大賢良師 張角、黄巾党を離反す。 その報は、河北の朝野を瞬く間に席巻した。 大攻勢を仕掛けている最中に、その党首がいなくなったのである。黄巾党内部は大混乱に陥り、官軍でさえ、事態のあまりの意外さに動揺を禁じえなかった。 当然、情報の信憑性が疑われたのだが、張角が琢郡の県城に立てこもり、攻め寄せる黄巾党と矛を交えたことが確報として伝えられると、人々はそれぞれの立場にあって、決断を下さざるを得なくなっていった。 中でも、真っ先にその報告の影響を受けたのが、張曼成率いる黄巾賊だった。 その数は5万に届こうかという大軍勢であったが、楼桑村での戦いにおいて、度重なる敗北を喫し、将兵は指揮官である張曼成の統制に不服を抱くようになっていた。 それを知った張曼成は、楼桑村への攻勢を一時的に諦め、指揮系統の立て直しに奔走していたのだが、その最中、なんと県城が奪われるという大失態を演じてしまう。 県城の守備を任せていた趙弘を呼び寄せた末、その趙弘が大敗、討ち死にした後も、代わりの兵力を置かなかった張曼成の致命的な失策であった。 張曼成にしてみれば、琢郡はすでに占領したも同然であり、まさか県城に攻め寄せるような敵がいるとは思っていなかったのである。それでも一応、各地に斥候を放ってはいたのだが、洛陽から長駆、劉家軍が駆けつけて県城へ攻め寄せることなど、予測できる筈もない。 結果、張曼成配下の黄巾賊はますます指揮官への不満を募らせていき――そして、そこに黄巾党党首 張角離反の報が届けられたのである。 張角は言う。「波才、張曼成、程遠志ら大方によって軍権を牛耳られ、民を幸福に導くべく結党した黄巾党は、罪無き民人を虐げる悪党になってしまった」「これすべて、彼らの横暴を制することあたわなかった己が罪。万謝しても、償うことあたわず」「此度、河北における黄巾党の一斉蜂起は我が意にあらず。黄巾党は、もはや大方らの恣意によって動く暴虐の軍と成り果て、結党の意義を失えり」「大賢良師 張角。ここに黄巾党党首として最後の務めを果たすべく、起兵せり。願わくば、初志を失うことなき士は、我が旗の下に参ぜんことを」 黄巾党と官軍とを問わず、甚大な衝撃を与えることになるこの布告は、張曼成にとって止めの一撃に等しかった。 すでに指揮官への尊崇を失っていた張曼成の軍勢は四分五裂の状態になってしまう。 張角の下へ戻ろうとする者もいれば、黄巾党に見切りをつけ、陣営から姿を消す者もいた。 あるいは略奪暴行の味を覚え、黄巾党を離脱することはせずとも、張曼成の指揮下は御免だと冀州へ去る者もいた。 そして――◆「――これはどういうことだ、韓忠?!」 自分に白刃を突きつける部下たちの後ろに、見覚えのある顔を認めた張曼成は、狼狽しつつもそう問いかけた。「愚問。貴様を殺し、この軍はおれがもらう。それだけだ」「貴様、大方たる我に背く気か!」「吼えるな。貴様に付こうとする者など、もはやどこにもいない。それを認めぬは、貴様だけだ」 否定しようのない事実を突きつけられ、張曼成は歯軋りする。「……おれを殺し、張角の所へ降伏でもするつもりか。あのたわけた女に這いつくばって慈悲を乞うのか?」「ほう。良く気づいた。貴様の首は手土産だ。だが」「だが?」 それまで、どこか淡々と話していた韓忠の顔に、嗜虐的な笑みが浮かぶ。「くく。女ごときに慈悲など乞わぬ。彼奴らをとらえ、その軍もおれがもらう。彼奴らは慰み者として、飼ってくれよう」 それに追随するように、張曼成を取り囲む者たちの顔に、下卑た笑みが浮かぶ。 張曼成は、彼らを説得することの不可を悟り、気づかれぬように腰間の剣に手を伸ばそうとするが……「無駄だ」 韓忠の言葉とともに、張曼成の死角、背後から一本の槍が突き出され、それは正確に張曼成の腹部を捉えていた。「ぐふぅッ!」 腹部から槍の穂先を生やした格好の張曼成は、全身を痙攣させながら、床に崩れ落ちた。 その口からは、幾度も黒褐色の血が吐き出され、のたうちながら、床の上で苦悶する。 腹の傷は即座に意識を奪うことなく、死にいく者へ残酷な痛みを与え続ける。「無能め。貴様のような輩が大方とは笑わせる。貴様も、貴様を選んだ者も、おれが一掃してやる。黄巾党はおれのものだ」 もはや言葉を発することもできず、もがく張曼成の姿を、韓忠は心地よさげに見下ろしていた。 韓忠に従った者の多くは欲望ゆえに身を処したのだが、さすがにその様子を平然と見ることが出来る者は少なかった。 その中の1人。あまりの凄惨さに耐えかね、指揮官の様子から目を逸らした男は、視界の片隅に、この場にそぐわない清涼な白い輝きを捉え――「……え?」 次の瞬間、男の首は、驚きの表情を浮かべたまま、宙を飛んでいた。◆「まったく……なんと歯ごたえのない連中だ。おまけに美しくもない。これほど不快な戦、滅多にあるまいぞ」 槍の一閃で兵士を屠った白衣白甲の女性――趙雲は、心底つまらなそうに吐き捨てた。「……何者だ、女?」 韓忠は、己が気づかないうちに、ここまでの進入を許していたことに、内心、驚愕しながら問いかける。 返答は、いたってそっけないものだった。「間もなく死ぬおぬしが、我が名を知ってなんとするのだ」「女ごときが、図に……」 乗るな、と言いかけた韓忠の左半面が、不意に鮮やかに照らし出された。 天幕の外に、赤々と炎が燃え上がったのである。 予期せぬ出来事に、再度、韓忠が驚愕の叫びを発する。「何?!」「敵の眼前で、あそこまで無様な混乱を見せれば、襲撃があるのは当然であろう。他人を無能呼ばわりするほど、おぬし自身が有能だとは、到底思えぬな」 そう口にしながらも、趙雲は面倒くさげに槍を振るい――それは閃光となって韓忠に襲い掛かる。「チィッ?!」 舌打ちしつつ、韓忠は咄嗟に後退し、趙雲の一撃を剣で受け止めようとする。 しかし。「ぐッ!」 韓忠が後ろに下がるよりも、趙雲の槍の方が速かった。穂先が胸甲を貫き、韓忠の身体に達する。 だが、咄嗟に後ろに下がった分、傷はわずかに浅くなる。しかし、その一撃は、韓忠に彼我の力量差を思い知らせるには十分すぎる攻撃であった。「防げッ!」 かなわじ、と悟った韓忠は配下を趙雲に押しやりつつ、自らは天幕の外に駆け出していく。 難敵と無理に戦おうとせず、味方を糾合して数で当たろうとした判断の速さは、称されて良いものであったかもしれない。 だが、迅速を旨とする劉家軍の行動は、そんな韓忠の思惑をあっさりと凌駕する。 天幕の外に出た韓忠が見たものは、炎上する黄巾党の陣地であった。 離脱者が出たとはいえ、優に3万を越える陣容を誇っていた黄巾党は、突然の敵襲と、各処に放たれた炎にあおられ、一部では同士討ちすら発生していた。「何をしているのだ、馬鹿どもが!」 陣内を見回した韓忠の目に、敵襲の姿はほとんど映らない。おそらく、敵は少数。奇襲をかけ、陣に火を放つことで、黄巾党を混乱させるのが狙いか。 この地の黄巾党は大軍であるがゆえに、一度、混乱に陥れば容易に立て直しがきかない。ましてや、主将は頼りにならず、党首が離反し、軍内が分裂しつつあった現状では尚更である。 敵がそこを突いて来るのは、ある意味、当然のことであった。あの女が言っていたように。 であれば、それを予見できなかった自分が無能だということか。 そこまで考えた韓忠の口許から、歯軋りの音が漏れる。「おのれ、下郎共め。生かしてはおかんぞ」「それはこちらの言うべき台詞だな。黄巾党の指揮官と見受けるが、如何?」 本来、宙に溶ける筈だった言葉に、返答がなされるのを聞いた時、韓忠はこの日、三度目の――そして生涯最後の驚愕を覚えた。 振り返った韓忠の目に映ったのは、巨大な青龍偃月刀を構え、鋭い眼差しでこちらを見据える女傑の姿。「返答なきは肯定とみなす。罪無き民人を虐げてきた所業の報い、今ここで受けるが良い」 大の男でも扱いが難しいであろう長大な得物を、軽々と振りかざすその姿に、韓忠はこれまで感じたことのない悪寒を覚え、抜き身のまま持っていた剣を頭上に掲げるが――「ぬぅんッ!!」 気合の声もろとも振り下ろされた青龍刀の一撃は、韓忠の剣を弾き飛ばし、腕を斬り落とし、そしてその下にあった頭蓋を断ち割った。 断末魔の悲鳴をあげることさえ許されず。 黄巾党を私せんとする野望もろとも、韓忠は関羽の手によって討ちとられたのである。◆◆「ふむ、少し遅かったか」 関羽は背後から聞こえてきた声に驚かなかった。ここ数日で耳に馴染んだ声だったから。「子竜殿か。敵の長を捕らえることはできたのか?」 趙雲は、関羽の問いに首を左右に振った。「あいにく、冥府に旅立った者を掴まえる術は心得ておらぬでな」「冥府? では……」 趙雲は小さく肩をすくめた。「味方同士で争うていたのだよ。おぬしが討ち取った者が首謀者であったようだが……」 言いながら、趙雲は関羽によって両断された屍を見て、もう一度、肩をすくめる。「こちらも、すでにその後を追ってしまったようだ。そして、見る限り、もうここの軍の中に、指揮をとれる者がいるとも思えぬ」 混乱し、逃げ惑っている黄巾兵たちの様子を見て、趙雲はそう断じた。「風と稟の読みどおり、奇襲は成功。指揮をとる者もおらず、この地の黄巾賊は逃げ散るしかなくなろう。これ以上の成果を望むは、欲深との謗りを免れまい」「そうだな。味方をまとめて、急ぎ退くとしよう」 関羽らが率いてきた騎兵は百に満たぬ。その寡勢でこれだけの戦果を挙げられれば、文句のつけようがあるまい。「承知。しかし……」「どうかされたのか?」 どこか感心したような調子で、趙雲は言葉を続けた。「党首が離反した、などと正直なところ、眉唾物だと思っていたのだが――彼奴らの混乱ぶりを見ると、あるいは真のことなのかもしれぬ」「む――確かに、敵の様子を見るに、そうとも考えられるが……」「どのように説けば、黄巾党の総大将を味方に引き入れられるのかな。北郷殿は、相も変わらず興味深い御仁よな」 趙雲の言葉に、関羽は眉間に皺を寄せ、その瞳には雷光が煌いた。「何を言うか! そもそも、桃香様不在の折に、勝手にそのような決断を下すなど言語道断! 憲和や孔明、士元らがいながら、何をしていたのか! そもそも、張角がこの期に及んで離反するなど、あまりにも都合が良すぎる。罠ではないかと疑うのが当然であり、仮に罠でなかったとしても、城外に待機させておけば良いのだ。それを――!」 よほど腹に据えかねていたのだろう。関羽はここがどこであるかも忘れたように、口調に険を湛えて言い募った。 趙雲はそんな関羽の様子を面白そうに眺める。 時が時だ。さすがにこれ以上続けていると、混乱しているとはいえ、黄巾賊に見咎められないものでもない。 趙雲はそのことをわかっていたのだが――「はっはっは、まあ言いたいことは直接会って言うが良い。もっとも、その剣幕では、そなたの姿を見かけた途端、北郷殿は逃げ出してしまいそうだがな。地獄の羅刹もかくやという顔をしておられる」 関羽をからかう方を優先することにした。この黒髪の女傑、まっすぐ過ぎる気性が、とてもからかい甲斐があるのだ。「なあッ?!」「私ですら身がすくむ思いだ。北郷殿では気を失いかねぬ。さすれば、その恐怖の記憶は生涯、北郷殿から離れず、あわれ、そなたは終生、北郷殿から避けられることになるだろう」「な、なな、なにを突然言われるッ?!!」 顔を赤くさせたり、青くさせたりしながら、関羽が問うと、趙雲は軽やかに笑った。「なに、ちとお節介をな。こちらにはこちらの事情があるように、あちらにはあちらの理由があろう。相手を責めるのは、それを聞いてからでも遅くはあるまい。一方的な感情で騒ぐ女子ほど、男に好かれぬものはないぞ」「す、好かれる必要など、私にはない! それに、どんな理由があれ、通すべき筋というものはあるだろう。主に諮らずして軍の進退を定めるなど!」「ふむ、それもまた道理。しかし、当の劉将軍はさして腹を立てている様子はなかったが?」「そ、それは桃香様は心の広い御方ゆえ……」「であれば、そなたが騒げば騒ぐほど、そなたの器量の小ささを証立てることになってしまおう。まあ、私には関係ないことだが……今後のことを考えるに、それはいささか拙策ではないかな。むしろここは相手の苦慮を慮って、進んで許せば、相手もそなたの器量に感じ入ること間違いなしだ」「む、そ、そういうものか?」「ああ、そういうものだとも。しかも、進んで許すというところが重要なのだ。これで、相手はそなたの器の大きさを知ると共に、そなたの優しさに気づくであろう。察するに、そなたは厳しい気性ゆえに相手に避けられがちではないか?」「そ、それは……」 ためらいがちな関羽の様子に、趙雲は得たりと頷いた。「ふむ、やはりな。では、まさに今は千載一遇の好機。この機を逃さば、後で悔いても及ばぬぞ」「むむむ」 考え込む関羽に、更に趙雲は言葉巧みに、あることないこと言い募る。 その光景は、たまりかねた配下の兵たちが退却を進言するまで、しばらく続いたのであった。◆◆ 黄巾党冀州侵攻軍を率いる大方波才。 程遠志や張曼成と異なり、一見したところ、粗暴さや無礼な言動などはなく、むしろ挙措進退は礼に則り、話し方も穏やかで丁寧な人物である。 だが、一度、彼と接した者は、第一印象というものがいかに当てにならないかということを悟らされる。 相手を見つめる視線は氷のように冷ややかで、まるで喋る木偶を見ているよう。波才にとって、礼にかなった作法や、穏やかな物腰は、すべて内面を繕うための仮衣に過ぎぬのだと、いやでも気づかされるのだ。 それは敵軍との戦いにはっきりとあらわれている。波才の戦い方には、曹操や孫堅のように策と武を巧みに使いこなす用兵の妙はない。呂布のように圧倒的な武で相手を慄かせる威も持たぬ。 にも関わらず、これまで波才は官軍相手の戦いにことごとく勝利している。朝廷が派遣した皇甫嵩、朱儁の2将軍すら撃破しているのである。 では、その戦いぶりはいかなるものなのか。 ――それは督戦隊を用いた、凄惨なものであった。 波才は多くの場合、侵攻地帯の民衆を追いたて、彼らを盾代わりの先陣として用いる。鋤や鍬などで適当に武装させ、彼らを敵に突撃させるのである。 その背後には波才配下の精兵が控え、逃げ出す者がいるようなら、たちまちのうちに矢の雨を浴びせられてしまうのである。そして、そういった行動に出た兵の家族は、戦が終わった後に制裁が加えられる。 老若男女を問わぬ、公平な――死という制裁を。 そのために、民衆は生き延びるために死に物狂いで戦わざるを得なかった。ろくな武装もない農民兵とはいえ、死兵と化した者たちは正規の官軍をもってしても簡単に打ち破ることはできない。それどころか、どれだけ射ても、切っても、彼らは自らと家族のために次々と押し寄せてくるのである。 官軍にとって、相手は守るべき民であり、そも官軍の兵士たちの多くは同じ立場の農民なのである。自然、その矛先は鈍り、苦戦を余儀なくされる例が続発した。 波才にしてみれば、たとえ官軍が勇を奮って、先陣を壊滅させようと、自軍の兵士が傷つくわけではない。農民たちが敗れても、波才の本軍は無傷である。農民兵との戦いで心身に疲労を重ねた官軍に対し、後方で英気を養っていた本軍が突撃を敢行し、敵軍を突き破る。 これが、波才軍の勝利の方程式であった。 そういった酷薄な面がある一方、波才はある一点においては極めて公平な人物であった。 その一点とは、略奪した財貨や物資の分配である。 黄巾党の中には、そういった戦利品を自らの懐に入れる者が少なくなかったが、波才に限って言えば、その種の専断は一切行わず、財貨は部下たちに公平に分け与え、それは誰にも文句のつけようがないものであった。 その人を人とも思わぬ性情にも関わらず、黄巾党の部下たちが波才に付き従っているのは、ひとえにこれゆえだといえる。◆ その波才は、今、配下からの報告を黙って聞き入っているところだった。 その表情に激発の気配はなかったが、報告する配下の者は、すでに全身を汗で濡らしている状態であった。 やがて、ゆっくりと波才の口が開く。「――つまるところ、2万の精鋭を以ってしながら、1万の――それも、ろくに訓練も受けていない部隊を打ち破れなかった、というのですね?」「は、ははッ!」「張角たちが平原を脱出することはあらかじめ伝えてあった筈。いくところもなく、逃げ出すだけの相手を、仕留めきれず、その結果、張角たちは堂々と黄巾党からの離反を宣言してしまった。命を奪ってしまえば、何とでも言いつくろうことができたのですが、相手が健在とあってはそれも不可能。あなたたちの不始末がどれだけの影響を与えたのかは、わかっていますか?」 その口調からにじみ出る無色の害意を察し、配下の兵は震え上がった。「ま、まことに申し訳のしようも……」「申し開きは不要ですよ」 思いもかけぬ台詞に、その兵は安堵したように頭を上げ――そして、波才の凍るような眼差しが自分に注がれていることを知り、小さく悲鳴をあげる。それは、すでに死者を見る目つきであったから。 波才が指を鳴らすと、その周囲にいた者たちが、件の兵士を取り囲み、外へと連れ出していく。兵士は何か悲痛な叫び声をあげていたが、すでに波才の耳にその声は届かなかった。「どういうことでしょうかね、于吉?」 波才は心底困惑しているように、傍らに立つ青年に語りかけた。 ただ、先刻と同様、その眼に宿るのは酷薄な感情である。 しかし、常人であれば震え上がるであろうその眼差しを、于吉と呼ばれた青年は真正面から見返し、怯む様子を見せなかった。「さて。私はあなたに言われたとおり、張角たちの周囲を手薄にし、脱出を促しただけ。その後のことに関してはわかりかねますな」 于吉の言葉に、波才はわかっていますよ、と言いたげに何度も頷いた。「ええ、それはその通りでしょう。しかし、あなた方の力をもってすれば、このような事態になる前に、いかようにも手をうてたのではありませんか? あの左慈とかいう者も、ここのところ姿を見せぬようですね」 波才の感情のない、蛇のような視線を受け、于吉は小さく肩をすくめた。「私は左慈の保護者というわけではありませんのでね。その行動をいちいち把握しているわけではありませんよ。それに勘違いしてもらっては困りますが、私たちはあなたに――いえ、あなた方に協力しているのであって、部下になったわけではない。それは双方、承知していることと理解していますが?」「協力、協力ね。もちろん理解していますとも――ただ」 そう言った途端、波才の雰囲気が変わった。 表情が険しくなったわけではない。態度が変わったわけでもない。にも関わらず、波才はつい先刻までとはまるで別人の如き雰囲気をかもし出していた。 冷徹、犀利、そういった先刻までの軍師然とした姿はそこになく、精悍さと凶猛さの境界線上に立つ蛮人がそこにいた。「我ら匈奴の策謀を知って近づいた以上、もはや引き返すことが出来ぬということも、理解しておられような? もしも我らが謀計を外に漏らすようであれば、我らは全力でそなたらを捕らえよう。そなたらは、我ら騎馬の民を欺きし代償として、生まれたことを後悔するほどの苦痛を受けることになる」 それは、相手を威圧するような言い方ではなかった。 淡々と事実を告げるだけの口調。だがそれゆえに、波才の言葉は聞く者の心胆を寒からしめるものであった。波才が口にする言葉が、誇張のない事実であると、そう悟らされるゆえに。◆ だが。「無論。それゆえ、兵器の製造技術も、河北の朝野の情報も、我らが知りえる限りお教えしているではありませんか」 波才の豹変を目の当たりにしてさえ、于吉の態度に変化はない。 その表情を見れば、別に虚勢を張っているわけではないことは、波才には感じ取れた。だからこそ、波才はこの男に対して警戒心を消せないのである。 単于の密命を帯び、黄巾党に潜入してより、もう幾歳か。 土をいじくることしかできぬ中華の民に成りすますという屈辱に耐えながら、波才は着実に情報を集め、混乱を広め、来るべき中華侵攻の先駆として活動し続けてきた。 波才にとって、今回の蜂起は1つの転回点であり、あわよくば河北に同胞の軍勢を引き入れる心算だったのである。そうすれば、この吐き気を催すような任務から解放されることになるであろう。 だが、黄巾党は所詮は賊徒であり、官軍が本気になって動き出せば、一時的に善戦しようとも、最終的には鎮圧されてしまうだろう。 単于からの支援を受けるという手段もあるが、大掛かりな挙兵の準備となれば、中華側にこちらの策謀が漏れることになりかねない。本国もいまだ統一が成ったわけではなく、ここで無理をして、全てが水泡に帰することだけは避けなければならなかった。 波才がこのことで苦慮していた時、2人の訪問者が波才のもとにやってきた。正規の手続きを経た上で、ではない。夜中、いつのまにか枕元まで接近を許していたのである。 驚愕する波才に対して、2人は波才の悩みなど、掌の内だ、とでも言うようにあっさりと指摘してきた。当然、波才はすぐさま2人を切り捨てようとしたのだが、その2人は何やら幻術でも心得ているのか、波才の大刀がいくらうなっても、死ぬどころか傷1つ付かなかったのである。 波才は部下を呼ぼうとしたのだが。「無駄だ。おれたちがどうやってここまで来たと思っている?」 男の片割れの言葉に息をのみ――そして、自分が絶体絶命の窮地に立たされていることを悟ったのである。 だが、顔をひきつらせる波才に向けて、男たちは思いもよらないことを提案してきたのだ。 ――お前たちに協力してやろう、と。 その言葉どおり、その2人――左慈と于吉と名乗った――は波才にいくつもの貴重な情報をもたらした。それは攻城用の兵器であったり、官軍の分布状態であったりしたが、いずれも極秘事項に属する機密ばかりであることに違いはない。 それらを利して、波才配下の黄巾党は瞬く間に勢力を広げていった。すでにその陣容は賊という言葉の範疇にはおさまらない錬度と装備を有している。 全てが、波才にとって都合よく進んでおり、その多くは左慈と于吉の手になるものであることは、波才自身、認めざるをえないところであった。にも関わらず、2人はいかなる対価も要求せず、その望みが奈辺にあるのかを波才に掴ませないのである。 これまでは、その有用さを鑑みて生かしておいたのだが、どれだけ時を経ようとも、2人への疑心が収まることはなかった。 何の証拠もないことだが、波才は彼ら2人の行動に、奇妙な違和感を感じるのだ。 勝利や敗北ではない。 富や栄誉ではない。 忠義や義憤ではない。 そういった既存の言葉では括ることのできない、根本的な価値観の乖離。 何故そう思うのかと問われれば、波才も言葉に詰まるだろう。 だが、匈奴と漢族の血を1つの身体に併せ持つ男は、確信に近い思いを胸に抱いている。 2人の行動は、おそらく匈奴も、漢族すらも埒外に置いたもの。その果てにあるのは、彼ら自身の利でしかあるまい、と。 そろそろ潮時かもしれない。元々、波才が匈奴の意を汲んで動いているという秘中の秘を知られている以上、長く生かしておくつもりもなかったのだ。 いかに奇妙な体術を習得していようと、幻術を操ろうと、精鋭10名をもって取り囲めば如何とも出来まい。それでも駄目なら20名を用いるだけだ。 今、黄巾党は張角の離反で混乱しており、そのようなことをしている暇はないのだが――だからこそ、2人も油断していよう。 于吉らに退出を促し、1人となった天幕の内で、波才は口許に酷薄な笑みを浮かべたのであった。◆◆ 波才が1つの決断を下していた頃。 天幕から外に出た于吉の口許にも笑みが浮かんでいた。だが、それは波才のそれと違い、苦笑に近いものであったが。「左慈が何を考えているか、ですか。それはできれば私が教えてもらいたいところですね」 于吉は言いながら、背後にわだかまる闇に向かって、問いかける。「私はそう思っているのですが――教えてもらえますか、左慈?」 すると、つい一瞬前まで、確かに誰1人いなかった筈の空間に、1人の青年の影が朧に浮かび上がった。「――おれが何を考えているかなど、お前が知らない筈はないだろう」「確かに。黄巾賊を強化し、彼らに暴威をふるわせ、中原に更なる被害と混乱を導く。私たちが表立って歴史に介入することが出来ない以上、それが最善。一見して、これまであなたがとってきた行動と変わらないように見えますが……」「ならば、それで良いだろう。何が不審なんだ?」「あなたにしては詰めが甘い。おまけに、何故だか騒ぎを起こす場所が限られている。あの波才ですら、私たちの行動を怪訝に思っているくらいなのです。不審に思うなというのは、無理な話ですよ」 于吉の指摘に、左慈の口から小さく舌打ちが漏れた。 それには気づかない振りをして、于吉は更に問いかけを続ける。「先の戦いから、幾星霜……以前のあなたならば、何を措いても、仇敵のもとに赴いた筈。しかし、あなたはそうしない。むしろ――」 于吉は何事かを口に仕掛けたが、すぐに口を噤み、軽く肩をすくめた。背後の影から向けられる尖った殺気をいなすように。「失敬。要らざることを口にするところでした」「ふん、言わないで正解だ。おれを侮辱するようなら、于吉、お前とてただではおかん」「わかっていますよ。どのみち、奴らのもとにはすでに貂蝉もいるのです。私たちは、目立った動きがとれない。黄巾党の連中に、精々期待するとしましょうか」「――ふん」 于吉の言葉に、影は短くそう言い捨てると、再び闇の中に沈みこんでいった。「……消滅を願った外史に、再び立ち、かつての敵手と相まみえる。これもまた、老人がたの言う宿命というやつなのでしょうか」 1人、詩を詠じるかのように于吉は言葉を紡ぐ。 やがて、その姿は先刻の影と同様に、ゆっくりと闇の中に消えていく。 そして、影が完全に消え去る直前。「……さて、此度の外史はいかなる結末を迎えることになるのやら」 ただ、その言葉だけが、虚空に漂い――そしてあたりは静寂に包まれた。