に害を為したりはしないさ。厄病神ってのは、災厄しかもたらさないものだろう? 士元みたいに、勝利をもたらす女の子は、疫病神じゃなくて、勝利の女神って言うんだよ」 まあ、実際の戦場を知らないおれが言っても、説得力はないかもしれんけどな。 後、最後はさすがに調子に乗ったかもしんない。 内心、自分の臭い台詞に、自分で辟易していたおれは。「……ひっく、えぐ」 いきなり泣き出した鳳統を見て、凍り付いてしまった。 え、なに、最後以外はきちんと話が出来たと思ってたんだけど、何か気に障ったり、傷つけるようなこと言ったか、おれ?!「……ち、ちが……あ、あり、がと……ごじゃ……うぐ、えっく……」 しゃくりあげながら、鳳統はなにやら礼を口にしているようだが――ごめんなさい、大泣きされながらありがとうと言われても、全然安心できないんですけど。 「ほら、雛里ちゃん、はな紙」「ぐしゅ、あ、ありがと、朱里ちゃん……」 諸葛亮から渡されたはな紙で、チーンと鼻をかむ鳳統。 そんな鳳統の頭を撫でながら、諸葛亮は嬉しそうに、おれに笑いかけた。「一刀さん、雛里ちゃんは、うれし泣きしているだけですから。そんなに慌てないでも平気ですよ」「そ、そうなのか? てっきり、何かひどいことを言ってしまったもんだと……」「ひどいどころか、まったく反対です。多分、今の雛里ちゃんに、1番必要だったことですよ」 そんなに大層なことを言ったつもりはないのだが――まあ、親友である諸葛亮が言うなら、間違いはないか。 なんとか、大役を果たし終えたと、ひとまず、胸を撫で下ろしたおれだったが。 ふと視線を感じて、もう一度、諸葛亮を見ると、なにやら今までとは違う色合いが浮かんでいるような?「……一刀さんは、雛里ちゃんのことは、よーーーっく、見てるんですね」「……なんか今、すごい不自然な箇所があったんだけど。もしかして、孔明、怒ってる?」「いえいえ、全然、これっぽっちも怒ってなんていません。雛里ちゃんばっかり褒められて良いな、とか。私も雛里ちゃんに負けないくらい頑張ってるのにな、とか、本当に少しも思っていませんから!」「ああ、えっと、そのなんだ――孔明もすごいな、うん、頑張ってるよ」「そんな取って付けられたように言ってもらっても、全然嬉しくないです」 ぷいっと顔をそむけられてしまいました。 ええと、なんだ。 もしかして、まだ眠ることもできないのか、おれは? 思わず呆然としてしまったおれの顔を見て、ようやく泣き止んだ鳳統が、小さく微笑みを見せた……